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2011年8月

2011年8月29日 (月)

游氣風信 No.202 2008. 8.14

追悼 櫻井教授

新聞やテレビでも詳細に報道されましたが、南山大学の櫻井進教授が輪禍で亡くなりました。教授とは行きつけの萬福鮨で知り合いました。親しみやすい方で、いつも楽しく議論を交わしました。

以下はあるサイトに書いた文章です。一部を修正して掲載します。

夕刻、ウニタ(今池にある書店)に問い合わせたら「現代思想」があるというので早速購入して櫻井先生の論文を拝読しました。ポスト・フォーディズムによって、名古屋が整然となるにしたがって、庶民のノイズが大きくなる。これは櫻井さんの一連の江戸物に連なる思考だと感じました。アジール(解放区)としての今池の存在はますます大切になるのではないでしょうか。

仕事を終えてから萬福に行き、櫻井教授の好きだった清酒「立山」をカウンターに供え、大将と偲びました。お店の帰りに事故にあわれたそうで、大将はとても辛そうでした。

古着屋蘭○のおかみさんや中古レコードピ○○○の社長、大学職員の松○さんらも通夜に列席してから萬福に駆けつけ、故人について語らいました。冗談を言いつつも、寂しさや哀しさは隠せません。

遅がけに二人の紳士が萬福にやってきました(やはり櫻井さんの通夜の帰りのようです)。六文銭(居酒屋)で飲んできたようです。それで急に懐かしくなり、久しぶりに六文銭に顔を出しました。お客さんは誰もいませんでした。バンちゃん(六文銭のおかみさん)は相変わらずひっそりとたたずんでいました。
古い六文銭が閉店し、バンちゃんが新規に出してからは早くも8年目に突入するそうです。

わたしは実に久しぶりに清酒「もへいじ」を味わい、その味のよさに時の流れを感じたのですが、結局、誰もが、言いようのない悲しみを笑みと酒でごまかして時間と格闘しているようで、誠に辛い一日でした。

手元にある櫻井教授の著書「江戸のノイズ」(NHKブックス)や「江戸の無意識」(講談社現代新書)から推察すれば、氏は江戸という都市の装置がもつ意味を明らかにし、真の解放区(アジール)のありようを模索し続けておられたのでしょう。

教授主宰のゼミで学生に白紙を渡し、好きなことをしなさいという課題を出されたことがあると聞きました。これは自由を得た時、人は何もできないということを学生たちに実際に体験させたかったのでしょう。実際、一部の学生たちはどうしていいか分からないと混乱したり泣いたりしたそうです。

櫻井先生自身、いつも寂しげで、本当の自分を捜し求めておられていたようです。享年51歳とは余りに早い。人文学はこれからが集大成ではありませんか。江戸の仕組みを解いた眼差しで大名古屋の奥に潜む構造を明らかにしようとされた矢先の夭折。惜しんでも惜しみきれません。

どうぞ、死という究極のアジールでゆっくりお酒を楽しんでください。

櫻井教授の遺稿

「現代思想」2007年7月号に故櫻井進教授の書かれた論文をHさんが要約してくださいました。ここに掲載し、櫻井教授を心より哀悼いたします。

大名古屋論 ポスト・フォーディズム都市の行方
櫻井進

1.ポスト・フォーディズム都市・名古屋
現在、名古屋はトヨティズムの都市になりつつある。

*トヨティズム(トヨタ生産方式)とは「企業目標」への労働者の自己管理に基づく自発的・自立的な参加、すなわち「主
体化」を要求するシステムである。(R.ボワイエ)
例:QCサークルへの自発的参加や創意提案制度など。
                
*その「主体化」は、「主体=隷属化」(M.フーコー)にいたる可能性をもつ。
=ゆるやかな自発性の名の下に、より強力な隷属をせまるものにほかならない。「生産的協働」の変容。

*ポスト・フォーディズムにおいては、主体性が資本によって包摂される場合に、全体主義的な性格をもつ。

2.監視と排除
トヨタの本社機能の名古屋移転によって、名古屋で「生産的協働」が生産以外の場で行われるようになる。

*名古屋駅周辺地区は、清潔さを保つべく人工的な空間として管理されている。

3.1995
グローバリゼーションによって日本の戦後型システム(日本的雇用システム・日本的経営)が崩壊した。

→10年にわたる不況とグローバリズムの進展は、トヨタの国際競争力を高めたと同時に、労働現場の強化と労働者の多国籍
化を強めた。

→非正規雇用の拡大・若者の離職率の上昇・婚姻率の低下など。

4.大名古屋というキッチュ
 名古屋は、開発独裁政権である明治国家から、相対的な距離をとってきた。

*名古屋ブーム以前の名古屋は、正統的な価値観から逸脱したキッチュだった。
・キッチュなB級グルメ:あんかけスパ・味噌カツ・「エビふりゃー」
・「純粋スノビズム」:名古屋嬢
・ブランド好き
・成長と発展という目的から逸脱してゆこうとするポストモダン的様式性。

現在、近代日本からあえて逸脱しようとする名古屋のキッチュ性が消去されようとしている。

・名古屋駅前の再開発は、キッチュ都市・名古屋をグローバルな資本を表象するポスト・フォーディズム都市へと変容させ
た。
・名古屋のキッチュ的でポストモダン的な戯れの空間の光景は終焉を迎えようとしている。

5.イオン都市・名古屋
名古屋では「ジャスコ文明」が郊外だけではなく、都市の中心部に発生している。
=トヨタ的な郊外が流入していると考えられる。

*1980年代後半から外国人の多様化・多国籍化が始まり、現在では旧来の在日コリアンは名古屋各地に分散し、新来の外国人が中心部に集中している。

6.ポスト・フォーディズム都市の行方
・名古屋駅前に巨大なモニュメントやパノラマを展開したトヨタは、「純粋なスノビズム都市」名古屋を越え出て、グローバルな資本のたわむれを行っているのかもしれない。

・「人間的なものを何ももたぬ」資本が人間によって統制可能か、「動物化した資本」の行方を見定める必要がある。ポストモダン的なフォーディズム都市名古屋のモニュメントやパノラマに込められた「夢の残滓」、廃墟はどのように立ち現れているのかを見てゆかなければならない。

*トヨタの輝かしい「夢」の対であるジャスコ文明の先端としてのイオンは、すでに廃墟の様相を示している。
・在日外国人同様、「日本人」も複数化し、非均質化されたマルチチュードである。マルチチュードの「相互のコミュニケーションや<共>的行動を可能にする<共(the commons)>」(ヴェルノ)が形成される場のかすかですらある存在可能性を見出していかなければならないだろう。

*QCサークルとは、QC活動を行う際に組成される、同じ職場における作業者のチームのこと。一般的に10名までの小規模のチームを構成し、チームのメンバーはそれぞれ役割分担し、自主的に問題点の発見、改善案の提示を行う。全社的品質管理活動の一環として自己啓発、相互啓発を行い、QC手法を活用して職場の管理、改善を継続的に全員参加で行うものである。QC活動は現場の作業者達による、職場での自主的な活動であり、経営者や管理者はQC活動を支援する。QCサークルがうまく行われていれば、提案制度と同様に、仕事を行っている個人の改善意思を仕事に反映させる役割を担っていたはずである。

「現代思想」2007年7月号



2008/05/27
深津健司句集

所属している藍生俳句会の重鎮、深津健司氏から句集が届きました。氏は、サラリーマンを勤め上げた後、俳句三昧の日々を送られ、このたび古希となられたようです。
句集のタイトルは『切火』。銭形平次が出かける時、おかみさんが背中で火打石をカチカチ鳴らして火花を飛ばす。あれが切火です。なんと深津さん、今でもお出かけの際、奥さんが切火を切るのだそうです。

 ひひらぎの花つめたしやにほひまた
 ゆふぐれの野に虫籠の置かれたる
 霜柱妻の切火を背に受くる

ひひらぎは柊。匂いも冷たいと把握したところに詩情があります。
虫籠の句は俳人好み。何でもない事の中に俳味があるのですが、俳句に関心のない人には分かり難いかもしれません。
三句目は句集のタイトルになった「切火」の句です。切火が作者とその家族、そして個人史を象徴するものとして大切にされていることが分かります。

不熱心なわたしは俳句の会に全く参加していません。したがって深津さんとも久しくお会いしていません。6月14日に藍生俳句会の全国の集いがあります。そこでお会いすることでしょう。それまでに一冊を味読しておきます。 
(追記:深津さんは術後ということで、残念ながら集いには参加されませんでした)




2008/07/09
普通救命講習

7月6日の日曜日、愛知県鍼灸マッサージ師会館で救命講習を受けてきました。消防署から二名の講師が指導に来られ、
全体を二組に分けて人形を使っての講習。

まずは意識の確認。

「もしもし、大丈夫ですか、聞こえますか!!」

体を軽く叩きながら呼びかけます。反応がないときは

「意識がないようです、119に連絡してください。意識が無いことも伝えてください」

と身近な人を指名して依頼します。続けて

「AEDを探してきて下さい」
「医師、もしくは看護師を探してきて下さい」
「大勢の人を集めてください」

と具体的に指名して支持します。譲り合っている暇はないからです。大勢の人が必要なのは人垣を作って倒れて人を衆目か
ら保護するためと、心臓マッサージを救急隊が来るまで続けるための人手が必要だからです。

次に気道の確保。
顎を突き上げるようにします。そして呼吸の確認。目で胸の動きを見て、耳で呼吸音を聞き、頬で空気の流れを感じます。

「見て、聞いて、感じて、4,5,6,7,8,9,10」

号令をかけ10秒間確認。それでも呼吸がないなら呼吸停止状態。危険な状況ですから、人工呼吸をします。衛生のためのビニールシートもらって気道確保。普段はそんなものを持ち歩いていませんから躊躇するところです。顎を上げる姿勢を保ち、鼻の穴を塞ぎ、息を吹き込みます。
二回やって成功してもしなくても心臓マッサージに移行。感染の恐れがあるので人工呼吸は飛ばしても可。

心臓マッサージは1分間に100回の速さ。よく分かりませんが、大体でいいそうです。胸の中心に右手を当て、左手を重ね5センチ沈むくらいの強さでリズミカルに押し込みます。30回やったらまた2回人工呼吸。

脳の血流を維持するため、人工呼吸より心臓マッサージの方が優先されるそうです。

そこへAEDという心臓に電気ショックを与える装置が届いたという設定。
心臓マッサージを代わってもらってAEDの操作に入ります。機械の使い方は簡単。音声で支持してくれるのでそれに従うだけです。注意事項はショックを与える際、自分も、自分に代わって心臓マッサージをしている人も周囲の人も倒れている人に触れないこと。

数回のシュミレーションでなんとなくできるような気がしました。この技術が役立つことは無いにこしたことはありません。

2008/07/12
健康チェックは大便から

8日火曜日、愛知学院大学モーニングセミナーに出かけました。
講師は愛知医科大学教授 金光泰石先生。

大腸と便の話を分かりやすく説明してくださいました。

最初は大腸を支配する神経の話でちょっと難しかったのですが、真ん中あたりから具体的な分かりやすい話になりました。

排便回数は1日数回から4から5日に一回と個人差が激しいこと。自分のペースがみつかればあまり気にしなく
てもいいようです。

下痢や便秘の治療方法は薬剤など詳しくなさいました。

我々に役立つ話としては便の肉眼的評価でしょう。


およそ200から300ミリリットル。
高繊維食:便量多く、柔らかく弾性ある硬さ。
低繊維食:便量少なく、兎糞状。硬い便。
高脂肪食:量少なく浮遊便。
吸収不良:オイル状。


褐色:正常
白色:牛乳多飲。無胆汁便。
緑黒色:薬のせい。
タール様便:上部消化管出血。
黒色便:三日続くなら1リットル以上の出血。
血液便:大腸出血。大量出血。
排便時出血:肛門、直腸からの出血。
米のとぎ汁状:コレラ

便は体調のバロメータとなります。毎日、流す前に眺める習慣を作りましょう。



次のページから色々な虫や小動物の写真が出ます。人によっては見たくないものかもしれません。必ずしも可愛らしいもの
ばかりではありませんから注意してご覧ください。


2008/08/07
クマゼミ

三日間、毎日クマゼミがバルコニーのシマトネリコの木にとまっていました。朝夕には大声で啼いていましたからオスでしょう。そして、それに招かれるようにメスも来ました。

しばらく二匹で木にしがみ付いていました。ある時、一匹が幹を下って行きます。下まで行っては上るという行為の繰り返し。これはおそらく産卵です。

しかし、鉢植えに卵を産んでもおそらく幼虫の数年間を維持するだけの環境にはならないでしょう。確かファーブルが「本能の物知り、本能の物知らず」と言っていたように記憶しています。

自然の本能はセミに交配と産卵をさせました。でも、惜しいことにバルコニーという環境は不自然です。この木がバルコニーの鉢植えか大地の木か、そこまでの判断力は残念ながら本能にはないのです。

以前、バルコニーに水を撒いていたらトンボが来て今回のように産卵をしました。これもまた孵ることのない徒労に終わってしまいます。トンボは光る平面を池や川と勘違いするらしく、わたしは炎天下の車のボンネットにトンボが産卵する光景を見たことがあります。これも「本能の物知り、本能の物知らず」のなせる技でしょう。
子供のころ、クマゼミは貴重でした。夏休み明け、宿題の昆虫標本を持ち寄ったのですが、クマゼミはほとんどいません。わたしは両親の実家である広島でまんまと採集してきましたから鼻高々でした。

ところが近年は地元のニイニイゼミやアブラゼミを差し置いてクマゼミ全盛のようです。これをもって温暖化と決めつけることは止めますが、自然が変化していることは確かで、その渦中にいる人間も本当は鉢植えに産卵するクマゼミと大差無いようにも思えます。

立秋が過ぎました。風は確かに秋を含んでいます。かすかな秋を楽しむ余裕を持ちたいものです。

上の写真は200%に拡大すると口吻の刺さったところから樹液がにじみ出ている様子が分かります。
下の写真は樹液でおなかが一杯。
どちらもオスです。

2008/08/13
コウモリ

仕事場の近くの交差点で妙なものを見つけました。名古屋のメインストリートである広小路、今池交差点の一本東の交差点です。黒いゴミのようなものが動いていました。

これは夕方になると空を飛び交っているアレです。
朝方、地べたを這っているということは病気か怪我でしょう。いずれにしても車に轢かれてしまうので歩道へ運びました。持ち上げると小さな牙をむき出しにしてキーキー威嚇します。道に下ろすと必死で翼を広げますが飛べません。

両翼を広げたサイズは10センチあまり。とても可愛いです。人に踏まれず、太陽も当たらないところに置いておきましたがどうなったでしょう。
元気を取り戻して飛び去ってくれていたらいいのですが。

もしかして鶴女房みたいに美人に変身して恩返しにきてくれるかも・・・・。
部屋に籠ってこうもり傘などを作る・・・・。

もっとも吸血鬼かもしれませんから、それは遠慮しておきましょう。

俳句ではコウモリは夏の季語。「かはほり」(かわほり)とか「蚊喰鳥」とか呼びます。漢字では蝙蝠。

  蝙蝠やひるも灯ともす楽屋口 永井荷風




ムカデ
バルコニーの鉢の土を引っ掻き回したら、素早く走り回る細長い虫が一杯います。数珠のようにつながった節足動物で一節に足が生えています。
これはヤスデかムカデ。
ヤスデならもっと動作がのろく、つっつくと渦巻き状になります。それに拡大鏡で見ると一節に二対の脚があります。
この素早さで一節に一対の脚があるのはムカデです。調べたらどうも人体への害はほとんどないジムカデ。土の中の虫を食べているようです。しかし、毒は持っているようで油断はできません。

怖いのはオオムカデ。クワガタを捕りに行ったとき、オオムカデが蝉を咥えている情景を目の当たりにしました。かなりの迫力。夜でしたから写真は撮れませんでした。

以下の写真は江南市のマクドナルドで見つけたオオムカデ。



クワガタ

覚王山日泰寺近くの林でクワガタを捕まえました。
昨年見つけた秘密の木です。カブトムシや蜂が樹液に寄ってくるので時々散策します。
捕まえたのはコクワガタ二匹。飼育セットが品切れだったので適当な器と飼育用の土と木切れ、クワガタ用ゼリーを購入、ガーゼで蓋をしておきました。

翌朝、一匹が脱走。ガーゼに穴が空いていました。やはりガーゼでは無理がありました。室内にはいません。無事にどこかの林に戻ってくれていることを祈っています。
一匹は土に潜って一日を過ごしているようで、木を持ち上げると顎を振り回して威嚇します。


2008/08/08
茂一閉店・・・春日井市に移転。

仲田通りにあったラーメン店「茂一」が7月25日をもって閉店しました。昨年は今池の「人参ラーメン秀和」が閉店したばかり。どちらも以前よりお気に入りのラーメン店でしたから残念です。

「秀和」はなぜか調理人が変わって足が遠のいていました。しかし、「茂一」は若い店主が一生懸命にこだわった東京風醤油ラーメンで人気もありました。もともと名古屋で有名なラーメン店の後を受け継いで頑張っていたものです。

もっとも、その頑張りはやや客に緊張を要求するものでもありました。美味しいけど息苦しい。これがその店の印象です。

若い店主は、この後、小牧か春日井方面で店を再開するようです。
家賃の高い中心部から離れて、再度こだわりのラーメン道を歩むのでしょう。
開店したら行きたいものです。


あとがき
 
風信発行をサボりにサボって実に半年ぶりです。もっとかもしれません。その間、ブログには書き込みをしていました。

パソコンをウインドウズXPからVistaに変えました。するとプリンターが使えなくなりました。新しいキャノンのプリ
ンターを購入しました。無駄な出費です。
記録用のMOがダメになりました。諦めました。今はもっぱらUSBメモリーに記録しています。
HPを作っていたフリーソフトが使えなくなり、改めにホームページビルダーを購入してHPの作りかえ。これは大変な作業でした。まだ不十分です。
住所録もソフトを買って作成し直し。

パソコンの買い替えがここまで面倒なことになるとは考えてもいませんでした。

と言っても、これらが風信をサボる理由にはなりません。おおむねネタが尽きてきたこと。これが一番の原因です。しかし、生きていれば何かあります。これからも細々と書き続けていく予定です。
忘れた頃に届く。その方が風信らしいかもしれません。

愛知学院大学モーニングセミナー
このブログでときどき紹介している愛知学院大学モーニングセミナーのブログができていました。

http://www.agu-web.jp/~seminar/

最近のセミナーの様子を見ることができます。
モーニングセミナーは愛知学院大学楠元校舎(歯学部)講堂で、毎月第二火曜日午前7時から1時間開催されます。入場は無料。資料とバナナと牛乳が配布されます。

これから厳しい残暑の日々が続くことでしょう。夏の疲れも溜まっています。十分注意して生活しましょう。

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游氣風信 No.204 2009. 1.1


ごめんなさい地蔵

今池祭りのポスターで奇妙なお地蔵さんを見つけました。そして、それは以前、この近くで見た覚えのあるものです。そこで改めて探すべく出かけました。

ある情報で今池公園の近くだと知りましたので、その辺り一帯、不審がられることを恐れず歩き回ってきたのです。そして、見つけました。
一見、普通の民家のようです。同じものが知多半島にもあるという話も聞きました。
かわいい地蔵さんです。
今池公園は今池と千種の間にあります。
近くを通られたら探してみてください。
2008年9月 7日 (日)

俳句甲子園結果報告書
俳句甲子園結果報告書が届きました。
本戦は8月15日から17日まで四国松山で行われ、私はそれに先立つ愛知県予選の審査を担当しました。

昨年は愛知県の幸田高校が見事準優勝。最優秀句も幸田高校の清家由香里さんの「山頂に流星触れたのだろうか」が選ばれるなど大活躍でした。
今年は惜しくも一回戦で姿を消しましたが、昨年と今年、チームを率いて活躍した金田文香さんが特別賞を受賞されました。

俳句甲子園は年々参加校が増え、全国71チームがエントリー、決勝大会参加はそのうちの33校36チーム。なかなかの激戦となりました。優勝した開成高校は二年連続4回目と大健闘です。

俳句甲子園は「俳句を創作すること」と「鑑賞すること」、そして互いの俳句を通じて「意見を交わすこと」。これらを主体に行われています。

昨年、予選の審査をした時、その論戦がやや相手の俳句の揚げ足取り、ともすればケチのつけ合いに感じられたので最初の論評の際、「まず相手の句を素直に読んで解釈し、自分の世界と擦り合わせて鑑賞すること。俳句をリスペクトすることが大事で、そこから論を戦わせるべきだ」
と述べました。

すると次の戦いからは早速共感するべきところははっきり共感し、そこから疑問点などをぶつけるというやり方に修正してきました。畏るべし、高校生。その子たちがそのまま準優勝してくれたので大変うれしかったです。

高校生の熱気に触れると、惰性で俳句を作っている自分がさもしくなります。もう一度俳句を見直すありがたい機会でした。

来年も審査員を依頼されたらもちろん即答で受諾いたします。

今年の最優秀句は優勝した開成高校の村越敦君。

  それぞれに花火を待つてゐる呼吸 敦

でした。
2008年9月16日 (火)


東谷山と尾張戸神社

昨日は午後、時間の空きができたので森林公園に出かけました。ところがここは県の施設。植物園は四時半で、駐車場は五時で締切。着いたのが四時半。これでは中に入れません。

以前、名古屋市の博物館に行った時も駐車場に入った途端、係りの人が来て「終了です」。
それが午後五時。駐車料金だけ徴収されました。勤労者は公共施設を使うなということでしょうか。公務員が健康で安全に働けるための勤労規定もあるのでしょうが市民には冷たいものです。

ということで北隣にある東谷山へ移りました。ここにはフルーツパークがありますが、これも県の施設ですから終わっています。目的は山頂にある尾張戸神社と展望台。明るいうちに到着しなければいけません。

カーナビに随って山道を上がっていくと途中で通行止め。車を路駐して歩いて登りました。道はくねりくねり。なかなか山頂に着きません。そのうち木製の階段が見つかりました。これを登れば神社に行くだろうと見込みを付けて登っていくと、小さな祠がありました。

これが尾張戸神社か。ずいぶん小さいものです。やはり高いところだから建設が大変だったのだろうとさらに上がると、ついに山頂。今度は立派な社がありました。こちらが本殿だったのです。東側は開けて三国山や猿投山が見え、時に応じた日の出の時間と方向を示す案内板があります。きっと初詣と同時に初日の出を見る人で賑わうことでしょう。
西側には展望台。名古屋港から北の岐阜の山々まで見えそうです。

すでに夕暮れが近かった上に遠くが霞んでおり景観は良かったものの詳細を見ることはできませんでした。
展望台では二人の青年が立派なカメラを抱えて夕陽の撮影。しかし一人は条件が悪いと帰って行きました。もう一人の方は夜景も撮るためにもっと粘ると残られました。

お話をすると二人は知り合いではなく、たまたまそこで会ったのだそうです。残られた方はネットでそこが夕陽を撮影する絶好のスポットと知っていらっしゃったとか。

二台のカメラ、レンズだけでも30万円はしそうなものを携え、相当熱心に写真に取り組んでおられるようす。
「東側も景色がいいですよ」
「そうですか、では朝日も撮影できますね。ちょっと様子を見てきます」
と高価なカメラを置いたまま展望台を下りていかれました。その行動はよほどわたしが人畜無害に見えたのか、老いぼれでカメラを抱えて逃げる足腰は持たないと判断されたのか、のんびりしたものと驚きました。

帰る時、ブログの名刺をいただきました。素敵な写真満載です。
http://blog.livedoor.jp/hitoshi_stella/
2008年9月24日 (水)


愛知大学 秋季講座開始
今日から愛知大学オープンカレッジが始まりました。タイトルは『暮らしに活かす東洋医療』。全15回。終了は年を越します。
今回は13名の方が参加してくださいました。一人は三回連続。あとは全員初めて。年齢層は推定で20代から70代位。男性は二人。

本日の講義は『東洋医療入門』。これは元々名古屋市高年大学のために作った資料で、昨年の愛知学院での講演でも利用しました。もちろん色々と手を加えてあります。講義の内容は、

・東西医療の歴史や医療と医学の関係。今日の状況。
・東洋医療の基本思想。
・基本思想は大宇宙と小宇宙の調和。つまり天人合一について。

今風に言うと環境と人間の共存。そして環境と身体をいかに和していくか。これが実技につながります。
実技は足の経絡の簡単な刺激と仙骨呼吸。立ち方や脱力、身体の軸の話など総花的に行いました。
初回ということで講座のアウトラインの説明を兼ねた内容でした。おおむね好評であったと手ごたえを感じています。
2008年10月 2日 (木)

緑茶と糖尿病 朝日新聞より」
新聞で興味深い記事を見かけました。緑茶を飲むことで境界型の糖尿病の改善や発症の遅延効果あったというものです。きちんとした研究ですし、日常的な飲み物ですから参考になるかと思います。
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糖尿病のなりかけに「緑茶が効果」
1日7杯で血糖値改善
http://www.asahi.com/science/update/1004/TKY200810040094.html
2008年10月4日15時21分

 緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。
 血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人に協力してもらった。

 緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったんいれたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。
 平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

 一般にHbA1cが6.1%以上だと糖尿病の疑いがあるとされ、6.5%以上だと糖尿病と即断される。逆に患者の血糖値を5.8%未満に維持できれば優れた管理とされる。今回の成果は、糖尿病一歩手前の人が緑茶をたくさん飲むことで、糖尿病にならずに済んだり、発症を遅らせたりできる可能性を示した。

 2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

 研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子・常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている。(田村建二)
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ただのお茶ですから試してみてもいいですね。
ただし普段の食生活が肝心であることは言うまでもありません。
2008年10月 6日 (月)


メジロを助ける

今朝、治療室の近くにメジロが落ちてきました。ガラスにぶつかったようです。右の眼からかすかな出血。まだ暗いうちに飛んでいるからこんなことになるのです。

野鳥の保護はトリインフルエンザの恐れがあるのでいけないのですが、脳震盪だったようなので持ち帰りました。
元気がありません。右目がやや赤いです。

じっとしていましたが、1時間後、羽音を立てて飛び去りました。以前、車にスズメが当たった時も同じように飛んで行きましたから、今回も大丈夫だろうと思っていました。
2008年10月18日 (土)


金融と陰陽五行
知人のブログに金融危機のことが書いてありました。
その方は
「株など持たないし、生命保険にも加入していないから自分には関係ない」
というのです。わたしも株など持たないし貯金もありませんから、直接の関係はありません。
「しかし」
と、そのブログに別の方がコメントを寄せていました。
「政府も企業も為替や株で資金を運用している。
もはや誰もが金融の影響下にあって、そこから逃れることはできないのだ」
と。

これもまた正しい意見でしょう。

知人は博識と見識のある人ですから株の暴落は持たない人にも大きな影響を与えていることは十分承知の上で冗談で書いたのです。そこに別の方がまじめにコメントを付けたようです。そこから東洋医療入門に関わることに思いが至りました。

中国に古くから伝わる考え方として「陰陽五行」というものがあります。「陰陽」は月と太陽のこと。現象の中にそれぞれ月と太陽のように相反する性質を見出していく思考方法です。

それは弁証法の「正」と「反」を「止揚」して「合」という結論を見出していくという思考の運動に似ています。指圧の恩師増永静人先生も「陰陽と」いう考え方はよく利用されていました。

しかし、先生は「五行」は採用されませんでした。理由は分かりませんが、きっと「五行」はあまりにも観念的過ぎて指圧や医療を解くための論拠として役に立たないと考えられたのでしょう。
「五行」とは森羅万象は「木・火・土・金・水」の五つの要素からなり、それらが影響し合っているという考え方です。この考え方は政治や経済、医療、戦略、易、暦など広く用いられています。
森羅万象をいくつかの要素に分ける思考方法は中国独自のものではありません。古代ギリシャにも似た考えはあったようですし、古代インドから中国に伝わったという説もあります。

五行説では
「木は火を産み、火は土を産む。土は金を産み、金は水を産む。水は木を産む」
という円環があるとしています。これを相生関係といいます。母子関係ともいいます。

さらに、
「木は土を攻め、土は水を攻め、水は火を攻め、火は木を攻める」
という関係があり、これを相剋関係と呼びます。
身体でいうと
「肝は木で、心は火、脾は土、肺は金、腎は水」。
ただしこれら内臓は古典医学の物で現代医学のそれとは異なります。
五行で考えると肝は心臓母となり、肝は脾を攻めるということになります。

鍼灸や漢方では現在でもこの考え方を採用しているグループがあります。また否定しているグループもあります。先述したように、増永先生は「陰陽」は採用したのですが、「五行」は論理として採用するには根拠がないのでしょう、否定的でした。わたしも「陰陽」はものの見方として利用しますが、「五行」は知識として留めています。

では「五行」をどう捉えたらいいのでしょうか。わたしは「五行」は全てのものは互いに関連し合っているという思想のモデルだと考えています。森羅万象は全て関係の中に成立しています。一つのものだけが孤立しているわけではありません。科学ではそれを敢えて個別の物として抽出して研究しています。しかしそれをそのまま現実に置き換えることはできません。

「五行」はそうした関係性の中に森羅万象が存在していると教えてくれているのです。

冒頭の話題に戻りましょう。
経済も金融も政治も同じです。わたしたちはそれらとの関係の中にあって存在しています。時に翻弄され、時に利用し。株価の暴落は否応なく生活に影響してきます。これが「五行」の説く関係なのです。

先のブログに書いた人は続けて
「いずれ国内だけで生活や経済の基盤ができればいいが、それは無理な話でしょう」
というようなことを書いていました。全くその通り、無理だと思います。

鎖国時代の1734年、一冊の本がオランダで出版されました。解剖図譜「ターヘルアナトミア」です。それから40年後、わずか40年後に「解体新書」として翻訳されました。あの鎖国時代においてさえこの影響力。これ以後日本の医療は大きく変わっていきます。「風が吹くと桶屋が儲かる」というように遠い変化も何らかの影響力を持って関係してくるのです。

地球環境も、また金融や為替のような社会環境も、一見、離れたところにあるように見えて、実は生活に大きな影響を与えてきます。わたしたちはこうした関係性を離れて生きてはいけません。つまり自然や社会、あるいは時間的なあらゆる関係からは逃れることができない。これが「五行」の意味するところなのでしょう。
2008年10月19日 (日)


振り込め詐欺メール
知り合いの外国人から次のようなメールが届きました。その人のアドレスからきちんと届いたメールです。ただし、原文には行分けがなく読みにくいので、所々行を切りました。
------------------------------------------
Hi
How are you doing?
I am sorry i did'nt inform you about my traveling to Africa for a program called Empowering Youth
To Fight HIV /AIDS and the program has takes place in Ouagadougou,Kinshasa this year and now
in Lagos.
I need your help because i forgot my little bag in a taxi where my wallet and my ticket were kept and i
am in terrible bad situation right now.
I am having a little problem with the hotel about the hotel bill payment that i am owning and i kept
the money to pay the hotel bill inside the wallet now the hotel management want me to pay the bill
as soon as possible.
Please i want you to help me for the money to pay the hotel bill and the bill is $1,900 and with
another extra sum of $1,000 to feed and to help myself back home.
I want you to lend me $2,900 and i promise to refund your money back to you when i return.
I will appreciate what so ever amount you can afford to lend me and below is the details to send
the money to by western union money transfer.
I look forward to read from you once the money is send and reply me back with the control number
to receive the money at western union.
Best Regards
Receiver's Name :--- (知人の名前)


City:-- Lagos Island
State:- Lagos. Country:-- Nigeria
Text Question: (パスワード)
Text Answer: (パスワード)
-------------------------------------------
一人称の「I」が大文字だったり小文字だったり、あるいは「and」がやたらと使われていたりとずいぶん稚拙な文章です。

内容はエイズの調査にアフリカにいるが財布をタクシーで無くしたのでホテル代や食事代に困っている、必ず返すからお金を送って欲しいというもの。

このアドレスの主は確かにアフリカにエイズの調査に行っていてもおかしくないキャリアの外国人です。しかし今は子育てに忙しいはず。
自宅に電話をしたら本人が苦笑しながら出てきました。先ほどからこの件で電話が掛かりっぱなしだとか。律儀に返事を出したら詐欺師から再び返事がきた人もいるそうです。

アドレスが悪用されてしまったのですね。その方のアドレスはHPで公開されているから
悪意があれば何とでも使用できます。

もっとも、かの外国人はお金にゆとりがある方ですからこれが詐欺だとすぐに分かりました。しかし、これが私のアドレスからの金の無心なら、それは振り込め詐欺ではなく本当のことです。その時はアフリカなどという非現実な場所ではなく、近所の焼き鳥屋で支払いが滞ってしまい店長に縛り上げられている状況だと思います。速やかに送金してください。

冗談はともかく、気を付けましょう。
2008年10月31日 (金)

日経のインタビュー
2日の夕刻、日経新聞のインタビューを受けました。前日、愛知学院大学でモーニングセミナーのお世話をしておられる福井教授からメールをいただき、新聞のインタビューに応えてくれるよう依頼がありました。もちろん面白そうなので快諾しました。
インタビューの趣旨は早朝の有効利用。東京の地下鉄では混雑を緩和するため、早朝出勤する人にはポイントをプレゼント、50回の早朝出勤で3000円の商品券が貰えるのだそうです。ところが早く会社に行ってもその時間が無駄。そこで早朝をどのようにして有効に利用するかという記事が企画されたのです。
愛知学院大学はすでに三年近く、午前7時から8時までのモーニングセミナーを月に一回実施しています。講師は主として名古屋のあちこちの大学教授。受講者は全く一般の市民。

大学のこうした催しに興味を抱いた日経新聞がわざわざ東京から記者を寄こしました。その際、主催者の福井教授だけでなく参加者の声も聞きたい、誰かいないかということで私に白羽の矢が立ったのでした。これが事の顛末です。

インタビューは治療室で行われました。質問内容などは一問一答で紹介します。
●どうしてセミナーを知ったか?
 新聞に載っていた開催案内を知人の紹介で。
●普段、その時間は何をしているか?
 いつも散歩している時間だから都合がよい。
●何回参加したか?
 32回のうち、3回くらい欠席。
●何が一番印象に残っているか?
 イチローの話。これはブログに書いたが、今でも検索して訪問する人がいる。 http://h-mishima.cocolog-nifty.com/yukijuku/2006/08/200_dfde.html
●どこがおもしろかったか?
 夏休みで子どもから大人までの参加があった。講師の名古屋市立大学学長は幅広い世代に興味が持てるよう脳の話を整理して講義してくれた。イチローの小学校の卒業文集に書かれている「一流のプロ野球選手になる」という目標設定。それに基づいた努力。王監督の座右の銘である「海軍五誓」は高齢者の賛同を得る内容。
 さらに名古屋にはファンの多い高木元監督の登場。実技やお話の面白さ。その元監督を教授が一野球少年に戻ったような熱いまなざしで仰ぎ見ている様子も印象的。 話は脳は衰えることなく学習して鍛えることができるという希望の持てる内容だった。
●朝、セミナーをするというメリットは?
 一日が長く使える。朝、話題を仕込むことで人と会っても話題に事欠かない。
●夜ではどうか?
 早朝という隙間時間だからこそ自由に使える。夜は仕事が入ったりして時間がままならない。
●セミナーを長く受けてどう感じるか?
 朝のセミナーは暖気運転のように身体を整えてくれる。月に一回というリズムも身体に刻まれ、自然に会場に足が向かう。
●全体を通じて印象的なことは?
 ある話の後、参加者から「その研究が一体自分たちのためにどんな役に立つのか」という質問があった。その若い講師は返答に窮し、一瞬たじろいだ。研究のための研究なのか人の幸福に寄与する研究なのか、これは大切な問題だ。
専門家がその業績を独占していると時に不幸なことになる。そうして原子爆弾や化学兵器は製造された。政治や経済も牛耳られてしまう。専門家はその業績を一般市民に還元する義務がある。同時に市民もそうした研究に目配りする義務がある。
愛知学院大学のモーニングセミナーは一流の研究者が一般市民に業績を発表することでそうした役目を果たす場として機能している。これは素晴らしいことではないか。しかもバナナと牛乳を無料で配布してくれるという参加への動機付けまでしてくれる。ぜひ、今後も長く続けてもらいたい。

こんなような感じで楽しくインタビューは終わりました。日経新聞の方はとても柔らかな物腰で静かに人の話を導き出して下さいました。おかげで無口な私でさえ、ついついいろいろと話をすることができたのです。
果たしてどんな記事になるのでしょう。おそらく2、3行に要約されると思いますが楽しみです。
2008年12月 2日 (火)

インターナショナル
先日Aさんという方の治療をしました。その方の前後が外国人。Aさんは不思議そうに
「ここはインターナショナルですね。どうして外国の方がこんなにいらっしゃるのですか」
と質問されました。

確かに以前より減ってはいますが外国人はよくいらっしゃいます。
「どうしてでしょうね。口コミとしか分かりません」
とお答えしておきました。

今までこの街の片隅の、それもマンションの中の一室で看板も出ていない治療室に、いったいどれだけの外国人が来たことでしょう。
国名を思い浮かべてみました。

北米
カナダ、アメリカ

南米
ブラジル、ペルー、アルゼンチン

中米
トリニダード・トバコ 

ヨーロッパ
スウェーデン、デンマーク、オランダ、フランス、ドイツ、ギリシャ、イタリア、スイス、
チェコ・スロバキア(当時)、ルーマニア、ハンガリー、ベルギー、オーストリア、イギリ
ス、アイルランド、ブルガリア、ポーランド、スペイン

アフリカ
ザンビア、南アフリカ

アジア
韓国、ミャンマー、シンガポール、フィリピン

オセアニア
オーストラリア、ニュージーランド、パプア・ニューギニア

まだあるかもしれません。
かく言うわたしはまだ日本から出たことが無いので不思議です。
さて、これからイギリス人女性がやってきますから、standbyします。
2008年12月 7日 (日)


日経記事
先週インタビューを受けた日本経済新聞が送られてきました。記事は12月9日火曜日14面の生活面。早朝利用の具体例が東京の二か所と愛知学院大学。
わたし絡みのところは

参加者の一人で鍼灸(しんきゅう)師の三島広志さん(54)は「野球のイチロー選手を題材に元中日ドラゴンズ監督の高木守道さんが話した回が記憶に残る」と話す。

という部分。だいたい予想していた通りです。
インタビューの内容はこの前書いたように丁寧で1時間近いもの。きちんとした記事を掲載するため、新聞記事は意外に裏をしっかりとって書かれているものと感心しました。
2008年12月11日 (木)

訪問リハビリ・マッサージ
訪問リハビリ・マッサージを始めて三十年になります。それは私が鍼灸・マッサージの資格を取って以来の歴史と重なり、よくも今日まで続けてこれたものだなという感慨にもつながります。

初めての患者さんは65歳の元教師でした。
脳梗塞で右半身の麻痺と言語障害。努力家で小学校1年生から6年生までの漢字と計算ドリルを二回やり遂げ、日記も左手で毎日付けておられました。
この方のお宅へはなんと15年も訪問し、最後はご本人の大腿骨頸部の骨折や介護している奥さんにうつ病が発症したため中止となりました。
游氣風信5号はこの方がモデルで書いたものです。

二番目の患者さんは先ほどの方とほとんど同時に開始した方で、農業と行商で一家を支えてきた77歳の男性。空襲で二人のお子さんと家を消失するという悲劇を跳ね返して後のことです。
頑健が自慢の方でした。それが過信になり雪の日に上半身裸で畑仕事をしていて脳出血。
左半身麻痺でした。歩行できないまま退院されたのですが、訪問リハビリ・マッサージで杖歩行が可能となりました。
游氣風信63号はこの方のことです。

そんな具合にこの仕事を開始して三十年。
最初の十年はまだ制度が十分に整っておらず、その上、周知もされていなかったため患者さんも家族も私も何も分からないまま模索していました。
お宅を訪問するのは私たちマッサージ師と月に1から2回の主治医の往診。さらに数か月に1度の保健婦。在宅患者を抱え込んだ家族は本当に大変でした。精神を病んでしまうケースも少なくなかったのです。
当時から訪問マッサージは健康保険適応でした。ですから費用はほとんどかかりません。
障害者医療適応の方が多いので無料のケースも多いのです。これは大変利用しやすい制度です。しかし、その他の制度がありませんでした。

十年経った頃、措置による制度が充実してきました。保健婦が積極的に在宅患者を掘り起こし、ヘルパーの派遣や福祉機器の貸与や譲渡が行われるようになりました。これは画期的なことで、この頃から在宅患者はヘルパーによって清潔に保たれ、保健婦のアドバイスもあり家族もほっと息がつけるようになったのです。

さらに十年経つとご存じのように介護保険が生まれました。
こうして家族内で抱え込んでいた介護が外部化され、在宅患者は公的存在として認知されることになりました。
介護保険料や利用に基づく費用の負担はあるものの、患者、家族共々、大いに助かるようになったのです。
以下にも訪問体験記が書いてあります。

さて、今後はどうなることでしょう。
福祉予算の問題と少子高齢化の問題は待った無し。
社会全体が持てる能力をシェアしていかないと介護保険の存続は難しい状況です。元気な高齢者が特定(虚弱)高齢者を支援する時代はもう始まっています。
また自助努力(栄養や運動、生活スタイル)によって一人一人が被介護者になる状況を先送りすることも必要でしょう。
そうすれば結果として介護を受ける期間が短くなりますから、社会も家族も、何より本人が一番助かるのです。
来年はこうしたことも踏まえて、健康予防、介護予防に役立つ教室を考えています。

一応私も介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を持っていますし、介護予防運動指導員の認定を受けていますから。

2008年12月18日 (木)

名古屋市高年大学
今年も名古屋市高年大学鯱城学園の講師要請が届きました。これで8年連続くらいでしょうか。
最初は受講生が全員おじいちゃん、おばあちゃんに見えたものですが、昨年辺り、それほどの年の差を感じなくなってきました。
何しろあと5年でわたしも受講生になる資格が生じるのですから。
日程は来年1月23日金曜日午後1時からと2月6日金曜日午後1時からです。
生活科のA、B二クラスで同じ講義を行います。
テーマは「身体で学ぶ東洋医療」。

名古屋市高年大学鯱城学園
http://www.nagoya-shakyo.jp/1_10.htm
2008年12月26日 (金)

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游氣風信 No.205 2009. 3.4

●花粉症治療
今年も花粉症の季節がやってきました。この病気はある日突然免疫機構に何らかの変化が生
じて発症します。症状は免疫力の低下と同時に軽減しますから、加齢によって治るケースも
あります。

予防
マスクやメガネなどで花粉に被爆しないよう心がけることが最大の予防となります。
それに加えて冷えが影響するとされています。
冷えは西洋医学には無い概念ですが、東洋医療では重要視しています。
寒中、沈潜していた身中の陽気が春になって発揚すると同時に肝の氣が高まることで花粉症
が発症すると考えます。したがって寒中に身体を冷やす食べ物を摂取したり、生活をしてい
ると春に花粉症がひどくなる傾向があります。極力、生野菜や冷たい食物、ビールなどの摂
取を控え、寝る前には半身浴などで臍から下を暖めておくことが重要です。

治療
鍼治療で症状を軽減することが可能です。直接顔に鍼(鼻通、迎香、睛明、攅竹、神庭、上星、太陽などのツボ)をして症状の寛解を目指すと同時に、足の太衝や三里、手の
合谷や三里、おなかを温める臍周囲への鍼で対応します。

今年は花粉量も多いそうです。花粉症で辛いと訴えられる方が増えてきましたので、三島治
療室では花粉症でお悩みの方に特別治療として、1回3,000円(約30分)のコースを
設けました。
回数券は10回25,000円です。(指圧や脊柱の調整などは別料金になります。)






●保険治療
最近、保険治療に関するお問い合わせが度々ありますからご説明します。

鍼灸
健康保険による鍼灸治療は四肢や首、背中などに疼痛を伴う以下の疾患です。
 神経痛 
 五十肩
 リウマチ
 腰痛症 
 頚腕症候群
 頚椎捻挫後遺症(ムチウチ)
その他の疾患でも利用できることがありますからお尋ねください。

マッサージ
健康保険によるマッサージ治療は麻痺性疾患、関節拘縮、筋萎縮、廃用性萎縮などによって
運動機能障害を起こしているものです。具体的な病名では
 脳血管障害後遺症
 中枢性疾患
 外傷性の麻痺
 その他、神経性疾患、筋肉や関節の障害
三島治療室では上記の状況で歩行困難な方への訪問リハビリマッサージを行っています。
詳細はお問い合わせください。また介護保険を受けておられる方はケアマネージャーにお尋
ねしていただいても結構です。

同意書
鍼灸およびマッサージの保険治療を受けるための絶対条件は医師から同意をいただくことで
す。同意をいただいたら同意書に記入していただきます。これによって保険治療が可能です。
会社の組合保険では鍼灸などを認めていないところもあります。これはどうしようもありません。
同じ疾患で医師や他の医療機関にかかっているときは治療できません。一度ご相談ください。
同意書は三島治療室にあります。

治療代
鍼灸は
初回 2710円
以後 1525円
と決まっています。

お支払いはそれらの金額の1割から3割となりますから、一般は1回500円、高齢者は150
円が窓口での支払いです。
別途指圧や脊柱調整、テーピングなどは実費をいただきます。

マッサージは部位や訪問距離で異なりますから、ご相談ください。目安としては
1回260円から780円
です。訪問マッサージ対象の方の多くは障害認定を受けておられます。その方は無料で訪問
リハビリマッサージが可能です。









游々雑感
以下はブログに掲載したものです

2009年1月24日 (土)
高年大学
昨日、名古屋市高年大学鯱城学園で講義をしてきました。そこは中区の消防署の上にある立派な施設です。今年で講義すること8年目。

当初は受講者がおじいさんやおばあさんばかりだと思っていましたが、いつしか自分も入学資格に近付いてきたことを実感しています。入学資格は60歳です。

演目は「からだで学ぶ東洋医療」。医学と医療の違いや、中国の古い考え方である陰陽五行を説明しました。漢方医学の根本は「天人合一」。外部環境である大宇宙と内部環境である小宇宙(人体)との調和が大事だということです。

講義の中で、身体は外部環境である空、陸、海を体内に取り込むことでいのちを保持しているという話をしました。
空とは呼吸で吸い込む空気。東洋医療では天の気といいます。これは肺として存在します。
陸は腸を中心とした消化器。地の気をいのちに変える器官です。面白いことに畑の土に有用菌がいるのと同じように腸内細菌がいます。
海は血液。いのちは海に産まれ陸に上がりました。その時、体内に海を維持することでそれが可能になったのです。血液とはまさに体内にある海。血潮とはうまく言ったものと感心しています。これら陸海空を体内に持つことでいのちを保っているのです。

という話をすると以前の学生さんは「陸海空なんて、まるで軍隊みたいだ」と反応しました。多くの方が軍隊経験者だったのです。ところが今の学生さんに軍隊経験はありません。
8年という年月の重さに気づかされました。

同じ内容の講義を今度は別のクラスで2月6日に行います。
(追記:二日とも楽しく授業をすることができました。生徒さんの受けも良かった感じです)

2009年2月12日 (木)
後期高齢者医療制度とは
10日、愛知学院大学のモーニングセミナーに参加しました。
第35回の演題は
「後期高齢者医療制度とはどんな制度なのか?
―我々が必ず経験する医療制度なのに・・よく分からない?!―」
講師は名古屋市立大学大学院経済学研究科准教授澤野孝一郎先生。三十代の俊英です。高齢者を前にできるだけ分かりやすく話そうと心がけられているようすに好感が持てました。

例によって近々愛知学院大学のHPにその日の資料と動画が掲載されますから詳細の報告は止めます。http://www.agu-web.jp/~seminar/

当日印象に残ったことは高年者医療制度の変遷と平均寿命の話でした。

高年者医療制度は次のような歴史区分ができます。以下は当日の資料からです。

老人医療
1973年(昭和48年)より 70歳以上 
自己負担無料
老人保健 
1983年(昭和58年)より 70歳以上 
自己負担定額
前期高齢者医療 
2008年(平成20年)より 65歳以上 
自己負担2割(現在は暫定的に1割)
後期高齢者医療 
2008年(平成20年)より 75歳以上 
自己負担1割(所得によって3割)

これが歴史的変遷です。老人医療の無料は10年で破たんしたのですね。もっと長く継続していたような気がしていました。

厚生省の統計で日本の長寿・高齢化と医療費という資料が紹介されています。平成19年度のものです。
1970年(昭和45年) 
65歳以上人口  7,393,000人 
平均寿命 男69.31 女74.66
2005年(平成17年) 
65歳以上人口 25,672,000人 
平均寿命 男78.56 女85.52
1970年の国民医療費  24,962億円
2005年の国民医療費 331,289億円

1973年の老人医療無料の時の平均寿命は約70歳。つまり当時は平均年齢を超えた人たちへのサービスだったわけです。それを今日に単純に移動すると平均年齢から考えて80歳以上が老人医療の対象となってしまいます。ここに予算の難しさがあるのですね。しかも高度医療の進歩から医療費は鰻昇り。

こうした問題にどう対処していくのか。しかも今まで経済を支えていた団塊の世代があと数年で受ける側に回ります。医療費の破たんは目に見えています。

講師の澤野先生は次の対処法を述べられました。

投資せよ。
1 貯蓄に励もう!
  負担増への対処
2 健康、体力を増進させよう!
  健康は資本。
3 情報を積極的に集めよう!
  健康情報だけでなく制度情報とその監視

これらが個人でできる対応方だそうです。わたしの始めた経絡導引体操教室も微力ながら健康投資への役割を担っていると思います。

さて、わたしもあと10年で前期高齢者。その時果たしてどうなっているのでしょうか。現在の迷走内閣は「船頭多くして船陸に上がる」ならぬ「船頭不在にして船沈没」という様相を呈しています。
 

2009年3月 3日 (火)
きれいな空気 蕎麦切り「ふ~助」
レストラン紹介のサイトを見ていましたら、ある蕎麦屋さんの紹介記事の中に「店の空気がきれいだ」と書かれていました。それで興味を抱いて早速でかけてみることにしました。

店の名前は蕎麦切り「ふ~助」。東山公園の近くにあるこじんまりとした店。店内はカウンターに10名。4人掛けのテーブルが4つ。蕎麦屋というより江戸前寿司の店のように厨房が丸見えに設えてあります。

店を切り盛りしているのは30代かと思われる店長とその奥さん、女店員2名。計4名。ちょうど昼時で大変混んでいました。

ざるそば、出し巻き卵、季節の天ぷらを注文。店内は清潔で、従業員はてきぱきと仕事をこなしています。店長は出し巻き卵や天ぷらを調理しながら段取りを的確に指示。その有様全てがカウンターキッチンで広く見渡せます。

店長が出し巻き卵を見事に作り上げるところも、店員が大根をおろすところも、みな、カウンターから丸見え。まるで舞台を鑑賞しているようです。そして紹介してあった記事のように、確かに店の空気がきれい。

店内が禁煙であることはもちろんですが、それ以外の空気、雰囲気がきれいなのです。店長が料理する姿も店員が働く姿もみな美しい。そしてもちろん料理も。これは粋とイナセを身上とする蕎麦屋としてはこの上もなく好感のもてるものです。

端正な二枚目の店長が醸し出す清潔な雰囲気もあるでしょう。きびきびと料理をするだけでなく、店内に気を配り、指示を出し、お客に対してあらゆるものを最高の状態で提供した
いという意気込みがうかがえます。まさにきれいな空気の店。減点対象が見当たりませんでした。

それでふと思い出したのが池下の「AGARU」。炭火焼と創作料理のお店で、ここも30代前半の美男美女夫婦が経営。お相撲さんのような焼き専門の料理人とアルバイト1人で稼働している瀟洒なお店です。この店は炭火焼ですから煙が立ち上がります。また、店の性格上、禁煙ではありません。しかし、店長やその奥さんたちの醸し出す雰囲気はやはりきれいな空気なのです。

どちらのお店も開店して一年余りですが、すっかり評判を取って繁盛しています。きれいな空気・・・若い二人の経営者の態度に、わが身を振り返って深く反省し、自分の仕事に生かせたらと感じ入りました。こんなオヤジでもまだまだできるはずです。

ふ~助 
052-782-2266
午前11:30~午後3:00 午後5:00~午後8:00
月曜日休日
東山公園駅4番出口。場所は分かりにくい。

AGARU 
052-752-1141
午後5:00~午前0:00
水曜日休日
池下駅から錦通りを今池方面へ。最初の角。  

花粉症
花粉症の季節です。これは単に鼻や目の病気ではなく全身に何らかの症状が派生していますから、疲労をためないように過ごしてください。

今年は花粉の飛散が多いようです。この病気はある日突然発症します。誰もが罹る病気です。体調の維持も重要な予防でしょうし、罹患しても体調のコントロールである程度軽減できます。ともかく外からも内からもからだを冷やさないことです。そして症状がひどい場合は被曝を避ける対策が必要です。

最近は眠くならない薬も開発されているようです。辛い方は薬を服用することもしかたありません。鼻の穴に塗って花粉を遮断する軟膏もあるようです。いずれにしても上手に対応しないと生活が台無しになってしまいますからね。

訪問リハビリマッサージ
身近で寝たきり介護の方がおられましたら、健康保険による訪問リハビリが可能かもしれません。三島治療室にご相談ください。

何らかの原因で寝たままですとどんどん状況が悪くなります。本人の心身の衰えだけでなく家族も辛い先の見えない現実の中で蟻地獄に落ちたように困窮していきます。そうならないためには周囲の助けがとても重要です。困ったなと思ったら早めに保健師や社会福祉士、ケアマネージャーなどに相談することです。なにより行き詰る前に相談しておくことが大切ですから、周囲にそのような困窮者がおられましたら助言してあげてください。病院
や保健所、市役所などに窓口があります。

三島治療室では訪問によるリハビリマッサージを行っています。動けない人はマッサージや他動運動、動ける人はその能力に応じた機能訓練・・・寝返る、座る、立つ、車椅子に移乗する、歩く・・・少しでも日常生活を快適に過ごすための協力いたします。

リハビリテーションは社会復帰という意味です。マッサージや機能訓練などの治療はそのごく一部。人との会話、買い物や図書館へ行く、友達と喫茶店で会う、これら生活の全てがリハビリなのです。そしてその先には大きな目標、たとえば旅行にでかける、職場に復帰するなどがあります。

リハビリはそうした生きる目的を叶えるために日常で行うものです。未来への展望がないとリハビリ自体が目的になります。リハビリが目的化することは生きる励みという点で否定できませんが、その先の目的があったほうがより励みになります。展望や目的がないリハビリは、時に施術者や家族から強いられたいわゆるリハビリ地獄になってしまいます。

残された能力をどのように発展していくか、これがリハビリです。

NHKでリハビリ難民の特集をしていましたが、残念ながら訪問マッサージのことは取り上げられませんでした。わたしはすでに訪問リハビリマッサージを30年間継続しています。
これからも身体の許す限り関わっていくつもりです。

(游)

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游氣風信 No.206 2009. 5.18

2009年3月27日 (金)
鷹 四月号

俳句結社誌『鷹』が送られてきました。
『鷹』は先年亡くなった藤田湘子という方が創刊された歴史ある俳句雑誌です。2009年四月号で第46巻第4号だそうですから50年近い年月を刻んだ雑誌ということになります。

藤田先生は水原秋桜子の下で勉強された方で、指導力に定評がありました。現在は若い小川軽舟という方が主宰を受け継がれている精鋭集団です。しかしわたしは『鷹』とは何の御縁もありません。どうして郵送されてきたのか訝りながら封を開けました。

すると付箋が貼ってあります。開くとそこは「俳壇の諸作」というページ。筆者は辻内京子さん。驚いたことにわたしの俳句が鑑賞文とともに紹介されています。

 山彦が山彦を呼ぶ冬日かな 三島広志

 「藍生」一月号より。山に向かって「やっほう」と叫んだ子供のころの思い出は誰にでもあるだろう。「やっほう」と山彦が返ってくると嬉しくてまた「やっほう」と繰り返した楽しい経験だ。
 掲出の句は山彦が再びエコーする現象を詠んだものである。「山彦は山の神が答える声」というアニミズム的な発想や、自然の深遠な息づかいがこの句から感じられるのは、「山彦が山彦を呼ぶ」という措辞の手柄であろう。日本の原風景の持つ時間と空間の広がりを味わいたい句である。

身に余る高邁な鑑賞です。読み手がいいと詠み手が救われる実例。成程そんな読みもできるかと感心しきり。
 
この句はわたしが所属している俳句結社「藍生」の一月号に特別作品として巻頭に掲載された十句のうちの一つです。句の舞台は猿投山。名古屋の東郊外にある猿投山はオウスノミコトという大和武尊の双子の兄の墳墓が祭られていることで知られています。しかし現実に山彦を聞いた訳ではありません。現実に登った山での想像です。俳句は日常存問で日記のように詠むという人もいますが、創作ですから空想や捏造もあります。
そういえば『鷹』創刊の藤田先生の先生である水原秋桜子の句に
 
 高嶺星蚕飼の村は寝静まり 秋桜子

という高名な作品があります。これは信州と群馬の県境で作られた作品。蚕を飼っている村が深夜、寝静まっているという静謐な名句ですが、作者の解説によると作ったのは昼間。この句で作者は写生から創造へのきっかけを掴んだと書いていたはずです。手元に資料がないのでうろ覚え。俳句の表記も違っている可能性がありますがご容赦。

ともかくわたしの句が思わぬところで読まれ、掲載されていることに驚きました。文章を書く人は広く眼を光らせているものです。また、きちんと送って下さった『鷹』編集部の良識にも感謝します。

筆者の辻内京子さんは句集『蝶生る』で今年の俳人協会新人賞を受賞されました。これからが期待される方です。その句集から

 硝子戸は海の入口春の暮
 炎昼の階段掴むところなし
 大切な人の掌蝶生る

2009年4月 6日 (月)
俳句甲子園

昨夜、愛媛の村重さんから電話があり、今年も俳句甲子園の審査員を依頼されました。今年で三回目になります。

俳句甲子園は高校生による俳句の創作、鑑賞、ディベートの大会です。一昨年は愛知代表の幸田高校が準優勝しました。今年も高校生から勢いと鮮度を頂けると楽しみにしています。
日程は6月13日土曜日、詳細は不明。
俳句甲子園のHPは
http://www.haikukoushien.com/


2009年4月 9日 (木)
宮澤賢治 作品発見

宮澤家の蔵から地図の裏にメモされた賢治の作品が発見されたそうです。生前、全く無名だった宮澤賢治の原稿は弟清六氏が岩手県花巻市の実家の蔵で大事に管理保管されていました。空襲下でも窓や隙間に味噌を塗りこんで氏が死守されました。現在は花巻市の宮澤賢治記念館に収蔵されているはずです。したがって最早不明の原稿などは無いと考えられていました。ところがその蔵の建て替えで見つかったというから驚きです。

発見された原稿に書かれている詩は岩手の猊鼻渓の辺りの作品と考えられます。作品としての完結はしていません。以後、いずれかの作品に取り込まれた形跡もないようです。出先でふと思いついたことを手近の地図にメモし、そのまま忘れてしまったのではないかというのが研究者の見解です。

停車場の向ふに河原があって
  水がちよろちよろ流れてゐると
 わたしもおもひきみも云ふ
  ところがどうだあの水なのだ
 上流でげい美の巨きな岩を
  碑のやうにめぐったり
 滝にかかって佐藤猊岩先生を
  幾たびあったがせたりする水が
 停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
  運転手たちは日に照らされて
 ものぐささうにしてゐるのだが
  ところがどうだあの自働車が
 ここから横沢へかけて
  傾配つきの九十度近いカーブも切り
 径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
  そのすさまじい自働車なのだ

2009年4月16日 (木)
愛知学院大学モーニングセミナー
14日の朝、第37回愛知学院大学モーニングせみーなに行ってきました。午前7時から8時まで。朝早いのに会場には100名以上の方が集まって、熱心に講師の話に耳を傾けていました。
テーマは
「肝腎要の肝臓とはどんな臓器?」―肝に銘じようメタボとの関係―
講師は名古屋市立大学大学院 医学研究科 消化器・代謝内科学講師 野尻俊輔先生
肝臓の専門知識を簡潔に分かり易く説明していただきました。
かなり専門的な内容でしたが整理されていたためかとても理解しやすかった気がします。

肝臓の働きは
・糖 糖分の貯留(グリコーゲン)と放出を調整
・たんぱく アルブミン、血液凝固因子などの蛋白合成、アンモニアの代謝
・脂肪 コレステロールの合成、脂肪酸の代謝
・ビリルビン 壊れた赤血球から胆汁の生成
解毒や排泄
・薬物の解毒、アルコールの代謝
・細菌や異物、毒素を処理する
・ホルモンの代謝
など多岐にわたる。

肝がんによる死者が増えている。その80%はC型肝炎ウイルスの感染が原因である。
肝臓病が肝がんになる過程。

これらの説明の後、将来問題になってくるNASHの話。
NASHに関しては以前、モーニングセミナーのメタボの話でも取り上げられていました。
肝がんの原因疾患であるC型肝炎が減り、アルコールを控えることで肝臓病は減少するはずです。ところがそうはなっていません。そこで問題になってくるのがNASH。
NASHとは非アルコール性脂肪性肝炎のこと。
アルコールはほとんど飲まないのにまるでアルコール多飲者のように脂肪肝、肝炎、肝硬変となりやがて肝がんへ移行する
病気です。欧米では急速に増加し、日本でも将来そうなるだろうと懸念されています。
NASH患者の20%が10年で肝硬変になる。
肝硬変になると5年で20%が肝がんを合併する。
今盛んに言われているメタボ予防がそのままNASHの予防になるそうですから、食事や運動を意識して生活を構築する必要があるそうです。
詳細は愛知学院大学のHPをご覧ください。
http://www.agu-web.jp/~seminar/

当日の資料と講演ビデオが掲載されます。

2009年4月17日 (金)
哀悼 Tさん
昨日、長年訪問治療に伺っていたTさんがお亡くなりになりました。まだ70歳前ですが、闘病期間は20年以上、完全に寝たきりになって10年以上という大変な人生でした。

訪問開始は平成の声を聞いて間もなくでしたから、20年近く関わったことになります。その間、数回の入院時を除いて週に三回出かけていました。

Tさんは40代に入ってまもなくSLEという膠原病を発症し、その後数度の脳梗塞、薬の副作用による骨粗鬆症などに苦しみました。訪問当初は歩行訓練ができるくらいの状態でしたが、次第に困難となりついに寝たきり状態になってしまいました。しかし生来の明るさからデイサービスで人気者でした。

子どもさんのいないTさん夫婦は、奥さんが現役のころは昼に会社から戻ってはオムツを替え、また会社に行くという介護を長年こなし、退職後も音を上げることなくお世話をされました。腰痛に苦しむ一面もありましたし、高齢の母親の世話もしなければならないという厳しい毎日を過ごされたのです。

Tさんの明るい笑顔は奥さんの癒しでもありました。
近年は肺炎を病むことが多く、度々入院されましたが、その都度復活されていました。ただ今回の入院は呼吸困難を伴っており心配していました。嚥下性の肺炎ということで胃ロウという直接胃に栄養物を流し込むチューブを付けたのですが、その後炎症を併発し、ついに不帰の人となりました。

Tさん、長年の闘病ご苦労様でした。これからは大好きでもできなかったパチンコや釣りを楽しんでください。
奥さん、お疲れ様でした。さびしいでしょうが、今後のご自身の人生を大切に。

2009年4月22日 (水)
佐藤勝治さんのこと
宮澤賢治関連のメールマガジンからあるブログ壺中の天地へ飛んで行ったら、佐藤勝治さんのことが書かれていました。
佐藤さんのことは以前HPに追悼文を書きました。
游氣風信 34号そのことをコメントに残したところ、ご丁寧にお返事をいただきました。思えば人生、色々と不思議な出会いをしているものです。やはり人は人間としてさまざまな関わりの中でしか生きていけないのですね。


コメント
ゆうき様
 ブログにお書き下さいまして恐縮しております。
 先生の「遊氣」での医療や俳句に門外漢な小生は、いつも感心して拝見しておりました。游々雑感で「シンコク」や「コクゼイ」を読んだときには、プロフィールのこわさから 少し解放されました事を思い出します。(A;´・ω・)アセアセ
 先生は宮澤賢治学会には早くからの会員のようですね。(会員取得番号より)賢治が医療についてどのように考え、どの様な行動をとられたのか具体的なことがお解りでしたならお教え下さりたく思います。大変失礼な数々、ご容赦ください。

2009年4月27日 (月)
フランス紳士M氏
治療室に定期的にいらっしゃるフランス紳士M氏は大学でフランス語を講じておられます。大学の帰りに来られる日はネクタイをしてジャケットを羽織り、紳士然とした装い。
「カッコいいですね、フランス製ですか?」
「ノン、岐阜のオンセンドー。ネクタイ500エン、シャツ1000エン、ブレザー2000エン、安いね」
「・・・・・・・・・そうですか(汗)」
やはり洋服は西洋人向けの服飾。
安くたって雰囲気が紳士。
M氏、決して二枚目ではないのですけど、雰囲気がカッコいいので不思議です。

2009年5月10日 (日)
コンビニ弁当要注意
リサイクルはその言葉の美しさとは裏腹に危険を伴うことを忘れてはいけません。紙をリサイクルするためにはたくさんの化学反応を必要としますから、通常の製紙以上に薬品を使うことになります。つまり公害の危険性を伴うのです。
コンビニ弁当の残りを集めて家畜に与えるというリサイクルも始まっています。狂牛病は食品の再利用で起こったことを忘れてしまったのでしょうか。この危険性を訴える人は以前からいました。
たとえば以下のブログ。
http://takedanet.com/2009/05/post_b778.html
この警鐘は真摯に聞くべきでしょう。

ニュース短信 コンビニ弁当,危険になる!
「コンビニ弁当が,きわめて危険な弁当になった.
狂牛病というのがあるが,あれは「屠殺したウシのガラがもったいない」として,それをリサイクルし,飼料にしたことによって起こった。その後,「共食い」は動物によらずに狂牛病に似た病気を起こす」ということが判ってきた.人間ではクールー,ヒツジではスクレイピーである.
すべて狂牛病のように悲惨な死を遂げる。
コンビニ弁当の残りをブタやトリのエサにしているらしい。「食品リサイクル」と言っているが,まさに狂牛病の発症と同じ状態である。
つまり,まだブタの肉をブタに食べさせたら狂豚病になるか,トリの肉をトリに食べさせると狂鳥病になるのかは判っていない.少なくとも研究結果は発表されていない.またそれが人間に感染するかも不明である。
でも,私たちは過去の誤りを参考にする事ができる.つまり,豚肉や鶏肉,またはそれらの加工食品や肉汁などを使用しているコンビニ弁当を,ブタやトリに食べさせることはきわめて危険であることを知っている。
それで育てたブタやトリの肉がコンビニ弁当に入っているのだ.危険度は,食品添加物や遺伝子作物の比ではない.危険きわまりない.
私は大手コンビニが弁当を,ブタやトリの飼料として使い出したというニュースに接し,コンビニ弁当を買うことを止めた。
国民の健康は,環境省や大手コンビニエンスストアーのものではない.厚生労働省もコンビニ弁当が安全だとはアナウンス
していないので,とにかく当面,「狂豚病にならない」という研究結果をこの目で見るまではコンビニ弁当を買わないことにした.
特に子供には食べさせないようにしよう.
(平成21年5月10日 執筆)武田邦彦
(C) 2007 武田邦彦 (中部大学) 引用はご自由にどうぞ」

2009年5月13日 (水)
愛知学院大学モーニングセミナー 心臓
昨日、朝7時からの愛知学院大学モーニングセミナーに出かけました。今回のテーマは心臓。
「あなたの胸キュンは大丈夫!?」
―心臓の鼓動を考える―
講師は名古屋市立大学大学院医学研究科
心臓・腎高血圧内科学 大手信之先生
詳細は近日中に愛知学院大学のサイトに動画や資料が掲載されますからそちらをご覧ください。
http://www.agu-web.jp/~seminar/

心臓は自覚されないほうが健康であること。
放置してよい不整脈と危険な不整脈があること。
必要なら薬や外科的処置が奏効すること。
心臓疾患で怖いのは心不全や心筋梗塞だが、脳卒中を誘発することを忘れてはいけない。
冠動脈は70%狭窄しないと症状が出にくいこと。
高血圧、高血糖、高脂血症は危険要因であることに間違いない。

などの話を映像を見ながら説明していただきました。
来月は「サブプライムローン」の話。
7月はたかべしげこさんの朗読で「なめとこ山の熊」(宮澤賢治)だそうです。

あとがき

千種公園で見かけたコゲラ。小さい啄木鳥です。
枝の真ん中に何とか映っています。
http://h-mishima.cocolog-nifty.com/yukijuku/2008/12/post-fbd6.html#search_word=コゲラ

大阪、神戸で新型インフルエンザが拡大しています。通年、日本ではインフルエンザに罹患する人が1500万人、亡くなる方が15000人。死亡率が0.1%。今回のインフルエンザは死亡率が0.4%。通常の4倍です。
特徴として若い人が多く感染、発病しています。これは過去に似たウイルスが流行し、年長者はある程度の免疫を持っているからだと考えられています。しかしウイルスは突然変異します。神経質にならないよう健康状態を保ちながら衛生に努めましょう。
東洋医療では内因(内面の問題)と外因(環境の変化)
に不内外因(生活スタイル)の偏りが病気を生むといいます。心配しすぎは内面を傷めますから、極力穏やかに、健康に留意した生活を心がけましょう。

以下のサイトは参考になります。
感染症診療の原則
http://blog.goo.ne.jp/idconsult
(游)

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游氣風信 No.208 2009. 8.18

スコーン 名古屋走り? ロールケーキとバームクーヘン 戸苅ひな子さん 愛知学院モーニングセミナー 茂一再訪 賢治の催しなど

2009/06/23
Scone スコーン
定期的に身体のメンテナンスにいらっしゃるイギリス人J女史。近々大学の同僚とドイツ料理を食べに行くとか。

そういえばイタリア料理、中華料理、スペイン料理、フランス料理、インド料理、ベトナム料理、ルーマニア料理など各国のレストランはあるのに、英国料理店はありません。アメリカ料理もありません。果たしてイギリスにおいしいものはあるのか。率直に聞いてみました。その結果は予想通り、J女史の返事は悲観的でした。

「残念ながら日本と比べると英国に美味しいものはない。しかし・・・」、と、言います。
「スコーンはおいしいよ。わたしも時々自分で作るの」。

スコーンはスターバックスで食べたことがある旨を述べたところ
「あれはアメリカのもの、本当のスコーンはあんなものではない」
と女史の強弁。

ということで、名大近くにある紅茶とスコーンの店でスコーンとダージリンを買ってきました。果たしてどんなものか。期待を込めていただきました。

その結果は予想に反して、というか予想通りというか、スターバックスで食したスコーンと同様、パサパサしてさほどおいしいものではありません。味はともかく食感がどうにも納得できません。J女史の話ではもっと柔らかいはずなのです。ここは他人の評価も気にしてみようとネットで探したら以下のブログを見つけました。

「日本でも最近は紅茶をポットでサービスするところが増えてきましたが、イギリス人が何杯も紅茶を飲むのは、たいていサンドイッチやスコーンやケーキなどと一緒に飲むからで、特にスコーンのようなパサパサしたものは流し込むのに何杯もの紅茶が必要になってくるからだというのです。現に向こうのスコーンは日本で食べるものよりもさらにパサパサしているみたいです。」
http://plaza.rakuten.co.jp/kako145/diary/200607040000/

「スコーンというのは家で焼いた方が断然おいしいと思うからです。スコーンは焼きたてが一番おいしいのです。それに、自分で焼けば当然好みの焼き方が出来ます。一流のホテルのものでも、ほとんどおいしいと思ったスコーンはありません。ましてや、イギリスのティールームのスコーンは、パサパサしていてわたしの好みではないのです。(そうそう、アイルランドのAvoca のスコーンはおいしかったです!)」
http://hknoodle.at.webry.info/200606/article_70.html

ほとんどわたしと同意見。やはりパサパサしておいしいものではなさそうです。今度はJ女史手ずからになるおいしいスコーンを食べてみたいものです。
註:コイケヤのスコーンは全く別物ですから混同しないように・・・・。



名古屋走り?

