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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 30

連載俳句と“からだ” 30


愛知 三島広志

鍛錬と頑張り

 鍛錬とは文字通り「鍛え、錬る」ことだ。相撲の稽古を見に行くと新米力士と関取の身体差に驚く。新米力士といえども一般的生活者と比べれば相当に立派な身体をしている。しかし、幕内力士の身体は相撲取りとして見事に作り込まれている。これが鍛錬の成果だ。鉄を鍛え、錬るように身体を(精神性も)鍛え、錬るのである。鍛錬によって身心の土台を構築し、練習によって技を磨くことで生活体が相撲体に作り変えられる。鍛錬によって関取、水泳選手、ダンサーという具合にそれぞれの身体に作り上げられる。文化は創造であり、まずはその基礎となる身体を創造する。その身体から様々な創出が成されるのだ。これは哲学者や画家など身体性から遠く感じられる領域においても無関係ではない。

ところが最近、リラックスの重要性が説かれる。筋肉を固めて力んだ状態よりも身体を緩めた方が能力を発揮できることが体験的にも科学的にも分かったからだ。ストレッチはその代表的な例だろう。果たして脱力と鍛錬は矛盾するのだろうか。

頑張り

私が中学の頃、部活では頑張ることを要求された。それは今考えると精神的にはともかく、身体的には無意味な頑張りだった。当時、炎天下の練習でさえ水は身体に悪いからと飲むことを禁止された。これでは熱中症をわざわざ誘発させるようなものだ。今日の医学的見地からすると喉の渇きを我慢するのは危険な頑張りでしかなかった。
では脱力はどうだろう。実は脱力は単に筋肉を休ませた状態ではなく、意図的に弛んだ身体によって初めて実現されるものである。つまり脱力は鍛錬によって創出される結果であるから、脱力と鍛錬に何ら矛盾はない。

身体の隷属化

 得てして人は身体に無理を強いる。精神力で頑張る余り、身体の声に耳を傾けようとしない。その挙句が怪我や故障である。怪我とは我が怪しい状態であり、故障は障りの故である。どちらも身体が原因ではない。身体を操作している精神の在り方の問題だ。

わたしたちは自分の身体に対して自信が持てない。そこで医学的な基準値に頼ることになる。ところが身体はヒトとして普遍的共通性を持つと同時に独立的個体差を有している。必ずしもそれらの数値が正しいとは限らないのだ。

 精神による頑張りから身体を解放することで身体の声を聞くことができる。どうすればいいか。まずは芭蕉の「松のことは松に習へ」に倣って「身体のことは身体に習へ」であろう。以下の句もまた鍛錬の成果を詠んだものだ。
 
 羅をゆるやかに着て崩れざる 松本たかし

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