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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,141 2001,9,1  偶然

 世の中にはおもしろい偶然、あるいは意外な偶然があります。

 

 この夏、偶然にも二人の旧友が今池の治療室に相次いでやって来ました。旧友と言っても二人ともまだ20代から30代前半の若い女性。

 

 一人はアメリカ人のMさん。
 彼女は以前わたしの指圧教室に出入りしていました。
 わたしの知るかぎり今までで最も日本語の上手なアメリカ人の一人です。何しろ、日本語検定の最上級に合格し、わたしの知らない漢字もすらすら書きます。

 毎月の「游氣風信」もメールで読んでおられます。もちろん日本語で。

 

 名古屋の大学で勉強したあと、彼女はしばらく名古屋の会社で社長秘書や翻訳の仕事をしました。その後、ルーマニア女性の紹介で神戸にあるWHO世界保健機構に勤め、一昨年アメリカに帰国。現在さる大学院で通訳や翻訳の勉強をしています。

 今年の夏休み、日本企業でのアルバイトのために来日、東京で暮らし、7月末に来名、旧交を温めました。

 

 さて、もう一人の知人はKさん。彼女は若い日本人です。
 名古屋で有名なお嬢様学校で中学から大学まで過ごした後、大学院に進みました。しかし入った後、これは自分のやりたいことではないと一年で中退し、親の反対を振り切ってアメリカの大学院に留学しました。

 ハープを奏で、ベンツを愛用するという見るからにお嬢様然とした素直な愛らしい女性です。
 彼女は時々身体の調整のためにわたしの元に来ていました。

 

 この二人の女性。日本にいる時は互いに面識はありませんでした。
 ここから偶然の面白さが始まります。KさんとMさん。彼女たち二人の共通の友人Bさんの登場です。

 

 Kさんの友人にアメリカ人のBさんがいます。
 Bさんもわたしの指圧教室の熱心な生徒でした。
 Bさんはアメリカの大学を出た後、アフリカのジンバブエで2年過ごし、そのあと日本で2年暮らし、その間、持ち前の行動力で交友を広げ、相当に日本語を上達させ、多くの人にたくさんの思い出を残して帰国しました。

 

 笑顔がとても魅力的な、いかにもアメリカ人という明るい活発な感じの女性で、帰国後、大学院に進み、現在はスポーツイベント会社に勤めています。 アメリカの大学院に進んだ日本人のKさんは当時ワシントンDCに住んでいたBさんの家に遊びに出掛けました。そして今、カリフォルニア州モントレーの大学院で通訳・翻訳の勉強をしていると話したのです。するとBさんから意外な反応がありました。

 

「あら、ちょっと待って。その大学院ならMがいるはずよ。彼女とは三島先生の指圧教室で一緒だったの」
「えーっ、Mは同級生だわ。知らなかった」
 実際にこんな会話があったかどうか知りませんが、Kさんは同級生のMさんが以前名古屋に住んでいて、しかもわたしのところに出入りしていたことを遠いアメリカに来て知ったのです。

 

 MさんもKさんもこの夏、相次いでわたしの所にやってきました。そしてどちらも「ねえねえ、Kさん知ってるでしょ?同級生よ!」

アメリカ料理でいささか太くなったMさんは興奮して語りかけました。

 同様にKさんも
「先生、Mさんご存じですか。ここに出入りしてたでしょ。Bに聞くまで全く知らなかった。同級生なんて、世界は狭いですよ~」と、その偶然を面白がっていました。

 Kさんもアメリカ料理で太くなったようですが、日本食で元のスリムな体型に戻したそうです。

 

 大学院でわたしの悪口など語り合っていないか心配です。

 さらに、Kさんが武道の稽古で痛めた手首を治療するために地元のカイロプラクター(米国整体師)の所を訪問したところ、なんと彼は以前名古屋に住んでいて、
「Mr.三島なら知っている。会ったことはないが友人から名前を聞いたことがある」
と言ったそうです。
 海を越えてわたしのことを知っている人がいたとは驚き。

 

