俳句とからだ 15
連載俳句と“からだ” ⑮
愛知 三島広志
歩く
歩行は生物の代表的な移動手段である。ヒトは寝返りからうつ伏せになり、四這いから立ち上がる。そしてついに二本足で歩き出す。赤ん坊が初めて立ったときの美しさは、身体を貫く軸が偶然醸し出した絶妙の安定を見せていることによる。しかし安定だけでは歩けない。
歩行には安定の崩壊と回復という矛盾した要素が必要とされている。歩くとき片方の脚が支持脚となって身体を支え、もう一方が遊脚として宙に浮く。ここにバランスが要求される。普段何気なく歩けるのは、バランスを右足(支持脚)に崩しつつ左足(遊脚)を前に出し、バランスを回復しつつ左足(次の支持脚)を地に着ける、と同時に次のバランス崩壊に滑らかに移行するという複雑な左右交互の動作を無意識に行っているからだ。
一旦崩壊した安定を回復するためのバランス感覚の未熟な幼児は、転ばないように両足の感覚を広げたまま足裏を床から離さないように慎重に歩く。これは転倒を避ける相撲取りの摺足にも似ている。
介護予防運動指導員の転倒予防講習で興味深いことを学んだ。高齢者の転倒は、下肢筋力の低下(筋肉の強さ)・バランスの喪失(小脳の反射)・歩行技術の後退(下肢の反射)のいずれか、もしくはそれらの複合から発生するという。したがって、脚力が低下し歩行技術の衰えた高齢者は、転倒しないようにバランスに気を使って歩こうとする。これだと自ずと幼児のヨチヨチ歩きに似てくる。
だが、人にとって歩行は単なる移動手段ではない。動物の場合、歩行は餌や水、異性などに身を運ぶために行われる。あるいは危険から逃避して安全を得るため。では人間はどうだろう。動物と同様、生存に関わる目的に向かって歩く。さらに、思索を深めるため、精神を開放するため、健康のためや痩せるためなど、生存から離れた目的でも歩く。そのうえ、歩くこと自体を楽しむこともあれば、内なる力に衝き動かされて歩く場合もある。
俳諧の系譜に連なる多くの者は「漂泊の思ひやまず」人生と直接するように歩いてきた。あるいは歩かされてきた。西行然り、宗祇然り、芭蕉然り、山頭火然り。山頭火は「歩かない日はさみしい/飲まない日はさみしい/ 作らない日はさみしい/ひとりでゐることはさみしいけれど、/一人であるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない」という日記を残している。はたして人を歩行へと衝き動かす根源とは何だろう。一体人は何を求めて歩くのだろうか。
どうしようもないわたしが歩いてゐる 山頭火
| 固定リンク
「俳句とからだ」カテゴリの記事
- 俳句とからだ 190 人にはどれほどの土地がいるか(2022.08.25)
- 俳句とからだ 189 表語文字と表音文字(2022.08.25)
- 俳句とからだ 188 諸葛菜(2022.08.25)
- 俳句とからだ 187 平井照敏編『新歳時記』(2022.08.25)
- 俳句とからだ 186 西川火尖句集『サーチライト』(2022.08.25)
コメント