俳句とからだ 23
連載俳句と“からだ” 23
愛知 三島広志
受容と表現
近所の公園の百合が満開である。百合の魅力は色彩と形態、そして芳香にある。人はそれらを身体に受容することによってさまざまな反応をする。色や形は目から、匂いは鼻から、涼やかな冷気は皮膚から、球根を食せば舌から味を受容する。般若心経の眼耳鼻舌身とはこの受容器官(感覚器官)のことだろう。
生物の行動は刺激に対する反応だという考え方がある。しかし単純な生物と異なり、進化した生物は複雑な反応をする。それは生育の過程で様々な記憶が身体に蓄えられ、刺激と反応という反射体系を複雑に変化させるからだ。
人はヒトという動物として生まれ、教育や体験を経験化する自己教育によって人間となる。他人や社会からの一方的な強制教育だけでは洗脳と変わらない。人間とは自己教育できる生物である。ヒトは自己教育できるようになって人間になるとも換言できる。
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十
百合におう職場の汗は手もて拭く 西東三鬼
身体は現象を刺激として受容し、判断し、表現する器である。しかし身体は透明なガラスのように現象を通過させることはできない。某かの色を付け、形を歪ませ、量や質を変化させて表現即ち現象化する。同じ百合を見ても多様な表現がされるのはそのためだ。
繰り返しになるが身体とは受容し判断し表現する器である。もっとも受容・判断・表現は身体に限られたことではない。経営では市場を調査(受容)、経営状態の把握(判断)、新製品の開発(表現)を行い、医師の診察、診断、治療もまさに同じことである。情報はこのように身体(会社も医師もその延長)という器を通過して情報として生きてくるのだ。
わたしは身体に関わる仕事をしている。何故なら人の存在はいつかは捨てなければならない身体そのものと考え、興味を抱いたからである。スポーツや舞踊のように身体が前面に出ようと、詩歌の如く深奥で支えていようと、身体の存在がなければ人の存在はない。意外に感じられるかもしれないが怪我や病気も身体の表現のひとつである。
身体と俳句にどのように関わっていくか。これが論のテーマだった。けれども結局踏み込めないまま約二年が経過した。ただ徒に麓を徘徊して時を過ごしてしまった。この先をどうするか。たまたま全国のつどいで臨席した編集長と話し合い、次回からは別の視点でもっと読者とともに身体と親しんでいけるように、実際に身体管理に役立つような内容を盛り込んでいく計画をしている。今しばらくお付き合いを。
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