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2011年9月 8日 (木)

現代の俳句11 「女流俳句 」

現代の俳句11 「女流俳句 」

三島広志
 

 俳句総合誌では、時折、女流特集が組まれる。数誌が時折やるのだから、結果として年がら年中、どこかの雑誌が女流で賑わうことになる。
 しかし、今更、女流特集など組まなくても、世の俳句愛好家の大勢は女流にある。
文化センターしかり、結社またしかりである。それとも、いまだに女流は量的にこそ男流を凌駕しているが、質的にはまだまだ劣っていると考えられているのだろうか。
華々しい女流特集を見るたびに考えさせられるのである。

 物事を類型的に見るのは好きではないが、一般に女性の方が感覚的な表現に優れている、あるいは大胆であると言えるだろう。今日、現代詩でも短歌でも川柳でも女流は元気がいい。男流に比べて感性のままの表現を恐れず、身体性豊かで伸びやかなのである。

 母の寝顔を見る/眼の縁の皮膚が/湿った布のように/ひだをたたみ/眼球のはげしい動きに/物の姿が伸び縮みしている
岩崎迪子(坂道より抄出)

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る  河野裕子

 わたくしの骨とさくらが満開に 大西泰世

 これら他のジャンルに対して女流俳人がやや自制的に感じるのは、俳句の短さや季語、なにより漠然たる説明困難な俳句性などというものの制約の大きさゆえであろうか。その俳句性というものが男流の寄り所と言えなくもない。そこに男流擁護のシステムが見受けられるのだ。そもそも女流特集などという企画があることに男流擁護が窺えるというものであろう。

 そうした、無自覚的な男流擁護の俳句界にあって、女性俳人が詩人としての資質を適度に抑制して俳句にまとめると、かえってそこにきらめく詩情と味わい深い世界が展開される。若い男性俳人にも感性重視の俳句が見られるが、多くは女性本来の特徴としてその傾向が強いようだ。例えば長谷川久々子の俳句などはその良い例だろう。
 長谷川久々子。昭和十五年生まれ。二十七歳で雲母(飯田龍太主宰)に投句を始め、二十九歳で岐阜から発行の青樹(木下青嶂主宰)にも入会。句作は夫長谷川双魚の影響による。現在、青嶂・双魚の後を受けて青樹の主宰である。昭和五十四年刊の処女句集「方円」序文に師の龍太は次のように述べる。

  私は久々子さんの作品に接するたびに、恵まれた詩才に感服する以上に、見事な怺え性に共感をおぼえ、深い感銘を受ける。
(生得と自得と)

 弟子の才能に感嘆する優れた師匠は久々子の怺え性に共感をおぼえるという。つまりは龍太本人も有り余る才能を俳句一筋に絞り込んできた、つまり他の分野や表現方法への誘惑を怺えてきたという本音がぽろりとこぼれた「共感」なのだろう。龍太には男流擁護から距離を置く見識がある。

 冬鏡伏せて嘆きは詩のはじめ (方円)
 誰が死んでも仙人掌仏花にはならず 同
 模糊として男旅する薄氷 同
 病人に耳と目のある良夜かな 同

 師の懐で久々子は自分の才能を縦横に展開することになる。そこには直接の先生で夫でもある双魚の深く暖かい眼差しも忘れてはならない。

 うすものに風あつまりて葬了る 双魚
 雲よりも花に従ふ空の色 同
 しんがりの子に風の吹く鰯雲 同

 恵まれた二人の師匠の下、その愛に報いるために久々子は敢えて自分の才を見事に抑制してきたのである。おそらくこれは俳句の師弟関係や結社の束縛が極めて上手く機能した例だろう。逆に潰されたり、俳句を見捨てて他のジャンルに移行した才も多くいるに違いないのだから。

 仏事から慶事やうやくうすごろも (水辺)
 秋口の終りの草で鎌ぬぐひ 同
 枯蟷螂血縁は骨はさみ合ふ (光陰)
 茎立や別るるための耳飾 同

 今は男女別なく俳句の世界を歩んで行くことができる時代であることは間違いない。子を産み育てる性である女性に男性が機会を与え、協力を惜しまないことが社会の発展に繋がるとは実にプラトンの時代から言われていることなのだ。ただし、お稽古事でなく、真っ当なる「遊び」として極めるという志はしっかり持たなければならない
ことは言うまでもない。

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