知り合いのオーストラリア人女性。最近真っ赤なヴィッツを買ってドライブに挑戦。ところが自転車は飛び出してくる、オートバイはルール無視、自動車も路駐しているし、歩行者は止まらない。しかも赤信号でも止まらない。これでは怖くて日本では運転できなといささか憤慨。

赤信号でも突っ込むのは名古屋走り。赤信号でも2台、ひどいときは3台は突っ込んでくるから注意するようにと説明しました。ただ、このままでは日本の沽券にかかわるので交通事故の国際比較を調べてみました。2006年の記録です。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/6830.html

すると10万人中、事故死は日本が7名でオーストラリアは8.5名ですから日本の方が確率的には少ないことが分かりました。ついでにアメリカは15.3名、韓国は15.5名。さらに英国は6.2名。少ないのはフィリピンや香港の2 名。これは道路事情や車の保有率がかかわっているようです。

これらの具体的な数字を見た彼女はオーストラリアの方が死亡率が高いことに驚いたうえで、日本もさほど心配はないと安心したようです。

阿吽の呼吸で成り立っている日本の交通マナーをマスターするためにはバスケットボールのような訓練が必要でしょう。
彼女は若葉マークを目立つように貼って、周囲の人に注意してもらうと言っていました。


ふわふわトロトロ
ロールケーキとバームクーヘン
人気のケーキが名古屋に進出して若い女性を中心に人気があるようです。遅ればせながらわたしもそれをいただく機会がありました。

ひとつは〇〇ロール。ロールケーキです。今、ロールケーキが流行っているようであちこちで見かけます。ロールケーキと言うからにはカタツムリの殻のようにクルクルと巻かれたものを想像していました。ところが〇〇ロールは外側にひと巻き、中にクリームがどっさり。構造は大餡巻きと同じです。味はふわふわトロトロ。コンビニで売っているファンシーというケーキのよう。

クリームは牛乳由来の生クリームだけでなく、植物由来のものも混ざっていてこの食感だそうです。スポンジ部分にはショートニングも使用。これは疑問です。クリームは牛乳でなければアカンでしょう。こうした食品はヨーロッパでは認められません。国によっては一日に摂取しても可能な量が決められています。つまりあまり健康的でない食品と言えます。

もう一ついただきました。これは○○○のバームクーヘン。バームクーヘンは木のケーキという意味です。年輪模様から命名されたのでしょう。ところがこの○○○のバームクーヘンには年輪模様がほとんどありません。しかもやはりふわふわトロトロ。こちらもショートニング使用。やっぱりアカンやろ。心ある職人ならそうしたものを使わずにしっかりしたケーキを焼き上げるはずです。量販のためには仕方ないことでしょうが。

以前ドイツ人に聞いたことがあります。バームクーヘンはある地方の古いケーキでドイツ人でも知らない人が一杯いるとか。調べたところ第一次世界大戦の捕虜だったドイツ人バームクヘン職人のユーハイム氏が日本に紹介したそうです。もちろんあの有名なユーハイムです。

年輪模様から記念品や結婚式の引き出物に使われます。ところがドイツ人は知らない。どうもケーキ職人(パティシエ)とバームクーヘン職人は異なるようです。面白いですね。

しかしふわふわトロトロの味というか食感。舌触りも手ごたえもない情けない味。とりわけバームクーヘンは木のような食感が欲しいものです。ただひたすら柔らかくやさしい味と食感。そのあたりが何かというと「癒されたい」という若い女性に受けるわけでしょうか。



健康診断グッズ

以前から治療室に置いてあった体脂肪計が壊れたので新しいものを買ってきました。体重、体脂肪率、内臓脂肪、筋肉量、推定骨量、BMIなどが測定できます。
血圧計も置いてあります。治療においでの際、ご自由にお使いください。


2009/07/01
戸苅ひな子さん

今朝の中日新聞に戸苅ひな子さんが取り上げられていました。
http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2009070102000064.html

もっともこの方のことはNHKを始め多くのメディアが幾度となく取り上げていますからご存知でしょう。
http://www.horae.dti.ne.jp/~npo/keamanetogari.htm

今から4年前。わたしがケアマネージャーに合格したとき、一緒に研修を受けたのが戸苅さんでした。教職を終えた後、70過ぎてヘルパーになり82歳でケアマネージャーの試験に合格された人だと聞きました。わたしも50歳を過ぎてから受験したので高齢の部類でしたが、彼女はさらに30歳年上。大いに驚いたものです。

チームが違ったのであまりお話をする機会はありませんでしたけど86歳の今も元気にケアマネージャーをしておられると知って、ますます感心。

2009/07/03
うれしい便り
以前身体調整に来られていたアメリカ人のB氏の奥さんからメールが届きました。ご夫妻はアメリカに移って、ご主人が医学部を目指していました。そしてついに合格の知らせ。

優秀な大学を出てマスターも複数持っているB氏ですが、文科系ですから理科系の単位の取得には大変な努力があったと思います。

なにしろB氏は49歳。これから4年間の学生生活は厳しいことでしょう。住まいも西海岸からワシントンDCへ移るそうです。今度は卒業、そして医師の試験に合格したという便りを心待ちにしています。

2009/07/14
愛知学院モーニングセミナー
今朝、愛知学院大学モーニングセミナーに出かけました。本日の演目は『たかべしげこの朗読から宮澤賢治の世界を見てみる』-「なめとこ山の熊」から考えてみよう・・・現代社会を!-講師は名古屋音楽大学大学院教授たかべしげこさん。たかべさんは俳優であり、演出家です。

本日の眼目は何と言ってもプロの俳優による「なめとこ山の熊」の朗読。プロの口舌とはかくも明瞭で滑らか、しかも表現豊かだったかと改めて感心しました。

このストーリーは、なめとこ山辺りを猟場としている淵沢小十郎と熊との交流です。意に反しながらも熊の狩猟を生業としている小十郎。仕留めた熊の毛皮と熊の胆(い)を町の商家に売ることで年老いた母と孫たちを養っています。そしてある日、猟に失敗して熊に殺される。熊たちは小十郎を手厚く葬るというヒトと熊との交流を原初宗教的に描いています。

なめとこ山は岩手県に実在します。わたしは今から30年以上前、単車で近くまで登りました。何の変哲もない山ですが、半世紀前、賢治が実際に歩き回り、淵沢小十郎という創作された人物が熊を追って山深く分け入ったのかと想像することで大いに感動した記憶があります。

ストーリーの中に小十郎と荒物屋の旦那の一節があります。足元を見られて毛皮も熊の胆も安く買いたたかれる小十郎。したたかな旦那。

この光景はおそらく賢治が幼いころから目の当たりにしていた実体験に基づいていることでしょう。賢治の家は大地主で質屋と古着屋も兼務していました。さらに賢治の母方の祖父は大変裕福な商家です。この旦那のモデルは祖父ではないかとされています。

こうした弱者からの搾取によって自分の生活が成り立つことに嫌悪を抱いた賢治は父親と反目し、家とは異なった宗教に入信、父親を困らせます。結局父親は商売を弟(お会いしたことがあります)に継がせ、賢治は生涯を父の経済的庇護のもとで暮らすことになります。4年間だけ農学校の教師で俸給を得ますが、多くはレコードなどに消費していたようで、金持ちの道楽の域をでていません。

しかし弱者救済への思いは強かったようで、冷害を無くすために人工的に火山を噴火させ、温室ガス効果で温暖化を招こうなどという壮大なストーリーも書いています。「グスコンブドリの伝記」ですね。

賢治は現代のエコロジーや有機農業の開祖のように持ち上げられることもありますが、彼は化学肥料を推進して農業を発展させようと考えていましたし、科学の力で農民の労力を減らしたいと強く考えていました。

教育や宗教にも関心が深かったのですが、労農党への傾斜は警察沙汰となり、所属した宗教団体は大東亜共栄圏の基礎になった過激なものでした。賢治礼讃は極めて危険です。十分に批判しながら、その描かれた世界を楽しみたいものです。

愛知学院大学HP
http://www.agu-web.jp/~seminar/index.php?ID=30

愛知大学講座終了と蝉の幼虫
木曜日、愛知大学の講座「東洋医療と経絡エクササイズ」が終了しました。良い生徒に恵まれて楽しく15回を乗り切りました。インフルエンザ休校で一週遅くなってしまいました。それで最終回に来れない人もあってそれは残念でした。

講義の後、あるアンケートで当選したレストランへランチ。某有名シェフの店で最も予約が取りにくいことで有名。味は塩辛く、魚も臭い。「タダだから、まあ、いいか」という感じでした。(人の話やネットの書き込みでも塩辛いという評価が非常に多かったです)

予想外にボリュームがあったので腹ごなしに自転車でイオン名古屋ドーム店へ一走り。書籍や文房具など見て外へ出るとうす暗くなっていました。

千種公園内を横切ると凄まじい蝉の声。ふと、幼虫が穴から出ている時間帯(午後7時前後)だと思い出し、地面を調べました。穴は一杯開いていますが暗くてよく分かりません。野球少年たちはまだ大声を上げていますが足元は暗いのです。それではと、幹にある抜け殻を触って行きました。ひとつ、ずしりとした手応えがあり、次の瞬間地面に墜落。
「しまった、これは幼虫だった」
と慌てて探しましたが暗いので分かりません。
自転車のライトを持ってきて地面を注意深く調べました。これは点滅式ライトなので見にくいこと。
それでも芋の子のような塊を見つけ摘み上げると指をがっしりと掴みます。
「生きていた」
と安心して幹に置くとすごい勢いで登っていきます。
「おお、本能」
感動してケータイの写真に収めたのがこの写真です。
何とか映っています。10時ぐらいには脱皮して、翌朝、元気に飛び立つことでしょう。


『銀河鉄道の夜』の天気輪 

宮沢賢治---Kenji-Reviewというメルマガが発行されています。渡辺宏さんという方が毎週発行。すでに545号まで出されていますから10年以上の継続です。これは大変なことです。しかも氏は別に食に関するメルマガも毎週発行しておられます。

今朝届いた第545号2009.08.01にはわたしのHPからの引用がありました。現在、氏のメルマガでは『銀河鉄道の夜』という賢治の代表作の原稿の変遷を辿っています。今回は「天気輪の丘」の場面で、以前わたしが俳句の会報に書いたものが引かれていたのです。

「からふね」第三五回
http://homepage3.nifty.com/yukijuku/karafune/k35.htm
--〔引用はじめ〕------------------------------------------
浄メ石磨きこまれて青葉梅雨

「浄メ石」は石の柱の上の方をくりぬき、石や金属の車が滑車のように回転するように作られた柱です。名前からするとその車を回すことで心身が清められるのでしょう。
この柱は古寺に見受けられるもので、天気輪、地蔵車、念仏車、菩提車、血縁車などと呼ばれています。意味はその名前から想像してください。

宮沢賢治の名作、「銀河鉄道の夜」にも「天気輪の丘」という章があり、そこはこの世と死の世界の境界を暗示しています。主人公のジョバンニはその丘から死の世界を走る銀河鉄道に乗り、またこの世に幸せを見つけるために戻って来たのです。そのストーリーのテーマを象徴するものとして賢治は「天気輪」を利用しました。それは死から生への円環思想のシンボルなのです。
-[引用終わり]―――――――――――

もう随分前に書いたものです。読み返すと懐かしいですね。

渡辺さんのメルマガは以下のHPから申し込むことが可能です。
宮沢賢治童話館、全詩篇など
http://why.kenji.ne.jp/
安心!?食べ物情報
http://food.kenji.ne.jp/
そこからメルマガも申し込めます。

2009/08/07
茂一再訪

今池のはずれ、春岡通りにあった人気ラーメン店「茂一」。感じのいい青年が一生懸命に切り盛りしていました。その店の前身は「麵屋なかの」。有名店です。その後「茂一」と改名してやっていました。私の一番好きなラーメン店でした。ところが突然閉店。
http://h-mishima.cocolog-nifty.com/yukijuku/2008/08/post_6b3f.html#search_word=茂一

春日井方面で始めると書いてはありますが、なかなかネット上に情報が出てきませんでした。どうしたのかと心配していました。しかし、ついに春日井市で開店したとのネット情報がありました。
http://h-mishima.cocolog-nifty.com/yukijuku/2009/01/post-ad23.html#search_word=茂一

昨日、春日井方面に用事があったのでやっと顔を出してきました。店長は私の顔を覚えていてくれました。「あちらは酔っ払いばかり相手にしていましたけど、こちらはご覧のように家族連れが多いです」と、うれしそう。なるほど、入り口には子ども達さんに渡すおもちゃが満載です。メニューは少し変わっていました。私は辛い赤ラーメンを注文しました。それでもベースは「茂一」のもの。やはり美味しかったです。

今池の店を閉める前の大将は見ていて辛そうでした。肩も痛めて麵の水切りもきつく、一月近くの休みもありました。でも、今日はすこぶる元気そう。「肩は大丈夫なの」と尋ねると、若い人を指差して「スタッフが入ったのでぼくは力仕事はしなくていいのです。肩もなんともありません」と満面の笑顔。経営もうまくいっていることが伝わってきます。

春日井は大将の通った大学のあった場所のようです。
お近くへ行かれたらぜひ食べに行ってください。
あっさり味がベースのラーメン屋さんです。
店名
茂一 (もいち)
ジャンル
ラーメン
TEL
0568-51-3335
住所
愛知県春日井市気噴町392
営業時間
11:00~14:30
17:30~22:00
ランチ営業、日曜営業
定休日
水曜日
駐車場

禁煙・喫煙
完全禁煙

医道の日本
「医道の日本」という月刊誌があります。鍼灸を中心とした治療関係の業界誌。理論や臨床例、ニュースなどが掲載されている老舗雑誌で実に通巻791号。第68巻ですから戦前からの発行です。

わたしは以前数回、論を掲載し、新年の挨拶も10年ぐらい書かせていただきました。加瀬健造先生を囲んだキネシオテーピングの座談会に出席したこともあります。キネシオテープの症例報告はおそらく私が最初に医道の日本に書いたものと記憶しており、それを読んだ加瀬先生からお招きをいただいたのです。

座談会は亡くなった戸部雄一郎先生の司会で、編集部の方、鍼灸師、柔道整復師、スポーツトレーナー、そして私が参加。場所は新宿の料亭でした。その後の刺身の旨さに驚いた想い出があります。

三島治療室便り「游氣風信」は同誌に毎号寄贈し、その都度タイトルを掲載していただいていましたが、なぜか十年くらい前から載せていただけなくなりました。ところが今月号の231ページを開くと、「会報・会誌等」のコーナーに著名な会報や会誌に混ざって

 游氣風信 第207号 三島治療室

と掲載してありました。復活です。
ちょっとうれしいですね。

2009/08/13
慢性腎臓病 愛知学院モーニングセミナー
11日火曜日、午前7時から第41回愛知学院大学モーニングセミナーへ行ってきました。

今回のお話は
慢性腎臓病(CKD)の国民的脅威 ・・・腎臓病の基本を考える・・・講師は名古屋市立大学大学院・医学研究科 腎・機能学教授 木村玄次郎先生

例によって講義の詳細は愛知学院大学のHPで録画したものがそのままご覧になれます。資料も掲載してありますから詳しくはそちらをご覧ください。
http://www.agu-web.jp/~seminar/

要約すれば

・腎臓は血液をろ過し、要らないものは尿へ、要るものは再吸収する臓器。
・重要な部分は糸球体。血液がここを通過するときろ過される。
・血液性状の問題などで通過が悪くなると体は血液を送る圧力を上げる。これが高血圧。
・従来の治療はこれを何とかしようと蛋白制限などで治療してきた。
・今日ではむしろ糸球体の出口を重要視することでスムースな通過を維持する。
・そのための薬がRA系抑制薬。出口を広げることで心臓や腎臓への負荷を軽減する。

腎臓病のメカニズムが大変よく分かったお話でした。

ところで今回に限らず専門家のお話にある種の疑問というか願望がくすぶっていました。専門家による分かりやすい医学知識の講義はありがたいものですが、結局は毎回「薬で治しましょう」ということでした。医師である研究者のお話だから当然と言えば当然です。

心臓のとき、わたしは心臓を患いやすい性格傾向として「タイプA」について質問しました。せっかちで怒りんぼ、慌て者などをタイプAというようです。血液型ではありません。その解答は「確かにそういう傾向はあるが、性格を変えることは難しいので薬で対応しましょう」ということでした。

薬は最後の手段として残しておきたいのが会場に集った多くの方の共通した思いではないでしょうか。確かに検査の数値に従って速やかに薬を用いてコントロールすることで今日、多くの方が健康で長生きな人生を享受しています。しかしそれだけでは人生どこか寂しいではありませんか。まるで生産性を高めるためだけに飼われている家畜のようです。しかも医療費が高騰するばかりでしょう。

一人一人が日常出来る養生。それもメタボ対策以外の。これらも示していただけると朝早くセミナーに参加する意味もさらに深まると思います。

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游氣風信 No.209 2009. 10.25

奥の細道 平和公園二題 食糧自給 韓舞 インフルエンザ 頭痛

2009年9月3日
「奥の細道」をよむ
長谷川櫂著『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)を読みました。

著者、長谷川櫂氏は私とほぼ同年。俳壇内外で精力的に活動しておられます。氏は東大法科から読売新聞記者というエリートながら、一念発起して40代で俳句一筋の生活を送っておられます。
俳句創作はもちろん、俳句論や一般の読者も楽しめる季語の本など多くの著作があります。また、朝日新聞の「朝日俳壇」選者としても知られています。

長谷川氏とは面識がありませんが、30代の一時期、二人とも平井照敏主宰(故人)の『槇』という結社に所属していて名前は知っていました。その頃からすでに俳壇的活躍もされており、私たちの世代を代表する俳人としてみるみる頭角を現されたのです。

近年は「古池に蛙は飛びこんだのか」という論を発表して俳壇に波紋を投げかけました。これは芭蕉が俳句開眼したとされる

 古池や蛙飛びこむ水のおと

という句の解釈。以前から様々な解釈はあるものの一貫して古池に蛙が飛び込んだという実景だとされてきました。ところが氏はこれを否定します。芭蕉は蛙が飛び込む水の音は聞いたが古池は実景でなく想像である。つまり「蛙飛びこむ水のおと」という現実から導かれた「古池」という心の世界だというのです。長谷川氏はこれを単に推察したのではなく芭蕉の弟子の支考が書いた『葛の松原』という俳論集から解き明かしています。

「古池の句は蛙が水に飛びこむ現実の音を聞いて古池という心の世界を開いた句なのだ。この現実のただ中に心の世界を打ち開いたこと、これこそが蕉風開眼と呼ばれるものだった。」(41ページ)

と氏は書いています。そして「奥の細道」の旅はこの世界を深めるために挑戦したのだと説きます。この件はなかなかスリリングな展開ですが、俳壇にも賛否のさざ波を立てました。

芭蕉の流派を蕉風といいます。それまでの俳諧は文字通り諧謔的な滑稽を旨としていました。芭蕉は古池の句を通して新しい風雅の「誠」の世界に目覚め、蕉風を起こします。その最高の境地が「不易流行」であり「かるみ」です。

長谷川氏はこの本で『奥の細道』の構造に秘められたさまざまな仕組みを解明していくと同時に、芭蕉がその旅の過程で境地をさらに深めたことに気付きます。旅中の人との出会いや別れ。何より壮大な大自然、宇宙の運行との遭遇。これらが芭蕉をして芭蕉ならしめたのです。

「不易流行」は芭蕉の説いた俳句論です。「不易」とは不変的なもの、「流行」は刻々と変化するもの。物事にはこの両面があるが「其元は一つ也」ということです。これは不易と流行のどちらがいいということではありません。現象は刻々と変化しているが宇宙の運行は不変であるというある種の世界観です。これを長谷川氏は

「人の生死にかぎらず、花も鳥も太陽も月も星たちもみなこの世に現れては、やがて消えてゆくのだが、この現象は一見、変転きわまりない流行でありながら実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行だった。」(189ページ)

と書いています。壮大な論立てで感動的です。

そこかららさらに「かるみ」へと進みます。「かるみ」とはまさに軽み。これは俳句表現を重くしないで軽くしようということだと考えられていました。重い表現は「おもくれ」として嫌われるのです。この「かるみ」を長谷川氏は次のように説明しています。

「人生はたしかに悲惨な別れの連続だが、それは流行する宇宙の影のようなものである。そうであるなら、流行する宇宙が不易の宇宙であるように、悲しみに満ちた悲惨な人生もこの不易の宇宙に包まれているのだろう。
そう気づいたとき芭蕉は愛する人々との別れを、散る花を惜しみ、欠けてゆく月を愛でるように耐えることができたのではなかったか。これこそが『かるみ』だった。」(196ページ)

旅での別れや大自然との出会いで得た悟りのような境地。これが「かるみ」であって、単に軽く表現するということではないのです。

長谷川氏は若い時から俳句論を宇宙論として説いていました。それが年齢を重ねることでより深く、より身近になったのではないでしょうか。

氏は以前ほど難しい俳論は書かれていないような気がします。むしろ深いことを軽く表現しているように思えます。日本文化の中の俳句を深く追求することでそこに宇宙的広がりを見出す。これは芭蕉の俳論に共通するものだと思えます。

2009年9月7日
再生と破壊
定期的に身体調整に来られるJさん。ややテンションの高いアメリカ人女教師です。先日帰りがけにいつもよりハイテンションで語ります。
「三島は平和公園行った?」
「まだ暑いからいかない。紅葉の頃や冬は小鳥が見れるからその頃には行くよ」
「今、平和公園ひどいよ。工事ばっかり。ブルドーザーやトラックが一杯。散歩できないよ」
「何の工事?」
「知らない」
ということで昨日空き時間に車を飛ばして行ってきました。
すると確かにものすごいありさま。日曜日ということで工事は休みでしたが、いつも使用する駐車場にも重機が置かれ使用禁止。案内所で話を聞きますと、森の再生、湿地の保全のための工事だそうです。今日は工事が休みだから入ってもいいというので足を踏み入れました。戦後の高度成長期、あちこちに見られた宅地造成のようです。
里山の森を再生する工事とは不思議な話。里山は暮らしと自然のボーダーで微妙な均一性を維持してきた貴重な風土です。暮らしを排除して一面墓地としたところが里山として機能することはありえないでしょう。それを無理やり工事するのは奇妙な話です。
実は以前から気になっていたのがこの下の看板。平和公園のいたるところに立っています。しかもそのすぐ横には東山動物園のコアラのためのユーカリ林。鉛入りのユーカリを食べさせていいのでしょうか。

この辺り、一面のユーカリ林。様々な種類のユーカリが植えてあり、いい香りがします。

もうひとつ気になったのは公園内にあった耕作地の掘立小屋。住人がいたようないないような。今回の工事はこれを完全に排除することになるでしょう。
これも工事の理由の一つと思います。

さらに湿地の保護という発想。湿地はいずれ森になるのが自然の摂理です。それを無理して保護する必要があるのでしょうか。

平和公園は山崎川の水源だそうです。パンパスグラスの辺りから細い川が流れそれがオタマジャクシの蒲の穂の池につながる辺り。途中菖蒲等が咲いてとてもいいところです。それが今回このように岩を用いて土木工事されるようです。しかもそのために井戸まで掘ったそうです。
これが掘られた井戸。向こう側の植物がパンパスグラス。穂が艶やかに光っていました。(この井戸の辺りが山崎川の水源になります)

荒涼として惨憺たる光景。いずれは森として再生するのでしょうが、どこかに釈然としないものがあります。


(ここは来年名古屋で開かれるCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)の主要会場になるため、こうした工事をしているとも聞きました。)

こちらのブログに、当該工事の概要と進捗状況が記載されています。きっと美しい公園として整備され利用しやすくなるのでしょうが、それがよいことなのか、よくないことなのか、よくわかりません。

平和公園の自然
前のエントリーでは平和公園の荒涼たる部分を紹介しました。しかし、公園全体の緑はとても豊かです。今回はそちらの写真を掲載します。

これが公園全体の地図。工事をしているのは下側です。
カラスウリ。晩秋には深紅にそまるでしょう。撮影中やたらと蚊に刺されました。自然とはそういうものですね。
初冬、多くの人が公園内の柿を採りにきます。すでに熟れているものもありましたが、これは渋柿のよう。

秋を彩る柿に対して、盛夏を飾ったヒマワリは枯れています。まるで死人の群れ。
これはゴンズイという木の果実。初秋の山に鮮やかなアクセント。ゴンズイという魚もいますが、語源はなんでしょうか。

ふうの実。愛知学院大学附属病院の前にも街路樹として植えられています。拾った木の実が待合室に置いてあります。

これらの巨木はトチノキ。最初の写真に木の実が写っています。栃の実煎餅に使われます。木の実がたくさん落ちていたので拾ってきました。待合室に置いてあります。
これはシラタマホシクサ。案内所の人がさいている場所を教えて下さいました。遠くから見ると星の様。近くで見ると白い球。名前の通りです。


http://hanaemo.5.pro.tok2.com/hanaemositti/fiowers/sitti/yosigaike2007.9/page0001.htm

このサイトをご覧ください。

これが前のエントリーに書いた井戸とそのそばのパンパスグラス。ここから公園の入り口にかけて小川の造成がされているのです。赤い頭の支柱が井戸。 ショウリョウバッタがいました。のんびりしていたので捕まえてしばらく遊んだ後、放ちました。

平和公園と聞くと墓ばかりという気がしますが、実は里山全体が公園。とても名古屋市内とは思えないくらい自然が豊かです。

2009年9月8日
食糧自給率を考える・・愛知学院モーニングセミナー
第42回愛知学院大学モーニング・セミナーへ行ってきました。今日のテーマは食糧事情。

『日本の食料自給率39%を考える―世界の食料需要トレンドから見えるもの―』
講師は名古屋市立大学大学院経済学研究科教授 向井清史先生

例によって詳細は愛知学院大学のHPに掲載されます。資料と動画ですから参加されなかった方も同じセミナーが受けられるわけです。したがってここでは要点だけ。

1.日本は他国に比べて自給率が低い上に、唯一傾向的に低下させている。
自給率の計算にはカロリーベースや金額、重量ベースなど様々あり、一般的に言われている自給率はカロリーベースつまり供給熱量ベースだそうです。これが一番生存に直結するからです。品目別にはコメが90%の自給率。小麦と大豆はほぼ輸入に頼っています。
セミナーの後、何故そんなに輸入に頼っているのかという質問がありました。その答えは値段の違いと生産に適した気候の問題だとのこと。確かに国産の小麦粉では美味しい讃岐うどんは作れないと聞いたことがあります。スパゲッティ然り。

2.何故、自給率が低いと問題なのか?
食品は必需品で毎日必要。一時の不足も許されない。昨年は投機や代替エネルギーで穀物価格が暴騰しバングラデシュ、フィリピン、エジプトなど20カ国で暴動があった。国際的には基礎代謝量の1.54倍の自給が最低水準だとされています。基礎代謝量とは寝ていても消費する熱量のことです。

3.何故、日本の食料自給率は低下したのか。
A、食生活の欧米化によりコメの消費が減った。これは極めて珍しい例。多くの国では宗教や習慣のため、食生活に激変はない。
B. 生産基盤の脆弱。
  農業従事者の減少と高齢化 
  耕作面積の縮小と空洞化
  総産出額の減少:生産の絶対的縮小と農産物価格低下
C. リスクに弱い農業構造
  世界市場の不安定化が農家の減少を招く

農業で食べてはいけないというのが大きな原因です。外国からは格安の農産物が入ってきますし、天候の影響で収入が不安定ですから。世界の市場原理と環境的制約によって従来のやり方では農家が立ち行かなくなっているのです。
しかもコメの消費量はこの40年間で半減しています。これではコメ農家も政府の援助なしではやっていけないでしょう。相当広範な農地を用いて効率を上げていくしかありません。従来の個人農家では自家消費分が精一杯です。
農家戸数はここ20年で半減。しかも農民の半分以上は60歳以上ですから、農業に明日はあるのか心配になります。

では今後どうしたらいいのでしょう。
講師のお話では我が国が傾向として食糧不足に直面する可能性は小さいが、自給力を維持することが必要だとのこと。
自給率を上げることより、自給力を維持するとは耕地の確保と農業後継者の育成でしょう。また、地産のものを消費することが生産者を助けることになりますし、無駄な石油エネルギーを用いて運ぶ手間も省けます。これが自給力の維持につながることと思えます。
しかし戦争や天災があれば輸入が難しくなります。自国だけの生産は天候不順で一気に吹っ飛ぶこともあります。政治力で多くの国から輸入することで購買路を確保すると同時に、いつでも増産できる体制を維持することが肝心なのでしょう。

最後に水の問題を説明されました。日本は作物を輸入することによって実は膨大な水を輸入していることになります。コメ可食部1キロに水は3.6トン必要だそうです。現在日本は年間627億立方メートルの水を輸入しているのだそうです。これもまた心すべき問題です。

その他、放出窒素の問題もありました。
このレポートは先生のお話と私見が入り混じってしまいました。
ぜひ、愛知学院大学のHPの資料もご覧下さい。
http://www.agu-web.jp/~seminar/

2009年10月16日
注意するべき発熱  朝日新聞コムから
インフルエンザの感染が広がってきました。いずれにしても全員が感染するだろうという予測は初期から言われていました。
感染しても発病するとは限りません。体調を整えること、生活のリズムに気を付けること、手洗いやうがいで予防することです。
もし、子どもが異常な様子を見せたら以下のことを注意してください。
朝日新聞の記事です。

―引用ここから―

新型インフルに限らず、子どもの病気の大半は発熱する。熱があっても、食べたり、眠れたり、笑ったり、遊んだりしているなら自宅で様子をみていればいい。しかし、下記のような症状があったら、インフルエンザ脳症や呼吸障害など重症化する恐れがある。すぐ受診しよう。
 アスピリンやメフェナム酸、ジクロフェナクナトリウムの入った解熱剤は脳症を誘発・重症化するので、家にあっても子どもにのませてはいけない。
〈症状の例〉
 呼びかけに反応しない
 意味不明のことを話す
 行動がおかしい
 15分以上けいれんが続く
 呼吸が浅い
 呼吸が速い
 のどがゼーゼーしている
 顔色が青い
 判断に迷うときは、小児救急電話相談(#8000)にかければ、各都道府県の相談窓口にいる小児科医や看護師につながる。
―引用ここまで―
気管支喘息などの既往があれば要注意です。
いずれにしても慌てず、恐れず、やり過ごすしかありません。

2009年10月10日
韓舞 水と花と光と  金利惠
今日調整にいらっしゃったCさんが、知り合いのイヴェントだとパンフを下さいました。韓国の伝統舞踊の金利惠さんの韓舞(からまい)「水と花と光と」いう公演です。この方は以前にも「白い娘道成寺」という舞いを披露して好評を博されました。残念ながらその時は行けなかったので今回は是非出掛けたいと思っています。

詳細は
http://www.aoitori.org/tyumu2/tyumu.html
をご覧ください。

名古屋公演 2009年11月26日(木)
会場 名古屋能楽堂
開場 18時半
開演 19時
全席指定 前売 5000円  当日5300円【終了】

韓国から数名の演奏家を伴ってのイヴェントですから、韓国文化にどっぷり浸ることができるでしょう。前日は福岡、28日は東京公演です。

金利惠さんは東京生まれ東京育ち。両親は幼くして渡日。5歳からバレエを学び、20歳のとき母国韓国を訪問、衝撃を受け、東京で韓国舞踊を学び始めたそうです。中央大学文学部を卒業後、1981年単身帰国移住。人間国宝李梅芳氏に師事し本格的に修行。現在ソウルに住み、韓国の重要無形文化財履修者。韓日のみならず世界各国で公演をされています。

パンフレットには最初にこんな俳句があり驚きました。
  花に舞へ奥千本の花に舞へ  黒田杏子(俳人)
黒田氏は藍生俳句会主宰。わたしは何を隠そう第1回藍生新人賞受賞者。つまり黒田氏はわたしの俳句の先生です。そういえば以前、氏が結社誌(2009年1月号)に

 金利惠さんに
  冬麗の人在日といふ希望  杏子

という句を載せていたことを思い出しました。つまり韓国舞踊家金利惠さんと俳人黒田杏子氏は知り合いだったのです。しかもこの句は
  花に問へ奥千本の花に問へ  杏子
が原型で、金さんのためにそれを
 花に舞へ奥千本の花に舞へ  杏子
と改変されたのです。むろんこれは金さんへのオマージュです。奥千本は花の名所吉野。金さんの代表作「白い道成寺」のある紀伊半島ですから、そこも掛けているのでしょう。

今回は意外な縁に驚きました。もっとも黒田杏子氏はとても顔が広い方なのであちこちの有名人が知り合いです。驚くことはないかもしれません。
いずれにしても当日が楽しみです。
追記:
以前わたしのところでやっていた俳句会に参加していたOさんが現在ソウルに滞在しており、ソウルの俳句会で金利惠さんとも知り合いのようです。なぜならソウル俳句会の俳句がネットに出ており金さんやOさんの俳句が出ていたからです。
http://www17.plala.or.jp/yoshio-box/haiku7-seoul-kukai.html

2009年10月19日
がんこな頭痛にご用心!   愛知学院大学モーニングセミナー
愛知学院大学モーニングセミナーに出かけました。
今回は第43回。

テーマは「がんこな頭痛にご用心!」―頭痛を軽んじていませんか?―

講師は名古屋市立大学大学院 医学研究科 神経内科学 教授 小鹿幸生先生。
内容はかなり高度でしたがきちんと整理されたお話で大変理解し易かったです。
例によって愛知学院大学のHPで資料、画像ともに公開してありますからそちらをご覧ください。
http://www.agu-web.jp/~seminar/

お話の中で改めて納得したことは

・頭痛を感じているのは神経や膜、血管であって脳自体は痛みを感じない
・脳細胞は毎日10万個死んでいるが、心配には及ばない。脳が半分に委縮するのに2000年以上かかる。
・痛みは警告である。
・慢性の疾患は脳の可塑性という柔軟な性質によってなかなか症状がでない。
・頭痛のほとんどは緊張型頭痛(40.1%) 片頭痛(36.0%) 群発頭痛(5.3%)である。
などでした。

緊張型は肩凝りや目の疲れから生じる一般的なものです。マッサージや入浴が功を奏します。それに対して片頭痛は血管性の拍動のある痛みが特徴で入浴やマッサージでは悪化することがあります。
群発頭痛は馴染みがないでしょうが、実は、わたしは30歳頃の数年間これに苦しみました。6月末毎年発生して2週間位目玉が飛び出るほどの痛みで仕事もできないほどでした。ある年、大阪へ勉強に行ったのですが余りの痛みにこれでは無理かと生まれて初めて頭痛薬を飲みました。これが効いたのかそれからこの頭痛が出てくることがありません。専門医に聞くとその薬では群発頭痛には効果がないそうですが不思議です。
危険な頭痛
緊急を要する頭痛や重篤な病気が隠れている頭痛もあります。これは速やかに専門医に相談するか精査が必要となります。

1、いままでにない激痛
2、精神・神経症状を示す頭痛(髄膜刺激症状や巣症状)
3、憎悪傾向を有する慢性の頭痛(鈍痛)
4、発熱、関節痛、筋痛などの全身症状伴う
5、中年期以降(50歳以上)に初めて経験する頭痛発作
6、薬物乱用が疑われ治療が困難と感じられた場合
7、定型的頭痛と診断して治療を開始したが、薬剤に反応しなかった場合
8、認知症やうつ症状の一つと考えられる場合

1はくも膜下出血や緑内障が疑われます。
2は脳血管障害や腫瘍の心配があります。
3はどんな病気でも憎悪は放置できません。鈍い頭痛は脳腫瘍の場合があります。
4はインフルエンザなど感染症が疑われます。
5、頭痛は先ほど書いたように片頭痛なら10代から、群発頭痛なら20代から発症しています。歳を取って急に出てくる頭痛は要注意なのです。
6の薬物は市販の頭痛鎮痛剤のことで特殊な薬のことではありません。
7の場合何か重篤な病気の可能性もあります。
8の頭痛は器質的なものではないので対応が異なります。

心配な頭痛は脳外科もしくは神経内科への受診をお勧めします。危険な頭痛ではないと分かったらぜひ三島治療室どうぞ。肩の凝りや目の疲れ、ストレスなどに対応することで頭痛の軽減に役立つことでしょう。

●保険治療
○鍼灸
保険適応は運動器に疼痛を伴う疾患です。
 神経痛
 五十肩
 リウマチ
 腰痛症
 頚腕症候群
 頚椎捻挫後遺症(ムチウチ)
 その他
その他の疾患でも利用できることがありますからお尋ねください。

○訪問リハビリマッサージ
保険適応は麻痺性疾患、関節拘縮、筋萎縮、廃用性萎縮などによって運動機能障害を起こしているものです。具体的な病名では
 脳血管障害後遺症 中枢性疾患 外傷性の麻痺 神経性疾患 筋肉や関節の障害 加齢による廃用性運動障害など
三島治療室では歩行困難な方への訪問リハビリマッサージのみを行っています。
介護保険を受けておられる方はケアマネージャーにお尋ねしていただいても結構です。


あとがき

爽やかな日々が続きます。こんなときはとても気持ちがいいのですが、乾燥しやすいので注意が必要です。東洋医療では乾燥の予防に季節の果物を食べるように勧めています。

乾燥はインフルエンザの感染を助長します。これも要注意。いずれにしてもこうした疫病は感染しなければ終息もありません。多くの人が免疫を獲得すると自然に習得するようなのです。したがって日常生活の不摂生を戒め、感染しても発病しないようにしたいものです。発病したら休むしかありません。こじれない限り数日で治るはずです。

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新年の挨拶

窓ありて水美しき初茜  原コウ子

 初茜とは元日の朝、日の出前の空があかね色に染まることです。

 朝日は毎日気持ちを新たにしてくれます。それが新年ともなればさらに清新な美しさで満たされます。ものごとの始まりは朝日のような自然現象でも、また、暦のような人為的な区切りでも、何がしかの感動や希望、あるいは未知への神秘を孕むものなのでしょう。そこに初日の出を待つよろしさがあります。この俳句は新年の朝の清々しい景を窓から見える水に焦点を置くことで余すところなく表現しています。

 作者の原コウ子さんは大正時代を代表する俳人原石鼎の夫人。実はわたしの最初の俳句の先生です。わたしは二十歳前、石鼎が創刊した『鹿火屋』という老舗の俳句結社に入会しました。当時主宰しておられたのが作者のコウ子さん。コウ子さんは病弱だった石鼎の補佐を長い間全うされ、石鼎没後は『鹿火屋』を継承主宰されたのです。そしてわたしが入ってまもなく主宰を養子の原裕氏に譲られ、現在は裕夫人の和子さんが継承しています。

原コウ子先生略歴 http://www.city.kaizuka.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/52/temp19.pdf
以前『藍生』に書いた拙文 http://homepage3.nifty.com/yukijuku/haikuron/g01.htm

『鹿火屋』という誌名は「かびや」と読みます。それは石鼎の名句、

  淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守

に由来しています。

 鹿火屋守とは山の畑を荒らしに来る鹿や猪などを追い払うため、夜間、鹿火屋という小屋に泊まり込んで銅鑼などを打ち鳴らす当番のことで秋の季語になります。石鼎は闇夜に遠くで鳴る銅鑼の音を聞きながら「きっと鹿火屋守は獣を追うのではない。淋しさを紛らわすために叩いているのだろう」と感じたのです。これはまた石鼎の心の状態でもあります。後に精神を病んだ石鼎の繊細な側面が伺われます。多感な?高校生だったわたしはこの句が大変気に入り、大学生になって『鹿火屋』に入会したのでした。しかし父の死などで生活に追われ、結局、俳句に集中することなく退会してしまいました。コウ子先生はそんな事情を察し、会費を取ることなく俳句を続けるように手紙を下さったのですが不肖の弟子はそれに応えることができませんでした。


 初日は人の営みとは関係なく暁光を降り注いできます。「天行は健なり。君子もって自ら彊(つと)めて息(や)まず『易経』」と古書にあります。天の巡行に則っりつつ人智を働かせて暮らしていきたいものです。

 今年一年もまた昨年と同様、不透明な現実に翻弄されることでしょう。であればこそ静謐な元旦の太陽を望み、一年の出会いの初めとして寿ぎたいと思います。

どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

三島広志
〒464-0850 名古屋市千種区今池五丁目3番6号サンパーク今池303号
052-733-2253
h-mishima@nifty.com

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游氣風信 No.201 2008. 1.20

今池うまい店便り その2

その1で紹介した店関連のHP

萬福鮨(寿司)
http://www.imaike.gr.jp/
瀟洒で粋なお店。店主の心遣いが隅々まで行き届いて気持ちのいいお店です。地元の人たちの社交の場にもなっています。

かどまつ(焼き鳥)
http://gourmet.jp.msn.com/restaurant/details.aspx/restaurantid=68754/ptid=35/
最近は人気が出てきたのか、カウンターが満席で入れないことが多々あります。女性店主は開業当時20代でした。今は?です。名古屋駅前にも支店があります。

味乃にしき(和風ステーキ)
http://www.ajinonisiki.com/
マスター夫妻が腰をすえて味を守っています。本店は伏見。

きも善本店(焼鳥・炭焼き)
http://www.kimozen.com/
活気に溢れたお店。メニューが安くて豊富です。テレビの全国放送に出た後は問い合わせが大変だったようですが、大将の気さくさは変わらず。大将は空手家でプロレスラー(今池商店街公認iWBCチャンピオンマグナム今池)、ハーレーダビッドソンに跨るバイカーです。

たいら(焼きとんかつ)
http://www.geocities.jp/yakitonkatutaira/
職人気質の大将が魅力。ここのとんかつは一般のように油で揚げることはしません。フライパンの上で油をかけて作るようです。

呑助飯店(中華料理)
http://www.eleking.x0.com/ra/blog/archives/001/cat610/
重油と称される濃いラーメンと白餃子が有名。

百老亭今池店(餃子専門店)
http://blog.so-net.ne.jp/machilog_mt_nagoya/2006-04-18
あっさりした餃子。揚げソバも美味しい。

味仙(台湾ラーメン)
http://www.misen.ne.jp/
台湾ラーメンの創始者。

茂一(薬味ラーメン)・・・・春日井市に移転
http://raou.maxs.jp/shop/096.htm
シンプルな東京風ラーメン。しょうゆ味です。

秀和(中華料理)・・・廃業 現在はつけ麺大勝軒
http://raou.maxs.jp/shop/807.htm
 人参ラーメンで知られたお店です。

酒肆蘭燈(バー)
http://plz.rakuten.co.jp/bcs888/diary/?act=view&d_date=2007-01-26&d_seq=0&sact=c&lp=1
名古屋を代表する名バーテンダーのお店。錦から移転して親子で経営しておられます。料理の美味しさも特筆。

今池屋(お好み焼き)
http://blog.livedoor.jp/h8739/archives/50341092.html
オーソドックスなお好み焼きですが、並ばないと入れません。焼ソバも美味しい。

大潮屋今池店(持ち帰りお好み焼き)
http://www.geocities.jp/tbcrs828/imaike.html
安くて美味。大判焼きとみたらし団子もあります。あちこちに支店があります。

可楽(蕎麦)
http://sobakaraku.hp.infoseek.co.jp/
大将はジャズギタリストとして名古屋をリードする人。とことんこだわって作っている蕎麦。



 特集号を出してから二年半が経ちました。その間にお店が代替わりして味が変わった店。時流に合わせて味を変えていったと考えられる店もあります。逆に頑なに伝統を維持しようと努力している店もあります。いずれにしてもそれぞれが美味しく、一生懸命料理に立ち向かっておられることは今も変わりません。

 ここには紹介してありませんが、今池を代表する洋食屋「キッチン ヒロ」は惜しまれて廃業しました。しっかりとしたデミグラスソースが人気のお店でした。

 今号では上記以外で新しく縁のできたお店を紹介します。新規に開店したお店もありますし、以前から名店として知られたお店もあります。
 詳細な情報は敢えて書きません。サイトを参考にされるか、実際にご自分で足を運んで味わってみてください。

新甫(うなぎ)
http://nagoyatohoho.blog43.fc2.com/blog-entry-93.html
老舗です。関東風でも関西風でもなく、浜松風の鰻。外はかりっと焼き上がり、中身はふんわりとしています。池下駅から桜通りにつながる道沿いにあります。
名古屋市千種区高見2-10-12
ランチライム11:00~14:30
ディナータイム16:00~20:30
日祝定休TEL 052-761-8715

メゾンカイザー(パン)
http://www.maisonkayser.co.jp/index.html
 鰻の新甫からもう少し今池よりに巨大なマンションタウンができました。ナゴヤセントラルガーデンといいます。旧国鉄の土地を再開発したものです。そこに高級スーパー成城石井やケーキ店、飲茶、イタリアンレストラン、パン屋が同時に開業しました。テレビなどで紹介されて大勢の人が押しかけ、クロワッサン一つ買うのに1時間待ちという状況が半年も続きました。フランスで最も美味しいクロワッサンのお店という話題のパン屋がメゾンカイザー
です。
 イタリアンレストランも行ってみたいのですが、何しろ日本一予約の取れない落合シェフの店ですからまだ行っていません。
名古屋市千種区高見2-1-20名古屋セントラルガーデン
tel : 052-757-3188
営業時間 9:00~20:00

浅野屋(洋食)
http://www.geocities.jp/asanoya15/index.htm
 キッチンヒロが廃業してしまい、今池界隈できちんとした洋食屋というとこのお店だけになりました。
名古屋市千種区春岡1-1-7池下ハイツクローバー1F
広小路通り南側、仲田バス停前
Tel(052)752-5010
地下鉄池下駅より徒歩5分
火曜夜、及び、水曜定休
ランチタイム  11:30~14:00
ディナータイム 17:30~21:00

きんぼし(焼鳥)
http://www.kinboshi.net/
 フランス料理を勉強したという店主がこだわりのある焼鳥屋を出しました。開店して10年以上になります。その間ずっと人気店。最近は新栄や伏見にも支店を出しています。値段はやや高めですが微妙な工夫がしてあってなぜか普通の焼鳥とは異なった味わいです。いつも満員でなかなか入れません。
名古屋市千種区今池5-4-9
電話 052-732-5421
営業時間 PM5:30-PM11:00(オーダーストップPM10:30)
水曜定休 (祝日営業)

AGARU(炭火焼)
http://r.gnavi.co.jp/n651200/
 イケメンマスターとその奥さん、奥さんの友人(彼女は結婚退社)の三人の若者が経営。皆、笑顔が素敵で場を明るくなごませてくれています。
テーブルに定番メニューとその日のお薦めが置かれています。しかし、そこには記載されていない食材がマスターの前に並んでおり、頼むと隠れメニューを作ってくれます。
この前行った時はイサキとタケノコを、ジャガイモのかつら剥きで巻いて揚げたものを炭火で焼いて、フレンチのように美しく盛り合わせて出してくれました。料理が好きでたまらないというマスターです。
〒464-0067 名古屋市千種区池下1-10-1
電話052-752-1141
17:00~24:00(L.O.23:00)
定休日 水曜日
地下鉄東山線池下駅 1番出口 徒歩2分
地下鉄東山線今池駅 4番出口 徒歩10分 

きしや(きしめん・ラーメン)
http://raou.maxs.jp/shop/066.htm
 きしめん屋さんが作ったラーメンが話題です。ダシは塩とコンブだけの白きしめんや白ラーメン。醤油を使った赤ラーメンや赤きしめん。カレー味も人気だそうです。ラーメンとは思えないあっさり感に物足らない人もいるかもしれませんが、落ち着いた味に食欲をそそられます。店の佇まいも気持ちいいものです。
名古屋市千種区仲田2-17-1
11:00~13:30,18:0~21:30
定休日 水曜日
電話052-752-7114
地下鉄東山線池下駅より約350m
地下鉄桜通線今池駅より約500m

小角堂(おづぬ)
http://www.h5.dion.ne.jp/~ozunudo/
 おでんbar。古い民家作りのお店。ジャズと奈良の日本酒が妙にマッチしています。店内には骨董品がたくさんあるので関心のある方は一見の価値あり。マスターは書家ですから硯もいっぱい置いてあります。スペシャルカレーも人気です。
しかし何より雰囲気を楽しむ店。トイレも坪庭風で感動。
名古屋市千種区仲田2丁目8-7
営業時間・午後6時より深夜3時まで
日曜日は深夜12時まで(オーダーストップは閉店1時間前)
※但しおでんが売り切れ次第閉店
お子様連れでのご利用はお断り
月曜日定休Tel/Fax:052-735-3273

ジョッキ屋(焼き肉)
http://r.gnavi.co.jp/n163000/
小角堂の隣にある焼き肉屋。刺身で食べられるロースやカルビが出てきます。店員さんも感じがよく、ロースとかルビの違い(秘密)を親切に教えてくれました。肉の食べられない人でも食べられる美味しさです。
〒464-0074 名古屋市千種区仲田2-8-6 木村ビル1F
TEL:052-732-2277
17:00~
月曜定休


盛香倫(中華料理)・・・広小路沿いに移転
http://www.mirai.ne.jp/~kinpuku/index.html
 近年中国人コックの店がたくさんできました。今池界隈も例外ではありません。そんな中で、わたしは治療室のすぐ近くにあるこのお店が一番好きです。値段は驚くほど安く、その上なにを食べてもそつなく美味しいのです。
営業時間
ランチ 11:30~14:00
夜 17:00~24:00
月曜定休
名古屋市千種区今池5-8-12
TEL: 733-6228
地下鉄今池駅8番出口歩いて5分
ダイエー今池店北向

マッシモ・マリアーニ(喫茶)
http://massimo-mariani.com/info/index.htm
 珈琲が1杯650円。カフェオレが950円。その値段に見合う雰囲気のお店です。外見はコンクリートで包むように築かれたレストラン風。外から中は見えません。大切なデートにどうぞ。クラシック音楽に満たされた贅沢な時間が味わえます。
 隣には同じ経営者のじだいやが並んでいます。こちらは串揚。
名古屋市千種区今池南13-14
TEL:052-733-7825
営業時間:12:00pm~翌1:00am(L.O.0:00am)
定休日:無休
駐車場:13台
地下鉄今池駅8番出口から徒歩10分

和菜東本(家庭料理)
http://r.tabelog.com/aichi/rstdtl/23005551/
 錦通り仲田交差点にあります。古い人ならここが最近まで写真館であったことをご存知でしょう。ご主人が亡くなり、娘さん夫妻が戻ってこられて始めたお店です。
のどかなお父さんと、てきぱきと料理を作るお母さんコンビが家庭の味わいを醸し出しています。もちろん料理はくつろぎの家庭の味。品のいいおばあちゃんや看板娘のたまちゃんも時々顔を出します。
お隣の壹(いち)もおいしい小料理屋。大将はサーファーで東本さんとは仲良し。波がいいと店を閉めてサーフィンに出かけてしまうかもしれません。
電話 052-751-3295名古屋市千種区仲田2-14-21
[火~日] 18:00~
ランチ[火~金]11:30~13:00
定休日 月曜日

杉本(手作り惣菜・弁当)
http://www.kinsyachi.com/view_shop.cgi?m=v&d=0000168
 肉屋さんが営むお弁当と惣菜の店。電話で頼んで15分位して行くとできています。きちんと修行したと思しきマスターが料理を作っていますから贅沢な味わいの弁当です。
〒4640850 千種区今池 5-5-5 FIDELIO 1F
今池駅より徒歩5分 
TEL:052-731-3164
FAX:052-733-2987
営業10:00~19:00
定休日 日曜


シャティShathi(カレー)
http://nagoyatohoho.blog43.fc2.com/blog-entry-40.html
 カレーはこのお店が気に入っています。インド人かネパール人か分かりませんが、本場の人が調理しています。接客は日本のご婦人。カレーはもちろんですが、ナンの美味しさに驚きました。値段もリーズナブル。
名古屋市千種区池下町2-41
TEL:052-763-2635
営業時間11:30~14:30 17:30~22:00
定休日 水曜日


あとがき
 暦の上では大寒です。
今年の国府宮の裸祭りは2月19日。奇しくも二十四節気「雨水」の日です。その日は雪が雨になるという謂れがあります。逆に裸祭りの日は雪が降るといいます。さて、今年はどうなることでしょう。

 これから立春に向って、次第に寒くなると思われますから、十分にご注意してお暮らし下さい。
帰宅後の手洗いと嗽(うがい)は風邪やインフルエンザの予防に役立ちます。ノロウイルスにも要注意。

 身体を冷やさないようにして春を待ちましょう。

 1月25日と2月1日は名古屋市高年大学鯱城学園で講義をします。
(游)

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游氣風信 No.200 2007. 12.5

二つの訃報

 今年もいよいよ押し詰まってきました。『游氣風信』は五月に199号を出して以来、ずっと停滞していましたが、やっと年内に200号を発行することになりました。と言っても、ブログに書いたものを集めただけです。

 今号には二つの訃報があります。
一人は三十年前、東京の経絡指圧創始者増永静人先生のところで一緒に勉強していたイタリア人のマリオさん。拙い英語でコミュニケーションを取りながら一生懸命勉強したことが思い出されます。

そしてもう一人は、鍼灸専門誌『医道の日本』の会長戸部雄一郎先生。奇しくも先生に初めてお会いしたのがマリオと勉強した夏でした。

訃報 イタリア経絡指圧のマリオ氏
旧知のイタリア人指圧指導者マリオ・ヴァトリーニ(Mario Vatrini)さんの死を知りました。

彼と会ったのは今から三十年前、わたしがまだ23歳の頃でした。指圧の勉強のために医王会指圧センターの増永静人先生のところへ行った時、彼も時を同じくしてイタリアからやってきたのです。

日本語のできないマリオは講義の内容をしきりに尋ねてきました。わたしも何とかそれに応えるべく乏しい英単語を頭から搾り出して説明しました。彼に乞われて指圧の資料の英訳もしました。これはとても喜んでくれました。彼の英語は達者なもので、イタリア人なのに英会話学校でアルバイトをしていました。

わたしは夏休みの間だけ滞在しましたが、彼は半年以上滞在したはずです。帰国後何度かイタリアに来るようにとの誘いの手紙をもらいました。あの時イタリアに行っていたら今どうなっていることでしょう。

彼との最後の手紙のやりとりは増永先生の逝去を知らせたものです。彼は「先生は使命を終えたので亡くなったのだろう」と運命論的に惜しんでいました。

それ以後のことは全く分かりませんでしたが、マリオは積極的に指圧の啓蒙に努め、イタリア指圧界の重鎮になっていたようです。彼の訃報がヨーロッパの指圧専門誌に大きく掲載されています。shiatsu-do

歳月は重いものです。彼はわたしより15歳ほど年長だったと記憶しています。マリオ、お疲れ様。マリオの人生に乾杯。

哀悼 戸部雄一郎先生
鍼灸専門誌『医道の日本』最新号で同社会長戸部雄一郎先生がお亡くなりになったという追悼特集を拝見し、大変驚きました。前社長宗一郎先生がお亡くなりになってさほどの年月を数えていません。全く存じ上げなかったのですが、先生は胃がんで長く闘病されていた由、ただただ深く哀悼の意を表すばかりです。

わたしが雄一郎先生に初めてお会いしたのは鍼灸学校一年生。昭和五十一年の夏休みだったと記憶しています。名古屋から一か月上京し、経絡指圧の勉強のため増永静人先生の治療室に出入りしていました。せっかく上京したのだからと医道の日本社新宿支店に書籍を購めにまいりました。その折に応対してくださった方が雄一郎先生でした。

『黄帝内経』や幾つかの書籍をレジに持っていきましたら、色々と話しかけてくださいました。何処から来たのか、何処で勉強しているのか、この本は推奨できるとか・・・。
そして、最後に「自分は本を読んで勉強する学生が大好きだ」とおっしゃられ、今後の勉学に多いなる励ましをいただいたのです。

その後、わたしは『医道の日本』誌に、幾つかの論を発表いたしました。そのご縁で父上の宗一郎先生から何度かお便りをいただき、約十年に亘って「新年のことば」を書く機会もいただきました。さらには五百号記念号の原稿も依頼され、有難く書かせていただいたことも懐かしい思い出です。

雄一郎先生とは新宿支店でお会いしただけで、その後の交流は無かったのですが、『医道の日本』昭和六十年五月号「キネシオ・テーピング法の治療法をめぐって」という座談会に招いていただき、その席で再会いたしました。

その座談会は「キネシオ・テーピングを試みて」という拙論が同誌に掲載され、テーピング創始者加瀬先生から返礼のように「三島先生のキネシオテーピング」という論が掲載された後を受けた企画でした。おそらくわたしがキネシオ・テープの症例報告者第一号だったのでしょう。

新宿の料亭で行われた座談会の後の会食で、雄一郎先生に数年前お会いした話をいたしました。先生は記憶を辿るように遠くを望む目をされながら「そう言えば、増永先生のところで勉強しているという青年と話したことがある、彼が三島先生でしたか」と仰ってくださいました。

それから二十年、治療家としていつも障壁に突き当たっています。技術のこと、患者との対応のこと、経営的なこと。挫けそうになることばかりでした。それでも心の奥底にはあの初学の頃、雄一郎先生から「自分は本を読んで勉強する学生が大好きだ」と励まされた思いが通奏低音のように支えてくれています。

先生、どうぞごゆっくりお休み下さい。



 私的な話しにお付き合いいただいて申し訳ありません。ここからは健康関連の話題です。
風邪の薬物療法の指針、高齢者の活動指針、そして忘れがちなBSE(狂牛病)についてです。


風邪の治療方針
最近、医院で頂く風邪薬の量や注射が減ったそうです。わたしは基本的に風邪薬を飲まな
いのですが、患者さんから色々と似たような話を聞きます。それはどうも以下のような治
療指針が学会から出ているからのようです。参考にしてください。

成人気道感染症診療の基本的考え方
日本呼吸器学会

風邪の治療方針 
1、風邪はほとんど自然に治るもので、風邪薬で治るものではない。
2、風邪に効く抗ウイルス薬はない。
3、抗生物質は風邪に直接効くものではない。
4、抗生物質を頻用すると、下痢やアレルギーなどの副作用がある。 
5、抗生物質を頻用すると、薬が効かない薬剤耐性菌が出現する。 
6、市販の風邪薬は、症状を緩和する対症療法にすぎない。 
7、市販の風邪薬の広告は、風邪に対する過剰な治療を推奨するかのような印象を与えている。 
8、風邪による発熱は、身体がウイルスと戦っている免疫反応で、ウイルスが増殖しがたい環
境を作っている。むやみに解熱剤を用いない。9、いかなる薬物にも副作用が起こり得ると考
え、薬を服用した場合は薬物名と量を記録しておく。
以上

8番の発熱の問題は重要です。風邪の菌が熱を作るのではなく、菌をやっつけるために身体が熱を発しているということ。ですからやたらに解熱することは避けたほうがいいということ
です。


元気で長生き
老研式活動能力指標

1.バスや電車を使って一人で外出できますか?
2.日用品の買い物ができますか?
3.自分で食事の用意ができますか?
4.請求書の支払いができますか?
5.銀行預金、郵便貯金の出し入れが自分でできますか?
6.年金などの書類が書けますか?
7.新聞を読んでいますか?
8.本を読んでいますか?
9.健康についての記事や番組に関心がありますか?
10.友達の家を訪ねることがありますか?
11.家族や友人の相談にのることがありますか?
12.病人を見舞うことができますか?
13.若い人に自分からはなしかけることはありますか?

