藍生集を読む
藍生集を読む
三島広志
藍生集を読む(′92・10月号) 1
影と陰とかげ
三島広志
ある詩人の息吹を実感したくてみちのくの炎暑の下を彷徨したことがある。
古びた町並みはくっきりとした影を道に焼き付けていた。
日がかうかうと照ってゐて
空はがらんと暗かった
宮沢賢治 「開墾」より
明るさも極まれば暗くなる。みちのくの炎昼は旅人に鮮烈な片陰を与えてくれた。
片陰に己の影を見失ふ
中井みつぐ(岐阜)
旅人は自問する。自分は一体どこから来て何処へ去り行こうとしているのかと。片陰には確かに己を見失わせる魔力がある。
片蔭や見知らぬ人に会釈して
川島維頼(群馬)
見知らぬ人とは一体誰か。彼こそは失った己の影ではないか。会釈をしながら遠い記憶をまさぐる。
果たして陰と影とは。
「影」「形」「彫」「彩」などに含まれる三本の斜めの線は刻まれたものを象形している。即ち影はものが日を遮って刻み付けるものなのだ。
対して 陰(蔭)は「魂」「雲」などと同じように「云」を持つ。これは日の当たらない所の意味と同時に「氣」の古い意味を有し、形無けれど動めきありを表す。
土に焼き付くはずの己が影を片陰が吸い取る。片陰に涼をのみ求めてたやすく入り込めないのは陰に潜在する怪しげな動めきのなせる技なのだ。
石影の濃ゆきはさびし冷し蕎麦
後藤仁(岩手)
地に刻まれた石の影。ただ今、此処には確かに存在する形。けれども時のうつろいとともに形は歪みついには夕闇に溶け去る。
待つ人のどの道を来る夏木立
大沢江南子(福島)
人を待つ。その人の面影を胸に抱いて。燃え立つ夏木立の彼方からあの人は来る。
しかし来る人にかかわりなくその人はわが胸に住んでいる。投影された郷愁の影として。
名作の冒頭の海明易し
西村隆枝(広島)
名作は海の光景から始まる。潮風に読者をたゆたわせながら。ふと気付けば現実の朝は暁光に包まれている。
光もまた彼方からやってくるのだ。沖の波に光が砕け、夏の太陽が昇ってくる。古人は光をも「かげ」と呼んだ。なぜなら、光は陰の中を突き進む。そしてものに出会って影となる。
蚊喰鳥手話の指先昏れのこる
長野眸(福岡)
一心に語る指先を見つめている。胸の前で軽やかに指ことばの精が舞う。語り合う
二人の周りには闇も近づけないのか。ふと見上げるとが蚊喰鳥が音無き声を発して宵
の空を飛び交っている。
夜濯やすいと男に騙されて
橘しのぶ(広島)
寝静まってから汗のものを洗う。蒸し暑さで寝苦しいなら、いっそさっぱりと一日の埃を落とそう。深闇が覆い被さる窓を開けて洗濯物を干す。すいと騙されたんだもの。汗も男に騙されたこともすいと流してしまおう。
墓洗ふ水をもらってくすり飲む
篠塚秀義(北海道)
一年の苔を墓石から洗い落とす。幽明の境の標だから丁寧に磨こう。だが命あるこの身も労らねば。薬の時間だが、えい、ままよ。水に代わりはあるまいと墓石用の水で服薬。この飄逸さはどうだ。
すいと騙され、墓洗いの水で薬を飲む。このおおらかさこそ超然と「かげ」を突き抜ける。陰(かげ)から光(かげ)へと転換し、影(出会い)を大空へ解き放つ。
でで虫や真っ直あがる観覧車
小山京子(福島)
藍生集を読む(92・11月号) 2
なつかしみ
三島広志
季語の現場に立っての俳句の創造は、季節のただ中にあって季を実感し、事実・事物の確かな手触りの中から生み出されるものである。
しかし、鑑賞は違う。夏の俳句でぎっしり埋められた藍生集を今わたしが読んでいるのは、暦の上ではすでに冬、現実には晩秋である。
されば、鑑賞こそは想像力を縦横に発揮する現場とならねばならない。先月のわたしの鑑賞のあまりの牽強付会さに呆れた方もあるだろう。しかし、それはわたし自身の想像力の表出の結果にしか過ぎない。
また、韻文を散文で解釈・解説することは作品に対して実に失礼なことだ。俳句をなぞらず鑑賞文の形を借りた自分表出を心掛けたい。
今月もまた集中が佳句で満たされている。そんな中にあって共感できる俳句、驚きを与えてくれる俳句も素晴らしいが、読みを深める謎を孕んだ俳句もまた楽しい。えてしてそんな俳句は表現が極めて素直なものだ。
海底を白く平たく泳ぐかな
溝口怜子(埼玉)
海に帰る。そこは遠いいのちを育んだ故郷。骨を無くした原初のからだのように平らになって水中で白くきらめく。
かなかなの万のかなしみ負ふごとく
遠野津留太(東京)
かなかなと鳴くを数へて父の墓
坂内信造(東京)
かなかなやうしろ姿を見つめられ
浜谷君子(愛知)
蜩はその鳴き声をして聴く者にあはれの情を起こさしめる。
その音色は生のかなしみを負い、数えるうちに遥かな来し方を偲ばせる。
うぶすなの深閑として蝉涼し
荻野杏子(愛知)
これもまた蜩か。うぶすなの静けさは懐かしさにつながる。
盆の月廃船をうつ波の音
長晴子(大阪)
最終のバスに人待つ盆の月
田丸栄子(広島)
