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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 49

連載俳句と“からだ” 49


愛知 三島広志

肺と胃の腑

宮沢賢治に『北守将軍と三人兄弟の医者』という作品がある。三十年間北を守った将軍ソンバーユーの物語だ。末尾、将軍は引退後故郷へ帰る。次第に食を摂らず「水もさつぱり呑まなくなつて、ときどき空を見上げては何かしやつくりするやうなきたいな形をたびたびした」。やがて姿を消した将軍。人々は仙人になったと信じてお堂をこしらえた。しかし将軍の治療をした医師は冷静に言う。「肺と胃の腑は同じでない。きつとどこかの林の中に、お骨があるにちがひない」と。

ここで注目するのは「腑」だ。内臓には五臓六腑がある。五臓とは医学で言う実質器官、即ち肝臓のように臓が付く内臓で中身が詰まっている。それに対して腑は中空器官。管状で中が空洞になっている内臓だ。胃や大腸などがこれに当たる。しかし日常腑は全く使われない。作品中、賢治は「肺と胃の腑」は同じでないと区別している。肺は臓で胃は腑である。作品が『児童文学』に発表された1931年当時は臓腑の別が理解されていたのだろうか。

 仙人になりそこねたる山椒魚 田畑益弘

胃は平滑筋の袋。筋肉には赤い横紋筋と白い平滑筋がある。横紋筋は骨格筋で随意筋だ。対して平滑筋は不随意的な内臓筋だ。リアルに言えばステーキは横紋筋で、もつ鍋の材料が平滑筋。平滑筋は思い通りには動かない。太りたくないから「胃腸よ、もう休め」と命令しても不随意的にどんどん吸収してしまう。腑は平滑筋でできた筒であり、その仕事の多くは食物の通り道。臓が様々な代謝を行なう化学工場であるに比して腑の仕事はシンプルだ。しかし精神ストレスなど現れ易い。

中国で生まれ日本には奈良時代以前に伝来していた漢方が既に臓腑の違いを理解していたとは驚きだ。エビデンスが無いため医療の現場から追い出された漢方だが、古代の医師たちも病気を治したいという強い意思を抱いていた。その点は今日の医師と何ら変わらない。ただ方法が今日的視座から見れば未熟だっただけである。古書には病には必ず原因がある、魔物などの怪しい作用ではないと書かれている。だからこそ素朴な医療の観察眼でも臓腑の識別が可能だったのだろう。

 粥すする杣が胃の腑や夜の秋  原石鼎

北守将軍は最期、何も食べなくなる。そこで人々は将軍が雲を呑む仙人になったと思った。いやむしろ偉大なる将軍の死を簡単に認めたくない人々はそう考えたかったのだろう。神格化とは畢竟、人々の総意が作り出すものだ。それを「肺と胃の腑は同じでない」と正す医師の目は鋭く貴重だ。

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