游氣風信 No.169 2004. 1. 1
訪問リハビリ雑感
平成12年(2000年)4月に介護保険が施行されてから四年近い年月が流れました。
この制度は老人福祉の中の介護分野を社会保険として独立させたものです(実際には保険料と公費の折半)。したがって国民が義務として保険料を納入し、権利として平等に介護支援を受けることが可能になりました。
それ以前の介護は公費(税金)を用いた措置として行政の判断に基づいて個別のケースに対応していました。しかも老人医療と老人福祉とで分担していたため、その境界があいまいで、なおかつ行政の窓口が複雑でどこに依頼したらよいのか不明瞭、利用者にとって大変不便なものでした。
今回、介護保険において介護支援専門員(ケア・マネージャー)という専門家が生まれました。彼らは介護の必要な方に緻密に対応し、行政や業者の仲介をしてくれます。ケア・マネージャーに中心的役割を担わせることで介護支援の窓口が一体化され非常に分かりやすいものになりました。
ケア・マネージャーがプロとして介護制度の申請や保険費用の管理を担当することでわたしたちは安心して制度を利用することができるのです。彼らは個々の状況に応じてサービス内容を医療・福祉・介護から選別してケア・プラン(介護計画)を組み立ててくれます。
介護保険は40歳以上の国民が保険料を納めることで介護への関心を高めると同時に、福祉がお上から与えられるものではなく、国民の権利であるという意識を養成する効果あります。
介護保険制度によって 家族は介護という家庭内に幽閉されていた困難な営みを外部化することが可能になり、時間的にも精神的にも随分解放されるようになったのです。
無論、問題点や改良点は山積みです。介護認定の公平性の難しさ、痴呆の問題、なにより早くも不足が露呈した財源とそれに派生する応益負担(利用に応じた費用負担。現在は一割)の値上がりの可能性。介護施設による要介護者等の抱え込み。まだまだ多くの問題点は指摘されていますが、施行以前と比較すると大変な進歩です。
わたしが訪問リハビリ・マッサージという医療を通じて介護や福祉に関わるようになったのは二十代半ば、この仕事についてまもなくでした。ですからかれこれ二十数年経つことになります(1980年・昭和55年頃)。その間数十軒のお宅に伺いました。
当初、在宅での介護はほぼ全面的に家族に委ねられていました。もっと言えばその重責のほとんどが妻か嫁にのしかかっていたのです。
また当時老人の医療費は無料でしたから社会的入院という名目で病院に長期間留まっていた方も多かったのですが、それも次第に難しくなり、どんどん家庭に戻されつつある頃でした。
当時は介護とかリハビリという言葉も一般的でなく、家族が手探りで身体を拭いたり、闇雲に支えて歩かせたりしていたのです。
終日、湿って垢のこびり付いた布団に横たわり、世間体が悪いからと日の当たらない納戸に押し込まれ、まるで倒れたことが罪悪のように恥じて暮らしておられました。老々介護という言葉はありませんでしたが老夫婦だけでの難渋した日々を送るお宅が多かったと記憶しています。
介護は一部の例外を除けば、ある日卒然と寝たきりの家人を抱えるところから始まります。元気だった家族が全面的に世話をしなければならない要介護者となるのです。経済の柱であった人も、精神的要だった人も、将来を頼りにしていた子供も・・・病気は容赦ありません。
家族は何をどうしていいのか途方にくれるばかりです。医療も福祉も介護も法律も何もかも分からないことばかりです。その不安と苦労たるや想像を絶するものがあります。
服の着せ替えや食事の与え方、入浴、排便、体調のコントロール。意思の疎通。社会資源などの制度の利用。あらゆることを手探りで始めなければなりません。考える猶予は無く、その日から必死の毎日を模索しながら過ごすことになるのです。そして介護がいつまで続くのか誰にも分かりません。この見通しの無さは相当な重圧です。そして行政に相談たくても窓口が分かりません。
医師は親身になって往診はしてくれますが、介護の知識はありません。病院のケースワーカーや市役所の民生委員は制度の相談に乗ってくれますが、オムツの当て方などの技術に関しては門外漢です。親戚は忙しい最中にやってきて言いたい放題騒ぎ散らかしてオムツ一つ交換することなくさっさと帰ってしまいます。
当時はそんな状態で、家族もそれを助ける周辺の人たちも本当に手探りで介護をしていたのです。