盆は魂の歴史と語らう日だ。身を流れる血潮に耳を傾けるために鮭のように故郷に帰る。廃船を照らす月明かりが人を語らいへいざなう。そしてバスは最終。未来からの断絶がそこにある。
ひと逝くや大暑の風にさからはず
桑尾睦子(高知)
日盛や霊柩車のみ路地に入る
川崎柳煙(福島)
風に逆らわずに逝くのは自然随順の極致であろう。日盛りに葬儀は音もなくあっけからんと運ばれていく。
人の訃を突き放して読むところに俳句の凄みがある。死という重い事実を端的に描写すると枯れて見えるのだ。
ただ自らに忍び寄る死をこのように詠めるかが一大事。
想ふことみなそれぞれでゐて涼し
山崎紀子(鳥取)
集いは楽しい。さざ波のように笑顔が広がっていく。でも皆本当は何を考えているのだろう。言葉は同じでも受け取り方はそれぞれ違う。そう、共通点は涼しさばかり。
ねむの花郵便配達くる時間
内山兌子(長野)
軽くなる朝の気配に芙蓉咲く
安河内ちえ子(福岡)
百合の花ひらりと食べてしまひけり
森田伊佐子(茨城)
花は時間と繊細な心象を吸って開くようだ。花を見て心安らいだ後なぜか疲れるのはそのせいだ。
ゆく夏のある日鰻の掴み捕り
滝本利子(神奈川)
不思議な句。ある日という曖昧さが鰻の掴み所の無さにあいまって逝く夏の味わいを醸す。
夜の秋の蜆の水を替へにけり
加藤きちを(岐阜)
秋近き夜のしじまの深さが懐かしい。蜆に注がれるのはすでに秋の水だろう。
藍生集を読む(九二年・十二月号) 3
過程としての俳句
三島広志
自分にとって俳句とは一体何だろう。
藍生集の膨大な俳句をじっくり鑑賞する機会を与えられて、改めて考えさせられた。
漫然とただ楽しいから作句していた時期を経て、生活の中に句作りが習慣化され、いつも脳裏ないしは胸中奥深くに五七五の調べが流れ、ふとした瞬間にそれが言語と化す。そうした十数年が断続してあった。
断続、そう、決して一貫して俳句に没頭してきた訳ではない。熱中したり、離れたりの幾度かの繰返しがあった。しかし、俳句はついに心身の一部のように完全には捨て切れない、業とでも呼ぶべき動かしがたいものとして背後に張り付いていたのだ。
では改めて自分にとって俳句とは何なのだ。 心情をふと吐露する私小説的俳句、人生の根幹に関わる問い掛けを表現する求道的俳句、呻吟の中から絞り出す自己救済的俳句、日常のひとこまを活写する日記的俳句、仲間との触れ合いや旅吟に親しむ愛好的俳句など人それぞれに俳句への取り組み方は異なるであろう。
今のわたしにとって俳句とは、句を創出することで魂を建て直すとも言うべきものである。しかしそれは決して呻吟から生まれるものでなく、おおらかで呼吸が深くなるような虚構を設定・構築するものである。
そのために現実を直視し、心の琴線に響くものを直覚するのである。しかしこの方法は類型化を招く。そこに詩化という魂の新鮮な仄めきが必要となるのだ。
したがってわたしにとって「結果としての俳句」は「過程としての俳句」の魂を揺する瑞々しい展開に及ぶべくもない、即ち少なくとも第一義の問題ではないのである。
数片の骨を拾ふて夏果つる
小原祺子(岩手)
空蝉を拾ひて吾子の墓参
飯倉あづま(茨城)
ともに死をテーマとする。死は唐突にかつ確実にやってくる。愛する者の全てが消失する。人は何かの手応えがないと不安でしかたがない。骨や空蝉は故人の隠喩として残された者を慰める。
林檎二個もいで秘密の基地へ行く
齋藤えみ(福島)
造成地か薮の中に秘密基地を作った。食料は通りがかりの畑から拝借したもぎたての林檎。男性が悪餓鬼のころの共通体験。それを母の目で捕らえた。
鬼灯を残り火のごと引きにけり
大町道(栃木)
残り火は未練である。燃え盛りの後の燻りが、残滓の中に淀んでいる状態。また鬼は充たされないあがきを示す。だからこそ狂気のごとく打ち込む姿を鬼と言う。鬼灯は鬼の未練を照らし出す。
何もせぬ両手をさげて夏に居る
溝口怜子(埼玉)
起重機の何も吊るさぬ良夜かな
本田正四郎(埼玉)
何もしない、何も吊るさない。何もないものは俳句の素材に向いているようだ。その発見こそが詩精神の発露。
厳かにみんみんの鳴き始めたる
浦部熾(埼玉)
厳かとは見事。来年からみんみんの声には襟を正さねば。
秋高し妊りて知る空の色
岡村皐月(千葉)
新しい生命を胎内に秘めた女性に、秋はどんな色をもって祝福するのだろう。
息継いで舞ひ上がりたる秋の蝶
藤井正幸(東京)
秋の蝶の舞い上がる一瞬の空白。あれは息継ぎだったのだ。
今日の月照らせよ滅びゆく大和
島田勝(奈良)
今生に最高の夏ありがとう
市嶋絢(京都)
全ての現象や自然、営みは滅びへの前奏曲にしか過ぎない。しかし最高の夏は確かな手応えで我が身体・命の賛歌となる。
「ありがとう」。哀しいほどに輝かしい。
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