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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 55

連載俳句と“からだ” 55


愛知 三島広志


型と身体

 京都大学の入学試験において携帯電話で投稿サイトに質問、その答えが速やかに返ってくるという極めて時代を反映したカンニングがあった。パソコンや携帯電話はそれ自体が外部化した脳であり、情報の収集、整理だけでなく世界中に発信できる。これは文化的身体がそこまで拡大しているということである。これらの機能は元来は身体自身が行っていたが今日では装置が身体の代替をしてくれるのだ。だがこうした身体化は生身の身体を鈍化させ退廃化する可能性がある。

 身を離るる言霊どつと花吹雪 濱田のぶ子

 偶然だが別の意味で京都大学の入試問題が能楽関係者の間で話題となった。能と身体について書かれた文章が使用されたからだ。先々月号で紹介した能楽師中所宜夫氏はたまたまバリの伝統ダンスとのコラボレーションのためにインドネシアに滞在していたが、この件に関してはツイッターすでにご存じだった。これまた携帯電話の能力である。

 入試問題の文章は能楽師安田登氏の「神話する身体」。近代演劇は「悲しい場面の演技では、自分の体験の中から悲しい出来事を思い出す」練習を行うが、能の稽古は「気持ちをいれたりはせずに、ただ稽古された通りの型を稽古された通りに忠実になぞる」と説明する。ここで中所氏との会話を思い出した。「狂言師はドラマや演劇で活躍しているが能楽師にもいますか」という質問に対し、中所氏は「能は面を着ける。素面でも表情は作らない。狂言師は顔の表情を訓練する」と答えた。顔の表現の稽古をしないのは型を徹底的に身に着ける能楽師ならではのあり方だったのだ。

 安田氏は「ココロの深層にある『思ひ』は変化しない」と述べる。「『思ひ』とはココロを生み出す心的作用」で万人のココロの奥にある普遍的なものだと。「古人は舞や謡の『型』の中に、言葉にはできないある『思ひ』を封じ込めて冷凍保存した。『思ひ』のさらに深層に世阿弥は『心(シン)』という神秘的作用を想定する」と続ける。能は型を忠実になぞることでこうした「思ひ」や「心(シン)」を演技することなく伝えるのだ。そのためには自分の身体を無にする必要があるだろう。したがって能楽師の稽古とは生活者としての身体を解体し無に帰した後、能的身体に再構築することなのだ。能の家に生まれなかった安田氏や中所氏は己と能の関係に生まれながらの能楽師より一層自覚的なのではないかと考えられる。

 安田氏の文は「舞歌とは文字化された神話をクリックする身体技法であり、私たちの身体の深奥に眠っている神話を目覚めさせ、解凍する作業である」と続く。

 夢に舞ふ能美しや冬籠 松本たかし

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