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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 9

連載俳句と“からだ” ⑨


愛知 三島広志

六月の女

 六月の女すわれる荒筵 石田波郷

 奇妙な句である。六月、女が荒莚の上に坐っている。ただそれだけのことだ。しかも季語の六月は動きそうだ。別に一月でも八月でもよいではないか。さらに言えばこの句には切字がない。上から読み下せば焦点は梅雨でもなく、女でもなく荒莚になる。六月も女も荒莚の修飾に過ぎない・・・と、単純に言い切れない不思議な魅力がこの句にはある。一体なぜこの句が人口に膾炙しているのだろう。

荒筵は粗悪な筵だ。するとこの女は決して高貴な存在ではない。庶民あるいはもっと貧窮した立場かもしれない。わたしが幼い子どもだった昭和三十年代前半、筵を抱えた物乞は駅前や祭のときなど結構身近にいた。この句が作られたのはもっと古く、昭和二三年刊の『雨覆』所収であるから戦後の混乱期の光景だろう。同句集には戦後の様子が多く詠われている。「はこべらや焦土のいろの雀ども」「日々名曲南瓜ばかりを食はさるる」「百万の焼けて年逝く小名木川」等々。

それらから察するにこの女は戦中戦後の困窮が生み出した乞食と考えられる。焦土に生きるという背景を考慮すれば波郷の視点は荒莚に坐る女に向けられると同時に自分自身の来し方や行く末および現況をも重ねているのではないだろうか。そして自分とその女を共に包んでいるのが六月なのである。

六月は梅雨だ。湿気と暑さで毛穴も塞がる過ごし難い季節。波郷たちの上には雨雲が覆い被さっていることだろう。戦争が生み出した社会の歪みと先の見えない不安。まさに梅雨空に覆われた未来。そんな自らの気持ちを女に投影している。その女とはまさに波郷自身ともいえる。

しかし波郷はあからさまな社会性を表現していない。むしろ女という身体的な言葉を用いることである種の艶かしさを感じさせる。何故なら元来、女という字は女性が膝を崩してなよなよとしなを作って坐っている象形だからだ(藤堂明保編『学研漢和大辞典』)。波郷は産む性である女の生命力に救いを感じているのではないか。筵に坐っているのが男であったら句として成立しないだろう。しかもその女を包む空間は梅雨時の湿気と暑さ。髪も衣服も梅雨のおもさを吸い込んで女体の魅力を増している。

梅雨時の女の魅力を余すことなく詠んだ名句なら桂信子にある。これらの句はその音律の深さによって女の身体性を女性の側から見事に表現している。

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜  桂信子
 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子

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