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2011年8月20日 (土)

游氣風信 No.172 2004. 4. 1

はつ夏の季語

   ・・・初夏の歳時記・・・

 爽やかな初夏となりました。今月は初夏の気分一杯の季語と俳句を集めてみましょう。それらの俳句によって季語という歴史に練られた言語が、いかに身体に爽快感を与えてくれるか実感できると思います。

 季語は季節の意味を担った言葉ですが、歴史を超えて多くの人に用いられているうちにある種の気分を醸し出すようになった特殊な言葉です。

 もっとも歴史の風雪が逆に手垢をこびり付かせてしまい、季語とは意味によって現実が束縛されるという古臭い、言い尽くされた言葉であるとも受け取れます。

俳句を作る人たちは歴史的言語としての季語に新たな自分自身の視点を付加して、季語のいのちの再生を繰り返したいという困難なことを願っているのです。あえてその困難に立ち向かうところに俳句の面白さがあります。そこに言語と現実と心の軋みが生じるのです。俳句は作るのではなく「ひねる」というのはそんな情況を代表しているとも考えられます。

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 歳時記において初夏は夏に分類され、立夏から入梅前の頃をさすようですが、実感としては春から夏への移行期、ちょうど四月中旬から五月の初めの頃の感じです。ですから初夏を表す季語の中には春に分類されるものもたくさんあります。

 季語はあくまでも約束事の指標です。現実の自然などが約束事に勝ることはいうまでもありません。初夏(夏の季語)に雪(冬の季語)が降ったり、氷(冬の季語)の脇にタンポポ(春の季語)が咲いたりもします。このように現
実は歳時記よりずっと複雑です。

 それなのに何故季語を大切にしているのでしょうか。それは文芸という「遊び」の中でのルールだからです。創造は無限に広がります。そこに季語がある種の核心や安定を与えてくれるのです。さらに深みも加わります。ですから創造の世界では現実よりも季語という制約が先んじているということもあるのです。その辺りの矛盾が詩的因果関係を生み出し、俳句の世界を広く深くしてくれるのです。

