« 俳句とからだ 57 | トップページ | 俳句とからだ 59 »

2011年9月29日 (木)

俳句とからだ 58

連載俳句と“からだ” 58


愛知 三島広志


月天子

宮澤賢治は「雨ニモマケズ」を書きつけた手帳に「月天子」という詩も残している。「雨ニモマケズ」は昭和六年、賢治三十五歳の時、11月3日という日付で書かれており死後発見された。「月天子」は同じ手帳の少し後の方に書かれている。

この詩は科学が月の実体を解明したにも関わらず月天子として信仰の対象となりうるという矛盾を表現している。同時に賢治という科学と宗教と芸術の融合した特異な個性を理解する上での貴重な資料としても知られている。
賢治は月の写真から「その表面はでこぼこの火口で覆はれ/またそこに日が射していゐるのもはっきり見た/後そこがたいへんつめたいこと/空気がないことなども習った」と書いている。さらに「また私は三度かそれの蝕を見た/地球の影がそこに映って/滑り去るのをはっきり見た」と月蝕を科学的に説明している。「亦その軌道や運動が/簡単な公式に従ふことを教へてくれた」とも。

 しかし賢治はそこに留まらない。月の実体とそれにまつわる思いを、人のからだと心の問題に置き換えて不思議なことを考えるのだ。「もしそれ人とは人のからだのことであると/さういふならば誤りであるやうに/さりとて人は/からだと心であるといふならば/これも誤りであるやうに/さりとて人は心であるといふならば/また誤りであるやうに/しかればわたくしが月を月天子と称するとも/これは単なる擬人でない」と。

 賢治がこの詩を書いたのが1931年頃。今から80年前のことだ。科学の台頭が人智をして全て解決できるのではないかと夢を持って語られる時代だったろう。しかしなお今日でも科学の理解と一般的な感覚には齟齬がある。科学でそう解かれても私はそうは思わないと感じることは日常頻繁に遭遇する。「もしそれ人とは人のからだのことであると」と規定することで現代医学は発達してきた。心を無視したのではなく敢えて心を括弧で括って横に置いてからだのみを研究したことで薬や手術が大いに進歩し、今もなおその過程にあることは間違いない。

「しかし」と多くの患者は苦情を述べる。「医者は私の苦しみを分かってくれない」と。仕方ない。共感は科学ではなく芸術の問題だ。「さりとて人は/からだと心であるといふならば/これも誤りであるやうに/さりとて人は心であるといふならば/また誤りであるやうに」と人を本当に理解するのは難しいのである。

 一方で科学的理解を尊重しつつ直感や共感という曖昧な部分で人との交流をする。ここに人と人との関係性が存在する。

 夜空に輝く月に天子を感(観)じる心。それは人に対しても言えることだ。だからこそ互いに尊厳を認め合えるのだ。

 月天心貧しき町を通りけり 蕪村

|

« 俳句とからだ 57 | トップページ | 俳句とからだ 59 »

俳句とからだ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 俳句とからだ 58:

« 俳句とからだ 57 | トップページ | 俳句とからだ 59 »