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2011年9月 8日 (木)

現代の俳句9〈薔薇までの距離〉

現代の俳句9〈薔薇までの距離〉 

三島広志 

 馬場駿吉の第三句集「夢中夢」は刺激的である。俳句という短い定型詩の可能性を伝統を断ったところで見事に書き切ってあるという点で実に刺激的なのである。
 知り合いのN女史が、ある日、

 「俳句って短いのに、こんなにすごい世界が表現できるんですね。とても驚きました。ことばの持つイメージが精神の奥をありありと表現しているんですもの。」

と目をきらきらさせながら、一冊の句集を持参した。これが「夢中夢」との邂逅。
 N女史がその句集を購入したのはすでに十年も前。わたしが俳句をやっていると知って改めて本箱から捜し出して来たのだ。

 作者の馬場駿吉は名古屋在住の医師で耳鼻科の権威。大学教育者として名高く、美術評論家としても一家を成している。

 「夢中夢」は「断面」「薔薇色地獄」に続く、彼の第三句集であり、近々第四句集が出る。また、「夢中夢」とほぼ同時に美術評論「液晶の虹彩」も出版された。

 句集を紹介してくれたN女史はフリーの編集者兼舞台芸術評論家で、以前、朝日新聞東海版に演劇や舞踊の月評を受け持っていたこともある。
 彼女は私が三月号のこの欄に書いた「鶴を抱へて・長谷川櫂」の下書稿に目を通して、俳句論に〈場〉という言葉が使われていることにとても関心を抱いた。
 舞台芸術は演技者と観客が同時空間体験を持つ〈場〉を形成することで成立する芸術だと理解しやすいが、俳句は詠み手と読み手が異時空間で結ばれているのだから、そこに〈場〉は見えにくいと言うのだ。しかし、俳句の前身である連句の〈座〉を考えればそこには〈場〉が極めて明瞭に姿を表している。

 俳人にとって〈場〉こそが極めて短い文芸を成立させている重要な要素であることは自明のことに過ぎない。
 彼女は舞台芸術と俳句という一見全く異なったジャンルを〈場〉という共通言語が結び付けることにとても興味を抱いていたようだ。 さて、俳句にあまり関心のなかったN女史を感動させた俳句とはいかなるものだろう。 まず冒頭の句を示そう。

 舌面に白き地獄繪桃を食ふ 駿吉

 通常の俳句に親しんだ読者にとってこういう句には違和感を持つだろう。「桃を食ふ」と一応季語はある。しかし、この俳句は私の頭脳に季語が伝統的に受け持ってきた像を描いてはくれない。作者は舌苔を白い地獄絵と見たのだろうけれども、いわゆる写生でないことは明らかである。

 ところが、こうした難解な俳句も以下の句を読んでいけば作者の意図が見えてくる。

 薔薇を剪る夢にて人を殺めし手 駿吉
 わがサドの復活祭の冬木伐る 同
 今宵わが地獄の磁針薔薇を指す 同

 これらの句は、現実を描写したものではない。むしろ作者の精神の深奥を何とか具体的な〈もの〉を通して普遍化しようという外科医の冷徹な目が、自らの心をメスで
捌いているようだ。そこに示された薔薇も冬木も景物としてのそれらではなく、心の中の風景なのであろう。

 作者は自らの精神の奥底が人々の精神と通底していると確信しているのではないか。
そしてそこにしか芸術の立つ瀬はないと考えているのかもしれない。

 手に提げて紫陽花はわが鬱の腦 駿吉
 薔薇までの距離ふとわが死までの距離 同
 わが射手座墜ちゆく海に水母殖ゆ 同
 星座涼し滅びし神の名をとどめ 同
 血を盗む春蚊をゆるし從妹の忌 同

 これらの比較的読みやすい作品もその上辺に止まることは許されない。読者はこれらの俳句を一度自分の精神の底まで沈めて、湧き上がる共感に身を委ねるという快感、あるいは拒絶をもって鑑賞することが要求されるのだ。

  俳壇という一種の結界をとりはらった開かれた地平で、自己の自由を思うままに主張しつつ、創作活動をつづけたいという願望を実行してきたまでのことである。

 駿吉は後書にこう書いている。これは俳人としてではなく、一人の創作者の決意に外ならない。奇しくもこの句集を私に紹介してくれた女性が、俳壇という結界の外で創作活動を自由に眺めている人であった点は、まさに駿吉の意に即したものであったと言えよう。

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