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2011年9月 8日 (木)

俳句と志 -「遊び」と「人格」をからめて-

俳句と志
-「遊び」と「人格」をからめて-

三島広志

始めに

 人はなぜ俳句を作るのだろうか。なぜ作り続けるのだろうか。
 多分に創作の喜びを感じるためではあろう。また社会的な関わりからしばし逃れるための趣味としての側面もあろう。しかし、それにしても十七音の言葉に苦悶し呻吟する句作りにはどこか滑稽で自虐的な面を感じないではいられない。それでも人は俳句を作る。
 あえて言えば俳句は「遊び」だ。しかし、生きるということから完全に遊離した、ディズニーランドに行くような遊びとは明らかに異なる。

「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。」

 この川崎展宏氏のよく知られた断定は俳句ならではのものと思うし、こうした断定は俳句以外には絶対ふさわしくないと盲目的に確信するのである。
 川崎氏は最近「俳句研究」誌に

「全体として、句に志がない。自分の作を含めて、今日の句には『腹(はらわた)の厚き所より』出たものがない。」

と書かれているが前述の「遊び」と後の「志」の間にはなんら矛盾はない。
 氏の言われるこの「遊び」がくせ者であるが、わたしは俳句はとにもかくにも生きることと根っこでつながっている「遊び」と考える。そして生きることそのものが「遊び」という感じでとらえていけたらと願っている。

俳句と人格

「一句を書くことは一片の鱗の剥脱である。」
 これは三橋鷹女の至言である。「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」などの彼女の有名な句を読めばなるほど鱗の剥脱という激しさを感じないわけにはいかない。しかし鱗を剥脱したとき、逆に彼女は彼女自身に何かを刻み付けたことにはならないだろうか。
 一句一句を成していくとき、心にあるものをことばとして吐露していくと同時に心に何かを刻み付けていく。その刻みが年月とともに人を俳人に作り替えていく。その理想が平畑静塔氏の言われる「俳人格」と呼ばれる一個人の中に俳句が人格化したものだろう。

 話は逸れるが、平畑氏は高浜虚子を俳人格の典型と見ていたようである。しかし、一個人に収斂してしまうことには危惧を感じないわけにはいかない。なぜなら虚子を俳人格の典型とすることでわれわれは虚子の見ようとしていたものを見る前に否応なく虚子を見てしまう。俳句の前に虚子が衝立のように立ちはだかるという厄介なこと
になるのだ。

 話が逸脱し過ぎたようである。視点を戻そう。人格に因んで話を進める。
 「技の人格化」ということばがある。長い修練の結果、技と人が不離のレベルに高まった状態のことである。逆に言えば人格中に無尽蔵の技を内包している状態だ。俳句の技が人格化した人は一定以上のレベルの俳句が自ずとその人の日常の中から生み出されるのである。そしてその日常そのものが俳句的人格に内包される。

俳句と関係性

 ヒトは動物としてこの世に誕生するが、生まれながらに自然とものと人の狭間にしか生存できない生き物である。
 具体例を上げるなら身近にいくらでもある。親と子、医師と患者、教師と生徒、大工と鉋、農夫と畑、運転手と車、人と食べものなど。むしろ、そうした関係なしにはヒトは人間として存在し得ないのだ。俳句も人間と同様それ自体が単独で存在するのではなく、作品と作者との関係の中にあって互いに影響を与え合っている。
 同じことは作品と読者の関係にも言える。そこで相互成長しあえる作者と作品の僥倖な関係が築けるならその俳句にはことばの力が宿るだろう。反面、作品と作者、あるいは作品と読者の「志」次第では相互堕落への広き門がいとも簡単に開かれる。

