出会いの一句
出会いの一句
三島広志
人に強烈な出会いがあるように、俳句との出会いもまた大いなる影響を与えてくれるものである。以下にはそのことを述べてある。
高浜虚子の客観写生に不満を抱いた水原秋桜子は、自らの主宰誌「馬酔木」(昭和六年十月号)に「自然の真と文芸上の真」の発表をもって「ホトトギス」から離別したといわれる。
虚子は弟子たちに主観性の強い句の創作を禁じておきながら、自分自身は主情の強い俳句を発表していたのが秋桜子には納得できなかったのである。その間、高野素十との人間関係など複雑に込み入った事情もあったようである。
平井照敏氏はこの秋桜子の「虚子・ホトトギス」離脱を現代俳句史上最も大きな出来事の一つとしている。なぜなら後の新興俳句、前衛俳句などの潮流はそれに先立つ秋桜子の勇気ある反虚子の行動があってこそ起こり得たというのである。
そのころ俳句を制圧していたと言っても過言ではなかった大虚子に反旗を翻しなおかつ「馬酔木」を成功させることができたのは秋桜子ほどの力量・人望あってこそ可能であったであろう。でなければ単発の花火として消滅したにちがいない。
これは当時、虚子という存在がいかに巨大であったか、その強大な権威にアンチの声を挙げることがどれほど大変であったかを物る逸話である。
また秋桜子が試みたような揺さぶりが大なり小なり繰り返されることが俳句の命脈を保つ内なる生命力を高めることになるのであろうことも確かなことである。
といった歴史の話は枕であって、主題はわたしの出会いの衝撃が大きかった俳句についてである。その一句とは
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり 秋桜子
である。
この句に関して秋桜子は句集「葛飾」の序に、おおよそ次のようなことをことを書いている。
作者のとるべき態度に大別して二種類あり、
「その一は自己の心を無にして自然に忠実ならんとする態度、その二は自然を貴びつつもなお自己の心に愛着をもつ態度である。第二の態度を持して進むものは、先づ自然を忠実に観察する。而して句の表には自然のみを描きつつ、尚ほ心をその裏に移し出さんとする。」
と。
さらに続けて、句作をはじめた大正八年から同十三年までは第一の態度で心を無にして客観写生を行い、同十四年春頃第二の態度での創作が意識され、同年五月、掲出の一句によって第二の態度がはっきりと自覚されたと書いている。いわば主観写生、文芸上の真の目覚めであろう。
秋桜子自身にとってもまた偉大なる出会いの一句であったわけだ。
無論、わたしはこれら諸々のことは何も知る由もなく、何かのおりに掲出句に出会い大きな感動を得て、一時中断していた俳句の創作を再開したのである。
高嶺星は秋桜子の造語であり、高嶺のそら高く燦然と輝いている星のことであるが、意外なことにこの句は大垂水峠で昼間に作られた空想句であるとのこと。
「寝しづまり」に作者の主観がたっぷりと込められており、明るい昼間の空に星を想像することこそ芸術における創造、いわゆる「文芸上の真」の発見ということになるのであろう。
今日考えれば実に当たり前のことであるが、その当たり前に到達する道筋はけっして当たり前ではなかったのである。
わたしと俳句の出会いは多くの人と同様、小学校の教科書である。確か
春の海ひねもすのたりのたりかな
山路来てなにやらゆかしすみれ草
などの句であったと記憶する。
高校三年の校内模試で、山頭火の自由律俳句が出題され試験を忘れて感動した。
しぐるるや死なないでゐる
うしろ姿のしぐれていくか
これらの自由律は当時の心を激しく揺さぶった。人並みに悩み多き少年期にあった身としてこれら自嘲的な独白はまさに身に染むものであった。
大学に入てから自覚をもって俳句をやろうと決心して書店で山本健吉著「現代俳句」文庫本を入手し、気に入った作が一番多かった原石鼎の系統にある「鹿火屋」に入会した。
いきなり自由律では足腰が鍛えられないだろうと思い、まずは有季定型の勉強をしようと考えたのである。
しかし根っからの飽きやすい性格ゆえと、多忙を口実にあまり熱心に続けることなく自然に俳句から離れ、卒業後は鍼や指圧などの東洋物理療法の専門学校に進みそちらに熱中した。大学在学中父親の死去にともなう生活苦もあった。
結社に払う会費も捻出できなかったのである。
当時「鹿火屋」の主宰は故原コウ子先生だった。先生はこちらの事情を察して当方から丁重にお断りするまで無料で本を送り続けてくださった。この厚情には今も感謝している。
俳句を中断している間に結婚し、子を二人得て家庭的にも落ち着いた頃、いつの間にか年は三十才を目前にしていた。仕事も何とか安定してほっとしたら、加齢に対する漠然とした焦りを感じていた。
そんな頃に出会ったのが高嶺星の句である。
以前にはこの句から読み取ることのできなかった俳句の深さ、新鮮さを発見して句作を再開したのだ。
高名な高嶺星の句には以前から出会っていたはずだ。しかし当時は句を味わう器量に欠けた。中断している間のさまざまな経験がわたしの器量を多少大きくして、鑑賞眼を成長させていたのだろうか。あるいは以前の俳句体験が知らず知らずのうちに体内で発酵していたのかもしれない。
句作中断前、秋桜子の俳句では
滝おちて群青世界とどろけり
が一番好きであった。色彩感と臨場感には素晴らしいものがある。だが人生の味わいという点では
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり
の方であろう。生活や労働、休息が一種の祈りにまで高められているようだ。
高嶺の星に託された生命の賛歌、自然の中に生きる人々の息遣いが聞こえてくる。
打ち明けるなら、実はこの句の景観は我が胸中に深く浸透している。
妻の実家が長野県南佐久にあるが、そこは今も蚕を飼う村なのだ。
夜、星を見るために外へ出ると、すっかり寝静まった村の彼方に黒い八ケ岳の稜線がくっきりと闇に浮かび、手を伸ばせば採れそうな星が全天に輝いている。
寝静まった村から蚕が桑の葉を食う音が聞こえてくるような静寂の中にたたずむと美の極みは畏れではないかとさえ思えてくる。
そこに立てば日常を超えた世界の存在の底深くにいる自分が自覚できる。
家々からの寝息が空に溶け込んでいく。
そのうち自分の身体が大地につき刺さった一本の杭のように感じられ宇宙との一体感とはかくやと確信する。
そこでは秋桜子とも時空を共有することができる。
出会いの一句とはこれほど偉大なものとして胸中に存在し続けるのだ。
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