 このようにわたしたちの周囲は奇妙な偶然に満ちています。

 さて、もう一つの偶然。

 

 小学6年生のIちゃん。

 彼女のお母さんとは20年来の交流があります。したがって、Iちゃんのことは生まれたときからよく知っています。夜泣きや車酔いなど、赤ちゃんの頃から何回か身体調整もしました。

 

 Iちゃんは幼いときから趣味としてピアノやバイオリンを習っていますが、最近バイオリンの先生が引っ越しされて、新しい先生に変わったと聞きました。

「新しい先生はどこに住んでみえるの」
 先生が変わったと聞いたわたしはIちゃんのお母さんに尋ねました。
「同じ区に住んでおられる若い先生」
「おなじ区?」

 おやっと思ったわたしは新しい先生の名前を質問しました。
「先生の名前は?」

「K先生」
「やっぱり予想通り。じゃあ、名前はMさんだ」
「え、どうしてご存じなんですか」
「その人なら知ってるよ。お父さんもお母さんもお姉さんも知ってるよ」
「えー?どうしてー!どうして知ってるんですか?きゃー、もっとしっかり娘にバイオリンの練習させなきゃー」

 あわれ、Iちゃんの練習時間は翌日から倍になりました。と言ってもまだまだ大変短いそうです。

 

 なぜ、普通なら気にしないはずのバイオリンの先生の名前を尋ねたか。実はこれには布石があります。
 この会話の2、3カ月前、バイオリンのK先生のお母さんから、
「最近娘が自宅で子供達にバイオリンを教え出したのよ。引っ越しされた先生から引き継いだの」
と聞いていました。

 そこで、同じ区内に住んでいるIちゃんなら、もしかしたらそこに通っているのかなと思って先生のことを聞いたのです。

 とても面白い偶然でした。

 

 以前、ある講習会で次のようなことを聞きました。
 ものごとは「偶然」の産物であると因果関係を実証的に研究するのが「科学」。
 ものごとは「必然」の結果であり、それは何故かと思索するのが「哲学」。
 すべては絶対的存在の意の現れであり「当然」のことであると受け入れるのが「宗教」。

 果たしてこれが論理的に正しいかどうかは分かりませんが面白い分類だと思いました。

 

 広辞苑によれば

偶然

1 何の因果関係もなく、予期せぬ出来事がおこるさま。

2 イ 原因がわからないこと。客観的な偶然を否定する極端な決定論の立場からの主張。 

  ロ 歩行者の上に瓦が落ちてくる場合のように、ある方向に進む因果関係系列に対して、別の因果系列が普遍的理由なしに交錯してくる場合。一般に必然的な法則は、現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、常に偶然的事情がともなう。

必然

必ずそうなること。

必然性

何かがそれ以外でありえないこと。論理的必然性は、一定の前提から論理の法則に従って結論が導かれること。倫理的必然性は、道徳法則が個人に対して義務ないし等為であること。現象的必然性は自然・社会を問わず、事象が因果関係に支配されること。

 

当然

道理上からそうあるべきこと。あたりまえ。

 

偶然や必然に比べて当然は実にあっさりしています。

 

 わたしの知り合いのMさんやKさんがたまたまアメリカの大学院で同級生になったのは論理的にも倫理的にも現象的にも必然ではなく、無論当然ではありません。あくまでも無数の因果系列の交錯の中で貫徹された偶然的事情です。

 

 しかし、もしそこに意味付けを試みるなら、即ち何故、二人は同じ学校に来たのだろうか。こらは神のお導きなのだろうか。前世からの定められた運命だろうか、などと考えるなら宗教者あるいは運命論者ということになります。そいういう傾向の方ももちろんおられます。

 

 「偶然」という時、いつも脳裏に浮かぶ宮沢賢治の言葉があります。これは賢治が、彼を慕う女性に書いた手紙の下書きで、女性関係があまり報告されていない賢治の貴重な資料とされています。少し長いですが引用しましょう。

 