1~5は活動的な日常生活を送るための動作能力
6~9は余暇や創作など積極的な知的活動能力
10~13は地域で社会的な役割を果たす能力

 どうでしょう。ご自身や周囲の方の状態を照らし合わせてみてください。

元気で長生きの十か条
1.血清アルブミン値が高い
2.血清コレステロール値が高過ぎず低過ぎず
3.足が丈夫である
4.主観的健康感がよい
5.短期の記憶力がよい
6.肥り方は中くらい
7.タバコは吸わない
8.お酒は飲み過ぎない
9.血圧は高過ぎず低過ぎず
10.社会参加が活発である
(東京都老人総合研究所が65歳以上の幅広い年齢層の元気で生活が自立している人たちの長生きの条件を分
析した結果に基づく)

 元気で長生きの方の状態を統計調査したしたところ、以上のような結果が出たのです。血清アルブミンはたんぱく質で栄養状態を表します。コレステロールも低すぎると危険だそうです。
栄養をしっかり摂取し、外出し、社会参加するほど元気な生活が過ごせるので心がけてください。



BSE(狂牛病)・・・過去の話になりました。

狂牛病の全頭検査が無意味であることが毎日新聞に書かれていました。国民を欺く無駄な検査をやって税金を浪費することはもう止めるべきでしょう。

以前読んだある記事には日本の牛は国際的には三段階のうちの三番目、つまり最も安心できない国に分類されていると書かれていました。それに対して輸入を拒否していたアメリカ産は二番目に安全と分類。一番安全なのはオーストラリアなどまだ狂牛病が発生していない国。

 意外なことでしょうが、非科学的理由でアメリカ産の牛の輸入を拒否してきた政府は批判されても仕方ありません。幼い牛を検査してもBSEを発見することは困難である上に、日本の牛は処理方法に非合理性があり危険なのだそうです。


介護予防運動指導員

東京都老人総合研究所が認定している「介護予防運動指導員」に合格しました。これは特定
高齢者(65歳以上の虚弱高齢者)が、一日でも長く自立した生活を送れるように指導する
ものです。

受講内容は
介護予防概論
介護予防評価学
介護予防統計学
行動科学概論
リスクマネジメント
高齢者筋力向上トレーニング特論
高齢者筋力向上トレーニング実践
転倒予防特論
失禁予防特論
低栄養予防特論
口腔機能向上特論
認知症予防特論

以上を総花的に学習したので知識を齧っただけです。これから実践しつつ深めて行こうと思っています。


あとがき

 サボり癖がつくと困ったものでずるずると月日だけが過ぎ去っていきます。今年の前半で二百号記念号が出せると踏んでいたのですがとうとう十二月まで怠けてしまいました。それで特に記念的なことは書きません。

 今年の六月と七月は介護予防運動指導員の勉強にかなりエネルギーを使いました。いい勉強ができたと思っています。いずれその成果を書いていきます。

また、所属している俳句結社『藍生』には「俳句とからだ」という小論を連載しています。
先月で第15回でした。いつまで続くのかは編集部にお任せです。

少し早いですが良いお年を。
(游)

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游氣風信 No.199 2007. 5.6

宮沢賢治の詩

久しぶりに賢治を取り上げます。賢治が生前発行した本は詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の二冊です。

今月は詩集『春と修羅』のタイトルにもなった詩「春と修羅」を紹介します。宗教や科学の専門用語が散りばめられた難解な詩ですが用語を説明しますので、頑張って読んでみてください。

まず詩の紹介。続けて細かく用語の説明や鑑賞のヒントなどを書いていきます。詩の表記が波打っているようになっていますが、これは賢治が意図的に視覚的効果を狙ったもので、文字ズレではありません。


春と修羅
(mental sketch modified)
            宮沢 賢治


心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲模様
  (正午の管樂よりもしげく
   琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
  (風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
 れいらうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交い
   ZYPRESSEN 春のいちれつ

    くろぐろと光素(エーテル)を吸へば
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
       (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
   (玉髄の雲がながれて
    どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い魯木の群落が延び
     その枝はかなしくしげり
    すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
  ひらめいてとびたつからす
   (気層いよいよすみわたり
    ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海の底に
  (かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しずかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
  (まことのことばはここになく
   修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
  (このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずえまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

(一九二二、四、八)

解説と鑑賞

この詩が書かれたのは1922年4月8日。意図されたものかどうか分かりませんが、釈迦の誕生祭である花祭りの日です。

この年は大正十一年で賢治は26歳。年末にソ連が成立し、翌年に関東大震災が勃発します。
賢治は前の年の終りから稗貫農学校の教諭として働いています。賢治が生涯でまともに働いたのはここでの四年間だけで、後は亡くなる37歳まで親の援助で暮らしたのですから、今で言う「おたく」やパラサイトの走りのようなものです。当時はこうした金持ちの息子たちが高等遊民として芸術を担っていた一面があります。有島武雄、太宰治などはその例です。

盛岡高等農林学校で農芸化学を学んだ賢治は、地元では珍しい高学歴の持ち主でした。それで農学校の初任給80円。当時としては非常な高給取りだったようです。担当教科は代数・農産製造・作物・化学・英語・土壌・肥料・気象等、さらに水田実習と多岐にわたります。

さて、この詩を読まれてどう思われますか。なんとも奇妙な詩です。何より分からない専門用語が多過ぎます。それは上記のように非常に幅の広い教養から来るものでしょうが、肝腎な読者のことは全く考えていません。

これは賢治が生涯をアマチュア作家として過ごしたからです。すなわちプロの作家のように売ってお金を得るために書いているわけではなく、自分の中に湧きあがってくる止むに止まれぬ思いを言葉に置き換えているだけであり、そこには読者への思いやりは殆どありません。そこがアマチュアの利点でもあり、欠点でもあると同時に賢治の魅力と限界を示唆する点でもあります。

読者の中には賢治の名前は知っていても、あるいは「雨ニモマケズ」くらいは読んだことがあっても、はたまた高校の国語で「無声慟哭」に接触した記憶はあっても、「春と修羅」のような賢治の代表的な詩を読まれた方は少ないでしょう。

そこでこれから文献を参考に解説しながら鑑賞していきます。興味のある方はお付き合い下さい。
参考資料は『広辞苑』と『宮澤賢治語彙辞典』(原子郎編著)の初版です。そもそもこんな辞典があることが賢治用語の難解さを示しているとも思えます。

青字は原詩、黒字はわたしの解説です。ここから文体を「である調」に変えます。

春と修羅
(mental sketch modified)

          宮沢 賢治

修羅とは仏教用語で阿修羅(アスラ)のこと。闘争を好む悪神。人と畜生の間の存在とされている。
賢治は自分を修羅であると自覚し、この詩においても春ののどかな自然に対峙する自己を怒れる修羅と形容している。つまり修羅とは煩悶と苦しんでいる若き賢治のこと。対して春は自然と同時にある平和な状況の比喩となっている。

mental sketch modifiedは心の中を変革的にスケッチすること。心象をそのまま写生するのではなく、そこになんらかの文学的変化を加えていると考えられる。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲模様

心象つまりイメージの中の灰色がかった鋼から通草(蔓性の野生植物、実を食す)の蔓が雲に絡まって、野薔薇の藪や腐植(落ち葉などがバクテリアによって腐食され土となったもの)でできた湿地。一面の諂曲の模様のようだ。

これらは賢治の心の中の修羅の世界。諂曲とは自分の意志を曲げて媚び諂う(こびへつらう)こと。

  (正午の管樂よりもしげく
   琥珀のかけらがそそぐとき)

琥珀とは松などの脂が化石化した透明な茶色の宝石。ここでは太陽の光と考えられる。

()で括られた表記が度々出てくるが、これは現実の風景や賢治の多層的な心象表記のことが多い。映画のコマ割りや多重多層にモンタージュされたものに近い。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
  (風景はなみだにゆすれ)

怒りの苦さや青さを噛み締めながら四月の気層の光の底(つまり地面)を唾棄し、歯軋りしていかりを押さえきれない、つまりおれは一人の修羅なのだ。

砕ける雲の眼路をかぎり
 れいらうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交い
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素(エーテル)を吸へば
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
       (かげろふの波と白い偏光)

春の美しい風景が詠われている。目線の果にある砕ける雲。玲瓏(透明に輝く様子)の天には聖なるガラスのように透き通った風が吹き、ZYPRESSEN(ヒノキ)が一列に並んでいる。くろぐろとエーテル(かつて真空を満たしていると考えられていた物質。ここでは化学物質のエーテルではない)を吸えば天山(中央アジアを貫く山脈)の雪の稜線も光る。それは陽炎の波と偏光(光が偏って一定方向に振動すること)のなせる技だ。

      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ

春の風景から一転して再び自己の修羅を見つめる。真の言葉は失われ、雲はちぎれて空を飛ぶ。春の喜びで輝いている四月の底(つまり地面)を歯軋り、いかりに燃えて行き来する俺は一人の修羅なのだ。

   (玉髄の雲がながれて
    どこで啼くその春の鳥)

玉髄も宝石。石英の一種で不透明。その色の雲が流れて春の鳥の声が不安げに聞こえる。

  日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い魯木の群落が延び
     その枝はかなしくしげり
    すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
  ひらめいてとびたつからす

太陽が青くかげろえば修羅のいかりは樹林に響き合う。お椀を伏せたようにドーム状になった空から黒い魯木(ろぼく。鱗木ともいう。古代のシダで高さが数十メートルにもなった。表面が鱗状で松などの祖先といわれる)の群落が延びている。

本来、樹木は大地から空へ延びるが賢治は逆に陥ってくる感覚から天から地に向って木が延びているように見立てている。その木々の枝は悲しく繁り、喪神(喪心。心を失った放心状態)の森からは鴉が飛び立つ。

現実の春の景色と心の中に写る修羅の春。こうした二重の世界を賢治は生きている。

   (気層いよいよすみわたり
    ひのきもしんと天に立つころ)

大気がいよいよ澄み渡り、ヒノキがしんと天に立つ。ここでは穏やかな光景。

草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか

金色に揺れる草地を通り過ぎてくる人。ことなく人の形のもの(つまり人)。けら(粗末な野良着)を纏って俺を見ている農夫。本当に俺が見えているのか。

人から自分が本当に見えているのかどうか。この不安感は賢治本来のもので生涯にわたったものと考えられる。賢治の創作や行動は常に二重の世界に住む者として、そこから逃げることなく、科学(真)と宗教(善)と芸術(美)の方法を通じて探求した成果だろう。

まばゆい気圏の海の底に
  (かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しずかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
  (まことのことばはここになく
   修羅のなみだはつちにふる)

まばゆい気圏の海の底(つまり地面)でヒノキは静かに揺れ、鳥はまた青空を切り裂いて飛んで行く。

かなしみは青々と深く、真の言葉はここにはない。ただ修羅の涙が土に吸い込まれていくだけ。

修羅の高揚が去り、現実の光景が見えてきたようだ。

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
  (このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずえまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

           (一九二二、四、八)

改めて深呼吸をすれば、ほの白く肺が縮む感じがする。銀杏の梢が光り、ヒノキはいよいよ黒く、太陽に照らされた雲があたかも火花のごとく降ってくる。

この身体は微塵となって空一杯に散らばってしまえばいい。
微塵は仏教用語で物質の最も小さい単位。極微とが七つ集まったものともいわれ、極微と微塵は原子と分子の関係に似ている。

農学校の教師として初めて大人としての人間環境に身をおいたためだろうか。諂曲(媚びへつらう)のいかりを沈めるために修羅となった自己もろとも春の輝きの下に出る。

賢治の詩は常に光景と心象が交錯し、多重の内的世界を現象の一つとして写生しようとした。それが心象スケッチと自らが名づけた手法である。

賢治の生涯を貫いた「見極めようとする強い意志」。これが無ければおそらく若くして破綻したのではないだろうか。

                                        (游)

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游氣風信 No.198 2007. 2.4

今号の内容は
歯無しにならない話 あるあるでっちあげ
です。


歯無しにならない話

報告が遅くなりましたが、1月9日に行なわれた第10回愛知学院大学モーニングセミナーの簡単なレポートです。

タイトルは
「歯・ハ・は!?
――はなしになる話――
――歯無しにならない話――」

講師は愛知学院大学大学院歯学研究科教授の福井壽男先生。福井先生は歯学博士であり、このモーニングセミナーの責任者として企画のみならず毎回当日の司会運営もされておられる方です。

意外なことに今回初めて会場である愛知学院大学の先生の登場となりました。福井先生のご専門の肩書きは

愛知学院大学歯学部歯科理工学講座
特殊基礎研究教授
口腔先端科学研究所
ナノデンタルサイエンス部門長

と何やら物々しいものです。

しかし、とても気さくな先生でわたしも不思議なご縁から直接ご挨拶をいただき、また電話でお話をする機会もあり、その温かいお人柄に感銘しています。

今回のお話も一般向けに興味深い事例を混ぜながら分かり易く楽しくご紹介くださいました。内容は歯を生涯にわたって如何に維持するか、また歯の役割とは何かということです。

当日頂いた資料をもとに簡単に紹介しましょう。太字は先生からいただいた資料の写しです。

歯の機能
歯の働きは何かということです。
1 咀嚼作用
  唾液の分泌促進
   消化の促進
   細菌の働きを抑制
   ダイエット効果
2 語音の形成
3 顔貌の美的調和

1の咀嚼とは噛む事です。「噛む」という字は「口と歯」ですからうまくできています。まさに歯は噛むためにあります。そして噛むことは唾液の分泌を促進します。唾液はでんぷんの消化酵素であり、食べ物に湿度を与え嚥下を容易にします。ですから消化の促進ということになります。
また、口中の食事カスを洗い流しますから虫歯菌の栄養を奪ってその活動や繁殖を抑制します。
さらによく噛むと食欲中枢を抑制してダイエット効果があるそうです。

2の語音に関しては歯がないとふがふがして発声しにくいことから理解できます。

3の顔貌の美的調和。これも入れ歯を外した方の顔が別人になってしまうことで経験済み。

これらが歯の働きです。

次に噛むことの効用を教わりました。

噛むことの効用
●脳の活性化(ボケ予防)
●記憶力がよくなる
●ガンの予防効果
●太りの防止
●体のバランスの調整
よく噛んで食べることは、健康を維持するのみならず、勉強を効率的にする重要な習慣

噛むことは脳を刺激し、脳の記憶力を高めたり、内臓のコントロールをするそうです。噛む刺激は脳の視床下部の満腹中枢を活性化します。それが内臓脂肪の分解を促進するとのお話でした。

次は歯の疾患について。

歯の疾患の特徴
 歯は新陳代謝機能に劣る
 自然治癒力がない
 人工的修復物で機能回復(入れ歯、冠、ブリッジ、インプラントなど)

歯は他の組織と違って自然に治るということがありません。どうしても人工的に処置をするしかないのです。

歯の2大疾患
むし歯
歯周病

むし歯はむし歯菌の産出する酸が歯を溶かします。砂糖が関与します。また、歯周病は歯槽が退化することで、菌が出す毒が関与するようです。

むし歯の原因
 細菌、糖質、宿主および時間をむし歯の4大因子 これらの重なったときにむし歯が発生

口の中に菌がいて、そのエサになる糖質があり、時間が経過するとむし歯が作られるのです。   
もちろん宿主である歯が無ければむし歯にはなりません。

むし歯の予防には上記のどれかを断てばいい訳です。つまり口の中をきれいにして細菌をいない状態にするかそのエサになる糖分の摂取を極力抑える。さらに時間を空けずにブラッシングをして清潔を保つ。そうすればむし歯の予防ができます。さらにフッ素の塗布も有効だそうです。

歯周病の進行機序
 プラーク(細菌群) → 歯茎に炎症 → 骨をこわす → 歯が抜ける

予防としては食後三分以内のブラッシング。

歯はあなたを救う!
 歯は健康の基本
 噛むことで記憶力増進
 「噛む力=生きる力」

以上が福井先生のお話の骨子でした。

昨年の介護保険の見直しでも歯のケアの重要性が実行に移されました。歯がしっかりしていれば栄養も取れますから健康維持に役立ちます。その上、噛む力が記憶力など脳の機能を維持し、介護予防に極めて有効だからです。

口内の細菌はむし歯や歯周病の原因になるだけではありません。その菌が気管に入り肺を冒すと肺炎になります。誤嚥性肺炎は食べ物が肺に入ってなるのですが、唾液と一緒に口内細菌が流れ込んでも発症する可能性があります。歯科医師の指導のもと、歯科衛生士や看護師による口内ケアの重要性はここにもあるのです。

余談
先日、福井先生から電話を頂きました。そしてあろうことかわたしに講師をしろとおっしゃるのです。先生は通常のモーニングセミナーではなく土曜日に別の機会を設け、普段聞きに来ている人の中からも講師を募集する企画を立てられました。一人希望者がある、それで是非わたしにも何かを話せとのこと。まだ詳細は決まっていませんが受諾することにしました。5月26日土曜日の午前中の予定です。さて一体どうなることでしょう。


あるある でっち上げ

ある健康情報バラエティが納豆を朝晩食べると二週間で痩せるという情報を流したそうです。そのためにスーパーマーケットなどで納豆品切れが相次いだとか。 ところがその実験データもアメリカ人学者の翻訳も捏造したとテレビ局が謝罪しました。愚かさもここに極まれりです。

わたしはあの番組は事実の誇張どころか情報を捏造している悪徳番組だから、信用しないようにと患者さんには注意していました。特に栄養とか血液型占いなどはひどいものです。

そもそもあの番組の進行は秀逸なエンターテイナーである堺正章氏と往年の職人コメディアンの志村けん氏です。二人の仕事は正しい科学情報を伝えることではなく、視聴者をはらはらさせた挙句に笑いを提供することです。その点でお二人は見事に仕事をこなしています。ですから番組の情報はお笑いのネタなのです。

今回の事件の責任の一半は視聴者にもあります。お笑い番組を情報番組であると勘違いして信じたことが問題なのです。それでもわたしごときの物言いよりもテレビの力は圧倒的で、誰もわたしの言うことに耳を貸しません。 それで以下の文章を二年近く前にこのブログに掲載しました。今回の事件にちなみ再録します。

2005/03/10
気をつけろ 健康バラエティ

最近、テレビで健康法番組が大流行。
今日も食堂で隣に座っていた中年夫婦らしき人たちが、新聞のサプリメント広告を見ながら会話をしていました。
「これを飲んだらみんな一週間で痩せたんだよ」
ちらりと見ましたら、今流行のαリポ酸のサプリを指差しています。

あの番組の情報は実にいい加減なのですが、なぜそんなに簡単に人心をたぶらかすことが可能なのか疑問に思っていました。そこにこのようなメールマガジンが届きました。なるほど、だから簡単に騙されるのか。その種明かし。ぜひご覧ください。

■ガイド記事・コラム/αリポ酸にダマされるな!
αリポ酸(チオクト酸)は中年太りの救世主になるのか?健康情報バラエティ番組のマル秘テクニックをお教えします。

http://allabout.co.jp/fashion/diet/closeup/CU20050307A/index.htm?NLV=NL000164-125

ネットが見られない人のために一部引用します。

娯楽性が強い健康情報バラエティ番組を見分ける方法として、これまで「科学者をところどころ映像で登場させるが、スタジオには呼ばない(司会者からゲストまで全て科学的な素養のない人で構成された)番組は、娯楽番組もしくは特定商品の販売目的の宣伝番組だと思って間違いない」とお話してきました。

実はこれには訳がありまして、もし一人でも科学的な素養がある人がスタジオにいると番組が成り立たなくなる可能性が高いのです。
それは、番組では「本当の事を言う人」と「それを誇張する人」という役回りがはっきりしており、混在が不可能な構成になっているからです。

例えば、αリポ酸の回でご説明すると、番組では以下のような流れでαリポ酸と中年太り解消について説明をしていました。
1、まずオークランド小児病院研究所のエイムス博士が映像で登場し、「αリポ酸は人間の体内全ての細胞にある物質で細胞を活性化させる働きがあり、特に細胞内のミトコンドリア(エネルギーを生産する器官)の機能に深く関わっている」とコメント。

2、そして上記について図解で分かりやすく解説。
3、番組はαリポ酸を含むミトコンドリア内の酵素が中年以降減っていくという別のデータを提示。
4、ナレーションにより「中年太りの原因はαリポ酸の減少で、中年太りをストップさせるにはαリポ酸を補うべきだ」と提案。
5、スタジオ内のゲストや司会者が「中年太りをストップさせるにはαリポ酸を補うしかない!」と確認。
こうすると、一見一貫性があるストーリーができあがりますので、視聴者はダイエットに有益な情報を得たような気分になり番組をエンジョイできます。しかし実は、上記については、「3、ミトコンドリア内の酵素が中年以降減っていくという別のデータを提示」というところまでは真実ですが、その後の情報は、上記の事実とダイエットを結びつけるための誇張表現(作り話)なのです。

もし仮にスタジオ内に科学者が一人でもいれば、「それは証明されていない」とか「間違っている」と指摘するでしょう。指摘しなければ彼(彼女)の科学者としての名誉に関わります。そういう理由があり、映像でところどころ科学者を登場させることはしても、スタジオに同席させるわけにはいかないのです。

こうしたマスコミのからくりには本当に注意しなければなりませんね。

あとがき

今年になって治療室のバルコニーのシマトネリコの木にメジロが二三羽訪れるようになりました。独特の啼き声に窓外を見ると愛らしい小鳥が枝をくるくると動き回っています。雀くらいの大きさで鶯色、目の周りの白丸ですぐにメジロと分かります。街中の三階まで遊びに来てくれるとは驚き。
うれしい訪問者です。

(游)

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游氣風信 No.197 2007. 1.1

謹賀新年
                                   2007年 元旦
 年頭に当って幾つかの目標を掲示しておきます。根が怠け者ですから披露することで自分に 圧力をかけることにしました。順不同で思いつくままに書いていきます。

まず最初の目標。それは『游氣風信』の継続発行です。昨年は滞りつつもなんとか『游氣風信』を発行してまいりました。今年も毎月とはまいりませんが、思い出したように発行してまいります。
顧みれば一九九〇年一月から毎月発行、今号で197号になります。ここ二、三年は毎月出していませんからペースダウンですが、今年前半には通巻で200号にいくことでしょう。

この継続が今年の大きな目標のひとつです。

 二番目の目標は「游氣塾経絡導引教室」の継続です。昨年秋から始めました経絡導引教室 はこれからの人生の大事なテーマとしてゆっくりと熟成してまいります。

わたしが東洋医療に関心を抱いたのが高校生の時。大学を卒業後鍼灸の専門学校に入り、以後は一貫して指圧を中心とした手技治療と鍼、在宅患者の訪問リハビリマッサージを行なって今年で三十年近くなります。
しかしその過去は病気や病人を総体的にとらえる治療家としてよりも手技の職人として些か偏向した形で生きてきた観は否めません。そこであらためて東洋医療の背景から病人や症状を検討し、治療のために本当に必要な技術を的確な形で皆さんと共有したいと考えます。

東洋医療の知恵を活かし、ひとりひとりが身体や呼吸、生活環境や季節と向き合ってよりよい人生を味わう。その一助としてこの講座が参加者の共力で完成されていくならば素晴らしいものだと思います。

わたしも今年で五十三歳。そうした集大成に向けて一歩を踏み出しても遅くない年齢になりました。子曰く「五十にして天命を知る」。ここらが自分の着陸地点かなと考えるこの頃です。むろんその最終到達地点は更に先にあり峻険たる山容をもってこちらに挑戦を挑んできます。そこへ向う足がかりとしての導引教室を皆さんと一緒に歩んで行けたら素晴らしいと考えます。

興味がございましたらぜひご参加ください。火曜日と土曜日の午前十時半からです。

この教室とも関わりのあることですが、一月最後の金曜日と二月初めの金曜日にはここ数年の恒例となりました名古屋市高年大学鯱城学園で講義。「暮らしに活かす東洋医学」というテーマで東洋医療の基礎概念と経絡やツボの話をします。この内容は導引教室で行っているものを一時間半にまとめたものとなります。

三番目の目標は鍼技術の向上と拡大です。
先ほど述べましたように東洋医療の背景から病人や症状を検討し、治療のために本当に必要な技術を的確な形で提供するのがわたしの本来の業務です。そのために先人たちによって築き上げられてきた鍼の技術をしっかり勉強し、日常の臨床で自在に応用できるよう修練しなおす決意です。

もともとこの世界に入った大きな理由は増永静人という方の指圧の理論と技術に憧憬を抱き、運良く短い年月ながらも親炙できたからです。しかしその世界は先生本来の素質と直接しており、どんなに努力しても到達できない世界でもあります。そこで足りない部分は鍼灸治療や様々な手技治療を併用して補おうとしてきました。

今年はその軸足を思い切って鍼灸に移そうと思うのです。増永指圧の世界も大きく深いのでが、同様に鍼の奥深さも計り知れません。今年はもっと鍼の技術を深めると共にさまざまな方法を紐解いてより臨床技術を鍛え上げたいと考えています。

今日、わたしたちの心身や健康問題はほぼ西洋医学とそれに基づく医療や保健によって構造的に管理されていますが、その管理からこぼれた人たちは代替医療(民間医療や伝承医療、健康法などの総称)に足を向けます。
その中でも鍼灸は国家資格として民間療法と国家制度の中間に存在する独特の医療です。
そもそも鍼灸も按摩も奈良時代以前に中国から伝来し、国家管理の下で日本独自の体系を作り上げてきました。その膨大な体系を少しでも自分のものにするためには日々の研鑽が必須となります。是非頑張って継続したいものです。
四番目。これは訪問リハビリ・マッサージ。在宅療養を余儀なくされている方のための健康保険対応による訪問治療です。これには治療歴と全く同じ期間関与し、福祉の勉強のためにケアマネージャーの資格も取得しました。しかしこの資格は十分に活かしきれていませんので、福祉と社会環境に関わる部分の勉強も手を抜かず細々ながらも実施していきます。

さて最後は趣味の分野。
現在所属している俳句結社「藍生(あおい)」に毎月「俳句とからだ」というタイトルで短文を連載しています。これは趣味の俳句と身体に関わる仕事の両者に跨りますから、ちょうど仕事と趣味の橋渡しになるものでしょう。改めて俳句を作ること、味わうことと身体の関係性を問う機会にしています。ちょっと生硬で読み難い文章となっていますがそれはわたしの能力がその程度だからです。ある分量がまとまったらいずれ『游氣風信』で紹介したいと思っています。

この試みが俳句にも治療にも生きてくるといいのですが先はまだ遠い山嶺として霞の先にあります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

色々書きました。はたしてどこまで実行できるかは分かりません。いずれも数値目標として明示できるものではありません。むしろ全ては過去から未来への過程に過ぎないもので、目標と言うよりは継続を鼓舞するものでしかありません。しかし、しっかりとそちらに向って歩き続ける。これが今年の目標です。

あとがき

 もうひとつ。一昨年秋から始めた空手。極真空手(松井派)の世界チャンピオン木山仁師 範の道場です。目下十級のオレンジ帯。これを青色(八・七級)に変えることも今年の目標 です。

 皆様、よいお年を。
                                       (游)

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游氣風信 No.195 2006. 11.1

今月の内容は

愛知学院大学モーニングセミナーのレポート

経絡導引教室の紹介

経絡導引教室開始一ヶ月のレポート

顔鍼レポート

です。

砂漠と綿 モーニングセミナーレポート


10月10日は7回目の愛知学院大学モーニングセミナーでした。

今回のタイトルは「砂漠と綿(コットン)--アフリカ・マリ共和国で感じたこと――」。

講師は守 誠(もり まこと)愛知学院大学大学院教授。守教授は1933年生まれ。長年商社に勤務し、50歳過ぎて大学教授になられた方です。現在73歳ですが、一見すると五十代に見える若々しい先生でした。今回はモーニングセミナーで初めてテーマが経済でした。それまでは健康中心にプログラムが組まれていました。そして奇妙なことに今回が初めて会場を提供している愛知学院の先生による講習でもありました。

タイトルだけからすると何のことかよく分かりません。しかしお話を拝聴すると論旨は明快でした。アフリカなどの貧民国の経済が如何に大国の影響下にあって喘いでいるかということです。これは今日的にも歴史的にも看過できない問題です。

具体的にはマリ共和国(アフリカ西海岸の国、元フランス領)という世界最貧国の主要産物である綿花(コットン)が国際流通上、どのような立場におかれているかというお話でした。詳細は様々な数字とともに教えてくださったのですが、先生が訴えられたことは唯一つでした。

フランスの植民地時代、そのマリ共和国一帯は綿花を作ることを命じられました。一国一産業です。それでマリ共和国は現在でも(2005年)、239の生産量を誇ります。1位は中国で57000、2位がアメリカ合衆国で5043。(以上単位は千トン、以下同じ)マリ共和国は12位です。

それに対して輸出は2004年、1位アメリカ合衆国2898、2位オーストラリア446、マリ共和国は6位207。輸入は1位中国2140。

つまりこの数字からするとマリ共和国は綿花の大国になります。しかし問題はその価格です。価格が安くて国際市場に流通させても利益が上がらないのです。

ここでふとわたしながらに淋しい脳みそで考えます。

最貧国なら物価が安いのだから国際競争力は高いはずだ。しかも高性能を競う工業製品ではなく、最も土地に相応しい農産物がなぜ国際競争力を失しているのか。不思議になります。

守先生はその原因をずばり「先進国の農業補助金」だと喝破されます。

既に先進国では農業生産物の国際競争力はありません。しかしアメリカ合衆国のように巨大な農業輸出国はそれでは国内の農民のみならず農業自体が衰退してしまうので補助金を出すのです。フランスの美しい農村風景も実は補助金の上に踊る幻想だと言われます。

そこには農業保護と同時に国内政治が絡んできます。フランスのシラク大統領は農業大臣として政治活動をスタートさせました。

身近な例ではアメリカ合衆国クリントン前大統領が地元の農産品であるコメをこともあろうに瑞穂の国日本に買えと迫っていたのと同じでしょうね。

かくして先進国の農民は補助金で生活し、輸出する時はダンピング。途上国の農産品は先進国のダンピングされた農産品とは競争できないという仕組みが出来てしまっているのだそうです。2001年の先進国の農業補助金の総額は3110億ドル、それに対して途上国への援助の総合計は550億ドル。5分の1です。

もともと、アフリカやアジア諸国は植民地時代に宗主国のために生産能力の調整をされています。言語も統一されています。マリ共和国の人たちは日常フランス語で会話しているのです。その彼らが独立した後、十分に一人立ち来ていない状態でこうしたダンピングがあれば当然困窮します。

守先生の資料は最後以下のようにまとめられました。

ブルキナファソ共和国のコンパウレ大統領は西アフリカを代表して「先進国の援助はいらない。もし、先進国が農業補助金を廃止してくれれば」と発言

先進国の一見心温まる経済援助は、実は先進国の農業補助金で途上国を痛めつけた穴埋めに過ぎなかった?

電気も水道もない最貧国マリ共和国の綿花農民に幸あれ!

現在、世界市場はヨーロッパ中心のEU、米国主導の自由貿易地域、東アジア自由貿易地域のブロック化が進んでいます。ブロック格差やブロックからの排除は戦争やテロを生みます。それだけは何とか避けなければなりません。

日本人も特に名古屋人もトヨタ特需に浮かれていないで世界の目で経済を見て欲しい。
これが守先生の一番おっしゃりたいことだったようです。

最後の質疑応答の際、補足として

「もし先進国が補助金を排したら、その国の農業が大打撃を受け、今度は地球規模での農業危機が起こるから、ことは簡単ではない」と言われました。

いずれにしてもどこかの国の出来事がピンポンのように複雑に跳ね返ってくる訳ですから、経済も自然と同様ままならないものです。

少なくとも安いと手に取った木綿のシャツの背後にこうした問題が隠れていることを自覚すること。ここから出発するしかないでしょうね。

経絡導引教室

懸案の経絡導引教室を開始しました。

10月3日からの火曜日コースと7日からの土曜日コースの二つです。

経絡導引(けいらくどういん)とは経絡指圧の恩師増永静人先生が指圧の探求の終着点として力を注がれた

経絡体操をわたしなりに理解し整理したものです。経絡体操は中国医学でいう十二の経絡(気の流れる場所とされている)を六つのパターンで行なうように構成されています。

導引は道教の道士が納めたという古くから伝わる呼吸体操のことで、今日の気功と同一のものです。気功は近代中国が整理統合して命名した新しい呼称なのです。

増永先生は橋本操体(故橋本敬三医師が伝統的な民間療法を元に考案された健康法。楽な方に動いて身体
の歪みを調整する)や野口体操(東京芸大の故野口三千三教授の創案された体操、こんにゃく体操とか芸大体操としても知られる)との邂逅によって指圧をダイナミックに再構成されたものです。

 

先生はそれまで受身でしかなかった指圧を自分で能動的に健康法としてできる方法として呼吸と経絡をもちいた体操を考えられたのです。経絡という言葉が難しいので、イメージ健康体操とも呼ばれました。

今回、わたしは経絡体操と漢方の基本的な考え方を組み合わせ、さらに二十四節気という季節との関連を勉強しつつ、東洋医学を日常的な養生法として提出しようと考えました。そして身体を通じて経絡やツボの勉強もしていただこうと講座を開設したのです。

幸い宣伝もあまりしなかったのですが、何名かの参加者があって開始することができました。

経絡導引教室 開始一ヶ月

経絡導引教室が始まって一ヶ月が経ちました。

東洋医術の基礎である陰陽五行説、気血水、経絡などの話を実技を加えて進めています。

特に経絡と呼吸法に重点を置き、経絡を実感しながら身体を動かすというこの教室の眼目を大切にしたいと努力していますが、まだ指導に不慣れですから生徒さんには理解しづらいことも多々あることでしょう。

そこは漢方独自の慈愛の精神でご寛恕いただくこととして、今後も身体感覚の養成を丁寧に指導していく予定です。

東洋医術は知識でなく知恵の学問です。身体感覚を澄ますことで身体を慈しんで生きていけたら素晴らしいこ
とだと確信しています。

現在経絡は任脉、督脉、肺経、大腸経、胃経と進めてきました。古典経絡と増永経絡の両方ですので時間が不十分ですが、経絡感覚が身につけばおおよそは自分で感得できるようになりますから心配ありません。

もうひとつ、東洋医術の重要項目に環境との調和があります。時候の養生の資料もお渡しして生活の参考に
していただいています。たとえば今は二十四節気の寒露です。夏の陽が沈静し、冬の陰が活発化してきつつあり、それが外見上うまく吊り合い、過ごしやすい日々となっています。しかしこれから陰の性が強くなり寒さに向います。ここで暑いからと身体を冷やすとこの先辛いことになる可能性があります。そんなとき、時節に取れる旬の食べ物がちょうどよい養生食になってくれるのです。

乾いた秋は肺の季節であり、肺は乾燥に弱い。そんな時に店頭に並ぶ梨は潤いを与えてくれる食べ物として重要になります。

こうして日々の暮らしを楽しみながら養生をして行ければ素晴らしいことと思います。決して禁欲的に厳しく食を律することが養生だとは思いません。

深い豊かな呼吸。

季節の変化を楽しむ食事。

伸びやかな導引体操。

澄んだ心。

こうした何でもないことが日々の養生になるのです。

顔鍼(美顔鍼) 

前号で顔鍼(美顔鍼)について書きました。

北米ではコスメティック鍼として人気があり、それが日本でも徐々に広がりつつあるという内容でした。

わたしは本当に北米で人気があるのか在米の知人にメールで尋ねてみました。アメリカ人と結婚して現在ロスに住むCさんの返事は意外なことにそんな話は聞いたことが無いと言います。夫のBさんに聞いても知らないとの返事。

それではと米国東部に住むIさんにイギリス人女性Jさんを介して聞いてもらいました。Iさんは在日中は毎週わたしのところに治療に来ていた女性です。

ところがこちらもそんな話は知らないとすげない返事。訊ねてくれたJさんも顔の美容鍼は知らないと言います。

やはりマスコミは信用できません。その怪しい情報を信じてしまったわたしも反省しています。ただ、カナダのメディアで紹介されて反響があったというニュースはインターネットでテレビニュースの動画着きで紹介されていましたから、カナダの一部で話題になっていることは間違いないでしょう。

また、先日はテレビのバラエティーで有名な男性タレントが二人、若返りたいということで顔に鍼をしていたそうです。日本でも次第に認知されつつあることは確かでしょう。

そもそも、美容ということでなく、顔の鍼は昔からありました。顔には胃経、大腸経、胆経、膀胱経、三焦経、小腸経といった経絡が走っており、身体と同時に治療対象となっていたからです。それは顔の問題(顔面神経麻痺、三叉神経痛、鼻炎、頭痛、眼精疲労など)だけでなく、全身の調整の一環として顔に鍼をしたのです。

顔鍼に関して、とても面白いことがありました。

先ほどのイギリス人女性Jさん。彼女は毎週のように調整にいらっしゃいますが、必要を感じて顔にも鍼をしました。すると次の日、興奮したメールが英語で届きました。

「今日、三名の知人からどうしたの?何かしたの?顔がフラットだよ」と言われたそうです。フラットになるとは

どういうことは今ひとつはっきりしませんが、すっきりしたということか、ややふくよかなタイプの女性ですから本当に顔が平に見えたのか。

経験上、顔鍼をすると顔の輪郭がハッキリしたように見えます。これは顔の筋肉が弾力を取り戻すからです。

その結果、若返る感じです。おそらくフラットとはそんなことだろうと思うのです。

Jさんは当然のごとく、次回も顔をリクエストされました。そして翌日勤務している大学でまたまた何名から驚いて尋ねられたそうです。「どうして顔がそんなにすっきりしているの!?何かしたの?」

あとがき

今日は立冬。

夏の性質は陽であり冬の性質は陰です。秋は陰と陽のバランスが取れていて過ごしやすかったのですが、冬は陰が強くなります。その結果、冷えてきます。寒くなってきます。体内の陽気がどんどん外気に奪われ体力を消耗すると同時に腎を傷めます。

冬は閉蔵といい、無理をせず閉じているのが大切です。早めに寝て、朝はゆっくり日を浴びて起きるとよい。そのように漢方では言い伝えられています。それを無視して夜更かししたり、冬の寒に身を晒すと、陽の気が少な
くなり、春の生成さかんな季節について行けず鼻炎などになるというのです。

旬の野菜や果物、木の実や魚などを摂食して豊かな冬を過ごしましょう。

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游氣風信 No.194 2006. 9.1

今月号は美顔鍼、アスリート鍼、骨粗しょう症、宮沢賢治について書きました。

美顔鍼

『医道の日本誌』という鍼灸の専門誌が増刊号として鍼による美容特集号を発行しました。
実はわたしも以前から顔に直接鍼をすることで美容に役立てようという試みをしていました。
北米では数年前から美容整形に替わって人気をよんでいると知ったからです。

顔にメスを入れたり異物を挿入しないで手軽にできる美容鍼は環境や自然を重要視する女性から試してみる価値があると判断されたようです。

今流行のロハスな生活を目指す人にはうってつけの方法でしょう。

一般に実施されている美容鍼は特定のツボに鍼を刺入して30分くらい置いておくものです。
しかし私のやり方は独自に開発したもので、本人の希望を聞きながら緻密に鍼をしていきます。
面白いことに体験者は顔の鍼について施術してすぐよりも数日経過した方が顕著な変化を感じられるとおっしゃいます。

顔の若返りを希望される方には是非おすすめいたします。

アスリート鍼

三島治療室の治療代は初回料2000円、治療代5000円と決まっています。

しかし、局所のみの治療を希望される方の局所治療(アスリート鍼)を実施していることはあまり知られていません。

これは、例えば膝の故障のある方で、早く治したいと希望される方の要望に応えて始めたものです。スポーツ傷害で短期間に集中して治療したいという方におすすめです。

毎回5000円では経済的に大変ですがこれならリーズナブルに対応できます。

もっと時間のかかりそうな方は健康保険の鍼をお勧めします。同意書が必要です。同意書は三島治療室にありますので、それを持参して主治医の先生とご相談下さい。

モーニングセミナー「骨粗しょう症」

愛知学院大学で行なわれている月一回の早朝セミナーに行ってきました。今月のテーマは「さりげない日常動作と骨の健康維持」・・骨粗しょう症の予防と日常運動・・講師は中京大学教養部長 鷲見勝博教授。

運動不足は肥満の元

 肥満は高血圧、糖尿病、骨粗しょう症、更年期障害などの原因になる。さらに高脂血症から動脈硬化、そして虚血性心疾患。これらが互いに影響を与え合って病気になる。さらに外因としてストレスや喫煙もそれらを助長する。

運動不足は筋力の低下の元

筋力低下はバランス能力低下から転倒、骨折そして日常の生活能力の低下をきたす。

骨の代謝

骨は一年ですっかり入れ替わる。運動は筋力を高め骨の代謝を高める。つまり元気のいい骨を作る。
それに対して筋繊維は一生変わらない。だから筋力トレーニングできる。

骨粗しょう症の危険因子

内的要因

ホルモン因子(女性ホルモン 閉経 卵巣機能異常など)

加齢因子(高年齢)

遺伝因子(人種 白人はアジア人より骨が強いなど)

外的要因

運動因子(運動不足)

栄養因子(痩せ 低栄養 ダイエット カルシウム不足など)

生活習慣因子(喫煙 飲酒など)

続発性要因

 ステロイド服用 卵巣摘出 甲状腺機能亢進 糖尿病など

上記に対して努力の余地があるのは運動と栄養。

三十歳までにしっかりカルシウムと運動をしておくことが大切。

高齢者でも努力は有効。諦めない。

更年期と閉経

更年期

 期間 閉経前後5年くらい

 平均的な期間 42歳から55歳

閉経

 更年期に起こる最終月経

 日本人の平均閉経年齢 51歳

運動と骨のリモデリング

1 骨への機械的刺激 骨代謝昂進

2 全身的なカルシウムの恒常性 骨密度維持

1と2によって筋と関節の連携伸展・屈曲+骨への荷重負荷 骨量の維持・向上・減少の抑制

運動は筋力トレーニング、ウォーキング、ストレッチいずれも効果が見られた。但し、種類によって効果の出る場所が異なる。

EBMによる骨折リスク減少に効果的な運動

(EBMとは根拠あるという意味)

1 歩行などの活動性の高い運動:1日30分から60分が骨に効果的

2 週2回筋力を中心とした運動:大腿四頭筋の増強は骨密度増加

3 週1回三年間重量負荷運動プログラム(最大静的運動):骨量に効果なし 動きの無い筋力トレーニングは骨量に影響しない

4 最大心拍数の60%レベルで1日50分、週4回のランニング、歩行運動:骨密度を高める 最大心拍数=220-年齢

5 レジスタンストレーニングの実施:筋量、バランス感覚、身体活動性を高める

転倒・骨粗しょう症予防を目的とした中・高齢者の運動実施を考える

・運動能力の把握

・プログラムの策定

・最低週1から2回、1回30から60分の運動

・家庭や地域で実施可能な運動方法を導入(個人の活動性を考慮する)

・可能であればアドバイザーの常駐する施設を利用する(気分転換)

・柔軟性、筋力、呼吸循環、全身持久性を考慮した運動が望ましい

有酸素運動で脂肪の代謝や女性ホルモンの産出が行なわれる

善玉コレステロールが増える

運動の習慣化への自助努力

(米国国立老化医学研究所指針)

・肥満や糖尿病など慢性疾患のリスクの軽減に効果的な運動は軽度から中程度のかなり少ない運動量でも十分効果が認められる。

・従来の健康保持増進を目的とした運動は心肺能力の向上(有酸素運動・ジョギング・エアロビクスなど)が中心であった。しかし、軽い筋力トレーニングやストレッチを併用すれば慢性疾患の予防や回復により効果的である。

・1回に10分以上の運動を1日に合計30分以上、ほぼ毎日実施すれば十分に効果が期待できる。

運動の強度と血中乳酸濃度

 筋肉痛は乳酸の蓄積。運動抑制物質。筋肉痛がでるまでやらなくても効果がある。

体力増加から病気の予防へ

運動に対する意識を変えると

運動の親近感

生活・仕事などのスケジュール調整が容易

高齢者病後衰弱者でも可能

となる。そのためには

ローインパクトエクササイズ(日常生活の身体活動+軽筋力トレーニング+ストレッチ)が最適である。それによって「生活の自立 骨粗しょう症や病気再発予防」が可能となる。

ふと宮沢賢治について

絶対!ふるさと主義

= 体感☆いわて宮沢賢治が愛した理想郷(イーハトーブ)=

9/3 NHK BS2 午後1・00~3・00

「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などで知られる作家・宮沢賢治。

今年、生誕110年を迎える。明治29年、岩手県花巻市で生まれた賢治は、実に多彩な顔を持つと言われる。童話作家、音楽家、教師、農業技術者、そしてサラリーマン。

多様な経験を持ち、様々なジャンルに才能をいかんなく発揮した宮沢賢治。

そんな賢治には、今も多くのファンがいる。愛読家は勿論、自然や昆虫の観察が好きだった賢治の足跡を同じように歩くことで、賢治が見た故郷の風景を感じ取ろうというユニークなグループ。また、教鞭をとった高校では、賢治が好んだと言う伝統の鹿(しし)踊りが、今も後輩たちにしっかりと受け継がれている。生誕から110年、今も岩手の人たちを魅了してやまない宮沢賢治。

番組では、賢治を慕う多くの方々に参加して頂きながら、宮沢賢治の尽きることのない魅力を生中継で伝える。

既に放映は終っているようですが、あるところでこんなコピーを見つけました。

文中に今も岩手の人たちを魅了してやまない宮沢賢治・・・とありますが、本当でしょうか。

わたしが岩手を訪問した三十数年前、ふらふら歩いている私に向って、公園の手入れをしているおばさんが語りかけてきました。

「名古屋から?そんな遠くから何しに来たの?こんな何にも無いところに」

「賢治の足跡を訪ねてきたんです」

「何でそんな人を・・・」

と怪訝な顔をされました。

「東京から疎開された高村光太郎先生は立派なのに」

とも続けられました。

これは一人だけではないのです。もちろん賢治を尊敬するという人もいました。当時はまだ賢治の没後四十年ほどでしたから、その謦咳に触れた人も多くいたのです。

「何でそんな人を・・・?」。これは単に同じ故郷の人ということでの韜晦だったのでしょうか。

決してそうは思いません。

団扇太鼓を叩いて早朝の町を歩き回る賢治。

給料全てをレコードにつぎ込む道楽者の賢治。

しょっちゅう東京へ家出している困った放蕩息子。

親に反抗して違う宗教に熱を上げる不孝者。

百姓の真似事をして、結局生涯を親の脛を齧って暮らした無能の男。

実際に身近にした人たちから見ると風変わりで気持ち悪い人という印象が強かったような気がします。少なくともお友達にはなりたくない人だったでしょう。

ですから今も岩手の人たちを魅了してやまない宮沢賢治・・・などと言われるとおやっと首を傾げざるを得ません。

もっとも、賢治が観光資源になると分かってからの扱いは掌を返すように変化したようですが。

実はわたしは長年賢治を読み、彼についての某かの文章を書いてきました。しかし、賢治が作られたイメージでちやほやされている風潮を決して好ましく思ってはいないのです。

賢治の功罪、その生涯の陰翳、毀誉褒貶。それらを深く知りたいのですね。その等身大の実像と思想の深淵を・・・。

彼に影響を与えた歴史と社会、その戦争観や宗教観、皇室観などなど・・・。

そのために岩手を訪問し、賢治を直に知る人とお会いして色々お話を聞く機会もありました。

それが今から十年前、賢治生誕百年の喧騒以来、どうも賢治像が上滑りしているなと感じています。それぞれの人がそれぞれの賢治像を抱いていることにはやぶさかではありませんが、その実体をしっかり見据えた上でそうありたいですね。

作品を味わったり彼の考えに賛同することは大いに結構ですが、無条件で賛同できないこともあります。したがってざっと以下のことなどには注意したいものです。

神格化は避けること。

環境派のシンボルにされないこと。

無農薬野菜販売に利用されないこと。

宗教団体のプロパガンダに用いられないこと。

彼自身ある大東亜共栄圏に巨大な影響を与えた宗教団体の熱烈な信者であり、作品群はその教えを広報流布が目的だったこと。したがって早世しなければ戦争協力者だったかもしれないこと。

賢治の多方面にわたる才能が逆に底の浅さとして喧伝されることは好まないのです。その上で一人一人の賢治を大事にしていけたらいいなと思っています。

マスコミの取り上げ方には特に注意したいですね。

賢治は過去において戦争に利用されたし、戦後の貧窮時代にも民意発揚に利用された過去があります。共産主義者からは叩き台として便利な存在でした。

それらもひっくるめて賢治の特性なのでしょうが、注意は必要だと思います。


まあ、そんなちょっとした思いが番組の今も岩手の人たちを魅了してやまない宮沢賢治・・・というコピーに引っかかったのですね。

あとがき

暑いと思っていたらあっという間に涼しい秋になりました。とくに明け方は油断大敵です。

秋は夏の疲れとついつい口にした冷たい飲食物の影響が現れる季節です。腰を痛めたり、古傷が顔を出したりするので注意が必要。

呼吸器疾患にも気をつけたい季節です。

ご自愛ください。(游)

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游氣風信 No.193 2006. 8.1

2006.7.16

シマトネリコ

ベランダの木が緑の葉を涼しげに茂らせています。

シマトネリコという木で寒さに強く、庭木でも越冬可能ということでダイエーで買ってきました。

細い株が三本、風が吹くと大きく揺れて木の葉隠れの空が爽やかに目を楽しませてくれるので患者さんにも好評です。


幹も枝もしなやかで、濃い緑色の葉は存在に勢いがあります。夏の日差しを吸収しながら背丈もぐんぐん伸び、現在は人の高さ位。半月で10センチくらい伸びたでしょうか。

木は自然では相当な高木となり、バットの材料として知られているそうです。面白いことに気がつきました。木が来ると虫を呼ぶのです。先日は緑色のコガネムシがしがみついていました。今日は腰の細いハチが来ていました。激しい梅雨に打たれて小さなカタツムリが葉にしがみついています。一体どこからきたのでしょう。さらに鉢の上に積み重なった枯葉の下にも色々な虫が蠢いています。


木はそれ自体が生態系を生み出すのですね。こんな無機質なベランダにも有機的連鎖体系が生まれる。それはささやかな感動です。今度治療に来られたら一声かけてやってください。

2006.07.30

空中浮遊!?

治療室のずっと南西方向に今池中学があります。
中学横の民家の一角に不思議なものを見ることができます。
それは空中浮遊しているお地蔵さん。
なんでこんなに高いところに鎮座ましますのでしょうか(お立ちですが・・)。

お参りしているおばあさんに聞きました。
「四つ角にあるでしょう。車が飛び込んで壊れたで高くしたんだに」
別のおじさん。
「昔、ここらは池だったんだなも。目の前の中学校の校庭。その池で娘さんが二人死んだで供養しとるんだわな」
「どうしてこんなに高いところにあるんですか」
「ほれは分からん」
ということで不思議は不思議のままです。


お地蔵さんの目先に中学があります。
確かに池を見守っているような感じです。
散歩の途上、お参りする人が絶えません。
ここに由来が出ていました。

http://dd-extreme.at.webry.info/200601/article_19.html

このサイトによると、明治末期に8名の子どもが池で亡くなったとなっています。
いずれにしても地蔵は子どもを守るそうですから、子どもの水難があったことは想像できます。

2006/08/11

イチロー選手はなぜ200本以上の安打を打てるのか

8月8日火曜日、愛知学院大学モーニングセミナーを受講しました。今月で5回目ですが夏休みのためか特別に2時間枠。前半を名古屋市立大学学長で医学博士の西野仁雄先生の講演「大脳生理学的解析から考える」。

後半は元中日ドラゴンズ監督で名二塁手として鳴らした高木守道氏が参加されて「理論と実践との対話」。

テーマは「イチロー選手の活躍を通して、わたしたちの脳の仕組みはとのようになっているのか?

脳はどのように働いているのか?脳の働きを盛んにする(強くする)ことができるのか?」大変に興味深い内容でした。

当日頂いたレジュメからの抜粋と聞きかじりをここに紹介いたします。学術的な部分はレジュメからで、ところどころにある感想めいた文はわたしの感慨とか考えです。論文ではないので、その差異が明確になっていません。申し訳ありません。格調高いところは西野先生のお話と思ってください。

脳の話

野球はボールを見て反応します。

それは

視覚入力

 視覚野

 運動野

 筋収縮

という反応でその速度は約130から200ミリ秒。
それに対して身体の動きは

 体性感覚

 運動野

 筋収縮

でその速度は60から130ミリ秒。
身体反応の方が約半分の速さで行なわれますから、ボールを見て反応しても十分打てることになり
ます。それらを磨いてイチローが存在します。

イチローはどうしてあんなによくヒットを打てるのか?
どうしてレーザービームの球を投げられるのか?
どうしてあんなに速く走れるのか?

イチローは父親によると子どもの頃から「やんちゃで大の負けず嫌いでがんこ」だったそうです。その遺伝的特質に加えて小学三年から中学三年まで高校生以上の練習を1年に363日行なっていました。

しかもその内容は

 ボール球は絶対に打たない・・・・選球眼が養われた
 毎日テイバッティングを行なった・・・柔軟性が養われた

 その他豊富で質の高い練習によって「努力、持続、忍耐力、集中力、意志、感動、自信、目的、将来設計」が形成されました。

既に六年生のとき、将来プロ野球の選手になると作文に書いています。
「ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会に出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習には自信があります。(中略)そしてその球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズが夢です。ドラフト入団でけいやく金は、一億円以上が目標です。」

六年生にしてここまでしっかりと具体的な目標を立てていることには驚かされます。しかもそれを実現していますから。

再び脳の話

脳は使えば発達します。
イチローは小さい頃から野球のための身体と脳を上手に使って今日があるのでしょう。持って生まれた
才能だけではそれを開花させることは無理なようです。

ネズミの実験で、豊かな環境(色々な玩具などが置いてある)で飼育すると、神経細胞の新生が高まり、新たな環境への適応性が高まるということが確かめられています。つまりイチローもチチロー(イチローの父親の愛称)の指導で一生懸命的確な練習を続けたからこそ超一流の野球選手になれたのです。

脳には神経幹細胞が存在し、70~80歳になっても、たえず新しい神経細胞を供給しています。
脳は大きな可能性をもっていて、使えば、使うほど、活性化され、よく働くようになるのです。

 

イチローは天才か?

イチローは類稀な素質を持っています。

 反射神経
 動眼視力
 瞬間視力

それに加えて

 練習の虫
 努力の人

 天才とは1%の才能と99%の努力(エジソン)

イチローは努力できる才能がある。
これは天才と呼んでいいでしょう。

このあと、同じく野球の天才である世界のホームラン王の一面が紹介されました。

王監督の座右の銘

1、まごころにそむいていませんか?

Have you not gone against sincerity?

2、言葉や行いにはずかしいことはありませんか?

Have you not felt ashamed of thy words and deeds?

3、気力がかけていませんか?

Have you not lacked vigor?

4、努力をおしんでいませんか?

Have you not exerted all possible efforts?

5、なまけていませんか?

Have you not become slothful?

世界のホームラン王は今日でもこの五つの反省を毎日行なっているそうです。人格者と目される王さんらしい話です。

以下、三島の意見ですから読み流してください。

上記の反省文を読んで、70歳以上の方ならピンとくることでしょう。これは当日西野先生もおっしゃっていましたが、元になっているのは旧海軍の五つの反省「海軍五省」です。今日の自衛隊にも継承されているとのことです。戦後、進駐してきたアメリカ海軍がこの文章を見つけて感心し、現在でも海兵隊で心の指針とされているのだそうです。

海軍五省

一、至誠に悖るなかりしか(しせいにもとるなかりしか)

Hast thou not gone against sincerity?

一、言行に恥づるなかりしか(げんこうにはづるなかりしか)

Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?

一、氣力に缺くるなかりしか(きりょくにかくるなかりしか)

Hast thou not lacked vigor?

一、努力に憾みなかりしか(どりょくにうらみなかりしか)

Hast thou not exerted all possible efforts?

一、不精に亘るなかりしか(ぶしょうにわたるなかりしか)

Hast thou not become slothful?

王監督が野球人として生涯にわたって人格向上のために日々上記の項目で反省されることは素晴らしいことです。しかし、それとは別に少し腑に落ちない点があります。
それは「誰が、何のために、何を、どう反省して、どうしようとするのか」という問題です。
ここが欠落してこの五つの反省だけを持ち出すと人格を自分の予期せぬうちに、あらぬ方向に誘導、形成される恐れがあります。それが大日本帝国軍の行為であったことは到底忘れるこが不可能なことです。ここは美談として聞き流すことはできませんでした。

さて、脳の話に戻ります。

前頭葉を鍛えよう

前頭葉の働きは

 意志

 報酬の認知

 感情のコントロール

 将来に対する予測、計画

イチローの送球はそのスピードと正確さからレーバービームと称されます。それは単なる運動能力だけではありません。

イチローのレーザービームのためには「肩の強さ、コントロールの正確さ」に先立って、「準備状態と予測(イマジネーション)」が必要です。

イチロー談

「あのプレーに関しては見てから投げて、ではもう遅い。一番大事なのは背中でランナーとセカンドベースを感じること。見てないところで見えていないと、できないことはある」

これはまさに脳の機能を物語っています。


日本人がアメリカで野球をやろうと思ったら

イチロー曰く

「何よりも大切なことは自分で自分を教育できることだと思います。自分で自分をコーチできる、そういう能力。

(中略)

人のやることも自分のことのように捉えて、自分だったらどうするかといことを常に考えていられるかどうか。(コー
チは自分の状態を知らないのだから、コーチを受けることはとても危険)だから、自分で自分をコーチできる能力
が絶対に必要です。」

と、自己教育能力に触れています。

“自分で自分をコーチできる能力”

  問題を設定(意識)する

  思案し、考えめぐらす

これなくしてアメリカで野球をすることはできないということです。しかしこれはあらゆる分野にいえる事です。一
流選手の自己分析能力の素晴らしさを感じます。

自分を高めていく野球に対する取り組み方

 -完璧主義、徹底した自己管理-

イチローは試合の前に実に周到に根気よく準備します。

・本拠での試合なら約5時間前に動き始める入念なマッサージやストレッチ体操を約1時間行なう
・道具類(バット、グラブ、スパイク)をことのほか大切にする

同僚はそんなイチローを見てこういいます。

「あいつを見ているだけで、疲れてくるよ」

それに対してイチローは

「練習にもっと時間をかければ、ずっとよくなるのに」

まさに努力の人です。

ここから総括に入ります。

こころのもち方によって、脳を創り変えることができる

イチローはどうしてあんなによくヒットを打てるのか? 

 才能(遺伝子)、性格

 環境

 繰り返す練習(努力)

 意志

 心のもち方

自分で自分をコーチ(目標を高く設定し、それに向って進む)

常に脳を鍛え、進化させている自分らしさをみつける(個性)

やりたいことをみつける(目的)

自分の中にイチローを見つけよう

いっしょけんめいやる(努力)

チャレンジする(挑戦)

力をあわせる(協力)

ありがとうの気持ちをもつ(感謝)

脳 Brain は最もすばらしい創造物

・膨大な数の素子からなる

 神経細胞、グリア細胞、ネットワーク

・大きな可塑性、適応性をもつ(柔軟である)

 使えば使うほど、新生、発芽、シナプス効率の向上がおこる

・脳内には神経幹細胞が存在している

 70~80歳になっても、神経細胞を補充し、機能を維持している

・常に進化する可能性をもつ

 心のもち方によって、私たち自身の脳を作り変えて行くことができる

以上が西野先生の講演の骨子でした。

第二部は高木元監督による野球技術の話やご自身の裏話、野球界の知られざる話などで盛り上がりました。

予定を30分過ぎても終了せず、わたしは仕事があるので残念ながら中座しました。

高木氏を横にして名古屋市立大学学長西野教授は対談をするはずなのに、拝見するところ一野球少年の顔

に戻り、憧れの高木選手を熱く仰ぎ見る状態でした。

場内からも白髪の野球ファンが熱心に質問を飛ばしていました。ある人から高木さんはドラゴンズファンにとっ

ては王、長嶋以上の存在だと聞いていましたが、なるほど、まさにそんな感じでした。

今回の講演は夏休みということで少年の参加を予測されたのでしょうか。

脳の機能とイチロー選手の活躍にからめて、少年たちに夢や希望を与える素晴らしい内容でした。

しかし残念なことに参加者は中高齢者中心で、子どもたちの姿は少なかったようです。それでも夢や希望は幾
つになっても必要なもの。脳の機能は高齢になっても十分新生している事実は大変な励みになります。


追記

高木元監督の母校岐阜県立商業高校が今年の夏の甲子園に出場しました。わたしは高木氏の二年先輩にあたる方を知っています。以前、今池の名物居酒屋「六文銭」を経営していた方です。その方のブログに名門野球部の悲しいエピソードが書かれています。ご一読ください。

http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=268485

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游氣風信 No.192 2006. 7.1

三島治療室便り

2006/06/24

アルゼンチン

アルゼンチンからご主人の仕事(自動車会社)に同道されたKさんが経絡指圧の勉強に来ています。彼女はアルゼンチンの大学で理学療法を勉強された方で、帰国後は指圧も加味した技術を提供したいそうです。今回日本に来た機会を活かし、どうしても経絡指圧の勉強がしたいと親戚の知人を頼ってわたしのところへ来られました。

わたしを彼女に紹介した方は医療機器の会社を経営しておられる方でわたしとは何の面識も無く、全く偶然にHPで知ったということでした。

Kさんはすでにわたしの恩師増永静人先生の本(英語版)を読んでおられ、初回からいきなり質問攻めにあいました。その熱心さにはたじたじです。

彼女は日系の4世で日本語がとてもお上手です。4世くらいになると日本語は全然ダメという方も多いのですが、彼女のご両親もそのご両親もみな日本人なので言語がきちんと伝わったのでしょうか。

ご主人も4世で日本語はぺらぺら。もっとも達者なのは会話であって、読み書きは難しいようです。

ですから講習は日本語で問題なし。専門の医学用語は英語を交えて行ないます。わたしの片言英語と違って極めて堪能な英語ですから羨ましい限り。

あと半年ほどの滞在だそうで、その間に全部で10回の講義をします。

中南米からわたしの塾に来られた方はブラジル、ペルー、トリニダード・トバコ、プエルトリコに続いて5カ国目です。

今年は春先にアメリカの女性が1ヶ月以上熱心に勉強に来ました。海外に一度も出かけたことがないわたしですが、部屋にいながらにして様々な国の方とお会いできるのはありがたいものです。

2006/06/27

梅雨の養生

梅雨たけなわです。梅雨とは梅の実が熟す頃の雨という意。また、黴が生えるので黴雨(ばいう)という説もあります。俳句の季語には雨に打たれた青葉が美しい青梅雨、雨が降らない空梅雨、激しく降る荒梅雨、さっと降ってさっと止む走梅雨、梅雨の晴れ間を輝く梅雨の星や梅雨の月など色々な言葉があって季節を彩っています。

五月雨(さみだれ)も本来は梅雨のことを表していますが、新暦が基本になった現代では五月に降る雨として用いられます。芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」「五月雨の降り残してや光堂」、蕪村の「さみだれや大河を前に家二軒」などの句は旧暦の五月であり、丁度田植えの頃に降る雨、まさに梅雨を指します。

さて、梅雨時は寒かったり暑かったりと気温が定まらない上に、湿気が厳しく過ごし難い時期です。

特に病気の方やお年寄には辛いものです。関節が痛んだり、呼吸が苦しくなるのが通常ですが、これは湿気と低気圧によるものと考えられます。

漢方では湿気は湿邪として身体に影響を及ぼし、それは特に消化吸収の要である「胃」と「脾」に影響を与えるとされています。「脾」は現代医学の脾臓との関連は薄く、むしろすい臓に近いと言われています。つまり「湿邪」は食べ物を摂取、消化して吸収する能力を損なうのです。それに加えて蒸し暑いとついつい冷たいものを口に入れてしまいますからますます消化器が弱ってしまいます。

さらに困ったことに、先ほど述べた梅雨の別称である黴雨。梅雨には食べ物がいたみやすいという厄介な問題があります。いかに冷蔵庫があるといっても油断は大敵。食品に繁殖するのは黴だけではありません。食中毒を起こしやすい黴菌だって元気に活動することでしょう。

湿気と冷たい食物で弱った胃腸に黴や黴菌でいたんだ食べ物。このダブルパンチがますます胃腸を痛めつけてしまいます。

この時期の養生として、まず湿邪を避けること。それには冷たい食べ物や飲み物を極力避け、胃腸を労わります。つぎに汗を速やかに拭き取って身体の冷えを防ぎます。エアコンは十分注意して使用してください。

寝る前にはじっくりと身体を芯から温める半身浴がお勧めです。じくじく出てくる汗から粘り気がなくなればしめたもの。風呂の後は汗をよく拭いて身体の冷えの予防です。

湿邪にやられると脳の思考も鈍ると言われます。ぼんやりして交通事故にあってもつまらないので十分な睡眠も必須でしょう。経絡という身体にあるスジを伸ばして「胃」や「脾」を活性化することも有効です。それらの経絡は身体の前面を走っています。指を組んで万歳をしながら深呼吸をすると経絡がよく伸びて、その影響で疲れて下垂した内臓が上がってきます。身体の柔らかい人は正座をしてそのまま後に倒れるストレッチをしてもかまいません。

梅雨は鬱陶しい季節です。「鬱陶しい」という漢字まで鬱陶しいですね。しかし最初に書いたように緑の最も美しい青梅雨の候でもあります。青時雨という言葉もあります。洗濯物が乾かないとか、食べ物がすぐ腐るとか、関節が痛いとかと悪い側面ばかり見ないで、慈雨の美しさを眺める(長雨る)余裕も欲しいものです。

(大雨で災害に遭遇された方たちには心よりお見舞い申し上げます)

2006/07/13

宇宙医学 重力は生物に何を与えたか

7月11日、恒例の月一セミナー、愛知学院大学モーニングセミナーへ行ってきました。四月から始まっていますが、毎回雨のような気がします。もちろん梅雨時の今月も雨でした。7時開始8時終了。今月も恒例のバナナと牛乳がついて無料というまことに親切なセミナーです。

今月のテーマは「宇宙医学 重力は生物に何を与えたか」。講師は藤田保健衛生大学 衛生学部教授 長岡俊治先生。

宇宙医学とは突飛もない話のようですが、これが実は我々が我々であるために実に身近なテーマであると同時に、寝たきり老人などの介護医療に関して重要なヒントとなるのです。

お話はロシアの宇宙飛行士が宇宙に長期滞在した後、身体に重大な、しかも予期せぬ事態に陥るところから始まります。なぜなら彼らは地上での生活に対応できなくなっていたからなのです。

地球上の生物は常に環境の影響下にあって進化してきました。それら環境は当然あるものとして存在していますから、あまりに身近なゆえに却ってその重要性に気づくことは困難です。魚は水の存在を知らずに生きています。彼らが水の存在を知るのは地上に出たときです。呼吸の問題と自由に動けない問題。同様に人は重力の重要性は宇宙空間に飛んで初めて解明できるのです。無酸素状態は地上で作ることが可能ですが、無重力を地上で長時間作ることは困難です。

以下は講師の長岡先生のまとめられた資料から抄出します。ところどころ当日聞いたお話を括弧で囲ってつけます。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

・地球型生命の誕生は35億年以前。陸上に動物が現れたのは約7億年。人類の起源は200万年前とも500万年前とも。

・地球生命への試練とも言える大異変が何度も繰り返されてきた。還元雰囲気中で誕生した生命が酸素呼吸生物へと進化した変化、単細胞生物から多細胞生物への進化、水中から陸上への進出、地球環境の広域的な変動による大規模な絶滅(大型爬虫類の絶滅)

・プロセスで重要なことは生物自身の多様性と生物をとりまく大気、温度、海、紫外線や放射線などの環境因子。生物は地球の環境に適応せざるを得なかった。

・人類を含め地上で進化した生物にとって、地上にいる限り重力は空気と同じように全く透明な環境因子。生物の機能はいたるところで重力を積極的に利用。動物の行動は重力によって支えられかつ、制限されている。植物は行動することはないが、自らの体を支える必要があり、重力に逆らって水分や栄養分を汲み上げる必要がある。

・「生物にとって重力とはいったい何か」という基本的な疑問に対して、私たちは地上にいる限りこれまで確実な答えを与えることができなかった。宇宙の無重力環境という、生物が進化的には全く経験したことのない環境が実現できるようになり、この分野の研究は大いに発展。

(毛利さんが宇宙へ行ったとき、蛙の跳躍実験が計画されていた。しかし事前に飛行機による無重力状態で実験したところ、蛙は天井にぶつかり、壁に跳ね返り、床にたたきつけられるというビリヤード状態になって失神、あまりに危険だということで実験は中止になった)

(無重力状態では水は丸やリングなどさまざまな形になる。さらに水は付着する性質を有する。最初に宇宙で入浴しようとした飛行士は45分かかった挙句、水が顔に付着して窒息死しそうになった。宇宙での入浴はきわめて危険であることが判明)

・宇宙医学は老化に伴う骨や筋肉、あるいは平衡失調といった地上の疾病や障害にも密接な関連がある。

・ヒトが宇宙環境に曝された場合、「重力に最も敏感に応答する内耳系」や「重力に最も影響されやすい体成分」である血液などが短時間で再分布する。宇宙酔いなど。

 (宇宙酔いの症状は悪心、嘔吐、顔面蒼白、冷や汗などいわゆる自律神経症状)

・これ以外にも、心臓を中心とする血液循環能、体液量、空間識とよばれ日常生活に必要な上下、水平、垂直感覚など、多くの生理機能が一時的な変調を示した後、一定の期間を経て今度は地上とは別の状態へと適応。

(宇宙飛行士は無重力に慣れると、ペンを空中に置いて作業したりするようになる。それで帰還後、うっかり空中にコップなど置いて割るという失敗をすることがある。あるいは高いとこら踏み出そうとする。宇宙空間では身体が宙に浮くから問題ないが地上では墜落してしまう)

・「重力を支える器官」である骨や筋肉の変化については、どこまで変化が続くのかその範囲はまだ分かっていない。特にカルシウムの減少や宇宙放射線の影響は、ずっと時間的に蓄積されると言われている。しかし、まだ完全に説明できるだけ十分なデータが蓄積されていない。

・微小重力に長時間さらされていると、血液量が減少するばかりでなく、心臓の機能も低下。血液循環を調節する自律神経の働きもそれに伴って低下。

(心臓が胸という身体の上部にあるのは重力に逆らって脳まで血液を送るため。蛇も木に登るので心臓は頭寄りにある。しかし水中の海蛇は無重力に近い環境に棲んでいるので心臓が身体の中心にある。したがって木に上ろうとすると脳貧血を起こす可能性がある)

・宇宙飛行士が地上に帰還したとき、起立耐性減少(立ち眩みがはげしくなる)や運動能力低下といった問題を引き起こす。原因は無重力環境で生じる体液の上半身への移動を伴う再分布を心循環系の自律調整機能が全身に過常に体液があると解釈してこれを減らすために起こる。

・同じような現象は何日もベッドに寝たきりの状態でも起きることがわかっており、短時間では人が水中にいる状態でも起きている。

・無重力環境の宇宙飛行士は体重を支えたり、重力に逆らって運動する必要がないため、必要な運動量や力は非常に少なくなる。すると、筋肉の萎縮が起こると同時に体内からカルシウムの排出がはじまり、しだいに骨密度が低下する。

・加重の大きい骨のカルシウムほど逃げやすい。負荷のかかる筋肉(抗重力筋)ほど、宇宙での萎縮が激しい。ヒトの場合はふくらはぎ。地上でも運動をしないと抗重力筋は徐々に別の筋線維に変化していく。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

わたしが依頼された寝たきりの患者さん。今年の冬にはベッドからトイレまで歩けたのですがコタツで足首を低温火傷して歩行禁止。3ヵ月後やっと火傷が治ってさあトイレにと思っても足が全く役に立ちません。ケアマネさんから依頼を受けてリハビリを開始しましたが、この暑さに負けてしまいなかなかはかどりません。

この場合、弱ったのは足の筋肉だけでなく、体幹の筋肉、そしてバランスをとる神経。血液を送り出す心臓の力。そうした総合力の上に歩行が成り立っていることが今回の宇宙医学の話でよく分かりました。

以前、西洋人は重力を束縛と考えると聞いたことがあります。神から与えられた束縛=原罪としての重力。

それに対して強い筋力で立ち向かうのが西洋流です。たとえばスポーツでも筋肉トレーニングで身体を強くして成果を挙げようとします。

それに対して日本では重力は和すものと考えてきました。日本人の旧来の身のこなしは重力との良き関係性の上に成立していたのです。ですから同じ格闘技でもお相撲さんや柔道家はどちらかといえばぽっちゃりした

身体となり、レスラーは筋肉隆々となります。

今日では両者の良い点をそれぞれ取り入れて訓練されていますが、重力を対抗すべきものとして筋力トレーニングをすると筋肉が硬く、むきむきとなって豪快ですが美しくありません。それに対して同じバーベルを持ち上げるにしてもその重力と和そうとすると、筋肉のつき方が違ってくるようです。どことなく筋肉に知性を感じます。すると技術に必要な筋肉が意識的に形成されるので動きも精緻になるのです。

重さに対してがむしゃらに抵抗して作った筋肉は期待に反して技術の邪魔をすることが多く、それはすぐれたアスリートでも筋肉トレーニングを取り入れて駄目になった多くの例が証明しています。

やってみるとすぐに分かりますから、ちょっと実験してみてください。

一歩踏み出すとき、足の筋肉でえいっと踏み出すと力強く見えます。

次にふっと膝を抜くようにして移動しますと能役者のような仕草になります。膝を抜くという感覚が分かりにくいかもしれませんが、能役者のような気持ちになってみると理解できるでしょう。この動きが日本人古来の動きの基
本にあったのです。それらは古武術や日舞などに継承されています。今日、そのよさが再発見されてスポーツに
取り込まれつつあります。

重力の中に生きているわたしたちは重力といかに上手に付き合っていくかが重要な課題となります。重力は束縛ではなく、生物は重力の中で重力の影響下で進化してきたとセミナーで教わりました。重力はわたしたちを支持すると同時に制限もするのです。しかし重力に制御されたままでは寝たきりになってしまいます。

重力は宇宙開発や医学に関係するだけでなく、日常の何気なく歩くという行為、箸を使うという仕草、着物を脱ぐという動作、寝転んだり立ち上がったり、しゃがんだり・・・あらゆる側面に関係しています。

今回のセミナーは改めて重力と日々の暮らしや営みとの関係に目を開かせてくれました。

あとがき

 ぐずぐずしているうちに梅雨も上がりそうです。気象庁はまだ梅雨明け宣言を出していないようですが(7月14日現在)、今池では今朝、街路樹でクマゼミの声を聞きました。今年最初だと思います。

そこでふと思うことがありました。従来、梅雨時にはニイニイゼミが啼いているはずなのに、今年はまだ聞いていません。あるいはこれから出てくるのかも知れませんが、ちょっと変な気持ちです。

 

 松尾芭蕉の有名な

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

の蝉こそニイニイゼミであると実態調査されています。斎藤茂吉がアブラゼミであると言い張ったために有名な論争が起きたからです。一方でそんな詮索は詩的世界には不毛であるという意見もありますが・・・。

 それともうひとつ気になること。それは子どもの頃クマゼミを捕らえたら自慢できるほど珍しかったはずなのですが、この頃はアブラゼミを押しのけて圧倒的にクマゼミが多くなってしまったことです。夏休み、父母の田舎の
ある広島に行くとクマゼミがたくさんいました。捕まえて標本を持ち帰ったら友達に大変うらやましがられたもので
す。当時に較べて、クマゼミの北上はかなり進んでいるようです。

 熊蝉や水惑星の昼下がり 広志

数年前、鶴舞公園で作った拙句です。お粗末。

 暑さに向います。ご自愛をなさってください。注意することは基本的に今月の梅雨時の養生とあまり変わらな
いと思います。ただ実践が・・・世の中に耐えて麦酒のなかりせば・・・

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游氣風信 No.191 2006. 6.1

吟遊 オオキンケイギク

そのメールは唐突にやってきました。もっともあらゆるメールは唐突に来るものですが・・・。

メールの主は国際俳句季刊誌『吟遊』(吟遊社)を発行している俳人にして明治大学教授の夏石番矢さんでした。しかもその内容が驚くべきことにわたしのHP『游』と『吟遊』のHPを相互リンクしたいというものでした。

片や著名な俳人で俳句研究家の夏石さんと、その奥さんの、これまた知られた鎌倉佐弓さんの発行されている国際的な『吟遊』、対してこちらは一個人の趣味的なHP。釣り合いが取れない組み合わせです。

それでもこんな光栄なことはないと素直にリンクさせていただきました。

吟遊

http://www.geocities.jp/ginyu_haiku/index.html

夏石番矢という俳人は、東大のフランス文学で学びつつ俳句を創作・研究され、現在は明治大学教授を務めておられます。氏の研究を強引にまとめるなら俳句を旧弊な日本趣味から解き放ち、言語装置としての可能性を見出していくということでしょうか。その可能性は日本語を超えて存在するというご意見です。

氏は十代から既に頭角を現していた前衛俳句(正確な表現ではありませんが)の期待の星でした。

わたしと同年ということもあって長年注目もしていました。しかし、大学で教鞭をとりながら国際的に活躍されている夏石さんと、趣味でひとりこつこつと俳句を作ってきたわたしの間には直接の出会いはありません。ただ、ちょっとした機縁はありました。それはもう随分前のことです。

わたしが所属している俳句結社『藍生(あおい)』(黒田杏子主宰)で第一回の新人賞をいただいた後、一年間「現代の俳句」というテーマで原稿を掲載しました。そのとき夏石さんを取り上げたのです。

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/haikuron/g04.htm

そしてその論が夏石さんの目に止まり、編集部気付でお葉書をくださったのです。たったそれだけのご縁でした。

わたしはその文をHPに掲載しています。おそらくそれがたまたま氏の検索にかかってリンクということになったのでしょう。不思議なものです。と同時にインターネットの面白さです。

当時、同世代の旗手として古典的要素を深める方向に向いていた長谷川櫂(「古志」主宰)さんと俳句を解体再構築しようと邁進していた夏石さんは好敵手として何かと比較されました。それはぶれながら歩んできた俳句の歴史そのものでもありました。両者はそれを意志的に具現していたからこそ時代の寵児足りえたのです。

