游氣風信 No.185 2005. 5.1
夏から秋 うつろいを楽しむ
九月半ばになり、台風を幾つか経験しますと、暑さも盛りを過ぎ、空の色や雲の形、風の風合いに秋を実感できるようになりました。
夏の喧騒の代表クマゼミの声もいつしかツクツク法師になり、それも気づかないうちに終焉。夜陰からはコオロギなどの虫の音が聞かれます。
しかし、実際には秋の息吹の訪れは八月初旬から感じることができます。道行く人たちも「さすがに立秋ともなると、風がどことなく違うね」
とか
「雲の形はもうすっかり秋だなあ」
といった挨拶を交わすようになります。
と言う具合に、今回は、季節実感と新旧の暦の話に俳句などを加味して進めます。暦の話はややこしいので面倒なら読まずに飛ばしてください。
暦の上では八月の初旬が立秋、秋が立つといいます。今年は八月七日でした。旧暦に置き換えると八月七日は旧の七月三日になります。旧暦では七月は既に秋だったのです。
秋たつや川瀬にまじる風の音 蛇笏
旧暦の四季は明解で一、二、三月が春、四、五、六月が夏、七、八、九月が秋、十、十一、十二月が冬となります。だから一月一日が初春で、元旦と春の訪れが合致するという分かりやすいものでした。正月の挨拶が「初春」とか「迎春」というのも納得できます。
初春の風にひらくよ象の耳 和子
夏の行事である七夕祭り。旧暦では七月からが秋ですから、七夕祭りは本来秋の行事となります。
今年ですと八月十一日が旧暦の七夕。既にお盆間近ですから空が澄んでくる頃です。心配される雨も今の七夕のように梅雨半ばではありませんから、晴れが多く織姫・彦星のデイトもやりやすかったことでしょう。
七夕や男の髪も漆黒に 草田男
この新暦と旧暦のずれはさまざまな行事の不都合になっています。先の七夕のように星のデイト(七夕を季語では星合などともいいます)を見上げるのが、初秋の澄み渡った空であればロマンも広がりますが、蒸し暑い梅雨空では今ひとつ興が乗らないというものです。仙台の七夕祭りは旧暦にしたがっているようです。
現在の歳時記の季節区分は通常、春は立春から立夏の前日まで、夏は立夏から立秋の前日まで、秋は立秋から立冬の前日まで、冬は立冬から立春の前日までとされています。
つまり今の暦上、春は二月初旬から、夏は五月初旬から、秋は八月初旬から、冬は十一月初旬からとなるのです。そこに旧暦の行事をむりやり新暦に置き換えると実際の季節感との間に食い違いが出てしまいます。
立春の雪の深さよ手鞠唄 秀野
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 波郷
秋立ちぬ夕日あたる日あたらぬ日 苑子
堂塔の影を正して冬に入る 宗淵
さらに一般の印象では季節の実感を重視しますから春はぽかぽか暖かくなる三月から五月、夏は蒸し暑さの六月から八月、秋は爽やかな風が吹き始める九月から十一月、冬は寒さひとしおの十二月から二月と分類されています。
ですから、わたしたちの季節の捉え方は旧暦や新暦の規定されたものと季節の実感などがごっちゃになっているのです。
松尾芭蕉の命日は旧暦の十月十二日。大阪の門人宅において五十歳で亡くなっています。ちょうど初冬の時雨の降るころですから時雨忌と呼びます。
しかし、芭蕉の忌日を今の暦の十月十二日で偲ぼうとするとどう考えても時雨には早すぎます。まだまだ日差しの強い日が続き、各地で運動会などが開催されるころです。
旧暦ですと今年の十月十二日は十一月十三日になります。これならいかにも紅葉を濡らす時雨の季節。ここらの矛盾の調整は難しいものがあります。
しぐれ忌のしぐるる燈火明うせよ 夕爾
しぐれ忌の恋の芭蕉をたふとみぬ 暁水
夏休みは今の暦の上では立秋が途中に入りますから、夏から秋への休みということになります。
夏休み犬のことばがわかりきぬ 照敏
お盆は七月十五日ですが、一般的には八月十五日に行います。子供が夏休みで都合もいいですし。以前は月遅れのお盆と呼んでいましたが、今はむしろ八月が普通です。となると立秋の後ですからお盆は秋の行事といえますが、実はまだ暑い盛りです。
女童らお盆うれしき帯を垂れ 風生
終戦の日が八月十五日というのはさりげなくお盆に重ねるという政治的配慮があったと聞きますが、この頃はまだ空は炎天。町行く人は建物の生み出す片影を選びながら汗を拭きつつ急ぎ足。まだまだ秋という感じはしません。しかし暦の中では秋になります。