生活者と俳人

 会社員などの生活者として俳句を趣味にしている人もいれば、俳人として会社員を勤めている人もいる。その差は有名無名を問わず本人の自覚の問題である。仕事を通じて人間としての成長があると同じように、俳句を通して人は意識するしないに関わらず自己教育を実施する。
 主婦も学生も全く同じである。主婦として俳句を作る人もいれば、俳人という本分を保ちつつ主婦をしている人も大勢いるのである。 自分をどのように規定するか、そこに本人の「志」が関与してくる。一個人の中に住み着いている俳人と生活者の狭間にも絶えず対象と主体との間の関係において物事は揺れながら成就していく。
 先程述べたように、作品もそれ自体の自立はなく、読者の内的世界に支えられることで伝達普遍化する。その両者の関係によって鍛えられもすれば堕落もあるのだ。
 生活者としての自分を貫きつつ、俳人であるためには「志」と「志」を常に維持し続けようとする「意志」が必要になる。その「意志」が個人の対象とする分野においておのおのの対象を人格化するのだ。

 俳句ではそれを俳句的人格と呼ぶし、それぞれ人は各分野で何々的人格を目指すのではないだろうか。

俳句と教育

「ヒトは教育によって人間になる。」(南郷継正・・武道理論家)
「人間であることと人間になることは違う。」 (林竹二・・教育者)

 ヒトは教育によって社会と歴史の中に生きていることを学ぶ。つまり空間性(社会)と時間性(歴史)に自ら積極的に参加しようとしたときヒトは人間になるのだ。だから「人の間」と呼ぶ。そして人間は自己を教育しようとする欲求を持つ、あるいは持ち続ける。 俳句は自らの「志」の設定によって自己教育足り得るものである。(むろん設定に応じて心の癒しとか趣味にすることも可能であるが。)
 これは俳句に限ったものではない。俳句は俳句的人格を形成し、武道は武道的人格を成長させ、音楽は音楽的人格を築き上げる。また病気は病人を作るが、本人の考え方や性格によって、闘病的人格を形成し、あるいは和病的人格を作り上げる。
 これらを各分野が潜在する能力と呼んでもいいだろう。その能力を発揮するか否かが、繰り返して言うように「志」と継続的「意志」なのである。

 俳句は即吟という手軽さがいかなる生活者であっても継続を可能にし、大衆性を生む。常に脳裏胸中に俳句を置くことで俳句的人格を形成しやすいようだ。そこが他の分野との相違点であろうか。
 大相撲の横綱曙関の次の言葉はその点で実に示唆的である。

「ボクシングのチャンピオンはリングの中だけチャンピオンであればいいが、相撲の横綱は起きてから寝るまで横綱でなければならない。」

 横綱を俳人と置き換えることに、多くの俳人はさほどの違和感を感じないはずだ。さらに「なければならない」という義務感と責任感に曙関の困難さを読み取るであろう。ここが横綱の特殊性と大衆俳人の日常性の差である。

まとめとして

 俳句はその即吟性ゆえに日常の流れの中に自分の心の移ろう過程を刻み込むことができる。
 しかし、もう一面ある。それは俳句を作るとは心情をものに即して言語化するだけでなく、己が心に何かを刻んでいくことである。 俳句をつくり続けることは我が生において自分の「志」を見失わないための「意志」の確認とも思える。むろん人生の目的は一般生活者にとっては俳句ではない。各人の主たる人生の部分である。
 俳句はその背後にあって不即不離、一如として溶け合い影響を与え合うのだ。
 俳句の中に敢えて「人間性」を織り込んだり、俳句の目指すところが人格形成というのではなく、コツコツ俳句を作り続ける行為が某かの人格を形成するのではないかということである。
 そうあることが自然体に人格化した場合を「俳人格」と呼ぶことができるかもしれないが、それはあくまでも二次的なことだ。

 人は「俳人格」である前に「生活人格」であるべきだ。そしてわたしは両者の溶融をこそ目指したい。さらに言うなら、死を直覚しつつ恬淡たる句を詠めるなら俳句的人格のひとつの極みと言えるだろう。
 通りいっぺんに俳句を「志」中心に俯瞰してみた。しかしいささか急ぎ過ぎたきらいはある。全体に遊びがない。だがむしろこうした愚にもつかないことを考え、文章に表すことが即ちわたしにとっての「遊び」にほかならないのだ。

 

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