わたしの拙文「現代の俳句」でも両者を比較して紹介してあります。当時も今も、わたしは両者の言い分のそれぞれに共振しつつ、わが道をつかめないまま何とか俳句を継続して来ました。

これからも迷いつつ俳句を作っていくことでしょう。人生は振り返れば畢竟迷いの跡ではないでしょうか。

俳句もまた同様に迷いの表白でしかないのです。

夏石さんの季刊誌の名前が『吟遊』であり、わたしのHPが『游』。「遊」も「游」も漂泊することです。一方は陸路、もう一方は水路。シンニュウとサンズイという偏の違いでしかありません。強いて上げるなら両者の共通点はそこだけしょう。

是非一度『吟遊』を覗いてみてください。

吟遊

http://www.geocities.jp/ginyu_haiku/index.html

夏石さんの著書には句集以外に、たくさんの評論集があります。入手しやすいものとしては『俳句 百年の問い』(講談社学術文庫)という俳句評論を一望したアンソロジーの編集もありますが、『ちびまる子ちゃんの俳句教室』(集英社)というタイトルからして楽しい本もありますから、是非書店で手にとってみてください。

(5月11日)

オオキンケイギク

訪問リハビリ・マッサージの途上、しばしば江南市の木曽川堤を車で疾駆します。対岸は岐阜県川島町。疾駆といってももちろん安全運転、制限速度遵守です。

木曽川堤は道が川の流れに沿って緩やかに蛇行しているのでスピードを出さなくても車を走らせる楽しみが味わえる道なのです。しかもそこは桜の名所でもありますから春は桜に包まれ、初夏は葉桜の青い勢いが満喫できるというわたしのお気に入りの道です。

さて長年走り慣れた道なのですが、最近、走行中にふと気づいたことがあります。それは夕暮れになっても道の両側が妙に明るいとうこと。その訳は西空に盛り上がる伊吹嶺を朱色に彩る夕焼けでも、川島町にできた水族館脇の大観覧車の照明のせいでもありません。明るさの源泉は金色の花の群生なのです。

その花は秋の野原にやわらかく揺らめくコスモスの群生に似ていますが、色が金色一色。美しいことは確か 

もう少し早い時期、マツバウンランという帰化植物が野原一面を淡い紫で覆いつくして揺れている光景が見られました。マツバウンランは外来の植物ですが、日本の風土に溶け込んで、なんの違和感もなく歓迎できたのですが、この金色はどうもしっくりきません。マツバウンランは漢字で書くと松葉海蘭。そのそよぐ様子が海を思わせるからでしょう。

マツバウンラン愛好会 http://www10.plala.or.jp/yu-ko3/aikoukai/aikoukai.html

訪問患者さんの娘さんで植物が好きな方に金色の花のことをお聞きしました。

「木曽川堤防の上の道両側や法面(のりめん・堤防などの斜面)にコスモスみたいな金色の花がびっしり咲いていましたけど、名前をご存知ですか」

「あれはオオキンケイギクという帰化植物らしいですよ」

オオキンケイギク

http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/ookinkeigiku/ookinkeigiku.htm

ああ、やはりと思いました。マツバウンラン(松葉海蘭)もオオキンケイギク(大金鶏菊)も明治以降渡来した植物なのです。それがどんどん広がっているようです。そういえば、先だって広島県東部の福山市へ葬儀に行ってきたのですが、向こうに多いシロタンポポ(岡山から広島県東部にはキビシロタンポポという種が多い)を見ることができず、全て外来のセイヨウタンポポでした。日本の風景も時代と共にどんどん外来種の侵襲にカタチを変えているのでしょう。


(オオキンケイギク 民家の庭に移植されていた。撮影していたら声をかけられて、「よかったら株を持っていきなさい。どんどん増えるよ」と言われた。しかし、その奥さんはキンポウゲと勘違いしていたようである)

キビシロタンポポ

http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/kibisirotanpopo/kibisirotanpopo.htm

セイタカアワダチソウのように急激に広がると脅威を感じて駆除に走るのでしょうが、徐々に広がっているとその変
化にすら気づきません。

セイタカアワダチソウは花粉がアレルギーの原因であるとか根から毒を出してススキなどの在来種を根絶やして日本の自然環境を破壊すると騒がれ、自衛隊が火炎放射器で焼いたりもしましたが、今ではすっかり小さくなり日本の秋に溶け込んでいます。同時にススキは勢力を盛り返しました。

セイタカアワダチソウ

http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/seitakaawadachi/seitakaawadachi.htm

オオキンケイギクのことが奇妙に気になっていましたら、タイミングよく読売新聞の記事に登場しました。「環境ル

ネサンス 移入生物最新事情 3」という特集です。長いので興味深い部分を箇条で紹介しましょう。

○鹿児島県大隈半島海上自衛隊航空基地。旧海軍航空隊の基地に北米原産のオオキンケイギクが群生しているのは、南方戦線から帰還した航空機の車輪に種が付着していたからと言われる。

○沖縄へ向けた特攻隊の出撃が盛んだった時期に咲くから「特攻花」と呼ばれた。

○鹿屋航空基地資料館では予科練出身者が戦争体験を語り継ぎ、希望者に種子を配っていたが中止せざるを

得なくなった。なぜなら今年二月、特定外来生物被害防止法の規制対象に指定され、種子の移動が禁じられたから。

根付きの花を記念に持ち帰っても法律違反。

○オオキンケイギクは冬場でも根をしっかり張るため、戦後、道路ののり面や工事修復地の緑化に使われ、全

国に広がった。

○天竜川の堤防も、一面黄色に染まって、カワラヨモギやカワラニガナ、カワラサイコなど、河川敷に元々自生し

ていた植物は圧迫され、年々減少している。

○山口市の県セミナーパークは11年前のオープン時、カワラナデシコやキキョウなどと一

緒に種をまいたが、ここ数年はオオキンケイギクだけになってしまった。職員は「色とりどりの花が咲き『花景色』と

呼んでいたのに、いつの間にか黄色一色になってしまった」とこぼす。

○牧野標本館の加藤英寿さんは「このままでは、貴重な在来植物がどんどん減少してしまう。ただ、やみくもに

移入植物を取り除くだけではなく、どのような自然、風景を再生するのかを考えながら、対策を進めることが大切

だ」と指摘する。

(2006年6月1日 読売新聞)

なるほど、工事現場の緑化や法面の補強に使われていたわけです。道理で道沿いや堤防の斜面に多いはず

です。それにしても特攻花などという痛切な呼称を持っていたとは全く知りませんでした。

セイタカアワダチソウは日本の秋の風景を破壊すると恐れられ徹底的に駆除されました。それでも彼らは逞し

く生き延び、今日ではススキや荻などと混在して秋の野の風情を醸し出しています。

マツバウンランは群生した可憐な花穂が風と清々しいコラボレーションを織り成し、旧来には無かった初夏の風

合いを楽しませてくれます。

このオオキンケイギクも美しい黄金色でそれなりに受け入れられていますが、その繁殖地の拡大は在来種との

兼ね合いとともに考えていかなければならないとは厄介です。

しかし、考えてみれば万葉の時代と今とでは自然の様相はまるで異なっています。当時でさえ既に日本の原風景に中国や朝鮮から様々なものが持ち込まれていたのです。さらに後世は西洋からもぞくぞくと。

変わってきたのは自然だけでなく、ことばも同じです。

ことばは日本国内でさえ地理的制約から方言として地域ごとに独自の体系を生み出してきたのですが、それだ
けでなくことば自体、あるいは用いる人の中にあると考えられる自己運動力によって変化し続けています。

さらにそれに加えて移入生物のように海外からの浸食もあります。外来語は外国からモノや思考と一緒に複雑
に取り込まれ変化してきました。

さらに社会の変化とともに新しいことばが生まれたり、旧来のことばに別の意味が付加されたりして、同時代に
生きている者同士でも世代などの枠組みが異なると伝わらない言葉がたくさんあります。

人間が生み出したことばでさえ刻々と変化し、年長者はいつの時代でもことばの乱れを嘆きます。それは自分
たちの綾なしてきたことばとは異質なことばに出会う驚きと、置き去りにされる恐れと長上という権力を笠に着た怒りなのでしょう。

ことばという人為といえどもままならないものです。ましてや自然の力のままに変化している自然環境の変化に

楔を打ち込むことは不可能ではないでしょうか。

その点で先ほどの牧野標本館加藤英寿さんの「このままでは、貴重な在来植物がどんどん減少してしまう。ただ、やみくもに移入植物を取り除くだけではなく、どのような自然、風景を再生するのかを考えながら、対策を進めることが大切だ」との指摘には含蓄の深さを感じます。

初夏を彩るオオキンケイギクから思わぬ方向に妄想が移っていきましたが、かように人間の営為とは曖昧なも
のです。堤防に揺れる金色の群生。美しいけれどどこか不気味な光景。これはそろそろ時代に置いていかれそう
な予感がする寂しさの反映なのかもしれません。

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游氣風信 No.190 2006. 5.1 はりの有用性

はりの有用性 Cさんの結婚パーティー 黄砂 蟲蟲蟲

アメリカの医学会の研究レポートがネットに出ていました。

「Today's News (1/6)

鍼(はり)療法の有用性を裏付ける科学的根拠

中国の伝統的な鍼(はり)療法では、足指と眼は同じ経絡(けいらく)でつながっているため、足の小指に鍼を刺せば眼症状の回復に有用であると考えられるが、これまで西洋医学界ではこうした考えに同意が得られていなかった。 

今回、西洋医学でも十分な経験を積んできた有資格の鍼師で、米メリーランド大学統合医学センター(ボルチモア)准教授のLixing Lao博士は、脳の活動を画像化するファンクショナルMRI(fMRI)を用いて、足指に鍼療法を行うことにより脳内の視覚皮質の活性が実際に刺激されることを明らかにした。同博士は、この所見は、伝統技術の有効性を現代科学が証明する多くの実例のわずか1つに過ぎないという。

米国での鍼療法に対するこうした変化は、専門家による包括的な文献の見直しに基づいて米国立衛生研究所(NIH)が一定の合意に至った1997年以来大きなうねりを見せている。合意では、鍼療法が医学療法との併用療法や代替療法として、広範囲にわたる症状緩和に妥当な治療法であるとの見解が示された。

鍼療法の対象となる症状として、喘息、手根管症候群、線維筋痛、頭痛、腰痛、月経痛、顔面筋疼痛、変形性関節症、テニス肘が挙げられるほか、脳卒中のリハビリテーションにも有用であるとされた。Lao博士は、これをきっかけに、患者のみならず医師もが鍼療法に注目することになったという。

鍼療法の重要な作用機序として、次の4つの点が挙げられる。

・ 鎮痛作用を有するエンドルフィンを放出させる。

・ 血行を改善する。

・ 抗炎症効果がある。

・ 心拍数を改善する。

鍼療法によって必ずしも、西洋医学の薬物療法と同程度の疼痛や症状の緩和が得られるわけではないが、副作用がないため、長期にわたって安全に実施することができる。

Lao博士は、薬物療法と鍼療法の大きな差はその作用機序にあり、「鍼療法は症状に対処するのみならず、基礎的な原因にも対処する療法である」と説明する。今後、「鍼療法が支障を来している身体機能に対する反応を高める」ことを示す証拠がさらに得られることが期待される。」

http://health.nikkei.co.jp/hsn/news.cfm?i=20060106hj001hj

こうした研究は必要ですね。ありがたいものです。

(4月6日)

Cさんの結婚パーティー

4月7日夜、長年身体調整に来室して下さっている米国人Cさんの結婚パーティーがありました。

結婚相手は日本人女性Yさん。一回り以上若い娘さんです。Cさんは190数センチという長身なので、治療室で鉢合わせたことのある方は、「ああ、彼か」と思い当たることでしょう。

二人の付き合いは数年に及ぶでしょうか。国を跨いでの結婚ですから宗教や国籍など色々な困難があったと思います。ともかくおめでとうございます。

わたしの治療室の壁に怪しいお面が掛かっています。気づかれた方もあるでしょう。あれはカルーン(アフリカ)のお面で、現地の方はその面を被って踊ったりするそうです。なぜアフリカの面がうちにあるのか。実はそのお面はCさんの兄Dさんのお土産なのです。ちょっとCさんに似ています(汗)。


兄のDさんは十数年前、指圧教室に来ていた外国人生徒第一期生でした。別に何期生という呼び方は無いのですが便宜上そう呼びます。なぜなら外国人クラスはBさん(先月米国から指圧の勉強に来ていたFさんのお母さん)、Sさんという米国人女性、Cさんの兄のDさんに加えてTさんというカナダ人青年の4名からスタートしたからです。

Dさんはお母さんが病気で長くないということで急遽帰国しました。そしてその後、弟のCさんが来日したのです。もっともCさんにとっては二度目の日本生活で、最初から達者な日本語を操っていました。日本語の新聞も読めます。

二人の祝賀パーティーは伏見のtiger cafeで催されました。50名ほど集まったでしょうか。3分の2は外国人。驚いたことに皆さん日本語がとても上手。Cさんが闊達に喋るので類は友を呼ぶのですね。

たまたま同席したJというカナダ人紳士は、乾杯するやいなや話しかけてきました。

「夕べ二回も蚊の音に目が覚めたよ。これは地球の温暖化のせいかな。今年の冬は寒かったけどね。カナダでは白熊が乗る氷が溶けて、アザラシが捕まえられなくて困っているよ」「そういえば、マラリア蚊が日本でも越冬するらしいですね」「そうそう、怖いねえ・・・」

中学や高校で英語を指導しているJさんはとてもお喋り。それにしても外国人は初対面でもいきなり政治や環境問題など話題にすると聞いていましたがまさにその通りでした。

その後も、色々な人が入れ替わり立ち代りやって来ては去っていきましたが、ほとんど英語を使うことはありませんでした。

唯一、英語を使ったのは皮肉なことに旧知のM女史。彼女もうちのクライアントです。彼女は17年も日本で暮らしているにもかかわらず日本語を話しません。これも一つの信念です。

二時間のパーティーはあっという間に終了。わたしはすぐに辞退しましたが、半分以上は居残り、さらに花見に出かけたそうです。

いずれにしましても外国人パーティーを楽しく味わうことができました。CさんYさん、末永くお幸せに。

(4月9日)

黄砂

八日の昼、治療に来られた方が窓から空を指差して

「今日は随分埃っぽいですよ。黄砂ですかね」

とおっしゃいました。

確かに指された空は霞というよりどんよりと埃っぽい感じです。

「中国奥地の乱開発が余計影響してるらしいですね」

などとことばを継がれました。

春は雪が溶けて地面が露出するので埃が舞う季節です。海からの東風が強いので机の上などがどことなく砂っぽくなります。これを俳句の季語では春塵といいます。しかし、同時に偏西風に乗ってやってくるゴビやモンゴル、チベットなどの砂漠からの砂も侮れません。

黄砂は季節感ある風情としてそれなりに愛されても来ましたが、近年は砂だけでなく公害物質も飛んでくると言うことで迷惑千万な存在になりつつあります。

黄砂は気象用語です。昔は「土降り」とか「霾(ばい)」と呼んだようです。

つちふるや大和の寺の太柱 大峯あきら

鳥影も霾る淡き仏訪ふ  大岳水一路

黄砂ふる日を曼荼羅にぬかづきぬ 吉田汀史

角川の歳時記から引いてみましたが、驚くほど仏教に関連します。やはり多くの日本人には西域への羨望が遺伝子のごとくあるのでしょうか。西遊記の三蔵法師、あるいは正倉院からシルクロードへつながる夢。

そんなところから黄砂はさほど嫌われてはいなかったのでしょう。洗濯物が汚れることを除いては。

歳時記の解説には「春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた大量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象」とあります。

詩人でもある俳人平井照敏の編集した河出文庫の歳時記はもう少し新しい感覚の俳句が掲載されていました。

喪の列や娶りの列や霾る街 大橋越央子

〈余談ですが、娶り(めとり)とは妻(め)取る、つまり妻を迎えることですが、「娶」とはずばり「女を取る」ですごい漢字ですね〉 

真円き夕日霾なかに落つ  中村汀女

つちふりしきのうふのけふを吹雪くなり    大橋桜坡子

黄塵のくらき空より鳩の列  鈴木元

これらは霾(つちふり)という現象を背景に様々な実景を置くことで風情を際立たせています。

公害物質が飛んでくるのは困りものですが、黄砂とか黄塵、霾などと言う現象が春の味付けをしてくれているのは確かです。日本も公害を撒き散らしていた時代を乗り越えました。これから発展する国にもその経験を伝えて、一刻も早く、飛んでくるのは砂漠の土だけになって欲しいものです。

(4月13日)

蟲蟲蟲

髪が伸びたので行きつけの理髪店ぽるけぴっくへ行きました。今池交差点から水道みち緑道を進んで高見にぶつかるところにあるお店です。四季折々のディスプレイが目を引きます。

折から水道みちは葉桜真っ盛り。青葉に冷やされた木漏れ日を心地よく浴びながら歩いていきました。

お話好きなマスターに髪と髭を整えてもらった後、近くの喫茶ペギーでモーニングコーヒー。豊かな朝を過ごしたのでした。

その帰り道、ふと桜の幹を見上げましたら、怪しい虫が群れています。まさに虫の字の原型「蟲」という字がふさわしい状況です。

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲・・・・・


黒い蟲の中に毒々しい紅色の蟲も混ざっています。


形から一瞬、「バイオリンムシ」が頭を過ぎりました。

しかしあれは国内にはいない虫。ならば何か。疑問を抱きつつ蟲どもを見ていたところへ幼子二人を連れた若いお母さんが通りかかりました。

「何ですか」

「変わった蟲ですよ」

「あ、バイオリンムシかな」

お兄ちゃんとおかあさんが同時に声を出しました。

「あ~、触っちゃダメ~」

おかあさんが叫びます。

この母子、やはり一瞬バイオリンムシを想起しました。かなり蟲好き親子と推察されます。

しかしあれはおそらくカメムシの類。それも五角形の亀らしい形のものではなく、ほっそりしたサシガメ。

そう読んだわたしは早速部屋に戻ってインターネットで調べました。

「桜 カメムシ」

と、打ち込んで検索。

すぐ出ました。ヨコヅナサシガメ。これが名前です。外来種であり、冬の間桜などの幹の隙

間に入って越冬するそうです。それであまり見たことがなかったのかもしれません。

毒々しい紅色の蟲は脱皮して大人になったもの。しばらくすると他と同様黒に白い線の蟲になるそうです。


中には脱皮途中のもいました。最初、二匹が一体化しているので交尾しているかと思ったのですが、それ

は脱いだ皮が付着していたのですね。

さらにおまけ。

実は帰り道、その脱皮したての蟲そっくりの女性が犬の散歩をしているところに出会いました。まさに毒々しい赤黒おばさん。その雰囲気のあまりの符合に驚いたのでした。写真を撮らなかったのが失敗です。

紅色の蟲をよく見るとお尻の方に黒い脚が見えます。これは脱皮した皮と思われます。


(5月5日)

またまた蟲

ある公園のトイレ。

ふと前を見ると怪しい蛾。

微動だにしない迷彩色。

初めて見る蛾です。形体からするとスズメガの仲間。


まるでステルス戦闘機。今まで見た記憶がありません。ステルスなら目立たないのだから無理も無いか。

林にいれば目立たない迷彩色もトイレの壁ではやけに目立ちます。

これは新種か外来種か。先日のヨコヅナサシガメは外来種が住み着いたものだったのでコレも間違いないと強引に確信してネットで検索しました。

「スズメガ 迷彩色」

簡単に見つかりました。岡山大学大学院心理学の長谷川教授のサイトには以下のように書かれていました。もっときれいな写真もあります。

http://www.geocities.jp/hasep1997/_0/06/20.htm

「文学部の建物内で迷彩色の蛾をみつけた。相当珍しいと思ってシャッターを押したが、あとで図鑑で調べたところではウンモンスズメという蛾で、ケヤキやニレなどを食べるスズメガの仲間で、比較的ありふれた種類であることが分かった。と

はいえ蝶にまさるとも劣らぬ美しさ。蛾を嫌う人が多いのが不思議だ。」

残念ながら比較的ありふれているそうです。しかし長谷川先生も相当珍しいと思われたのでわたしの第一印象もあながち間違いではないでしょう。

別のサイトではウンモンスズメの写真がどっさり出ていました。その中に、明りの下で文様が目立っているとありました。やはり迷彩色。自然光の下では目立たないものの、蛍光灯に灯されるとかえって目立つようです。

先ほどのサイトの長谷川先生。経歴をみると 京大心理卒だそうですから、わたしの恩師増永先生の後輩になります。

(5月6日)

あとがき

黄砂降る桜の季節から一気に風薫る葉桜の季節へ。時の移ろいに置いてきぼりにされそうです。(游)

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游氣風信 No.189 2006. 4.1 鯱城学園 追悼 小川双々子先生 親子二代 三寒四温

鯱城学園 追悼 小川双々子先生 親子二代 三寒四温

今年も名古屋市高年大学鯱城学園で講師を務めます。今回で三回目。クラスが二つあるので1月27日と2月3日の二回行ないます。

テーマは毎年同じで暮らしに生かす東洋医療。具体的には経絡とツボについてのお話です。

高年大学は60歳以上の方を対象とした二年制の学びの場で、大変な人気だそうです。うちにいらっしゃる方も何回申し込んでも選に洩れてしまうので諦めたといわれました。

今年から7回落選した方は優先的に入学できるようになるらしいのですが、7年も待たされるとなると大変です。60歳の方が67歳になってしまいます。新生児なら小学一年生。それほど人気があるということです。

さて、今年はいかなる出会いがあるのでしょうか。今から楽しみにしています。

(1月19日記)


追悼 小川双々子先生

迂闊にも気づかなかったのですが、1月の17日、一宮市在で現代俳句協会の重鎮小川双々子先生がお亡くなりになっておられました。

毎日インタラクティヴより

「訃報:小川双々子さん83歳=俳人

 小川双々子さん83歳(おがわ・そうそうし<本名・二郎=じろう>俳人)17日、心不全のため死去。葬儀は親族のみで行う。お別れの会の日取りは未定。自宅は非公表。喪主はおい、中島富士雄(なかしま・ふじお)さん。

 名古屋を中心とする東海俳壇の指導的存在。05年、現代俳句大賞を受賞した。」

先生の逝去は、今朝の読売新聞に3月16日にお別れ会があるという小さな記事を見つけて知ったのです。ネットで調べたら上記のような記事をいくつか見つけました。

東海俳壇の指導的存在とありますが、現今の俳句界になくてはならない楔のような方でした。俳句の世界においてすらそれほど著名ではありませんでした。しかし、先生の時代を見る目の厳しさはまさに詩人のそれでした。先生の俳句や文章はとっつき難く一般受けはしません。それでも主宰される結社『地表』は、常に批評精神を研磨し続けています。

20代の終りから30代の前半、わたしは俳句における詩精神を学ぶべく『地表』に属していました。しかし率直に言うとわたしはその余りの詰屈さに結局は距離を置いたというのが本音です。もう少し俳句としてのゆとりも欲しいと感じて伝統回帰、今の『藍生』に移ったのでした。

それでも『地表』のことは常に頭の中に響いており、今でも安易な俳句を作ろうとする気持ちを叱咤してくれます。

一昨年にはその前に属していた結社『槙』の平井照敏先生も亡くなられました。そこでは俳と詩の弁証性を学びました。ここでの体験も身中に息づいています。

今は『藍生』(黒田杏子主宰)という自由な海で好きに泳いでいます。それでもなかなか俳句は上達しません。

そもそも俳句とは何か。

わたしにとって俳句とは何か。

そんな問題も解答も当然のことながら見えてきません。

先達が次々なくなる中、模索の旅はまだまだ続きます。

ともかく小川先生、お疲れ様でした。ゆっくりお休みください。

(2月8日)

親子二代

今、アメリカからFさんが指圧の勉強に来ています。彼女は日本で生まれ、9歳まで滞日した米国人。

今年20歳になります。高校を出た後、二年かけて米国のマッサージ公認ライセンスを取得したそうです。さらに技術を深めるべく指圧の勉強に一ヶ月ほど時間を作ってやってきました。

彼女のお母さんはわたしの最初の外国人生徒。

幼稚園が休みのときなど、Fさんもお母さんについてやってきました。そしてお母さんが練習中、部屋の隅やバルコニーで色々悪戯をしていたものです。彼女はアイスクリームのポスターに登場したこともある愛らしさから教室の人気者でした。

それから幾星霜。立派な大人になっての再来日。

考えてみると親子二代にわたって指導することになります。これは恐ろしいことです。

わたしを思い出して娘をはるばる日本まで送り込んだ両親の記憶と英断に感動すると共に、改めて鏡に写った自分の顔のシワ、シミ、白髪という老いの3Sに見入らずにはおれませんでした。

そこには時間が刻まれているのです。

(2月26日)

三寒四温

三日寒い日が続いた後、四日温かい日に恵まれる。その繰り返しを三寒四温といいます。もともとは朝鮮や中国東北部辺りの冬の気候全体を表すものだったらしいのですが、日本では一般に冬から春の端境期に用いられます。

この現象は高気圧と低気圧の交互の通過によるものです。

三寒四温という寒暖の繰り返しから、次第に温かくなる時候。まさに三寒四温は春の訪れを心待ちにする今頃の気持ちに溢れた言葉です。もちろん歳時記にも冬の季語として掲載されています。

  三寒の四温を待てる机かな 石川桂郎

  三寒のくらがりを負ふ臼一つ 八重津苳二

  塩あてし鯖しまりゆく四温の夜 伊藤いと子

             ☆

このところ気候がとても不安定です。

十三日の月曜日には雪が激しく降りました。しかし翌日はケロッと晴れて温かい。こうした不安定さこそ季節の変わり目なのでしょう。

近在の桜並木の花芽が日ごとに太っています。 その下にいつのまにか沈丁花が開いています。

  沈丁の香をのせて風素直なる  嶋田一歩

本当に春はすぐそこまで来ています。

(3月18日)

講習終了

先々号で親子二代の指導について書きました。

そのFさん、昨日、予定の講習を無事終了しました。週4回、6週間、熱心に通われました。

20歳の女性一人。言葉の通じない国で大変だったでしょう。ご苦労様。わたしのひどい英語でどこまで伝わったのか分かりません。

マッサージは米国でしっかり勉強してきました。しかし似て非なる指圧の「触れる」という基礎の基礎がなかなか難しく、姿勢作りと相まって苦労しました。しかし、最後の週に入ってどうにか形が出来上がり、圧の軸も定まってきて一安心。帰国に間に合ってやれやれでした。

4月3日には離日してオレゴンに戻ります。

桜も間に合い、穏やかな春の風合いを楽しんで帰国してくれればと思います。

(3月20日)

合格発表

例年ですとこの頃の新聞には様々な国家試験や大学入試の合格者名が羅列してありました。しかし、最近見ないなと思っていたら、それは個人情報保護ということで掲載しなくなったようです。

そんなわけで身近に受験者がいないと試験のことなど脳裏を掠めることもありません。わたしも同様で、試験というものの存在すら遠い過去の記憶として、しかも忌まわしい経験として脳の片隅にあって強固に封印されています。

ところが先日、ときどき経絡指圧の勉強に来ているHさんがビタミンのサプリメント購入がてらやってきて、無事国家試験に合格しましたとの報告を受けました。

Hさんは専門学校に三年間通って、この春めでたく「あん摩マッサージ指圧師」の国家資格を得たのです。おめでとうございます。一緒に勉強に来ている後の三名も合格だそうですから一安心。

合格はスタート。これから職業として成立させるという別の困難が待ち受けていますが、この関門を潜らなければその困難さに立ち向かうことすら出来ません。ご苦労様でした。来月四人揃って勉強にきますから、新たな展開を考えないといけないでしょうね。

「あん摩マッサージ指圧師」免許は三年間、毎日こつこつと通学しなければ受験資格が得られない国家資格ですから、国家試験の合格率自体はかなり高いものです。学校側も名誉と学校経営のために合格率上昇を目指して相当厳しく絞るようです。それでも毎年学校で何名かが不合格になるそうですから合格と分かれば万々歳。皆さん、さぞかし安堵の美酒に溺れたことでしょう。

Hさんは続けて同じ学校に通って「鍼師」「灸師」の取得に挑戦するそうです。これも三年間毎日。気が遠くなりますね。決して若くないHさんです。健康に留意なさって三年後の美酒を目指してください。

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游氣風信 No.188 2005. 8.1

歳晩を楽しむ

今年もとうとう歳晩となりました。

歳晩とはあまり馴染みのない言葉ですが年末のことです。俳句ではしばしば用いられる冬の季語。歳時記を開くと似た言葉に歳の暮れ、歳暮、歳末、歳の尾、年の瀬、歳の果、歳の終、歳堺、暮歳、年末、晩歳、歳の際、歳の峠などが載っています。

これらは年の終わりをいう言葉ですが、その残り少なさを惜しむときは、年逝く、行く年、年流る、年の内、年送る、年惜しむ、数え日、歳の名残、年つまる、年迫る、年尽くる、年満つ、年の別れ、年の限りなどが掲載されています。

一年の終点である大晦日にもさまざまな呼び方があります。大年、おおつごもり、大三十日。ついでに十二月のことは師走、極月、臘月、春待月、梅初月、三冬月、弟月など。

普段使わない言葉が多いですし、まったく馴染みのないもの、初見のものもたくさんありますが、ひとつのものごとを表すために実に色々な言葉があるものと感心します。しかも、日常、それらを自然に使い分けているところも大したものです。

いずれにしても十二月も半ばを過ぎると一年の終点が見えてきて、妙な切迫感が生じ、日々があわただしくなります。

暦という時の流れを人為的に区切った一年の最終日、つまり大晦日が来るだけなのに毎年同じ感慨を持つのは不思議なものです。しかも困ったことに年々歳々時間の駆け足は速くなります。

しかし忙しさを嘆いてばかりいてもしかたありません。古人がこんなにたくさんの言葉を残しているということは朝夕あわただしく暮らしながらもどこかにそれを楽しむ“ゆとり”と時の流れにたゆたう“すべ”があったからでしょう。

対象を言葉化することで“いま”のありようを客観的に見て取ろうという意志の存在も見逃せません。

同時に年の瀬という忙しさの中に敢えてさまざまな行事を配置したところに、日々の暮らしに翻弄されることなく、むしろ積極的に時間の経過に身を委ねて楽しもう、味わおうという生き方や古人の知恵が見出せるような気がします。

今回は生活を彩る年末ならではのあれこれに注目してみましょう。

忠臣蔵

赤穂浪士の討ち入りの日。義士祭。今年の十四日は旧暦の十一月十三日ですから、実際には一ヵ月後がその日になります。毎年テレビで吉良上野介の憎々しい顔を見かけるのがこの頃です。この頃から歳晩を感じるのは私だけでしょうか。

日記買う

 書店や文具店には来年の日記が山積になって年の瀬を感じさせます。日記と同様に来年に備えて買うものに手帳がありますが、こちらは過去を記す日記と反対に未来の予定を書き付けるものなのでもっと早い秋口に販売されます。

賀状書く

 十二月になると訃報が届きます。それに急かされるように年賀状を書かなきゃという思いが脳裏をよぎります。近年は横着して電子メールで済ますことが多いので書く枚数は減りました。

年忘れ

忘年会のこと。連日の忘年会で体調を崩す人もいます。しみじみと、あるいはどんちゃんと今年の嫌な思いを忘れ去るのでしょう。職場やサークルの親睦として不可欠。

年用意

新年を迎える用意の総称。畳替や煤払い、障子や襖の張替え。大掃除もこれに含まれるでしょう。御節料理を作ったり餅を搗いたりするのも年末恒例の行事ですが、近年は外部に注文することが多くなりました。門松を立てたり、注連縄を飾ったりすることも大事な行事です。

冬至

今年は二十一日。一年で最も夜が長い日。世界中で特別な日として祭られています。クリスマスは冬至とキリストの生誕が混合したものという説もあります。この日を境に日の出が早くなりますから、イエスの降臨によって世界に光明が届けられたという思いでしょうか。

柚子湯

冬至の日に、柚子の実を浮かべた風呂をたてること。身体がよくあたたまり、風邪の予防になるし、何より香がいいので今日でも愛好されています。

この日はカボチャを食べる習慣もあります。保存食のカボチャは冬の貴重な栄養源です。

クリスマス・イヴ

クリスマスの前夜。二十四日。サンタクロースが子どもたちにプレゼントを持ってくれる日。キリスト教の信者にとっては敬虔な祈りの夜ですが、日本ではデパートを中心にした商業主義に踊らされたお祭り。

ニュージーランドから来た若い英語の先生が授業中、日本ではサンタさんが枕元にプレゼントを置いていくという事実を知って愕然としたそうです。「いくらサンタさんでも枕元まで来られたら怖いではないか」。

「だって本当はおとうさんがサンタさんだから平気」という生徒の意見に対しても、「いかに父親とはいえ、子どもの部屋にこっそり入るのはプライバシーの侵害」なのだそうです。

さらにニュージーランドのクリスマスは真夏。サンタは海からサーフィンに乗ってくるとか。クリスマスケーキもない。独特のクリスマスプディングというお菓子を食べる。トナカイはいない・・・日本のクリスマスとの違いに授業が盛り上がったそうです。

これはおもしろい話だったのでうちに来る外国人にお国のクリスマスについて色々聞いてみました。

フランス人「プレゼントは暖炉の前に飾ったツリーの下においてある。両親、祖父母、おじさん、兄弟などが十二月に入るとプレゼントをくれるので日ごとに増えていく。中を見るのはクリスマスが来てから。ケーキは食べない。ブッシュ・ド・ノエルというクリスマス独特の木の枝の形のお菓子かチョコを食べる」

ドイツに詳しい日本人「シュトーレンというパンに似たものを毎日スライスしてイヴまでに食べる。もともとは保存食だったものでリキュールにつけた果実などを混ぜたパウンドケーキみたいだから日持ちする」

オーストラリア人「プレゼントは暖炉の近くに置かれたツリーの下に親戚のおばさんや両親などが置いてくれる。遠く離れた知人からも送られる。サンタもイヴにやってくるので靴下を暖炉に吊るす。自分の部屋に届けて欲しいからベッドに靴下を吊るす兄弟もいた。最近のサンタはサーフィンで来るが、基本的にはカンガルーに乗ってやってくる。毎年ABCニュース(日本のNHKニュースに相当する)で空を飛んでいるサンタが目撃されたと報道される。クリスマス・プディングというお菓子を食べる」

アメリカ人「クリスマスケーキはない。チキンも食べない。プレゼントは暖炉のある部屋のツリーの下に親戚などから贈られたものが積まれていく。自分の名前の書かれたものを見つけてクリスマスに開ける。でも我慢できずに穴を開けて覗いたことがある(笑)。サンタのプレゼントは暖炉に吊るした靴下の中」

イギリス人「サンタのプレゼントは暖炉の前に吊るした靴下の中に届けられる。両親が暖炉の煤をあちこち塗りたくって汚し、本当にサンタが来たように演出した。BBCで空を飛ぶサンタ目撃情報が報道される」

 英語圏は大体同じ話でした。

 つまり日本のクリスマスは独特なのです。サンタは煙突を通って暖炉に降り、そこから部屋に入るのですが、日本の家には煙突も暖炉もありません。それで枕元に置くようになったのでしょう。親子が一緒に寝ているのですから簡単です。日本の家ではサンタを信じている年齢の子どもにプライバシーなどありません。

 クリスマスケーキはおそらくケーキ屋の陰謀でしょう。クリスマスにチキンを食べるのはケンタッキーフライドチキンのセールから始まったことは有名です。ケーキもきっとどこかのケーキ屋さんかデパートが始めたに違いありません。

 もともとサンタクロースは聖ニコラスが貧しい人に施しをしたこと事実から生まれたものとされています。煙突からコインを投げ込んだといも言われています。鼠小僧次郎吉のようです。そのコインが撥ねてたまたま暖炉の前に干してあった靴下に入ったことから、クリスマスプレゼントは靴下に入れるという伝統が生まれたとあちこちに書かれています。

 さらにこれはどこまで本当か分かりませんが、サンタさんの赤と白の衣装はコカコーラのイメージカラーが広まったものだということ。これも以前からまことしやかに言われていることです。真偽は分かりません。

 最初に登場したニュージーランドの青年教師。日本人彼女のためにプレゼントを渡すべくわざわざツリーを買い込み、その下にプレゼントを置いたそうです。ところが彼女は床に置かれたプレゼントにちっともうれしい顔をしなかった。その理由がよく分かったと授業で納得していたそうです。

クリスマス

降誕祭、聖誕祭ともいう。イエス・キリストが生まれた日。クリスチャンにとって最も重要な日でしょう。

教会や家で祈りを捧げるそうですが、日本人の多くにとってはイヴのバカ騒ぎやデートやプレゼントが重要であって、敬虔な祈りには無関心。

札納め

神社や寺院から新しい御札が届くので、一年の間世話になった古い御札を返納し焼いてもらうことです。

年の湯

除夜の湯。大晦日に入る湯のこと。一年中の垢を落とすのです。さぞかし湯が汚れることでしょう。

晦日蕎麦

年越し蕎麦のこと。

年籠

年参とも。神社や寺院に参篭して新年を迎えること。鶏鳴とともに戻る。

年越詣

除夜詣。大晦日の夜、社寺に詣でること。

除夜の鐘

百八の煩悩を鐘の功徳によって消滅させる。

紅白歌合戦

 世代を超越したヒット歌がなくなったので年々興味が薄らいでいます。近年は裏番組の格闘技に苦戦。不要論もちらほら。

あとがき

かくして新年がやってきて、清新な数日の後、また日常に戻って暮らすことになります。

 皆様、よいお年をお迎えください。

(游)

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游氣風信 No.187 2005. 7.1

散策・今池界隈

 今池は名古屋の中心からやや東寄りの繁華街。市を東西に横切るメインストリート広小路と都市中心をぐるりと囲む環状線からなる今池交差点を挟んだ一帯です。

 名古屋の中心はJR、名鉄、近鉄、地下鉄の集まる名古屋駅前周辺と、デパートなどで賑わう栄に二極化されています。さらに繁華街として総合駅となった南の金山界隈、そしてJR中央線と地下鉄の交差する千種と今池からなる東部の繁華街が知られているでしょう。

 わたしの治療室はその今池の東はずれ、広小路沿いにあります。今池の昼は買い物客で賑わい、夜は夜で怪しさが路地にたむろする魅力的な町なのですが、このところやや地盤沈下傾向。これに関しては前号に書きました。

 今月はビルディングに囲まれた一見無機質な繁華街である今池のもうひとつの側面について書こうと思います。もうひとつの側面とはなんでしょう。実は今池周辺は意外に自然が豊かな町なのです。

そこでこれから今池や千種、池下界隈が自然や歴史散策の拠点としてなかなか魅力のあるところであることを紹介したいと思います。今池、そこはパチンコや風俗譲が跋扈するだけの町ではないのです。

水の町

 今池は水の町です。

交差点の周りはどこを見回してもビルばかりですから一体どこが水の町だと思われるかもしれませんが、その由来は地名に残っています。今池。これはもともと馬池だったのです。このことは交差点にある馬の親子のモニュメントに解説があるので間違いないでしょう。元はここらに馬池と呼ばれる池があり、馬の沐浴場だったと書かれています。馬池がいつしか変化して今池になったらしいのです。その池の跡には奇妙に土台の高い地蔵が祭られており、現在の今池中学になっているようです。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Town/chimei.htm

この辺りは地下で大きな水脈を作っていると聞いたことがあります。その源泉がもう少し西へ行った高牟神社。河合塾で有名な千種と今池の境目にあります。この神社の手水場の龍の口から吹き出ているのが水源。元古井(もとごい)といいます。ここらの地名、古井の由来になるもので、以前は古井という農村があったようです。

高牟神社から南へ延びる、ゆったりとした坂。古井の坂というなんとも美しい調べの地名が残っており、その先は吹上。おそらくその名の通り、昔は水が吹き出していたのでしょう。

吹上は近年発展がすさまじいのですが、昔からサッポロビールの工場があることからいかに水に恵まれていたかが伺われようというものです。

註:ネットをあれこれ検索していましたら、吹上とは海岸の砂が吹上げるという意味だと書かれていました。つまり以前はこの辺りまで海だったというのです。確かに今池のさほど遠くない南の瑞穂区には汐路などの地名があります。残念ながら吹上は水が噴き上げるではなかったようです。その代わり、今池の南にある大久手という地名の久手は湿地という意味があると書かれていました。これは水絡みです。

http://www.city.nagoya.jp/kurashi/ku/chikusa/shoukai/nagoya00001803.html

今池から反対の北東部に進んでいくと旧軍隊工廠の跡地である千種公園や、盲学校、聾学校、イチローの出身校や、女子高(最近共学になったらしい)などの学園地帯があります。そこの地名が若水。これも水を含む地名です。きっとここにも水にちなんだ由来があると思っていますが詳しいことは分かりません。

水道みち緑道

 今池の錦通交差点から北東に不思議な道が真っ直ぐに延びています。駅近くは自転車置き場になって歩きにくいのですが、少し行くと閑静な住宅地になり、見事な桜並木が続きます。道端にある案内地図から、その先は古風な東山配水塔に向かっていて、ここが地下に水道管を埋めた道であることが分かります。

http://www.city.nagoya.jp/kankou/sansaku/shiseki/chikusa/kouen/nagoya00000211.html

道の中央には桜並木、それ以外にも楓や椿などが植えられて、四季の彩が道行く人を楽しませてくれます。現在(十二月初頭)は桜紅葉が散り敷いて晩秋の美。途中に隣接する仲田公園の銀杏の黄落もみごとです。ただし落ち葉の処理は大変で、道沿い住人のボランティアによっていつも美しく保たれています。公園に住む浮浪者も毎朝箒で道を掃き清め、美化に務めています。


 この水道みち緑道は二つの商店街を横切ります。一つは仲田通り商店街、今ひとつは高見商店街。

仲田通り商店街を北へ少し、東名古屋市民病院の方へ行くと「珈琲専科 伯爵」というお気に入りの珈琲屋があります。店内は大正ロマン風で落ち着いた雰囲気。時々そこで豆を購入して自分でも淹れています。

ブレンドコーヒーの名は濃い目の「おぼろ月」とやや軽い「春風」。無口で気難しそうなマスターと一見おとなしい感じの奥さんで経営しておられるようで、その静謐な雰囲気は貴重です。禁煙でないのが残念。

 

 高見商店街の角には「ぽるけぴっく」という変わった名前の散髪屋があります。この店ではウインドウに季節のジオラマが施され季節感を演出しています。今はクリスマス。雪に包まれた木々や家がかわいらしく演出してあります。しかしそのディスプレーから多くの人はここが理髪店であることに気づきません。わたしも何度も前を通りながら西洋骨董の店だとばかり思っていました。

店には靴を脱いで上がりますが、この手の店としては珍しいのではないでしょうか。リラックスしてもらいたという店主の思いです。

わたしは理髪に関しては行き当たりばったりでどこの店とは決めていないのですが、たまたまネットでみつけたこの店は結構お気に入り。続けて利用しています。最近蓄えた髭もこの店のアドバイス。

変わった店名「ぽるけぴっく」はフランス語でヤマアラシ。哲学で言う「ヤマアラシのジレンマ」から採用したということです。お客さんと程よい距離を保ちたいという思いから命名したそうですがオーナーはわたしと同年代のどことなく関西の芸人さんを思わせる雰囲気の方ですからちょっと意外でした。

http://www.porcepic-jp.com/index_Winter.html

「ヤマアラシのジレンマ」:ヤマアラシは互いに暖め合うために近づきたいのに、近づけば互いの針で傷つけ合ってしまうという矛盾に悩みながらちょうどよい距離をみつけるということ。ショーペンハウエルの寓話に基づく。

覚王山

 水道みち緑道の終点は覚王山です。突き当りを左に曲がると千種税務署の前に出ます。ここは危険区域ですから、警戒心を解かず遠巻きに迂回し、覚王山の裏に回りましょう。坂の中ほどにこの辺りの町名「振甫・しんぽ」の由来となった中国人医師張振甫の墓所があります。ただし、柵の向こうにあって近くまで行くことはできません。

振甫は尾張徳川家お抱え医師となり、食中毒治療に明るかったと書かれています。町名になったり、住居「医王堂」跡が鉈薬師として祭られたりしているのでよほど立派な方だったのでしょう。

鉈薬師とはこの医王堂に鉈(なた)の一刀彫りで知られる円空が逗留し、大きな日光・月光菩薩などを遺しているので通称鉈薬師と呼ばれています。

張振甫:寛文9年(1669)、明国の帰化人で藩祖徳川義直の御用医師を勤めた。

水道みち緑道の終点を右に曲がるとかなりきつい四観音道と呼ばれる坂道に続きます。4つの観音様を結ぶ道だからだそうです。その坂の中ほどの林の中に鉈薬師がひっそり佇んでいます。これが振甫の旧居跡で、風変わりな石造の中国風人間像が狛犬のように門の両側に立っています。

 そこを過ぎますと覚王山日泰寺の西面に出ます。左に行くと東山配水塔。古風な塔です。年に二日だけ公開されます。その地中には非常時に備えて膨大な量の水が蓄えられているようです。ですから立ち入り禁止で、公開が年に二日だけなのでしょう。

日泰寺の西壁面にそって右に進むと日泰寺の正門に向かいます。途中塀の隙間から屹立する端正な五重塔が拝めて感動。朝日が塔に重なるように昇る様は日本美の極みです。

 覚王山日泰寺は明治37年に日本とタイの友好から建立された比較的新しい超宗派の寺院です。

明治33年、当時のタイ公使稲垣氏が、発掘された釈迦のお骨をタイ皇帝に懇願し、寺院建立の約束とともに貰い受け、この地に祭られたものです。当時、名古屋の官民一体でこの地への建立を願って招致できたようです。命名した覚王とは悟りを開いた人、つまり釈迦のことです。

 この寺院は超宗派ですから、三年ごとに19宗派の管長が交替で住職を務めています。これはとても珍しいのではないでしょうか。

http://www.a-namo.com/ku_info/chikisaku/pages_n/nittaiji.htm

 山の向こう側に下りると広場があります。これは姫ケ池の埋立跡。この池は時代と共に呼び名が変わり、今日はこの名で親しまれています。が、20年ほど前に埋め立てられてしまいました。日泰寺の放生池として鯉等がたくさんいたようです。

 ここから今池に戻りましょう。

 帰りは池下の駅前を通ります。池下とは池の下。つまり昔は池の底だったそうです。その池は蝮ケ池。今は小さな祠と湧水が祭られています。そして少し離れたところに蝮ケ池八幡宮というお宮があり、ここが池であった名残を留めています。いつ行っても掃除が行き届いた神社感心します。秋にはクヌギの実(大きな団栗、麦藁帽子のようなヘタを被っています)がびっしり落ちていて、私も何個か拾い、玄関に飾っています。

あとがき

 今池といい池下といい、地名に池がついています。池は埋められて馬池は今池中学に、蝮ケ池は池下駅になっていますが、地下には今も豊かな水脈が息づいていることでしょう。

 この辺りを散策して驚くことは、やや高台の高級住宅街が実は数十年前までは里山であったということです。急な坂道や突然現れる崖、神社に残る林がその名残です。その里山を支えていたのが地下水脈だったのです。

ふらふらと辺りを散策しながら、改めて人は自然というインフラ(土台)の上にしか生きられないのだと感じました。

(游)

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游氣風信 No.186 2005. 6.1

今池うまい店便り

【現在は2011年。今池にある数々の名店、人気店も六年の間に多くの店が廃業しました。以下に紹介した店の中にも移転したり廃業したりした店があります】

 今池は名古屋市東部の繁華街です。三島治療室はその町の東はずれにあります。

 わたしが高校を卒業した昭和47年(1972)頃に名古屋市内から路面電車が廃止されました。それまで今池は交通の要所として戦後の名古屋を代表する繁華街として、そしてちょっと危険な夜の町として知られていました。

昼間は買い物客が集い、夜は明け方まで酔漢と客引きが徘徊する町だったのです。そして映画館や大衆演劇場、サウナやパチンコなどで賑わう歓楽街。

 わたしは大学が今池の近くでしたが、貧乏学生だったので夜の今池に出入りすることはありませんでした。しかし、ダイエーやユニーというスーパーマーケットを擁する今池は、表通りに巨大キャバレーが散在する昼と夜とで顔つきがすっかり変化する不思議な町でした。

 今池繁華街は戦後の焼け跡から発生した闇市が発展した町。東西南北に走る市バスや路面電車、そして地下鉄が交錯する交通の東の拠点でした。しかし路面電車が廃止されると、会社員は地下鉄で町の下を通過してしまうため、往年と比較するとめっきり寂れた繁華街になってしまったようです。

 知り合いのステーキハウスのマスターは昔日の賑わいについてこう証言します。

「何しろ喧嘩がないんですよ。以前はあちこちの路地で酔っ払いが喧嘩していたもんだけど。それも深夜から明け方までだよ」

 今は廃業した居酒屋の主。

「昔はね、路面電車が今池で東西南北に交差していたんだ。だから乗り換えついでに一杯やっていくサラリーマンで溢れていたね。中には一晩飲み明かし、そのまま出勤する豪傑もいたな。キャバレーのホステスさんだけでも千人位いたんじゃないか。彼女たちは自分の店が終わった後、下心ふんぷんの常連客を連れてうちに来てくれるから、それは深夜まで活気があったよ。接待疲れを一人癒すサラリーマンも来たな」

主は遠いまなざしをしながら続けます。

「当時、みんな梯子(はしご)酒だった。お客さんが次から次へと店を呑み歩いたんだよ。今はね、目的の店に行ったらそれでおしまい。まっすぐ帰っちゃう」

「どうしてでしょう、どうして梯子しなくなったんですか」

と、わたし。

「不景気に加えて環状線と広小路、錦通り。こうした広い道で区切られてね、飲み屋街が幾つかのブロックに寸断されたのは痛い。何しろ酔っ払いが道をふらふら歩けなくなった。危険だからって横切らないように中央分離帯に柵まであるからねえ」

 焼き鳥屋の若い女性オーナーは新参者。

「今池の地下鉄出口に店を出したんだけどさ、予想に反してこんなに人が通らないとは・・・。商売にならないよ。固定ファンを作るしかない。でも固定ファンなら別に家賃の高い繁華街に店を出す必要はないんでね。ファンならどこに出しても来てくれるから」

 どうも昔の今池を知る人にとってはさびしい限りのようです。

 わたしが今池に治療室を構えてちょうど二十年。そのころはすでに衰退が始まっていました。当初、裏の路地にうろついていた怪しい客引きが次々消えていきましたから。そういう店は南区などの労働者の多い地区に移ったらしいのです。つまり電車に乗る前に客を捕捉しようという魂胆でしょう。

 怪しい店が出て行ったので今池の夜は以前に比べてすっかり危険が薄らいだのですが、反面、冒険心のある人たちにとっては興味の薄らいだ町になってしまったのでしょう。それでよけいに足並みが途絶えてしまったらしいのです。

 ところが近年、今池には別の顔が生じつつあります。ニューヨークからきた著名なライブハウス、ボトムラインを筆頭に、路地裏には若いミュージシャンたちが集う小さなライブハウスやジャズ喫茶、良質の映画を上映するミニシアターのシネマテークや木下ホールもあり、コアな文化拠点の側面も出てきました。中古レコードのピーカンファッジもマニアの間では有名です。

治療室の隣のビルには天チン・山田昌夫妻の主宰する劇塾もあります。

 そんな今池の側面をPRする意味合いもあったのでしょうか。十年ほど前から、地元飲食店・商店街や近くの著名な学習塾などが協賛して行う今池祭りも次第に定着して新しい今池が胎動しつつあります。

 今年の今池祭りは9月の初めの土日に開催されましたが大変な賑わいでした。寿司屋の大将曰く「不況に強い今池」。

わたしは偶然にも商店街交差点に設えたリングで、なんと極真空手世界チャンピオン木山選手の演武を拝見することができました。最近、覚王山近くに道場を出されたようです。

空手に続いて行なわれた東海プロレスも観ました。これはサラリーマンなどアマチュア愛好家によるプロレス団体です。アマチュアによるプロレスとは変ですけど・・・。

 わたしは新参の上に地元商店街との接点もありません。ただ地下鉄の駅から歩いて数分という地の利を選んで治療室を構えただけです。しかもマンションの中の一室ですから地元からは隔離された状態です。それで今池のことはあまりよく知りません。

 それでも長い年月ここにいますから、あちこち食事や飲みに出て、気楽に羽を休めるお店もいくつか見つかり、何軒かの店主とも親しくなりました。それで今月は今池の名店を報告しようと思います。

治療の帰りなどに一服されるのも一興です。まずは親しくなった店主のお店から。

萬福鮨(寿司)

 広小路と錦通りの間の路地に面した瀟洒な寿司屋。今池交差点から少し千種寄りで魚屋の正面です。父親の代から営業しておられるらしいのですが、現在は二代目がきっちり店を守っています。

 鮨を握りながら店の中を間断なく見回し、不手際が無いか常に気を配っている様子にはいかにも寿司職人としての矜持が感じられていつも感心しています。もっとも食い逃げに注意しているだけなのかもしれませんが。

 お櫃(ひつ)がふご(藁を編んで作ったもの)で包んであり、やや温かさを保った寿司飯が特徴です。また自家製の玉子焼きもお勧めですが、何とこの頃はお寿司屋さんでも玉子焼きの既製品を買う店が増えたのだそうです。

 萬福の大将とは、閉店した居酒屋六文銭のカウンターで隣同士になり、店主から紹介されたことが機縁で知り合いました。

 清潔なお店と新鮮な食材。日本料理店で修業した大将のコース料理も見逃せません。

http://www.imaike.gr.jp/

かどまつ(焼き鳥)

 地下鉄今池駅4番出口上がってすぐ。気楽な焼き鳥屋です。刺身で食べられる美濃の地鶏を焼いていますから申し分ない美味しさ。さまざまな料理も工夫されていますし、銘酒や焼酎も揃えてあります。

 店主はまだ若い女性ですが、普段は青年(安田大サーカスのクロちゃんそっくり)と真面目な脱サラ氏、店主の知人の女性が店を切り盛りしています。

 焼き鳥以外では自家製豆腐の厚揚げがお勧め。新作鶏チゲも美味しいです。もちろんこのお店も料理は全て手作りです。

客の作ったサイト

http://members.jcom.home.ne.jp/skipio5268/tabi/nagoya/nagoya-tori.html

味乃にしき(和風ステーキ)

 本店は伏見にあります。40代半ばのマスターが三十年近く腰を据えて美味しいステーキを焼いています。ガーリックライスもお勧め。

 夜は高級ステーキ店ですが、ランチタイムは上質の肉を用いたセットが1000円で大変人気があります。色々な種類の焼き肉定食がありますから飽きることはありません。炊き上げたご飯の美味しさも特筆。

きも善本店(炭焼き)

今池西はずれにあるこの店にはまだ二回しか行ったことがありませんが、すっかりファンになりました。

何しろ大将が一見むくつけき大男で実は優しい空手家。しかもプロレス愛好家(今池祭りでは覆面レスラーとして登場)であり、ハーレー・ダビッドソンが似合うナイスガイ。仕入れた大根葉がハーレーの荷台で颯爽とはためいていたという目撃証言も多々あります。

料理は品数が多く、しかも安価。焼き鳥から出立した店ですが、二度にわたって店が移転拡大し、今日では大きな宴会場もあるビルになっています。そしてそれに合わせるように居酒屋と呼んで遜色ない料理の数々。ここももちろん料理は全て手作り。「手作り」というこの当たり前のことをいちいち書かなければならないのが今の居酒屋などの店の置かれている状況のようです。

店内のテレビはいつもプロレスが放映され、トイレには空手選手権のポスター。座敷の横、硝子張りの車庫にはハーレー・ダビッドソン。硬派なお店ですが女性客も大勢いました。

http://www.kimozen.com/

 以下は特に店主と親しいということはありませんが、たまに出かけたくなるお店です。

たいら(焼きとんかつ)

 油で揚げるのではなく、フライパンで炒めるとんかつ。ランチタイムはいつも満員です。わたしはこの大将のいかにも板前らしい佇(たたず)まいが好きです。知り合いの外国人も彼の雰囲気がいかにも日本的で好きだと評していました。グルメ番組では必ず取り上げられるお店です。

http://www.ctv.co.jp/ps/wide/2003/0126/10.html

呑助飯店(中華料理)

 50年以上継ぎ足されてきたタレと、爪楊枝が立つほど油がぎとぎとしたラーメンで有名です。通称「重油ラーメン」。

 ここのラーメンは先述したマニア向けの濃いラーメンだけでなく普通のラーメンもあります。しかしわたしは白餃子のファン。目の前でせっせと包んでいるおばさんに「その具は何か」と尋ねたら「秘密」と一蹴されました。

 数年前まで今池駅前に支店があってそちらは弟さんがやっておられました。仕込みの匂いが凄まじく公害さながらでしたが、病気で閉店。今は本店だけのようです。もともとわたしは駅前の支店にたまに顔を出していました。無愛想の骨頂だったオヤジが何しにきたのかと睨めつける風情のファンだったのです。

そして餃子と麦酒。その店が閉店してからはたまに本店に顔を出します。

百老亭今池店(餃子専門店)

 大須と中村にもあるのですが、どうも仲が悪いようです。水餃子が美味しい店で、待たされることは必至です。焼そばも美味。

味仙(台湾ラーメン)

 台湾ラーメンの発祥地。青菜炒めが絶品。

http://www.misen.ne.jp/

茂一(薬味ラーメン)・・・春日井市に移転。昨年訪ねたら盛業でした。

 あっさりしたラーメン。汁なしの油麺も美味しい。

ラ王(ラーメンマニアのサイト)

http://raou.maxs.jp/shop/096.htm

人参ラーメン(中華料理)・・・廃業

 正規の名前を知らないので仲間内では人参ラーメンで通しています。白湯がお勧め。今池では茂一とここでラーメンは完結しています。

酒肆蘭燈(バー)

 ダンディズム溢れるバー。名古屋のバーテンダーの草分けとそのご子息でやっておられます。ともかくカウンターに座って「バーボン 2フィンガーで」とやりたい店です。

ファンサイト

http://plaza.rakuten.co.jp/nanpow/diary/200506130000/

今池屋(お好み焼き)

 いつも店の前に行列のある有名店。お好み焼きは当然ですが焼きそばが美味しい。

http://www.yakiyaki-net.com/tanken/report/008/

大潮屋(お好み焼き)

 お持ち帰り専門のお好み焼き。安くて美味しい。忙しいときのランチに最適。昼は行列です。

可楽(蕎麦)

 名古屋のカリスマjazzギタリストM氏が趣味を極めて始めた店。随所にこだわりを感じます。今池の南、らくだ書店の西側です。あっさりした更科そば。

http://www.ctv.co.jp/ps/wide/2003/0126/11.html

番外

六文銭(炉辺酒房・閉店)

 この稿を書くに当たり、ミレニアムの前日、惜しまれて閉店した居酒屋「六文銭」の店主三嶋寛さんの著書『名古屋を呑む!居酒屋ひげおやじ名古屋を語る』(風媒社刊)を参考にしました。文中の居酒屋の主とはひげおやじさんのことであり、実際に当時、彼からカウンター越しに聞いた話も加味しています。

ひげおやじこと三嶋さんは現在、地元マガジンのライターや地元新聞ファミリー版の川柳選者、大手ビール会社のうまい店紹介の記事などを書いたり、学生時代から継続されている哲学をさらに深めたりと忙しく活躍されています。

http://hozonko.com/rokumonsen/

http://myprofile.jp/mishima

あとがき

 養老先生曰く、「都市は脳の外部化」。

 整然と規定された都市は中心化した場として他者を強く拒否したところがあります。それに対して農村は身体の外部化したもので雑多なものを鷹揚に受け入れてくれます。 整然とした街は清潔で安全ですが、反面非人間的で、どこか落ち着かないものです。

 その詰屈さに反するように都市の周縁には雑多で猥雑なアヤシイ場があります。今池はまさにそんな町です。

 六文銭の三嶋さんの著書『名古屋を呑む』の中に今池は雑然としているところに意味があるという内容の章があります。フーコー言うところのパノプティコン(完全に監視された牢獄)のように、整然とすべてが管理された都会の息苦しさからほっと一息つける雑然とした空間。今池のよさはそんな雑多な町であり続けることでしょうか。

今池の繁華街には細い路地がいっぱいあり、そのあちこちに名店が隠れている。妙に生活臭の漂う町であることも特筆です。(游)

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2011年8月21日 (日)

游氣風信 No.185 2005. 5.1

夏から秋 うつろいを楽しむ

 

 九月半ばになり、台風を幾つか経験しますと、暑さも盛りを過ぎ、空の色や雲の形、風の風合いに秋を実感できるようになりました。

 夏の喧騒の代表クマゼミの声もいつしかツクツク法師になり、それも気づかないうちに終焉。夜陰からはコオロギなどの虫の音が聞かれます。

 しかし、実際には秋の息吹の訪れは八月初旬から感じることができます。道行く人たちも「さすがに立秋ともなると、風がどことなく違うね」

とか

「雲の形はもうすっかり秋だなあ」

といった挨拶を交わすようになります。

 と言う具合に、今回は、季節実感と新旧の暦の話に俳句などを加味して進めます。暦の話はややこしいので面倒なら読まずに飛ばしてください。

 暦の上では八月の初旬が立秋、秋が立つといいます。今年は八月七日でした。旧暦に置き換えると八月七日は旧の七月三日になります。旧暦では七月は既に秋だったのです。

秋たつや川瀬にまじる風の音 蛇笏

 旧暦の四季は明解で一、二、三月が春、四、五、六月が夏、七、八、九月が秋、十、十一、十二月が冬となります。だから一月一日が初春で、元旦と春の訪れが合致するという分かりやすいものでした。正月の挨拶が「初春」とか「迎春」というのも納得できます。

 初春の風にひらくよ象の耳 和子

 夏の行事である七夕祭り。旧暦では七月からが秋ですから、七夕祭りは本来秋の行事となります。

今年ですと八月十一日が旧暦の七夕。既にお盆間近ですから空が澄んでくる頃です。心配される雨も今の七夕のように梅雨半ばではありませんから、晴れが多く織姫・彦星のデイトもやりやすかったことでしょう。

 七夕や男の髪も漆黒に 草田男

 この新暦と旧暦のずれはさまざまな行事の不都合になっています。先の七夕のように星のデイト(七夕を季語では星合などともいいます)を見上げるのが、初秋の澄み渡った空であればロマンも広がりますが、蒸し暑い梅雨空では今ひとつ興が乗らないというものです。仙台の七夕祭りは旧暦にしたがっているようです。

 現在の歳時記の季節区分は通常、春は立春から立夏の前日まで、夏は立夏から立秋の前日まで、秋は立秋から立冬の前日まで、冬は立冬から立春の前日までとされています。

 つまり今の暦上、春は二月初旬から、夏は五月初旬から、秋は八月初旬から、冬は十一月初旬からとなるのです。そこに旧暦の行事をむりやり新暦に置き換えると実際の季節感との間に食い違いが出てしまいます。

 立春の雪の深さよ手鞠唄 秀野

 プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ  波郷

 秋立ちぬ夕日あたる日あたらぬ日 苑子

 堂塔の影を正して冬に入る 宗淵

 さらに一般の印象では季節の実感を重視しますから春はぽかぽか暖かくなる三月から五月、夏は蒸し暑さの六月から八月、秋は爽やかな風が吹き始める九月から十一月、冬は寒さひとしおの十二月から二月と分類されています。

 ですから、わたしたちの季節の捉え方は旧暦や新暦の規定されたものと季節の実感などがごっちゃになっているのです。

 松尾芭蕉の命日は旧暦の十月十二日。大阪の門人宅において五十歳で亡くなっています。ちょうど初冬の時雨の降るころですから時雨忌と呼びます。

しかし、芭蕉の忌日を今の暦の十月十二日で偲ぼうとするとどう考えても時雨には早すぎます。まだまだ日差しの強い日が続き、各地で運動会などが開催されるころです。

 旧暦ですと今年の十月十二日は十一月十三日になります。これならいかにも紅葉を濡らす時雨の季節。ここらの矛盾の調整は難しいものがあります。

 しぐれ忌のしぐるる燈火明うせよ 夕爾

 しぐれ忌の恋の芭蕉をたふとみぬ 暁水

 

 夏休みは今の暦の上では立秋が途中に入りますから、夏から秋への休みということになります。

 夏休み犬のことばがわかりきぬ 照敏

 お盆は七月十五日ですが、一般的には八月十五日に行います。子供が夏休みで都合もいいですし。以前は月遅れのお盆と呼んでいましたが、今はむしろ八月が普通です。となると立秋の後ですからお盆は秋の行事といえますが、実はまだ暑い盛りです。

 女童らお盆うれしき帯を垂れ 風生

 終戦の日が八月十五日というのはさりげなくお盆に重ねるという政治的配慮があったと聞きますが、この頃はまだ空は炎天。町行く人は建物の生み出す片影を選びながら汗を拭きつつ急ぎ足。まだまだ秋という感じはしません。しかし暦の中では秋になります。

 終戦を実際に迎えた人に聞くと、とても暑い日であったと一様に答えられます。その日が暦の上では秋であろうと、実感としては真夏であり炎天に燃えるカンナの真っ赤な花が強く記憶に残っているという方もいました。

 

 敗戦日空が容れざるものあらず 波郷

 堪ふることいまは暑のみや終戦日 貞

 これらは暦と実感の乖離です。ではこれを否とするか、是とするか。

実は近年、俳句の歳時記の見直しがさまざまグループによってなされているのですが、実感を重視する人たちと、古典的価値としての暦を重視する人たちの間にも見解の齟齬があって簡単には整理統合できそうもありません。それで俳句の協会も大きく三つに分化しているのです。

季節と実感に開離があるように、俳句を作る人たちにも乖離があるのですね。こういう一筋縄でいかないところに現実の面白さがあります。

 では、現代を生きる俳人たちはこのずれをどうやって埋め合わせているのでしょうか。実は、それは埋め合わせるというより楽しんでいるといったほうがいいでしょう。

 実感される季節感と暦の上の季節にずれがあればこそ、その差異の中に微妙な季節のうつろいを味わうのです。

 数ある季語の中で秀逸だと思うのは「夜の秋」という季語です。「秋の夜」ではありません。秋が深まっていかにも風情ある秋の気配、それは「秋の夜」です。

「夜の秋」とは、夏の暑い日が暮れ、夜半、ささやかな秋の気配を感じ取る。これが「夜の秋」です。暑い夏でも夜には秋が潜んでいるという発見。気がつくとどこかから虫の鳴き声。風に潜む秋の肌触り。

こうした時候の変化を敏感に楽しむのが季節の味わい方の妙です。そのためには暦の上では秋になったけどまだ暑い日が続くという季節の予告編があると感性が高まるというものです。

 西鶴の女みな死ぬ夜の秋 かな女

 名曲いま潮満つごとし夜の秋 憲吉

 立秋を過ぎるころには夏の暑さのこまごまとした隙間に確かに秋の色合いや風合いを見て取ることができます。肌で感じることができます。そうした微妙な季節感。それを日々の存問として味わって生きるのです。

 八月初旬の熱帯夜の中に、ふと感じる秋の一瞬。これが「夜の秋」。季節は四季に区切られるのものではなく、夏から秋にかけて徐々にその姿を変えていくのです。

 「夜の秋」と似た季語に「今朝の秋」というのがあります。これは立秋の日の朝のことです。まだまだ暑いのですが、さすがに立秋ともなると朝には涼しさがあるということ。夏の朝のさわやかさは秋のそれに似ています。 これも立秋という暦上の季節の取り決めがあればこそ、その朝のいつもと違う涼味に気づくのでしょう。

秋立つ日詠める

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行

 この歌をもって立秋の嚆矢とされています。同様に

木の間より漏りくる月のかげ見れば心づくしの秋は来にけり  古今集

という歌もあります。日本人の季節感はこうした古歌の伝統によって鍛えられてきました。単に季節実感だけではないのです。

 今朝秋のよべを惜しみし灯かな 乙字

 今朝秋や見入る鏡に親の顔 鬼城

 「夜の秋」は夏の季語で、「今朝の秋」は秋の季語になります。

 こうして、古人は時のうつろいの中に季節の変化を敏に悟り、生きることのささやかな喜びを体得したのでしょう。朝から晩までテレビをつけっぱなしの現代人には難しいかもしれません。

 テレビもラジオも、電燈までも無かった時代の人々はそうした変化と直面することで生きることの励みとしたり慰みとしたのではないでしょうか。文明の機器がない時代の立派な文化です。

 たまにはテレビを止めて夜の気配と対峙するのも一興かもしれません。夜陰から静かに風が虫の音を運んできます。

あとがき

 夏から秋へのうつろいを楽しむなどと書いていますが、昨日今日の秋日の強さ。澄んだ空気を通過してくるためか夏の日よりも肌を刺します。紫外線も強そうです。

 秋口はギックリ腰の人が増えます。夏場についつい冷たいものを口に、クーラーで体を冷やしますからそのつけが今頃出るのかもしれません。

 腰にだるさを感じたらご注意を。

                                                         (游)

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游氣風信 No.184 2005. 4.1

暑を楽しむ

 毎日暑い日が続きます。皆さん、どのようにして暑さに対応しておられるでしょうか。

 外出先の用事を済ませたら、道の片側に出来た影を選びながら急ぎ足、家に戻るやいなやエアコンON、冷蔵庫から麦酒を取り出して体内に流し込み急速冷却。

 まさに至福と言うべき時ですが、こんなことばかりやっていたら身体の中のコントローラーが狂ってしまいます。

 冷蔵庫の中は5度くらいでしょうか。夏にそんな低温を体内に取り込むなんてことは有史以来なかったこと、電気冷蔵庫の普及以来です。

 それまでは井戸に浮かべたスイカが最も涼を与えてくれる食べ物でした。

子どもの頃、お盆に田舎に行くと祖母が山から湧き出た水で冷やしたスイカを切ってくれたものです。

しかし、わたしは何よりスイカが苦手ですから全く手を出しません。祖母は毎年、「こんなにおいしいもの、なんでひろしちゃんは食べないのかねえ」

と残念がったものでした。

 ともかく、このように井戸水など自然水で冷やしたものが唯一身近な冷却物であり、今日の限りなく0度近くに冷えた麦酒は実に身体にとってはかつて経験したことの無い出来事なのです。