家族はそんな中で服の着せ方や脱がせ方。オムツの当て方。食事の摂らせ方。
体位交換。車椅子への移動。手足の拘縮予防の運動法。歩行訓練。さまざまなことを実践的に身に着けていきました。
介護は24時間体制でしかも年中無休です。
その上いつまで続くのか分かりませんからゴールは見えません。旅行どころか買い物さえもままならない毎日を過ごします。精神的にも経済的にも身体的にも限界点・臨界点を際どく生きてこられたのです。
そしてそんな暮らし振りにやっと慣れができた頃、広報などで市が行っている介護教室の存在に気づきます。そこで何か参考になることはないかと期待をもって出かけるのです。何か役に立つ技術や知識が得られるに違いないと。
しかし結局はがっかりして帰宅します。なぜなら、せっかく時間と交通費をかけて参加してもそこで学ぶ技術はすでに暗中模索の中から獲得したものでしかなかったからです。あるいはあまりに一般的で個体差を埋め込むだけの深みをもっていなかったからです。
これは仕方の無いことです。多くの人に教えるには基礎的なことが重要です。
しかも個々の要望に一つ一つ応えることは不可能ですから。
その上、家族が日々の困難の中から必要に迫られて見つけ出した技術は既に専門家のレベルに至っています。日々24時間、年中無休で実際に介護している人を専門家と呼ばずして誰を専門家と呼べばいいのでしょう。やっている方法は専門家から見て正しくないかもしれませんが、介護者と要介護者との間で試行錯誤の果てに、それは見事な技術に昇華されていたのでした。
このように介護は家庭で困難の中で模索しながら行うものだったのです。そこにあるのは閉塞と疲弊と絶望でした。(もっとも介護を通じてある種の充実感や達成感を見出す方も数多くありました。このような方は実に生き生きとしてこちらが励まされます)
それから何年か経て、老人福祉制度が充実し、市町村毎の社会福祉協議会を中心にホームヘルパーという介護の専門家が登場します。ほぼ同時に医療機関からも訪問看護のために看護婦さんたちが動き始めました。県や市町村の保健婦の活動も活発になりました。
彼女たちが定期的に家庭訪問して身の回りの世話を助けるようになって、介護事情が激変します。もちろん良い方へ車輪が回りだしたのです。
在宅だけではありません。デイサービス(日帰りで施設に出かける、昼食や入浴、リハビリやゲームなどを行う)やショート・ステイ(数日間施設に預けることで家族の旅行や入院などの緊急事態を助ける)などの施設介護も充実してきました。家庭に介護の専門家が出入りするだけでなく、要介護者を家庭外へ委ねることで家族の負担を大いに軽減することが可能になりました。
参考:
「1989年、8法改正従来のあり方を総決算
市町村ベースの福祉形態の展開を法の上で改めさせる。
・県レベルから市町村レベルへの責任の移行
・在宅サービスが法的に位置づけられた。
~通所型のデイサービスからホームヘルプまで法的根拠を持つようになる。措置制度の中に組み込められる。~計画の義務づけ。」
(http://leong2000.at.infoseek.co.jp/保育研究の広場より引用)
現場に光明が差し込んできたのは、こうした法改正の動きが現実化したものなのでしょう。ところが一匹狼で横との連絡なしに在宅リハビリ・マッサージに関わっていたわたしは法律や制度の変革には気づきませんでした。ただ要介護者のお宅での予期せぬ大きなうねりに直面し、大変驚き、感動したのでした。
そして何人かの介護専門家と知り合いになって、より積極的に訪問マッサージに参画するようになります。
その頃の介護状況の革命的変化は個人的な印象では後の介護保険導入時の比ではありませんでした。介護保険は制度こそ新しいものですが、現場での変化はその当時の延長に過ぎないのです。
一番大きな変化は頻繁に介護福祉士(ホームヘルパー)や訪問看護士が訪問するようになったことですが、そうした人的援助以外に介護の補助具の導入が大きな助けとなりました。
まず、それまで床に布団で寝ていた要介護者が病院と同じ介護ベッドを用いるようになりました。福祉からの貸与もしくは援助による購入やリースが可能になったのです。最初は手動式でしたが、すぐに電動式が普及しました。これで身体介護がずいぶん楽になりました。年老いた家族でも労無く要介護者の上体を起すことが可能ですし、何より本人もボタン一つで好きなように坐位に移向することが可能になりました。
