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2011年8月20日 (土)

游氣風信 No.180 2004. 12. 1

惜しむべき俳人たち

昨年末(2004年)、俳壇は何名かの著名俳人を亡くしました。12月12日、鈴木六林男(むりお)氏(85歳)、12月14日、成瀬櫻桃子氏(79歳)、12月16日、桂信子さん(90歳)、12月18日、鳥居おさむ氏(78歳)、12月30日、田中裕明氏(45歳)など。

ベテランの鈴木六林男と桂信子の死は俳句の一時代に幕を引くものであり、まだ若手と呼んでもいい四五歳の田中裕明の死はこれからの俳句の未来の喪失とも言える損失でした。

 今月号ではこれら三名の俳人について追悼します。一般の方には馴染みのない人たちですが、どなたも現俳壇を代表する人であり、同時にそれぞれの時代を生きてきたという証言者でもあるのです。

その言動が自ずと時代を表現し、切り裂き、人の心の断面を晒す。それこそが真の詩人であり、詩人の価値というものでしょう。とりわけ鈴木六林男はそのことに意志的であった人です。桂信子は女性の目覚めを身体性で表現するという革新的な人でした。田中裕明は志半ば白血病で夭折。前記二人のように波乱の時代を生きてきた方と異なり、高度経済成長という社会の中で自分を見失わないでおおらかさを貫こうとした早熟の天才です。

鈴木六林男(すずきむりお)

大正八年(1919)大阪府岸和田生まれ。大阪芸術大学教授を務めた。「京大俳句」で西東三鬼に師事。昭和一七年、バタアン半島で戦傷し帰還、以後も弾片が体内に残る。昭和四六年『花曜』創刊主宰。現代俳句協会賞。蛇笏賞。現代俳句大賞。

 六林男は反骨の俳人です。彼は常に戦い続けた人であり、その存在自体が強靭な意志であるという印象を抱かせる巨人でした。

 彼は戦争とそれを生み出し、かつ戦後も何ら自省しない国家のありように強い批判精神を維持して向かい合います。これは兵役に翻弄された大正生まれの俳人に多いのですが、とりわけ六林男にはその傾向が顕著です。

 年譜によれば六林男は昭和十一年十七歳で俳句を初め、最初は永田耕衣の選を受けます。

昭和十四年、二十歳で「京大俳句」などに参加し、西東三鬼に師事します。翌昭和十五年、この「京大俳句」が俳句史最大の事件の舞台となりました。 反国家的であるという理由から軍部からの弾圧を受け、同人十五人が逮捕されたのです。世に言う「京大俳句事件」。これが六林男の反骨の原点になったかもしれません。以後もいくつかの結社が弾圧されます。これらは総称して「俳句弾圧事件」と呼ばれます。

 当局が検挙の手がかりとしたのは、治安維持法です。「京大俳句」関係者は、結社の自由を標榜していた事、無季俳句を肯定していた点を、伝統破壊、社会秩序の破壊とみなされたのです。翌昭和十六年にも別のグループに弾圧がありました。こちらは無季俳句肯定の他に、「リアリズム」を提唱して左翼的な傾向を取っていたこと、プロレタリア俳句の提唱、生活俳句の実践などが、弾圧対象となったのです。検挙者は全員執行猶予の実刑判決でした。

 

「この段、北川光春氏によるHP参考」

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/index.htm#俳句の雑学小事典

 

 二三歳で海軍に入隊。フィリピンで米兵に撃たれ負傷、帰国します。二四歳で山口高等商業専門学校に入りますが応召により中退。この経験が反戦意識を高めたのでしょう。六林男の俳句から戦争や戦没者の影が消えることは生涯ありませんでした。

 入隊中、持ち物の検閲があるので六林男はノートに書き留めた俳句を検閲直前に記憶してノートを廃棄、検閲後また想起して書き留めたそうです。これは「京大俳句」の先輩たちが検挙された経験を踏まえてのことでした。