 さて、古には冷蔵庫もクーラーもありませんでした。それでも暑い夏はありました。温暖化で毎年暑くなるというものの、やはり昔から暑かったことに違いはないことでしょう。

 こうした暑さを古人はどのようにやり過ごしたのでしょうか。クーラーなどの文明の利器はありませんからあくまでも工夫で凌いだことでしょう。それらの多くは今日にも生活の知恵として伝承されています。

暑さの身体的影響

 暑さは身体にどのような影響をあたえるでしょうか。

 夏は気温が体温に近づき、はなはだしいときは、上回りますから、熱の放散がむつかしくなり身体がオーバーヒートします。

 身体は体温を一定に保つために汗を出して気化熱で下げようとします。汗を嫌う人がいますが、汗をかかないと熱中症になってしまします。

 しかし汗をかくということは水分の放出ですから、補給しなければなりません。ここに問題があります。

水分を頻繁に摂ると胃液や消化液が薄まり、消化不良になります。胃が重たくなって食欲も低下します。

 胃腸が弱れば食中毒の危険も増えます。

 食欲が無くなるとついつい食べやすい冷麦などに箸が伸びてしまい栄養失調。これで夏バテです。

 さらに暑さは睡眠の敵。寝不足にもなり、昼間の疲れが抜けません。睡眠不足と栄養失調、さらには暑さ調整による自律神経の疲労。それらが合わさって身体をこわしてしまうのです。これが暑気中り。

日射病や熱中症は暑さの影響が一気に来たものです。

冷えの弊害

 そこで汗以外の方法で体温を下げたくなります。手っ取り早いのが涼しいところに行くこと。木陰は天国。

知り合いの農家の方は極楽風と呼んでいました。風は汗の気化を助けますから実に気持ちのいいものです。

 ゆとりがあれば海や山へ避暑。それが無理ならプール。ともかく涼しいところに移動します。ちなみに家の中で犬が陣取っているところが一番涼しいといいますがどうでしょうか。

 涼しいところに行かなくても人工的に涼しさを作る。それがエアコンです。皮肉なことにエアコンが町の暑さを生み出していることは誰もが知っていること。それでも止められません。

 身体が熱くなっているところにエアコンの冷たい風を当てると実にさっぱりします。しかし、これも麦酒と同様、人体がかつて経験したことの無い出来事。身体は気持ちと裏腹にびっくりしています。

夏は暑いから体温調節のために汗をかくこと。無駄な熱は作らないように筋肉を緊張させないこと(体温は筋肉と肝臓で作られます)と設計してあるのにいきなり冷たい風。これは身体の混乱の元です。自律神経が誤作動

することでしょう。

 もう一つ、涼しさを生み出すもの。それは冷たい飲食物。体内から冷やします。

 先ほどから話題に出たスイカも麦酒も冷麦もみな冷たい食べ物です。外気が暑いので湧水や井戸水でも十分冷たく、満足したものでした。しかし、一度人工的な冷たさを知るともはやそんな程度の冷たさでは納得しません。冷蔵庫でガッチリ冷やして涼ならぬ冷を得ようとします。

 冷たい物の摂り過ぎは胃腸の大敵。これはどなたもご存知です。胃や腸の働きが悪くなり、下痢をすることもあります。これでは消化不良を起こすこと必死です。

 もう一つ冷たい食べ物の弊害があります。それは大腸の中に住む細菌。健康な腸にはさまざまなバクテリアがいます。そこで身体に有用な働きをしてくれているのです。ところが冷えて腸が弱ると、そこに住む細菌が全身に散ると言われます。

 腸にいる限りは有用な作用をしてくれる菌も場所が変ると炎症を起こす元になります。筋肉の中ですと肩こりや腰痛。内臓に住めば内臓の病気。免疫機構にも影響をあたえることになります。

 そうならないためにも、腸を冷やすことは厳禁です。脚を冷やしても冷たい血液が腸に戻ってきますから同じこと。

 夏こそ半身浴でしっかりと下半身を温める必要があります。

夏の工夫

 クーラーも冷蔵庫も無い時代、先人はさまざまな工夫で涼を演出しました。環境と和すのが日本人の伝統。

それは今日にも生かされています。

 治療室のベランダでは簾(すだれ)と葦簾(よしず)が活躍しています。これらは向かいのビルから覗かれないための目隠しにもなっています。葦で作られた日陰は風を生み、部屋の温度を下げてくれます。また避暑地の雰囲気を漂わせてくれますから来客に好評です。日覆で日陰を作る方法も流行っています。

 知り合いのお寺は夏になると障子や襖をはずして籐の戸に替えます。畳の上には籐のカーペットつまり簟(たかむしろ)。夏座敷はそれだけで涼しさを感じさせます。そして部屋に片隅に籐椅子。筵の座布団。

軒下には吊忍と風鈴。場合によっては金魚玉(丸い金魚鉢)を吊るします。庭には打ち水。目と耳と皮膚で涼を感じるのです。

お盆の頃の盆提灯。青を主体とした色と電球の熱気流を利用した走馬灯。座敷が海底に沈んだようで、いかにも静謐な涼しさを醸し出します。

夕方、縁台に腰掛けて食べるスイカ。甚平のおじいさんと可愛い浴衣のお嬢ちゃん。ひらひらと金魚のようです。その傍らで子供たちが楽しむ線香花火。縁側から鈴虫の鳴き声。夕涼みは近所との交流の場でもありました。

夕涼みよくぞ男に生まれける 其角

 もっとも今日では女性の方がはるかに裸に近い格好で町を闊歩していますが。

 南の窓には影と美の演出のために朝顔を這わせます。実をとるなら糸瓜。昔は身体を洗うときには糸瓜が常套でした。また蔓の根から染み出てくる糸瓜水は自然の化粧水。今日でも愛用者がいます。

 机の上には団扇が置かれ、コップの中には水中花、おやつは心太(ところてん)。あるいは葛餅、水饅頭、蕨餅。子どもにも許された梅酒。

 

 食欲の無いときはするすると冷麦、冷素麺。冷奴と麦茶も定番です。暑さに負けてならじと食べるのが土用の丑の鰻。この習慣の始まりは夏の売り上げ減少を何とかしたいという鰻屋さんの依頼に応えた平賀源内の知恵だと言われています。

「土用の丑の日に鰻を食べると夏ばてしない」

最初の商用コピーという説もあります。

暑い日に熱い鰻をふーふーと食べる。団扇や扇子で扇ぎながら。汗をしっかりかくのも夏を乗り切る知恵。それで江戸の夏に好まれた甘酒や飴湯。今では冬の飲み物である甘酒は夏に売られたそうです。「熱い時はすべからく熱いものを食すべし」。飴湯は上方で人気があったようです。水飴を溶いて熱くしたもの。

 外出時は日陰を自己創出する便利な道具、つばの大きい夏帽子。子どもや農作業の人が愛用するのが麦藁帽子。ご婦人はさらに日傘という武器も携えます。日傘も以前は白が主流でしたが、ここ数年は黒に変りました。白は紫外線を跳ね返すだけですが、黒は紫外線を吸収するからです。

 家に戻ればたらいに水を張って行水。内風呂の無い時代の名残です。そういえば子どもの頃の漫画に塀の節穴から行水を覗き見するというシチュエーションがよく見られました。今はシャワーです。しかしビニールのプールに水を満たして庭先で遊んでいる子どもたちは今日でもよく見かけます。さまざまな玩具を浮かべて。浮人形とか浮いて来いと称します。

 寝苦しい夜、蚊帳を吊り、布団の上にはさっぱりとした寝茣蓙。寝具と身体との間に隙間を作る竹婦人。これは抱き枕として最近人気です。蚊遣り香を炊き、寝冷え防止の腹巻。これに怖い幽霊話の肝試し。小川で捕ってきた蛍・・・・・。

 まだまだ涼の演出はあることでしょう。不便は知恵を生み、利便は怠け心を育みます。たまにはクーラーと麦酒から離れて夏をすごすのも一興です。

 さて、一気にここまで書き上げたので、一休み。麦酒でも飲もう・・・・あ、熱いお茶にします。

あとがき

 まだまだ暑い日が続きそうです。街が灼けています。しかし、風には明らかに秋の風合い。夜風は涼しいものです。まさに「夜の秋」。

 残り少ない夏です。ご自愛ください。(游)

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游氣風信 No.182 2005. 2.1

仕草と佇まい

 ここ数年、日本伝来の古武術がブームになっています。書店に行くとコーナーが設けられ、著名な武術研究家がNHK人間講座の講師を務め、あちこちの運動部や運動選手が古武術のコツを応用して大会で好成績を収めたと喧伝されています。

 実はわたしも武術的な身体の運用法などにはたいへん興味があって、学生時代から相当数の本を購読してきました。手元にある一番古い本は蓑内宗一著『武術鍛錬術』で、奥付には昭和四十八年とありますから大学二年生の時です。

 本来、殺戮の技である武術を、戦いから切り離しの身体の運用と健康というテーマとして明確に取り上げたのは蓑内宗一氏が嚆矢ではないかと思います。それ以前にもおられたでしょうけど、著作を通じて研究を公表・啓蒙してこられたのは氏が最初だと思います。

 

蓑内氏は惜しくも先年、お亡くなりになりました。原爆に被爆しながら武術を通じて体調を整えてこられたと聞いています。

前掲書には「大正十一年長崎県生まれ。父親から家伝の体術を仕込まれる。中学時代、九州に伝承されている兵法宗家を樹下石上の旅をつづけながら訪ね、『経絡派武道』に感銘を覚える。

戦後は、フランスの作家ジャン・ジュネを発見。アウト・ローの世界を描いた『泥棒日記』は氏の処女作である。現在『経絡派武道』の探求をつづけている。」とあります。

 

 改めて略歴を読み返してみて「経絡派武道」などという言葉に触れますと、現在のわたしにとって相当に大きな影響を与えてくださった方だと分かります。

この方の本を足がかりにして相対的強さを目指す格闘技ではなく、その究極の戦いの場から生み出された精緻に洗練された身体運用法に関心を抱いたのは確かです。

それが後に極意を諸般の中に共通するものとして捕らえ、そのエッセンスを「身体の文法」と解き明かしたメビウス気流法の坪井先生や唯物論的弁証法を駆使して武道を構造的に究明し、その本質論から哲学一般に立ち向かっている南郷継正氏の本に親しんだことは間違いありません。

 治療師を志し治療技術を磨くという当たり前の道を歩みつつ、同時に身体運用と言う別の側面から捉えなおそうと游氣塾を始めたのも、もしかしたら奥底に蓑内宗一氏の影響があるのかもしれません。本箱から埃を被った書物を引き出してつくづく考えてしまいました。

 さて、今回はこうした武術や舞踊など日本伝来の身体運用を表現することばに目を向けてみようと思います。そのためには元来の日本語である「やまとことば」に注目する必要があるでしょう。今日の日常語はやまとことばと中国語、その他の外来語が混在しています。そこであえてやまとことば(大和言葉)の幾つかに関心を抱いてみます。

 

 以下に思いつくまま身体動作を羅列します。辞書を引く過程で見つけたことばも列記します。

その上で簡単なコメントを述べましょう。

いずまい (居住まい) ゐずまひ

すわっている姿勢。

「居住まいを正せ」などと言います。つまりこれは当てられた漢字が物語っているように座った状態なのです。立っている状態は次の佇まいになります。

たたずまい (佇まい) たたずまひ

1 立っている様子。そこにあるものの様子。ありさま。そのものからかもし出されている雰囲気。

2 人の生き方、暮らし方。生業(なりわい)。 たたずみ。

居住まいは座っている姿であり、佇まいは立っている姿です。しかしどちらも単なる身体の状態や形態ではなく、そこからおのずとかもし出される雰囲気を表しています。

 じっと座っているだけで存在感がある人。江戸時代の日本人はある種の端然としたうつくしさを持っていたようで、シーボルトなどもただの未開の国ではないと日本文化に対してのリスペクトを書き残しています。

 それが明治以後の富国強兵策による国民皆兵教育により、皆が規律正しい軍隊様式を要求され、そのための教育が今日の硬直した身体と姿勢を生み出したとされています。もっとも戦後六十年を経て硬直すらない、ずぼらな身体に堕しているのが現在の様相です。

江戸以前の身体技法と明治以後の身体技法の差。それは実際にご覧になった方には理解しやすいと思いますが、古式居合の優美な力強さと現代剣道のスピード感あふれる直線的な動き。これらによって代表されるでしょう。両者は同じ剣を用いながらまるで違う動きです。構えているときの佇まいからして剣道と居合では全く異質のものと感じられます。それは日舞とバレエほどの違いなのです。

 これがわたしたちの失いつつある古来の身体文化であり技法です。今日多くの方がそれに気づいて一生懸命その保存と発展に力を注ぎ始めました。それが今日の武術ブームです。単なる懐古趣味、アナクロニズムではありません。

ものごし (物腰)

1 物のいいぶり。ことばつき。言葉遣いや人に対する態度。立ち居振る舞い。

2 身のこなし方。動作。

 一般には動作とか所作のことです。所作は仏教のことばのようです。

ふるまい (振舞) ふるまひ

ふるまうこと。おこない。挙動。特に、人目につくような行動。

たちいふるまい(立居振舞)たちゐふるまひ

 起居と動作。からだのこなし。

 立ち居振る舞い。立ったり座ったり振ったり(手の動作)舞ったり(足の動作)です。立ち居がじっとしている状態で、物腰や振る舞いは動作です。物腰の方が静かな状態の感じがします。

しぐさ (仕草)

 ある事をするときの態度や表情。また、やり方。しぶり。しうち。

 仕草は仕種とも書きます。元々は舞台での俳優の表情や動作つまり所作を言うようです。動作は音読みですから中国から来た言葉でしょう。それに対してしぐさは元からあったやまとことばだと思います。それに漢字を当てはめたのです。「どうさ」より「しぐさ」の方が調べのやさしを感じます。この辺りにやまとことばの魅力があるのではないでしょうか。

しぶり(仕振り)物事をする様子。

しうち(仕打ち)しわざ。ふるまい。他人にたいする取り扱い。

しうち(仕内)俳優の舞台における表情・動作。しぐさ。こなし。広い意味での演技。

 これらも所作を表すことばですが、仕打ちを除いて、今日ではあまり用いられません。しかも仕打ちは「ひどい仕打ちをされた」というように、あまりいい意味では用いられません。

こなし(熟)

1 自分の思うままにうまく取り扱うこと。

2 立ち居ふるまい。特に、歌舞伎で、役者の演ずる身ぶり。しぐさ。

 今回いろいろ辞書をひっくり返していて一番驚いたのがこのことばです。「身のこなしがいい」などと普通に用いられていますから、馴染み深いのですが、「熟」という漢字が当てられているとは知りませんでした。普段から「身のこなし」とか「使いこなす」とかいいますが、それが熟達を表すのでこの「熟」の字を当てたのでしょう。さらには消化の作用である「胃でこなす」にまで広がって使用されています。

 「こなす」とは「粉にする」ことかもしれません。砕いてこまかにするという意味が辞書に出ています。

すると「道具を使いこなす」ということは大きな石を粉にするごとくに時間をかけて熟達するということなのでしょうか。

そぶり (素振)

 顔色・動作に表れたようす。けはい。

みぶり(身振)

身を動かして感情・意志などを表すこと。また、その身のこなし。身のそぶり。

てぶり(手振)

 手を振ること。また、手の振り方。手のこなし。

 振る舞いもそうでしたが、いずれにも「振る」ということばが入っています。手偏ですから手の動きを表すことばです。主として上半身の動きでしょうか。それに対して「舞」は足でくるくる回るという意味です。「舞」の上半分は衣、能役者が衣を掲げている状態です。そして下半分は足。まさに能役者の形なのです。

 身振り手振りは動作と同時に何かを訴える仕草です。そこに伝達の意思を感じます。それに比して素振りはむしろ自然な動作のようです。「素」には「ありのまま」とか「何も持たない」の意味がありますから。素手とか素足がそうです。

 ことばは身体から発せられます。そして相手の身体に吸収されます。そこに伝達があります。音声言語も文字言語も身体との関わりの中にあります。ことばは身体そのものなのです。

 疲れてぐったりしている人に「いい姿勢をして」と言えば、その場は「気をつけ姿勢」で形を整えることでしょうが、またすぐにだらんとしてしまいます。それは姿勢とは外形的な「姿形」と内なるエネルギーである「勢い」の両面で表現されるものだからです。いくら「気をつけ」をしても身体の中からあふれるエネルギーが無いと姿勢を保つことはできません。

 佇まいなり居住まいを正すとは生きる姿勢を自分から意思的に生み出していくことです。

 近年、日本人の姿勢が悪くなってきたとされます。その代表が地べたに座り込む「ジベタリアン」でしょう。まさに内面の力の無さを表現しています。目線を下げることで別の世界が見えるのだという方もありますが、いつもそんなに低い目線だけでは社会は見えません。

 明治になって大きな改革を行った際、日本人の身体もその影響を受けました。動作や食事、思考もそうでしょう。それはどうも外観に偏ったもののようです。外から作り上げた見せ掛けの身体。そんな気がします。

 

 そこでもう一度日本人の行動様式の原点に戻ってみたらどうかという社会的欲求が今日の古武術ブームにつながるだと思います。

 「いい姿勢をしなさい」と叱る代わりに「佇まいを整えてごらん」と嗜める。これが自然に出来るようになったときこそ、新しい身体文化の萌芽と言えるのでしょう。

 

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2011年8月20日 (土)

游氣風信 No.181 2005. 1.1

鍼灸と健康保険

 最近、鍼灸治療が保険でできないかという問い合わせが続きました。国家資格なのだから健康保険が適応されてしかるべきではないかというのです。

 全くその通りで、厚生労働省は医療として鍼灸(含マッサージ・指圧)の資格取得に関しては、三年間の勉強と国家試験合格を義務付けておきながら保険を使えないというのはおかしな話です。元来同じ法律下にあった柔道整復師(接骨院・ほねつぎ)はほぼ自由に保険が使えるにも関わらず不思議な話です。

結論から申しますと、病気によっては鍼灸治療に対して保険が適応します。しかしそれには条件があります。条件とは以下の二項目です。

1 慢性疾患で医師による適当な治療手段がないもの。

・保健医療機関において療養の給付を受けたが、所期の効果の得られなかった場合。

・今まで受けた治療の経過からみて治療効果があらわれていないと判断された場合。

2 医学的な見地から、医師がはり・きゅう治療を受けることを認め、これに同意した場合。

 

 具体的な病名は

1 神経痛

2 リウマチ

3 頚腕症候群

4 五十肩

5 腰痛症

6 頚椎捻挫後遺症

となります。

 つまり、以上の六つの病気に対して医師が適当な治療手段がないと判断し、これには鍼灸が適応すると認めて同意した場合には健康保険が使えるのです。

 しかしここではたと気づかれると思います。これは実に医師にとっては屈辱的なものではありませんか。自分では手に負えないから鍼灸でもやったらどうかということなのです。したがって健康保険を用いるために必須の同意書はなかなか書いていただけないということになります。医師の沽券に関わりますから当然でしょう。

さらに鍼は体内に刺入し、灸は皮膚を火傷させますから、消毒という問題も絡んできます。

鍼灸という医療効果が今ひとつはっきりしない怪しい治療法、しかも衛生管理が自分の手の届かないところで行われる。真面目な医師にとってそんなものに同意することは不可能でしょう。

 

 そんな訳で鍼灸の保険治療はなかなかむつかしいのです。そこでわたしの治療室では健康保険による鍼灸の治療はほとんど行っていません。

反面、マッサージに関しては二十五年以上行っています。そのことは『游氣風信』にたびたび書いてきました。


 マッサージの保険適応は診断名に関わらず、筋麻痺や関節拘縮を伴う疾患で医療上マッサージが有効と医師が認めた症例に認められます。多くは脳卒中の後遺症や神経性難病(パーキンソン病や脊髄小脳変性症、多発性硬化症など)になります。

 これらの患者さんは行動が不自由になります。そのため自宅で療養しながら医療や介護を受けておられる方が主ですから、廃用性萎縮(体を使わないために筋肉や骨が衰える)や関節の拘縮が生じます。

その防止のためにマッサージや運動法が有効であることは医師も了解されていますから、よろこんで同意書がいただけるのです。むしろ医師のサイドから積極的に依頼が来るほどです。

マッサージは手指による安全な治療ですから衛生の心配も日常生活レベルからさほど乖離したものではありませんし。

 保険によるマッサージ治療が医師と患者とわれわれとの間で潤滑に施行されているのは別の理由もあります。

本来、医療マッサージは医師がするべき医療技術なのです。しかし、何もかも医師が行うには時間的に支障があり専門家であるわれわれに委嘱するというのが構造的にも法律的にも正しいあり方なのです。

 それでわたしも二十五年以上、医師の協力のもとに訪問マッサージを継続してこられたわけです。

 鍼灸も同様に医師がわれわれに委ねる医療技術なのですが、鍼灸に対する医師の考えがマッサージのそれとは異なりますから難しいことになります。それは先述したように鍼灸の効果が医学的に明確にされていないという問題。それと消毒です。

 明言しますが、消毒に関しては今日の鍼灸師ならまず心配はないはずです。わたしも開業と同時に使い捨ての鍼を用いていますから、鍼が使い回しによる感染媒体になる心配はまずありません。今日ほとんどの鍼灸院では鍼の衛生管理は几帳面にされているはずです。

もしそうでなければそこを利用してはいけません。

 以上の理由が鍼灸の保険治療の難しさです。しかし中には保険中心に治療している鍼灸院もあります。それはおそらく医院とタイアップしているか、患者さんが主治医と懇意になって同意書をいただける状態になっているからでしょう。あるいは接骨院において行われているおまけ鍼。おまけ鍼とは保険による柔道整復術の後、無料か極めて安価にサービスされる鍼のことです(元々、同じ法律の元にあった接骨院がなぜ保険を自由に使えるようになったのか、その経緯はよく知りません。政治的な運動が功を奏したとは聞きます)。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ここで社会保険のお勉強です。

 日本の社会保険は行政が行うもので、1950年、社会保障制度審議会での勧告が発端となり、それ以後一貫して、自己責任を基本としつつ、相互扶助によって維持されてきました。

現在5つの社会保険があります。

1 医療保険・・・疾病、負傷等を保険事故として、医療の現物給付。

2 年金保険・・・老齢、障害、死亡を保険事故として、老齢者、障害者、遺族の所得を保障。

3 雇用保険・・失業を保険事故とし、失業者の生活の安定を図るとともにその再就職を促進。

4 災害補償保険(いわゆる労災)・・・労働者が、業務上の理由によって傷病にかかり、あるいは死亡した場合の、事業主の当該労働者に対する補償責任の履行を確保し、労働者またはその遺族の生活安定を図る。

5 介護保険・・・高齢化に伴い派生する問題にたいし、被保険者の状態に応じて保険給付をおこなう。従来、医療と福祉に分かれていた制度を再編し、利用者負担で、利用者選択により、居宅での自立した生活を支援する。

以上です。

 そもそも社会保険とは保険者が国または地方公共団体や公法人で、営利性を全く持たないこと、強制加入であること、保険料や保険給付が法定されていて選択性がないこと、おおむね国庫負担があること、事業主負担があることなどの特徴があります。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 強制加入でありながらその保険の使用が難しいのはどこかに矛盾を感じますが、現実的に鍼灸の保険適応が煩雑で困難なためにあまり保険治療を進めてきませんでした。

 一番困難なことは医師の同意を得て、同意書を書いていただくこと。前述のように自分では治せないから鍼灸を受けなさいという、医師にとっては屈辱的な同意システムではなかなか同意をいただけません。

それに加えて衛生面や治療事故などの安全性の問題。なじみの患者さんから同意書を依頼された医師の困惑もよく理解できます。

 次に適応する疾患が限られていること。鍼灸の適応は広いのですが、保険で認められているのは痛みを伴う六つの疾患でした。しかし本来鍼灸は病名治療ではなく、症状から病気の全体像を推測して処置する施術です。ですから腰痛の治療に手や足のツボを用いたりしますが、保険治療だとその特徴が生かされなくなる可能性があります。

 次の理由として事務処理(レセプトのようなもの)が煩雑なこと。そもそも鍼灸師になる人間はこうしたことは苦手なのです(汗)。しかし、これは利用者が増えればパソコン処理も可能ですから何とかなるでしょう。

 そしてもう一つ大きな問題があります。これが保険適応を阻害する最大の理由かもしれません。それは保険治療の料金です。

 一般に保険による治療代は一回 1520円(鍼灸・電気温灸など併用)です。

 老人保険の方ですと実費は一割負担で150円。その他の方は実費が三割負担の450円で済みます。

これは受診者にとってはとても助かる価格です。しかし、治療者には厳しいものがあります。

 使い捨て鍼が一本約10円ですから、10本使用すると200円。その他、温灸や枕カバーなども使い捨てですから、それらを差し引くと利益が1300円以下になってしまいます。その他通常の商売と同様に光熱費や家賃なども考慮しなければなりません。

 現在、市場では癒し系の無資格マッサージ(クイックとかリフレクソロジーなど)が10分1000円から1500円で流通しています。鍼灸もそれらを参考にして一人10分で処理できるシステムを築くならこの料金でも経営が可能でしょうが、現実にはカルテを取りながら話を聞き、脉診や骨格診断をして原因を把握しながら治療を行うとどんなに急いでも一人に対して30分から40分はかかります。

 治療室の維持や生活費などを考えますと、次から次へと流れ作業のように患者さんの処理をしていかないと不可能ですが、それはじっくりと患者さんと対峙して取り組む鍼灸の良さを自ら放棄することにほかなりません。鍼灸は基本的に接骨院のように多くの患者さんを同時に寝かせて電気治療器で処置するというような方法が取れません。

 これも鍼灸の保険が広がらない大きな理由なのです。

 しかし、長期かつ集中した治療が必要な疾患は治療を継続したくても途中で費用の問題から断念せざるを得ないという場合もあります。そこで保険の適応しそうな患者さんには個人的に利用を勧めてきましたが、全員へ喧伝はしてきませんでした。ところが、ここへきて冒頭に述べたように保険治療の依頼が増えてきました。

 そこで今回『游氣風信』で取り上げてみました。ご希望があれば保険による鍼灸治療も行いますからご相談ください。同意書を主治医の先生に依頼して、もし書いていただけるなら鍼灸の保険治療が出来る可能性があります。同意書はこちらにあります。

 鍼灸の保険適応疾患は神経痛 リウマチ 頚腕症候群 五十肩 腰痛症 頚椎捻挫後遺症、マッサージの場合は脳血管障害後遺症などの麻痺を伴う疾患です。

 これから高齢化社会が駆け足でやってまいります。鍼灸は副作用もなく、保険財政にとっても負担の少ない伝統医療です。諸外国でもその点が評価され、次第に広がりつつあります。ぜひ御利用ください。

後記

 鍼灸は保険を考慮しなければ先の六つの疾患以外にも幅広く適応します。微力ながらも鍼灸指圧などの医療で健康な毎日をお過ごしいただけるようお手伝いさせていただけるなら幸いです。 (游)
 

 

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游氣風信 No.180 2004. 12. 1

惜しむべき俳人たち

昨年末(2004年)、俳壇は何名かの著名俳人を亡くしました。12月12日、鈴木六林男(むりお)氏(85歳)、12月14日、成瀬櫻桃子氏(79歳)、12月16日、桂信子さん(90歳)、12月18日、鳥居おさむ氏(78歳)、12月30日、田中裕明氏(45歳)など。

ベテランの鈴木六林男と桂信子の死は俳句の一時代に幕を引くものであり、まだ若手と呼んでもいい四五歳の田中裕明の死はこれからの俳句の未来の喪失とも言える損失でした。

 今月号ではこれら三名の俳人について追悼します。一般の方には馴染みのない人たちですが、どなたも現俳壇を代表する人であり、同時にそれぞれの時代を生きてきたという証言者でもあるのです。

その言動が自ずと時代を表現し、切り裂き、人の心の断面を晒す。それこそが真の詩人であり、詩人の価値というものでしょう。とりわけ鈴木六林男はそのことに意志的であった人です。桂信子は女性の目覚めを身体性で表現するという革新的な人でした。田中裕明は志半ば白血病で夭折。前記二人のように波乱の時代を生きてきた方と異なり、高度経済成長という社会の中で自分を見失わないでおおらかさを貫こうとした早熟の天才です。

鈴木六林男(すずきむりお)

大正八年(1919)大阪府岸和田生まれ。大阪芸術大学教授を務めた。「京大俳句」で西東三鬼に師事。昭和一七年、バタアン半島で戦傷し帰還、以後も弾片が体内に残る。昭和四六年『花曜』創刊主宰。現代俳句協会賞。蛇笏賞。現代俳句大賞。

 六林男は反骨の俳人です。彼は常に戦い続けた人であり、その存在自体が強靭な意志であるという印象を抱かせる巨人でした。

 彼は戦争とそれを生み出し、かつ戦後も何ら自省しない国家のありように強い批判精神を維持して向かい合います。これは兵役に翻弄された大正生まれの俳人に多いのですが、とりわけ六林男にはその傾向が顕著です。

 年譜によれば六林男は昭和十一年十七歳で俳句を初め、最初は永田耕衣の選を受けます。

昭和十四年、二十歳で「京大俳句」などに参加し、西東三鬼に師事します。翌昭和十五年、この「京大俳句」が俳句史最大の事件の舞台となりました。 反国家的であるという理由から軍部からの弾圧を受け、同人十五人が逮捕されたのです。世に言う「京大俳句事件」。これが六林男の反骨の原点になったかもしれません。以後もいくつかの結社が弾圧されます。これらは総称して「俳句弾圧事件」と呼ばれます。

 当局が検挙の手がかりとしたのは、治安維持法です。「京大俳句」関係者は、結社の自由を標榜していた事、無季俳句を肯定していた点を、伝統破壊、社会秩序の破壊とみなされたのです。翌昭和十六年にも別のグループに弾圧がありました。こちらは無季俳句肯定の他に、「リアリズム」を提唱して左翼的な傾向を取っていたこと、プロレタリア俳句の提唱、生活俳句の実践などが、弾圧対象となったのです。検挙者は全員執行猶予の実刑判決でした。

 

「この段、北川光春氏によるHP参考」

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/index.htm#俳句の雑学小事典

 

 二三歳で海軍に入隊。フィリピンで米兵に撃たれ負傷、帰国します。二四歳で山口高等商業専門学校に入りますが応召により中退。この経験が反戦意識を高めたのでしょう。六林男の俳句から戦争や戦没者の影が消えることは生涯ありませんでした。

 入隊中、持ち物の検閲があるので六林男はノートに書き留めた俳句を検閲直前に記憶してノートを廃棄、検閲後また想起して書き留めたそうです。これは「京大俳句」の先輩たちが検挙された経験を踏まえてのことでした。

代表句

遺品あり岩波文庫『阿部一族』 『荒天』昭和24年刊

水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり 同

かなしきかな性病院の煙突 同

暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 『谷間の旗』昭和30年刊

月の出や死んだ者らと汽車を待つ 同

母の死後わが死後も夏娼婦立つ 同

滝壺を出でずに遊ぶ水のあり 『国境』(昭和52年刊)

天上も淋しからんに燕子花 同

外野手の孤独にかかり夏の月 『悪霊』(昭和60年刊)

永遠に孤りのごとし戦傷の痕 『雨の時代』(平成6年刊)

 

参考:黒田杏子による聞書『証言・昭和の俳句 上』(角川選書)

 

桂信子(かつらのぶこ)

大正三年(1914)大阪氏生まれ。日野草城門。昭和四五年『草苑』創刊主宰。新興俳句出身の数少ない女流俳人。現代女流俳句賞。蛇笏賞。毎日芸術賞。

 桂信子は女性にはめずらしく新興俳句の出身です。新興俳句とは昭和前期(戦前)に発生した俳句近代化運動のことです。

それまでの俳句は「わび・さび・しおり・ほそみ」などの枯淡の境地に代表される古俳諧から明治になって正岡子規が取り組んだ俳諧の見直しと写生を核にした俳句革新。さらにその延長である高浜虚子の花鳥風詠・客観写生が主流でした。

虚子の主宰する結社『ホトトギス』は「ホトトギスにあらざれば俳句にあらず」というほど他を圧する勢力をもっていたのですが、それに対して新進の水原秋桜子が『馬酔木』を刊行して反旗を翻し、それに山口誓子などが賛同しました。この運動は伝習的俳句に飽き足らない人たちの指示を得て全国的に広がったのです。この流れを汲むものが新興俳句と呼ばれました。

しかしその新しい俳句を求める革新傾向はどんどん展開し、季語の不要説が出た時点で火付け役だった秋桜子や誓子はその運動から離れます。ここまでが新興俳句運動の前期。後期はさらに急進的に燎原の火さながらに広まっていきます。

後期の運動は日野草城の『旗艦』、平畑静塔や西東三鬼らの『京大俳句』などに代表されます。この運動は芸術派的傾向と社会派的傾向が混在し、戦争へ向かう時局もあって俳句に留まらない複雑な様相を呈しました。そしてついに鈴木六林男のところに書いたように昭和十五年、新興俳句は文芸運動としての限界を見ることなく、強権的圧力によって政治的に終焉させられたのです。これが俳句史に名高い「俳句弾圧事件」です。弾圧によって運動が頓挫した史実は俳人に重くのしかかっているのです。

さて、桂信子に戻りましょう。

桂信子の俳句は女性の肉体をおおらかに歌い上げるという点で革新的でした。健康的なエロティシズムを俳句に持ち込んだこと、女性が女性であることの魅力を余すところなく表現したというところが実に革新的です。彼女は現在の女流俳人に多大な影響を与えたと同時に、俳句の中に詩性を取り入れることで俳句の寿命を延ばしたと言ってもいいでしょう。

代表句

ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 『月光抄』(昭和24年刊)

雁なくや夜ごとつめたき膝がしら 同

りんご掌にこの情念を如何にせむ 同

散るさくら孤独はいまにはじまらず 同

ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 同

やはらかき身を月光の中に容れ 同

藤の昼膝やはらかくひとに逢ふ 『女身』(昭和30年刊)

ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 同

衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く 同

窓の雪女体にて湯をあふれしむ 同

一日の奥に日の射す黒揚羽 『初夏』(昭和52年刊)

祭笛町なかは昼過ぎにけり 『緑夜』(昭和56年刊)

忘年や身ほとりのものすべて塵 『樹影』(平成3年刊)

青空や花は咲くことのみ思ひ 『花影』(平成8年刊)

雪たのしわれにたてがみあればなほ 『花影』以後

 

参考:黒田杏子による聞書『証言・昭和の俳句 上』(角川選書)

 

田中裕明(たなかひろあき)

昭和三四年(1959)大阪市生まれ。京都大学電子工学科卒。波多野爽波に師事。昭和五七年角川俳句賞最年少受賞。平成一二年『ゆう』創刊主宰。

 わたしがまだ二十代のとき、突然五歳若い精鋭が俳句界に現れました。角川俳句賞という俳壇への登竜門を潜っての登場です。写真で観るとおっとりした気品ある青年でいかにも頭が良さそうな印象を受けました。

 老人中心の俳壇において一際若く輝く俳人田中裕明はこうしてわたしの中に強く刻み込まれたのです。

 早熟の秀才はその後一時低迷します。低迷というより自分の内なる世界の開拓にもがいていたのでしょう。そしてその苦悶の年月の後、大器として活躍を始めます。自らの結社を起こし、さらに飛躍する・・・そんな矢先、病魔が彼を襲います。

 それ以後のことは読売新聞の追悼文に詳しいので引用させていただきます。

茫洋と繊細さ同居

「もう、打つ手がありません」。昨年半ば、医師にそう言われた。骨髄性白血病とわかってから五年近くがたっていた。(中略)薬も効かなくなって移植手術自体が不可能になってしまった。週末ごとに京大病院から大阪府内の自宅に一時帰宅する生活が始まった。(中略)月曜の朝、まりさん(三島註:夫人森賀まり、俳人)の運転で病院に帰る間も、娘たちのことや俳句のこと、来年は「ゆう」(三島註:田中裕明の主宰誌)でこんな企画をしよう、と話し合った。(中略)高校時代から句作を始め、京大卒業直後、歴代最年少の二十三歳で角川俳句賞を受けた。師の波多野爽波は第二句集『花閒一壷 かかんいっこ)』の帯に「茫洋として人を誘うかと思えば、極めて繊細なところもあって読む者を魅了する」と書いたが、人柄もそのままだった。(中略)入院する直前の昨年七月、中学三年の二女と滋賀・長浜のガラス工芸を見に行った。ぐい飲みを土産に買った。今、二女は毎朝、その小さなガラス器に日本酒を供えている。(読売新聞1月30日 小屋敷晶子)

 

代表句

口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし 『山信』(昭和54年刊)(蝌蚪はおたまじゃくし)

ラグビーの選手あつまる桜の木 同

大学も葵祭のきのふけふ 同

長夕焼旅で書く文余白なし 同

悉く全集にあり衣被 『花閒一壷』(昭和60年刊)

ただ長くあり晩秋のくらまみち 同

生身魂痩せてとほりし中学生 同

榧の木のいちにちいちねん明易し 同

京へつくまでに暮れけりあやめぐさ 同

天上の人を語らん昼の露 『夜の客人まろうど』(平成16年刊)

みづうみのみなとのなつのみじかけれ 同

水澄みて傷つきやすき銀の匙 同

寒林の真中ふたたび歩きだす 同

発病

爽やかに俳句の神に愛されて 同

法師蝉見知らぬ夜の客人と 同

 

(註:夜の客人とは病魔のこと)

 

参考:『現代の俳句』(講談社学術文庫)

 

全体を通じての参考図書

講談社学術文庫 『現代の俳句』平井照敏編

俳句研究社 月刊『俳句研究』

角川選書 『証言・昭和の俳句』黒田杏子

角川書店 『現代俳句辞典』

後記

これを書いている頃、桜が咲き出しました。発行日は2004.12.1となっていますが、実際は2005.4に書いています。

昨年十二月、これでもかというぐらいに俳人の訃報が新聞に載り、とどめが四五歳の田中裕明の悲報でした。

今回取り上げた方々の御冥福をお祈りいたします。文章の体裁上、敬称を略させていただきました。

 

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游氣風信 No.179 2004. 11. 1

腰痛とその対応

       ・・・手技療法のために・・・

今月は腰痛についての特集。

このレポートはある治療のグループ指導のために書き下ろしたものです。急いで要点だけをまとめたものですから『游氣風信』として紹介するには多くの加筆を要します。

さらに医学用語だらけですから専門外の人には読みにくいものです。筋肉の知識などあまりお持ちではないでしょうから、ただ読まれても何のことだかさっぱり分からないことでしょう。

そこで、一般の方にセミナーを実施しているように解説を付加してみました。

=================

腰痛は多様な原因によって痛みや運動障害が腰に現れている状態です。この場合の腰とは背中の真ん中辺りからお尻やわき腹を含めた範囲と思ってください。

このレポートでは腰痛の原因をできるだけシンプルに明らかにするとともに、手技による精緻なアプローチで問題の解決を目指すことを目的としています。ただし、具体的な手技に関しては実際に実技講習をしないと伝達は不可能ですので省略します。

腰痛に対しては、西洋医学や東洋医療、その他民間療法などにさまざまな技術があります。

ここでは特に軟部組織(筋肉や筋膜)に対する手技を中心に述べます。

なぜならわたしたちは手技の専門家であると同時に、手による技術は身体に対する親和性や安全性が優れており、とても受け入れ易い治療法だからです。

腰痛の多様な原因

1 筋肉の問題

2 骨格の問題

3 血液・リンパの循環の問題

4 経絡の虚実

5 精神的問題

6 内臓からの反射

7 仕事やスポーツなど偏った動作

8 歪んだ姿勢

9 その他

説明

1 筋肉の問題

筋肉の過緊張(硬く凝ってこわばっている状態)や過弛緩(力なく緩みすぎている状態)が筋肉にさまざまな問題(栄養不足や老廃物貯留など)をもたらすと同時に、骨格や姿勢にも影響を与え、筋肉や関節に偏った疲労を生じます。もともと骨格は筋肉の程よいバランスによって支えられているからです。

背筋群(脊柱・肋骨・骨盤を結ぶ筋肉群)

 脊柱に関連する筋肉群。

脊柱固有筋群(多裂筋 回旋筋 半棘筋など)・・・背骨に直接付着している筋肉。

脊柱起立筋(最長筋 腸肋筋 棘筋)・・・背骨の両側を首から腰まで支えている筋肉。

最も凝りが自覚される筋肉群。

腰方形筋・・・骨盤と肋骨を結ぶ。ウエスト辺りでゴリゴリ凝る筋肉。下肢麻痺の人は

これで下肢を振り回すように動かして歩行する。

殿筋群(腰椎・骨盤・下肢・大腿骨を結ぶ筋肉群)

 骨盤と腰椎や股関節に関わる筋肉群。

骨盤を前傾させる 大殿筋(お尻の大きな筋肉)

骨盤を後傾させる 後大腿筋(太ももの裏側の筋肉)

股関節を支える  梨状筋群(お尻を横に走る深部の筋肉) 中・小殿筋(お尻の側面の筋肉)

腹圧群(腰を前から支える筋群)

 腹には骨格がありません。腹筋だけが頼りです。

横隔膜(呼吸に関与) 

腹直筋(いわゆる腹筋) 

内・外腹斜筋(腹の側面の筋肉)

これらの筋肉が弱ってくると腰痛になり易くなります。

四肢に連絡する筋肉

上肢へ連絡

 意外に思われるでしょうが、骨盤と肩は筋肉でつながっています。腰の問題が肩や首に、あるいはその逆に首肩の問題が腰に、それぞれ影響します。

広背筋(骨盤と腋の下を結ぶ筋肉)

僧帽筋(頭の下から背中の真ん中辺りまでの広い筋肉 肩も包む)

下肢へ連絡

 腰と下肢は直接つながっていますから理解しやすいでしょう。

大腿四頭筋(太ももの前・内・外にある。膝を伸ばす 骨盤の前と膝を結ぶ)

大腿筋膜張筋(足の付け根外側)

縫工筋(太ももを骨盤外側から膝の内側へ斜めに走る)

薄筋(太ももの後内側を骨盤から膝へ)

半腱半膜様筋(薄筋と平行)

後大腿筋(太もも裏側骨盤から膝へ 膝を曲げる)

内転筋群(股関節から太もも内側へ 足を閉じる)

恥骨筋(恥骨から太もも内側)

股関節へ連絡

大殿筋(お尻の大きな筋肉 足を後ろに蹴りだす あるいは体を反らす)

中・小殿筋(お尻の外側 足を開く)

梨状筋群(お尻を斜めに走る 股関節の運動)

2 骨格の問題

   骨格筋のアンバランスや内臓からの反射が筋肉の状態に影響し、結果として骨格のひずみを生じ、関節にストレスが生じて痛みます。

腰椎の前弯(反り腰) 大腰筋 大殿筋 大腿四頭筋などの過緊張

腰椎の後弯(腰曲がり) 腹筋群 ハムストリングなどの過緊張

◎上記のふたつは拮抗するので一方が過緊張なら反対側は過弛緩であることが多いのです。

腰椎の側弯(横に曲がる) 腰方形筋 脊柱起立筋 中・小殿筋 腸脛靭帯などの過緊張もしくは反対側の過弛緩。

脊柱の側弯(背骨全体が曲がる 多くはS字になる) 起立筋群 固有筋群 広背筋などが複雑に作用。

3 血液・リンパの循環の問題

筋肉や筋膜の緊張や緩みにより筋膜間隙の狭窄が生じ、血管を圧迫します。それによって血流が阻害されるのです。同時にリンパの流れも阻害され循環不良が生じます。

 血液やリンパは筋肉の収縮で流れます。過緊張は筋肉の膨張を生み、間隙が狭くなりますし、過弛緩は筋肉の隙間が空きすぎ、筋肉の収縮運動(ミルキング・乳搾り運動)がうまく働かないため、血液やリンパの巡行が悪くなるのです。

そうなると組織において必要な栄養や酸素が不足し、老廃物は貯留し、さらに筋肉の状態を悪くします。そこからこわばりや痛み、運動障害が派生します。

体液の不足や循環不良があると、筋膜の滑動性(滑らかな動き)に破綻を生じます。そうなると筋肉同士の擦り合わせが滑らかに行かないため栄養の運搬や老廃物などの処理に手間取ることになります。

4 経絡(けいらく)の虚実

 中国医療の考えでは経絡という十二本の線が身体を縦横に走行しています。その多くは筋肉と筋肉の隙間を走行します。その隙間には神経や血管が走り、リンパが巡行します。

 腰に関わる経絡の走行は以下の通り。

後面 督脉(背骨の真上) 膀胱経(背骨の両側)

側面 胆経(身体の側面) 肝経(下肢の内側)

前面 任脉(身体の正面正中線) 腎経(下肢の後内側 身体の正中線両脇) 胃経(身体の正面乳の線) 脾経(胃経と並列) 肺経(胸から拇指へ)

 経絡は内臓と体表とを結ぶものでもあります。鍼も指圧も経絡の緊張度(虚実)を調整することで身体調整をおこないます。

5 精神の問題

 精神的な緊張は筋肉の緊張を招きます。緊張は個々のタイプによって腰に出たり胸に出たり頭痛となったりします。ですから精神的ストレスは腰痛の原因として侮れないものなのです。だからといって原因を安易に精神面のみに求めることは危険です。

 

 精神的ストレスとはたとえば以下のようなものです。

◎職場や家族の人間関係や労働・居住環境

◎ 完璧主義や悲観的などの性格

その人の思考の癖や反応が身体化し、筋肉の緊張バランスに影響するのです。

6 内臓の反射

 内臓体壁反射といって、内臓の問題が筋肉の凝りや痛みとして派生することがあります。

それが腰痛を発症します。これは可逆的なもので、その凝りや痛みなどに適度な刺激を加えることで内臓の調整も可能です。

これらは関連する経穴(ツボ)により調整します。

対応方法

 いわゆる治療技術です。以下のことが考えられます。

◎筋肉や筋膜の過緊張や過弛緩の調整

 鍼灸、マッサージや指圧、テーピングなどで対処

 過緊張のこわばった筋肉に注意が向き勝ちですが、実はそれを緩めるポイントは過弛緩の筋肉、あるいは筋肉の隙間にあります。指圧もマッサージもそこを目標に刺激を加えることで、過緊張の筋肉を緩めることが可能です。いわゆる筋肉を揉みほぐすという行為は避けます。揉みほぐすと気持ちよく爽快感もあって、マッサージを受けた満足感を得ることが可能ですが、あまり強い刺激は筋肉の炎症を起こし、筋線維や毛細血管に傷を造ってしまいます。

 揉みほぐしは治療ではなく、慰安行為なのです。

◎経絡の虚実調整

 鍼灸マッサージ指圧などで対処

 経絡の過緊張を「実」、過弛緩を「虚」といいます。「虚を先にして実を後にする」という古典の教えの通りに行います。身体調整は基本的に虚の経絡を先に深く静かに持続的に圧し、実の部分が自然に寛解していくのを待ちます。これを「虚実補瀉」といいます。

◎骨格や筋肉に静かに深く影響を与えるストレッチ

 ストレッチの基本はあくまでもしずかに心地よく、深い呼吸とともに行うことです。ストレッチで筋肉を痛める人も多いので無理をしないことです。

◎血液やリンパの循環を助ける運動

 あらゆる適度な運動は循環の促進をします。体力に合わせてやりましょう。

◎横隔膜や深部筋群への呼吸法

 呼吸法は指圧の届かない深部の腰(腸腰筋)の筋肉をほぐす効果があります。

 呼吸の基本は鼻呼吸です。身体を風船のようにイメージします。風船が膨らむように息を吸い、しばらく止め、風船が萎むように吐きます。踵から吸気するというイメージも有効です。手の動きなどを加えると気功になります。最初は2分位、慣れたら徐々に長くしましょう。

◎精神安定のための呼吸法

 深く静かな呼吸は自律神経を安定させ、気分を安らぎの方向に導いてくれます。

 鼻の穴を片方ずつ使って呼吸します。左の鼻の穴を押さえ右で吸い、右を塞いで左で吐く。左で吸って右で吐く。これを2分位繰り返します。慣れたら長く継続。

注意

腰痛は腰のみの問題ではなく、全身の筋肉、筋膜や内臓、経絡とつながっているので部分に捕らわれないことが大切です。

夜間痛・安静痛は内臓の重篤な問題を孕んでいることもあるので専門医への紹介も考えます。

次第に症状が憎悪する場合も精査が必要です。

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游氣風信 No.178 2004. 10. 1

花粉症と中医学

 今年は杉花粉の当たり年だそうです。

早々とマスコミが脅迫的に花粉症の注意を呼びかけています。それがあまりに頻繁なので、かえって人々の心配を煽り、気分的にもアレルギーが発症しそうではありませんか。

 もはや国民病と言われて久しい花粉症。

予防としてはマスクや眼鏡で花粉を防御するしかない。それでも発症したら抗アレルギー剤。薬の副作用で胃を壊し、運転中に眠くなり、乾燥作用から鼻咽がからからになる。
いずれにしてもうっとうしいことに違いありません。

 既往の方はもちろん未だ発病していない人もいつグズグズクシュンが始まるか気が気ではない病気。

このおぞましき花粉症は俳句の季語(春)としても定着しつつあります。

 花粉症の原因が花粉でなく、工場の排気や排液なら公害と認定されることでしょう。

実際、杉花粉は林業という産業から生み出されたといっても過言ではありません。それならば公害と認定されて然るべきものなのです。

国策により杉の植林を推進したのですから国にも責任があります。しかし公害と認めると医療費の補助が必要になりますから、国としては認めたくないでしょう。

いずれにしても春の風物、国民病というにはあまりの惨状に辟易している方も多いはずです。

                           

花粉症(アレルギー性鼻炎)

 新聞に花粉情報が掲載される花粉症の季節になりました。
 以前は枯れ草熱と呼ばれ、枯れ草に触れると発病すると考えられていましたが、花粉やカビの胞子でも発病し、枯れ草自体には関係ないことが解り、今日では一般にアレルギー性鼻炎と呼ばれ、特に春先の風に運ばれてくるスギやヒノキの花粉によって大発生する症状は花粉症として有名になりました。
 家庭内のゴミ(ハウスダスト)やダニでも起こります。

[症状]
 アレルギー性鼻炎は、くしゃみ発作が繰り返し、水っぱな、鼻詰まり、目の辺りが痒く涙が止まらないなどの症状がしつこく長引くものです。
 命には関わらないとはいうものの、症状が激しいときは仕事や勉強にも身が入らず、辛く憂鬱な毎日が続きます。
 プロ野球ダイエーの監督、田渕さんも現役当時この花粉症に悩まされて成績に響き、大変苦労されたと記憶しています。

[原因]
 スギやヒノキなどの木の花粉、イネなどの花粉 ハウスダスト、そばがらの枕、カビ、犬・猫・小鳥の羽根や糞

[何故最近になって騒がれるのか]
 スギやヒノキの花粉は昔からあるにも関わらず、何故ここ10年位で急激に増えたのでしょうか。

 日本の林業が自然林を伐採しスギやヒノキ中心の植林を行ったために、スギやヒノキがアンバランスに増え過ぎたからだとも、木材不況のために若者が山から都会に出てしまい、山の手入れが充分に行き届かないためだとも言われています。
 であれば花粉の多い山間部に花粉症の患者が多くて、都市部には少ないのが当たり前ですが、現実には都市部で多くの人が鼻炎に苦しんでいるのは何故でしょうか。

 アレルギー性鼻炎は文明病とも言われ、文明国ほど増加する傾向があるそうです。日本もこれで晴れて文明国になったと喜んでもいいのですが、そんなことを書くと患者さんに袋叩きにされそうです。
 文明国では社会の複雑さ、人間関係の難しさ、競争の激しさ、時間に追いまくられる毎日などからストレスが大人から赤ん坊、お年寄りまで耐え切れないほど押し寄せてきます。

 ストレスそのものから発病することはありませんが、そこにアレルギーの原因物質(アレルゲンと呼びます)が絡んでくると、鼻炎に限らずさまざまなアレルギー症状が現れてくるのです。
 その中で、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、涙などの鼻炎の症状を呈すものがアレルギー性鼻炎なのです。

 以上は游氣風信第二号(1990年2月)からの引用です。

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/yuki/y002.html

花粉症のサンプルがダイエーの田渕監督とはいかにも時代を感じさせます。

このときの特集にはとりあえず家庭で対処する方法が書かれていますから参考にしてみてください。

しかし今月再び十五年の歳月を経て花粉症を特集する以上、家庭療法に留まらず、その発病機序について漢方の立場から考察してみようと思います。そこから治療法も浮かび上がらせる予定です。

西洋医学による花粉症の説明

 スギ花粉症は1964年、東京医科歯科大学耳鼻咽喉科助教授斉藤洋三先生によって提唱されました。しかし、杉に限らず植物の花粉をアレルゲンとする病気はすべて花粉症です。スギの花粉は2月から5月、ブタクサは8月から10月、イネ科の花粉は4月から11月、ハンノキ属は1月から5月と年中何らかの花粉が飛散しています。スギが特に問題視されるのはそれが人為的に多量に植樹されたいわゆる公害だからに違いありません。

花粉症の症状は熱はなく鼻汁・くしゃみといった感冒症状が毎年、一時期に認められます。同時期にこうした症状があるなら花粉症とみていいでしょう。アレルギー性鼻炎のひとつです。

発症機序は以下の通りです。

先ず病因抗原(アレルゲン)が体内に取り込まれ、特異的IgE抗体が産生され、鼻粘膜組織内の肥満細胞や好塩基球と結合することでアレルギーの下地ができます(感作)。浮遊抗体が鼻腔から進入し、抗体と結合すると、肥満細胞や好塩基球からヒスタミンに代表される化学伝達物質が放出され、くしゃみや鼻汁といった即時相反応がでます。その後、鼻粘膜に肥満細胞などから放出された物質により好酸球浸潤が誘導され、組織内で慢性的炎症反応が生じ、結果的に鼻閉症状がでます。これを遅発相反応といいます。

くしゃみ、鼻汁、鼻閉が三主徴で、付随症状として嗅覚減退、頭重感、微熱、咽喉

 

・眼の掻痒感があります。

以上は厚生中央病院荒木進先生の論文『医道の日本』2003年2月号に準拠しています。

治療は花粉の被爆を避けるために眼鏡やマスク、洗濯物を外に干さないなどの工夫が必要となります。室内に洗濯物を干すことで侵入した花粉を吸着するという方法もあります。空気清浄機も有効でしょう。

薬物としては抗ヒスタミン剤などが市販され、医師からも投与されます。さらにステロイド剤も出されますが慎重な使用を要します。

中国医学的考察

中国人鍼灸師李昇昊(りすんほ)先生によれば花粉症の発症機序は

1 脾肺の気虚もしくは衛気の不足があると外邪を引き寄せる。

2 外邪を直接吸入すると鼻に外邪が集中し、それを追い出すためにくしゃみが出る。

3 風寒の勢いが強ければ、鼻汁が出て、衛気(陽気)が抵抗すると化熱して鼻づまり。

4 正気が弱いと外邪がいきなり体内に侵襲し悪感・発熱・頭痛・喉の痛みとなる。

5 いずれにしても「内傷なければ外感なし」

                                   (参考は『前掲書』)

 ということですが用語が全く分かりませんね。説明します。

中医学

 中医学は生命観と捉えることができます。病気や症状を考える前にいのちを根管にした生命哲学といえるのです。そこが自然科学に立脚した西洋医学と根本的に異なるところです。

 中医学では人間の生命の根源的な力を次のように考えます。ひとつは親から受け継いだ「先天の本(もと) 別名元気」。今ひとつは生まれてから間断なく取り込む呼吸や飲食による「後天の本 別名天の気及び水穀の気」。中医学による養生とはいかに「先天の本」を消耗させないかに尽きるのです。

 「先天の本」は腎に宿り「後天の本」は主として肺と脾に属します。

 詳細は説明するときりがない上に私自身にそこまでの力もありませんから深入りはしませんが、これらの腎と脾と肺を中心にさまざまな臓器の現象を陰陽五行で説明するのが中医の基本です。

 では、先ほどの花粉症を中医はどのように説明しているのでしょうか。一つの例を述べます。

花粉症は鼻汁の発生が基本的な問題を生じます。中医学ではこのような原因となる水分を「痰」といいます。「痰」とは過剰な水分のことで、これがいろいろな悪さをすると考えるのです。

「痰飲」ともいいます。

 「痰」の発生には「三焦気化」という機序が考えられています。

 わたしたちは食物を摂取します。それは胃の仕事です。飲食物から津液(しんえき)という液体成分が生じます。津液は全身に満たされている水分のことです。血液以外のすべての水と思っていただいていいでしょう。

 この津液は脾によって肺に運ばれます。ただしここでいう脾とか肺は西洋医学の脾臓とか肺臓とは全く別物と考えてください。もともと漢方医学の用語を強引に西洋医学の内臓に移行したので混乱します。ここでは全く別物と認めておいてください。

 津液は脾によって肺に運ばれ、肺の宣散作用によって全身に散布され、粛降作用によってしずかに調整されながら下降していきます。そのとき心の推進作用がそれを推し進めます。

  全身に回った津液は膀胱に貯留し、腎の作用で排泄されます。

 この一連の調整過程を三焦気化と称します。その調節は肝が司ります。

三焦気化には全身の臓腑が関与するのですが中でも肺・脾・腎が主として働くのです。

 それらの作用が滞りなく進めば津液は全身を巡り、代謝、排泄されるので問題はないのですが、停滞が生じたとき「痰」が生まれます。

 「痰」は脾に生じますから「脾は痰の源」であり、「痰」は肺に貯留するので「肺は痰の器」とされます。この「痰」によってさまざまな症状が発生するのです。それが鼻や咽に集中すると花粉症の症状になります。

(以上は江川雅人先生の論文『疾患別治療大百科6』医道の日本社を参考にしました)

 そこで先ほどの中医学の先生の解説に入ります。

脾肺の気虚もしくは衛気の不足があると外邪を引き寄せる。

 脾や肺の弱りにより「痰」が生じて外部からの影響を受けやすくなる。

外邪を直接吸入すると鼻に外邪が集中し、それを追い出すためにくしゃみが出る。

 鼻に「痰」があり、外邪が集中。それを何とか排除しようとして生理的な反応としてくしゃみが出る。

風寒の勢いが強ければ、鼻汁が出て、衛気(陽気)が抵抗すると化熱して鼻づまり。

 寒さなどの影響により体が冷え、鼻汁が出てくる。逆に体内の熱気が盛んな人は鼻汁

が外に出ないで鼻づまりになる。

正気が弱いと外邪がいきなり体内に侵襲し悪感・発熱・頭痛・喉の痛みとなる。

 正気とは生命力が充実していること。病気(外邪)を寄せ付けない状態。生命力が弱いと外部からの影響が一気に体内深く侵襲して悪感・発熱・頭痛・喉の痛みが出る。

いずれにしても「内傷なければ外感なし」

 内傷とは感情が激するために内臓が傷つけられること。喜怒憂思悲恐驚の七情をいう。外感は外部の変化によって影響を受けること。風寒暑湿燥火(熱)の六淫をいう。淫はしみこみ、おかすこと。「内傷なければ外感なし」とは心を平安にしておれば外部環境がどんなに悪くても影響を受けないということ。

 以上のように説明できるでしょう。

 六淫はさまざまなストレスと置き換えることが可能です。ストレスは肝に影響します。すると肝の気が激しく動揺します。その気は肝で増幅し強くなります。肝の気が滞ることを肝気鬱結、その気が燃え盛ることを肝欝化火といいます。

 肝の気が高まると五行説に基づいてその子である心に影響を与えます。それで心の火が強くなります。これを心火上炎と呼びます。

 心の火は胸にあり、下腹部にある腎の水と交流することで調整されているのですが、心の火が強くなりすぎると腎の水との交流がうまくいかなくなります。これを心腎不交と呼びます。

うまく交流していれば心腎相交です。交流の場を丹田と呼びます。

 心の火が降りてこないと腎の陽気が足りなくなり身体が冷えます。これが腎陽虚です。それにより水液が停滞し「痰」が生じるのです。それが外部化して鼻汁となるのが花粉症です。

治療

 原因に基づいてさまざまな対応が考えられます。中医学では花粉症に限らず病気の発生の機序を次のように考えます。

(参考 『中医学による花粉症治療』郭義 原田浩一著)

1 自然環境への適応力の低下

六淫(風寒暑湿燥火)により肺の宣散(津液を全身に運ぶ作用)失調を引き起こし、衛気(外からの影響から身を守ろうとする気)が鬱滞する。

2 過食 冷食

脾の水液運化機能の低下は、気血の生成のさまたげとなり、衛気不足による衛気虚となる。

1,2により防衛力が低下し、花粉が侵入しやすくなる。

3 ストレス過剰

ストレス過剰は肝気の鬱滞を引き起こし、脾に影響する。すると脾の運化機能が低下し、気血の生成不足や水湿が停滞し、痰(無駄な水分、毒となる)が生じる。痰は肺に貯まり、肺の宣散失調を引き起こし、脾から受け継いだ水液が肺に停留する。

4 精神活動の興奮

過剰なストレスは肝気鬱結となり、長期化すると肝鬱化火へと移向(五行説による イライラが爆発するような状態)。精神活動をつかさどる心への病態へ発展。心の生理機能である神志すなわち精神活動のオーバーヒート心火上炎となる。

5 過労 睡眠不足

不摂生が腎陰の不足を招き、熱、燥、風の陽像を生み出す。腎は親から受け継いだ気(先天の気)の宿るところで、その陰陽が身体機能に大きく影響する。腎陰とは体を冷却する作用。腎陰が不足すれば体が火照る。

6 冷飲 薄着

冷たい飲み物や体を冷やす食べ物の過食、足元の薄着や冷房のきかせすぎは腎陽の不足による水湿不化を引き起こす。体内に余分な水分をため、肺の宣散や粛降、すなわち息を吸い込んで全身に送ったり、体内の水を下に輸送する作用の機能低下を招く。

 治療は以上のタイプを検討し、単独もしくは複合する原因を見出し、それに対応することになります。

 症状の激しいときは標治と言って症状に即応して治療します。毎日治療することが理想です。

体質を変えて根本から対峙することは本治と言い個別のタイプ(証という)に応じて対処します。こちらはシーズンに限らずこつこつと定期的に継続していきます。運動や食事、呼吸や精神安定など幅広く取り組むことが必要です。

後記

 中国には昔からのさまざまな「伝統医療」がありました。それが日本に輸入されて、日本独自「漢方」として発展も遂げました。鍼灸も同様に輸入されたあと、連綿と継承されただけでなく、昭和になって精鋭の鍼灸師たちが古典的治療を復興した「経絡治療」と呼ばれるような技術もあります。

しかし「中医学」は中国伝統医療でも日本の漢方でもありません。中国政府の肝いりで整理統合されたものです。毛沢東主席たちは、長征のときに自分たちの命を救ってくれた伝統医療を国策として整理統合し、国家建設の要としたのです。

「中医学は中国人民の宝であり、人類の財産である。よって、祖国医学と呼ぶ」と宣言し、中国全土の中医学理論を統一し、なおかつ 各地に中医学院を開校していったのです。

近年になって、中国医学が国際的になるにしたがって国際共通理解のためのテキスト必要になってきました。そこで中国政府により統一された「中医学」が着目されてきたのです。「中医学」の利点は湯液、鍼灸、運動法すべてに共通する理論をもっていることです。

わたしが親炙した指圧の恩師増永静人先生は類まれなる才と努力で、御自身なりの漢方指圧を整理統合されましたが、それは増永先生のオリジナルであって他の分野の方との共通理解のた

めの用語や見解を持ちません。同様に鍼の流派でも漢方薬の派閥でも共通の理解が困難なのです。

最近、日本・中国・韓国でツボの位置が異なるという話題がマスコミを騒がせました。ツボの位置は実践では流動的ですから少々の狂いは構わないのですが、共通の記号として学会発表する時などには困ってしまいます。それで統一する必要に迫られました。

中医学もまさにその統一見解として優れたのです。その考えに賛同異論各種あろうともまずは共通言語として学ぶことは必須でしょう。

その必要からわたしもぼちぼちと勉強を始めたところです。今月は何人かの先達の本におんぶして書き上げました。感謝します。

参考文献

『医道の日本』2003年2月号荒木進 李昇昊

『疾患別治療大百科6』医道の日本社 江川雅人

『中医学による花粉症治療』源草社郭義 原田浩一

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游氣風信 No.177 2004. 9. 1

ケアマネ受験記

 今秋、ケアマネの試験に挑戦し、無事合格できました。ケアマネとはケアマネージャーの略、正式名称「介護支援専門員」のことです。

2000年4月から施行されている介護保険制度の窓口となる資格で、介護保険を利用する方の介護計画を作成し、実際の介護現場での利用者と介護や看護、医療の方々の間に立ってさまざまな調整を行う職種です。

 今年五十歳のわたしは年の初めに半世紀を生きてきたことを記念してケアマネージャーのメモリアル受験を思い立ちました。そして8月から参考書をもとに本格的に勉強を開始、10月24日、全国一斉に実施された試験を受け、幸い12月10日に合格を確認することができました。

 今月号はなぜ今更ケアマネを受験したのか。ことここに至るまでの顛末を書きます。


 たびたび書いていることですが、わたしは鍼灸・指圧の仕事を始めて約二十五年になります。開業と時を同じくして医療保険による訪問マッサージを依頼され、今日まで患者さんが途切れることなく継続しています。延べ人数は何人になるでしょうか。

 游氣風信のバックナンバーにも何度か訪問マッサージについて書いていますからご覧ください。

開業当初、まだ介護の社会制度が整っておらず、寝たきりの患者さんは自宅で家族が世間から隔離するように介護していました。あるいは社会的入院と称して病院の世話になっていました。病院にとっても安定収入として歓迎されたのです。

当時の居宅介護は医師の往診と保健婦の助言だけが頼りという家族の負担の重いものでした。「どのように介護したらよいのか」、「どこに相談したらよいのか」という情報も少なく、患者と家族が手探りで家庭介護を模索していたのです。医師も制度面の専門知識は乏しく、寝たきり防止のために活躍する理学療法士は不足して家庭を訪問する余力がない、そんな状態でした。

そこでわたしども鍼灸マッサージ師にも声がかかったのです。マッサージ師は医師の同意により医療保険による訪問マッサージやリハビリを行うと同時に、極力福祉の知識を収集し、及ばずながら患者や家族の役に立つよう努力してきました。理学療法に関しても名古屋大学病院理学療法部で研修を受け、及ばずながら医療と福祉の狭間を埋める努力をしてきました。

 その後、保健婦が中心となって家庭に篭っている在宅患者を洗い出し、精力的に訪問する時代がきました。それに連関して福祉政策の措置によりヘルパーや福祉用具(介護用のベッドなど)の援助が始まり、居宅における介護負担がかなり軽減されるようになりました。

 わたしは福祉政策からは埒外の存在ですから(縦割り行政により医療と福祉は別々でした)そうした現場の変化を傍観しながら仕事を続けてきたわけです。

在宅療養者にとってヘルパー制度はまさに神の福音のごとき助けとなりました。ご飯を炊くのも大変というおじいさんがヘルパーさんに料理を助けてもらうようなり、
「あの人は神仏だ」
と言ったことを思い出します。

 さらに褥瘡(寝だこ)予防のためのエアマットの貸与。この存在により初めて家庭介護が可能になったといっても過言ではありません。それまで重度の障害を持つ療養者の床は褥瘡による出血で赤く染まっていました。何気なく触れたわたしの手が鮮血で染まったこともありました。

そして2000年の介護保険実施です。これによって福祉と医療が統一され、利用者主体の介護が可能となりました。従来の措置という税金に基づいた援助は、ともすると利用する側にお上(世間)のお世話になるという後ろめたい感覚がありました。しかも行政主体で利用者の意向が反映されにくかったのです。

しかし介護保険は国民に掛け金を納める義務が生じる代わりに権利としての介護を利用者本位に運用できるという大変革をもたらしたのです。

同時に民間活力の有効利用として一般業者の参入が容易になると同時に、競争によるコストダウンが期待されました。

これは介護保険の明の部分。暗の部分としては財源の確保の問題、自立支援という介護保険本来の目的が逆に介護される甘えから自立心を衰えさせているという矛盾。その両者に関わる問題として業者の質と、利潤追求による利用者の抱え込み(保険の無
駄遣い)・・・。こうした点が上げられます。


さて、冒頭わたしがケアマネージャーの試験を受ける目的として五十歳を機縁としたメモリアルのためだと述べました。これは半分正しく、半分は不十分な説明です。言い換えると半分は嘘だということです。

率直に言いますと、わたしがケアマネを受けようと思った第一の理由は粗悪なケアマネに出会ったからなのです。そのことで憤慨していましたら、知人から「そんなことで怒ってないで、自分も資格取ったらどうですか。せっかく受験資格があるのですから」

そうか、それなら自分も取得して同じ土俵に上がろうと思い立った。これが一番の動機なのでした。

介護保険が実施されるようになって多くの利用者は本当に助かっています。それは実に喜ばしいことです。そして病院のケアマネージャーやケースワーカーから訪問マッサージの仕事を紹介していただき今日のわたしの仕事が成立しています。

しかし、介護保険以前と比べると訪問依頼の患者さんが微減しつつあります。これは介護保険により理学療法士が訪問するようになったこともありますが、やはり一番考えられることは施設による利用者の抱え込みでしょう。

それで生まれて初めて営業という試みをしました。あちこちのデイサービスや病院などにダイレクトメールを送り、何軒かのデイケア施設や病院のケアマネージャーを訪問したのです。

