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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 35

連載俳句と“からだ” 35


愛知 三島広志

心臓はココロ・・・

 心臓は常に働き、停止したら寿命が尽きるという点で最も重要な臓器だろう。胸の中心やや左にあり握り拳大。その存在は鼓動として感知できる。毎分約70回、生涯休まず血液を排出するポンプとして動き続けている。
 東洋医療では心臓を心もしくは心の臓と表記する。心はココロと心臓の両方の概念が混在した臓と考えられる。なぜなら心臓はココロの状態が如実に現れる臓器だからだ。驚いたり心配したり緊張するとドキドキと拍動が体感できる。まさにそれは心理状態と連動している。

さらに心臓が止まると人は死んでしまう。この事実から心臓には生命が宿るとも考えられてきた。

 心の臓うごくかなしさ梅雨深し 岸田稚魚

ココロの象徴

 漢字の「心」は心臓の象形文字だ。古代中国人は心臓を具体的に知っていたことになる。また英語のHeartは心臓とココロの両方を表し、ハートのマークは心臓の形だ。洋の東西を問わず素朴な現象学的に心臓にココロを重ねていたのだ。「胸に手を当ててよく反省しろ」と言うようにココロは胸にあると実感できる。しかし人は熟慮するときは頭に手をやる。これは何故か。以前にも書いたように「思」という字の「田」は頭蓋骨の象形、「心」は心臓の象形。つまり「思」は頭と心臓を指す。言い換えると知性と情緒だ。知性は頭脳に、情緒は心臓にあると身体感覚が示している。それで反省は胸に手を当て、思慮は頭に手をやる。

心の経絡

 心の経絡は腋窩から肘を通って小指の先に至る。胸に手を当てる動作も頭に手をやる動作も肘を曲げる。肘を曲げる動作は心経を伸展する。この行為が思考に関わるようだ。瞑想や熟考のときの姿勢を想像して欲しい。仏像もロダンの考える人も皆、肘を畳む姿勢である。肘を畳むと心身はコンパクトに集中することができる。合掌然り。

心は外界に対して自己の世界を中心化する働きをしている。外からさまざまな情報が入ってくる。それらの情報を処理、整理し、要不要の判断をするのが心の役割なのだ。辞書にも「思慮分別。判断力」『広辞苑』とある。

試しに両手を深呼吸のように大きく開き、難しいことを考えてみよう。集中し難いだろう。お手上げ状態だ。腕組みをすると考えている気持ちになる。これは外界に心を開いている状態。自己を中心化するとき、集中するときは自ずと腕組みや合掌(情緒)眉間、こめかみ(知性)などに手を当てている。

 炎天の遠き帆やわがこころの帆 山口誓子

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