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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 16

連載俳句と“からだ” ⑯


愛知 三島広志

食と胃

わたしたちは「いのち」ある生物である。生物の特徴は個体保存と種属保存であり、これは人間も犬も桜も苔も芋虫もアメーバも関係なく、全てに共通するものだ。

個体保存と種族保存が生物に共通の特徴であるならば「いのち」を考えるとき、無理にヒトにこだわる必要はない。素朴な生物体をモデルにした方が分かりやすいだろう。そこでアメーバを例に考えよう。

アメーバは一個の細胞だけの生物である。彼らの生涯は環境から餌を探し出して捕捉・摂食し、不要なものを環境に排泄することと、危険を回避して自らが他の生物の食とならないよう生きていくことである。したがって食糧と安全の確保のために彼らの生のほとんどが費やされる。これを個体保存という。さらに生物は子孫を残す。配偶者を探すために個体のいのちを捨てることさえある。これが種族保存だ。ただし、アメーバは細胞分裂で子孫を残すので配偶者は必要ではない。

さて、そこからもう少し考えを発展させよう。単純な生物は個体保存という本能的欲求を満たすためにのみ生きていると推測できる。しかし、人間はそうではない。食べるだけでは何か虚しいものだ。人間は何らかのかたちで、この世に生まれた意味、あるいは生きてあることの証が欲しくなる。つまり人間は本能的欲求を超えた欲望や価値を満たさずにはおれない生命体なのだ。

そうした欲求は食べるという個体保存のための本能的欲求が生命体の進化とともにより複雑に深化、変質していったと考えられる。具体的に言えば知識が欲しい、本質を知りたい、自己を表現したい、金品が欲しい、人から認められたい、地位が欲しい、恋人が欲しい(これは種族保存にも関係する)などである。こうしたさまざまな欲求や欲望、希望や願望、あるいは野望などが内側からあたかも食欲のように生じてくる。人間的欲求はこうした生物本来が持っている個体保存のための本能的欲求が延長し、変節、拡大したものではないだろうか。

本能的欲求の根本にある象徴的な臓器が「胃」である。実際、胃は消化管随一の大きな袋であり食物を豊富に貯め込む器である。動物は本能で制御されているため一定量を得ると満足するが、人間は「ケーキは別腹」などと嘯いてどれだけでも食べる。胃は果てしない欲望にいつも飢えている器なのだ。
本能の制御を離れた人間の欲望には制限がない。これがどこまでも肥大し過ぎれば地球の危機を生むのは自明のことだ。

 殖えてまた減りゆく家族雑煮食ふ  大橋桜坡子

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