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2011年8月21日 (日)

游氣風信 No.182 2005. 2.1

仕草と佇まい

 ここ数年、日本伝来の古武術がブームになっています。書店に行くとコーナーが設けられ、著名な武術研究家がNHK人間講座の講師を務め、あちこちの運動部や運動選手が古武術のコツを応用して大会で好成績を収めたと喧伝されています。

 実はわたしも武術的な身体の運用法などにはたいへん興味があって、学生時代から相当数の本を購読してきました。手元にある一番古い本は蓑内宗一著『武術鍛錬術』で、奥付には昭和四十八年とありますから大学二年生の時です。

 本来、殺戮の技である武術を、戦いから切り離しの身体の運用と健康というテーマとして明確に取り上げたのは蓑内宗一氏が嚆矢ではないかと思います。それ以前にもおられたでしょうけど、著作を通じて研究を公表・啓蒙してこられたのは氏が最初だと思います。

 

蓑内氏は惜しくも先年、お亡くなりになりました。原爆に被爆しながら武術を通じて体調を整えてこられたと聞いています。

前掲書には「大正十一年長崎県生まれ。父親から家伝の体術を仕込まれる。中学時代、九州に伝承されている兵法宗家を樹下石上の旅をつづけながら訪ね、『経絡派武道』に感銘を覚える。

戦後は、フランスの作家ジャン・ジュネを発見。アウト・ローの世界を描いた『泥棒日記』は氏の処女作である。現在『経絡派武道』の探求をつづけている。」とあります。

 

 改めて略歴を読み返してみて「経絡派武道」などという言葉に触れますと、現在のわたしにとって相当に大きな影響を与えてくださった方だと分かります。

この方の本を足がかりにして相対的強さを目指す格闘技ではなく、その究極の戦いの場から生み出された精緻に洗練された身体運用法に関心を抱いたのは確かです。

それが後に極意を諸般の中に共通するものとして捕らえ、そのエッセンスを「身体の文法」と解き明かしたメビウス気流法の坪井先生や唯物論的弁証法を駆使して武道を構造的に究明し、その本質論から哲学一般に立ち向かっている南郷継正氏の本に親しんだことは間違いありません。

 治療師を志し治療技術を磨くという当たり前の道を歩みつつ、同時に身体運用と言う別の側面から捉えなおそうと游氣塾を始めたのも、もしかしたら奥底に蓑内宗一氏の影響があるのかもしれません。本箱から埃を被った書物を引き出してつくづく考えてしまいました。

 さて、今回はこうした武術や舞踊など日本伝来の身体運用を表現することばに目を向けてみようと思います。そのためには元来の日本語である「やまとことば」に注目する必要があるでしょう。今日の日常語はやまとことばと中国語、その他の外来語が混在しています。そこであえてやまとことば(大和言葉)の幾つかに関心を抱いてみます。

 

 以下に思いつくまま身体動作を羅列します。辞書を引く過程で見つけたことばも列記します。

その上で簡単なコメントを述べましょう。

いずまい (居住まい) ゐずまひ

すわっている姿勢。

「居住まいを正せ」などと言います。つまりこれは当てられた漢字が物語っているように座った状態なのです。立っている状態は次の佇まいになります。

たたずまい (佇まい) たたずまひ

1 立っている様子。そこにあるものの様子。ありさま。そのものからかもし出されている雰囲気。

2 人の生き方、暮らし方。生業(なりわい)。 たたずみ。

居住まいは座っている姿であり、佇まいは立っている姿です。しかしどちらも単なる身体の状態や形態ではなく、そこからおのずとかもし出される雰囲気を表しています。

 じっと座っているだけで存在感がある人。江戸時代の日本人はある種の端然としたうつくしさを持っていたようで、シーボルトなどもただの未開の国ではないと日本文化に対してのリスペクトを書き残しています。

 それが明治以後の富国強兵策による国民皆兵教育により、皆が規律正しい軍隊様式を要求され、そのための教育が今日の硬直した身体と姿勢を生み出したとされています。もっとも戦後六十年を経て硬直すらない、ずぼらな身体に堕しているのが現在の様相です。

江戸以前の身体技法と明治以後の身体技法の差。それは実際にご覧になった方には理解しやすいと思いますが、古式居合の優美な力強さと現代剣道のスピード感あふれる直線的な動き。これらによって代表されるでしょう。両者は同じ剣を用いながらまるで違う動きです。構えているときの佇まいからして剣道と居合では全く異質のものと感じられます。それは日舞とバレエほどの違いなのです。

 これがわたしたちの失いつつある古来の身体文化であり技法です。今日多くの方がそれに気づいて一生懸命その保存と発展に力を注ぎ始めました。それが今日の武術ブームです。単なる懐古趣味、アナクロニズムではありません。

