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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 19

連載俳句と“からだ” ⑲


愛知 三島広志

身体を超えて

立春を過ぎた。これからの寒さが本番となる。今日は朝から趾尖が冷たい。予感通り、午後になって天から雨混じりの雪が降り始めた。この地方に降る雪は北陸から関が原を越えてやってくる。今日の雪はとりわけ大粒の牡丹雪だ。古びたマンションのバルコニーに雪が滂沱と降り注ぎ、みるみるうちに積もりだす。

雪雲に包まれた「蒼鉛いろの空」を見上げていたら、「あめゆじゆとてちてけんじや」という言葉が呪文のように湧いてきた。宮沢賢治の『春と修羅』に収められた「永訣の朝」に出てくる「雨雪を取ってきて下さい」という妹の懇願。死に臨む妹とし子の印象的なリフレーンがこの粗鋼な詩を崇高な絶唱として昇華している。

ビルに区切られた空を眺めながら幾度となく「あめゆじゆとてちてけんじや」と繰り返す。空の微塵のように「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」。それは宇宙の剥落のようだ。

 肩落とすやうに日暮れて牡丹雪 岡本眸

バルコニーに置いたシマトネリコの鉢植えに蜜柑が刺してある。これは冬になって毎日、何度となく訪れる目白のためだ。一度に数羽やってくる。また、下に撒いたパン屑は腹を空かせた雀たちのため。まだ背中に茶色い線のある小雀が遊びにくる。

激しい雪の中、なぜか今日は目白が木を降りてパン屑を雀と取り合っている。小鳥たちの鬩ぎ合いの痕が雪の上に刻まれる。降り止まぬ激しい雪はその小鳥たちの足跡をも覆っていく。そしていつしか鳥たちの影はない。

窓外の真っ白な世界に目は塞がれ、しんしんと降る雪の静けさに耳は萎える。雪と一緒に静寂な時間が空から降り注ぎ、身心は次第に研ぎ澄まされ、先鋭な感覚だけの実体と化してゆく。肉体や精神などあらゆる猥雑物がわたしの身体から消滅していく。今、ここに実在するもの、凍てつつもかろうじてここにあるものこそわたしの身体そのものだ。

この静謐かつ怜悧な実感は雪が生み出したものだ。純白の雪が覆い尽くしたものは空間と時間、そしてわたしそのものだ。この不可思議な身体感覚。この身体を超えた身体感覚。趾尖に残る幽かな冷たさのみが自己を危うく保っている。
これと同様の状態を次の句の作者も経験したに違いない。もっと深く、さらに真摯に。

 落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨

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