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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,140 2001,8,1 虫を詠む・・・

 先月、「游氣風信」で短歌の歴史の勉強をしました。ならば今月は実践編として短歌を詠むことにしました。

 素材は身近な虫。

 
 今年になって、ある有名女流俳人の訃報に接し、急に短歌を詠みたくなりました。それ以来、全くの独学で時々短歌を詠んでいます。しかし当然のことながら初心者の謗りは免れない全くの「ど素人」。良否の判断もおぼつかない初学者の無謀な試みです。ゆめゆめ、お笑い召さるな。

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忙しき蜂の営み日輪はから松山を西に傾く

  縁側に腰掛けてぼんやり向かいの山を見ていますと、小さな名前の分からない蜂がしきりにやってきます。蜂は蟻とともに高度な社会を構成する昆虫で分類上同じ仲間です。その生態から彼らはしばしば人間社会と対比されます。とりわけ働き蜂は人間社会の男を思わせます。休みにもかかわらず一生懸命働いている蜂を見ると憐憫の情を禁じ得ません。しかし彼らにも安息の夜は訪れるのです。

 

羽ばたきは呼吸なるかも銀やんま止まる時は命果つる時

 名古屋近辺ではまず見ることのできない銀ヤンマ。腹の部分が黄色や青色でとてもきれいです。近在の城跡のお堀には実にたくさんの種類のトンボが生息していて、それが時々庭にもやってきます。この庭にも清水の湧き出る池があるからです。銀ヤンマは飛ぶのが上手、とても素早くてなかなか捕らえることはできません。池に産卵する時をねらうのがコツ。 太陽の下でキラッと翻る美しさはいかなる宝石にも負けません。

 

天地を切り裂いてくる鬼やんまその身ほとりに水音を負ひ

  トンボの王様は何と言っても鬼ヤンマ。黄色と黒のまだらが鬼の毛衣(虎?)を想像させます。これも自宅の方ではめったに見ることがありません。小型の小鬼ヤンマもいます。鬼ヤンマ達には川に沿った飛行路(道)があり、そこで待ち伏せしていると次々やってきますから、比較的捕まえやすいトンボです。


熊蜂の羽音障子を打ち続け玻璃窓とほくはや秋の雲

  クマバチ。俗に言う熊ん蜂はスズメバチのこと。本当の熊蜂は大型のミツバチの仲間で3センチ近くにもなります。体は黒い毛で覆われていてまさに熊。しかしミツバチらしく丸っこくてどこか可愛らしい蜂です。刺されたら痛いとは思いますが・・・。

 なぜか座敷に入ってきて、障子にぶつかり出られなくなるトンマな蜂です。

 

古家は石垣囲ひをちこちの草より届く馬追のこゑ

  ウマオイはキリギリスの仲間。鮮やかな緑色のバッタです。スーイッチョと鳴きます。その声が馬を追う人の掛け声に似ているところから命名されたと想像されます。昼間、あちこちの草むらからしきりに聞かれます。炎天、されどもう秋だなと感じさせる音色。

 

一日の長しとりわけ昼下がりみんみん蝉は飽かず鳴きをり

 昼下がりは停滞した時間に飽きるときです。その間も絶え間無く山で鳴いているのがミンミン蝉。名古屋の方では「ジリジリジリ」と鳴くアブラゼミや「シャーシャーシャー」のクマゼミが圧倒的に多いのですが、この類いは喧噪
と暑さを演出します。

 それに対して山間ではミンミン蝉が主力。「ミーンミンミンミ~ン」と鼻詰まりの長閑な鳴き方。姿は声と異なり、透き通った羽と緑がかった美しい胴体の大型のセミです。

 

草深き野道を行けば糸とんぼ青光りして手より逃るる

 アオイトトンボです。青い金属的な光沢が鮮やか。薄暗い草むらの中に止まっていて近づくと飛び立ちます。飛ぶのが下手ですから簡単に捕まえることができますが、弱竹(なよたけ)の少女ような細々した姿態に哀れを感じ、掴むことを躊躇するうちに隣の草にはたはたと飛んで逃げます。

 

お濠なる水生植物花つけて飛翔自在にこしあきとんぼ

 コシアキトンボは、池などで比較的簡単に見ることのできるとんぼ。黒い胴体に腹巻きを巻いたように白い部分があり、腰が透けているように見えるので「腰空きとんぼ」などとおかしな名前が付いたと考えられます。去年の梅雨どき、岡崎公園に知人のお世話で俳句の吟行に出掛けたとき、一杯飛んでいました。

 

水馬の一生を過ごす水の上雲映りたり空映りたり

 水馬はアメンボと読みます。ミズスマシ(水澄まし)と混同されることがあります。アメンボはカメムシの仲間で、細く長い足で水面に立ち、ボートのオールを漕ぐように上手に走る虫。カメムシの仲間ですから臭気を出しますが、アメンボは飴のような匂いを出すので飴ん棒とも書きます。

 混同されやすいミズスマシは甲虫の仲間で水面をモーターボートのように走り回ります。今ではめったに見ることができません。一生は「ひとよ」。

 

風死んで時厳かに過ぎるなり草生何処に鳴くきりぎりす

  草生は「くさふ」。「ふ」は草木のたくさん生い茂る場所のことで、芝生などに使われます。キリギリスは昼間から草むらでチョンギースと鳴きます。大型の格好いいバッタですからなんとか捕まえたいと思ったものですが、めったに見つけられませんでした。

