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2011年8月20日 (土)

游氣風信 No.173 2004. 5. 1

指圧教室の変遷

 毎週土曜日の午前中、経絡に基づいた体操と指圧を中心にした勉強会をやっています。毎回数名の参加というこぢんまりとした集いです。現在は「増永静人を読み解く会」として『スジとツボの健康法』を読みながら学習を進め、指圧の腹臥位の実技練習が中心になっています。(現在は休止)

 最近、ある人から「どうして指圧教室をしているのですか」と尋ねられました。聞かれてすぐには返事ができず、はて、なんで漠然と惰性のごとく、しかし毎回楽しく指導しているのだろうかと思うに至り、あらためて来し方を整理してみることにしました。

 わたしと指圧の関わりは長く、高校生にまで遡ります。父の知り合いの妹で指圧の治療室を開業しているお宅に数日間お邪魔して基本的なことを学びました。それ以前に指圧の本は読んでいて多少の知識はあったのですが実際に習ったのはその時が初めてでした。確か高校一年の春休みのことです。

 なぜ、若い身空で指圧なんぞに興味を持ったのでしょうか。自分でもよく分かりませんが、友人の話ですと小学校の頃から人の腕を取って指圧したり、ポキポキ骨を鳴らしていたりしたようです。

 しかし一番の理由は部活で怪我をしたことでしょう。中学で所属した部活のバレーボールではしょっちゅう突き指をしました。高校は柔道部で捻挫や腰痛の繰り返し。それで治療法に関心を抱いたのです。

 ですから独学で指圧や健康体操の本を読んでいました。ただ実際どうやるのかが分からないために指圧の先生のところで教えていただいたのです。

 直接習ってますます興味を深めたわたしは、こうなったら学校の勉強は嫌いだし、成績も悪いので卒業したらこの道に進むと柔道整復(ほねつぎ)の専門学校の願書も取り寄せました。

 ところが「せめて大学くらいは出ておけ」という圧力が親や担任からかかりました。「ならば哲学か文学」と主張するわたしに、「そんな社会に出て何にも役に立たない学部は駄目だ、経済か法学にしなさい」というしつこい説得。

 結局、意志の弱いわたしは受験勉強をしなくても合格できる手ごろな大学に進んでしまいました。ですから専攻の経済学などに興味が湧こうはずがありません。もっぱら少林寺拳法ばかりやっていました。しかもありがたいことに少林寺拳法には整体の技もあったのです。

 そんな訳で学生時代はろくろく大学の教科書も開かず、いろいろな健康法や武術関連の文献を買い込んで乱読していました。少林寺に整体があるように武術と健康術の間には深い関連があるからです。

 大学の三年(1975・昭和50)の時、朝日文化センターで指圧の指導を受けました。その講座は30年経った今でも人気講座のようです。

 しかしそこでの集団指導方式に物足らなさを感じたわたしは、大学四年(1976・昭和51)の時、家の近くの治療院に併設された整体指圧教室に通ったのでした。

 すでに卒業に必要な単位は取り終えていたので、暇にまかせて教室に入り浸っていました。そんなわたしに呆れたのか、先生は三ヵ月後には他の生徒(主婦が主でした)に指導することを命じたのでした。実にいいかげんなものです。

 そこの先生はダスキンの創業者と親しく、ダスキンを販売する主婦に指圧の指導をしていました。そのため時折遠隔地からも泊り込みで習いに来る方がいたのです。ダスキンの初代社長とも何度かお会いしましたが、派手なスーツを着た愉快な方でした。手土産にミスタードーナツを持参されたことを覚えています。

 ですから指圧指導歴はかれこれ30年に及びます。鍼灸指圧の専門学校に入ったのは大学を卒業してからですから、それ以前から指圧を教えていたということになります。

 大学を卒業すると同時に中和理療学校(在学中に中和鍼灸専門学校に校名変更)という鍼灸とあん摩・マッサージ・指圧の専門学校に進みました。(1976・昭和51)

 専門学校に通いながら、指圧指導のアルバイトも継続していましたが、すぐにその教室の方式には飽き足らなくなってしまいました。極めてシンプルで一
般の方たちには学びやすいものだったのですが、わたし自身はそれ以上の学理や術理、哲学を学びたくなっていました。

 そんなわたしの意に適う指導者は医王会試圧研究所の増永静人先生以外には見当たりませんでした。

 増永先生を知ったきっかけは高校時代に指圧を教わった先生からの推薦です。いい本だからと増永先生の書かれた『家庭でできる指圧入門』という本を紹介されたのでした。

 そこで著者である増永静人先生の門を叩くことにしました。1977年(昭和52)23歳、鍼灸学校一年の時です。幸運なことに、この年、増永先生の講習会が名古屋で初めて行われたのです。

