俳句とからだ 59
連載俳句と“からだ” 59
愛知 三島広志
解離する身体
宮澤賢治の詩集「春と修羅」に『岩手山』と題された佳作がある。
そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの微塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの
南部冨士と称賛されるこの名峰を同郷の先輩は次のように詠んでいる。
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
石川啄木
秋高しや空より青き南部冨士 山口青邨
三人とも盛岡中学の同窓生で啄木は賢治の十年先輩、青邨は五年先輩となる。啄木は山と自分を対峙させ自然信仰のようなおおらかさで謝意を述べている。また青邨の句も山へのオマージュを深い息遣いでシンプルに描ききっている。
ところが賢治の詩はどうだろう。専門用語が多用され読み難い。「散乱反射」は物理、「微塵」は仏教の用語である。散乱反射は波動や素粒子が散らばり反射し方向を変えること。この詩では空の形容だ。微塵は物質の最小単位、それが系統だったひかりを表現している。この用語は賢治の独自性を示すと同時に理解してもらおうという意思の希薄さを示す。賢治は普遍的伝達と個性的創造の狭間で困難な作業をしていたのだろう。出版した後、「ひしめく微塵の深みの底に」と修正している。こちらの方が伝わり易い。
この詩は構造上、前後二行ずつに分かれる。前二行は黒い夏の岩手山、後者は白い冬の岩手山。この並立にはさほどの独自性はない。しかし、その視線の方向を考えると実に不思議である。前二行は下から見上げた構図、後二行は空から俯瞰したものだからだ。
啄木は山に対峙し、青邨は秋の空と一緒に山を見上げている。では賢治はどうだろう。前二行では山が輝く空を黒く抉ると見做している。これは見上げている視線だから普通である。後二行は空の底、つまり大地に白く澱んでいるという。これは賢治が空から山を俯瞰しているのだ。この辺りに秀峰岩手山より高い山はない。賢治は自らの心身を拡大させて(脱中心して)山を見下ろしているのだ。精神学者は賢治の作品に度々出てくるこうした傾向を「解離性人格」と分析する。彼の意識は容易に身体を大きく飛び出し、異次元のものを観たり聞いたりする性向にあるという。しかもこの時、賢治は自らの怜悧な理性を失っていない。そうでないと作品としてまとめ上げることは不可能なのだとか。
身体は身体を超えて自在に拡大、縮小、脱出する。これもまた身体の不可思議な現実だろう。
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