游氣風信 No,128 2000,8,1 老いはこうしてつくられる
三島治療室便り
最近、正高信男著「老いはこうしてつくられる こころとからだの加齢変化」(中公新書)を読みました。人が老いていくことを実験とともに考察していく本です。
今までなら簡単にできたバーをまたぐような行動が、ある日出来なくなっていることに気づいたとき、つまり心の中ではクリアできるはずの高さのバーに足が引っ掛かってしまうという現実に直面したとき、人は「ああ、俺も年を取ったな」と感じます。
けれどもそれはあくまでも身体能力の減退であって、逆にみると精神的にはその高さなら跨げるという若いときの判断力が維持されているという証明でもあります。
しかし人間はこうした老いを実感させる体験をいくつか経験しますと、「あれ、自分ももう年かな」と思い、周囲からも「おじいちゃんも若くないのだから無理しないでよ。年寄りの冷や水と言うでしょ」などと言われて老人扱いが始まります。
こうした生物に不可避の身体的な加齢現象(身体的な老い)と、必ずしも加齢によって衰退することの無い精神(言わば、精神の青春性)との乖離に気づいたとき、周囲から、また自ら「老いが作られる(老いていくではない)」という事実を、比較行動学者である著者が実験で裏付け、考察、問題提起している本です。
本の扉には以下のように書かれています。
またげると思ったバーが越えられない。痛みを表現する適当なことばが見つからない。このようなとき、人は老化を自覚する。しかし同じ年齢でも気力の充実した人もいれば、見るからに老いを感じさせる人もいる。このような個体差はなぜ出てくるのだろうか。本書は、からだの老化がいかにしてこころの老いを導くのかを独創的発想による実験で具体的に考察しながら、人々がからだの老化を受容し、こころの老いを防ぐ方法を展望する。
果たして高齢者は弱者か
四月からの介護保険の実施にもみられるように、日本の高齢化問題は既に待ったなしの領域に入っています。
いかに高齢者をお世話するか、そのための財源はどうするか、介護のための人材はどう確保するのか、高齢者が安心して暮らせる施設は、同様に家族が安心して任せられる施設は、あるいは家庭で介護している人の支援はどのようにするか、などなど問題は山積みです。
また現実に多くの人達がそのことについて考えたり、議論したり、行政が実施したりと着実に動いています。
しかし反面別の見方もあります。
高齢者というだけで誰でも彼でもお世話する必要があるのかということです。高齢者が経済弱者であるという幻想は徐々に覆されています。むしろそれを言うことがタブーとされかねない風潮がしだいに変化してきたように見えます。
高齢者は一括して経済弱者であるとは言えないということが新聞などでも取り上げられるようになったことでそれが伺われます。
これは若い世代に高齢者を経済的に支えるだけの余力が無くなってきた裏返しかもしれません。
先だってある方が言われました。
「わが家は年金家庭で苦しいのです。月々20数万しか収入が無い」
その方は立派な持ち家に夫婦で暮らしておられます。
別の若い友人からは次のような愚痴を聞かされました。
「夫の月給は手取り20万円ないから生活が大変」
彼女の家庭は夫婦と子ども二人でアパート暮らしです。
こうした卑近な例をもって一般化してしまうことは危険なことですが、金融財産の大半は60歳以上が所有していることは経済関係者が指摘している事実ですから、高齢者すなわち経済弱者とは言えないでしょう。
もちろん、自営業などで現在は廃業している高齢者家庭などはかなり逼迫した経済弱者であることが多いのも事実ですが、だからといって全ての家庭がそうであるとは言えないでしょう。
同様に、高齢者が全て身体介護を要する弱者とする視点にも疑念が湧きます。本人が望まないお節介なお世話も巷間よく見受けられることです。
「わしはまだ若い、大きな世話」
と若者に席を譲られてもがんとして座らない高齢者などはその身近な例ではないでしょうか。
果たして高齢者は一絡げ(ひとからげ)にして弱者でしょうか。
確かに身体能力は個体差があるにしても加齢によって弱っていくのは避けられない現実です。しかし、古来から社会は長老と称して高齢者の体験に基づく知恵を大切なものとして尊重してきました。
本来、高齢者は世話されるだけの存在ではなかったのです。
高齢者の存在意義
