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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 47

連載俳句と“からだ” 47


愛知 三島広志

前脚から腕に

 ヒトは通常、二本足で立つ。生後一年もすると立ち上がる。生物的ヒトは立つことで社会的人間になる(身体障碍などの理由で物理的に立てない人もおられるが、彼らの意識はすっくと屹立している)。
ヒトはその発生から卵割、胎生期を経て出産、立ち上がるまでおおよその生物進化の過程をなぞる。胎内では極めてシンプルな生命体であり、脊索を得て魚類となる。発生の極初期はエラ呼吸だ。その後、羊水中は臍の緒で母親から栄養や酸素を受け取る。魚の様にエラ呼吸する訳ではない。出産と同時に肺呼吸になる。産声こそは記念すべき肺呼吸の第一声である。

出産後は両生類や爬虫類のように這々。さらに一気に駆け抜けて四本足の哺乳類だ。ヒトは他の生物に比べて極めて不完全な状態で生まれてくる。立つまでに一年、社会的に独立するまでに二十年を要する。なぜ立ち上がるまでに一年も費やすのかと疑問に思う。キリンなどすぐに立ち上がるではないかと。一説には脳の発育を待っていては頭が大きくなりすぎて産道を通れなくなるからだと聞く。

這っている間、腕は前脚として身体の支持と歩行に制約され自由度が低い。胸から上も同様だ。両腕が床に固定されているため首の動きに制限がある。よって視線も限局されて水平を左右に見ることが主だ。ヒトはお座りできた時初めて前脚が両手となって開放される。首も自由を得て広い視野を獲得する。発声のための喉も立つこと(座ること)で形成される。

 では、解放された手は何を得たのだろうか。支持や移動の道具から解き放たれた手が得たもの、それは自由と可能性だ。道具を使う能力はここから生まれた。手も目も喉も、外部化した脳としてより緻密に働き、情報を脳に届ける。従来の行動に集約されていた機能が自由を謳歌できるようになった。ここに至ってヒトは人間となって文化を得ることになるのだ。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり  寺山修司

 わたしたちは何かを掴んでいる限り新たなモノを掴むことはできない。仏教で言う「捨てなければ得られない」はこのことだろう。可能性を得ようとするなら掴んでいるものを捨てて手を解放しないと不可能だ。思惟や観念もコトノハとして放出することで新たな可能性を待つ。
前掲の短歌、同じ作者に以下の俳句もある。

 夏井戸や故郷の少女は海知らず 寺山修司

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