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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 54

連載俳句と“からだ” 54


愛知 三島広志


自然と不自然の狭間

「ヒト」は環境を素材として環境の中に生まれ、「人」として環境と関係しつつ育ち、「人間」として刻々と変化しながら成長し、ついには世を去っていく過渡的生命体だ。その根本に存在するのが身体。身体がなければ精神もない。

「ヒト」は自然体として産まれる哺乳類の一種だ。しかしヒトは自然体のままでは生きていけない。数千年の時を費やして環境との相互浸透により形成された不自然体である。これを「人」と呼ぼう。同時に人は歴史的時間や空間的社会の中で「人間」として世間を生きている。つまり人間とは自然と社会と歴史の関係の中に存在している人工的且つ文化的な存在なのだ。換言すると人間は生物的自然体と世間的不自然体が直接し一如となっている矛盾を孕んだ存在なのだ。身体は自然であると同時に不自然も抱え込んでいると言ってもいい。完全自然体としての身体は存在し得ないのだ。

人間は既に生まれる前から医療技術によって母子の健康を守るための管理を受け、安全な出産を用意されている。従って生まれた時から人工的な不自然体として育っていくのだ。裸で生まれた赤ん坊がすぐに布で包まれた瞬間それは人工的な環境に取り込まれたことになる。

こうした人工的環境は死に瀕した場合も同様に存在する。以前なら為す術もなく亡くなった人が今日では様々な医療技術や看護技術、さらには介護の労によって生を永らえることが可能となっている。気管支切開で呼吸を維持し、胃瘻で栄養を確保、膀胱内バルーンカテーテルが排尿を助けることで呼吸・摂食・排泄という生命の基本的営みが保たれるのだ。これらの処置は居宅においても可能となっている。今日、もはや死は死の寸前まで自然現象ではないのだ。

医療の進歩が死を曖昧にしている。こうした医療による生存を人生と考えるのかそれとも単なる延命と見なすのか。この現実が新しい可能性と苦悩を孕んでいる。元気な間に延命治療をするか否かを意思表示するリビングウイルが勧められている。しかし、それは見方を変えると消極的自殺宣言でもある。そこには家族や周囲に迷惑を掛けたく無いという心情的配慮と予測される経済的困難が絡んでくる。純粋に死のみを見つめている訳ではない。それは人間が自然体では無く人工的かつ世間的生き物であるからだ。ここに至って、私たちは自らの身体でさえ自らの所有でないことに直面せざるを得ない。以下はALSという難病で逝けない身体を見事に生き切った折笠美秋の句。

 俳句思う以外は死者かわれすでに
 目覚めがちなる墓碑あり我れに眠れという
 微笑が妻の慟哭 雪しんしん
 春暁や足で涙のぬぐえざる

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