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2011年9月 8日 (木)

現代の俳句10 「季語」と「写生」

現代の俳句10 「季語」と「写生」 

三島広志


 些少ながらも俳句に関わる者として季題や季語、さらに写生に触れないで通過する訳にはいかないだろう。そこで、今月はわたしなりにまとめてみた。

 季題は長い歴史の間に、人々の美意識の選別に磨かれてきた四時の物事の奥にある本意である。その際、具体的な季節の事物を指すことばを季語と呼ぶ。

 季語はより実生活に即した季節を表すことばである。物事の持つ本意の醸し出す季題の世界を日本人一般に共有させる記号のようなものとも言えるであろうか。季題も季語も日本人の精神史が育み、鍛えてきた美的経験共有化のためのことばなのであるが、季語のほうがより現実的とされているし歴史も浅い。

 山本健吉によれば、季題の頂点に五個の景物として「花・月・雪・時鳥・紅葉」があり、その裾野に和歌の季題や俳句の季語があるということになる。

 しかし、それは反面、ことばが美意識を強制することでもある。人の意識をことばに隷属させるのだ。例えば、花と言えば目の前の桜だけでなく、西行や業平などに代表される多くの歌が築いてきた花にまつわる世界が染み付いている。そこから完全に屹立した地点に立つことの難しさ。

 したがって、逆にそのことばに付着した猥雑な手垢をそぎ落とそうとする動きも同時に発展させることになる。その方法として子規が絵画の技法から取り込んだのが写生である。 写生とは物事をことばでおさらいすることだ。極力主観を排して物事をことばに置き換えることで、結果として物事に新しい息吹を与え、読む人の心まで揺さぶる。そのための方法の一つが写生なのだ。

 しかし同時に、写生は具体的な物事に形を借りた心の表出に外ならない。物事になぞらえるという表現方法で湧き上がる思いの丈を俳句に委ねているのだ。ここに至れば写生は方法というより心構えということになる。

 かくして俳句は季語の歴史的集積で膨らもうとする力とそれを削ぎ落とそうとする写生という相い反する力の責めぎ合う器となる。わずか五七五という小さな器にとってそれが幸いなことかどうか判断がつかないが、その恩恵は誰もが無自覚に受け取っていることは間違いないだろう。

 ともあれ、俳句は一般通念上は、五七五ということば足らずの形式とそれを補う季語で事物の本意の顕在化を図り、それに加えて写生によるイメージの屹立化によって新たな世界を生む場であることは確かである。
 森羅万象の中からひとつの物事をことばとして独立させると、その瞬間、ことばは新しい宇宙や自然を生みだす。そのとき季語が大きな働きをすることになるのだ。ただし、季語に代わることばが同じ役割を担うことが可能なことはいうまでもない。

 その生み出された宇宙・自然は現実の森羅万象と微妙にずれながら重なる。さらにずれた宇宙・自然がまた新しい宇宙・自然をずれながら重なりつつ生み続ける。こうして循環する気流のような俳句の世界が成立し生成し続けるだろう。

 この運動性によって作者が思いもしなかった新たな世界が俳句によって創り出される。こうした俳句はいのちを注がれた作品として命脈を保ち続けることが可能だ。作品と人との間に螺旋状の発展的な運動が渋滞なく続けば俳句も詠まれた物事も喜ぶに違いない。

 俳句は物事の本意を把握し、記録し、一般化する一つの方法だ。そこに魅力的な共通認識としての季語があり、便利な写生という方法がある。

 今日、これらに支えられて俳句は安易に作られ過ぎてはいないかとも思う。けれども、反対にこれは大衆文芸として極めて優れた性質ではないかとも感じる。深くも浅くも、楽しくも苦しくも、自由自在にその人なりに俳句と交流することができる。ここに俳句の人気の秘密があるのではないだろうか。

 いつの時代でも、俳句の可能性を探ってさまざまな試行を行っている精鋭俳人が、俳句の陥りやすい閉塞性に風穴を明けてくれている。その潮流に乗って、多くの俳句愛好家もまた舳先をゆっくりと変えつつ俳句の歴史を刻んで行くことだろう。俳句はこうして多くの無名の作家によって累々と書き継がれてきたのだ。そして、これから
も泰然とうねり続けていくに違いない。

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