代表句

遺品あり岩波文庫『阿部一族』 『荒天』昭和24年刊

水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり 同

かなしきかな性病院の煙突 同

暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 『谷間の旗』昭和30年刊

月の出や死んだ者らと汽車を待つ 同

母の死後わが死後も夏娼婦立つ 同

滝壺を出でずに遊ぶ水のあり 『国境』(昭和52年刊)

天上も淋しからんに燕子花 同

外野手の孤独にかかり夏の月 『悪霊』(昭和60年刊)

永遠に孤りのごとし戦傷の痕 『雨の時代』(平成6年刊)

 

参考:黒田杏子による聞書『証言・昭和の俳句 上』(角川選書)

 

桂信子(かつらのぶこ)

大正三年(1914)大阪氏生まれ。日野草城門。昭和四五年『草苑』創刊主宰。新興俳句出身の数少ない女流俳人。現代女流俳句賞。蛇笏賞。毎日芸術賞。

 桂信子は女性にはめずらしく新興俳句の出身です。新興俳句とは昭和前期(戦前)に発生した俳句近代化運動のことです。

それまでの俳句は「わび・さび・しおり・ほそみ」などの枯淡の境地に代表される古俳諧から明治になって正岡子規が取り組んだ俳諧の見直しと写生を核にした俳句革新。さらにその延長である高浜虚子の花鳥風詠・客観写生が主流でした。

虚子の主宰する結社『ホトトギス』は「ホトトギスにあらざれば俳句にあらず」というほど他を圧する勢力をもっていたのですが、それに対して新進の水原秋桜子が『馬酔木』を刊行して反旗を翻し、それに山口誓子などが賛同しました。この運動は伝習的俳句に飽き足らない人たちの指示を得て全国的に広がったのです。この流れを汲むものが新興俳句と呼ばれました。

しかしその新しい俳句を求める革新傾向はどんどん展開し、季語の不要説が出た時点で火付け役だった秋桜子や誓子はその運動から離れます。ここまでが新興俳句運動の前期。後期はさらに急進的に燎原の火さながらに広まっていきます。

後期の運動は日野草城の『旗艦』、平畑静塔や西東三鬼らの『京大俳句』などに代表されます。この運動は芸術派的傾向と社会派的傾向が混在し、戦争へ向かう時局もあって俳句に留まらない複雑な様相を呈しました。そしてついに鈴木六林男のところに書いたように昭和十五年、新興俳句は文芸運動としての限界を見ることなく、強権的圧力によって政治的に終焉させられたのです。これが俳句史に名高い「俳句弾圧事件」です。弾圧によって運動が頓挫した史実は俳人に重くのしかかっているのです。

さて、桂信子に戻りましょう。

桂信子の俳句は女性の肉体をおおらかに歌い上げるという点で革新的でした。健康的なエロティシズムを俳句に持ち込んだこと、女性が女性であることの魅力を余すところなく表現したというところが実に革新的です。彼女は現在の女流俳人に多大な影響を与えたと同時に、俳句の中に詩性を取り入れることで俳句の寿命を延ばしたと言ってもいいでしょう。

代表句

ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 『月光抄』(昭和24年刊)

雁なくや夜ごとつめたき膝がしら 同

りんご掌にこの情念を如何にせむ 同

散るさくら孤独はいまにはじまらず 同

ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 同

やはらかき身を月光の中に容れ 同

藤の昼膝やはらかくひとに逢ふ 『女身』(昭和30年刊)

ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 同

衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く 同

窓の雪女体にて湯をあふれしむ 同

一日の奥に日の射す黒揚羽 『初夏』(昭和52年刊)

祭笛町なかは昼過ぎにけり 『緑夜』(昭和56年刊)

忘年や身ほとりのものすべて塵 『樹影』(平成3年刊)

青空や花は咲くことのみ思ひ 『花影』(平成8年刊)

