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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 12

連載俳句と“からだ” ⑫


愛知 三島広志

みる

 日本語はその多くを中国語に委ねてきた。文字を持たない民族であったので漢字の輸入は必至だったのだ。したがって今日使用されている日本語の中には実に多量の中国語が存在する。

漢字の発音を字音と言う。いわゆる音読のことである。それは中国語が伝来して国語化したものであり、中国語の発音が継承されている。逆に漢字を日本語に訳したもの訓読という。

わたしたちが日常用いる文字はアルファベットを除けば漢字とそこから派生した平仮名と片仮名である。漢字は一字が意味を持つ絵文字や象形文字を起源とする表意文字だ。日本語の特徴は漢字から表音文字を作り出したことだろう。それが平仮名や片仮名である。

漢字は日本文化の記録や伝達という点で実に貢献してくれた。しかしそれだけではない。漢字は大和言葉(外来語到来以前の日本語)をより分析的に理解整理する役割も担ってきた。

例えば「みる」という言葉。「みる」とは「感覚器官の目を通じて認識すること」である。これを漢字に置き換えると実に多くの当て字ができた。辞書から列記すると見・視・診・看・観・覗・窺・望・顕・瞰・覧・監・占・鑑・査・閲・省・督・相。その他にもたくさんあることだろう。「みる」の当て字に特徴的なことは感覚器官である「目」あるいはその変形である臣(伏目)が多く使われていることである。

しかし、私たちが「みる」というとき、実際には視覚のみにとどまらず、より広範な感覚も表している。たとえば、湯加減や味加減まで「みる」という。実際に湯加減を調べるのは触覚であり、味を感知するのは味覚である。

推測するならば、身を持って情報を受容しようとするとき、代表的な感覚である「みる」を用いているのではないだろうか。見て、試みて、吟味して、鑑賞して、反省する。これら一連の行為を「みる」と表現したのだろう。

先人は「みる」に様々な漢字を当ててきた。その試みによって「みる」ことの詳細な意味が明確になり分析的に理解を深めることができた。「情的」で曖昧とされる日本語を「論理的」に見直す機会となったのだ。

しかし敢えて「みる」と平仮名で表記すれば、漢字の特徴である一対一対応的な詰屈さを超えた多様で曖昧で混沌とした原初的身体感覚を暗示することもできる。こうして現代の日本語表記には「論」や「情」などの複雑な諸相が多重に存在し豊かさを構成しているのである。それはまた身体の特性である混沌の表出でもあろう。

見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く  日野草城

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