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2011年9月 8日 (木)

現代の俳句1 〈淋しさ〉と〈なつかしさ〉

現代の俳句1 〈淋しさ〉と〈なつかしさ〉

三島広志


 一年間、この欄を受け持つことになった。広く現代の俳句を鳥瞰するのは実に困難な作業である。ならばまずは「わが俳句事始め」として来し方を見つめていこう。それでも現代の俳句にささやかながらも関わることであろうから。

 手元に一通の手紙がある。

「お父さまを失われました由、まだお若くいらっしゃいますのにお気毒に存じます。
お父さまはご両親に先立たれたのですからさぞご落胆なさったことでしょう。貴方もお母さんを守って立派になられますよう心に誓って下さい。ほんとに残念なことでした。あつくお悔を申します。十一月六日 コウ子」

 昭和四十九年、当時二十歳のわたしの元に届いた原石鼎夫人コウ子からの励ましの便りである。

 その前年終わり頃から、わたしは結社「鹿火屋」に所属していた。山本健吉著「現代俳句」を読み、句の好みから原石鼎の会を選んだのである。残念なことに石鼎は二十年以上前に亡くなっていたが。
 結社名は石鼎の知られた深吉野での作

  淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守

にちなんでいる。

 昭和四十九年はコウ子から原裕へ主宰が継承された年と記憶するが、わたしは毎月コウ子の添削を受けて俳句の勉強を始めたのである。

  蛍火の飛ぶ一つだに合寄らず コウ子
  花屑にまみれしままの若緑  コウ子
  紅梅にしづ心なく人に酔ふ  コウ子

 明治二十九年生まれの原コウ子は石鼎亡き後、裕に譲るまでの約二十年間老舗「鹿火屋」を守り抜いた。その尋常ならぬ精神力からすれば彼女の俳句は実に穏やかである。慈眼とも言うべき視線が対象を包んでいる。
 「鹿火屋」を守り抜いた気力の源はおそらく先の手紙のような母なるやさしさであったのだろう。昭和六十三年亡くなられた。

 現主宰は石鼎の通夜にコウ子はもとより「鹿火屋」を支える同人幹部や高弟達からも請われて原家の養子となった裕(昭和五年生)。

  鳥雲に入るおほかたは常の景  裕
  はつゆめの半ばを過ぎて出雲かな  裕
  みちのくの闇をうしろに牡丹焚く  裕
  鬼やらふとき大闇の相模灘  裕

 裕の句は〈なつかしさ〉を基調とする。
 「こころの奥になつかしさを呼び覚ますものを詠みたい。なつかしさは過去にかかわるならば原初的ななつかしさを、現在にかかわるならば身を切るなつかしさを、そして、未来にかかわるならばいのちの尊厳にふれたなつかしさを」は裕の言である。
  牡蛎食うて男も白きのどをもつ  裕
  寒卵吸はるるごとく吸ひゐたり  裕
  石蹴つて鎌倉の冬起こしけり  裕

 大づかみに捉えたものを通して心象をどかりと詠み上げるのが原裕の歩んできた道だが、ときにこうした感性のひらめきのままに提出される句がある。

 本来の氏の特質はあるいはこちらにあるのではないだろうか。半生をひたすら石鼎顕彰に努め、句作の手法においても「写生より想像力へ」と自らを厳しく律してきた氏なればこそ、わたしとしてはこうした句が見られることに安心もするのである。
 対象を総身で一気に把握するおおらかさは裕の参禅への深い関心と繋がっているかもしれない。俳味と禅味には共通性を感じるのだ。

 「非常」にいて「平常」を掴み、「平常」にいて「非常」に身を置くのが禅であれば、日常、俳境に身を委ねておく態度は禅に相通じる。俳人の中には俳句を日常の中に浸透させることで「非常」を作りあげ、日常を道場とする人達が確かに存在するからである。

  一房のぶだう浸せり原爆忌  裕
  二房の葡萄あり父母のなきこの地  裕

 葡萄にいのちの重さを感得するのは裕だけではないであろう。一房の葡萄の意外な重さの充実からは、いのちの、あるいは血脈の連なりが意識させられる。その深奥に潜む風土の〈なつかしさ〉を裕は身体ごと掬い上げて把握しようとするのだ。次の短歌のような普遍の〈なつかしさ〉を。

  ぶだう呑む口ひらくときこの家の過去世の人ら我を見つむる  高野公彦

 裕の〈なつかしさ〉は石鼎の〈淋しさ〉の鉱脈を深く掘り進んで自ら探り当てたものなのである。

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