終戦を実際に迎えた人に聞くと、とても暑い日であったと一様に答えられます。その日が暦の上では秋であろうと、実感としては真夏であり炎天に燃えるカンナの真っ赤な花が強く記憶に残っているという方もいました。
敗戦日空が容れざるものあらず 波郷
堪ふることいまは暑のみや終戦日 貞
これらは暦と実感の乖離です。ではこれを否とするか、是とするか。
実は近年、俳句の歳時記の見直しがさまざまグループによってなされているのですが、実感を重視する人たちと、古典的価値としての暦を重視する人たちの間にも見解の齟齬があって簡単には整理統合できそうもありません。それで俳句の協会も大きく三つに分化しているのです。
季節と実感に開離があるように、俳句を作る人たちにも乖離があるのですね。こういう一筋縄でいかないところに現実の面白さがあります。
では、現代を生きる俳人たちはこのずれをどうやって埋め合わせているのでしょうか。実は、それは埋め合わせるというより楽しんでいるといったほうがいいでしょう。
実感される季節感と暦の上の季節にずれがあればこそ、その差異の中に微妙な季節のうつろいを味わうのです。
数ある季語の中で秀逸だと思うのは「夜の秋」という季語です。「秋の夜」ではありません。秋が深まっていかにも風情ある秋の気配、それは「秋の夜」です。
「夜の秋」とは、夏の暑い日が暮れ、夜半、ささやかな秋の気配を感じ取る。これが「夜の秋」です。暑い夏でも夜には秋が潜んでいるという発見。気がつくとどこかから虫の鳴き声。風に潜む秋の肌触り。
こうした時候の変化を敏感に楽しむのが季節の味わい方の妙です。そのためには暦の上では秋になったけどまだ暑い日が続くという季節の予告編があると感性が高まるというものです。
西鶴の女みな死ぬ夜の秋 かな女
名曲いま潮満つごとし夜の秋 憲吉
立秋を過ぎるころには夏の暑さのこまごまとした隙間に確かに秋の色合いや風合いを見て取ることができます。肌で感じることができます。そうした微妙な季節感。それを日々の存問として味わって生きるのです。
八月初旬の熱帯夜の中に、ふと感じる秋の一瞬。これが「夜の秋」。季節は四季に区切られるのものではなく、夏から秋にかけて徐々にその姿を変えていくのです。
「夜の秋」と似た季語に「今朝の秋」というのがあります。これは立秋の日の朝のことです。まだまだ暑いのですが、さすがに立秋ともなると朝には涼しさがあるということ。夏の朝のさわやかさは秋のそれに似ています。 これも立秋という暦上の季節の取り決めがあればこそ、その朝のいつもと違う涼味に気づくのでしょう。
秋立つ日詠める
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行
この歌をもって立秋の嚆矢とされています。同様に
木の間より漏りくる月のかげ見れば心づくしの秋は来にけり 古今集
という歌もあります。日本人の季節感はこうした古歌の伝統によって鍛えられてきました。単に季節実感だけではないのです。
今朝秋のよべを惜しみし灯かな 乙字
今朝秋や見入る鏡に親の顔 鬼城
「夜の秋」は夏の季語で、「今朝の秋」は秋の季語になります。
こうして、古人は時のうつろいの中に季節の変化を敏に悟り、生きることのささやかな喜びを体得したのでしょう。朝から晩までテレビをつけっぱなしの現代人には難しいかもしれません。
テレビもラジオも、電燈までも無かった時代の人々はそうした変化と直面することで生きることの励みとしたり慰みとしたのではないでしょうか。文明の機器がない時代の立派な文化です。
たまにはテレビを止めて夜の気配と対峙するのも一興かもしれません。夜陰から静かに風が虫の音を運んできます。
あとがき
夏から秋へのうつろいを楽しむなどと書いていますが、昨日今日の秋日の強さ。澄んだ空気を通過してくるためか夏の日よりも肌を刺します。紫外線も強そうです。
秋口はギックリ腰の人が増えます。夏場についつい冷たいものを口に、クーラーで体を冷やしますからそのつけが今頃出るのかもしれません。
腰にだるさを感じたらご注意を。
(游)
| 固定リンク
「游氣風信」カテゴリの記事
- 身体から見える景色 何故身体を問うのか(2015.12.30)
- 游氣風信212号 今池好きな店便り(2013.03.13)
- からだと環境(2011.09.08)
- 游氣風信 No.202 2008. 8.14(2011.08.29)
- 游氣風信 No.204 2009. 1.1(2011.08.29)
コメント