ものごし (物腰)

1 物のいいぶり。ことばつき。言葉遣いや人に対する態度。立ち居振る舞い。

2 身のこなし方。動作。

 一般には動作とか所作のことです。所作は仏教のことばのようです。

ふるまい (振舞) ふるまひ

ふるまうこと。おこない。挙動。特に、人目につくような行動。

たちいふるまい(立居振舞)たちゐふるまひ

 起居と動作。からだのこなし。

 立ち居振る舞い。立ったり座ったり振ったり(手の動作)舞ったり(足の動作)です。立ち居がじっとしている状態で、物腰や振る舞いは動作です。物腰の方が静かな状態の感じがします。

しぐさ (仕草)

 ある事をするときの態度や表情。また、やり方。しぶり。しうち。

 仕草は仕種とも書きます。元々は舞台での俳優の表情や動作つまり所作を言うようです。動作は音読みですから中国から来た言葉でしょう。それに対してしぐさは元からあったやまとことばだと思います。それに漢字を当てはめたのです。「どうさ」より「しぐさ」の方が調べのやさしを感じます。この辺りにやまとことばの魅力があるのではないでしょうか。

しぶり(仕振り)物事をする様子。

しうち(仕打ち)しわざ。ふるまい。他人にたいする取り扱い。

しうち(仕内)俳優の舞台における表情・動作。しぐさ。こなし。広い意味での演技。

 これらも所作を表すことばですが、仕打ちを除いて、今日ではあまり用いられません。しかも仕打ちは「ひどい仕打ちをされた」というように、あまりいい意味では用いられません。

こなし(熟)

1 自分の思うままにうまく取り扱うこと。

2 立ち居ふるまい。特に、歌舞伎で、役者の演ずる身ぶり。しぐさ。

 今回いろいろ辞書をひっくり返していて一番驚いたのがこのことばです。「身のこなしがいい」などと普通に用いられていますから、馴染み深いのですが、「熟」という漢字が当てられているとは知りませんでした。普段から「身のこなし」とか「使いこなす」とかいいますが、それが熟達を表すのでこの「熟」の字を当てたのでしょう。さらには消化の作用である「胃でこなす」にまで広がって使用されています。

 「こなす」とは「粉にする」ことかもしれません。砕いてこまかにするという意味が辞書に出ています。

すると「道具を使いこなす」ということは大きな石を粉にするごとくに時間をかけて熟達するということなのでしょうか。

そぶり (素振)

 顔色・動作に表れたようす。けはい。

みぶり(身振)

身を動かして感情・意志などを表すこと。また、その身のこなし。身のそぶり。

てぶり(手振)

 手を振ること。また、手の振り方。手のこなし。

 振る舞いもそうでしたが、いずれにも「振る」ということばが入っています。手偏ですから手の動きを表すことばです。主として上半身の動きでしょうか。それに対して「舞」は足でくるくる回るという意味です。「舞」の上半分は衣、能役者が衣を掲げている状態です。そして下半分は足。まさに能役者の形なのです。

 身振り手振りは動作と同時に何かを訴える仕草です。そこに伝達の意思を感じます。それに比して素振りはむしろ自然な動作のようです。「素」には「ありのまま」とか「何も持たない」の意味がありますから。素手とか素足がそうです。

 ことばは身体から発せられます。そして相手の身体に吸収されます。そこに伝達があります。音声言語も文字言語も身体との関わりの中にあります。ことばは身体そのものなのです。

 疲れてぐったりしている人に「いい姿勢をして」と言えば、その場は「気をつけ姿勢」で形を整えることでしょうが、またすぐにだらんとしてしまいます。それは姿勢とは外形的な「姿形」と内なるエネルギーである「勢い」の両面で表現されるものだからです。いくら「気をつけ」をしても身体の中からあふれるエネルギーが無いと姿勢を保つことはできません。

 佇まいなり居住まいを正すとは生きる姿勢を自分から意思的に生み出していくことです。

 近年、日本人の姿勢が悪くなってきたとされます。その代表が地べたに座り込む「ジベタリアン」でしょう。まさに内面の力の無さを表現しています。目線を下げることで別の世界が見えるのだという方もありますが、いつもそんなに低い目線だけでは社会は見えません。

 明治になって大きな改革を行った際、日本人の身体もその影響を受けました。動作や食事、思考もそうでしょう。それはどうも外観に偏ったもののようです。外から作り上げた見せ掛けの身体。そんな気がします。

 

 そこでもう一度日本人の行動様式の原点に戻ってみたらどうかという社会的欲求が今日の古武術ブームにつながるだと思います。

 「いい姿勢をしなさい」と叱る代わりに「佇まいを整えてごらん」と嗜める。これが自然に出来るようになったときこそ、新しい身体文化の萌芽と言えるのでしょう。

 

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