雪たのしわれにたてがみあればなほ 『花影』以後

 

参考:黒田杏子による聞書『証言・昭和の俳句 上』(角川選書)

 

田中裕明(たなかひろあき)

昭和三四年(1959)大阪市生まれ。京都大学電子工学科卒。波多野爽波に師事。昭和五七年角川俳句賞最年少受賞。平成一二年『ゆう』創刊主宰。

 わたしがまだ二十代のとき、突然五歳若い精鋭が俳句界に現れました。角川俳句賞という俳壇への登竜門を潜っての登場です。写真で観るとおっとりした気品ある青年でいかにも頭が良さそうな印象を受けました。

 老人中心の俳壇において一際若く輝く俳人田中裕明はこうしてわたしの中に強く刻み込まれたのです。

 早熟の秀才はその後一時低迷します。低迷というより自分の内なる世界の開拓にもがいていたのでしょう。そしてその苦悶の年月の後、大器として活躍を始めます。自らの結社を起こし、さらに飛躍する・・・そんな矢先、病魔が彼を襲います。

 それ以後のことは読売新聞の追悼文に詳しいので引用させていただきます。

茫洋と繊細さ同居

「もう、打つ手がありません」。昨年半ば、医師にそう言われた。骨髄性白血病とわかってから五年近くがたっていた。(中略)薬も効かなくなって移植手術自体が不可能になってしまった。週末ごとに京大病院から大阪府内の自宅に一時帰宅する生活が始まった。(中略)月曜の朝、まりさん(三島註:夫人森賀まり、俳人)の運転で病院に帰る間も、娘たちのことや俳句のこと、来年は「ゆう」(三島註:田中裕明の主宰誌)でこんな企画をしよう、と話し合った。(中略)高校時代から句作を始め、京大卒業直後、歴代最年少の二十三歳で角川俳句賞を受けた。師の波多野爽波は第二句集『花閒一壷 かかんいっこ)』の帯に「茫洋として人を誘うかと思えば、極めて繊細なところもあって読む者を魅了する」と書いたが、人柄もそのままだった。(中略)入院する直前の昨年七月、中学三年の二女と滋賀・長浜のガラス工芸を見に行った。ぐい飲みを土産に買った。今、二女は毎朝、その小さなガラス器に日本酒を供えている。(読売新聞1月30日 小屋敷晶子)

 

代表句

口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし 『山信』(昭和54年刊)(蝌蚪はおたまじゃくし)

ラグビーの選手あつまる桜の木 同

大学も葵祭のきのふけふ 同

長夕焼旅で書く文余白なし 同

悉く全集にあり衣被 『花閒一壷』(昭和60年刊)

ただ長くあり晩秋のくらまみち 同

生身魂痩せてとほりし中学生 同

榧の木のいちにちいちねん明易し 同

京へつくまでに暮れけりあやめぐさ 同

天上の人を語らん昼の露 『夜の客人まろうど』(平成16年刊)

みづうみのみなとのなつのみじかけれ 同

水澄みて傷つきやすき銀の匙 同

寒林の真中ふたたび歩きだす 同

発病

爽やかに俳句の神に愛されて 同

法師蝉見知らぬ夜の客人と 同

 

(註:夜の客人とは病魔のこと)

 

参考:『現代の俳句』(講談社学術文庫)

 

全体を通じての参考図書

講談社学術文庫 『現代の俳句』平井照敏編

俳句研究社 月刊『俳句研究』

角川選書 『証言・昭和の俳句』黒田杏子

角川書店 『現代俳句辞典』

後記

これを書いている頃、桜が咲き出しました。発行日は2004.12.1となっていますが、実際は2005.4に書いています。

昨年十二月、これでもかというぐらいに俳人の訃報が新聞に載り、とどめが四五歳の田中裕明の悲報でした。

今回取り上げた方々の御冥福をお祈りいたします。文章の体裁上、敬称を略させていただきました。

 

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