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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 52

連載俳句と“からだ” 52


愛知 三島広志

野口体操

 野口体操をご存じだろうか。そのくにゃくにゃした動きからこんにゃく体操、創始者が東京芸大教授だったことから芸大体操と呼ばれることもある。野口三千三という異才が、従来の解剖学に基づいた体操とは全く別の視点で創意工夫した体操だ。身体観の革命と呼んでもいいだろう。
私たちは通常、筋肉が骨を動かしていると考える。ところが野口体操では手足は鞭のようなもので筋肉は不要と説く。力は筋肉から生まれ伝わるのではなく、鞭のように、ゆったりと脱力した腕を力が通り抜けるのだ。

 鞭うつて牛動かざる日永かな 夏目漱石

 面白い体操がある。「臀」うち・たたき。左脚に重心を載せて立つ。右膝を曲げて踵を臀部に付ける。簡単な体操だが、踵は臀に届かない。筋肉の動きの限界である。では今度は左脚に体重を載せて膝を柔らかく上下に弾みをつける。すると今度は簡単に右の踵が臀に付く、はずである。

 様々なところでこの実験を試みたが、殆どの人ができなかった。動きとは筋肉の力であると思い込み、かつ身体動作がそのようにできてしまっているからだ。コツを説明し何度か繰り返していくうちに、だんだんできるようになる。慣れると弾みをつけなくても簡単に臀うちが可能となる。
 
 「身体は革袋に水が溜まっている状態。その中に骨や筋肉や内臓が浮いているのだ」というのも野口体操の大原則。身体がこの状態であれば、先ほどの臀たたきが苦も無くできる。
身体は水の詰まった革袋であり、手脚は鞭である。その動きの原動力は筋肉ではなく重力、つまり重さなのだ。  
私たちの動作は重力と折り合いをつけた静止と、関係が崩れた移動から成り立っている。いつも安定していては動けない。不安定が力となる。筋肉はそれらを微妙にコントロールしているだけなのだ。

 水族館で魚の群れを見たことがあるだろう。彼らは一瞬に翻る。魚は重力から解放されて浮いているので、あの動きが可能となる。ヒトは重力に束縛されている。重力に逆らって立っているその脚で動かなければならないという矛盾にある。しかしその重力を逆に利用すると魚のような動きができるようになる。それが先程の臀たたきだ。

 若鮎の二手になりて上りけり  正岡子規

脱力するとは重力に委ねることだ。重力に委ねることは開放されることにつながる。身体を支えている支持脚を上げて遊走脚にすることで歩行が可能となる。それは取りも直さず脚を解放したからに他ならない。
野口体操は身体を通して実に様々なことを教えてくれる。それは身体そのものが無限の可能性の宝庫だからだ。

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