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2011年8月20日 (土)

游氣風信 No.175 2004. 7. 1

短歌渉猟

 梅雨さなか名古屋在住の著名な歌人春日井建氏が亡くなりました。22歳の時、歌集『未成年』で颯爽と現れ、歌壇を席巻した後、卒然と短歌界を去り、その後再び舞い戻るというまさに彗星のような方でした。享年65歳。

歌の世界ではこれから円熟味が出てくるというまことに惜しい若さです。

 最晩年は大病をされながらも闘病と同時に後進の指導や御自分の創作と壮絶な日々を過ごされたようです。

 『未成年』は序に三島由紀夫の「われわれは一人の若い定家をもつたのである」という礼賛を抱いており、そのデビューからしてすでに伝説となりました。

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり


だれか巨木に彫りし全裸の青年を巻きしめて蔦の蔓は伸びたり


火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり


蒸しタオルにベッドの裸身ふきゆけばわれへの愛の棲む胸かたし


男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ


赤児にて聖なる乳首吸ひたるを終としわれは女を恋はず


少女よ下婢となりてわが子を宿さむかあるひは凛々しき雪女なれ

これらの歌にみるセクシャルで妖しいエロスの世界は短歌の世界に驚愕を与えたことでしょう。

一度だけ春日井氏をお見かけしたことがありました。短歌の全国大会の折に壇上の氏を遠くから。結局それっきりで直接近くで謦咳に触れる機会はありませんでした。

その短歌の会は氏を中心とした「中の会」主催でした。「中の会」とは中部地区の歌人集団です。今でもあるかどうかは知りません。

その日、氏は寺山修司作の劇を演出されました。白と青の色彩を基調とした前衛的・幻想的で怪しい劇を観た帰路、頭を冷ますために次のような短歌を作りました。今から実に20年以上も前のことです。

歯冠まだ馴染まざりせば舌で嘗め寺山修司の青き劇観る 広志

そして月日は流れて数年前、俳句に奥行きや広がりを与えようと短歌の勉強を再開した際、迷わず春日井氏の主宰される「短歌」に入会しました。そこに一年ほどまじめに投稿し春日井氏の選を受けたのでした。その時点ですでに氏は闘病に入っておられました。

新聞で氏の訃報に接した時、いよいよその日がきたのかと深くその氏を惜しみ

春日井建死す空梅雨の星の下 広志

という句を作って哀悼したのでした。氏の生身の人生はさまざまな苦悩と喜びに綾なされていたことでしょうが、他人から見ると、そのあり方はこの上もなく美しかったのでした。そこで「空梅雨の星」という美辞を用いざるを得ませんでした。

 さて、春日井建氏の訃報を縁に今回は短歌を渉猟してみようと思います。というより気に入りの短歌を脈絡無く、解説もほとんどせず羅列していきます。短歌のお好きな方はお付き合いください。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱

白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのづからなる 同

 佐々木信綱は明治五年三重県鈴鹿市生まれ。父が弘綱、子が幸綱と歌人一家。幸綱は俵万智の師。昭和三十八年没。

髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ 与謝野晶子

 与謝野晶子の歌は抽出していったらきりがありません。膾炙した句が豊富です。

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 同

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 同

やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君 同

金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に 同

 晶子は明治十一年大阪堺の生まれ。昭和十七年没。

赤光のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきこころにか似む 斎藤茂吉

しろがねの雪ふる山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな 同

斎藤茂吉は精神科医。息子にモタさんこと精神科医の斎藤茂太や作家の北杜夫がいます。明治十五年山形県生まれ。没年は昭和二十八年。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 同

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも 同

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 前田夕暮

 高校受験によく引用されていた記憶があります。前田夕暮は明治十六年神奈川県生まれ。昭和二十六年没。

明治十八年宮城生まれの若山牧水も人気の高い作家です。

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 若山牧水

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく 同

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼のなき魚の恋しかりけり 同

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 同

 白玉の歌は酒飲みの愛唱歌です。

園丁が噴水のねぢをまはすとき朝はしづかな公園となる 前川佐美雄

いちまいの魚を透かして見る海は青いだけなる春のまさかり 同

 前川佐美雄は明治三十六年生奈良県に生まれ平成二年没。静謐な感性が日常を詩に化しています。

白い手紙がとどいていて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 斎藤史

わが身よりたちてかなしき人の香は恥づべきごとし森のふかきに 同

 斎藤史さんは明治四十二年東京生まれ。没は平成十四年。

馬駆けて馬のたましひまさやかに奔騰をせりしたりや!<葦毛>

情念の歌人でした。

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美

 有名な青春詠かつ相聞(恋の歌)です。近藤芳美さんは名前が女性のようですが男性です。大正二年韓国生まれ。最近歌集を出されました。

国の蜂起たわむれに似て湧く声をわけ行く戦車笑わざる兵 同

 戦後は思想性の濃い歌を詠まれました。表記も現代表記に変わります。

こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた 山崎方代

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり 同

一粒の卵のような一日をわがふところに温めている 同

 俳句の山頭火と並び評されることの多い短歌の山崎方代。大正三年山梨生まれ。昭和六十年没。戦争でほとんど視力を失ったが歌境は自在でした。

 戦後歌壇に燦然と輝きをもって登場したのは中城ふみ子と寺山修司でしょう。

灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ 中城ふみ子

ひそひそと秋あたらしき悲しみよ例へばチャップリンの悲哀の如く 同

もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず 同

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ 同

 昭和二十九年刊の歌集『乳房喪失』は歌壇を超えて話題となったようです。わたしの生まれた年です。大正十一年生まれのふみ子は乳がんで昭和二十九年に亡くなりました。

遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ 同

 ふみ子より十歳以上若い寺山修司は同じ頃頭角を現します。大学一年生でした。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし 同

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ 同

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし 同

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき 同

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 同

 引用し出したらきりがありません。寺山修司は昭和十年青森県生まれ。昭和五十八年に夭折します。ふみ子といい修司といい天才は夭折するという言葉のままにこの世を行き急ぎました。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき 同

 修司の作品は他人の作品を無断借用して演出しています。それを剽窃(ひょうせつ・他人の詩歌・文章などの文句または説をぬすみ取って、自分のものとして発表すること)だとの批判もされましたが、次第にその価値を認められてきました。原作よりさらに広い世界の構築に成功したからでしょう。

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