デイケア施設はどこも突然の訪問にも関わらず親切に対応してくださり、施設内の見学までさせていただきました。今まで在宅の患者さんと一対一でしか対応していませんでしたから、施設で談笑したりゲームに興じるお年寄りを拝見したのは収穫でした。

ところがある施設を訪問したときのことです。そこは医院から介護療養施設、デイケアまで手広くやっている施設のケアマネージャーを尋ねたときのことです。わたしの名刺を一瞥すると、次のように言いました。

「うちには理学療法士もマッサージ師もいますから、よそに依頼することはありません」

と。そして名刺を返してきたのです。

これは基本的に禁じられている施設による利用者の抱え込みをやっているという宣言に他なりません。しかもそのケアマネージャーの尊大で人を見下したような態度。これは今までお世話になってきた何人かのケアマネージャーとは全く異質のタイプでした。

わたしはそのとき察したのです。マスコミなどでケアマネの質のばらつきが大きいと書かれているのはこういうタイプのことかと。

まあ、この方のおかげでケアマネを受験する動機付けができたのですから今度お会いしたらお礼を言わなければなりません。

そんなこんなで受験に気持ちが動いたわたしは早速書店に行き、ケアマネの資格試験の過去問題集を一冊かって来ました。そしてぱらぱらと解いていったのです。ゴールデンウイークのころだったでしょうか。

すると意外なことに問題がとても簡単なのです。専門分野である医療の問題はともかく、ケアマネの心得や実際の面接に関する辺りは極めて常識的で特に勉強をしなくても誰でもが答えられそうです。後に購入した参考書にも「小学校の学級委員の心得と変わりありません」などと書かれていました。

問題集をざっとやってみて60%以上は正解でした。70%あればほぼ合格圏、80%あれば先ず間違いなく合格だろうとも書いてありました。それなら20%上積みすれば合格するのか、これなら大丈夫だなと何か緊張が溶けた感じでした。

考えてみると二十五年もこの業界にいますから、訪問先で出会う保健師や看護師、介護士、何より療養者やその家族からさまざまな情報を得ています。「門前の小僧習わぬ経を読む」、いつの間にかいろいろな情報を一般の方よりは集積していたのでしょう。ですから過去の問題が意外に簡単に感じたのです。これが治療室だけで仕事をしていたら知らないことだらけでおそらく30%も解けなかったのではないでしょうか。

しかしいささか少し拍子抜けしたわたしは、その後はぼんやりと気が向けば参考書を読む程度で過ごしていました。力が抜けた段階で受験も「何だかどうでもいいや」と感じたのです。根が怠け者ですから・・・。

ところで、そもそもケアマネージャーの受験資格はいかなるものか御存じない方がほとんどなのではないでしょうか。

ケアマネ試験は正式には「介護支援専門員実務研修受講試験」といいます。つまりケアマネの実務研修を受けるための基礎知識があるかどうかを試す試験なのです。

受験資格は医師、歯科医師、薬剤師、保健師、助産師、看護師、准看護師、理学療法士、作業療法士、社会福祉士、介護福祉士、視能訓練士、義肢装具士、歯科衛生士、言語聴覚士、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、柔道整復師、栄養士(管理栄養士)、精神保健福祉士で5年以上かつ900日以上勤務実績のあるものです。その他、定められた施設で10年以上かつ1800日の勤務実績でも可能です。

さらに受験に際して以下の資格保有者にはそれぞれの専門分野が免除となります。
ですから全部受けると60問の問題が次のように減免されるわけです。

医師、歯科医師(医学全問免除40問)

薬剤師、保健師、助産師、看護師、准看護師、理学療法士、作業療法士、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、栄養士、管理栄養士、義肢装具士、言語聴覚士、歯科衛生士、視能訓練士、柔道整復師(医学一部免除 45問)

社会福祉士、介護福祉士、精神保健福祉士(福祉免除 45問)

ということでわたしは医療の分野が免除されました。しかし自分の得意分野が免除されるので決して有利になるとばかりは言えません。大切なのは正解数ではなく正解率ですから、免除されてしまうと一問のミスの占める割合が大きくなります。

医療と福祉の資格を持っている人はさらに問題が免除されるため、よりその影響が増えることになりますから、資格を隠して受験する人もあるようです。

では、受験の話に戻りましょう。問題の低難度から勉強に身が入らなかったわたしもさすがに受験の申し込みを7月末に済ませてからの一ヵ月半は、真剣に勉強をしました。おそらく人生で最も勉強したのではないでしょうか。毎晩12時から2時まで。朝も6時に起きて1時間。その他電車の中、人を待つ間、仕事の空き時間。常に勉強をしました。

ネット上で受験生からどんたく先生と称される医師の書いた参考書を一冊丁寧に読み、予想問題集を解き、理解できない部分は政府関連から出されて基礎テキストに当たりました。予定では一ヶ月で終了するつもりでしたが、実際には2ヶ月近く費やしてしまいました。

その後、改めて過去問題を解いてみました。すると過去数年分の問題、いずれの年次も90%以上の正解率だったのでまずは大丈夫と自信を持って試験日を迎えました。未経験のマークシートの練習もしておきました。

当日の夕方には早くもどんたく先生により解答予想がインターネットのホームページに掲載されました。自己採点で80%は確実に確保できていましたから、一安心。あとはマークシートミスの無いことを祈るばかりでした。

合格発表は早い自治体と遅いところでは半月もずれがあり、愛知県は遅いほうでした。そこで試験の結果を受験者が自主的に書き込んだインターネットの掲示板を見ると、合格最低ラインは約65%だったようです。問題は介護支援分野と保健医療福祉サービス分野の二分野に分けられ、両方が65%ないと不合格だったようです。つまり一方が全問正解でも他の分野が悪かったら不合格になるのです。

12月10日が愛知県発表。運良く合格。最終的に合格した人はおよそ30%だったようです。

2005年には6月2日までに計六回の実務講習があります。それを終了すると一応ケアマネージャー=介護支援専門員と認定されるのです。当分はこのお勉強が忙しいことでしょう。むしろケアマネ試験よりもこちらの方が大変だとは先輩方の忠告です。

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游氣風信 No.176 2004. 8. 1

続・短歌渉猟

 先月に引き続き現代短歌を読んでいきます。

                  

青春詠と言えば真っ先に名前が浮かぶのが小野茂樹。昭和十一年東京生まれ。昭和四十五年交通事故で急逝。

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声 小野茂樹

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 同

 

巨きタイヤ日ざしを浴びて過ぎゆけば路上にくだる空の明るさ 同

このタイヤの歌を詠んでまもなく、予期したごとく車禍で亡くなりました。

奥村晃作は昭和十一年長野県生まれ。

ヤクルトのプラスチックの容器ゆゑ水にまじらず海面を行くか 奥村晃作

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く 同

 こうしたタダゴトが歌になるのですね。なんでもない日常に人の営みの本質が潜んでいるのです。

祖父、父と三代にわたって短歌の世界で名を上げているのが佐々木幸綱。昭和十三年東京生まれ。

サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん 佐々木幸綱

サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず 同

 作者はこのように力強い調べの男歌が知られています。かの俵万智の師匠でもあります。

あしびきの山の夕映えわれにただ一つ群肝一対の足 同

泣くおまえ抱けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ 同

 

この世代は六十年安保闘争の真っ只中にいました。国会への学生デモでは死者も出て、大きな時代の波がうねったようです。その時代を駆け抜け、短歌史上に名を遺したのが岸上大作。

昭和十四年兵庫県生まれ。

意思表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ 岸上大作

 

 寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」に呼応しています。

装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている 同

血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする 同

父の骨音なく深く埋められてさみだれに黒く濡れていし土 同

かがまりてこんろに青き火をおこす母と二人の夢作るため 同

大作は昭和三十五年に闘争の挫折と失恋に苦しんだ末、自殺します。資料に掲載されている写真は繊細な顔に青春の苦悩を刻み込んだようでいたたまれなさを感じます。

 激動の時代にも叙情を愛する歌人たちもいました。玉井清弘はその代表でしょうか。昭和十五年愛媛県生まれ。

荷をひきて港につきし馬の目の動かず海に向けられており 玉井清弘

月光の占めつくしたる庭ゆくにああいずこにもゆきどころなし 同

これらの歌には直接闘争などを示す強い言葉は出てきませんが、それでもなお青春のいたたまれなさ、時代の閉塞感が詠まれています。

彼らの後の世代である高野公彦は(昭和十六年愛媛県生まれ)は時代に流されることのない普遍の世界を心中深くに求めている作家です。その後の世代に大きな影響を与えました。

青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき 高野公彦

飛込台はなれて空にうかびたるそのたまゆらを暗し裸体は 同

少年のわが身熱をかなしむにあんずの花は夜も咲きをり 同

 ここには青春のかがやきとかなしみ、痛みと甘美が歌われています。

ぶだう呑む口ひらくときこの家の過去世の人ら我を見つむる 同

 あるいは血脈の重さ。

白き霧ながるる夜の草の園に自転車は細きつばさ濡れたり 同

ふかぶかとあげひばり容れ淡青の空は暗きまで光の器 同

 みずみずしい抒情は短歌という器を極限まで活用し、さらに可能性を広げたようです。

夜ざくらを見つつ思ほゆ人の世に暗くただ一つある<非常口> 同

 中年以降の作者。現実の重さをもこのように歌に象徴させて詩化します。

 この頃から女性による歌の<身体化>が台頭してきます。与謝野晶子による女性解放の謳歌とは別次元の女歌です。例えば黒木三千代(昭和十七年大阪生まれ)。

あかつきに見たりし夢に乳房を?ぎて祈りのごとく手渡す 黒木三千代

ししむらのま闇羞(やさ)しきくれなゐの卵管なども春はけぶらむ 同

 女性が女性の肉体を生々しく歌い出したのです。後に出てくる数歳若い河野裕子などに連なります。

 黒木と同世代に不思議な存在感のある歌を作った成瀬有がいます。昭和十七年愛知県三河生まれ。

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ 成瀬有

サンチョ・パンサは愚直な主ドン・キホーテに誠を尽くす侍従。この歌の存在感はなぜかわたしを悩ませます。

現代女性の短歌を代表する一人が河野裕子でしょう。ジェンダーとしての女性性および生身の女性性、そのバランス感覚が見事です。昭和二十一年熊本生まれ。

逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと 河野裕子

 女性が男の側からの視点で恋を歌っています。

たとへば君 ガサット落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 同

 このあっけカランとした求愛は過去には無かったのではないでしょうか。

ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり 同

 肉体を詠むとき、女性の大胆さは男の比ではありません。

あるだけの静脈すけてゆくやうな夕べ生きいきと鼓動ふたつしてゐる 同

 妊娠中の歌。これも男には到底詠めない世界です。

われの血の重さかと抱きあげぬ暖かき息して眠りゐる子を 同

 ここでは女性が母性に変換しています。産む性ならではの子供の歌。

君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る 同

 母としての強さ。この妻に打たれた男が永田和宏です。昭和二十二年滋賀県生まれ。

きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり 永田和宏

 なんと優しい恋歌でしょう。河野裕子と比べると男の優しさがにおい立ちます。

あるいはこの歌は人を恋してしまったかなしさを詠んでいるのでしょうか。恋する人に会う前と後ではまるで世界が異なります。権中納言藤原敦忠の有名な歌に「あひ見てののちの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」というのがありますが、まさに恋する人に会うと世界は大きく転換するのです。永田和宏も河野裕子に会って人生が大きく啓けたに違いありません。

きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに 同

スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学 同

 氏は物理学の教授です。河野裕子の炎の重さを測り損ねたのではないかと思うのですがそれはまあどうでもいいことです。

 切れ味が鋭い中にもユーモアを湛えている評論で知られるのが小池光。昭和二十二年宮城県生まれ。一度だけお会いしたことがあります。偶発的な手紙のやり取りも一度だけ。

いちまいのガーゼのごとき風立ちてつつまれやすし傷待つ胸は 小池光

 青春詠の白眉。「傷を待つ胸」というのが骨頂です。

廃駅をがくあじさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり 同

 こうした古格に適う名吟もあれば、

こずゑまで電飾されて街路樹あり人のいとなみは木を眠らせぬ 同

 という歌もあります。こちらは皮肉な視線で表層の奥を見つめる評論家としての矜持が伺えます。

歌壇を超えて広く知られるのが道浦母都子。昭和二十二年和歌山県生まれ。六十年安保闘争の渦中にいた方です。

ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく 道浦母都子

調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる 同

君のこと想いて過ぎし独房のひと日をわれの青春とする 同

 このようなデモや恋、取調室の歌などで知られました。

人知りてなお深まりし寂しさにわが鋭角の乳房抱きぬ 同

君に妻われに夫ある現世は黄の菜の花の戦ぐ明るさ 同

ひと恋はばひとを殺むるこころとは風に乱るる夕菅の花 同

その後はこのような愛を赤裸々に詠んで多くの女性の共感を呼んだようです。この歌は塚本邦雄の代表作「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ」を元にしていると思われます。

地元名古屋で若いときから頭角を現し活躍、さらに将来を嘱望されながら四十代で早世したのが永井陽子。昭和二十六年愛知県生まれ。平成十二年没。わたしは二十年程前にある結社誌で彼女から短歌の指導を受けたことがありました。

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ 永井陽子

 彼女は情感を抑制的に詠みました。

べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊 同

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ 同

 このように新鮮で折れそうな情感が彼女の持ち味でした。

今日を強く見つめ絶えず提言をしている歌人が藤原龍一郎。和二十七年 福岡市生まれ。

ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば 藤原龍一郎

シャボン玉ホリデーのごと牛が鳴きハラホロヒレハレと来る終末か 同

今も電脳日記を以下のホームページで精力的に公開しておられます。

http://www.h4.dion.ne.jp/~rojyo/rink.html

 次にわたしと同世代の歌人を三人。

今野寿美は昭和二十七年東京生まれ。夫も著名な歌人です。

その五月われはみどりの陽の中に母よりこぼれ落ちたるいのち 今野寿美

 いのちを身体感覚豊に表現するのは女性の得意とするところ。

あの夏の言葉よりなほ無防備にさらす咽喉にいま触れてみよ 同

 この歌は冒頭に紹介した「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹」を踏まえているのでしょう。同じ命令形がそれを示しています。

栗木京子は昭和二十九年愛知県生まれ。

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生 栗木京子

 この有名な相聞(恋歌)を詠んだ若き才媛も、

天敵をもたぬ妻たち昼下りの茶房に語る舌かわくまで 同

せつなしとミスター・スリム喫ふ真昼夫は働き子は学びをり 同

扉の奥にうつくしき妻ひとりづつ蔵はれて医師公舎の昼闌け 同

 結婚後は堂々たる主婦振り。専業主婦の外面や内面を余すところ無く詠む作者です。他人からは理解されにくい妻という存在。その鬱屈たる心情や自分自身それとどう向かい合ったかなどマスメディアでも発言されておられます。

水原紫苑もテレビによく出演しています。昭和三十四年横浜生まれ。

われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる 水原紫苑

魚食めば魚の墓なるひとの身か手向くるごとくくちづけにけり 同

 これら艶のある抒情。内容に深みがあり、いたずれに流されていません。

さて、現在最も有名な歌人は俵万智でしょうか。最近は小説も書いています。昭和三十七年大阪生まれ。処女歌集『サラダ記念日』が大ベストセラーになりました。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 同

 以前「游氣風信」にこの歌のことを書いたら知らない少女から意味を教えて欲しいという電話がありました。声の感じでは中学生くらいでした。おそらく宿題かなんかだったのでしょう。

最後に紹介するのは辰巳泰子。昭和四十一年大阪生まれ。この大胆な詠み振りの女歌にはただただ脱帽。
おじさんは尻尾を巻いて逃げるのみです。

青醒めし肉のにほひを放ちをる脱ぎ捨てられし壁ぎはのシャツ 辰巳泰子

乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる 同

困ったときの詩歌頼み。今回も短歌の名吟でお茶を濁しました。文中の敬称は略させていただきました。

雅な和歌の系譜が最後の歌のように自在に人の心を表現せしめる不思議。五七五七七という形式は全く変わっていないのです。人の心は本質的にはさほど変わっていないだろうし、日本語も変節しているとは言え、基本的に日本語であることに変わりはないのでしょう。

俳句や短歌という器は日本語の変節を上手に受け止めてきたのです。そして案外日本語の衰退を食い止める最後の砦なのかもしれません。

参考図書

 『現代の短歌』高野公彦編 講談社学術文庫

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藍生だより  介護の人々

愛知 三島広志 hiroshi mishima

profile:広島生まれの愛知育ち。生まれてちょうど半世紀。人の身体に触れることで口に糊をしている。四半世紀をこの業とともに生きてきた。俳句はもう少し長い。

介護の人々

 振り返ると介護(訪問リハビリ)に係わって四半世紀になる。介護保険ができて四年半、その前の行政措置の時代、そしてその前の家族お任せ、行政放置の時代から細々と続けてきたことになる。

その間にはさまざまな出会いと別離があった。社会の片隅でゴミのように放擲されてひっそりと糞尿にまみれて亡くなった方。布団にこびりついた垢と鱗のように蓄積した皮膚の剥離物に埋もれるように息を引き取った方。これらは家族(多くは配偶者か娘)のみの介護力の限界の中でのことだ。家族が持てる最大の介護力で看取った結果がこうだったのだ。そして家族もぼろぼろに壊れる。

 反対に明るい居間で家族に包まれ、こんこんとひたすら穏やかに眠り続ける要介護者。経済力や家族の介護力の豊かさの恩恵である。近隣の力も侮りがたかった。

 行政とて手をこまねいていたわけではないだろう。その間隙を埋めるべくさまざまな努力をしてきた。それが2000年施行の介護保険という形で一応の成果を生み出した。もっともこの制度も財政難と人員不足で明日の存続は明るいとはいえない。

 そもそも人生の末期を明るく過ごすなどということは可能なのだろうか。冥土への旅と言うならただ冥く暗澹たる思いが湧き上がるほかない。

 ところが、実際にその死生の間際にいて実に明るく強く生き抜いた人たちが大勢いた。今、係わっている方たちも多くはそうである。

わたしの四半世紀はそうした方々との出会いだった。感動をいただいた日々だった。そんな体験から強い人は明るく大らかに、弱い人も愚痴と涙の後、結構したたかに苦難をやり過ごす能力を持っていると学んだ。渦中にある時の困難は別として、後から考えるとみんな揺れながら苦しみながら何とか荒波を乗り切っているのだ。

現在わたしが係わっている方を何名か紹介しよう。もちろん守秘義務があるので名前は明かせない。

Yさん 57歳 男 工務店経営 脳幹梗塞

通常脳卒中では左右どちらかの半身の麻痺が生じる。しかし脳幹という中央で出血したYさんは両側に麻痺が出現した。しかも生命機能の中心部なのでことは重大。結局Yさんは四肢麻痺の上に意識が戻らず、呼吸もままならない状態である。喉に空けた穴から酸素が吸入され、食事は胃瘻(腹から直接胃に穴を開け、管を通して栄養液を注入する)。現在自宅で妻の介護を受けている。
彼女は何の反応もない夫のわずかな変化を見ながらそれを励みに介護している。しかもその状況に愚痴一つこぼさずエステの会社を経営し二十数名の社員の生活も守っている。たいしたものである。ここでの介護力は経済力という余裕もあって現在とてもうまく機能している。一番下の小学四年の息子さんも時に手伝ってくれるのである。

Iさん 78歳 女 主婦 脊髄小脳変性症

 四肢の運動機能が消失していく進行性の病気だ。Iさんは夫と二人暮し。歩行器でかろうじて室内を移動している。そして家事をこなし、手芸で花や人形を作っている。明日の希望はない。淡々と今日を生きている。若者の明日は希望に溢れているが、高齢者の明日は不安に満ちている。それを見ないように暮すのがコツなのだろう。

Hさん 53歳 女 主婦 脊髄小脳変性症

 Iさんと同じ病名だがこちらは遺伝性。昨年兄が同じ病気で亡くなった。叔母も寝たきりだったようだ。彼女は車椅子で台所に立ち(?)夫と息子の食事を作る。女性はこの辺りが強い。他人のために苦労を厭わない。Hさんは達者なお喋りを発揮できる週二回のデイサービスを心待ちにしている。

Sさん 65歳 女 元家政学講師 脊髄小脳変性症

 彼女もまた同じ病気。孤発、つまり遺伝的ではないタイプである。十年前、突然の失禁と転倒で発症した。その時、股関節を折り、人工関節に交換。数年前、呼吸困難になる。現在、酸素吸入。人工呼吸器。中心静脈栄養の点滴。胃瘻による栄養補給。さらに24時間点滴。
まるでICUさながらの状態で在宅介護を受けている。彼女の可能な機能は目とまぶたを動かすことだけである。しかし意識はきわめて清明。生き抜きたいという意思を家族も尊重している。

介護の中心は夫と娘。夫は元国立病院の役職だったお医者さん。主治医はその部下で、娘婿は大学病院の医師。恵まれた環境ではあるが、夫や娘の献身には並々ならぬものがある。

この家族を見ると延命治療に否定的だった主治医も自らの主義を改めざるを得ないとメールしてきた。Sさんは料理を大学で講じていただけあって料理番組を観るのがお好きなようであるが、彼女の口には何も入れることはできない。誤嚥性肺炎が怖いからだ。たまにアイスクリームなどを一滴二滴と舌に乗せてもらっている。

Aさん 59歳 男 元リサイクル業 モヤモヤ病 脳梗塞 クモ膜下出血

 頑健なAさんも八年前立て続けに脳の血管障害を起こし倒れた。右半身の麻痺で言語も不自由になった。いつまで経っても動くようにならない手足に向かって怒っている。そして痛みに耐えながら関節可動域拡大のため運動に励む。少々の痛みにはへこたれない。彼の楽しみは車椅子での散歩。片手片足で上手に漕げるのである。そして近くの運送屋の自動販売機でお茶を買う。社員販売用で市販より安いからだ。社員でない彼も黙認されている。さりげない近所の温情だ。

Tさん 64歳 元会社員 男 全身性エリテマトーデス 脳梗塞

 秋田出身のTさんは広島出身の奥さんと結婚した。ゆえにこの夫婦の会話は実に分かりにくい。もっとも両親の広島弁に親しんだ私には奥さんの言葉はよく分かる。問題はご主人。

まるで外国語のようだ。しかも歯がほとんどないから始末に悪い。陽気なTさんはいつも笑っている。時々犬の遠吠えや牛の声を出して奥さんに叱られる。唯一動く右手が時に女性のほうに伸びて悪さをするので、また奥さんに叱られる。痴呆ではないのに痴呆老人の真似をするからだ。だがそんなことでめげるTさんではない。今日もデイサービスで大人気なのである。

 

 こうしたすばらしい人と出会うことで、実はこちらが励まされている。これは多くのケアに携わる人たちの共通見解だ。そしていつかは自分自身も介護される側に回る。その時、果たして周囲の人を明るくできるだろうか。

 それは今の一日一日の過ごし方の決まってくるのだろう。

                                                  (終)

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游氣風信 No.175 2004. 7. 1

短歌渉猟

 梅雨さなか名古屋在住の著名な歌人春日井建氏が亡くなりました。22歳の時、歌集『未成年』で颯爽と現れ、歌壇を席巻した後、卒然と短歌界を去り、その後再び舞い戻るというまさに彗星のような方でした。享年65歳。

歌の世界ではこれから円熟味が出てくるというまことに惜しい若さです。

 最晩年は大病をされながらも闘病と同時に後進の指導や御自分の創作と壮絶な日々を過ごされたようです。

 『未成年』は序に三島由紀夫の「われわれは一人の若い定家をもつたのである」という礼賛を抱いており、そのデビューからしてすでに伝説となりました。

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり


だれか巨木に彫りし全裸の青年を巻きしめて蔦の蔓は伸びたり


火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり


蒸しタオルにベッドの裸身ふきゆけばわれへの愛の棲む胸かたし


男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ


赤児にて聖なる乳首吸ひたるを終としわれは女を恋はず


少女よ下婢となりてわが子を宿さむかあるひは凛々しき雪女なれ

これらの歌にみるセクシャルで妖しいエロスの世界は短歌の世界に驚愕を与えたことでしょう。

一度だけ春日井氏をお見かけしたことがありました。短歌の全国大会の折に壇上の氏を遠くから。結局それっきりで直接近くで謦咳に触れる機会はありませんでした。

その短歌の会は氏を中心とした「中の会」主催でした。「中の会」とは中部地区の歌人集団です。今でもあるかどうかは知りません。

その日、氏は寺山修司作の劇を演出されました。白と青の色彩を基調とした前衛的・幻想的で怪しい劇を観た帰路、頭を冷ますために次のような短歌を作りました。今から実に20年以上も前のことです。

歯冠まだ馴染まざりせば舌で嘗め寺山修司の青き劇観る 広志

そして月日は流れて数年前、俳句に奥行きや広がりを与えようと短歌の勉強を再開した際、迷わず春日井氏の主宰される「短歌」に入会しました。そこに一年ほどまじめに投稿し春日井氏の選を受けたのでした。その時点ですでに氏は闘病に入っておられました。

新聞で氏の訃報に接した時、いよいよその日がきたのかと深くその氏を惜しみ

春日井建死す空梅雨の星の下 広志

という句を作って哀悼したのでした。氏の生身の人生はさまざまな苦悩と喜びに綾なされていたことでしょうが、他人から見ると、そのあり方はこの上もなく美しかったのでした。そこで「空梅雨の星」という美辞を用いざるを得ませんでした。

 さて、春日井建氏の訃報を縁に今回は短歌を渉猟してみようと思います。というより気に入りの短歌を脈絡無く、解説もほとんどせず羅列していきます。短歌のお好きな方はお付き合いください。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱

白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのづからなる 同

 佐々木信綱は明治五年三重県鈴鹿市生まれ。父が弘綱、子が幸綱と歌人一家。幸綱は俵万智の師。昭和三十八年没。

髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ 与謝野晶子

 与謝野晶子の歌は抽出していったらきりがありません。膾炙した句が豊富です。

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 同

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 同

やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君 同

金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に 同

 晶子は明治十一年大阪堺の生まれ。昭和十七年没。

赤光のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきこころにか似む 斎藤茂吉

しろがねの雪ふる山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな 同

斎藤茂吉は精神科医。息子にモタさんこと精神科医の斎藤茂太や作家の北杜夫がいます。明治十五年山形県生まれ。没年は昭和二十八年。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 同

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも 同

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 前田夕暮

 高校受験によく引用されていた記憶があります。前田夕暮は明治十六年神奈川県生まれ。昭和二十六年没。

明治十八年宮城生まれの若山牧水も人気の高い作家です。

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 若山牧水

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく 同

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼のなき魚の恋しかりけり 同

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 同

 白玉の歌は酒飲みの愛唱歌です。

園丁が噴水のねぢをまはすとき朝はしづかな公園となる 前川佐美雄

いちまいの魚を透かして見る海は青いだけなる春のまさかり 同

 前川佐美雄は明治三十六年生奈良県に生まれ平成二年没。静謐な感性が日常を詩に化しています。

白い手紙がとどいていて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 斎藤史

わが身よりたちてかなしき人の香は恥づべきごとし森のふかきに 同

 斎藤史さんは明治四十二年東京生まれ。没は平成十四年。

馬駆けて馬のたましひまさやかに奔騰をせりしたりや!<葦毛>

情念の歌人でした。

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美

 有名な青春詠かつ相聞(恋の歌)です。近藤芳美さんは名前が女性のようですが男性です。大正二年韓国生まれ。最近歌集を出されました。

国の蜂起たわむれに似て湧く声をわけ行く戦車笑わざる兵 同

 戦後は思想性の濃い歌を詠まれました。表記も現代表記に変わります。

こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた 山崎方代

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり 同

一粒の卵のような一日をわがふところに温めている 同

 俳句の山頭火と並び評されることの多い短歌の山崎方代。大正三年山梨生まれ。昭和六十年没。戦争でほとんど視力を失ったが歌境は自在でした。

 戦後歌壇に燦然と輝きをもって登場したのは中城ふみ子と寺山修司でしょう。

灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ 中城ふみ子

ひそひそと秋あたらしき悲しみよ例へばチャップリンの悲哀の如く 同

もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず 同

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ 同

 昭和二十九年刊の歌集『乳房喪失』は歌壇を超えて話題となったようです。わたしの生まれた年です。大正十一年生まれのふみ子は乳がんで昭和二十九年に亡くなりました。

遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ 同

 ふみ子より十歳以上若い寺山修司は同じ頃頭角を現します。大学一年生でした。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし 同

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ 同

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし 同

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき 同

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 同

 引用し出したらきりがありません。寺山修司は昭和十年青森県生まれ。昭和五十八年に夭折します。ふみ子といい修司といい天才は夭折するという言葉のままにこの世を行き急ぎました。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき 同

 修司の作品は他人の作品を無断借用して演出しています。それを剽窃(ひょうせつ・他人の詩歌・文章などの文句または説をぬすみ取って、自分のものとして発表すること)だとの批判もされましたが、次第にその価値を認められてきました。原作よりさらに広い世界の構築に成功したからでしょう。

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游氣風信 No.174 2004. 6. 1

游氣塾の変遷

 游氣塾とは何かと問われることがあります。率直に答えますと游氣塾にはこれ
といった実体がありません。概念はありますが、実際に游氣塾としての活動はほとんどしたことがないからです。

しかしこの説明ではあまりに不親切ですから今月は簡単に言及しようと思います。

 先月が指圧教室の変遷でしたからそれに絡む内容にもなります。

以前『游氣風信』で游氣塾について説明したことがありました。ずいぶん前のことです。今月はそれとかなり重複することになりますが、かまわないでしょう。昔の文章ですから誰も記憶していないでしょうから・・・。

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/yuki/y100.html

では最初に游氣塾の趣意をまとめた文を掲載します。

《游氣塾》
[生きる場の解放・生きる方向の発見・生きる活力の養成]を求めて                       


我々は生きていく限り<身体>の問題を通過する訳にはいかない。そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。

 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。
即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。

 否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。それに応えるべく、<身体>は完全なる世界を体現しているのだ。

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。
――――――――――――――――――

 何度読み返しても気恥ずかしい文章です。なにしろ27歳の頃に書いた若書ですから、勢いと気負いがないまぜになっています。それから四半世紀近く経ちました。その間この檄文はよきにつけあしきにつけ、わたしに影響を与えてきました。一つの自己規範となっていました。

 もちろん当初書いたものに後から加筆訂正しています。こちらの考えも変化してくるからです。

 では何故こんな文章をまとめたのでしょうか。

先月書いたようにわたしは増永静人という経絡指圧の創始者に親炙していました。ところが先生が夭折され、わたし自身この先何をどう学んでいったらいいのか困ってしまいました。人生の路頭に迷ってしまったのです。そこでさまざまな出会いを求めてさまざまなジャンルの勉強をしました。増永に替わる先生が必要だったからです。そんな中で出会った一人が坪井繁幸(現在は坪井香譲)先生だったのです。

時間を少し遡行します。

学生時代、ある印象的な論文に出会いました。当時の若者の思想的カリスマだった吉本隆明(吉本ばななの父上)編集の『試行』という雑誌に連載されていた『武道の理論』です。著者は南郷継正。たまたま大学の図書館で見つけたこの論文にわたしは欣喜しました。

それまでの武道論といえば、中国の古典の焼き直しか禅書の孫引き、あるいは道歌などで曖昧模糊と表現されていたのが大部分だったのです。そんな旧来の武道論に対して、南郷氏の『武道の理論』は当時隆盛だった弁証法という快刀を引っさげて武道を乱麻するという画期的なものでした。

率直に言って弁証法と言われてもよく分かりません。たとえばマルクス経済学のテキストの冒頭には「商品には価値と使用価値がある」などと書かれています。そしてこの例のようにあるものごとの中に二つの異なったものを見出しながら発展的に論を展開する思考方法が弁証法だというのです。

ここに高級万年筆があるとします。この万年筆には字を書くという価値があります。それと同時に5万円という交換価値があります。ものごとには全てこのような二面性があります。その二面性を明らかにして矛盾を止揚し、絶え間なく思考の発展性・運動性を維持していくことが弁証法なのだそうです。

簡単に言えば「三人寄れば文殊の知恵」を一人の頭の中でやっていると思えばいいでしょう。かなり強引な解釈ですが。

いずれにしても弁証法などというものは頭が痛くなるものでしかありませんでした。しかし『武道の理論』では、難しい弁証法が興味の湧かない経済学でなく大好きな武道で駆使されているのです。これなら面白いに決まっています。そしてその当時、この本をきっかけにさまざまな武道論が書店に並ぶようになりました。それは旧来の極意書の翻訳ではなく、著者たちの身体を通して書かれたものだったのです。

そんな中で坪井繁幸という人の『極意』という本に出会いました。これは弁証法を前面に出したものではありませんが、武道やスポーツ、踊りや職人技などさまざまなジャンルの奥底にはある種の共通点を見出すことが可能であるという内容でした。その思考法は常に体験を踏まえた上で、常識を超えた世界を見出そうとするもので、あきらかに弁証法を薬籠中のものとし手駆使されていました。

坪井氏はその共通項を後になって「身体の文法」と名づけましたが、それぞれの分野を貫通するある種の普遍性を見つけるという点では『極意』も『武道の理論』と同様に科学的思索の本でした。

こうして武道論や身体論に馴染んできたわたしが数年後、『極意』の著者である坪井先生と懇意になろうとはその時点では思いもしなかったことです。

坪井先生が『極意』の次に出された本は『黄金の瞑想』というタイトルでした。内容は身体操法の具体的なエッセンスで、今日の古武道ブームの萌芽となるものでしょう。

当時、まだ増永先生はご存命でしたのでこの本の紹介をした記憶があります。この本は増永先生の『スジとツボの健康法』と同じ潮文社から刊行されています。それまで指圧という世界にどっぷりだったわたしは指圧で学んだ本質的な部分は身体の文法として普遍化できるというヒントを得ました。そして増永先生にもぜひ広い世界で活躍していただきたかったのです。

増永先生は学者でしたから、指圧の理論を普遍化して医療の中に位置づけされようと死に物狂いの努力をされました。そして増永先生の成果は医療に留まるものではないということを坪井先生の著書から知ることができたのです。これは大きな喜びでした。視野がぱっと開けた思いがしました。

ところがその後、ほどなくして増永先生が亡くなられたので、舵を失ったわたしはしばらく迷走することになります。

そんなわたしの羅針盤になったのが『黄金の瞑想』でした。

率直に言って初めて『黄金の瞑想』を読んだ時は前著『極意』とのあまりに乖離した内容に戸惑いました。しかしこれこそが『極意』に繋がる具体的方法なのだろうと気を取り直して読んだのでした。そんな折、タイミングよく知人が名古屋に坪井先生を招いてセミナーをするから参加しないかと声を掛けてくれたのです。

これが坪井先生との出会いでした。

その後二年くらい、月に一度名古屋にお越しになるたびに我が家にお泊りになり、早朝近所の空き地で一緒に稽古をしたものです。通学の高校生がじろじろ見て通り過ぎるのが恥ずかしかったのですが、坪井先生はなんら意に介すること無く稽古をされます。探求者とはこういうものなんだなあと妙な感心をしたものでした。

その頃先生の求めておられたあらゆる分野に共通する身体原理「身体の文法」を具体化したエクササイズは「身体気流法」とか「気流身体法」と呼ばれていました。無頓着な先生はきちんとした名称も付けておられず、ある著名な編集者が便宜上名づけたのです。

 坪井先生の考えの中にとりわけ強く共感する部分がありそれが前述の游氣塾の趣旨にある[生きる場の解放・生きる方向の発見・生きる活力の養成]を求めてになります。

これはほとんど坪井先生の文の焼き直しで、先生の許可も得てあります。それまで「指圧は治療である」という部分にこだわっていたのですが、治療とはもっと視野を広く持って、生きること全般から考えないといけないと気づいたのでした。そしてそのことは以前聞いた増永先生の第一回のセミナーの話でもあったのです。

それで坪井先生の許可を得たわたしは「気流身体塾」という塾を興しました。そこは治療だけでなく治療技術を通して人とどのように交流していくかを考える場にしようと思ったのです。物の修理をするような治療ではなく、「いま、ここに生きている人とどう交流するか」を考えることが大切だからです。そしてこれも増永先生の考えとなんら矛盾するものではなかったのです。

その後、気流身体法は「メビウス∞気流法」と正式な名称を名乗ります。そして近年、次第に注目を浴びるようになりました。特に『千と千尋の神隠し』の主題歌を作詞した覚和歌子さんや作曲・歌の木村弓さんが熱心に稽古されていること、身体論ブームの中核にある斎藤孝さんが大学院生の頃参加していたことなどが契機になったことは間違いありません。

わたしの方は気流身体塾と名乗ったものの具体的な活動はほとんどしていません。むしろ自分のあり方のバックグラウンドとしての塾でした。

坪井先生との関係はずっと薄くなりましたが途切れることなく続いています。わたしは迷惑をかけては申し訳ないので名称を「游氣塾」と変えました。

銀行の組合や、医療器具販売会社主催の治療家セミナー、四日市市の福祉協議会および鍼灸師会、その他の小さなグループなどから招かれてセミナーをすることはありました。これは游氣塾としての具体的な活動になります。

今年の初めには名古屋市の高年大学鯱城学園からも依頼がありました。

何よりうれしかったのは坪井先生が気流法20周年という大切な行事の壇上にわたしを対談者として招いてくださったことです。何か恩返しができたようでほっとしました。

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/yuki/y091.htm

指圧教室は指圧という技法、増永先生の偉業・遺業を具体的に伝える場であり、游氣塾はその背景として支えているもの、こう考えるとすっきりします。

今年、50歳になりました。残された時間もどんどん目減りしています。今後、もっと具体的に游氣塾としての活動もしていきたいと考えています。

メビウス∞気流法の会

http://homepage2.nifty.com/moebius/index.html

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游氣風信 No.173 2004. 5. 1

指圧教室の変遷

 毎週土曜日の午前中、経絡に基づいた体操と指圧を中心にした勉強会をやっています。毎回数名の参加というこぢんまりとした集いです。現在は「増永静人を読み解く会」として『スジとツボの健康法』を読みながら学習を進め、指圧の腹臥位の実技練習が中心になっています。(現在は休止)

 最近、ある人から「どうして指圧教室をしているのですか」と尋ねられました。聞かれてすぐには返事ができず、はて、なんで漠然と惰性のごとく、しかし毎回楽しく指導しているのだろうかと思うに至り、あらためて来し方を整理してみることにしました。

 わたしと指圧の関わりは長く、高校生にまで遡ります。父の知り合いの妹で指圧の治療室を開業しているお宅に数日間お邪魔して基本的なことを学びました。それ以前に指圧の本は読んでいて多少の知識はあったのですが実際に習ったのはその時が初めてでした。確か高校一年の春休みのことです。

 なぜ、若い身空で指圧なんぞに興味を持ったのでしょうか。自分でもよく分かりませんが、友人の話ですと小学校の頃から人の腕を取って指圧したり、ポキポキ骨を鳴らしていたりしたようです。

 しかし一番の理由は部活で怪我をしたことでしょう。中学で所属した部活のバレーボールではしょっちゅう突き指をしました。高校は柔道部で捻挫や腰痛の繰り返し。それで治療法に関心を抱いたのです。

 ですから独学で指圧や健康体操の本を読んでいました。ただ実際どうやるのかが分からないために指圧の先生のところで教えていただいたのです。

 直接習ってますます興味を深めたわたしは、こうなったら学校の勉強は嫌いだし、成績も悪いので卒業したらこの道に進むと柔道整復(ほねつぎ)の専門学校の願書も取り寄せました。

 ところが「せめて大学くらいは出ておけ」という圧力が親や担任からかかりました。「ならば哲学か文学」と主張するわたしに、「そんな社会に出て何にも役に立たない学部は駄目だ、経済か法学にしなさい」というしつこい説得。

 結局、意志の弱いわたしは受験勉強をしなくても合格できる手ごろな大学に進んでしまいました。ですから専攻の経済学などに興味が湧こうはずがありません。もっぱら少林寺拳法ばかりやっていました。しかもありがたいことに少林寺拳法には整体の技もあったのです。

 そんな訳で学生時代はろくろく大学の教科書も開かず、いろいろな健康法や武術関連の文献を買い込んで乱読していました。少林寺に整体があるように武術と健康術の間には深い関連があるからです。

 大学の三年(1975・昭和50)の時、朝日文化センターで指圧の指導を受けました。その講座は30年経った今でも人気講座のようです。

 しかしそこでの集団指導方式に物足らなさを感じたわたしは、大学四年(1976・昭和51)の時、家の近くの治療院に併設された整体指圧教室に通ったのでした。

 すでに卒業に必要な単位は取り終えていたので、暇にまかせて教室に入り浸っていました。そんなわたしに呆れたのか、先生は三ヵ月後には他の生徒(主婦が主でした)に指導することを命じたのでした。実にいいかげんなものです。

 そこの先生はダスキンの創業者と親しく、ダスキンを販売する主婦に指圧の指導をしていました。そのため時折遠隔地からも泊り込みで習いに来る方がいたのです。ダスキンの初代社長とも何度かお会いしましたが、派手なスーツを着た愉快な方でした。手土産にミスタードーナツを持参されたことを覚えています。

 ですから指圧指導歴はかれこれ30年に及びます。鍼灸指圧の専門学校に入ったのは大学を卒業してからですから、それ以前から指圧を教えていたということになります。

 大学を卒業すると同時に中和理療学校(在学中に中和鍼灸専門学校に校名変更)という鍼灸とあん摩・マッサージ・指圧の専門学校に進みました。(1976・昭和51)

 専門学校に通いながら、指圧指導のアルバイトも継続していましたが、すぐにその教室の方式には飽き足らなくなってしまいました。極めてシンプルで一
般の方たちには学びやすいものだったのですが、わたし自身はそれ以上の学理や術理、哲学を学びたくなっていました。

 そんなわたしの意に適う指導者は医王会試圧研究所の増永静人先生以外には見当たりませんでした。

 増永先生を知ったきっかけは高校時代に指圧を教わった先生からの推薦です。いい本だからと増永先生の書かれた『家庭でできる指圧入門』という本を紹介されたのでした。

 そこで著者である増永静人先生の門を叩くことにしました。1977年(昭和52)23歳、鍼灸学校一年の時です。幸運なことに、この年、増永先生の講習会が名古屋で初めて行われたのです。

 以後数年間は時間の許す限り東京在の先生のもとに訪問し、大阪や名古屋で講習会があれば追いかけ、できるだけ直接謦咳に接して様々な理合や生命哲学を学びました。

 増永先生は京都大学文学部哲学科心理学専攻です。したがって日本の哲学の草分けで『善の研究』で知られる西田幾多郎博士の孫弟子に当たります。

そのためか先生の思想の中には西田哲学の根幹で禅的境地を哲学化した「純粋経験」の臨床応用と推測される「生命共感」という自他を超えた境地も示されていました。 

 増永指圧を端的に述べるなら「経絡」と「生命共感」と言えるでしょう。

 また、増永先生は指圧を医療体系全体から措定し直し体系付けると同時に、病気を命のありようから考えようとされました。

 さらに生命体を開放系として環境に開かれた存在として理解されました。こうした発想は人体は大宇宙に対する小宇宙であるという中国医学の基本的な考えであると同時に、後のエコロジーブームの先駆けともなりました。

                    ☆

増永静人略歴

大正14年(1925)、広島県に生まれる。
昭和24年(1949)京都帝国大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業後、指圧界に入り、実技を修める一方、古今の文献を読破して指圧療法の理論の確立につとめた。
日本指圧学校の第一期生であり、昭和34年(1959)から10年間、同校の講師(臨床心理学)を務め、日本心理学会、日本東洋医学会に属し、昭和43年(1968)より指圧施術所「医王会」を主宰。昭和56年(1981)
日本東洋医学会評議員に選出される。同年7月逝去。
晩年は国内にとどまらず、広く海外にて独自の経絡指圧を指導、普及につとめた。さらに自身の経絡の流れを感じながら、「経絡体操(イメージ健康体操)」を作り、これを作ることによって自分の「経絡指圧」は完成した、とし
てその普及につとめた。増永静人は、これらを普及することによって、世界中の人々に健康と幸せがもたらされることを望んだ。
昭和56年(1981)、享年57歳の若さで惜しくも天に召されたが、増永静人の蒔いた種は、日本に、海外に、着実に根づいている。(医王会編)

                   ☆

 増永先生と出会ってからの数年は、今思い出しても実に集中して勉強した年月でした。けれども残念なことに先生は1981年(昭和56年)57歳で早世されてしまいました。わたしが27歳の時です。

 それでその後は先生から学んだ本質論的な部分は包摂しつつ、いろいろな指導者(とりわけ気流法の坪井香譲先生にはお世話になりました。先生との出会いは後の游氣塾の系譜に繋がります)に学ぶという二十代を過ごしました。

 そして三十歳を少し過ぎた頃にはある程度物事が見えてきたので、あまり他の技術に目を向けることなく、経絡と指圧を深化するべく日々を過ごして今日まできたのです。

 治療関連の出来事を編年で示すと

1978年(昭和53年)24歳 マッサージ・指圧の免許取得 即開業
1979年(昭和54年)25歳 鍼と灸の免許取得
同年 在宅訪問リハビリ開始 脳卒中後遺症や神経難病の人を対象
1981年(昭和56年)27歳 増永先生逝去
1982年(昭和57年)28歳 坪井先生と出会う
1985年(昭和60年)31歳 今池に治療拠点
などが上げられます。

 その間に学んださまざまな技術は実に雑多ですが、以下に網羅してみましょう。もちろん全てが身についているわけではありません。

 操体、カイロプラクティック、キネシオロジー、AKA、皮内鍼、脉診流鍼、良導絡、テーピング、リンパマッサージ、野口整体、野口体操、気功、太極拳、ヨガ、分子栄養学、マクロビオティック、フットリフレクソロジーその他いろいろ。

 そんな中で途切れることなく継続してきたのが指圧教室だったのです。

 1981年(昭和56年)岩倉駅の近くの文化センターを借りて指圧教室を開きました(正式には運動調整法である操体法と一体化した操体指圧教室)。紹介で集まった主婦を中心にしたものでした。後に家賃の安い呉服屋さんの広間に移転しました。

 同じ年に、知人からの紹介で金山駅の近くの教室で指導開始。こちらは大きな学校法人が経営していましたから雇われ講師です。金山駅前の立派な総合ビルにありました。ここの参加者は紹介よりも新聞広告で知った見知らぬ同士の集まりでした。

 なぜかどちらの教室にもヨガの先生が何名か習いに来ていました。理由を聞くと、ヨガの指導者(沖正弘という著名な方)に指圧を学ぶなら増永さんの方式を習えと言われからだそうです。

 岩倉の教室はみなさん仲良しで、楽しくやっていましたが、それゆえに新しく参加しようという人がその輪に入れず弾き出されてしまうことがしばしばありました。そして事件がおきました。

 ある時、米国人の夫を持つ若い主婦が参加しました。年配の主婦たちはエイズの恐れがあるから嫌だと騒ぎました。当時、エイズという怖い病が発現して日本中がパニックになっていたのです。その頃、外国人即エイズという偏見が渦巻いていました。指圧教室も例外ではなかったのです。

 さらに折り悪く別の事情でリーダー格の人が臍を曲げてしまう事件もあり、岩倉の教室はあえなく閉鎖しました。

 同時に、金山の教室も経営母体の都合で廃止になりました。

 その時はすでに今池の治療室を出していました。そしてそちらにも少数の方が指圧を習いに来ていました。先の米国人の奥さんもそのうちの一人です。もっと勉強したいからと岩倉に来たのでした。ですから指圧教室が完全に無くなったわけではありません。

 そこへ、岩倉や金山の生徒でさらに続けたいという方が合流して今日の指圧教室に繋がるのです。

 指圧教室とは別に游氣塾としてもっと<身体>について学ぶためのコースも計画しました。さらにプロのための本格的なコースも何度か開催しました。

 プロコースの参加者のほとんどは国家資格取得者でした。またそうでない人も、その後鍼灸や接骨院の専門学校に進んで国家資格を取得し、現在は治療院を開業して活躍しています。

 游氣塾と称して指圧に拘泥しない講習は鍼灸学校の学生やすでに開業している先生方を対象として幾つか行いました。企業や市の行事への参加もありました。

 これらについては別の機会に述べます。

 さて、主婦を対象に細々と継続してきた指圧教室に大きな変化が生じたのは1990年頃、昭和から平成に変わったばかりの頃です。一人のアメリカ夫人の参加をきっかけに外国人が次々に顔を出し始めたのです。そのアメリカ夫人を連れてきたのが件のエイズ騒ぎの日本人妻でした。

 彼女がBさんを、BさんがSさんを、SさんがD君を、D君がA君をという具合にどんどん口コミで広がっていったのです(昨年、息子がニューヨークでD君と、トロントでA君と12年ぶりに会いました)。

 彼らは異国の地である日本の伝統文化のひとつとして指圧に関心を抱いたのでした。もちろん健康法としても。

 それまで火曜日の朝行っていた指圧教室に加えて、外国人からのリクエストにより土曜日の朝にも増やしたのでした。こちらはShiatsu classです。

 外国人が指圧にやってきたのは何よりも増永先生が著書や講習で諸国に撒いた種のお陰です。先生の著書『指圧』(医道の日本社)の英語版『ZENSHIATSU』(日貿出版)は30年を超えるロングセラーになっています。それによってShiatsuという呼称はかなり知られているのです。

 過去の『游氣風信』にも触れたのですが、わたしのクラスおよび治療に来た外国人は実に多くの国に跨ります。

 ざっと思い出すとアメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどの英語圏はもとより、オーストリア、スイス、ルーマニア、ギリシャ、ドイツ、スウェーデン、イタリア、ハンガリー、ベルギー、ポーランド、フランス、デンマーク、ブルガリア、チェコスロバキア(分裂前)、ペルー、メキシコ、台湾、ブラジル、南アフリカ、ミャンマー、中国、パプア・ニューギニア、トリニダード・ドバゴなどなど。

 外国人の参加によって大きな変化がありました。彼らは、特にアメリカ人はやたらと質問するのです。まるで5歳児のごとくに。わたしはそれらの質問にいちいち英語で答えなければなりません。「知らない」では許してくれないのです。

「あなたは先生だから答える義務がある」
そして
「われわれは生徒だからあなたに考える機会を与える義務がある」

これが彼らの言い分でした。ですから彼らは答えるまで容赦しません。

 そのため漠然と分かった気になっていた指圧や漢方の考えを整理することができました。これと同じことを増永先生もおっしゃっておられたことを今更ながら思い出さずにはおれません。

 しかしバブル経済が弾けてからあと外国人生徒はめっきり減少してしまいました。特に英会話学校の教師として来ていた人たちは仕事が忙しく指圧教室まではなかなか足が延ばせなくなったのです。

 何よりアメリカの若い人が減りました。彼らの多くは効率的にお金を貯めて大学院に進むために日本に来ていました。ところがバブルが弾けてからは日米の為替の関係で、日本で働く意味が無くなり、次々帰国しました。

 日本円では同じ給料でも米ドルに換算するとバブル期に比べて価値ががたんと落ちてしまったのです。それなら米国内で働いた方がましということで、新しい生徒も来なくなりました。特別に日本文化に関心が深くどうしても日本に行ってみたいという人を除いては。

 そんな経緯でここ2・3年は外国人が減りましたが、それでも昨年は、名大大学院で国際開発を学んでいるトリニダード・トバコの女性が参加していました。彼女は博士課程に進むために現在アルバイト中。塾はお休みです。

 またイケメンの偽牧師もしばらく来ていました。偽牧師と呼ぶ所以は、彼が結婚式場で牧師のアルバイトをしているからです。このハンサムな米国青年の名刺には「英語教師・モデル・牧師・ナレーター」と実に脈絡無く書かれています。彼は先月、米国のマッサージ・スクールに入学するため帰国しました。

 そう言えば外国人の生徒の中にも現在プロになっている人が何人かいます。カリフォルニアで開業して成功し、最近ハワイで結婚式を挙げたS君は指圧教室に熱心に来ていました。帰国後アメリカの鍼灸学校に進学し二年間の勉強の後、資格を取得。開業当初は患者が来ないとメールで愚痴を言ってきましたが、ある新聞に掲載されてより盛業になったそうです。

 S君の友人のJ君は鍼灸の資格を取った後、現在アメリカでナチュロパシーという療法の学校に進んでいます。ナチュロパシーは西洋の伝統的自然療法で、きちんと制度化され社会的認知も高いようです。

 カナダ人のA君は熱心な生徒ではありませんでした。むしろ勉強よりも治療を受ける方が好きでした。そんな彼も現在カナダでナチュロパシーの学校に通っています。

 他にもアメリカで二人、ブラジルやフランスで各一人マッサージ・スクールに進みました。ロンドンの指圧学校の通信教育で勉強中のイギリス人もいます。

 実際に何人の人が仕事として指圧をしているのか分かりませんが、この部屋に出入りしていた人がそれぞれの国で同じようなことをしているのかと思うと不思議です。

 この頃の参加者は主婦、OL、指圧学校の学生、長年の勤めを引退された方などです。外国人も二人定期的に参加しています。一人は名大大学院で生命工学の勉強をしているブルガリア人のS君と、同じく名大で言語聴覚士の勉強をしているブラジル人のIさん。二人とも日本語が達者ですが、互いの会話は英語です。

                       ☆

 長々と指圧教室の来し方を見てきました。 現在の指圧教室は指圧だけを教えているわけではありません。健康法に拘泥もしていません。

 「手の当て方、触れ方、推し方、相手に力を伝える、力を通す、相手の力を受ける」など直接指圧に関わることも指導しますが、もっと幅広く、基本的な「立つ、脱力する、身体を貫く重力線である軸(特に中心軸と左右軸)の意識化、軸に沿って立つ、脱力体の重心である丹田(上中下)の意識化、さらには少林寺拳法の技を応用した経絡伸ばしや呼吸法」などを学び、その運用としての一つの方法としての指圧という意味合いが濃くなっています。

 これらは指圧という枠を超えて、むしろ前述の坪井先生の気流法の影響が大きいと思われます。であればこれは指圧教室ではなくわたしが以前から用いている游氣塾と呼ぶべきでしょう。游氣はこの通信の名称でもあります。このことに関しては機会を改めて書きます。

 冒頭に述べたように、現在のクラスは増永先生の書かれた『スジとツボの健康法』の再読と実技を中心しています。テキストに沿って行うのは増永指圧をきちんと教えるためですが、私自身の原点の再確認のためでもあります。

 しかしそれと同時に指圧という枠組みを越えて普遍的に<指圧>が存在し、逆に本質的な身体の運用が<指圧>として具現しているとも考えられるからです。

 増永先生が『スジとツボの健康法』というタイトルの本を著されたとき、すでに指圧という言葉を奥に引っ込めておられます。それは指圧を超えてもっと普遍的ないのちとか人との関わり、健康などを考察したかったからに違いありません。

 ある講習の後、若気の至りで

「先生は指圧という言葉を控えられた方がもっと世に入れられます」

と進言してたしなめられたことがありましたが、その思いは現在も変わりません。

 そして今、わたし自身がすでに増永先生の晩年の年齢になりました。ここで原点を振り返ることはとても重要でよい機会でした。

 従来の指圧教室はどちらかというと、指圧を覚えたい人の趣味的な集まりでした。これで将来生活をしていこうと考える人もごく少数ですがいました。

 しかし今後はもっと広く深く掘り下げていきたいと思っています。そこで今後は指圧教室という呼称は止め、ずばり「游氣塾」でいきます。

 ということで次回はもう一方の指導の場であった「游氣塾」を見直します。

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游氣風信 No.172 2004. 4. 1

はつ夏の季語

   ・・・初夏の歳時記・・・

 爽やかな初夏となりました。今月は初夏の気分一杯の季語と俳句を集めてみましょう。それらの俳句によって季語という歴史に練られた言語が、いかに身体に爽快感を与えてくれるか実感できると思います。

 季語は季節の意味を担った言葉ですが、歴史を超えて多くの人に用いられているうちにある種の気分を醸し出すようになった特殊な言葉です。

 もっとも歴史の風雪が逆に手垢をこびり付かせてしまい、季語とは意味によって現実が束縛されるという古臭い、言い尽くされた言葉であるとも受け取れます。

俳句を作る人たちは歴史的言語としての季語に新たな自分自身の視点を付加して、季語のいのちの再生を繰り返したいという困難なことを願っているのです。あえてその困難に立ち向かうところに俳句の面白さがあります。そこに言語と現実と心の軋みが生じるのです。俳句は作るのではなく「ひねる」というのはそんな情況を代表しているとも考えられます。

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 歳時記において初夏は夏に分類され、立夏から入梅前の頃をさすようですが、実感としては春から夏への移行期、ちょうど四月中旬から五月の初めの頃の感じです。ですから初夏を表す季語の中には春に分類されるものもたくさんあります。

 季語はあくまでも約束事の指標です。現実の自然などが約束事に勝ることはいうまでもありません。初夏(夏の季語)に雪(冬の季語)が降ったり、氷(冬の季語)の脇にタンポポ(春の季語)が咲いたりもします。このように現
実は歳時記よりずっと複雑です。

 それなのに何故季語を大切にしているのでしょうか。それは文芸という「遊び」の中でのルールだからです。創造は無限に広がります。そこに季語がある種の核心や安定を与えてくれるのです。さらに深みも加わります。ですから創造の世界では現実よりも季語という制約が先んじているということもあるのです。その辺りの矛盾が詩的因果関係を生み出し、俳句の世界を広く深くしてくれるのです。

 では、身近な初夏の季語を見ていきましょう。

初夏

 春の終わりから夏の初めの頃。春ののどかさと、夏の勢いがほどよく配合されて心地よい。一年のうちでも最もすごし易い気候である。

初夏や蝶に眼やれば近き山 石鼎
初夏に開く郵便切手ほどの窓 朗人

青嵐

 青葉の頃に吹き渡る風。強い風が草や青葉を激しく揺さぶる爽快な若々しさを感じる。

夏嵐机上の白紙飛び尽す 子規
梳る髪の根熱し青嵐 悦子

薫風

 湧き上がる風に青葉の香りが立ち上がる。青嵐と同じことであるがこちらの方がよりやさしい感じ。風薫る五月などという常套句にもなっている。

薫風や老いてもうたふ応援歌 ひろし
流離の詩胸に愉しき薫風裡 吐天

 地中や岩の間から湧く水が溜り、池を作る。清涼な感じがする。年中あるが、夏の季語。その爽やかさはまさに初夏から夏のもの。

泉への道後れゆく安けさよ 波郷
草濡れてはたして泉湧くところ 正江

清水

 泉は湧き出て溜まっているが、清水は流れている。水中まで日が差し込んで網のように揺らめく様はうつくしい。

清水のむ底まで透るさびしさに 白葉女
すいすいと杓はしり湧く清水かな 爽雨

夏燕

 燕だけなら春の季語。南から渡ってくるツバメと重ねるように春の到来を喜ぶ。しかし最も生き生きと飛び交う燕は夏燕である。人家に営巣して子育てに余念がない。

むらさきのこゑを山辺に夏燕 蛇笏
かはらざるものに川あり夏つばめ 占魚

白鷺

 農村ならどこでも見かける身近な鳥である。青田にすらりと立つ姿は美しい。大型の青鷺もいる。

白鷺の佇つとき細き草掴み かな女
青鷺のみじんも媚びず二夜泊つ 菟絲子

 海鵜と河鵜がいる。鵜飼に用いるのは海鵜。大河の水面を擦るように飛んでいる姿は矢のようである。

鵜が寄りて濡身をさらに濡らしあふ 亘
波にのり波にのり鵜のさびしさは 誓子

葉桜

 花が散り始める頃から徐々に葉がでてくる。葉桜の勢いも鮮烈さも花に負けず魅力的。

葉桜の中の無数の空さわぐ 梵
葉桜や洗ひちぢみし児の帽子 昭

柿若葉

 柿の若葉のつややかな緑は若葉を代表する。農家ならどの家にも数本の柿の木が植えてあり初夏を彩る。

柿若葉豆腐触れ合ふ水の中 櫂
言ひのこす用の多さよ柿若葉 汀女

新樹

 元禄時代に嵐雪によって「煮鰹をほして新樹の畑かな」という俳諧が作られている。意外に古い季語。新樹は若葉に輝き若返った木のこと。

夜の雲に噴煙うつる新樹かな 秋桜子
新樹の夜星はしづかに飛びはじむ 誓子

若葉

 若緑の葉には生きる力を感じる。古木からも若葉といういのちが噴出する。

物言ふも逢ふもいやなり坂若葉 久女
父の遺影ありてくつろぐ若葉の夜 澄雄

青葉

 若葉より少し成長した頃の青々とした葉。若葉は若々しさを、青葉はその色
を特徴とする。

書庫暗し外は青葉の雨ながす 城太郎
いんいんと青葉地獄の中に臥す 甲子雄

新緑

 初夏の爽やかな緑の総称。単に緑とも言う。世の中が一新する潔さがある。
夏の盛りなら万緑。

摩天楼より新緑がパセリほど 狩行
子の皿に塩ふる音もみどりの夜 龍太

桐の花

 初夏を代表する淡い紫色の木の花。高いところに咲く。

大空やみなうつむいて桐の花 石鼎
桐の花髪のみだれし少女たち 八束

矢車草

 花びらの形が矢車に似ている。細く勁い茎の先に白や青や赤などの花が咲く。

さきがけの一花あそばせ矢車草 湘雨
清貧の閑居矢車草ひらく 草城

青麦(春)

 青々とした麦の生命力はこの時期の他の植物を圧倒している。一面の麦畑を見かけることは少なくなった。

眠りは祈り地へ直角に麦育つ 京子
青麦を来る朝風のはやさ見ゆ 直人

夏近し(春)

 春ではあるものの辺りにはすでに夏の気配が横溢している頃。夏への期待感がある。

夏近し眠らず夜の大欅 昭
荷をひらく一樹に夏の近むなり 道代

春惜しむ(春)

 気分は夏へ向かわず、去りゆく春を惜しんでいる。

窓あけて見ゆる限りの春惜しむ 蝶衣
とつぷりと暮れたる汽車に春惜しむ

雉(春)

 民家に近く棲む雉は今でもちょっとした郊外なら出会う機会が多い。喉を締めたような「ケッケッ」という鳴き声もたびたび耳にする。人をさほど恐れないためか桃太郎の家来とされた。雄は光沢のある羽根で美しい。

雉啼くや日はしろがねのつめたさに 占魚
雉子の眸のかうかうとして売られけり 楸邨

燕(春)

 春にきて秋には南へ戻る渡り鳥。流麗な翼で川面に集まる虫などを素早く獲る。人家に営巣し、子育ての様子が観察できるので古来より親しまれている。

つばめつばめ泥が好きなる燕かな 綾子
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 草田男

雲雀(春)

 以前は高いところで一日中啼いていたが、この頃あまり耳にしなくなった。
ヒバリが垂直に飛び揚がるさまは地の気が空へ向かって発揚していくようでいかにも生命の勢いを感じさせる。

わが背丈以上は空や初雲雀 草田男
雲雀より空にやすらふ峠哉 芭蕉

蜂(春)

 春から夏にかけて蜂の生活は忙しそうである。よく見かけるのはミツバチとアシナガバチ。藤棚などには黒い大きなミツバチの仲間のクマバチやマルハナバチがくる。スズメバチをクマバチと呼ぶ場合もある。近年は小型のスズメバチの類が町に住むようになってきた。蜂の巣は夏の季語。

狂ひても母乳は白し蜂光る 静塔
蜜蜂は光と消えつ影と生れ 翔

ライラック(春)

リラの花とも。初夏を代表する淡い紫の香ばしい花。

舞姫はリラの花よりも濃くにほふ 青邨
薄日とも薄ぐもりともライラック 杜藻

躑躅(春)

 つつじが一斉に咲くと庭が盛り上がるようで壮観。その明るさは輝くよう。
一般に目にするのは霧島躑躅。

満山のつぼみのままのつつじかな 青畝
山つつじ照る只中に田を墾く 龍太

藤(春)

 藤棚に整えられた藤房は、庭園の景観と相まって美しい。しかし、野生の藤の荒々しさも見事である。藪の中に咲く藤は力強い。

白藤や揺りやみしかばうすみどり 不器男
藤の昼膝やはらかくひとに逢ふ 信子

豆の花(春)

 豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)など豆の花の総称。ひらひらとした花弁に黒い点が印象的。

そら豆の花の黒き目数知れず 草田男
豌豆の花より走る小猫かな 舗土

紫雲英(春)

 げんげともれんげとも言う。田植え前、一面に植えられたピンク色のれんげ畑は黄色の菜の花畑と共に春の風物だったが、化学肥料の普及とともに姿を消した。しかし近年見直されてまたあちこちに見かけるようになった。

げんげ田の空にとどきし夕汽笛 日郎
踏み込んで大地が固しげんげ畑 多佳子

後記

 初夏も過ぎればすぐに梅雨です。ご自愛の上お過ごしください。

(游)

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游氣風信 No.171 2004. 3. 1

ヨイトマケの唄

 三月は別れの季節です。

 幼稚園から大学まで卒業生を送り出す年度の区切り。そして四月は新しい出会いの始まり。子どもの頃はこうした区切りによって人生にメリハリが作られていますが、大人になると漠然と月日が流れてしまい、怠惰な倦怠感のみが日々を覆っているようでいけません。

 大人なればこそ、日々精神を立て直して充実した日々を暮らしたいものです。

 別れの象徴である卒業の式典では定番の歌が斉唱されます。在校生による『蛍の光』、そして卒業生による『仰げば尊し』。この『仰げば尊し』が好きになれない話は以前の游氣風信で書きました。生徒から自発的に「仰げば尊し、わが師の恩」という思いが溢れるならともかく、強制的に歌わせるのは教員の思い上がりだと。さらに「身を立て名を上げ」という立身出世主義には馴染まないとも。その辺りを引用してみましょう。

************

 わたしは小学校の時に強制された「仰げば尊し」に、強く反感を抱いていました。何故なら小学校の五・六年の時の担任教師のことをちっとも尊いと思えなかったからです。

 その年配の男性教師はまともに授業をしませんでした。それだけでなく言うことに常に裏表があり、父兄に見せる顔と子どもたちに見せる顔の落差。いつも教卓に腰かけてぼうっとしており、その姿勢は怠惰で生きる情熱が見られず、個人的な愚痴と偏見のみを児童に語りかけている、子どもから見て実につまらない人物に思えたのです。

 それなのに「仰げば尊し 我が師の恩」と歌えと言われても釈然としなかったのは当然です。

 その教師に対する思いだけではありません。「身を立て 名を上げ やよ励めよ」という、立身出世の鼓舞に満ちた歌詞も嫌いでした。

                          (游氣風信146号)

************

と、毎年この頃になるといつも私憤を繰り返しているのですが、先日、中学の卒業生を持つお母さんから面白い話を聞きました。

 なんでもその娘さんたちの学年主任が卒業式の前日、卒業生を前にしてはなむけの歌を歌ったのだそうです。とてもすばらしい独唱で6番まで。

 お子さんの記憶では

  父ちゃんのためならエンヤコラ
  母ちゃんのためならエンヤコラ

というフレーズのある歌で、生徒の中には感動して泣いていた子もいたと言います。そのお嬢さんも初めて聴いた曲ながら気に入ったらしく曲名を知ろうとインターネットに向かいました。

 お母さんはわたしとほぼ同世代ですから

  父ちゃんのためならエンヤコラ

にピンときて、
 「それはきっと三輪明宏の『ヨイトマケの唄』だよ。お母さんが小さい頃に聞いた覚えがあるわ。三輪明宏って知ってるでしょ、豪華な服を着た女みたいな男の人・・・」
と娘さんに教えたそうです。

 この話を聞いてとても興味深かったと同時に不思議な思いがしました。どうして『ヨイトマケの唄』が卒業していく生徒たちへのはなむけになるのでしょうか。また何故子どもたちが涙ぐむほど感動したのでしょうか。とても気にな
りました。

 わたしもその歌に関しては先ほどのフレーズ以外はほとんど覚えていませんが、内容に関しては
「激しい肉体労働に耐えて働く母親とその子どもの歌」
という程度の理解はありました。ヨイトマケという言葉が道路工夫などの日雇い労働者を表す呼び名であることも知っていました。

 それらもろもろの理由から、わたしは『ヨイトマケの唄』がなぜ生徒たちを送り出す歌になるのか猛然と知りたくなったのです。そこでそのお嬢さんに倣ってインターネットにあたって見ることにしました。

 単純に『ヨイトマケの唄』で検索すると実にたくさんのホームページがありました。詞が掲載されているだけでなく、メロディーが流れるページもあり、さらには作者丸山明宏がどういう経緯でこの曲を作ったのかという詳しい解説も掲載されていました。

 改めて歌詞を読んでみると、なるほどこれなら中学を巣立つ生徒たちに歌いたくなる先生の気持ちも分かります。おそらくその先生は自慢の喉を震わせながら毎年壇上から卒業する子たちに熱い思いを歌い聞かせたのでしょう。

 なかなか味のある先生だなと感心しました。またこの歌を聴いて涙を流したり感動したりする子どもたちにも感心したのです。

 今月はインターネットで見つけたいくつかのページを引用させていただくことにします(手抜き)。まずは歌詞全部を写しましょう。歌は三輪明宏、作詞作曲は丸山明宏ですが、もちろん同じ人です。1965年(昭和40年・・・わた
しは11歳位でした)に発表された曲です。

 それからインターネットによって、この歌には意外な事実があったことを知りました。子どもの頃、大変ヒットした曲として印象に残っているのに、以後全く耳にしない理由もわかりました。そのことは後で少し書きます。

ヨイトマケの唄

 歌 三輪明宏
 作詞・作曲:丸山明宏
 
父ちゃんのためならエンヤコラ
母ちゃんのためならエンヤコラ

 今も聞こえる ヨイトマケの唄
 今も聞こえる あの子守唄
 工事現場の昼休み
 たばこふかして 目を閉じりゃ
 聞こえてくるよ あの唄が
 働く土方の あの唄が
 貧しい土方の あの唄が

