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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 17

連載俳句と“からだ” ⑰


愛知 三島広志

カンとコツ

 ものごとをなす要領をカンやコツという。カンは感・観・勘などと漢字表記できる。感はものごとを感覚的に把握すること。あの人はいい人だろうと何となく直感するのがこれである。第一印象は結構本質を見抜いていることが多いが、それは直感という閃きのなせる技だ。

観は直観である。上辺を卒然と感受する直感に対して、直観はものごとの本質をつかみ出すことだ。しかしその把握は決して哲学的思惟の結果ではなく、思惟を深めていったあと、天啓のように出現して知的に把握する。アルキメデスが浴槽を溢れる水から「ユリイカ」と叫んで浮力の原理を見出したのはこれだろう。

勘は当てずっぽう。閃きの才能である。もっとも山勘などあまり良くない印象もある。サイコロ賭博の「半か長か」もこれに含まれる。

いずれにしても、カンとは感受する能力が磨きこまれて瞬時にものごとの判断する行為だ。

それに対してコツの漢字表記は骨である。骨は技術の要領を直覚的に把握してそれを実現することだ。「俳句のコツを掴んだ」とは、自分にとっての俳句とは何かを直感、もしくは直観し、作句の要諦を身につけ、実際に俳句を生み出していく。その時、「俳句のコツを掴んだ」などという。

コツとは文字通り骨の使い方である。身体を操作する器官は筋肉であり、筋肉が動かしているものは骨である。骨を如何に上手に操作するか。それがコツなのだ。筋肉はあくまでもエンジンやブレーキに過ぎない。けれども筋肉は意識しやすく、骨は意識できない。それでどうしても筋肉に無駄な力を入れることになる。

自然に直立するとき、下半身は大腿骨や脛骨に委ねている。この姿勢なら長時間立っていても疲れない。試みに相撲取りのように四股の姿勢を取ってみればそれがとても大変であることが分かる。体重を筋肉に委ねた結果、膝や太腿が悲鳴を上げているのだ。それは鍛錬であってコツではない。

カンやコツはあくまでも技術という道具である。それを何の目的でどのように用いるのかは全く別の問題となる。

 初空や大悪人虚子の頭上に
 大いなるものが過ぎ行く野分かな  高浜虚子


 近海に鯛睦居る涅槃像
 枯草の大孤独居士ここに居る  永田耕衣

大悪人虚子の自在な息遣いや大孤独居士耕衣の禅的直覚の世界には俳句のカンもコツも秘められている。しかし、その世界は遥かで深い。俳句は小手先の芸ではない。カンもコツも身体を通じたもの、畢竟、人生の発露なのだ。

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