俳句とからだ 4
連載俳句と“からだ” ④
愛知 三島広志
清新
元旦。目覚めるとカーテンを漏れる陽光がチンダル現象を見せている。窓を開ければ常の景色。シラカシ越しにお向かいの犬小屋があり、腹ばう黒犬がわたしに向って尾を振っている。全く何の変哲も無いいつもの朝の光景だ。だが、年が改まって元旦となると何かが違う。屋根で囀る雀の声も、子ども達の靴音もどこかが違う。
昨夜、除夜の鐘の音を聞き、今朝、茫洋と目覚めた。何が変わったのだ。ただ単に暦上、新しい年が始まったというだけのこと。一月のカレンダーがぴしりと壁に貼りついているだけのことだ。
何が違うのだろうか。その変化は外部には無い。変わったのは“からだ”の方だ。暦と同時に改まろうとする心の問題に他ならない。清新とはそんな心地よさをいう言葉だろう。年の改まりと同時に自ら生まれ変わろうとする人生の区切りの潔さだ。
淑気
淑気とは天地の間に満ち満ちているめでたい気配のこと。しかしそんなものは天地の間にはない。常の気配を淑気と受容するのは“からだ”の問題だ。わたしたちは“からだ”で世界を感じ、理解し、行動する。客観的な世界は学問的には措定できてもそれが何になろう。自らが見て、味わって、触れて、耳を傾けて、芳香に酔ってこそ世界が生き生きと立ち上がる。そこからふとことばが零れ落ちた時、詩歌となる。俳句とは本来そういうものではないか。
夕ごころ
おちこちから聞こえる除夜の鐘。奇妙に恥ずかしい年頭の挨拶。暦に随ったこれらの装置が“からだ”に作用して世界を軽くリセットしてくれる。旧年の自分を屠り、今日からまた新たな人生を歩むのだ。しかし寿ぎの一日もいつしか暮れる。清新の気配も、満ちていた淑気も夕暮れには気息が衰え、淡々とした常の日の様相が忍び寄る。
元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介
この句は元日に誰もが身に纏う清新や淑気が実は長くは続かず、儚くも移ろうものであることを「手を洗ひをる夕ごころ」という絶妙の表現で示している。意味は重要ではない。しかし切に響いてくる。ことばが直接“からだ”に働きかけてくるからだ。
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