 以後数年間は時間の許す限り東京在の先生のもとに訪問し、大阪や名古屋で講習会があれば追いかけ、できるだけ直接謦咳に接して様々な理合や生命哲学を学びました。

 増永先生は京都大学文学部哲学科心理学専攻です。したがって日本の哲学の草分けで『善の研究』で知られる西田幾多郎博士の孫弟子に当たります。

そのためか先生の思想の中には西田哲学の根幹で禅的境地を哲学化した「純粋経験」の臨床応用と推測される「生命共感」という自他を超えた境地も示されていました。 

 増永指圧を端的に述べるなら「経絡」と「生命共感」と言えるでしょう。

 また、増永先生は指圧を医療体系全体から措定し直し体系付けると同時に、病気を命のありようから考えようとされました。

 さらに生命体を開放系として環境に開かれた存在として理解されました。こうした発想は人体は大宇宙に対する小宇宙であるという中国医学の基本的な考えであると同時に、後のエコロジーブームの先駆けともなりました。

                    ☆

増永静人略歴

大正14年(1925)、広島県に生まれる。
昭和24年(1949)京都帝国大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業後、指圧界に入り、実技を修める一方、古今の文献を読破して指圧療法の理論の確立につとめた。
日本指圧学校の第一期生であり、昭和34年(1959)から10年間、同校の講師(臨床心理学)を務め、日本心理学会、日本東洋医学会に属し、昭和43年(1968)より指圧施術所「医王会」を主宰。昭和56年(1981)
日本東洋医学会評議員に選出される。同年7月逝去。
晩年は国内にとどまらず、広く海外にて独自の経絡指圧を指導、普及につとめた。さらに自身の経絡の流れを感じながら、「経絡体操(イメージ健康体操)」を作り、これを作ることによって自分の「経絡指圧」は完成した、とし
てその普及につとめた。増永静人は、これらを普及することによって、世界中の人々に健康と幸せがもたらされることを望んだ。
昭和56年(1981)、享年57歳の若さで惜しくも天に召されたが、増永静人の蒔いた種は、日本に、海外に、着実に根づいている。(医王会編)

                   ☆

 増永先生と出会ってからの数年は、今思い出しても実に集中して勉強した年月でした。けれども残念なことに先生は1981年(昭和56年)57歳で早世されてしまいました。わたしが27歳の時です。

 それでその後は先生から学んだ本質論的な部分は包摂しつつ、いろいろな指導者(とりわけ気流法の坪井香譲先生にはお世話になりました。先生との出会いは後の游氣塾の系譜に繋がります)に学ぶという二十代を過ごしました。

 そして三十歳を少し過ぎた頃にはある程度物事が見えてきたので、あまり他の技術に目を向けることなく、経絡と指圧を深化するべく日々を過ごして今日まできたのです。

 治療関連の出来事を編年で示すと

1978年(昭和53年)24歳 マッサージ・指圧の免許取得 即開業
1979年(昭和54年)25歳 鍼と灸の免許取得
同年 在宅訪問リハビリ開始 脳卒中後遺症や神経難病の人を対象
1981年(昭和56年)27歳 増永先生逝去
1982年(昭和57年)28歳 坪井先生と出会う
1985年(昭和60年)31歳 今池に治療拠点
などが上げられます。

 その間に学んださまざまな技術は実に雑多ですが、以下に網羅してみましょう。もちろん全てが身についているわけではありません。

 操体、カイロプラクティック、キネシオロジー、AKA、皮内鍼、脉診流鍼、良導絡、テーピング、リンパマッサージ、野口整体、野口体操、気功、太極拳、ヨガ、分子栄養学、マクロビオティック、フットリフレクソロジーその他いろいろ。

 そんな中で途切れることなく継続してきたのが指圧教室だったのです。

 1981年(昭和56年)岩倉駅の近くの文化センターを借りて指圧教室を開きました(正式には運動調整法である操体法と一体化した操体指圧教室)。紹介で集まった主婦を中心にしたものでした。後に家賃の安い呉服屋さんの広間に移転しました。

 同じ年に、知人からの紹介で金山駅の近くの教室で指導開始。こちらは大きな学校法人が経営していましたから雇われ講師です。金山駅前の立派な総合ビルにありました。ここの参加者は紹介よりも新聞広告で知った見知らぬ同士の集まりでした。

 なぜかどちらの教室にもヨガの先生が何名か習いに来ていました。理由を聞くと、ヨガの指導者(沖正弘という著名な方)に指圧を学ぶなら増永さんの方式を習えと言われからだそうです。