 今回、その間延びした鳴き声からふと「時間」を意識しました。人生とはつまるところ有限な時間でしかありません。退屈に生きるとは、人生における犯罪的行為とも思えますが、それもまた時には悪くないものです。退屈とは人生に深い味わいを与えてくれる酒・珈琲などの嗜好品のようなものです。

 

干し物の辺り明るし生涯を足長蜂の足垂るるまま

 縁側近くをせわしく行き来しているのはお馴染みアシナガバチ。長い足をだらりと下げて飛んでいます。
 一日中、巣作りや子育てで忙しくあくせく飛び交っているはずですが、その垂らした脚からどこかのんびりとした風情を感じます。

 

迎え火の熾り始めのさびしさに絶え間無きかな山の蜩

 せっかちな家ではまだ明るいうちから盆の迎え火を焚きます。夕暮れは特にヒグラシの好む時間帯。「カナカナカナ」と哀れな声が山から届いてくる頃、先祖の霊を招くために門前で火を着けると、真っ赤な熾火が黄昏に立ち上がります。

 あちこちの門前が焔で彩られる頃、次第に闇が深まり、いつもと同じ夕暮れが厳かな空気に包まれるのです。母屋の仏間は盆提灯の青い走馬灯に照らされまるで水底のよう。

 盆、蜩、終戦記念日。これらは全く関連のないモノゴトですが、日本人の心には何かが通底しています。

 

ひるがへる空の高さよ山国の大紫に秋間近なり

 
 オオムラサキ(国蝶)は名前の通り紫色が印象的な大型のタテハチョウ。縁側に座っていると、一日に一・二度
は見ることができます。つまり、何回も行き来しているのでしょう。山梨県の長坂町はオオムラサキの里と自称して保存に努めているようです。

 オオムラサキが翻るとき紫がキラリと光ります。その空の高さは確かに秋の訪れを感じさせました。

 

土飛蝗捕えてみれば手の中の弾み止まざるいのちなりけり

 ツチバッタ。殿様バッタの仲間ですが、それより小型で地上をよく跳ねています。色は地味な土色。子供のころ、あまりに当たり前にいるこのバッタは採るに値しませんでした。正式な名称は知りません。カワラバッタかクルマバッタか。

 バッタの跳躍力は素晴らしいもので、掌に捕まえると激しく跳びはねます。その勢いにしばし感動したのち、放してやりました。

 

黒揚羽あひ睦みあふ山百合の花を支える茎の勁さよ

 山には背の高い山百合がたくさん自生しています。その細長い茎には大きすぎる花にクロアゲハが二匹じゃれ合っていました。茎に漲るしなやかで強靭な力。「勁」という字を思わずにはいられませんでした。

 

山の日を惜しみなく得て朱と染まり里に戻りし蜻蛉なりけり

 お盆の頃にはアキアカネやナツアカネ、ミヤマアカネが真っ赤に染まって山を下ってきます。いわゆる赤トンボ。トウガラシのように真っ赤になるのはオスで、メスは黄色いまま。ミヤマアカネは羽根の先端近くにある褐色の帯が特徴的です。

 
漆黒の極みの翠身に負ひて烏揚羽に影立ち上がる


 「翠」はミドリ色のことです。
 カラスアゲハは翼に金属的な光沢があります。その色は金色や青や緑が交ざった美しさ。きれいな黒髪のことを「烏の濡れ羽色」と言い、また、「緑の黒髪」とも言いますが、まさにそんな感じ。近似種にクロアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハなど黒い大型のアゲハもいますが、それらは黒いだけで光沢がありませんからカラスアゲハとは容易に鑑別できます。
 黒や夜にかかる枕詞「うばたまの」のうばたまは「射干玉」と書きますが「烏羽玉(ぬばたま)」とも言います。このあたりの関連はおもしろいものがあります。

 黒いカラスアゲハから黒い影が立ち上がるのをおもしろがって作りましたが、興味が空回りしているようです。

 

蔵町に倉の片陰つづきけり甍を越ゆる二羽の黄立羽

 この近辺の旧家にはみな白壁の蔵があります。炎天が生む片影には時間が染み付いているような気がしてなりません。そんな停滞を打ち破るようにやって来たのは二羽のキタテハ。飛び方に落ち着きの無い蝶々です。しかしあまり人を恐れることがなく、近づいてもすぐには逃げず、時には肩に止まって首筋の汗などを吸うこともあります。

 

〈後記〉

 短歌を作り、そのコメントを一気に書きあげました。

 実際に挑戦してみて、短歌は俳句より数だけは簡単にできるものだと改めて確認できました。むろん、作品の善し悪しとは別の問題です。

 
 俳句は思いをどんどん収縮して作りますが、短歌は逆に思いを調べに乗せて拡散することで書き上げていく感じ。

 俳句は十七文字、短歌は三十一文字。たった十四文字の差ですが、俳句からみると短歌は倍近い長さですからそれぞれの個性の違いが生じるのは無理もありません。

 

 短歌に熱中すると俳句ができなくなることは十数年前に体験済み。
 これからも俳句を主としつつ、日本詩歌の主流であった短歌とも上手に付き合っていきたいものです。つまり歌は興が乗ったら作る。それに対してわたしにとって俳句はもっと生きることに深くかかわっています。

 反対に短歌が人生に直結している人もいるわけで、こうしたところから個性が生まれてくるのでしょう。

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