 子供の頃に小学校で
 ヨイトマケの子供 きたない子供と
 いじめぬかれて はやされて
 くやし涙に暮れながら
 泣いて帰った道すがら
 母ちゃんの働くとこを見た
 母ちゃんの働くとこを見た

 姉さんかぶりで 泥にまみれて
 日にやけながら 汗を流して
 男に混じって ツナを引き
 天に向かって 声をあげて
 力の限り 唄ってた
 母ちゃんの働くとこを見た
 母ちゃんの働くとこを見た

 なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
 息をはずませ 帰ってはきたが
 母ちゃんの姿 見たときに
 泣いた涙も忘れ果て
 帰って行ったよ 学校へ
 勉強するよと言いながら
 勉強するよと言いながら

 あれから何年経ったことだろう
 高校も出たし大学も出た
 今じゃ機械の世の中で
 おまけに僕はエンジニア
 苦労苦労で死んでった
 母ちゃん見てくれ この姿
 母ちゃん見てくれ この姿

 何度も僕もぐれかけたけど
 やくざな道は踏まずに済んだ
 どんなきれいな唄よりも
 どんなきれいな声よりも
 僕を励ましなぐさめた
 母ちゃんの唄こそ 世界一
 母ちゃんの唄こそ 世界一

 今も聞こえる ヨイトマケの唄
 今も聞こえる あの子守唄

父ちゃんのためならエンヤコラ
子どものためならエンヤコラ


 あのきらびやかに着飾った女装の三輪明宏からは想像できない泥臭い歌です。しかもレコードジャケットは完全な男装で、従来の三輪明宏のイメージが払拭されています。

あるHPにこの歌を彼が作った経緯が書かれていました。


時は神武景気。美輪さんの美貌は神武以来の美少年とうたわれ、性別を超えた華やかなスタイルで映画や舞台に引っ張りだこでした。ところが、異常なまでに盛り上がった美輪さんの人気はわずか数年しか続きませんでした。60年に入ると、土地・株が暴落。多額の借金だけが残りました。落ちぶれたスターと呼ばれ、地方巡業の仕事ばかりとなった美輪さん。そんな時、ある炭鉱の町で舞台に立ちます。
 「穴ぼこだらけの舞台に何度か細いハイヒールのかかとをめり込ませながら、あきらめ顔、ヤケッパチで歌っていたら、すぐ足元まで鈴なりになっている老若男女の顔、顔、顔の絵巻を見た時に、私は言いようのない戦りつを受けた。私は何をしているのだろう。この人たちの命を削って得た金で鼻歌を歌っているのだ。私はにわかに自分の贅沢に着飾ったクジャクのようなザマが異様な道化師のように思えた。最後まで必死に努めるのがやっとだった。」
 美輪さんの胸に、小学生の頃に見た光景がよみがえりました。家族のために汗まみれになって働く母親たちの姿です。美輪さんはその想い出を曲にし、きらびやかな衣装やメイクを取り去って歌い始めました。その時に出来た作品がこの「ヨイトマケの唄」でした。」


 この解説を読むと彼が『ヨイトマケの唄』を男装で歌っていた理由が分かります。わたしは今まで、三輪明宏という俳優はふてぶてしいまでにその華美な奇矯を演じきる有様から、とても近付き難いと感じていたのですが、以上の文章はそうした三輪明宏観を覆すものでした。やはり彼の信念のある姿勢は見せかけではない、単純なスター街道を生きてきたのではなかったんだと深く感心したのです。

 虚飾を捨てたところから生まれた歌、どん底から這い上がろうというあえぎの中から声を上げた歌だったのです。それは貧困に負けないでいのちを輝かせていた人々へのオマージュ(賛辞)でもあります。

 この歌も今の感覚からすると素材に感動を喚起させようという含みがあり過ぎると言えなくはありません。しかしその純粋なテーマゆえに中学生が感動したのでしょう。

 学年主任の先生は生徒たちに卒業のはなむけとして、教師への感謝ではなく、親への思いを想起するように伝えたのです、『ヨイトマケの唄』を通じて・・・。まことに心憎い演出であったと思います。

 先ほど少し述べました、この唄に潜む意外な事実について一言加えます。それは別のホームページに書かれていた次のことです。

「歌詞に差別用語を含むということでテレビやラジオで流れる機会がないのがとても残念!」

驚いたことに、この歌は放送自粛の対象だったのです。それで今日まで聞く機会がなかったのでしょう。おそらく三輪明宏さんはステージでは熱唱されていると思いますが、放送では歌われないのです。

 ヨイトマケという呼称はもともと日常用いられていたことばですが、当時すでに放送を自粛しなければならない用語になりつつあったのかもしれません。そう言えば、わたしが一昨年BS俳句王国に出演した時も、ADから差別用語には注意して欲しいと幾つか具体例を出して説明されました。なかなか難しいものです。

 差別用語に関してはこれ以上触れませんが、ともかくこれで今日までこの唄を聞く機会がなかった理由が氷解したのでした。

よいと・まけ
重い物を滑車で上げ下ろししたり、綱で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。(広辞苑)

後記

今月参考にさせていただいたサイトです。

http://www2.mahoroba.ne.jp/~eastwood/essay/case1/note4.htm

http://zarigani.web.infoseek.co.jp/jkp/jkp27.htm

http://www.miike-coalmine.net/yoitomake.html

                             (游)

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游氣風信 No.170 2004. 2. 1

スジとツボの健康法

名古屋市に高年大学鯱城学園という60歳以上の方の学習の場があります。元気で意欲的な高年者が二年間在籍して、熱心に勉強されているのだそうです。

二月の六日と十三日、縁あってそこで講師をすることになりました。題して「スジとツボの健康法」。恩師増永静人先生の著書のタイトルです。

わたしなりに講義の準備をしましたので、ここに一部加筆訂正して紹介します。

昨年一年間お勉強と称してこの『游氣風信』に12の経絡について書きましたが、くしくもその総集編となりました。内容はずっと簡略で分かりやすいものとなっています。

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わたしたちの身体には経絡(けいらく)という12のスジとそれに関連する経穴(ツボ)があります。これらは西洋医学では解明できていない存在ですが、体験的にも実験的にも実感できる確かなものです。

中国医療はこのスジとツボの調整を根幹として成立しています。

ものごとはスジを通し、ツボにはまっていないと成功しませんし、話のスジが通り、ツボを得た表現でないと理解もできません。健康法のスジとツボは、生命の本質をとらえていないと、一部の人には良くても万人が利用することはで
きません。この講座では健康法のスジとツボを学びます。

(補:スジとかツボということばは物事を考えたり行動したりする際の要点を表すことばとして一般化しています。漢方が身近であった時代の名残です。要点を表すことばにはカンとかコツとかミソなどもありますね。

経絡は医療だけでなく、武術や舞などの身体技能全般に関係していました)

○身体のスジ(経絡)とツボ(経穴)

中国医術の身体観

 中国では古来わたしたちの身体は大きな環境である大宇宙に対し、小さな宇宙(小宇宙)であるという身体観を伝えてきました。この思想はわが国には大宝律令以前に輸入され大きな影響を与えました。いのちは単独で生存することはできません。わたしたちは、いのちを包んでいる外の環境との交流によっていのちを保ち、次代に引き継いでいるのです。

(補:生物とは自己保存と種族保存するものです。これは単細胞の生物から多細胞のヒトにいたるまで同じことです。いのちは環境物質を膜によって区切ることで単体の生命体として存在していますが、常に環境物質を取り入れないと存続できません。小宇宙である所以です)

海と陸と空

 わたしたちの身体は外の環境を内の環境に取り込むことで生存しています。
肺(呼吸器)は呼吸を通じて空と交流し、胃腸(消化器)は摂食により大地の恵とつながります。さらに生命の誕生した海は血液やリンパ(循環器)として体内に蓄えられました。血潮と言う何とも魅力的な言葉もあります。このように生命体は外の世界との調和と交流を保つことでいのちを育んでいるのです。

それらの調整の中心にあるのがスジとツボです。健康法はこのスジとツボを活用することで効果的になることでしょう。

(補:地球環境を大雑把にまとめると空と陸と海になります。体内の空とは肺を中心とした呼吸器、体内の陸は腸を中心とした消化器。そしていのちの生まれた海は血液の循環器。このように考えるといのちと環境の関係が明瞭になると思われます。海の成分と血液成分、さらには植物の血である葉緑素、いずれも大変似た構造だそうです)

からだはまるごと一つ

 身体は手や足や胃や心臓などの部分や部品の寄せ集めではありません。両親から受け継いだひとつの細胞が60兆に分裂して成り立っています。もとはひとつだったのです。それらが効率を求めてさまざまな組織や器官に分化しました。しかしそれらは絶えず全体の調和を保っていなければなりません。スジはその調和を維持する筋道なのです。そしてツボはその調整点です。

 (補:解剖図になじんだ現代人はどうしても身体を部分で考えます。肩が痛いと肩だけの問題だと思いがちです。しかし肩を支えているのは背中ですし、それは腰や脚に乗っかっています。さらに肩からは首が伸びて、両腕がぶら下がります。単独で存在する部分というのはないのですね)

○12のスジ

 内臓の名前を冠された12のスジが全身を巡っています。これらのスジはいのちの働きに関連する生理作用や運動作用、感情などに関わっています。

 (補:内臓の名前は西洋医学が入ってくるはるか昔からありました。東洋医療の用語を西洋医学の用語に流用したのです。ですから同じ「肺」ということばでも東西の医学では相当に異なったものになります)

肺 
胸から親指先まで 呼吸に関連 天の気を取り込む 雰囲気を感じ取る 悲しみに関連
大腸 
人差し指から肩を通って鼻まで 呼吸や排便 皮ふに関連 深呼吸をする時伸びるスジ 

胃 
眼とこめかみから喉を通って乳頭を下り、太もも前面から脛の外側、足の人差し指まで 食物摂取 噛み飲み込み消化する 地の気を取り込む 欲望に関わる
脾 
足の親指から脛や太ももの内側を昇って腋の下まで 消化腺に関連 糖尿病や膝の痛み 思いに関連 万歳をすると伸びるスジ

心 
腋の下から肘の内側を通って小指の先まで 心 精神の要 喜びに関連
小腸 
小指から肘の内側を通って肩の裏、肩甲骨を経て頚を昇り耳まで 食物を栄養に転換して吸収 腕組みをすると伸びるスジ

膀胱 
目頭から頭、後頚を経て背骨の脇を下り、太ももやふくらはぎの裏側を通り足の小指の先まで 背骨を支え自律神経を調整する
腎 
足の裏から脛や太ももを上り腹の中心やや外を通って鎖骨内端まで ホルモン系の調整 元気(親から受け継いだいのち)の宿るところ 驚き、恐れに関連
 前屈すると伸びるスジ

心包 
胸から腕の内側を通り前腕の中央、手のひらの真ん中を通り中指先まで 心臓などの循環機能 両腕を左右に広げると伸びるスジ
三焦 
薬指先から腕の後側、肘頭、肩を経て耳の裏から眉毛の外端まで リンパ、免疫など防衛機能 熱を焦がして体温を維持する 自分を抱くと伸びるスジ

胆 
目じりから側頭部後頚部、肩を通り体側を下って足の薬指の先端まで 関節や筋肉などの支持器官の運動に関与 肝っ玉 肚 決断を生む 
肝 
足の親指から足の内側を経てわき腹まで 行動力の源 解毒 怒りに関連 身体を捻ると伸びるスジ

○ツボ
 ツボは通常はつぼんでいる。必要に応じて現れるが入り口は警戒してつぼんでいる。壺・莟・蕾・窄と語源が同じ。上手に触れないと開かない。

経穴は中国の名前。穴も八の字のごとく入り口が閉じている。

(補:ツボはいつもそこに存在しているわけではありません。身体の状態で顔を出したり引っ込んだりしているのです。丁寧に触れるとつぼんだ口が開いてぴたりとツボにはまることができます。ですから知識としてツボを覚えるだけでは不十分なのです。いかに触れるか。これが肝要)

重要なツボ(治療・診断・予防)

古典的には全身に365穴あり、次々に新穴が発見されている。

肺経  中府 尺沢 列缺 少商

大腸経 合谷 手の三里 曲池 迎香

胃経  地倉 気戸 天枢 梁丘 足の三里

脾経  隠白 商丘 三陰交 漏谷 血海 腹結 大横 

心経  極泉 神門 少府 少衝

小腸経 少沢 後谿 養老 肩貞 肩外兪 聴宮

膀胱経 睛明 天柱 風門 腎兪 委中 承山 

腎経  湧泉 照海 復溜 兪府 

心包経 曲沢 げき門 内関 労宮

三焦経 中渚 陽池 外関 天よう 絲竹空

胆経  瞳子りょう 風池 肩井 居りょう 丘墟

肝経  太衝 中封 曲泉 

その他

督脉(大椎 百会 神庭) 

任脉(会陰 曲骨 気海 水分 だん中)

四総穴

頭項・・・列缺(れっけつ)

面目・・・合谷(ごうこく)

腰背・・・委中(いちゅう)

肚腹・・・足の三里(あしのさんり)

(補:古典に書かれている四つの重要なツボ。それぞれの部位に総括的に効果があるとされています。列缺は手首の脈のところで、手首のしわから指三本肘寄り、合谷は手の親指と人差し指の付け根のところ、委中は膝の真裏、足の三里は膝皿の下外側です)

○ツボ刺激の方法

指圧

指圧の三原則
垂直圧・・・皮ふやコリに垂直に圧を加える
持続圧・・・通常数秒間同じ圧を持続する
支え圧・・・身体を持たれかけて支え合うように加圧する圧を加える反対側から支える

いずれも精神集中して行う

触(ふ)れると触(さわ)るは異なる
触れるとは相手の中に染み入るように手を当てること
心に触(ふ)れる
触(さわ)られるとシャクに障る

あん摩・マッサージとの相違
あん摩は中国で生まれ、源流はインド 経絡の気の循環を助ける
マッサージは西洋医学の生理学血液循環学説に基づく
指圧は中国のあん摩の圧迫法と西洋の神経学説に基づく脊椎療法、それに日本
古来の医療術を元に大正時代に生まれた

経絡体操
おおらかに のびやかにスジをのばす
深くしみじみと呼吸しながら行う

お灸
せんねん灸 電気温灸器 ドライヤー


爪楊枝を10本束ねて皮ふが赤くなるまで軽く叩く

摩擦
皮ふを赤くなるまでさする

参考図書
『スジとツボの健康法』増永静人著 潮文社 
増永静人

1925年広島県生まれ。京都大学哲学科で心理学を専攻。卒業後、父祖の業である指圧界に入り、実技を修める一方古今の文献を読破して指圧療法の理論の確立につとめた。

「経絡というものは人間の生命、経絡の中に生命がある。これは善い。これは悪い。と人間はそれを分けて考えるがその出発点は間違っている。歪みは悪ではない。人間歪むところに働きがある。善悪という歪みができてはじめて人間という存在が成り立つわけだ」(増永先生が亡くなる半月前、恵子夫人が口述筆記したもの)

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游氣風信   No.169 2004. 1. 1

訪問リハビリ雑感

平成12年(2000年)4月に介護保険が施行されてから四年近い年月が流れました。

この制度は老人福祉の中の介護分野を社会保険として独立させたものです(実際には保険料と公費の折半)。したがって国民が義務として保険料を納入し、権利として平等に介護支援を受けることが可能になりました。

それ以前の介護は公費(税金)を用いた措置として行政の判断に基づいて個別のケースに対応していました。しかも老人医療と老人福祉とで分担していたため、その境界があいまいで、なおかつ行政の窓口が複雑でどこに依頼したらよいのか不明瞭、利用者にとって大変不便なものでした。

今回、介護保険において介護支援専門員(ケア・マネージャー)という専門家が生まれました。彼らは介護の必要な方に緻密に対応し、行政や業者の仲介をしてくれます。ケア・マネージャーに中心的役割を担わせることで介護支援の窓口が一体化され非常に分かりやすいものになりました。

ケア・マネージャーがプロとして介護制度の申請や保険費用の管理を担当することでわたしたちは安心して制度を利用することができるのです。彼らは個々の状況に応じてサービス内容を医療・福祉・介護から選別してケア・プラン(介護計画)を組み立ててくれます。

介護保険は40歳以上の国民が保険料を納めることで介護への関心を高めると同時に、福祉がお上から与えられるものではなく、国民の権利であるという意識を養成する効果あります。

介護保険制度によって 家族は介護という家庭内に幽閉されていた困難な営みを外部化することが可能になり、時間的にも精神的にも随分解放されるようになったのです。

無論、問題点や改良点は山積みです。介護認定の公平性の難しさ、痴呆の問題、なにより早くも不足が露呈した財源とそれに派生する応益負担(利用に応じた費用負担。現在は一割)の値上がりの可能性。介護施設による要介護者等の抱え込み。まだまだ多くの問題点は指摘されていますが、施行以前と比較すると大変な進歩です。

わたしが訪問リハビリ・マッサージという医療を通じて介護や福祉に関わるようになったのは二十代半ば、この仕事についてまもなくでした。ですからかれこれ二十数年経つことになります(1980年・昭和55年頃)。その間数十軒のお宅に伺いました。

当初、在宅での介護はほぼ全面的に家族に委ねられていました。もっと言えばその重責のほとんどが妻か嫁にのしかかっていたのです。

また当時老人の医療費は無料でしたから社会的入院という名目で病院に長期間留まっていた方も多かったのですが、それも次第に難しくなり、どんどん家庭に戻されつつある頃でした。

当時は介護とかリハビリという言葉も一般的でなく、家族が手探りで身体を拭いたり、闇雲に支えて歩かせたりしていたのです。

終日、湿って垢のこびり付いた布団に横たわり、世間体が悪いからと日の当たらない納戸に押し込まれ、まるで倒れたことが罪悪のように恥じて暮らしておられました。老々介護という言葉はありませんでしたが老夫婦だけでの難渋した日々を送るお宅が多かったと記憶しています。

介護は一部の例外を除けば、ある日卒然と寝たきりの家人を抱えるところから始まります。元気だった家族が全面的に世話をしなければならない要介護者となるのです。経済の柱であった人も、精神的要だった人も、将来を頼りにしていた子供も・・・病気は容赦ありません。

家族は何をどうしていいのか途方にくれるばかりです。医療も福祉も介護も法律も何もかも分からないことばかりです。その不安と苦労たるや想像を絶するものがあります。

服の着せ替えや食事の与え方、入浴、排便、体調のコントロール。意思の疎通。社会資源などの制度の利用。あらゆることを手探りで始めなければなりません。考える猶予は無く、その日から必死の毎日を模索しながら過ごすことになるのです。そして介護がいつまで続くのか誰にも分かりません。この見通しの無さは相当な重圧です。そして行政に相談たくても窓口が分かりません。

医師は親身になって往診はしてくれますが、介護の知識はありません。病院のケースワーカーや市役所の民生委員は制度の相談に乗ってくれますが、オムツの当て方などの技術に関しては門外漢です。親戚は忙しい最中にやってきて言いたい放題騒ぎ散らかしてオムツ一つ交換することなくさっさと帰ってしまいます。

当時はそんな状態で、家族もそれを助ける周辺の人たちも本当に手探りで介護をしていたのです。

家族はそんな中で服の着せ方や脱がせ方。オムツの当て方。食事の摂らせ方。
体位交換。車椅子への移動。手足の拘縮予防の運動法。歩行訓練。さまざまなことを実践的に身に着けていきました。

介護は24時間体制でしかも年中無休です。

その上いつまで続くのか分かりませんからゴールは見えません。旅行どころか買い物さえもままならない毎日を過ごします。精神的にも経済的にも身体的にも限界点・臨界点を際どく生きてこられたのです。

そしてそんな暮らし振りにやっと慣れができた頃、広報などで市が行っている介護教室の存在に気づきます。そこで何か参考になることはないかと期待をもって出かけるのです。何か役に立つ技術や知識が得られるに違いないと。

しかし結局はがっかりして帰宅します。なぜなら、せっかく時間と交通費をかけて参加してもそこで学ぶ技術はすでに暗中模索の中から獲得したものでしかなかったからです。あるいはあまりに一般的で個体差を埋め込むだけの深みをもっていなかったからです。

これは仕方の無いことです。多くの人に教えるには基礎的なことが重要です。
しかも個々の要望に一つ一つ応えることは不可能ですから。

その上、家族が日々の困難の中から必要に迫られて見つけ出した技術は既に専門家のレベルに至っています。日々24時間、年中無休で実際に介護している人を専門家と呼ばずして誰を専門家と呼べばいいのでしょう。やっている方法は専門家から見て正しくないかもしれませんが、介護者と要介護者との間で試行錯誤の果てに、それは見事な技術に昇華されていたのでした。

このように介護は家庭で困難の中で模索しながら行うものだったのです。そこにあるのは閉塞と疲弊と絶望でした。(もっとも介護を通じてある種の充実感や達成感を見出す方も数多くありました。このような方は実に生き生きとしてこちらが励まされます)

それから何年か経て、老人福祉制度が充実し、市町村毎の社会福祉協議会を中心にホームヘルパーという介護の専門家が登場します。ほぼ同時に医療機関からも訪問看護のために看護婦さんたちが動き始めました。県や市町村の保健婦の活動も活発になりました。

彼女たちが定期的に家庭訪問して身の回りの世話を助けるようになって、介護事情が激変します。もちろん良い方へ車輪が回りだしたのです。

在宅だけではありません。デイサービス(日帰りで施設に出かける、昼食や入浴、リハビリやゲームなどを行う)やショート・ステイ(数日間施設に預けることで家族の旅行や入院などの緊急事態を助ける)などの施設介護も充実してきました。家庭に介護の専門家が出入りするだけでなく、要介護者を家庭外へ委ねることで家族の負担を大いに軽減することが可能になりました。

参考:

「1989年、8法改正従来のあり方を総決算

市町村ベースの福祉形態の展開を法の上で改めさせる。
・県レベルから市町村レベルへの責任の移行
・在宅サービスが法的に位置づけられた。
~通所型のデイサービスからホームヘルプまで法的根拠を持つようになる。措置制度の中に組み込められる。~計画の義務づけ。」
(http://leong2000.at.infoseek.co.jp/保育研究の広場より引用)

現場に光明が差し込んできたのは、こうした法改正の動きが現実化したものなのでしょう。ところが一匹狼で横との連絡なしに在宅リハビリ・マッサージに関わっていたわたしは法律や制度の変革には気づきませんでした。ただ要介護者のお宅での予期せぬ大きなうねりに直面し、大変驚き、感動したのでした。
そして何人かの介護専門家と知り合いになって、より積極的に訪問マッサージに参画するようになります。

その頃の介護状況の革命的変化は個人的な印象では後の介護保険導入時の比ではありませんでした。介護保険は制度こそ新しいものですが、現場での変化はその当時の延長に過ぎないのです。

一番大きな変化は頻繁に介護福祉士(ホームヘルパー)や訪問看護士が訪問するようになったことですが、そうした人的援助以外に介護の補助具の導入が大きな助けとなりました。

まず、それまで床に布団で寝ていた要介護者が病院と同じ介護ベッドを用いるようになりました。福祉からの貸与もしくは援助による購入やリースが可能になったのです。最初は手動式でしたが、すぐに電動式が普及しました。これで身体介護がずいぶん楽になりました。年老いた家族でも労無く要介護者の上体を起すことが可能ですし、何より本人もボタン一つで好きなように坐位に移向することが可能になりました。

介護ベッドはベッド自体の高さも上下しますから、食事の介助、着替え、清拭(せいしき・身体を拭き清める)などの作業が楽になり、介護者の腰痛の予防にも役立ちます。

高さが自分で調節できるので本人の立ち上がりもやり易くなり、車椅子やポータブルトイレへの移動も能力さえあれば少しの介助で可能となりました。

さらに褥瘡(じょくそう・寝だこ)予防のエアマットの普及。これは肉眼では見えない細かな穴の開いたマットに絶えずポンプで空気を送り込むものです。
このマットに寝ますと身体が宙に浮いたような状態になりますから体圧がかからず血行不良による褥瘡ができにくいのです。これで寝たきりの家族を世話する家庭は二時間おきの体位交換という激務から開放されました。

簡易リフトも重宝です。重い要介護者もこれがあれば楽々車椅子に移行できます。入浴も大変楽になりました。

先ほど、垢にまみれて寝ていたと書きましたが、ヘルパーの参画で今日ではどの要介護者も清潔に保たれています。彼女たちは要介護者の身体をタオルできれいに拭くのですが、特にベッドの上で洗面器とペットボトルを用いて頭や足を洗うという技術には感心しました。

それまで寝たきりの方の寝床には剥離した皮ふが雪のように積もっていたものでしたが、ヘルパーたちの活躍でみなさんいつもぴかぴかつやつやした手足になりました。シーツもパジャマもぱりっと清潔です。

身体の清潔のためには1に入浴、2にシャワー、3に清拭です。

ヘルパーがいかに一生懸命清拭を行っても入浴やシャワーにはかないません。
体調さえ許されるならぜひ入浴したいものです。要介護者の気持ちもゆったりできます。しかし入浴はとても大変な行動です。もしその方が入浴できるなら、おおよその生活能力は確保できていると言い切れるほどの一大事業なのです。

しかも仮に身体能力があっても家庭によっては車椅子が入れない風呂場も多いので、入浴は最も困難な生活支援のひとつでした。

ところがその頃、車に浴槽を積んでの訪問入浴が始まりました。訪問は男性職員一人と女性職員二人という組み合わせが一般的です。女性の一人は看護士で、入浴前に必ず血圧や脈拍、体温や呼吸数どのバイタルチェックをします。

訪問入浴は部屋に浴槽を運び、お湯をいれてきれいに洗ってもらうので、要介護者の一番人気です。難点はどうしても経費がかさむので月に数回しか頼めないことでしょう。一回12000円位かかります。一割負担で1200円。それでも三人がかりの大変な仕事ですから決して高いとは言えません。

それを補うのが充実してきた介護施設。日帰りで要介護者を預かり、昼食、入浴、リハビリなどのサービスをしてもらえます。これで家族に時間的余裕が確保できました。

駆け足で過去を振り返ってみました。

さまざまな問題を孕みながらも、介護保険制度は重要な制度として国民に認知されてきたことでしょう。これからも紆余曲折を経て、より良い形に発展してもらいたいものです。

後記

介護とはつまるところ食べさせて、排便の世話をして、清潔を保つことです。
親が赤ちゃんにしたのと同じことを子供が親にする。これが通常の介護です。
大きな違いは親は赤ちゃんのように可愛くないこと、身体が大きいこと、意思表示が泣いたり笑ったりだけの赤ちゃんと異なり、人生経験を尊重しなければならないことです。食べ物だってミルクだけとはいきません。そこにさまざまな問題が生じます。人間関係もこじれます。とても一筋縄で片付く問題ではないのです。

それを家族だけで引き受けてきたことに問題がありました。介護のために自分の人生を終えてしまう。いつまで続くのか分からない。夜昼なく起されて世話をする。こうした介護地獄からの解放されたいのです。

そこで密接な家族という閉塞空間に他者が入ることによって逆に深々と息がつける空間が開かれるということは確かなのです。子育ては当の昔から保育園や学校に外部化されていますから、それを介護にも広げることが必要であると社会の意識が変わったのです。

今後、好むと好まざるとに関わらず、半数の人は介護の世話にならなければならないといわれます。たとえ期間の長短はあったとしても。

家族が家族であることの悲劇。これをいささかでも救済してくれる介護保険であって欲しいと願います。それを育てるのはわたしたち国民の義務とも言えます。


(游)

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游氣風信 No.168 2003. 12. 1

寒い俳句

 今月は俳句特集です。

 先月まで難しいお勉強ばかりしてきましたから、今月は気分転換。年末にふさわしく冬の寒さを表現した俳句をあちこちの歳時記を渉猟して探してきました。

ビルの影踏絵の如し冬の朝 落合冬至

 冬の寒々とした朝の光景です。ビルの影が道路に凍てついています。そこを作者は踏んではいけないもののように歩くのです。ビルの影を踏絵と見立てたところに作者の心情が詠み込まれています。都市生活者なら誰でも共通の体験はしているのではないでしょうか。

ロボットがロボット作る冬真夜中 安井信朗

 これも現代の無機質性を即物的に詠んであります。現代社会とはコンピュータが操作する機械が社会の枠組みを構成し、その隙間に人間が暮らしているのです。

大きくて冷たき靴を揃へけり 栗島 弘

 日常の何気ない動作の中に実感する冬。作者は靴の重さや大きさより冷たさに驚いたのでしょう。栗島さんはわたしの所属している俳句結社『藍生(あおい)』を代表する作家です。

極寒のちりもとどめず巌ふすま 飯田蛇笏

 蛇笏は教科書に必ず取り上げられる大家です。山梨の山深い里で生涯を送りました。信州の山波を優美と讃えるなら、甲州のそれは実に武骨な魅力を湛えています。この句は寒さの極まった頃の屹立した巌を詠んでいます。「ちりもとどめず」という措辞に厳しい寒さが言い留められている名吟中の名吟。

大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太

 龍太は蛇笏の息子。しかし親の七光りなど関係なく戦後をリードした俳人です。この句には先の蛇笏の句が見え隠れしています。これは真似ではなく、挨拶とみるべきでしょう。大寒の凍てきった故郷を「一戸のかくれなき」と表現しました。蛇笏、龍太ともに写実以上に真実をことばとして写し取りました。

白日は我が魂なりし落葉かな 渡辺水巴

 冬空に掛かる太陽。白々と燃えています。それを水巴はまるで自分の魂のようだと見立てたのです。辺りは散り敷いた落ち葉ばかりのさびしい景色。果たして作者の心境はいかなるものだったのでしょうか。

凩を連れて帰るよひとりの部屋 菖蒲あや

 凩は厳しい北風です。職場からの帰りなのでしょう。作者は木枯らしの中に弧絶して歩いています。部屋に帰っても独り暮らし。道中も家も孤独。ならばせめて凩を連れて帰ろう。俳人らしい気持ちの転換です。

木がらしや目刺にのこる海の色 芥川龍之介

 あの芥川龍之介です。彼は俳句も大変上手で、文人の余技に留まらない超一流の詠み手として知られています。句は「目刺にのこる海の色」と感覚的でありながら凩という季語の俳味を十分に生かした佳句となっています。

海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

 凩の句で最も有名なものの一つ。渺々たる凩が海上に出て、最早二度と帰ってはこないという無常の句です。作者の自解によると神風特攻隊に思いを寄せて詠んだとされていますが、そうした時代的背景を知らなくても名句として膾炙しています。この句には先行する句がありました。江戸時代の作品です。

木枯の果はありけり海の音 池西言水

 これがその先行句です。作者はこの句によって「木枯の言水」と称されました。言水は海の音を凩の果ての音と聞いたのでしょう。凩の行く末に人生の果てを感じないわけにはいきません。

一合の酒遠ざかるもがり笛 黒田杏子

 もがり笛は虎落笛と書きます。虎落とは戦場の先端に作った囲いのことで、竹を槍のように削いで組み合わせたものです。虎の落とし罠の中に仕込んだり
もしたのが命名の由来でしょう。そこから派生して竹の枝を利用して作った物干しのことも指すようになりました。そうした柵や竹垣を北風が吹きぬけるときに立てる物悲しいヒューという音をもがり笛と呼びます。作者は静かに酒を酌んでいます。そのとき家の周囲を吹き抜けるもがり笛の音が次第に遠ざかって行ったのでしょう。酒と風だけに焦点を絞った力強い句。黒田杏子はわたしの俳句の師匠です。

隙間風来る卓上に林檎一つ 山口青邨

 隙間風はどこからともなく入ってきます。俳人は寒さを嫌うことなく事象として味わうのです。隙間風は心の中にも吹くことでしょう。作者の心中をさびしい隙間風と一点の真っ赤な林檎が語らずして語っています。青邨は黒田杏子の師匠です。

雪絶えしこの音が雪降る音か 有働 亨

 人間の耳には絶えず何らかの音が入っています。全くの無音には耐えられないそうです。雪の降る静謐。作者にはしんしんとした音なき音が聞こえているのでしょう。

雪降れり時間の束の降るごとく 石田波郷

 これも静謐な句ですが、どこか人生の重さを感じさせます。波郷は輝くばかりの青春性俳句を横溢させた前半生に対し、一転して後半生は結核に苦しみながら療養俳句というジャンルを生み出しました。

みづからを問ひつめゐしが牡丹雪 上田五千石

 五千石も青春のある一時期、精神を病んで苦しみました。それを俳句で乗り越えてから、生涯を俳句に賭けた人です。数年前、惜しくも六十数歳にして亡くなりました。牡丹雪が重く降り注ぐ中、自らを厳しく問い詰める青年だったのです。

雪の水車ごっとんことりもうやむか 大野林火

 童話的な俳句。林火は叙情的俳句で知られます。

絶頂の東西南北吹雪くかな 折笠美秋

 東京新聞の記者をしていた時、ALSという難病に罹ります。四肢および呼吸機能まで失いながらも最期まで俳句を詠み続けました。その感動的な闘病はテレビドラマにもなりました。

雪野へと続く個室に父は臥す 櫂 未知子

 現代の若手を代表する俳人。重い病に臥せっている父の病窓から、遠く雪の野原が見えます。あるいは雪を被っていつもの町が雪野に見えたのかもしれません。肉体は封じ込められていても魂の自在性があります。そこに救いが感じられます。

雪女音なく香なく過ぎしなり 三谷 昭

 俳人が好むものに雪女があります。吹雪の中に現れる幻想的・古典的妖怪。
その実態はこうした存在感の無さでしょう。

火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ 能村登四郎

 作者が何かを焚いている枯野のはるか彼方を誰かが通り過ぎていく。淡彩画のような風景です。懐かしい孤独感。同じ作者に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」という青春のアンニュイな孤独感を詠んだ名句があります。

みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ 鷹羽狩行

 美しい句です。二十代の初め、この句に出会って俳句観が一変しました。それまでの枯淡とか侘び・寂びという俳句の印象を根底から覆されたのです。
「霧噴いて蛍籠より火の雫」「スケートの濡れ刃携え人妻よ」なども狩行の作品です(表記は正しくありません)。現代を代表する作家。

重ね着の師のうつくしき過去未来 勝又一透

 寒さを凌ぐために厚着をします。もこもこと膨らんだ姿はどこか滑稽です。
「着膨れ」ということばもあり、こちらの方がさらにユーモラスな感じ。恩師の重ね着姿はさすがに端然とうつくしいようです。その恩師の過去と未来が今眼前の重ね着に集約されているのでしょう。未来はなかなか見つからないことばです。

蝶堕ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男

 俳句史に鉄槌を打ち下ろした作品。この作品により従来とは全く異なった俳句が生み出されるようになりました。しかし俳句と現代詩との境界も不鮮明になりました。なぜなら赤黄男は「象徴主義の詩の影響を受け、俳句に抽象表現、隠喩(メタファー)、アナロジーなどの西洋的な手法を積極的に導入して、近代人の憂愁を表現しようとした(四ツ谷龍)」からです。

山河けふはればれとある氷かな 鷲谷七菜子

 俳句らしい表現です。その分、日本語としては少し妙だともいえます。俳句が日本語を用いながらも日常の文法をいささか逸脱することで韻文として成立している所以です。「山河は今日はればれとしている」と「はればれとある氷」が微妙にずれつつひとつの世界を生み出しています。

午過ぎて枯木の色となりにけり 加藤楸邨

 人間探求派楸邨らしい句です。枯木はいつだって枯木ですが、昼過ぎになっていかにも枯木の本質が表面化してきたと言うのです。枯木が人生の深さを感じさせます。

外套を着せられてゐる別れかな 原田青児

 意図的に作られたようにも感じられる情景ですが、人と人との交わりの中の一点景をうまく捉えています。

冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城

 極めて有名な句。冬の暖かい日、蜂がおろおろと歩いていることがあります。昆虫は体温が一定以上にならないと動けないのです。それを死に所なく歩いていると見立てたのは鬼城の人生観です。わたしはこの句を見るといつも志賀直哉の『城の崎にて』を思い浮かべます。蜂の亡骸を見た直哉のさまざまな思いがつづってあります。

金溜まることに縁なき柚子湯かな 鈴木真砂女

 冬至の日は南瓜を食べて柚子湯に入る。今でも継承されている行事です。湯に浮かべた柚子の香に包まれながら金に縁のない人生だったなと来し方に思いを馳せているのでしょう。真砂女は九十過ぎまで銀座で小料理屋を営んでいました。俳人や文人の溜まり場として知られた卯波という店です。夫と子を捨てて妻子ある軍人と駆け落ちしたセンセーショナルな人生は瀬戸内寂聴によって小説となりました。真砂女とも寂聴とも親しい黒田杏子は真砂女を「恋深き女性」と称して敬慕しています。

冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男

 非の打ち所の無い名句。楸邨・波郷と同じく人間探求派として俳句史に大きな足跡を遺した作家です。冬の水の玲瓏で冷たく引き締まった感じを「欺かず」が見事に表現しています。

寒灯に柱も細る思ひかな 高浜虚子

 寒い夜の灯火はどことなく一徹な孤独感を漂わせています。まさに柱も細る思いです。寒さは身体だけでなく心も寒々とさせます。

節分の高張立ちぬ大鳥居 原石鼎

 節分がやってくると次の日は立春。春はすぐそこです。季語は季節感。寒さの最も厳しい中にこそ春の先駆けを見出すのです。節分の日の鳥居に高張提灯が掲げられています。高張とは高張提灯のことです。鳥居と提灯。ただそれだけの景色ですが、厳しい冬もあと少しとなった心のゆとりが感じられませんか。原石鼎はわたしの大好きな作家で、十代の終わり、石鼎が興し未亡人コウ子夫人の継承されていた結社『鹿火屋』に入会したのでした。これが俳句に本格的に取り組んだ端緒となりました。

参考
写真俳句歳時記 冬 現代教養文庫
俳句歳時記 角川書店
現代歳時記 成星出版
季寄せ 明治書院

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游氣風信 No.167 2003. 11. 1

膀胱のはなし


一般には六臓六腑ではなく五臓六腑と言いますが、漢方で言う内臓は肝・心・脾・肺・腎の五臓に加えて心包で六つの臓、胆・小腸・胃・大腸・膀胱に加えて三焦で六つの腑となります。それぞれの意味については今まで勉強してきました。

 膀胱は西洋医学では腎臓で血液を濾して生成された尿を貯め、必要に応じて排泄する最も単純な袋状の器官です。

 しかし漢方の膀胱は全く異なります。先月の腎が現代医学風に説明すると腎臓と内分泌の作用を担当し、元気の源であると学びましたが、膀胱はそれに習えば自律神経に深く関与して全身を調節していると言っていいでしょう。

 膀胱の経絡は目の内角から頭の頂を通り、脊中の両側を走り、下肢の真ん中を脚の第五趾外側まで走ります。ここで注目すべきは脊柱を支えるように両側を走っていることです。

 

 ご存知のように脊柱には脳から出てきた脊髄が通っています。脳からは脳神経、脊髄からは脊髄神経が各器官に伸びています。これらを自律神経と呼びます。そして自律神経こそが知らないうちに生命維持をしている中枢なのです。
まさに生命の自動制御装置。生命の土台です。

 ですから先月の腎と今月の膀胱は漢方的にみると生命維持に極めて深く関わる臓腑なのです。 そのことに古人も気づいていたのでしょう。膀胱経の背中に部分には各臓器を冠した経穴(ツボ)が並んでいます。たとえば肺兪、心兪、肝兪、胃兪という具合です。

ということで、膀胱にいくまえに広辞苑で自律神経を引いてみます。

『広辞苑』

自律神経

「意志とは無関係に、血管・心臓・胃腸・子宮・膀胱・内分泌腺・汗腺・唾液腺・膵臓などを支配し、生体の植物的機能を自動的に調節する神経。交感神経と副交感神経があり、その中枢は脊髄と脳幹にある。植物性神経。」

植物性機能

「(植物にも見られる生理作用であるからいう)生物、とくに人間の生命現象のうち栄養・生殖・成長作用を総括的にいう語。」

 少し神経に関して整理してみましょう。参考は『人体解剖学入門』(三井但夫創元医学新書)によります。

「神経は大きく分けると中枢神経と末梢神経に分類できます。中枢神経はさらに脳髄と脊髄に分けられます。同様に末梢神経も脳脊髄神経と自律神経に分かれます。ざっとまとめると以下のようになります。

神経系

中枢神経(頭蓋骨や脊椎骨で保護されている)

1 脳髄

2 脊髄

末梢神経(体のすみずみに分布)
1 脳脊髄神経(脳神経および脊髄神経)
   意志に従って筋肉を自由に動かせる運動神経と熱い、冷たい、痛いなどの感覚を感じる知覚(感覚)神経がある 別名体性神経または動物神経
2 自律神経(交感神経および副交感神経)
   意志に従わないで、自然に、無意識的に、体内の諸機能を調節している  別名植物神経」

今回問題としている自律神経の中枢は脳髄の中の間脳にある視床下部だとされています。

「交感神経と副交感神経は視床下部から起こり、内臓、心臓、血管、筋肉などに指令を伝達し、あるいは体温、血液、睡眠、覚醒などを調整する、いわば生命保持に直接必要な神経の元締めともいえる。(前掲書)」

「人間は精神の影響で身体がいちじるしく変化するといわれる。つまり、不快なものを見聞嗅すると胃腸の具合が失調し、怒りによっては血圧、心拍動、立毛筋などまで変化する。これら精神身体現象の座はこの視床下部にあるといっても誤りではない。(同書)」

自律神経の中枢は別にもあります。同じく前掲書から。

「中枢神経としての脊髄は、いろいろな反射中枢を含んでいる。このなかには生命保持に絶対に必要な自律神経の中枢がある。すなわち、脊髄の全長にわたって血管の収縮、拡張、血圧などを支配する血管運動中枢や発汗中枢があり、最上部の頚髄には呼吸運動中枢、頚髄と胸髄の境界部には、眼に関係する瞳孔散大中枢がある。さらに胸髄には乳汁の分泌中枢、下って仙髄(実際には脊中の位置からいうと、第一、第二腰椎の高さに位置している)には排便、排尿、勃起、射精、出産などの中枢がある。

これらのうち、呼吸運動、血管運動、瞳孔の変動などの反射は、さらに脳髄にその上位の中枢があって、それと共同して働くのであるが、頭部を除いた発汗、排便、排尿、勃起、射精、出産、乳汁分泌などは脊髄にある中枢が唯一のもので、これが損傷されれば、それらの統制が完全に失われるようになる。」

 だんだん難しくなってきました。そこで久しぶりに小学向けの学研の図鑑『人とからだ』に登場してもらいましょう。

2つの神経系

 「わたくしたちのからだには、大きくわけて、2つの神経系がはたらいています。

 その1つは、見たり、聞いたり、さわったりしたようすを脳に知らせ、つぎに脳から筋肉にめいれいを出して、行動をおこさせるはたらきをしている神経です。これを“知覚と運動の神経系”と、いっています。

 もう1つは“自律神経系”といわれるものです。これは、内臓のはたらきを、わたくしたちが知らない間に、うまく調節してくれます。また、だ液やあせやホルモンなどの分ぴつも、調節します。

 自律神経系にも2種類あって、一方がはやめれば、一方がおそくするといったぐあいに、おたがいに、ぎゃくのはたらきをしています。」

 子ども向けは分かりやすいですね。知らない間に内臓の働きを調節してくれている神経系を自律神経系というのです。それがうまく働かなくなったとき、自律神経失調症と診断されます。

 自律神経は精神作用とも深い関わりをもち、互いに影響しあいます(自律神経の調整に呼吸法が優れた働きをすることは肺の項で学習しました)。

 さて次は膀胱です。これは実に簡単に説明できます。

大辞林

膀胱

「脊椎動物の排泄器官。排出に先立ち、尿を一時蓄えておく筋性の嚢(ノウ)。ヒトでは小骨盤内にあり、底部左右に尿管が開口、前部が尿道に続く。最大容量は五〇〇~八〇〇ミリリットル。」

 膀胱とは有り体に言えば、おしっこを一時的に溜めておく筋肉の袋です。これが無いと常に尿を垂れ流すということになりますから、動物にとってねぐらの衛生上良くないでしょう。また、走ったりするときも不自由なことでしょ
う。

さらに人類に至っては着衣が湿ってしまうという不具合が生じます。それに社会的マナーの問題も絡んできます。これはオムツを当てなければならない赤ちゃんの世話や排尿障害の人の苦労を想像すれば容易に理解できることです。

では、次に漢方的にみた膀胱です。

『スジとツボの健康法』増永静人著 潮文社

膀胱

「腎の内分泌と協調する下垂体、自律神経系の働きと生殖機能、泌尿器周辺の臓器を支配し、体液清浄の最終産物である尿を排泄します。

 症状としては、神経緊張が強くて過敏に反応し、背筋がつっぱったり、腰の力が抜けた感じになります。目がしらが重く、頭重、後頭部がズキズキし、自立神経失調症状を呈することが多いようです。

 下腹から足を冷やして小水が近くなり、また尿の少ないこともあります。下腹部が張ったり痛み、膀胱炎や残尿感、背部がゾクゾクし、腰痛や腰の折れる感じがします。

 後頭から目がしらにかけて重圧感があったり、背筋の痛みや背中が固くなって曲がるなどの症状があります。」

 膀胱経は眼からおでこ、頭の中心線の少し外側を通り、頚から腰まで背骨の両脇を下っていきます。そこから下肢の後側ハムストリング、ふくらはぎを経て足の小指までという長い経絡です。

 背骨の両脇の筋肉は起立筋と呼ばれ、人間が立つという姿勢を維持するために重要な働きをしています。さらにその筋肉は背骨を保護しつつ支えています。膀胱経はその筋肉と深く関連しています。それで脊髄や脊髄神経との関わりも重要なものとなるのです。

 以上のように西洋医学では一時的に尿を溜める袋に冠された膀胱ですが、漢方本来の考えでは生命維持(自律神経など)に深く関与する重要な働きをするものなのです(膀胱など内臓の名前は元来漢方の名称を蘭学渡来時に西洋医学の臓器名に代用しました)。

 

足の太陽膀胱経

 眉の内端から頭部、背部、下肢後側を通って足の第五指先端まで

『鍼灸医学大辞典』(医道の日本社)

足の太陽膀胱経

 「身体の背面をめぐる最大の経脈で、所属する経穴は63穴に及ぶ。直接関与する臓器は、脳、膀胱、腎であるが、間接に関与する臓器はほとんどすべてに及び、また水経の陽経であるので、身体の水分の排泄に重要な関係がある。経脈の性質は血が多く気が少ない。その流注(ながれ)は、小腸経の分れを受けて、眼からはじまって、上行して頭部(頭頂から入って脳をまとう)頂部をめぐって、背部(脊柱をはさんで)をくだり、腰部の筋肉中をめぐって腎をまとい、膀胱に帰属するが、別に背中の最も外側寄りをとおったものと、腰から殿部にぬけたものとが合して下腿の後側中央をくだって足の小指の外側端に終わる。膀胱経は頭部で脳を貫く関係から頭重、頭痛など外因性の頭部疾患によく用いられ、また内臓の気がすべて背に通じるので、心兪、肝兪などという臓腑名の兪穴が経脈中にあり、多くの内臓疾患に用いられる。また精神的疾患、眼、鼻などの疾患、腰、下肢の痛みにもよく用いられる。」

 膀胱経の特徴は脊椎の両側を通るツボに内臓の名前が冠され、そのツボが内臓に関連していることを示唆していることです。

 以下にそれらを紹介します。棘突起とは背骨の真上で出っ張った部分で普通に指で触れることのできるところです。ツボの位置は、全て棘突起間の高さで外方2から3センチ。両側にあります。

肺兪(胸椎三・四棘突起間の高さ 肺)

厥陰兪(胸椎四・五棘突起間の高さ 心臓)

心兪(胸椎五・六棘突起間の高さ 精神反応)

督兪(胸椎六・七棘突起間の高さ 脊椎全体)

膈兪(胸椎七・八棘突起間の高さ 横隔膜)

肝兪(胸椎九・十棘突起間の高さ 肝臓)

胆兪(胸椎十・十一棘突起間の高さ 胆のう)

脾兪(胸椎十一・十二棘突起間の高さ 膵臓)

胃兪(胸椎十二・腰椎一棘突起間の高さ 胃)

三焦兪(腰椎一・二棘突起間の高さ 脾臓)

腎兪(腰椎二・三棘突起間の高さ 腎臓)

気海兪(腰椎三・四棘突起間の高さ 丹田)

大腸兪(腰椎四・五棘突起間の高さ 大腸)

関元兪(腰椎五・仙骨間の高さ 丹田)

小腸兪(関元兪の下 小腸)

膀胱兪(小腸兪の下 膀胱)

便宜上、各ツボの位置の後に関連する内臓を書きました。内臓の名前の中に意味のよく分からないものもありますから説明します。

督兪とは背骨の真上を通る経絡です。督兪は督脉全体を統べるものです。

膈兪は名前から横隔膜とされていますが、呼吸に関連しています。

脾兪は脾臓ではなく膵臓と考えたほうが西洋医学との整合性があります。その辺りの鍼刺激で糖尿病に効果があるという報告があります。

三焦兪も難しいものです。古典には三焦は「働きありて形なし」と書かれています。経絡の走行上、身体の防衛を行うと考えられますし、「焦がす」ということから、外部の温度低下にも負けないよう体内で熱を発生させるという意味もあるでしょう。身体にはホメオスタシス(恒常性・動的平衡)といって体内の状態をいつも一定に保とうとする作用があります。これは「免疫」とも深く関わります。それでリンパの親玉の脾臓としました。

気海兪と関元兪はともに気海・関元という下腹部の丹田と呼ばれる辺りにあるツボと関連しています。丹田は命の源の「元気」の宿る腎とも深く関わります。

指圧を受けたことのある方ならお分かりのように、背骨の両脇を丁寧に押圧します。これは今まで述べたように全内臓に関連するという理由からなのです。

さらに骨格調整を主体とした整体やアメリカのカイロプラクティックも背骨を中心に構築された手技医療です。これも同様の理由です。

背骨は西洋と東洋の伝統療法の橋渡しをすると同時に、神経学的に西洋医学とも交錯する重要な器官なのです。

膀胱経はそこに深く関わるということを記憶しておいてください。

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游氣風信 No.166 2003. 10. 1

腎のはなし

腎はとても複雑な意味をもった臓です。ですから私自身も把握しきれていません。よって説明に困惑しています。西洋医学の腎臓も大変に多用な化学工場のような働きをしていることで知られていますが、漢方の腎はもっと広い意味を有しているからです。

西洋医学では肝臓も腎臓も化学工場のような働きをしていると明らかにしました。肝臓が腸で吸収された栄養を取り込む際の化学工場として毒素を排斥するところ、即ち門番としての役割を担うところなら、腎臓は体液調節の場としての化学工場です。その廃棄物が尿です。

 腎臓は人体の化学工場ですから腎臓の異常を人工透析という化学的手法で乗り越えられるようになりました。そのあまりの見事さに、生命の意味が「いのちから化学反応」に置き換えられたような気がすることは無理も無いことです。それまで為す術なく亡くなった重篤な病人を人工透析という医療技術が健常者と差が無いほどの生存を可能としたからです。

 ですから西洋医学の腎臓はほとんど化学反応に置換可能な泌尿器の根幹をなす臓器と言えるでしょう。

しかし漢方の腎は泌尿器だけには留まりません。現代医学で言うところの内分泌系も含むようなのです。これは大変ややこしいことになります。

そもそも漢方とは科学(客観性や再現性をもって論理を一般化することを重視する考え方)として成立しませんでした。体験を通じて現象を未分化なまま実践してきた伝承医療なのです。ですから、厳密な分析や分類はできていません。そこで現代医学とはさまざまな齟齬を生じることになります。

 と言うよりまるで異なる東西医療を対比しながら勉強すること自体が本来はおかしなことなのです。しかし現実には説明するためにはどうしても一般に知られた医学用語を用いなければ説明は不可能です。よって、あえて無理を承知で漢方の概念である腎と現代医学の腎臓を同時に説明しているのです。

 漢方用語はとても説明の難しいものです。その理由は概念的に不明瞭なこともありますし、ひとつの用語が複数の意味を持っていることもあります。

たとえば、身近でありながら説明に困窮する言葉に「気」があります。気は漢方医療のみならず中国思想の根本になる概念です。

気は一説には米を炊いた時の蒸気を図形化した文字だという説があります。古い字の『氣』はそれを示しています。気は湯気のようにはっきりとは見えないけれど蓋を動かす力、つまり目に見えない勢いをもっていると古人は直感し『氣』という文字で示しているのです。

気には具体的に現象として現れた気もありますし、不可視でもある存在を感じさせる気もあります。また、技法の伝達の際にコツや勘と同様重要な役割を担う言葉でもあります。

具体的に現れた気の例なら、例えば空に浮く雲。刻々と形を変えています。なぜ形を変えるのか。古代の人はその奥に気が存在するからだと考えました。これは勢いとしての気です。

不可視の例なら風です。明らかに存在を感じることが可能なのに見ることはできません。旗や木の葉を揺らす勢いとして存在を知ることはできます。

もっと微妙なものなら、ふと人が後ろに立った気配。姿は見えないし音も聞こえない。皮膚感覚に届くような風圧もありません。それでも何となく気配を感じて後ろを振り向く。そんなのも気です。

技法伝達の例を挙げますと、楽器を演奏するとき、気が客席を暖かく満たすように音をだしなさいなどと指導するのがその一例です。

このように私たちは日常生活のさまざまな局面で知らず知らずに気という言葉を用いています。しかしその説明を求められるととても難しいものです。気は明確に整理分類されていませんし、明確にされた段階でそれは名称が付けられて単なる気とは呼ばなくなります。電気とか蒸気とか気圧とか空気とか重力とか心とか精神力とか錯覚とか輻射熱などなど別の用語が用いられるようになるからです。

漢方ではそうした曖昧な気を人体や精神に関わる極めて重要なものとして捉えます。つまり漢方は根本から曖昧なのです。これが学問として成立しがたい理由の一つです。

気という言葉が出てきたついでにもう少し突っ込んで説明しましょう。そうすると自然に腎に関係してきます。

私たちは生きている限り、外からさまざまなものを取り込みます。

その代表的なものが空気と食べ物でしょう。人は鼻から空気を吸い込みます。
昔の人は空気の存在を知りませんから「天の気」と呼びました。天に存在するいのちに必要な勢いを呼吸・息として取り込むのです。それを主として肺や大腸の仕事と考えました(肺は分かるがなぜ大腸が呼吸に関係するのか疑問でしょうが、ここはそうなのだと素直に受け止めておいてください)。

また生物は口から食べ物や水を摂取します。これは大地の恵み「地の気(水穀の気)」です。食べ物の持つ勢いを体内に導入するのです。主として胃や脾の仕事です。

このようにいのちを保持するために外界のいのちの素を体内に取り込むのです。ところが私たちのいのちの源はそれだけではありません。生まれながらにして両親から受け継いだ気を持っています。生命力そのものと言っていいでしょう。これを「先天の気」と呼びます。別名「元気」です。

 この「元気」が宿る場所が今月の課題である腎と言われています。そして腎はこの「先天の気」である「元気」と、呼吸や消化で取り込んだ「天の気」や「地の気」(両者を「後天の気」という)と混ぜて、「精」という生命の基本
物質を作るとされています。

「お元気ですか」
「ご精が出ますね」
という今日でも普通に交わされる日常の挨拶は本を正せば漢方の言葉なのです。

昔はこうした漢方の言葉が一般に流布していたのでしょう。たとえば今月の腎に関わるもので腎虚という言葉があります。『広辞苑』で調べると「漢方の病名で、腎気(精力)欠乏に起因する病証の総称。俗に房事過度のためにおこる衰弱症をさす。」とあります。

腎虚が庶民の間に知られた言葉である一例を挙げましょう。

『短命』という落語があります。奥さんが美人過ぎて旦那が若死にするという話です。

「あいつぁ短命だったな」
「なんせかみさんが美人だから腎虚になったのさ」
「どうしてかみさんが美人だと腎虚になるんだい」
「考えてもみな、ご飯をよそう手が透き通るようにきれいだ、茶碗を持つ指と指が触れる、顔を見上げる、震い付きたくなるような美人だ・・・ああ、短命だねえ」
「そこへいくとおいらのおっかあは・・・・ああ、おいらは長命だ」

という具合。別名『長命』ともいいます。

 この落語から推測して江戸時代には腎虚という言葉が普通に使われていたものと思われます。

 では、余談は止めて本題に入ります。

『大辞林』
腎臓
「脊椎動物の泌尿系臓器の一。左右一対あり、ヒトではソラマメ形。腎単位と呼ばれる機能上の単位が約二百万個ある。体内に生じた不要物質を対外に排出し、体液の組成や量を一定に保つ。」


『新版人体解剖学入門』(三井但夫)創元医学新書
腎臓
「脊柱の両側に存在し、後腹壁に癒着して動かない。その位置は、右腎の方は左腎よりもやや低位にあるが、大体上端は第十二胸椎、下端は第三腰椎の高さである。手術で腎臓に到達するには、前腹壁よりも後腹壁の方が近い。腎臓の縦の長さ11センチ、幅約5センチ、厚さ約3センチ、重量は約130グラムである。腎臓を前頭断して、その割面を見ると、まわりの皮質と内部の髄質とを区別し、髄質部に十数個の腎錐体というものを認める。腎錐体の頂点を腎乳頭と呼び、そこから尿が出て腎杯、腎盂に流れ、腎盂はさらに尿管へ移行して、尿が逐次流れて行くのである。腎臓において血管壁から尿が濾過されてくる部は、おもに糸球体である。糸球体は一個の腎臓に約130万存在し、かつ前述の腎皮質にのみ認められる。」

『新版人体解剖学入門』(三井但夫)創元医学新書
腎臓の働き
 「腎臓は重要な血液の濾過器であって、体に不必要となったほとんどすべての物質が、腎臓を通って外へ出される。腎臓の表面を占める腎皮質の中には糸球体と称する毛細血管のかたまりがある。その糸球体と、それを包んでいる嚢とを合して、腎小体と呼ぶ。この糸球体が、血液を濾過して尿を作る場所と考えてよい。糸球体から尿細管がこれに続き、最後には腎杯、腎盂、尿管と連続するが、最初に書いた尿細管も尿の製造にとって大切な役目を果たしている。

 尿はいったん糸球体から出てくるが、尿細管で尿の一部分が再吸収され、血液中に戻って行くということは、まことに興味深い。すなわち、一度は大量に尿を放出するが、出すぎた物質もあって、これを腎臓自体が再吸収して行く生理現象である。」

 腎の一方の作用は内分泌系です。むしろこちらの方が元来の腎の意味に近いようです。ですから腎臓と副腎を働きが漢方の腎だと考えてもよいでしょう。

『広辞苑』
内分泌
「各種の腺(内分泌腺)がその分泌物を導管によらないで直接体液または血液中に送り出すこと。もとはC、ベルナーがたてた概念。その分泌物はホルモン。」


『新版人体解剖学入門』(三井但夫)創元医学新書
副腎
「腎臓の上端に付着しているほぼ三角形の器官であるが、泌尿器とは全く関係がなく、アドレナリン、コーチゾン等のホルモンを作る内分泌器官である。作られたホルモンは毛細血管の中に入り、全身に送られる。

 アドレナリンは交感神経を刺激するホルモンとして古くから知られ、末梢血管の収縮、心拍数の促進、気管支の拡大、血糖増加など、いろいろな作用をもっている。他方、副腎皮質ホルモンとして知られるコーチゾンは、体内の代謝の深い関係をもち、リウマチ、喘息、皮膚病、アレルギー性疾患などに対する治療薬として研究されている。」

内分泌
 「汗腺、唾液腺のように排泄管があって皮膚や粘膜に分泌物が排泄される腺を外分泌腺と言い、これに反し、副腎や脳下垂体のように排泄管をもたず、分泌物であるホルモンがただちに近くに存在する毛細血管に入って全身に回るものを内分泌腺という。」

内分泌は非常に複雑で多岐にわたりますから一覧表にまとめます。

・下垂体(脳下垂体は俗称。ホルモン系の中枢)
 成長促進、乳腺刺激、甲状腺刺激、副腎皮質刺激、性腺刺激(以上、下垂体前葉)、子宮収縮(後葉)、尿量減少(後葉)
・甲状腺(気管喉頭部)
 成長ホルモン
・上皮小体(甲状腺に付着、米粒大)
 血中カルシウム調節
・膵臓(ランゲルハンス島)
 インシュリン(血糖減少)、グルカゴン(血糖上昇)
・副腎髄質
 アドレナリン(血管収縮、心臓刺激)
・副腎皮質
 アルドステロン(ミネラル調節)、コーチゾン(糖・蛋白・脂肪の代謝調節
、抗アレルギー、抗炎症)、性ホルモン
・胸腺(喉の下)
 免疫作用
・卵巣(女性ホルモン)
 卵胞ホルモン(エストロゲン・女らしさを作る)、・黄体ホルモン(プロゲ
ステロン・子宮粘膜保護)
・胎盤
 妊娠状態の保持
・精巣(男性ホルモン)
 アンドロゲン、トストステロン(男らしさを作る)
・松果体(脳の中央)
メラトニン(睡眠や生殖腺抑制)、セロトニン(脳の神経伝達)
・胃粘膜
 ガストリン(胃液分泌促進)
・十二指腸粘膜
 パンクレオチン(膵液・胆液の分泌促進)
・腎臓
 レニン(血圧上昇)、エリスロポエチン(造血)
・唾液腺
 カルシウムと糖の代謝調節


 漢方の腎がこれら全てを担うというのは乱暴な話になりますが、少なくともストレスによって身体内に異変が起こった場合に速やかに調整しようとする作用を受け持っていると考えます。


『広辞苑』
ストレス
 「種々の外部刺激が負担として働くとき、心身に生ずる機能変化。ストレスの原因となる要素(ストレッサー)は寒暑・騒音・化学物質など物理化学的なもの、飢餓・感染・過労・睡眠不足などの生物的なもの、精神緊張・不安・恐怖・興奮など社会的なものなど多様である。」

ストレス学説
 「ストレスに伴う心身の機能変化を下垂体-副腎系の反応を軸として説明したセリエの学説。」

 一般にストレスというと社会的なものに限局して考えがちですが、実はこのようにとても幅広いものです。

 こうしたストレスにより環境と体内に齟齬を生じます。食い違いが生れるのです。これを何とかしていのちを保持しようとするのが腎の作用なのです。

 ですから漢方に於ける腎とは以下のようにまとめられます。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)

「五臓のひとつ。腹部にあって、心に次ぐ重要な臓器で、先天的に生命の基本になる精を宿すが、後天的には飲食物の精を得て人体の成長発育を促進し、生殖作用の中心になる。また命門の火の生じるところともされ、生命活動の根本になる。腎が弱まると性欲が衰え、元気がなくなり、排尿が阻害され、動悸、めまい、冷汗などの症状をみる。また、肺気の不足を起こしぜん息などもおこる。」


命門(めいもん)
「臓腑のひとつ。『難経』に、『左は腎となし、右は命門となす』とあり、腎のうちのひとつとしている。両腎にあるとする説。両腎の間にあるとする説などがある。機能的臓器を考えたが、解剖的なものは確定しなかった。生命の根本で、生命を維持するために欠かせない臓器であり、人体エネルギー生産に大きな働きを助け、生殖機能とも関係があると考えられた。」

『スジとツボの健康法』(増永静人)潮文社

 「体液成分の調節と内分泌の調整によって全身に精気を与え、性ホルモンの分泌、ストレスへの抵抗を司り、血液や体内毒素の清浄と決済を行っています。右腎は主に副腎内分泌機能の状態をあらわし、左腎は尿生成と水分調節の状況があらわれるとみています。

 症状としては、ものごとにおびえやすく、また何かをおそれ、驚くことが多いようで、不安な気持ちになり、ガムシャラに仕事をするが根気が続かず、何事もやりすぎの感じがあります。皮膚が黒ずんで弾力がなく、むくみがでやすい。下腹部や腰が冷えて重く、下肢がつるとか、寝不足で頭が重く、熟睡ができず、腹が固くなり、手足がはれぼったく、朝など手がにぎれないようになります。

 また、口が苦くなったりして、口臭があります。皮膚に湿疹や化膿ができやすく、鼻血のよくでることもあります。」

 ここ数年、身体をあたためる健康法が流行っています。以前小牧市民病院の耳鼻科医をしておられた進藤先生の『冷え取り健康法』(農文協)はロングセラーですし、最近は石原結実先生の本もよく読まれているようです。

 保温は保腎に繋がります。特にこれから寒くなるので必要となるでしょう。
現代は夏場もクーラーで冷やすことが多いので侮れません。
ありきたりの話ですが腎を守るには暴飲暴食、不眠、過労、房事過多などのストレスを避け、前向きに明るい心を持ち、栄養や呼吸に留意することです。

 以上を現代医学的に述べると、暴飲暴食や過労などの自らが招くストレスは極力回避し、職場の労働環境や人間環境、近所や家庭内の人間関係など避けられないストレスも、是正できる部分は是正し、不可能な部分は人生の試練、糧として柳に風と受け止めましょうということになるでしょうか。

 以下に述べる腎経のストレッチは腎に直接影響を与えるものとして効果的です。やり方は床に腰を下ろし、両足を揃えてまっすぐ前に投げ出して膝を伸ばし、上体を胸が膝に着くように前屈する、つまり最も一般的な柔軟体操の形で深呼吸をすることです。


足の少陰腎経
「足の裏から下肢内側を昇り、腹部の中央を通って鎖骨の内端に終わる。」

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
足の少陰腎経
「下肢内側と腹部、胸部、喉などをめぐる経脈で、所属する経穴は27穴である。直接に関与する臓器は腎、膀胱であるが、間接的には心、脾にも関与し、特に、先天の原気である陰気が腎に宿ることから、種の維持、個体の維持に基本的にかかわり、脳、髄、骨などにもかかわる。経脈の性質は、気が多く血が少ない。その流注(ながれ)は膀胱穴の分れを受けて、足の小指の下から起こり、足のうらをとおったうえ、下腿内側をのぼって背中を貫いて腎に帰属し、膀胱をまとう。ひとつは腎からのぼって肝・横隔膜を貫いて肺に入り、気管、喉頭、舌根などへ行き、またひとつは肺から出て心をまとい、胸の中に注ぐ。腎経は、生殖器・泌尿器疾患、性欲にも大きなかかわりがある。脳・脊髄疾患、心臓・循環器疾患、慢性の呼吸器疾患、扁桃・咽の疾患、耳の疾患などに用いられる。」

腎はいのちの元気が宿るところです。その元気が燃え尽きたときがいのちの終わる時。ろうそくの消耗を防ぐことが大切です。それが呼吸と栄養、生活態度に掛かってくるのです。

現代生活は反自然の暮らしになっています。上手に身体と相談しつつ暮らしていくことが肝腎です。

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游氣風信 No.165 2003. 9. 1

大腸のはなし

 今月は大腸の勉強です。

 大腸は排泄に関わるだけの地味で、哀れにも尾篭な臓器ですが、胃と並んで体感・自覚しやすい器官です。つまり「知覚」に深く関わるという点でとても精神的な臓器なのです。

フロイトは小児性欲の発達段階に肛門期を想定し、排泄などの肛門の刺激に快感を持つ時期として精神発達途上の深い意味があると説明しています。その前の一歳半位までを口唇期として母親の乳首を吸う口唇による快感感受の年代とし、肛門期はそれに続く年齢なのです。口唇は消化管の入り口であり、肛門は大腸の終末で消化管の出口ですから奇妙な符合と言えるでしょう。

胃も大腸も食べ物摂取に深く関与する臓器です。それらが人間の成長発達に関わる重要な意味を持つわけですから今月勉強する大腸も精神的に深い意味がある臓器と想像できます。

大腸はどのようなときに自覚されるでしょうか。たとえば女性の多くが苦しむと言われる便秘。これは消化管の終末の通りが悪くなって排泄に困難をきたすものです。排泄のことを「お通じ」というのはまさに言い得て妙な表現です。

 逆に排泄過剰な下痢もあります。これも別の意味で困ったもので、外出などに困難をきたします。

 大腸は小腸から送られてきた食物の成れの果ての滓から水分を吸収し、固形の便を形成して貯蔵、排出する役割をもっています。また、大量の腸内細菌がいて、残滓の分解や生命活動に重要な物質の生成など色々な働きをしてくれています。これはちょうど畑の土の中に住むミミズや土壌菌と非常に似ています。

 大腸の仕事は一言で言えば排泄です。

 排泄は、野生動物であれば便が貯まればそのつどTPOを問わず出せばいいのですが、社会生活を営む人間はそうはいきません。

 そこで小さいときからおしっこやうんちの躾を受けます。いくらうんちをしたくても我慢してしかるべき時間や場所で排泄する必要があるからです。

 余談ですが、人に飼われる犬や猫にも同様の躾が要求されます。ですから躾のできないペットは疎んじられます。もっともこれは犬猫に限られる能力でしょう。残念ながらうちの子桜インコは躾ができません。やりたい放題に排泄します。鳥は空を飛ぶと言う習性上、絶えず身体を軽くする必要があるからだという説もありますから、躾できないのも仕方ないでしょう。

 話を戻します。内臓の諸機能は意識的に操作できない、つまり不随意の自律神経支配によっています(詳しくは先月号)。消化吸収活動もご多分に漏れず自律神経支配のうちに自動的に行われます。そかしそれは食物を嚥下して便を貯めるところまでで、最終的な排泄は自律神経支配から独立し、意識による調整の世界となります。ここに関与するのが躾なのです。こうしたところに大腸が精神的影響の深い臓器である理由が見て取れます。

 先述したように大腸が具合の悪いとき、一番自覚される症状は下痢と便秘でしょう。

 下痢は便から水分が十分に吸収されないまま強制的に排出されるものです。排泄過剰な状態で非常に困ったものですが、時には人体に有害な物質(あるいは間接的に精神的ストレスも)を素早く排出しようという有用な作用でもありますから一概に嫌う必要はありません。むやみに止瀉薬を用いるのは危険です。下痢を止めたがために大勢の方が亡くなってしまった食中毒もありました。

反対に便が出なくなるのが便秘です。大腸によって水分が吸収され便が硬くなると便秘になります。その他、大腸が緊張しすぎて通り道が狭くなる場合(痙攣性便秘)や腸がゆるんで働かなくなって押し出す力が弱くなる場合(弛緩性便秘)も便秘になります。さらに前述したように、躾という条件反射で排便はコントロールされていますから、便意を無視していると腸が怠けて便秘になります。これは習慣性便秘といいます。

 腫瘍による圧迫で大腸が塞がれて便秘(器質的便秘)になったり、逆に主要が排泄中枢を刺激することで下痢になることもあります。

 便秘や下痢の反復は癌を疑えと言うのはそういう理由です。

 繰り返しますが、大腸の役割は極めて単純です。便の形成と貯蔵、排泄、そして水分の吸収。しかし先ほど述べたように、自律神経支配から解放された、つまり意識と無意識の間にある器官なので便秘や下痢の奥に複雑な心理的要素が絡んできます。

 最近若い人に増えている過敏性大腸症候群は精神的な負荷が過重になると発病しやすいといいます。また誰でも緊張したら下痢(神経性下痢)をするという経験はおありのことと思います。これはある種のストレス発散です。限度を越えると病気になります。

『広辞苑』

過敏性大腸症候群

「ストレスや情緒不安定などに伴い腸管の機能異常を来す心身症の一。不定の腹痛、腹部膨満感、下痢、便秘などの症状を呈するが、器質的病変を認めない。」

 では続けて大腸はいかなる器官か勉強していきましょう。

『大辞林』

だいちょう【大腸】

「小腸に続き肛門に終わる消化管。盲腸・結腸・直腸の三部分から成り、小腸よりも短く太い。水分を吸収し、糞を形成する。」

 大腸がいくつかのパーツに分類されていることは案外知られていません。右下腹の盲腸から右わき腹にかけて上行する部分を上行結腸、そこから臍の辺りを横に左わき腹まで走る部分を横行結腸、左わき腹から下降するのを下行結腸、その後左下腹部でSの字のように複雑に走るところをS字結腸、下腹中央で肛門に繋がるところを直腸といいます。前から見ると「の」の字のように右回りになります。

『新版人体解剖学入門』(三井但夫)創元医学新書

大腸

 「長さ1.5メートルを有する太い消化管の終部で、ここでは主として水分を吸収する力があり、なお植物線維など一部の食餌の消化を行う。大腸を盲腸、結腸、直腸の三部に分ける。

 盲腸は非常に太く短い管で、長さは数センチにすぎない。位置は腹部の右下で回腸に続く部である。盲腸の後内方から虫垂(虫様突起)が垂れている。その長さは6~7センチである。虫垂の炎症をしばしば盲腸炎と誤って言う人がある。虫垂炎または虫様突起炎と言うのが正しい。

 盲腸の続きは結腸で、その走り方によって上行結腸、横行結腸、下行結腸、S状結腸と呼び、骨盤に入って直腸となり、肛門で終わる。結腸の結とは、そこで便が水分を失い、固結して糞となる意である。」

 便が結するから結腸というのは初めて知りました。

盲腸には腸内細菌がいて植物の硬いセルロースなどを分解発酵してくれます。ですから草食動物の盲腸はとても長くなっています。

小腸の後半部回腸と大腸の始まりの盲腸の境には回盲弁という弁があり、小腸から大腸への食べ物の残滓の送り込みを調整しています。

『新版人体解剖学入門』(三井但夫)創元医学新書

大腸からの吸収

 「大腸では主として水が吸収される。したがって大腸の内容物はだんだん硬くなり、糞を形成する。たとえば水400グラムのうち、小腸吸収の分は250グラム、大腸吸収の分は150グラムの割合である。それでも糞の25パーセントは水である。

 糞が下行結腸、S状結腸などにたまり、一定の圧力が生じて便意をもよおすと、反射によって肛門括約筋が開き、結腸、直腸の蠕動が生じて、これを、肛門から体外に排出する。糞便の悪臭は、蛋白質が分解して生じたインドール、スカトールなどのガスの臭気である。」

 まあ、大腸は化学工場のようなものですからおならは排気ガスそのものでしょう。

 次に漢方の大腸を調べます。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)

・・・・・・・・・・・・・・・・?