 岩倉の教室はみなさん仲良しで、楽しくやっていましたが、それゆえに新しく参加しようという人がその輪に入れず弾き出されてしまうことがしばしばありました。そして事件がおきました。

 ある時、米国人の夫を持つ若い主婦が参加しました。年配の主婦たちはエイズの恐れがあるから嫌だと騒ぎました。当時、エイズという怖い病が発現して日本中がパニックになっていたのです。その頃、外国人即エイズという偏見が渦巻いていました。指圧教室も例外ではなかったのです。

 さらに折り悪く別の事情でリーダー格の人が臍を曲げてしまう事件もあり、岩倉の教室はあえなく閉鎖しました。

 同時に、金山の教室も経営母体の都合で廃止になりました。

 その時はすでに今池の治療室を出していました。そしてそちらにも少数の方が指圧を習いに来ていました。先の米国人の奥さんもそのうちの一人です。もっと勉強したいからと岩倉に来たのでした。ですから指圧教室が完全に無くなったわけではありません。

 そこへ、岩倉や金山の生徒でさらに続けたいという方が合流して今日の指圧教室に繋がるのです。

 指圧教室とは別に游氣塾としてもっと<身体>について学ぶためのコースも計画しました。さらにプロのための本格的なコースも何度か開催しました。

 プロコースの参加者のほとんどは国家資格取得者でした。またそうでない人も、その後鍼灸や接骨院の専門学校に進んで国家資格を取得し、現在は治療院を開業して活躍しています。

 游氣塾と称して指圧に拘泥しない講習は鍼灸学校の学生やすでに開業している先生方を対象として幾つか行いました。企業や市の行事への参加もありました。

 これらについては別の機会に述べます。

 さて、主婦を対象に細々と継続してきた指圧教室に大きな変化が生じたのは1990年頃、昭和から平成に変わったばかりの頃です。一人のアメリカ夫人の参加をきっかけに外国人が次々に顔を出し始めたのです。そのアメリカ夫人を連れてきたのが件のエイズ騒ぎの日本人妻でした。

 彼女がBさんを、BさんがSさんを、SさんがD君を、D君がA君をという具合にどんどん口コミで広がっていったのです(昨年、息子がニューヨークでD君と、トロントでA君と12年ぶりに会いました)。

 彼らは異国の地である日本の伝統文化のひとつとして指圧に関心を抱いたのでした。もちろん健康法としても。

 それまで火曜日の朝行っていた指圧教室に加えて、外国人からのリクエストにより土曜日の朝にも増やしたのでした。こちらはShiatsu classです。

 外国人が指圧にやってきたのは何よりも増永先生が著書や講習で諸国に撒いた種のお陰です。先生の著書『指圧』(医道の日本社)の英語版『ZENSHIATSU』(日貿出版)は30年を超えるロングセラーになっています。それによってShiatsuという呼称はかなり知られているのです。

 過去の『游氣風信』にも触れたのですが、わたしのクラスおよび治療に来た外国人は実に多くの国に跨ります。

 ざっと思い出すとアメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどの英語圏はもとより、オーストリア、スイス、ルーマニア、ギリシャ、ドイツ、スウェーデン、イタリア、ハンガリー、ベルギー、ポーランド、フランス、デンマーク、ブルガリア、チェコスロバキア(分裂前)、ペルー、メキシコ、台湾、ブラジル、南アフリカ、ミャンマー、中国、パプア・ニューギニア、トリニダード・ドバゴなどなど。

 外国人の参加によって大きな変化がありました。彼らは、特にアメリカ人はやたらと質問するのです。まるで5歳児のごとくに。わたしはそれらの質問にいちいち英語で答えなければなりません。「知らない」では許してくれないのです。

「あなたは先生だから答える義務がある」
そして
「われわれは生徒だからあなたに考える機会を与える義務がある」

これが彼らの言い分でした。ですから彼らは答えるまで容赦しません。

 そのため漠然と分かった気になっていた指圧や漢方の考えを整理することができました。これと同じことを増永先生もおっしゃっておられたことを今更ながら思い出さずにはおれません。

 しかしバブル経済が弾けてからあと外国人生徒はめっきり減少してしまいました。特に英会話学校の教師として来ていた人たちは仕事が忙しく指圧教室まではなかなか足が延ばせなくなったのです。

 何よりアメリカの若い人が減りました。彼らの多くは効率的にお金を貯めて大学院に進むために日本に来ていました。ところがバブルが弾けてからは日米の為替の関係で、日本で働く意味が無くなり、次々帰国しました。