 では、身近な初夏の季語を見ていきましょう。

初夏

 春の終わりから夏の初めの頃。春ののどかさと、夏の勢いがほどよく配合されて心地よい。一年のうちでも最もすごし易い気候である。

初夏や蝶に眼やれば近き山 石鼎
初夏に開く郵便切手ほどの窓 朗人

青嵐

 青葉の頃に吹き渡る風。強い風が草や青葉を激しく揺さぶる爽快な若々しさを感じる。

夏嵐机上の白紙飛び尽す 子規
梳る髪の根熱し青嵐 悦子

薫風

 湧き上がる風に青葉の香りが立ち上がる。青嵐と同じことであるがこちらの方がよりやさしい感じ。風薫る五月などという常套句にもなっている。

薫風や老いてもうたふ応援歌 ひろし
流離の詩胸に愉しき薫風裡 吐天

 地中や岩の間から湧く水が溜り、池を作る。清涼な感じがする。年中あるが、夏の季語。その爽やかさはまさに初夏から夏のもの。

泉への道後れゆく安けさよ 波郷
草濡れてはたして泉湧くところ 正江

清水

 泉は湧き出て溜まっているが、清水は流れている。水中まで日が差し込んで網のように揺らめく様はうつくしい。

清水のむ底まで透るさびしさに 白葉女
すいすいと杓はしり湧く清水かな 爽雨

夏燕

 燕だけなら春の季語。南から渡ってくるツバメと重ねるように春の到来を喜ぶ。しかし最も生き生きと飛び交う燕は夏燕である。人家に営巣して子育てに余念がない。

むらさきのこゑを山辺に夏燕 蛇笏
かはらざるものに川あり夏つばめ 占魚

白鷺

 農村ならどこでも見かける身近な鳥である。青田にすらりと立つ姿は美しい。大型の青鷺もいる。

白鷺の佇つとき細き草掴み かな女
青鷺のみじんも媚びず二夜泊つ 菟絲子

 海鵜と河鵜がいる。鵜飼に用いるのは海鵜。大河の水面を擦るように飛んでいる姿は矢のようである。

鵜が寄りて濡身をさらに濡らしあふ 亘
波にのり波にのり鵜のさびしさは 誓子

葉桜

 花が散り始める頃から徐々に葉がでてくる。葉桜の勢いも鮮烈さも花に負けず魅力的。

葉桜の中の無数の空さわぐ 梵
葉桜や洗ひちぢみし児の帽子 昭

柿若葉

 柿の若葉のつややかな緑は若葉を代表する。農家ならどの家にも数本の柿の木が植えてあり初夏を彩る。

柿若葉豆腐触れ合ふ水の中 櫂
言ひのこす用の多さよ柿若葉 汀女

新樹

 元禄時代に嵐雪によって「煮鰹をほして新樹の畑かな」という俳諧が作られている。意外に古い季語。新樹は若葉に輝き若返った木のこと。

夜の雲に噴煙うつる新樹かな 秋桜子
新樹の夜星はしづかに飛びはじむ 誓子

若葉

 若緑の葉には生きる力を感じる。古木からも若葉といういのちが噴出する。

物言ふも逢ふもいやなり坂若葉 久女
父の遺影ありてくつろぐ若葉の夜 澄雄

青葉

 若葉より少し成長した頃の青々とした葉。若葉は若々しさを、青葉はその色
を特徴とする。

書庫暗し外は青葉の雨ながす 城太郎
いんいんと青葉地獄の中に臥す 甲子雄

新緑

 初夏の爽やかな緑の総称。単に緑とも言う。世の中が一新する潔さがある。
夏の盛りなら万緑。

摩天楼より新緑がパセリほど 狩行
子の皿に塩ふる音もみどりの夜 龍太

桐の花

 初夏を代表する淡い紫色の木の花。高いところに咲く。

大空やみなうつむいて桐の花 石鼎
桐の花髪のみだれし少女たち 八束

矢車草

 花びらの形が矢車に似ている。細く勁い茎の先に白や青や赤などの花が咲く。

さきがけの一花あそばせ矢車草 湘雨
清貧の閑居矢車草ひらく 草城

青麦(春)

 青々とした麦の生命力はこの時期の他の植物を圧倒している。一面の麦畑を見かけることは少なくなった。

眠りは祈り地へ直角に麦育つ 京子
青麦を来る朝風のはやさ見ゆ 直人

夏近し(春)

 春ではあるものの辺りにはすでに夏の気配が横溢している頃。夏への期待感がある。

夏近し眠らず夜の大欅 昭
荷をひらく一樹に夏の近むなり 道代

春惜しむ(春)

 気分は夏へ向かわず、去りゆく春を惜しんでいる。

窓あけて見ゆる限りの春惜しむ 蝶衣
とつぷりと暮れたる汽車に春惜しむ

雉(春)

 民家に近く棲む雉は今でもちょっとした郊外なら出会う機会が多い。喉を締めたような「ケッケッ」という鳴き声もたびたび耳にする。人をさほど恐れないためか桃太郎の家来とされた。雄は光沢のある羽根で美しい。

雉啼くや日はしろがねのつめたさに 占魚
雉子の眸のかうかうとして売られけり 楸邨

燕(春)

 春にきて秋には南へ戻る渡り鳥。流麗な翼で川面に集まる虫などを素早く獲る。人家に営巣し、子育ての様子が観察できるので古来より親しまれている。

つばめつばめ泥が好きなる燕かな 綾子
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 草田男

雲雀(春)

 以前は高いところで一日中啼いていたが、この頃あまり耳にしなくなった。
ヒバリが垂直に飛び揚がるさまは地の気が空へ向かって発揚していくようでいかにも生命の勢いを感じさせる。

わが背丈以上は空や初雲雀 草田男
雲雀より空にやすらふ峠哉 芭蕉

蜂(春)

 春から夏にかけて蜂の生活は忙しそうである。よく見かけるのはミツバチとアシナガバチ。藤棚などには黒い大きなミツバチの仲間のクマバチやマルハナバチがくる。スズメバチをクマバチと呼ぶ場合もある。近年は小型のスズメバチの類が町に住むようになってきた。蜂の巣は夏の季語。

狂ひても母乳は白し蜂光る 静塔
蜜蜂は光と消えつ影と生れ 翔

ライラック(春)

リラの花とも。初夏を代表する淡い紫の香ばしい花。

舞姫はリラの花よりも濃くにほふ 青邨
薄日とも薄ぐもりともライラック 杜藻

躑躅(春)

 つつじが一斉に咲くと庭が盛り上がるようで壮観。その明るさは輝くよう。
一般に目にするのは霧島躑躅。

満山のつぼみのままのつつじかな 青畝
山つつじ照る只中に田を墾く 龍太

藤(春)

 藤棚に整えられた藤房は、庭園の景観と相まって美しい。しかし、野生の藤の荒々しさも見事である。藪の中に咲く藤は力強い。

白藤や揺りやみしかばうすみどり 不器男
藤の昼膝やはらかくひとに逢ふ 信子

豆の花(春)

 豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)など豆の花の総称。ひらひらとした花弁に黒い点が印象的。

そら豆の花の黒き目数知れず 草田男
豌豆の花より走る小猫かな 舗土

紫雲英(春)

 げんげともれんげとも言う。田植え前、一面に植えられたピンク色のれんげ畑は黄色の菜の花畑と共に春の風物だったが、化学肥料の普及とともに姿を消した。しかし近年見直されてまたあちこちに見かけるようになった。

げんげ田の空にとどきし夕汽笛 日郎
踏み込んで大地が固しげんげ畑 多佳子

後記

 初夏も過ぎればすぐに梅雨です。ご自愛の上お過ごしください。

(游)

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