 (手持ちのこの辞典は昭和60年11月1日に初版発行で平成3年4月15日に第3版増補改訂されたものです。大腸の項目は西洋医学の大腸について書かれているだけで、漢方理論の大腸については書かれていません。明らかなミスか、あるいは漢方における大腸は西洋医学の考えとあまり差がないからなのかよく分かりません。

 漢方でも大腸は小腸から送られた食べ物のかすを体外へ排出するものと理解されているからです。)

 漢方的な解釈は次の増永論を参考にしてください。

『スジとツボの健康法』(増永静人)潮文社

 「肺を助けて実質的な栄養の分解排出に関係しており、その働きは気の停滞をなくすことになるので、逆に「もの言わぬは腹ふくるる思い」となっては大腸に影響がありますし、またガスの放出はその気分を解除する意味もあります。 大腸の働きが停滞すると、気分の発散ができないとか深呼吸の不足、あるいはこれを促進する運動の不足、そして便秘や冷えからくるのぼせなどにも関係してきます。症状としては、積極性がなくなり、運動不足による消化排泄不良、鼻からのど、扁桃、気管といった外呼吸器に関係した疾患、下腹の冷え、悪感、下痢といったこともあります。皮膚に艶がなくなり、かゆく、化膿しやすくなり、痔や眼の充血、上枝の痛みや運動制限、あるいは腰の抜けたような感じ、腰痛などに関係してきます。」

 漢方では大腸は直接大腸に関与するだけでなく、歯茎の問題や皮膚の病気にも関わるとします。これは後述します。

手の陽明大腸経

 人差し指から腕を上り肩から頚を経て鼻まで

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)

手の陽明大腸経

 「上枝の前側から頸部を経て顔面をめぐる経脈で、所属する経穴は20穴である。直接関与する臓腑は、大腸、肺であるが、皮膚とかかわりをもつことを特長とする。経脈の性質は、気血ともに多い。その流注(ながれ)は、肺経の別れが示指の末端にきて、ここから起こって、手の外面前側をとおって肩から首のうしろまで行き、鎖骨上窩にのぼり、1つは分かれて頚から下歯の中へ入り、再び出てきて鼻孔のそばまで達し、1つは胸に入って肺をまとい、横隔膜を下って大腸に帰属する。この経脈は、便秘、下痢などの大腸本来の症状に対しては、三間、合谷、温溜など数穴に過ぎないが、眼の疾患、顔面まひ、三叉神経痛などの顔の疾患、歯痛、風邪などの呼吸器疾患、じん麻疹や腫物など皮膚病によく用いられる。」

 この経絡は非常に過敏なスジで、押さえると痛いツボがたくさんあります。
武術で相手を取り押さえる急所が多いのもこのスジの特徴です。

 治療では肺や大腸の問題以外に目や歯茎の痛み、腫れ、皮膚のトラブルに多用されます。また30年位前巷間を驚かせた中国の鍼麻酔にもこのスジが利用されます。

後記

この勉強も残すところ腎と膀胱の二つです。また八月からは恩師増永静人先生の初心者向けの著書を数名の塾生と読み解くことを始めました。先生の十冊以上のご著書が次第に絶版となる事実を再確認し、これではいけないなと強く感じたからです。

その趣意書めいたことを書きました。以下に紹介します。興味のある方は参加してください。

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游氣風信 No.164 2003. 8. 1

肺のはなし

 今までに肝(肝臓)・胆(胆のう)・心(心臓)心包・小腸(小腸)三焦・脾(脾臓・膵臓)・胃(胃)と勉強してきました。 今月は肺です。

 お気づきでしょうが、「肝」と「肝臓」のように似たような言葉が並列してあります。これは初回に説明しましたように「肝」だけが書いてあればそれは漢方の用語、括弧で括った方の「肝臓」は西洋医学の用語と使い分けていま
す。

元来漢方の用語であった肝を、江戸時代に西洋医学が日本に入ってきた際、「肝」と思われる内臓に「肝臓」と名づけたことからこの混乱は始まりました。したがって肝と肝臓との間には大きな齟齬が生じてしまったのです。ですから両者は全く別のものと考えた方がいいでしょう。

 ところが、小腸や大腸、膀胱や胃は漢方も現代医学も同じ呼び方です。これではますますややこしいことになります。困ったものですが今となってはどうにもなりません。今月の「肺」も通常「肺」と言って「肺臓」とは言いませ
ん。

 この混乱は解決されるめどが立たないままに実用レベルでそれぞれその場で適当に使い分けられたり、混同されたりしているのが現状です。

 困ったことに、漢方の用語を一般に使用するには無理があります。西洋医学一辺倒の現代では、漢方の言葉は共通語としての力を持たないからです。いきおい西洋医学という市民権を得た言葉に頼らざるを得ないのです。(漢方の世界でさえ用語と意味の統一がなされていません。研究機関も漢方薬は薬科大学もしくは薬学部で、鍼灸は鍼灸大学でと、分離している問題もあります)

 そこでいろいろややこしい問題を抱えた現状のまま、游氣風信でも肝と肝臓というように並行して勉強してきました。

 今月は肺の勉強です。肺はご存知のように呼吸に関係する内臓です。そして先月の胃と同様に肺も自覚しやすい内臓です。胃は痛いとか重いとか食欲がないなどの明確な自覚症状があります。肺も咳とか、息苦しいなどの明瞭な自覚があります。

さらに肺には他の臓器とは大きく異なる特徴があります。全く別次元と言っても過言ではない相違があるのです。それは他の内臓と違って呼吸という活動が意識によってコントロールできるということです。

 内臓は自律神経に支配されています。自律神経とは無意識的に身体を制御している神経機構のことです。

 説明のために一冊の本に当ってみましょう。

「私たちのからだはたくさんの細胞からできているが、めいめいがかってに働いているわけではない。一つの目的に一致協力して働くようになっている。この働きを無意識下で統一しているのが自律神経系である。そしてこれは交感神経と副交感神経からなる。例えば、運動する時は交感神経が働き心臓の働きを高め、呼吸を速くし、消化管の働きを抑制してしまう。

 よく知られているように、このような刺激は、副腎の出すアドレナリンや交感神経自身の出すノルアドレナリンによって媒介されている。

 逆に、休息の時や食事をする時には副交感神経が働き心臓の働きや呼吸をおだやかにし、分泌現象を促進し消化管の蠕動運動を活発にする。そしてこのような副交感神経の刺激はアセチルコリンによって媒介されている。」

『医療が病いをつくる 免疫からの警鐘』(安保徹 岩波書店)

 この本には図として以下のことがまとめてあります。図を取り込むことができませんので、以下にまとめて記載します。

交感神経系(アドレナリン)
 血圧  上昇
 気道  拡張
 心拍  促進
 胃    弛緩
 消化管 蠕動抑制
 免疫  顆粒菌

副交感神経系(アセチルコリン)
 血圧  下降
 気道  収縮
 心拍  緩徐
 胃    収縮
 消化管 蠕動促進
 免疫  リンパ球

 最後の項目の「免疫」について前掲書より引用します。

「ここ数年の筆者らの研究で、この循環する白血球でさえ、その細胞の膜上に交感神経の刺激を受けとめるためのアドレナリン受容体や、副交感神経刺激を受けとめるためのアセチルコリン受容体を持ち、自律神経支配を受けていることが明らかになったのである。

白血球には大別すると顆粒菌とリンパ球があるが、顆粒菌は細菌を貪食して処理し、リンパ球は抗体などを産生して免疫をつくってからだを守っている。このような顆粒菌やリンパ球はマクロファージという白血球の基本細胞から進化した分身たちである。」

ということで白血球も自律神経支配していることを解明されたのは著者の安保先生たちだそうです。この先生に関しては数年前の游氣風信で「未来免疫学」として触れたことがあります。その際はご丁寧なお返事をいただきました。

 さて、自律神経は交感神経と副交感神経からなり、全ての器官に両方がつながりバランスをとっています。その作用を大雑把に言えば交感神経は活動的、副交感神経は安静的に働きます。

 それらは無意識のうちに制御されていて、意識的に操作することは不可能です。筋肉は意識的に力を入れたり抜いたりできますが、内臓はそうはいきません。太るのは嫌だからと胃に働かないように命令しても言うことを聞いてもらえませんし、酒を飲むから肝臓に頑張るよう拍車をかけるわけにもいきません。

 全て身体にお任せするしかないのです。

 ところが呼吸は少し意味合いが異なります。普段私たちは知らないうちに息をしています。一息ごとに「吸って、吐いて」と命令しなくても自動的に呼吸しています。これは自律神経の作用でコントロールされているからです。この点では他の胃や肝臓や腎臓や心臓などの内臓と同じです。しかし同時に私たちは意識的に呼吸を速くしたり、ゆっくりしたり、あるいは深くしたりできます。

 根を詰めて疲れたときなど意識的に深呼吸して気持ちをゆったりさせようとするのはこれですね。

 どうしてこんなことが可能かと言うと、呼吸は肺の役目ですが、呼吸運動は呼吸筋という筋肉によってなされているからです。肺はガス交換をしますが、空気を吸い込んだり吐き出したりするのは主として胸の筋肉なのです。

 ですから反対に呼吸をコントロールすることで意識をコントロールする可能性があるのです。誰もが知らず知らずに深呼吸をして気を落ち着かせるのはこういう理由からなのです。

 前置きが長くなりましたのでさっそく辞書で肺を調べてみましょう。

『大辞林』

「両生類以上の脊椎動物の空気呼吸を行う器官。胸腔に左右一対ある。中には無数の肺胞があり、肺胞とそれをとりまく毛細血管との間でガス交換(外呼吸)が行われる。魚類の鰾(ウキブクロ)と相同の器官。肺臓。

 両生類以上という発想は進化論に毒された進歩思想ですね。現在の民族対立の根底にある思想ですが、いたるところに染み込んでいるようです。

 さて次は解剖の本です。

『新版人体解剖学入門』(三井但夫 創元医学新書)

「肺は胸膜(または肋膜)によって全面を包まれている(胸膜は胸壁の内面をも覆う)。心臓が左側にかたよって存在するため、左肺は右肺よりも小さい。
その体積比は右が六、左が五に相当する。右肺は上・中・左の三葉に分かれるが、左肺は上・下の二葉のみから成る。このように左右のあいだにかなりの相違が認められる。肺の入口に相当する肺門の中へは、気管支、肺動脈、肺静脈、リンパ管、気管支動脈、気管支静脈、神経などが入っている。また肺門の周囲にはリンパ節が多数認められる。肺に入った気管支は、分枝に分枝を重ね、ついに袋状の肺胞となる。肺胞の壁はきわめて薄く、そこには毛細血管が多数走り、そのなかの赤血球を通じて、体内からの炭酸ガスと吸い込んだ空気中の酸素ガスとのガス交換が行われる。そのため、肺胞をつくっている薄い壁を呼吸上皮という。(以下略)」

 肺の働きについて前掲書から引用します。

『新版人体解剖学入門』(三井但夫 創元医学新書)
肺の機能
「肺の機能は呼吸である。そして、心臓と同じく休むことのできない重要な器官である。呼吸と言う作用をもう少し具体的にいうと、空気中から酸素をもらい、逆に炭酸ガスを放出するガス交換である。
 (中略)
肺胞は弾力のある薄い膜から成り、そのなかに空気を含んでいるので、あたかも海綿のように見える。肺胞の壁には毛細血管が密に分布している。したがって血液は、毛細血管の薄い壁と肺胞のいっそうの薄い上皮細胞の壁との二つの壁を隔てて空気と界している。この壁は非常に薄いので、酸素や炭酸ガスは自由に通り抜けることができる。血液のなかの赤血球が酸素や炭酸ガスと結合する力をもっているので、呼吸の主役を演ずるのはむしろ赤血球であり、肺はガス交換の場を提供しているにすぎない、ということになる。
 (中略)
元来、肺胞には筋肉がない。したがって、自ら伸縮することはできない。しかし胸腔がひろげられると、それにつれて肺、つまり肺胞もまたひろげられ、外気は気道を通って肺胞内に入ってくる。これを吸気という。しかるに胸腔が縮小すると、これにつれて肺もまた、それに応じてちぢまり、肺胞内の空気は気道を通って外に出る。これが呼気である。この吸気と呼気との反復が呼吸運動といわれる。胸腔がひろげられるのは、肋骨が挙げられることと、横隔膜が腹腔に向かって引き下げられることによる。肋骨を挙げるものは肋間筋であり、横隔膜を引き下げるものは横隔膜を作っている筋肉自体である。逆に、これらの筋肉が弛緩すれば、胸郭がちぢまり、したがって胸腔もちぢまるのである。これらの呼吸に関与する筋肉は自分の意志の力で動かすことができる。しかし普通の呼吸のさい、特に睡眠中などの呼吸は、神経から一定の間隔をおいて命令が下り、意志とは関係なく運動している。その命令を発するものは中枢神経のうちの延髄にある呼吸中枢である。
 (中略)
肺における呼吸は、直接外界から空気を取り込むので、外呼吸と呼ばれる。これに反し、体内の組織でも酸素と炭酸ガスの交換が行われるので、この組織呼吸を内呼吸という。内呼吸では、血液が組織に酸素を放出し、逆に組織から不用になった炭酸ガスを受け取って行く。つまり、組織に行く動脈の中を流れる血液中には酸素が多く、組織から心臓に還ってくる静脈血には炭酸ガスが多い。」

 文章で読むと難しいようですが、自分で深呼吸してみると大体想像できますね。息を吸うときは胸が広がる感じがあります。これは肋骨が吊り上るからです。そのとき、自覚はできませんが横隔膜は下がっています。吸気のときに下腹を膨らます一般的な腹式呼吸は特に横隔膜を意識した呼吸法なのです。

 次に深く息を吐いてみましょう。胸がすぼみ肋骨が下がるのが分かります。
このとき横隔膜は東京ドームの天井のように高く膨らんでいます。

 呼吸法はこうした無意識の呼吸を敢えて意識化することで精神を統一したり、心身をリラックスしたりする目的で行われます。

 呼吸が酸素と二酸化炭素のガス交換であるということは事実ですが、漢方ではそうした事実が分からなかった時代に作られましたから、異なった見解を持っています。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)

「五臓のひとつ。呼吸をつかさどる。胸中にあり、鼻から大気を入れ、脾が運かする営気と肺の宋気が混じて気血を全身に送る。水分を調節し、水分代謝に関わる。また心臓の働きを助ける。また、皮毛を司るので、体表と密接な関係がある。全身の血液がすべて肺に流れこむので、『百脈を朝す』という。」

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
宗気
「上焦において生じる気をいう。気の中に宋気、営気、衛気の3つの要素があり、宋気は外界の大気を呼吸作用によって肺にとり入れて生じる気、営気は飲食物を胃にとり入れて生ずる気、衛気は腎の先天の気と小腸からとり入れられる精気が混じたものをいう。古代中国ではこの3つの気が血とともに全身をめぐり、人体の活動の基礎になると考えられていた。」

ややこしいことになりましたね。営気と衛気については以前書きました。今風に考えるなら営気は(栄気とも書きます)栄養、衛気は防衛作用、つまり免疫とすると分かりやすいでしょう。

肺は呼吸を通じて空気中にある「天の気」を取り込み、それを宋気に転換して体内を巡らせることでいのちを保持します。西洋医学的に言うなら酸素を空気中から取り込むと言うことです。

胃(脾)は飲食つまり大地の恵みである食物や水などの「地の気」を取り込み、栄養に変えることでいのちを保持する役割を持っているのです。ですから栄養と考えて差し支えないでしょう。

腎は外敵や外部環境の変化に対応します。親から受け継いだ「元気」と小腸からの精気を素に、防衛の気を作り出すのです。この考えはストレス学説に相同している面があり、副腎に近いものとみてあながち間違いではありません。

わたしたちは肺を通じて空気を取り込むのですが、同時に外の世界の微妙な変化も取り込みます。たとえば人間関係。近くに嫌な人がいるだけで胸を閉じてその人の影響を排除しようとします。これも肺の作用と考えます。

反対にすばらしい花を見れば深呼吸して香を吸い込み陶然とします。尊敬できる人の話は息とともに体内に吸収しようとします。

このように外の世界を体内に取り込む作用は先月の胃と同じく肺の作用なのです。

胃がどちらかというと欲求によって積極的に取り込もうとするのに対して、肺は意識する、しないに関わらず自然に入ってくる、いわば雰囲気のようなものと考えられます。俗に「胸襟を開く」と言います。襟を寛がせて心中を打ち明けることです。これを身体的に「 胸筋を開く」と言い換えても構わないでしょう。胸の筋肉は鎧のように心をガードしています。嫌な人といると胸の筋肉が硬くなって肋骨がうまく広がらなくなります。息が詰まるのはそのせいで
す。

 では次に増永先生の本にいきます。

『スジとツボの健康法』(増永静人 潮文社)

「生命活動の根元である気(エネルギー)を外界からうけて、これを人体の元気にまで分解して、外界適応の活力とする働きをします。体内のガス交換と排出を行う呼吸作用が、私たちの生きていく根本的な働きであることは周知のことでしょう。呼吸は脳とも密接な関係があるので、気は精神も意味していますし、肺のスジが通る拇指は、握れば気を貯えてぐっと力を高め、ひらけば大きな呼吸ができて広々とした気持ちになります。皮膚呼吸もここでは肺の中に含まれているので、皮膚の血色によってその人の元気さがよくわかります。

 症状としては、気をやんで胸がつまったり、活気がなくなって溜息が出たりします。肩から背がコッて、頭が重く、気鬱してふさぎこんだり、めまいや、風邪をひきこんで咳や痰がでるとか、喘息、気管支炎などの呼吸器疾患、ガス中毒、小児のひきつけなどがあります。」


手の太陰肺経
 胸から拇指まで

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
手の太陰肺経
「上肢の内側と胸部をめぐる経脈で、所属する経穴は11穴である。直接関与する臓腑は、肺、大腸であるが、心、小腸などにも関与する。経脈の性質は気多く、血は少ない。その流注(ながれ)は胃のあたりにある中焦から起こり、大腸をまとい、上行して肺に帰属し、次いで気管、喉頭をめぐって左右に分かれて、腋の下から手の内面、前側をとおって母指の末端に至る。この経脈は、一般的には、気管、肺などの呼吸疾患によく用いられ、また心臓病にも用いられる。また孔最穴は痔に、列欠穴は頻尿に用いられる。」

 この経絡はラジオ体操の最後の深呼吸のように両手を大きく広げて深く呼吸すると伸展します。胸から腕にかけて身体を感じながら深く呼吸すると突っ張る感覚があると思います。

 呼吸と身体動作がこれほど一致した経絡はありませんし、もっとも自覚しやすいスジです。

後記

 「今年は日照時間が少ないので米の収穫が悪いだろう」という話題になりました。するとあるご婦人が「わたしはパスタも好きだし、パンも大好きだから平気」と言われたのです。
 これには驚きました。不作になるとは単に米が食べられないという問題ではありません。同時に考えられる生態系への影響。国内外の経済への影響。さまざまな問題を孕んでいます。
 日本が米を輸入すれば国際米価が高騰しますから貧しい国は米の輸入ができなくなります。
「パンがないならケーキを食べればいいのに」と言ったとされるマリー・アントワネットがその後どのような運命を辿ったか。その婦人だけでなく日本全体がマリー化しているんだなと驚いたのでした。

これから暑さに向かいます。ご自愛を。

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游氣風信 No.163 2003. 7. 1

胃のはなし

わたしたちは「いのち」あるものです。そして東洋・西洋に関わらず医療とはこの「いのち」に働きかける行為にほかなりません。

今まで説明してきた漢方の経絡に関して実に分かり難く取っ掛かりのないものだと思われたことでしょう。しかし経絡を「いのち」という面から見ると意外とイメージしやすいものです。特に今月取り上げる『胃』はその説明に最も
適したものです。

 生命体の特徴は

1 個体保存
2 種属保存

であることは中学か高校の生物学で習いました。これは人間も犬も桜も苔も芋虫もゾウリムシもすべてに共通するものです。言い換えれば、この二つを満たしているならそれは生命体なのです。

個体保存と種族保存が生命体に共通の特徴であるならば「いのち」を考えるとき、無理にヒトにこだわる必要はありません。生物の種類に拘泥せず、素朴な生命体をモデルにした方が分かりやすいという推論が立ちます。

そこで今から生命体を単純化して考えるために単細胞生物を想定してみましょう。一個の細胞から成る生き物です。その方が人間のように複雑化した生命体よりもいのちを類型化して実感しやすいからです。

では早速、誰もが知っている単細胞動物アメーバを頭の中に想像してみてください。簡単ですね。一個の細胞だけの生き物です。彼らの一日はどうなっているでしょう。水中でゆらゆら蠢きながら食物を探す。これがおそらく彼らの人生!?の全てでしょう。

このように外の環境から餌を探し、捕捉すること、そして摂食して、身体に同化すること。不要なものは環境に排泄して生きていくこと。それが個体保存です。ですから生きる糧を見つけ出すことに彼らの人生のほとんどが費やされます。

アメーバは餌を見つけたら細胞の中のゼリー状の物質(原形質)をぐるぐる動かしながら(原形質流動)移動して餌を捕捉します。そして餌を包み込んで直接細胞内に取り込み、栄養とするのです。

これは単細胞だから可能な技です。たくさんの細胞から構成された生物ならこうはいきません。専門の器官を作って食べ物を取り込み、分解・吸収して、各細胞に運ばないといけないからです。しかし単細胞動物なら直接外部から膜を通じて体内に餌を取り入れることができます。そこでこの摂食に関わる働き一切を概念としての「胃」と考えるのです。

臓器としての胃はもちろんですが、臓器を持たない原始的な生物も食を摂り入れます。この食を外部から内部へ取り込む作用一切を概念としての「胃」とすることは難しくないでしょう。

もう一度整理しましょう。単細胞動物には臓器としての胃はありません。細胞一個の生物ですから。しかし細胞だけといっても食物を食べ、消化し、吸収していることは間違いありません。それが複雑な多細胞動物(人間はおよそ60兆の細胞の集合体です)になってからは専門の器官が必要となり、胃とか肝臓とか心臓が生まれたわけです。しかし器官が分化していない生命体でもそれらに類似の作用は必要ですから、アメーバの食に関する働きは「胃」の作用といってもあながち間違いではないと考えるのです。

むしろこうした「原初の胃」が後に専門器官である「胃」を発生させたのです。

さて、そこからもう少し考えを発展させます。飛躍かもしれません。

アメーバのように単純な生命は個体保存という本能的欲求を満たすためにのみ生きていればいいと推測可能です。

しかし、人間はそうはいきません。食べるだけでは何か虚しいものです。キリストならずとも「人はパンのみに生きるにあらず」です。

人は何らかのかたちで、この世に生まれた意味、あるいは生きてあることの証が欲しくなります。つまり人間は本能的欲求を超えた欲望や価値を満たさずにはおれない生命体なのです。

そこで食べるという個体保存の行為が生命体の進化とともに複雑化していったと考えられます。具体的に言いますと知識が欲しい、勉強したい、役に立ちたい、金が欲しい、旅行に行きたい、時間が欲しい、地位が欲しい、認められたい、名誉が欲しい、休みが欲しい、権力の座につきたい・・・こうしたさまざまな欲望や希望、あるいは野望などが生じます。

こうした欲望こそ食べ物が欲しいという欲求が延長し、拡大したものです。それらの作用の根本にあるのが「胃」の食べ物を探し、捕捉し、体内に取り込みたいという欲求なのです。

アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシはまさに全身胃袋でした。

実際、内臓の胃は大きな袋で食物を貯め込みます。貪欲な臓器です。

あとで詳しく説明しますが、この「胃」の作用が全身化したものが胃の経絡と考えられます。食べ物発見のための目、食べるための歯牙や顎関節、消化器官、食べ物を捕捉するために身を運ぶ脚。これらを含んでいるのが胃の経絡なのです。

このように経絡は内臓の機能が全身化したものと考えると理解のヒントになることでしょう。(余計ややこしくなったと言われても困りますが・・・冷汗)

(補足:アメーバ自身も他の生命体の食物になってしまいますから敵からの逃走あるいは闘争も日常の重要な項目になります。つまり食探しと危険回避が個体保存に不可欠なのです。

さらに配偶者を探すこと。これが種属保存ですが、アメーバは自己分裂によって増殖します)

 ではさっそく例によって辞書に当たって見ましょう。


『広辞苑』

「内臓の一。消化管の主要部。上方は食道に、側方は腸に連なり、形は嚢状で、横隔膜の下、肝臓の下方に横たわる。壁は粘膜・平滑筋層・漿膜から成り、最内層の粘膜に胃腺があって、胃液を分泌し食物の消化に当る。鳥類や一部の哺乳類では2ないし4室に分かれる。いぶくろ。」

もしかしたら胃は最も身近に感じる、あるいは意識しやすい臓器かもしれません。空腹感や満腹感は誰もが日常意識していますし、嫌なことにぶつかったり、嫌いな人に会うときりきり痛みます。

心配ことがあるとずしんと重く感じて食欲がなくなり、気分がいいとすっきりと何でもおいしく味わえます。

胃薬のコマーシャルなどでも胃袋の絵はおなじみですしね。誰もが図式的にイメージしやすい内臓であることは間違いないでしょう。

最後の4室に分かれるというと、牛が有名です。牛のように硬い草を食べる動物は一度胃に入れた食物をまた口に戻して咀嚼し(反芻・はんすう)、次の胃に送るなどということをしていると何かで読んだことがあります。

次は解剖の本です。

『新版人体解剖学入門』(三井但夫著・創元医学新書)

 「胃は消化管のなかで最も拡張した部分で、上は食道に、下は十二指腸に続く。食道に続く部を噴門、十二指腸に続く部を幽門という。胃は全体として左にかたよって存在し、噴門は第十一胸椎の前左に、幽門は第一腰椎の前右に当たる。胃の中央の広い部分を胃体、そのうち噴門の左方に膨出して横隔膜の直下に入っている部を特に胃底という。また幽門に接する短い部分を幽門部と名付け、胃の右下部を占める。臨床では、この幽門部を胃前庭部と呼ぶことがある。胃の上縁をなす曲線部を小彎と呼び、胃の下縁をなす曲線部を大彎と呼ぶ。前記の幽門部と小彎との境界はくびれており、ここを特に胃角と呼んで、臨床上重要視される。

胃の形や大きさは、人によって異なるが、胃の容量は大体二リットルくらいである。」

以上が胃の解剖的な説明です。難しく書かれていますが、要するに胃は袋状の内臓です。

次にその働きをみてみましょう。

胃の生理作用(前掲書)
 「食道から下ってきた食塊は胃の噴門を通って胃の中に入る。もちろん口腔に入った食物は、唾液の中の澱粉分解酵素によって最初の消化を受けるわけである。しかし、唾液は蛋白質や脂肪を分解する消化力をもたない。

 の壁には胃腺という消化腺が豊富に存在する。その消化液を胃液というが、元来、無色透明の酸性液で、ペプシンという蛋白分解酵素を含んでいる。
胃の中に送られた食塊は、胃液の中の塩酸に会い、酸性に変化してくる。そうすると、初めてペプシンの消化が開始され、食塊中の蛋白質が消化されて、アミノ酸になる前の状態であるペプトンという物質に変化して行き、食塊は次第次第にどろどろとなり、粥状になる。これを糜粥(びじゅく)という。この糜粥は二~五時間以内に、少しずつ胃の末端である幽門から十二指腸に下って行く。

(中略)

また、タコが自分の足を食べるように、胃が胃のペプシン(蛋白分解酵素)で自分の組織を表面からだんだん深層に向かって消化してしまうのが、消化性潰瘍である。ふつう胃潰瘍というものの大部分はこれである。胃潰瘍は、胃の血行障害、飲食物による刺激、神経の影響(ストレス)などによって、引き起こされるという。」

胃液には蛋白分解の作用があるので、胃粘膜に剥落があると、自分で自分を消化してしまうのです。考えると恐ろしいことです。ストレスなどがそれを引き起こすなどと聞くと余計ストレスになってしまいますね。

胃からの吸収(前掲書)
「胃からの吸収はほとんどない。ただし、ブドウ糖、アルコール(約その二割)、炭酸ガスなど若干吸収されるらしいが、多量ではない。」


中学校では胃で吸収されるのはアルコールだけだと習った気がします。約二割だったと案外少ないと驚いています。

胃ではさほどの化学的消化は行われません。あれだけの強酸の世界ですから化学反応は期待できないらしいのです。むしろ物理的に砕くことが主体です。
さらに胃酸によって殺菌もしています。ですからヨーグルトなどを食べてもビフィズス菌はほとんど胃で殺されてしまいます。

次に、漢方的な胃の概念を調べましょう。

『鍼灸医学大辞典』(医道の日本社)

「六腑のなかのひとつで、漢方では、主に水穀を受納し、腐熟させる(飲食物を消化する)とし、水穀の海ともいう。一般には、胃と脾(膵臓)は表裏をなし、胃で消化したものは、脾を通じて栄養分を運化するとされる。胃と脾のはたらきは胃気と称され、生命の維持に重要な関係があるといわれてきた。」

いのちの維持に関わるエネルギーの中心にあるもので、食べ物(水穀)のエネルギーを後天の気と呼び、先天の気である腎の気と混ぜ合わせて生命の素である精となるのです。これは腎のところで触れました。

最後に指圧の師匠、増永先生の本に当ります。

『スジとツボの健康法』(増永静人著)

「口腔から食道、胃袋、十二指腸、空腸までの消化管の総称であり、またこの働きを助ける体肢の運動と体温の発生、および生殖腺の働きにも関係しています。食欲、乳汁分泌、卵巣機能を支配しています。

症状としては、胃をいつも意識したり、細かいことを気にしてくよくよするとか、食物や気分で食欲にムラがあり、頚や肩がよくコリます。あくびが多くでて、足腰が重く、膝から下が冷え、疲れやすい傾向があります。胃酸過多と
かゲップがよく出たり、鼻づまりや鼻炎も食べすぎが原因でおこります。口の中が荒れたり、いわゆる烏のお灸という口角炎は胃粘膜の炎症のあらわれで、胃のスジの上にでます。みぞおちが固くなり心臓の苦しいのは、胃が張って心臓を圧迫するためです。風邪がぬけないとか胃がもたれる、吐き気があるなども胃の症状です。」

先ほども書いたように胃は意識しやすい臓器です。きりきり痛んだり、鉛のごとく重くなったり、どんよりと下垂したり、吐き気やゲップなど比較的明確な身体化をするのです。健康なときでも空腹感や満腹感を感じます。

さらに比喩として貪欲の象徴とされます。漢方の胃はこの比喩が案外当っているような気がします。

次に経絡の走行を示しますが、この経絡の上に症状が出やすいのも胃経の特徴です。

手の陽明胃経
目の下から顎、こめかみの線と合流して胸、腹を降り、足の前面を通って足の中指まで。

『鍼灸医学大辞典』(医道の日本社)
手の陽明胃経
「身体の前面をめぐる長い経脈で、所属する経穴は45穴に及ぶ。直接に関与する臓器は、胃、脾であるが、胸腹部をとおるので、間接的には多くの臓器に関与する。経脈の性質は、血、気ともに多い。その流注(ながれ)は、大腸経の分れを受けて、鼻根の迎香穴から起こって、上歯の中に入り、唇をめぐり、下顎のうしろに達し、ひとつの分れは前額部へ進み、ひとつは頚動脈に沿って喉頭部をめぐって鎖骨上窩に入り、横隔膜をくだって胃に帰属し、脾をまとう。さらにもうひとつは乳線の内側を臍をはさんでくだり、足の外面前側をとおって足の第2指外側に終わる。胃経は単に胃だけでなく消化器すべての疾患に用いられる。さらに胸部では、呼吸器・心・循環器疾患に用いられ、頭部は主に鼻・口腔・歯疾患、神経症などに用いられる。」


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游氣風信 No.162 2003. 6. 1

脾のはなし

今年は少し真面目に勉強しようと定めました。その成果としての『游氣風信』も早6月号になりました。専門的で難しい内容で読者にはご苦労をかけていますが、もうしばらくはこのままの状態で進んでいきます。

勉強内容は身体調整に深く関わる東洋医療の経絡と西洋医学の内臓を共に学ぶというものでした。

今までに肝・胆・心(心包)・小腸(三焦)とまとめてきました。出来ばえとしては残念ながら生来のずぼらな性質ということもあって、何れも整理が不十分で不統一なテキストに終わっています。しかしそこはご寛恕願うとして、こ
のまま先を急ぎましょう。

内臓を取り上げる順序は五行説に基づいて決めたとは当初に申し上げた通りです。その理由は五行説を信奉しているからではなく、全くの便宜上のものであるとも述べました。

途中、西洋医学には無い概念の心包や三焦が出てきて困惑されたことと思います。説明する当方も大変難渋しました。

ここで今までを振り返り、漢方の考えを極力単純化して整理してみましょう。


肝臓の機能(小腸で吸収された物質の解毒)と筋肉の作用や血液の貯蔵に関わる。情動としては怒りに影響され、かつ影響を与える。


肝臓の補佐と同時にいわゆる肚・胆力に関わる。経絡は肝とともに体側部を通過し、決断や迷いに関係する。関節や筋肉などの運動器を支配する。


心、精神ととらえる。外部からの情報を整理判断する中枢。みぞおちや肩甲骨の間に身体化しやすい、つまり凝りや緊張がでる。

小腸
実体のある情報の整理判断。腕組みをして沈思黙考する姿勢が心や小腸の経絡を伸展して働きを深める。

ムチ打ちや落下のように強い身体的トラウマや精神的トラウマの影響が身体化しやすい部位。

心包
心の補佐とされているが内臓としての心臓と考えられる。みぞおちから上腹部に反応がでる。前腕の緊張もこの影響。発熱のとき反応する。

三焦
諸説あって定説がない。名前から焦がす、つまり熱源と考えられる。外界の変化に対し、常に体内の温度を一定に保つ恒常性や異物侵入の防衛を役目とする。現代医学に置換して考えるとリンパを中心とした免疫系であり恒常性の中心でもある。内臓としては脾臓である。

と、こんな具合にやってきて、今月は脾です。え?ちょっと待ってと言いたくなりますね。今しがた三焦は脾臓に近いと述べたばかりで今度は脾です。この辺りが漢方と西洋医学の関連上のややこしいところ。

漢方の脾と西洋医学の脾臓は似て非なるものです。その点を押えて脾の勉強に入りましょう。

まずは例によって一般辞書で脾臓を調べます。

広辞苑』
ひ・ぞう【脾臓】
「内臓の-。胃の左後にある。暗赤色で重さ約百グラム。内部は海綿状の血管腔(赤脾髄)とリンパ組織(白脾臓)とから成る。老廃した血球の破壊、血中の異物や細菌の捕捉、循環血液量の調節の機能および血球の生成能をもつ。」

このように脾臓は血液や免疫と深い関わりがある臓器です。

次に専門辞書に行きます。

鍼灸医学大辞典』医道の日本社
脾臓
「腹腔臓器のひとつで、横隔膜の下で左上腹部の後方、胃底の左後、第9~第11肋骨の高さにある実質臓器をいう。大きさは長さ10~12cm、幅6~8cm厚さ3~4cm、重さ80~120gで、コーヒー豆の形をしている。
構造は被膜、脾柱、脾髄からなり、脾門から血管、神経が出入りする。血液は脾動脈を介して脾門に入り、脾髄、脾洞に入ったのち、脾静脈となって門脈に入る。脾臓は、リンパ球の産生、赤血球の破壊、血液の一時保存、免疫物質の産生、細菌そのほかの小異物の摂取、ホルモンの分泌などを行う。」

 専門辞書だけに説明が細かくなりましたが、やはり血液や免疫に関わる臓器であることが分かりました。ところが漢方では全くことなります。古典に「脾胃は倉廩の官、五味出ず」という有名な言葉があります。「倉廩(そうりん)の官」とは今で言う農林省のようなものです。つまり食べ物を管理するということです。では免疫の脾とは関連がありません。

その辺りの問題を解決するために漢方の辞書を引いてみましょう。

『鍼灸医学大辞典』医道の日本社

「『素問』の霊蘭秘典論に「脾胃は倉廩の官、五味出ず」、本神篇には「脾は営を蔵す」とあり、古典の概念では、脾は食物を消化し、全身に栄養物を供給する臓腑で、脾の働きが悪いと食物の消化作用ができず、このため栄養障害をきたすと考えられた。また脾は肌肉をつかさどり、また湿とも関係が深い。現代の概念における脾臓については古典の記載にはないので、膵臓、脾臓の機能をひとつにしたものという説もある。」

 つまり漢方の脾とは西洋医学で言うところの脾臓と膵臓の合わさったようなものというわけです。

 恩師増永静人の本にはどう書いてあるでしょうか。

『スジとツボの健康法』(増永静人)潮文社

「膵臓を中心に全身の消化腺(唾液・胃・胆汁・小腸の各腺)と乳房・卵巣の生殖腺を含んでおり、また大脳との関係も深く、思考により物事を消化理解する働きに影響します。そこであまり考えこんで運動不足になると消化液の分泌が悪くなり、消化発酵の作用が妨げられます。

 症状としては、あれこれと考えこむことが多く、満腹感がなくてむやみに食べたい気がするとか、落ち着きがなくて早食いで、食べたわりに動かず、甘いものや水気の多いものが好きで、またつねに食べたく間食が多い。つねにね眠気をおぼえて、ゴロリと横になりたい気がする。消化液の分泌が悪く、口がかわき粘る。背中が痛んだり膝の痛みを訴える場合が多いようです。また肩関節の歪みにも関係して五十肩などの原因になります。」

 主として膵臓を中心とした栄養吸収の働きをするものと捉えています。

 では、ここで膵臓を調べてみましょう。

『鍼灸医学大辞典』医道の日本社
膵臓
「胃背部の腹膜外を横に走る長さ約15cmの細長い臓器をいう。肝臓とともに腹腔内にある大型消化器で、この腺組織からは炭水化物、蛋白質、脂肪などの消化酵素を分泌する。右端(頭部)は十二指腸の湾曲に入り込んでいて、左端(尾部)は脾臓に達する。その中間を体部という。」 

 もう一冊、詳細な説明を引きます。

『新版人体解剖学入門』(三井但夫)創元医学新書
膵臓
「胃の後部にあって発見しにくい。後腹壁に接着していて、前面を腹膜が覆うのみで、可動性がない。重さは70グラムである。全体として細長い器官で、これに頭、体、尾の三部を区別する。頭は十二指腸の湾曲部にはまり込み、尾は左方の脾臓と接触する。また尾は左の腎臓の前にある。膵臓は上腹部において第一から第二腰椎の高さに位する。

 膵臓は消化液である膵液を十二指腸に送る機能のほかに、インシュリンという糖尿病に効くホルモンを分泌する。膵臓内部でインシュリンを分泌する部分をランゲルハンス島と呼び、顕微鏡で認めることができる。その島は尾部に特に多い。ランゲルハンス島からはまたグルカゴンというホルモンを出し、インシュリンと拮抗する。

 なお、肝臓と膵臓は50歳を過ぎると萎縮が見られる。」

膵臓のランゲルハンス島
「膵臓は消化液を分泌する以外に、インシュリンというホルモンを分泌する何分泌器官でもあることは既述した。インシュリンはランゲルハンス島(ランゲルハンス氏の発見したもの)という特殊な細胞群から作られる。インズラ
(insula)はラテン語で島という意味である。

 ランゲルハンス島は外分泌細胞またはその排泄管の一部が変化して生じたもので、その発生は生後三~四年で止まるようである。ランゲルハンス島は膵臓の尾の部分、すなわち脾臓に近い方の部分に多数存在するが、一個の膵臓に存在するランゲルハンス島を全部集めても二・四グラムぐらいしかない。ランゲルハンス島を膵島とも呼ぶ。

 顕微鏡で見ると、ランゲルハンス島にはα細胞とβ細胞との二種を区別する。α細胞内の顆粒はアルコールに溶けないが、β細胞内の顆粒はアルコールに溶ける。

 インシュリンというホルモンを出すのはβ細胞である。インシュリンは糖尿病の特効薬として知られているごとく、血液中のブドウ糖を減少するように働く。すなわち、体内の各組織でブドウ糖がどんどん酸化されることを促進し(このことは副腎皮質中の束状層から出るコーチゾンというホルモンと反対な作用をなす)、他方では肝臓において、ブドウ糖をグリコーゲンに転化して、これを肝臓内に貯蔵する。かくして血液中からブドウ糖が減る。α細胞は逆にこの血糖を増すグルカゴンを分泌する。すなわちグルカゴンは肝臓のグリコーゲンを分解してブドウ糖と化し、これを血中に送り出すのである。」

 膵臓は消化酵素を最も多く出す臓器です。それと同時に血糖値の安定に重要な臓器であることは知られています。

 漢方で言う脾とはやはり膵臓により近いものと考えていいでしょう。さらに膵臓だけに限局せず、消化機能全体を考えます。

では、最後に脾の経絡流れを見ましょう。経絡は身体の正面を通っています。
特に膝に関わるスジで脾の経絡のバランスが悪くなると膝の関節を痛めやすくなることが知られています。

足の太陰脾経
足の第一趾(親指)から脛の内側を昇って腋の下まで

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
足の太陰脾経
「下肢内側から側腹部をめぐる経脈で、所属する経穴は21穴である。直接関与する臓器は脾(膵臓)、胃であるが、間接的には消化器のすべてに関与する。経脈の性質は気多く血は少ない。その流注(ながれ)は、胃経の分れを受けて、足の母指(内側)の末端から起こり、足の内側をのぼって、腹部に入り脾に帰属し、胃をまとったうえ、さらに横隔膜をのぼって咽頭、舌まで行く。
ひとつは胃から分かれて心臓まで行く。脾経は、消化、吸収の栄養のはたらきに関与することから、胃・大・小腸などの炎症、』アトニーなどのような消化機能が減退する疾患に用いられるとともに、婦人科疾患、特に子宮出血、月経不順など、血の道症といわれる婦人自律神経失調症などにも用いられる。」

増永先生は脾の気の虚の方にはよくこのようにおっしゃいました。
「脾の虚が出る方はせっかちで世話好きの人が多いんです。漢方では「思えば脾を病む」と言います。いつも頭の中を何かの考えが駆け巡っている。正座していてもそわそわ落ち着かなくて人の世話を焼こうと常に膝を緊張させているんですね。それに急いで食べるからよく噛まない。だからよけい胃腸をいためる」

どこまで正しいかは分かりませんが、その患者さんをよく診てそのように助言しておられました。結構皆さん納得しておられました。人の世話好きというところが泣かせどころですね。

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游氣風信 No.161 2003. 5. 1

小腸(三焦)のはなし

 漢方医療は自然科学の洗礼をほとんど受けていません。体験的な事象の集積やそこからの推測で成立しています。

 しかしこうした傾向は漢方に限られたことではなく、世界のさまざまな医療、たとえばインド医療(アーユルベーダ)やアラビア医療、西洋のハーブやホメオパシーなども同じです。

 歴史的に見ても実は十九世紀までは世界中の医療が自然科学とは別の文脈から成立していました。他の分野、例えば建築や工業などでは次々に自然科学的考察や成果を取り込み、近代化していったにもかかわらず、医療は歴史的考察に代表される人文科学の分野に留まり、自然科学の導入が遅れました。

それは何故でしょうか。少し長いですがその問題に精緻に触れた論文を紹介することで説明の代えさせていただきます。その論文は

アルフォンス・ラービッシュ(市野川容孝訳)(2003)「ドイツ医学史概観-
医学の<内>と<外>のはざまで-」、見田宗介(他)編『ライブラリ相関社会科
学第8巻-<身体>は何を語るのか 20世紀を考える(Ⅱ)-』、新世社

です。この論文に人文科学や自然科学が医療とどう関係したかが、ドイツの例を通して述べてあります。


「18世紀に入って、新たな流れが生まれます。すなわち、近代(諸)科学において、自然それ自体が歴史化されるようになったのです。自然の時間化と、自然認識の歴史化は、各種の進化論に最もはっきり確認できます。(中略)自然科学の諸対象が、ある目的に定位して歴史-科学的に考察されるようになります。さらには自然科学そのものに関する歴史記述、すなわち科学史の諸研究が生まれます。しかしながら[自然科学とは異なり]医学は、何よりも、行為(実践)に根ざした学問分野です。自然科学との関係をもちつつも、[医学は]病める人間に向き合わねばならないため、そこでは行為(実践)という視座が際立ってきます。この視座は、単に技術的なものではありません。それ以上に、主観的な領域に足を踏み入れつつ、それぞれの特殊な状況に置かれた一人一人の人間に向き合う知が、そこでは必要となるのです。それゆえ、医学は、科学理論としては、困難な状況に置かれます。というのも、個々の特殊な言明、個々の特殊なケースから、科学的な知を導き出すことは到底、不可能だからです。[自然科学における](第一の)歴史化に呼応する形で、医学の内部でも、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ある特異な歴史的思考が形成されていきますが、それは、啓蒙という意図をもちつつ、理論と実践の両面で医学が直接、必要とするものに定位していました。」(P.8)


医療は特殊な状況にある患者さん一人一人に対応する必要から、科学理論として一般化することが非常に困難なわけです。

これは今日においても同様です。医学は一般化された普遍的理論として自然科学の一員として認知されていますが、こと実際の医療現場となるとひとりの患者さんの訴えに対してはドクターの裁量に委ねられる部分が多く、純粋科学を貫くことは困難です。

著名な歌人斉藤茂吉は精神科医としても一家を成した人ですが、彼は精神病の患者の診察のとき、聴診器を頭に当てて、「脳が風邪をひいている」などと言ったそうです。無論これはまやかしです。しかし、大正や昭和初期の患者には十分に有効なトリックとも言えるでしょう。今日、これと同じことをしたら患者に「ばかにするな」と叱られるに違いありませんが。

医療は一般科学を基礎としながらも個々のケースに合わせて柔軟に、一見非科学的と見えるようなことでも治癒という目的のためなら許容されるのです。


「自然科学的な医学への転換は、ドイツの場合、J.ミュラーによる医学理論の基礎研究そしてJ.L.ショーンラインによる臨床医学に見出すことができます。この時期、研究と教育の統合が、自然科学に依拠し、また臨床と結びついた医学教育によって、進んでいきます。これは、19世紀の諸外国の医学と比べて、かなり特異なことでした。自然科学的な医学の第二世代としては、確かに他にも大勢おりますが、R..ヴィルヒョウとF.フレーリクスの名をあげるべきでしょう。この二人は、ロマン主義的ないし自然史的な医学の影響から脱却し、また、その師に当る自然科学的医学の第一世代の考えをドグマ的なものと見なしました。さらにその下の第三世代は、自然科学的な理論家であると同時に臨床家でしたが、彼らは自然科学に基礎を置いた症例集を、自然科学流の演繹的理論と、日常の臨床で出くわす雑然とした経験、この二つを結びつける中間項として位置づけました。

 歴史と自然科学の双方に根ざした医学のこの第一段階において、歴史的な考察と歴史的な議論の必要性は当初まだ自明のものでした。これは、「哲学的-思弁的」と揶揄されたロマン主義的医学から意図的に遠ざかろうとしたと見なされている人びとに、とりわけ言えることです。

(中略)

ヴィルヒョウは、歴史的な研究を手がけながら、そこで社会的に重要な諸疾患、そして社会的に重要な諸制度にとり組みました。

(中略)

 こうした歴史的なまなざしが、自然科学的な医学の考察と研究から最終的に一掃されるのは、例えばR.コッホとその実験的な細菌学によってです。コッホは、認識手段としての歴史を、原理的に、またあからさまに批判することはしませんでしたが、[彼らを通じて]最新の自然科学的な方法が、新しい知にとっての唯一の審問官となったのです。かくして、歴史的な考察は、(自然)科学的な論証過程から姿を消していきます。」(P.10-12)


 医療の世界にも自然科学が確実に取り込まれました。それは特に細菌学です。これらは先ほどの斉藤茂吉がやったようなまやかし的トリックを用いるまでもなく、確実に細菌を叩くことで治癒に導けます。

 科学から導かれた技術が確実に奏効したのです。ここに至って医療は自然科学の一員としての立場を明確にせざるを得なくなりました。日本に西洋医学が入ってきたのがちょうどこの時代、つまり明治時代です。それ以前の蘭学はまだ自然科学としての洗礼は受けてはいません。細菌によるさまざまな感染症の得体が知れたために衛生知識が広がり、これが予防に非常に役立ったのです。
こうして日本の医療は西洋医学一色になりました。


 「19世紀末に医学が自然科学たらんとしたとは言っても、同時に、これにはっきり抵抗(ないし逆行)するような動きがいくつかあらわれ、それは今日まで続いています。1830-40年代に[自然科学的な]医学に失望した臨床医と患者たちは、[当時の正統医学と比べて]害の少なかったホメオパティに惹かれていきます。新ウイーン学派が自認したおうな「治療的ニヒリズム」の時代にあっては、患者と同様、医師たちも、従来の治療法に満足できなければ、「非医学的」な治療法に出口を見出すしかなかったのです。また、その後、鳴物入りで紹介された、自然科学的な治療法の最初のものも、人びとを失望させるものでした。」(P.13)


 しかし、西洋医学も万能ではありません。期待が大きいだけに失望も計り知れないものがあったのでしょう。国家の制度としての医療が西洋医学に制定されたにもかかわらず、旧来の鍼灸や漢方、あるいは新興の指圧やさまざまな療法も継続したり、派生したり、生まれたりしました。

 この理由は西洋医学だけでは埋めきれない医療の側面があるからに相違ないでしょう。

 脚気の治療で有名な逸話があります。陸軍の軍医総監で作家の森鴎外は脚気の原因を当時のドイツ医学に従って細菌だと考えました。それに対して海軍は栄養の問題、とりわけ白米主食にあると判断し、麦飯にしました。

 その結果、日露戦争において海軍は脚気による死者0、それに対して陸軍は戦死者以上に脚気で貴重な兵力を失うことになりました。

 科学は枠組みを決めてから考察を行います。その枠組みの段階で間違うとお手上げになりかねません。しかし医療現場では科学より何より目先の患者さんを救うことが第一義となります。そこにかえって非科学的な要素が入り込む余地が生まれるのです。


 「自然科学的要素をもちながらも、医学は、本来的には、主観(主体)に定位した行為(実践)の科学であり、またそうであり続けます。自然科学的な命題は常に、万人に妥当することがらに定位しますが、主観的な性質を帯び、また空間的、時間的に限定された行為(実践)に目を向けるという点で、人文科学的な思考様式は、医学という知と医療という行為(実践)にとって欠かせない要素であり、またそうであり続けます。」(P.22)


 今日、医学が目覚しく発展しているにもかかわらず、鍼灸や指圧、漢方を求める人が引きもきらないのは、「医学という知と医療という行為(実践)」の隙間を埋め込みたいという大衆および医療者の要求なのでしょう。

 さて、前置きが長くなりすぎました。

 では、今月のテーマ小腸と三焦(さんしょう)のお勉強です。三焦については後のほうで詳しく書きます。

 例によって一般的な辞書を紐解きます。

『大辞林』
小腸
「胃と大腸の間にあり、腹腔を蛇行する細長い消化管。十二指腸・空腸・回腸に区別。蠕動(ゼンドウ)・分節運動などにより、食物を消化しつつ送り、粘膜の絨毛(ジュウモウ)から栄養分と水分を吸収する。」

 これは大体お分かりですね。では細かく見ていきましょう。まずは十二指腸。

十二指腸
「(長さが指を十二本横に並べたほどであるところから命名)小腸のうち胃幽門に続く部分。長さ約三〇センチメートルでC字型に曲がる。粘液と消化液を分泌。ここに胆管や膵管が開口し、胆汁や膵液が送られる。」

 胃の続きの部位です。ここには胆嚢やすい臓が接続されます。ストレスの影響も受けやすく、よく中間管理職が潰瘍になります。

幽門
「胃の最末端部分で、十二指腸に接するくびれた部分。」

幽門反射
「胃・十二指腸の粘膜に一定の刺激が加わると反射的に幽門括約筋が開閉する現象。胃の内容物が十二指腸に送られるのを調節する。」

 幽門は胃袋の出口です。

空腸
「小腸の一部。十二指腸に続く小腸の前半約五分の二をいい、明確な境界なく回腸に移行する。腹腔の左上部を占める。」

回腸
「小腸の一部で、空腸に続き、後方は大腸に接続する部分。」

 小腸は空腸と回腸に分けられます。いずれも聞きなれない名前です。わたしは学生のとき弘法大師空海になぞらえて記憶しました。

 胃や腸は複雑な運動をすることで食物を砕き、撹拌し、先へ送ります。その運動には以下のものがあります。

蠕動(ぜんどう)
「(1)ミミズなどの虫がうごめき進むこと。また、一般にうごめくこと。
(2)筋肉の収縮によって生じたくびれが波のように徐々に伝播していく形の運動。高等動物では消化管壁や血管壁に見られ、内容物を下方に送るはたらきをする。ミミズのような蠕形動物では体壁に見られ、体を移動するはたらきをする。蠕動運動。
(3)略」

分節
「(1)一続きになっている全体をいくつかの部分に分けること。また、その分けられた部分。
(2)略」

 蠕動はミミズのようにのたうつ動きで、分節は輪切りの運動です。

 小腸の表面積はとても広いのですが、それを複雑な形で腹の中に収納しています。とくに絨毛という細かな毛が代表的。これは植物の種から根が出たときの形(毛根)とそっくりです。見方を変えると植物の毛根は大地からの栄養を吸収する道具ですが、腸の絨毛も腸管の中の栄養を体内に吸収する器官です。
あるいは生物の発生的に観るとは同じ構造ではないかと推察されます。

 ここから腸はあるいは体内における畑とも考えられます。土中に有用菌がいるように、腸内にも腸内細菌が生息して、わたしたちの生命維持に不可欠の働きをしてくれています。

 そう、まさに腸は体内に引き込んだ大地なのです。

絨毛
「(1)脊椎動物の小腸の内壁にある指状ないしは樹枝状に密生する突起。内部に毛細血管網とリンパ管を有し、養分の吸収面積はこれにより著しく増大される。腸絨毛。柔突起。
(2)略」

 次は専門の辞書です。難しいので読み飛ばして、次の子ども用の図鑑のほうを読んでください。

『医学大辞典』(南山堂)
小腸
「胃と大腸との間に介在し腹腔内を蛇行する中空の器官で、長さ6~7m、上から順に十二指腸、空腸および回腸を区別する。十二指腸は第1腰椎のやや右で幽門に続き馬蹄形に湾曲して第2腰椎のやや左で空腸に移行する。長さ約30cm.(約十二横指幅)。小腸の残りの部分約2/5が空腸であり、約3/5が回腸である。回腸は右腸骨窩で大腸に連なる。

[構造]粘膜は単層円柱上皮におおわれ、表面に無数の輪状ヒダと腸絨毛とがあり、その間に腸腺別名リーベルキューン腺が開口して腸液を分泌する。十二指腸にはとくに十二指腸腺別名プルンネル腺もある。粘膜内には無数の孤立リンパ小節があり、回腸ではこれらが集合して長径約15mm.の楕円形の集合リンパ小節別名バイエル板を形成する。粘膜下にはマイスネル神経叢がありまた筋層内にアウエルバッハ神経叢がある。この2つはいずれも自律神経系に属し知覚、運動および分泌をつかさどる。筋層は内輪外縦の平滑筋からなり、蠕動および分節運動を営む。外面は腹膜で被われているが、十二指腸は前面のみ腹膜に被われ後面は後腹壁に癒着している。」

 いつものことですが難しいですね。

 次の子供向けの図鑑。これが一番分かりやすいと好評です。

『人とからだ』(学研の図鑑)
小腸
「胃から十二指腸へ送られた食物は、ここで、“すい液”と“たんじゅう”とよばれる消化液によって、さらにこなされて、小腸へと送られます。小腸には、2つのはたらきがあります。その1つは、食物がからだにとりこまれるように、よく消化するはたらきです。もう1つは、消化したものをからだの中にとりこむ吸収というはたらきです。

 小腸の内わがのかべは、じゅう毛とよばれる細い毛で、ビロードのようにおおわれています。このじゅう毛の中には、たくさんの血管やリンパ管が走っています。ぶどう糖とアミノ酸は血管に、脂肪はリンパ管にとりこまれます。

 小腸の、じゅう毛の毛細血管にとりこまれたアミノ酸は、門脈を通って、かん臓にはいります。それからもういちど血管にはいって、からだのすみずみまではこばれ、からだをつくる材料になります。

 たんじゅうは、しぼうを小さなつぶにする。
 すい液はたんぱく質をアミノ酸にまでこわす。
 すい液はしぼうをしぼう酸とグリセリンにこわす。」

 これは分かりやすいですね。

 では、次に比較解剖学の本にも当たってみましょう。

『新版人体解剖学入門』(創元医学新書)
小腸
 「小腸は胃からきた乳糜状になった食物を取り入れて、これに肝臓からの胆汁、膵臓からの膵液、腸壁からの消化液などを混じて、さらに消化を行う非常に重要な場所である。長さは六~七メートルあるが、小腸を十二指腸、空腸、回腸の三部に区別する。」

十二指腸
 「長さは約二五センチで、指を十二本並べた長さとほぼ等しいので、この名が生まれた。十二指腸は食道のような真直な管でなく、「コ」の字を裏返したような曲がりくねった管である。そこで胃の幽門から空腸に移行するまでのあいだを、その走り方に応じて、上部、下行部、水平部、上行部の四部に区分する。上部は胃に直結する部分、上行部は空腸に直結する部分である。下行部は縦に走っている部分で、ここに肝臓からの総胆管(胆汁を運ぶ)と、膵臓からの膵管(膵液を運ぶ)が開口し、臨床上はなはだ重要な部分である(大十二指腸乳頭)。

 十二指腸は後腹壁にぴったり癒着しているから空腸や回腸のように動くことはできない。また十二指腸は胃とともに潰瘍の好発部位である。」

空腸および回腸
 「屍体を見ると中がからの状態になっているので空腸という名があり、また回転が高度のために回腸という名がある。空腸は上半であって腹腔の左上部を占め、回腸は下半で腹腔の右下部を占める。両者の境界は不明瞭である。空腸および回腸の内腔には多数の輪状の襞があり、そのヒダの上に、さらに細かい絨毛という突起が密集して、あたかもビロードのようになている。これは粘膜の表面をできるだけ広くして、消化吸収に便ならしめるためである。空腸には孤立リンパ小節、回腸には集合リンパ小節があって、小腸にはリンパ装置の豊富なことを物語っている。なお、小腸に十二指腸腺、腸線などの消化腺のあることは、胃に胃腺があるのと同様である。また消化管の神経支配は、交感神経と迷走神経より成る自律神経である。」

 これを読むと、なるほど、空腸と回腸の名の由来がよく分かります。

 小腸は栄養を取り込む要の器官であることがわかりました。

 では次に漢方的な意味での小腸を調べます。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
小腸
 「六腑のひとつ。上は胃に連なり、下は大腸に連なる消化器官。そのおもな働きは、胃が消化した食物を受け、栄養分の吸収をした後、その残りを大腸に送る、食物の水分を分ける。『素問』に、『小腸は受盛の官、化物出ず』とある。心と小腸は表裏の関係にある。腎気を受けて衛気を巡らす。」

 大体西洋医学と同じような考えですが、『小腸は受盛の官、化物出ず』が分からないですね。食物を消化して盛んなエネルギーと化すというような意味でしょうか。

三焦
 「六腑のひとつ。胸部にある上焦、上腹部にある中焦、下腹部にある下焦の3つに分ける。実体のない臓器として、心包とともに古くから論争されてきた。水穀を消化し、気血を生じ、栄養を各部に送り、老廃物の排泄をはかる総合的な働きをするなど、体内の臓器の機能の統合をはかると考えられた。焦は、熱を持って食物を気血に化する意味がある。」

 三焦に関してはさらに難しくなります。以下は私の指圧の恩師増永先生の著書に当りましょう。分かりやすく解いてあります。

『スジとツボの健康法』(増永静人著)
小腸
「食物を栄養に転換して、体内の状態に応じて全身の血と肉を作ることによって統制作用を行います。不安や興奮、ショック、腹立ち、断腸の思いなどは、血液を下腹部に停滞させて循環不良をおこし、また女性の古血などになるオ血(漢方特有の証)となって全身に影響します。

 症状としては、腹でこらえてがまんしたり、怒りをこらえていたり、ショックを受けることで肩がつまって頚が固くなり、疲れやすく、腰痛や足のつれがおこりやすく、便通がすっきりせず、手足が冷たく、卵巣の働きが悪いために、月経痛、月経不順、片頭痛などの症状があり、産後ムリしたことなどが影響します。」

 このように小腸は食物を栄養というエネルギーに転換して、全身状態を統制する働きがあると仮定されました。さらに心理的なさまざまな場面を解説されています。これは元来東洋医療は心身未分化であったことに加えて、先生が心理学の専門家だったからでしょう。

 さて、次が問題の三焦です。

『スジとツボの健康法』(増永静人著)
三焦
 「小腸を補佐して末梢循環と体液移動を司り、皮膚、粘膜、漿膜、リンパの働きにより保護作用を営みます。上焦は脳膜から胸膜、中焦はヘソから上の主に大網、下焦は下腹部の腹膜、腸間膜、子宮内膜などに分けられますが、皮膚、筋肉など全般の防衛機能も受け持っています。

 症状としては、周囲に対する気遣いが下手で、過剰防衛になって警戒心が強く、全身が固くこわばっています。いつも手を握りしめたように前腕が固く緊張していたり、頭に何かかぶさったような感じで重苦しい、外界の変化に過敏で、寒暑の急変や湿気がこたえるかアレルギー体質です。鼻、ノドの粘膜が弱く、リンパが腫れやすく、風邪をよくひいて、眼がチカチカします。胸がしめつけられるのを感じたり、腹壁や皮膚全体が過敏でクスグッたがり、痛みを強く感じやすく、よくかゆみを訴えます。皮下に水気がたまり、手や後頭部がしびれ、湿疹やジンマシンのできやすい体質や症状になります。」

 増永先生はあるとき面白ことに気づかれました。寒いある日、動物園で猿を見たそうです。その猿たちは寒さに震え、自分で自分を抱くように身体に腕を回し、腕の外側をこすっていました。人間も寒いとき同じことをしますね。そのさするところに三焦のスジが通ります。三焦はその名のとおり「焦がす」つまり熱を生み出すところなのです。

 このように三焦は外界と内界の境にあって身体を外の変化から防衛していま
す。その最たる働きが免疫です。リンパにも深くかかわり、内臓で言うと脾臓
に近くなります。同様に全身を守る皮膚や粘膜とも関わるということなので
す。

 上記の引用文に先立って先生は以下のように説明されています。

 「従来の経絡の解釈で、最も混乱しているのはこの心包と三焦です。心包は一応、心を包む心嚢としていますが、三焦は「形なくして名あり」という古典の説明から、これを実体のない機能だけを指したものといい、心包(前号参照)との対比には全然言及していません。私(注:増永静人)はこれを中枢脈管系と末梢脈管系として捉えることで、心・小腸と同じ五行関係の意味とその君火(君主-主となるもの)と相火(宰相-補佐するもの)の対比を解釈し、また古典の正しい理解を示しました。心包はたんに心嚢でなく、大きな脈管を指して、心を助けることや経絡走行とも一致することを明らかにし、三焦がこれに対応して末梢の脈管とその分布する皮膚粘膜リンパに当ることで、形なしとは限界が無いという特徴を示す言葉だと解釈しました。こうして心包、三焦の古典のいう働きは「循環保護作用」を分担することを意味しているはずだと気がつくはずです。」

 大体お分かりになると思います。すっきりとした説明で、現代人にも理解しやすいでしょう。

では最後に経絡の走行です。

手の太陽小腸経
 小指の外側から肘を通って肩、肩甲骨から頚を昇って耳に入る

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
小腸
 「上肢の外側から肩背、頚、顔をめぐる経脈で、所属する経穴は19穴である。直接関与する臓腑は、小腸、心であるが、間接的には胃にも関与する。経脈の性質は、血多く気は少ない。また火経であるため、特に外邪性疾患との関連が深い。その流注は心経の分れを受けて、小指の末端(外側)から起こり、手背の外側をとおって肩に出て、1つはそこから前に下って、鎖骨上窩から胸に入り心臓をまとい、咽頭のほうにもまわり、また横隔膜を下って胃に向かい、小腸に帰属する。もう1つは鎖骨上窩から頬にのぼり、目じりから耳の中へ進み、また頬から別に下眼瞼の目がしらのほうへも行っている。小腸経は、熱病、炎症性疾患、特に中耳炎、風邪、リウマチ、結膜炎などによく用いられ、また肩甲部をめぐる関係から、上肢の痛み、運動障害、小腸の疾患(特に急性下痢症)などにも用いられる。」

手の少陽三焦経
 手の薬指から腕の外側を通って肩に入り、頚から耳の裏を回って目まで
『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
三焦
 「上肢外側から頚部、側頭部をめぐる経脈で、所属穴は23穴である。直接関与する臓器は、三焦、心包であるが、心包とともに経気の調節に関与する。
経脈の性質は気が多く血は少ない。その流注は心包経の別れが環指の末端にきて、ここから起こって、手の背側中央をのぼって、肩に出て、前にまわって鎖骨上窩に入り、乳の間に散布して、心包をまとい、下って三焦に帰属する。その分れは、乳のあいだから鎖骨上窩に出て頂部に上り、耳のうしろに達し、1つは耳の中へ入り、耳の前に出て、頬を経由して目じりのあたりに終わる。三焦経は、主に熱性、充血性の疾患(特に頭部器官)に用いられる。目、耳、鼻、喉の急性疾患、偏頭痛や神経症、全身の調節をする目的で各種の疾患に補助的に用いられることも多い。」

後記

今月はかなりややこしいものでした。三焦という漢方独特の用語が出てきましたから。簡単に言えば、環境との折り合いをつける作用を受け持っていると考えてください。

小腸は逆に外の物である食物を体内に引き込みます。しかしそれに伴う危険性、それを三焦が防衛しているのでしょう。

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