われわれが傲慢にも一方的に未開と呼んでいる社会があります。彼らは今日でも古来からの生活様式に従って暮らしています。そこでは長生きをした人々は、身体能力の点から狩猟などの激しい身体労働には不向きではあるけれども、長年の人生で蓄えた知識や知恵、体験や経験を身体内に秘めた、言わば学校や図書館のような役割をすることで社会に確たる地位を築いています。
また高齢者は身体の老いから必然的にゆったりとした動作や物言いをします。それは逆に存在の大らかさを演出し、社会の中でゆとりを生み出してくれます。
ちょっと次のエッセイを読んでみてください。
「この頃、猪がの、畑を荒らして困るんじゃ」
煙草盆に煙管を打ちつけながら祖父は呟やく。
「猪が・・」
「ああ、大きいんで。牙でつつかれると、子どもなんか、池の向こうまで飛ばされてしまうけえね」
煙管を振りかざし、両手を一杯に広げ、猪の大きさを誇示しながら語った。
少年は、月夜、山の畑の真ん中に屹立し、巨大な牙を天に突き上げた猪を想像して震え上がった。
けれども、祖父の大仰な語り口とは裏腹のにやりとした笑顔も見逃さなかった。
「おじいちゃん、また嘘ついてる」
祖父は何も答えず、節くれだった指で刻み煙草をちぎると、几帳面に煙管に詰め、盆の火種を煙草に移した。
「本当に猪は出るんよ」
裸電球の光の及ばぬ闇に向かって、実に旨そうに煙を吐き出した祖父は、やさしく笑みながら続けた。
「猪だけじゃない。鶏小屋にな、この前、鼬が来て、鶏を殺してしもうたんじゃ」
これはわたしが所属している俳句結社誌「藍生」2000年8月号に掲載したショートエッセイ「実石榴(みざくろ)」の冒頭の部分です。
祖父すなわち高齢者と孫である少年の交流の思い出を綴ったものです。ここには少年から見た祖父の存在感の大きさが豊かな時の流れで表現してあります
(出来栄えはともかく)。
こうした孫と祖父の間にあるゆったりとした時間の経過は、親ではなくもう一つ上の祖父母世代ならのものではないでしょうか。
子どもは生活に追われた両親からは処世の世知辛さを学び、余生を暮らす祖父母からはゆとりを感じ取ります。
孫を包むような愛情を見事に制御し、人生の先達として生きる味わいを教えてくれるのが高齢者世代の役割のひとつであると思うのです。
先のエッセイには次の一節もあります。漆黒の闇の中を祖父母の家まで不安げに歩いていた少年たちのところへ祖父が迎えにくる場面です。
雨水が轍を削った険しい道を登って行くと、前方から小さな火が降りて来る。
あぶり出される人影。その火は祖父の持つ提灯であった。
「よう来た。よう来た」
なつかしい声で祖父が呼ぶ。
「おじいちゃん、来たよ」
少年は駆け寄って祖父の手から提灯を奪い取り、先に歩きだす。
どこで学んだのか、家に着くまで、祖父は星の名や星座の由来を教えてくれた。闇に鳴きだす寝ぼけた鳥の名も知っていた。
不安の中にさしてくる光明。祖父は少年つまり孫にとってこうした存在だったのです。提灯というところに年代を感じますが昭和30年代の山村ではまだ提灯が現役だったと記憶しています。
祖父は星の名も星座の由来も、野菜を食べる鳥や夜中に鳴く鳥の名もよく知っていてその知識の豊富さで少年の尊敬を集めます。
このようにかつて、高齢者は長い人生で蓄積した能力をもって社会に君臨できたのです。ところが世の中は急激に変化しました。
高度な機械化は古い知識の集積では対処できない現実を生み出してしまったのです。
以前、仕事にでかけたお寺で偶然おもしろい説教を聞きました。お坊さんが檀家へお経に行ったらそこのおばあさんが泣いていたというのです。
「おみゃあさま、何泣いてござる」
「おすさん(和尚さん)よ、わしは悔しくて悔しくてならん」
お寺の説教は地元のお年寄り向けに徹底した土地の言葉で行われます。
「何が悔しいだ。泣いとってはちょっともわっかれへん(わからん)。訳、言ってみやぁ」
「わしがなも、新しい魔法瓶のお湯がどうしても出せんでよぉ、そこいらにおった孫に頼んだんだぎゃあ。ほしたらよう、『おばあちゃん、これを外さなお湯出てこんよ』と言って後ろのボタンをちょこっと触って、簡単に出してくれたん
だわ」
「ほらぁ、ええことだぎゃぁ。ええ孫だなも」
「ほれがちゃうんだわ(違うんだわ)、おすさん。その後、むつき(おむつ)取り替えて可愛がった孫に小生意気なことを言われてまったんだわ。
『僕は八歳でもできるのに、おばあちゃんは八十歳にもなってお湯ひとつ出せんのか』それ聞いて情けにゃあやら、悔しいやらでなも、泣けてまったんだぎゃぁ」
「ほんなこと言われてまったか」