介護ベッドはベッド自体の高さも上下しますから、食事の介助、着替え、清拭(せいしき・身体を拭き清める)などの作業が楽になり、介護者の腰痛の予防にも役立ちます。
高さが自分で調節できるので本人の立ち上がりもやり易くなり、車椅子やポータブルトイレへの移動も能力さえあれば少しの介助で可能となりました。
さらに褥瘡(じょくそう・寝だこ)予防のエアマットの普及。これは肉眼では見えない細かな穴の開いたマットに絶えずポンプで空気を送り込むものです。
このマットに寝ますと身体が宙に浮いたような状態になりますから体圧がかからず血行不良による褥瘡ができにくいのです。これで寝たきりの家族を世話する家庭は二時間おきの体位交換という激務から開放されました。
簡易リフトも重宝です。重い要介護者もこれがあれば楽々車椅子に移行できます。入浴も大変楽になりました。
先ほど、垢にまみれて寝ていたと書きましたが、ヘルパーの参画で今日ではどの要介護者も清潔に保たれています。彼女たちは要介護者の身体をタオルできれいに拭くのですが、特にベッドの上で洗面器とペットボトルを用いて頭や足を洗うという技術には感心しました。
それまで寝たきりの方の寝床には剥離した皮ふが雪のように積もっていたものでしたが、ヘルパーたちの活躍でみなさんいつもぴかぴかつやつやした手足になりました。シーツもパジャマもぱりっと清潔です。
身体の清潔のためには1に入浴、2にシャワー、3に清拭です。
ヘルパーがいかに一生懸命清拭を行っても入浴やシャワーにはかないません。
体調さえ許されるならぜひ入浴したいものです。要介護者の気持ちもゆったりできます。しかし入浴はとても大変な行動です。もしその方が入浴できるなら、おおよその生活能力は確保できていると言い切れるほどの一大事業なのです。
しかも仮に身体能力があっても家庭によっては車椅子が入れない風呂場も多いので、入浴は最も困難な生活支援のひとつでした。
ところがその頃、車に浴槽を積んでの訪問入浴が始まりました。訪問は男性職員一人と女性職員二人という組み合わせが一般的です。女性の一人は看護士で、入浴前に必ず血圧や脈拍、体温や呼吸数どのバイタルチェックをします。
訪問入浴は部屋に浴槽を運び、お湯をいれてきれいに洗ってもらうので、要介護者の一番人気です。難点はどうしても経費がかさむので月に数回しか頼めないことでしょう。一回12000円位かかります。一割負担で1200円。それでも三人がかりの大変な仕事ですから決して高いとは言えません。
それを補うのが充実してきた介護施設。日帰りで要介護者を預かり、昼食、入浴、リハビリなどのサービスをしてもらえます。これで家族に時間的余裕が確保できました。
駆け足で過去を振り返ってみました。
さまざまな問題を孕みながらも、介護保険制度は重要な制度として国民に認知されてきたことでしょう。これからも紆余曲折を経て、より良い形に発展してもらいたいものです。
後記
介護とはつまるところ食べさせて、排便の世話をして、清潔を保つことです。
親が赤ちゃんにしたのと同じことを子供が親にする。これが通常の介護です。
大きな違いは親は赤ちゃんのように可愛くないこと、身体が大きいこと、意思表示が泣いたり笑ったりだけの赤ちゃんと異なり、人生経験を尊重しなければならないことです。食べ物だってミルクだけとはいきません。そこにさまざまな問題が生じます。人間関係もこじれます。とても一筋縄で片付く問題ではないのです。
それを家族だけで引き受けてきたことに問題がありました。介護のために自分の人生を終えてしまう。いつまで続くのか分からない。夜昼なく起されて世話をする。こうした介護地獄からの解放されたいのです。
そこで密接な家族という閉塞空間に他者が入ることによって逆に深々と息がつける空間が開かれるということは確かなのです。子育ては当の昔から保育園や学校に外部化されていますから、それを介護にも広げることが必要であると社会の意識が変わったのです。
今後、好むと好まざるとに関わらず、半数の人は介護の世話にならなければならないといわれます。たとえ期間の長短はあったとしても。
家族が家族であることの悲劇。これをいささかでも救済してくれる介護保険であって欲しいと願います。それを育てるのはわたしたち国民の義務とも言えます。
(游)
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