 (前略)ただひとつどうしても棄てられない問題は、たとへば宇宙意志というやうなものがあって、あらゆる生物をほんたうの幸福に齎(もたら)したいと考へてゐるものか、それとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学のいづれかによって行くべきかといふ場合、私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階があり、その最終のものはあらゆる迷誤をはなれて、あらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめようとしてゐるといふ、まあ、中学生の考へるやうな点です。

 

 宮沢賢治が昭和4年(37歳で亡くなる4年前)、彼のもとに頻繁に訪れた高瀬露という女性に出した手紙の下書きとされています。クリスチャンの高瀬は賢治に強く憧れたのですが、田舎における男女の噂を恐れた賢治がさまざまな方法を使って遠ざけた可愛そうな女性です。

 

 賢治の没後、彼女は幸福な結婚をし、その後も賢治を師と慕う短歌などを発表していました。

 

 この手紙を読むと賢治が当時かなり高度の科学を収めた(盛岡高等農林・現岩手大学で助手を勤め、教授から研究職に進むよう進言された)にもかかわらず科学を偶然盲目的なものととらえ、あらゆる生物を幸福にいたらしめようとする宇宙意志を信仰するという、本質的には宗教的人格であることが伺われます。

 

 現実には誰もがさまざまな局面で両者の間で揺れているのではないでしょうか。

 

 余談でした。

 町でたまたま友人に出会ったとき、それは全くの偶然と考える人、その出会いに何らかの意味を見いだそうとする人(二人の小指は赤い糸で結ばれていたとか)、これは神の思し召しと受け入れる人。

 

 人の思いはさまざまです。
 世の中が偶然盲目なのか、ある意志が働いているのか、これは唯物論か観念論かの立脚点の違いでしょうが、究極、人は人との関わりの中で、つまり歴史と社会の関わりの中で、幸せな人生を生きていくことが最も卑近な目的です。

 人生が偶然の集積で成り立っているのか、あるいはある絶対意志の発露なのか、各自が好みの立場に立てばいいでしょう。しかし、それが他人の存在を否定するものなら不幸なものです。

 

〈後記〉

 

 ニューヨークで世界を呆然、震撼とさせるテロが発生しました。

 

 対立と闘争。

 これらの相克・止揚による相互浸透。

 これらが善くも悪くも人類史を動かしてきた原動力です。これは発展にも破壊にもつながりなす。

 

 人類はこの繰り返しを何故発展のみに方向付けられないのか。過去に学べないのか。

 

 今度の旅客機によるワールド・トレーディング・センターの破壊テロをテレビで目の当たりにして、驚きや怒り、それらを通り越した空しさが全身を覆いました。

 

 それ以後、社会全体がどこか鬱然とした雰囲気に覆われていると感じるのは気のせいでしょうか。

 

 連日、アメリカ人や在住の日本の知人たちから多くのメールが届きます。

 正義のためとは言え、戦争には反対する意見。

 踏みにじられた平和に対する何らかの決着は必要というジレンマ。

 町中を異常なほどの数の星条旗がはためいているけど、これは純粋な愛国心とは思えない。

 平和を求めるメッセージにサインしてホワイトハウスにメールをしようという呼びかけ。

 みんなを沈静化させるための宗教的愛のことば。

 少し落ち着こう。我々に必要なのはささやかなユーモアだと愉快な写真を添付したメール。

 

 彼らの困惑、混乱、怒り、悲しみがもろに伝わってきます。

 果たしてわれわれに何が可能か。わたしも困惑に戸惑うばかりです。

 

 被害を受けた米国寄りの意見と同時に、古代から続いているイスラム文化への共感(テロへの共感ではありません)。

 このままイスラム文化とキリスト文化の争いになれば、11世紀から13世紀にかけての十字軍遠征の再来に成りかねません。この対立と闘争もその後多くのものを生み出したのですが。

 

 こうなるとビートルズのジョン・レノンのように

「天国が無いと想像してごらん。そうすれば地獄も無くなるし、宗教も無くなる。宗教が無くなれば国境が無くなり、国境が無くなれば戦争も無くなる。簡単だろう。想像するだけでいいんだ」

と歌いたくなります。

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