このように以前と異なり高齢者の経験則が、新しいテクノロジーによって作られたポットの前では全く通用しません。
昔の炊飯は竈(かまど)で行われましたから、その技術の習得は容易ではなく、姑は嫁の上に技術力をもって君臨することができました。ところが今日では新しい電気炊飯器を購入すると、姑はもはや手も足もでません。技術力で上位に立つことが出来なくなったのです。ましてやビデオの録画やパソコンに至っては・・・。
こうなると高齢者はただに庇護されるのみの存在になってしまう可能性が高まってしまいます。
しかし、高齢者は本当に世話されるだけの存在なのでしょうか。または世話されるべき存在なのでしょうか。
先に述べたように高齢者は経済弱者ばかりではないと同じく、社会的な弱者ばかりではないと思うのです。
と、わたしたちはこうした推論を立てていっぱしのことを言うことは可能ですが、本当にそれが正しいのか単なる思い込みであるのは判断できません。
冒頭に紹介した本はそれらの問題に対して、実に科学者らしい取り組み方を見せてくれます。
そういう観点から見るとこの正高信男著「老いはこうしてつくられる」は、高齢者問題を踏み台にして科学的態度とか科学的考察とはこういうものだと紹介している本とも取れます。
本の内容はくどくどとは書きません。興味ある方はぜひ書店で購入して読んで下さい。660円です。
わたしが最も興味深かったのは、身体能力の低下が、痛みを表現する擬態語(擬音語)に影響するという実験報告です。
作者は医師が高齢者の痛みの表現があいまいで今一つ理解できないと言ったことにヒントを得て、痛みの表現を各年齢層で実験してみます。
すると具体的な表現である「はりでつつくよう」とか「せんまいどおしでおすような」などと言った具体的な言葉で痛みの強さや深さを表現する能力には年齢差はありませんでした。
ところが、痛みの強度の表現である擬態語(擬音語)で強度の小さいものから大きいものへの順番を問うと、中高年では
チクチク、ビリビリ、ズキズキ、ズキンズキン、ガンガン
となるのですが、65歳を過ぎた人達への実験ではこの序列があいまいになってしまうのです。
作者は言います。擬態語(擬音語)は喉を中心にした発声器官の身体性にかかわるものだと。ですから身体能力の低下と同時に擬態語(擬音語)がうまく使えなくなり、つまりその差異があいまいになり、痛みを表現することが難しくなるのです。
逆に、医師は高齢者に対して優しく接しようとするあまり、擬態語(擬音語)を多用するためにコミュニケーションがうまく取れなくなるのです。
これは実に興味深い部分でした。
作者は最後にこのようにまとめます。
これからの高齢者には「周囲と自分のために、何々しよう」と動機づける機会を提供するべく転換をはかることのほうが、はるかに重要です。
いずれにせよ高齢者は、充実した老後を高齢者だけで見出せるものではない。
達成感をもてる社会的期待を周囲が高齢者に寄せることが、何よりもこれから求められのではないかと、思われます。もちろん寄せる期待は、当を得たものでなくては意味がありません。
はたして、何が当を得たものなのか--それを社会全体で真剣に問うことが不可欠です。そのことを考えるためには、むろん高齢者のこころの動きを正しく理解することが、必要です。この本が、そのとば口になる役目を果たせればと、願う次第です。
これを読んで四コマ漫画の「サザエさん」を思い出しました。
敬老の日、近所の奥さんたちがおばあさんに何をして欲しいか訊ねます。
おばあさんは
「あんたたちは何もわかっていない」
とつぶやきます。そこでサザエさんは
「じゃ、おいしい漬物の作り方教わろうかしら」
とたんにおばあさん、猫を放り投げて立ち上がるやいなや、きりりと襷(たすき)を掛け、
「いい、漬物のコツはここ」
と、生き生きと立ち居振る舞うというものでした。
横で波平お父さんが
「敬老の日だぞ」
とサザエさんを戒めている内容だったと記憶しています。
波平さんは今日的一般常識であり、サザエさんは正高さんの言う「当を得た期待」を高齢者に対して見事に実現していると言えるでしょう。
サザエさんの人気の長い秘密はこうした質の高い洞察に支えられているのでしょうね。
後記
今月紹介した同じ作者の本が同じ出版社から先行して出ています。
「0歳児がことばを獲得するとき」(中公新書)
作者の興味は赤ちゃんから高齢者まで実に広くあるのです。
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