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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 53

連載俳句と“からだ” 53

愛知 三島広志

現代能

 2010年12月、国立能楽堂で現代能「光の素足」を観た。現代能とは能の構造や形式美を止揚しつつ現代に生き且つ後世に伝え得る作品の創出を目指すものだ。作者は中所宜夫という観世流シテ方の能楽師。彼は大学卒業後能楽師の道を志し、現在五十代半ばの円熟期にある。能の会を主宰し、観阿弥、世阿弥の本意を現代に問い続ける挑戦者である。

 『光の素足』は宮澤賢治の童話『ひかりの素足』をもとに創作された。中所氏は「口語詩『原體剣舞連』『春と修羅』『永訣ノ朝』『雨ニモ負ケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『ひかりの素足』そして『農民芸術概論』などの言葉・モチーフを散りばめながら、賢治の精神世界を能舞台上に再現する新しい能である」と自ら案内に記載している。

 能には亡霊や神仙などがシテとして登場し生身の人間であるワキが彼らの話を聞き出すという夢幻能がある。夢幻能は「死者の世界からものを見る」と言われ、「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」という難解な構造になっている。『光の素足』も夢幻能の形式をとるが、一郎少年(中所氏によるとここではツレ)と光の素足(シテ)との会話で成立している。

中所氏は、賢治が臨死体験の後、異界が見えるようになり、終生その苦しみを抱えて生きたという仮説から『光の素足』を通して賢治の根源に迫ろうとしている。

原作『ひかりの素足』において吹雪の中で死の世界を体験し一人生還した一郎は、弟の喪失の哀しみ、生還者の罪悪感、一般の人々には見えない異界が見えてしまうという苦悩の中にある。そこへ現れた光の素足。一郎は光の素足との対話、そして連舞によって救済される。

しかし実は光の素足は賢治自身が綴った言葉に宿る力である。すなわち彼の苦悩は自ら著した言葉によって昇華されるのである。中所氏は一郎(現身の賢治)を、シテである光の素足(賢治の言葉=賢治の魂)のツレとして相舞わせることで描こうとしたのではないか。

中所氏の舞台は見事であった。最初の一声と立姿だけで能楽堂全体の気を統一する。謡、言葉、姿勢、所作、型、衣の揺らめき。和する笛や鼓や地謡。すべてが総合的に人々の心を掴み揺り動かす。氏は極限まで削ぎ落とした動きと静止とを演ずることで賢治の言葉の世界、賢治の魂を具現していた。

能の抑制された所作は身体を捨て去ることで完成される。しかしそのためには逆に高度な身体性が必要となる。この逆説的な抑制は俳句の沈黙性に通じるところがある。高度な省略こそは物言わぬ饒舌なのである。

 父恋し松の落葉の能舞台  高浜虚子 

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