 日本円では同じ給料でも米ドルに換算するとバブル期に比べて価値ががたんと落ちてしまったのです。それなら米国内で働いた方がましということで、新しい生徒も来なくなりました。特別に日本文化に関心が深くどうしても日本に行ってみたいという人を除いては。

 そんな経緯でここ2・3年は外国人が減りましたが、それでも昨年は、名大大学院で国際開発を学んでいるトリニダード・トバコの女性が参加していました。彼女は博士課程に進むために現在アルバイト中。塾はお休みです。

 またイケメンの偽牧師もしばらく来ていました。偽牧師と呼ぶ所以は、彼が結婚式場で牧師のアルバイトをしているからです。このハンサムな米国青年の名刺には「英語教師・モデル・牧師・ナレーター」と実に脈絡無く書かれています。彼は先月、米国のマッサージ・スクールに入学するため帰国しました。

 そう言えば外国人の生徒の中にも現在プロになっている人が何人かいます。カリフォルニアで開業して成功し、最近ハワイで結婚式を挙げたS君は指圧教室に熱心に来ていました。帰国後アメリカの鍼灸学校に進学し二年間の勉強の後、資格を取得。開業当初は患者が来ないとメールで愚痴を言ってきましたが、ある新聞に掲載されてより盛業になったそうです。

 S君の友人のJ君は鍼灸の資格を取った後、現在アメリカでナチュロパシーという療法の学校に進んでいます。ナチュロパシーは西洋の伝統的自然療法で、きちんと制度化され社会的認知も高いようです。

 カナダ人のA君は熱心な生徒ではありませんでした。むしろ勉強よりも治療を受ける方が好きでした。そんな彼も現在カナダでナチュロパシーの学校に通っています。

 他にもアメリカで二人、ブラジルやフランスで各一人マッサージ・スクールに進みました。ロンドンの指圧学校の通信教育で勉強中のイギリス人もいます。

 実際に何人の人が仕事として指圧をしているのか分かりませんが、この部屋に出入りしていた人がそれぞれの国で同じようなことをしているのかと思うと不思議です。

 この頃の参加者は主婦、OL、指圧学校の学生、長年の勤めを引退された方などです。外国人も二人定期的に参加しています。一人は名大大学院で生命工学の勉強をしているブルガリア人のS君と、同じく名大で言語聴覚士の勉強をしているブラジル人のIさん。二人とも日本語が達者ですが、互いの会話は英語です。

                       ☆

 長々と指圧教室の来し方を見てきました。 現在の指圧教室は指圧だけを教えているわけではありません。健康法に拘泥もしていません。

 「手の当て方、触れ方、推し方、相手に力を伝える、力を通す、相手の力を受ける」など直接指圧に関わることも指導しますが、もっと幅広く、基本的な「立つ、脱力する、身体を貫く重力線である軸(特に中心軸と左右軸)の意識化、軸に沿って立つ、脱力体の重心である丹田(上中下)の意識化、さらには少林寺拳法の技を応用した経絡伸ばしや呼吸法」などを学び、その運用としての一つの方法としての指圧という意味合いが濃くなっています。

 これらは指圧という枠を超えて、むしろ前述の坪井先生の気流法の影響が大きいと思われます。であればこれは指圧教室ではなくわたしが以前から用いている游氣塾と呼ぶべきでしょう。游氣はこの通信の名称でもあります。このことに関しては機会を改めて書きます。

 冒頭に述べたように、現在のクラスは増永先生の書かれた『スジとツボの健康法』の再読と実技を中心しています。テキストに沿って行うのは増永指圧をきちんと教えるためですが、私自身の原点の再確認のためでもあります。

 しかしそれと同時に指圧という枠組みを越えて普遍的に<指圧>が存在し、逆に本質的な身体の運用が<指圧>として具現しているとも考えられるからです。

 増永先生が『スジとツボの健康法』というタイトルの本を著されたとき、すでに指圧という言葉を奥に引っ込めておられます。それは指圧を超えてもっと普遍的ないのちとか人との関わり、健康などを考察したかったからに違いありません。

 ある講習の後、若気の至りで

「先生は指圧という言葉を控えられた方がもっと世に入れられます」

と進言してたしなめられたことがありましたが、その思いは現在も変わりません。

 そして今、わたし自身がすでに増永先生の晩年の年齢になりました。ここで原点を振り返ることはとても重要でよい機会でした。

 従来の指圧教室はどちらかというと、指圧を覚えたい人の趣味的な集まりでした。これで将来生活をしていこうと考える人もごく少数ですがいました。

 しかし今後はもっと広く深く掘り下げていきたいと思っています。そこで今後は指圧教室という呼称は止め、ずばり「游氣塾」でいきます。

 ということで次回はもう一方の指導の場であった「游氣塾」を見直します。

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