游氣風信 No,139 2001,7,1 短歌のお勉強
俳句のことは以前から時々《游氣風信》に取り上げてきました。
不肖私も二十歳前より断続的ながら句作を継続して今に至っていますから、俳句に関しては多少の意見を持っています。
しかも生意気にも何本かの俳句論も書いています。
しかし、日本の詩歌を語るには俳句だけでは片手落ちです。むしろ和歌の歴史の正統は短歌にありと申しても過言ではないでしょう。
その証拠に、正月恒例「歌会始」という国家的行事はあっても「句会始」はありません。意外なことに「歌会始」は明治二年制定という比較的新しいものですが、古来からの宮中儀式をもとに制定されたものであることには違いありません。
ここから想像できるように、元来、詩歌の本流をなすのは三十一文字の短歌なのです。その明確な根拠は万葉集あるいはそれ以前の記紀歌謡にまで辿ることが可能です。
「雅」と「俗」
十七文字の俳句は「雅」なる和歌の歴史の中で近世になって「俗」なるものとしてしゃしゃり出てきた新興の形式「誹諧連句」が、さらに明治になって一句独立して「俳句」となったものです。詩歌の歴史から鑑みるに、俳句は「俗」なものであって決して高尚な趣味などではありません。
誇り高き「俗」である以上、俳人が「歌会始」のようなお上主体の行事などに興味を持たないのは当然であり、そこにこそ俳人としての矜持(きょうじ)が存在するのです。
もっとも現代の短歌は五七五七七という形式は踏襲しているもののいわるゆ「雅」とは相いれない複雑さと多層性を包含して存在しています。
今月は謙虚に短歌(和歌)についてお勉強をしてみようと思います。と申しても文学をきちんと勉強したことのない、率直に申せば文学には全く疎いわたしが書くことですから、なにとぞ話半分にお読みいただいて、これをもってまっとうな知識とされないことを強くお願い申し上げます。
現代の短歌
まず最初に現代短歌と呼ばれる戦後の有名な短歌を幾つか紹介いたしましょう。特に青春詠と呼ばれる若々しい歌です。そこから一気に歴史を遡行します。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり 春日井 建
青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき 高野公彦
ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり 河野裕子
きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり 永田和宏
いちまいのガーゼのごとき風立ちてつつまれやすし傷待つ胸は 小池 光
ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ 永井陽子
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵 万智
限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月 穂村 弘
戦後から平成にかけての歌をざっと紹介しました。作者は六十代から三十代(故人の作もあります)。それぞれの作者の青春の頃の作品です。
上代歌謡
さて、時を一気に遡行します。
日本がまだ文字を持たなかった時代、つまり古事記や日本書紀の時代です。
この時代の歌を上代歌謡、特に古事記・日本書紀に出てくる歌を記紀歌謡と呼ぶようです。文字がないため口承文学。したがって歌謡。
たとえば古事記には有名な次の歌があります。
やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣山 こもれる やまとしうるはし
万葉集
上代文学を代表するものはなんと言っても万葉集です。仁徳天皇(313年頃)から淳仁天皇(759年頃)の時代、実に四百五十年間の歌が四千五百首集めてあります。大伴家持らの編集と言われています。
形式も長歌(五七五七と繰り返し七七で閉めるのが普通)・短歌(五七五七七)・旋頭歌(五七七五七七)・仏足石歌(五七五七七七)などが完成され、内容も雑歌(後の二つに分類されないもの)・相聞(主に恋の歌)・挽歌(死を悼む歌)などに分類できます。どうです、受験勉強を思い出されたでしょう。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙りたちたつ 海原は かまめたちたつ うまし国ぞ あきつ島 大
和の国は 舒明天皇
これが長歌です。長歌には反歌という内容を短くした歌、つまり短歌を添えることが普通でした。最も知られたものは次の歌でしょう。
長歌
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしもの
ぞ 眼交に もとな懸かりて 安眠し寝さぬ
反歌
銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも
山上憶良
その他有名なものとしては以下のものがあります。
近江の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 柿本人麻呂
石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春となりにけるかも 志貴皇子
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな 大伴旅人
わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも 大伴家持
万葉集以後、古今集、新古今集、金槐和歌集などが勅選されました。
古今集
古今集は淳仁天皇(759年頃)から醍醐天皇(905年頃)にわたる勅選和歌集で、醍醐天皇の勅命によるものです。紀貫之、凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑の選によります。
万葉集に比して理知的、観念的と言われています。
あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめのすがたしばしとどめむ 遍昭
ちはやぶる神世もきかずたつた河唐紅に水くくるとは 在原業平
久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ 友則
あすしらぬわが身と思へどくれぬまのけふは人こそ悲しかりかれ 貫之
夜をさむみおくはつ霜をはらひつつ草の枕にあまたたびねぬ 躬恒
春きぬと人はいへども鴬のなかぬかぎりはあらじとぞ思ふ 忠岑
秋きぬとめにはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行
新古今集
新古今集は1201年、後鳥羽院の指示で源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家
隆などが選をしました。すべて短歌です。幽遠な情緒を象徴的に表現し、本歌
取も特徴的です。
岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ 西行法師
山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水 式子内親王
見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ 後鳥羽院
駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ 定家
金槐和歌集
金槐和歌集は新古今の理知的な傾向に乗らず、万葉調を学んだ鎌倉幕府第三
代将軍源実朝(1192~1219)の家集です。実朝は頼朝と政子の第二子。十一歳
で将軍になり、二十七歳で殺されました。
今朝みれば山も霞みて久方の天の原より春はきにけり
はるがすみたつたの山の桜花おぼつかなきを知る人のなき
大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも
連歌
中世になって連歌が流行ります。これは五七五と七七を別の作者が作るものですが、これが隆盛となったのは院政すなわち1086年白河上皇の頃からです。
他人数で五七五と七七を交互に作っていきます。
最初の句を発句(ほっく)、次を脇、三番目を第三、最終句を挙句と予備、通常百句並べる百韻が作られました。発句が独立して俳句になるのは明治になってからです。
連歌は宗祇(1421~1502)を頂点として後は衰退し、室町後期には卑近・滑稽を旨とする誹諧連歌(連句)が盛んになります。山崎宗鑑・荒木田守武、遅れて江戸初期の西山宗因(談林)・松永貞徳(貞門)・松尾芭蕉(蕉門)が有名。
誹諧連句
江戸は町人文化です。一般人が文芸の世界にも参入してきました。
「連歌」が和歌の古典知識を素養とした情緒を保持していたのに対し、「誹諧の連歌」すなわち「連句」は古典的な知識を持たずとも作ることができる、つまり庶民に開かれた文芸として江戸期を彩ります。
しかしその流れの中でも荒木田守武は「誹諧を卑俗な遊びから一つの風雅に高める」という意志を表明し、芭蕉によって、通俗卑近な誹諧の特性を保持しつつ、「わび・さび・しをり・ほそみ」の独立した文芸として完成するに至りました。芭蕉は自分の人生そのものを作品化した希有の存在です。誹諧はそのスパイスに過ぎません。
一般人が参加するようになると、三日も四日も費やす百韻は無理ですから、短い歌仙(三十六韻)が流行しました。
夏の夜は明くれどあかぬまぶたかな 荒木田守武
鳳凰も出でよのどけきとりの年 松永貞徳
やがて見よ棒くらはせん蕎麦の花 西山宗因
長持に春ぞ暮れゆく更衣 井原西鶴
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 芭蕉
あけぼのや白魚白きこと一寸 芭蕉
この道や行く人なしに秋の暮 芭蕉
牡丹散つてうちかさなりぬ二三片 蕪村
何事もあなたまかせの年の暮 一茶
狂歌
江戸期に忘れてはならないものに川柳と狂歌があります。
狂歌は鎌倉時代から詠まれているらしく、江戸期に盛んになりました。
ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔 四方赤良
いつ見てもさてお若いと口々にほめそやさるる年ぞくやしき 朱楽菅公
はまぐりに嘴をしつかと挟まれて鴫立ちゆかぬ秋の夕暮 宿屋飯盛
心なき身にもあはれや立つ鴫をやにはに射たる秋の夕暮 鯛屋貞柳
本歌
心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ澤の秋の夕ぐれ 西行法師
川柳
川柳は人の名前です。元来前句付けと言って、前句を出してそれに付ける付句を広く応募するという投機的な娯楽でした。柄井川柳という選者が付句だけでも独り立ちできる秀作を集めて「俳風柳樽」という本を発行したのが川柳の始まりです。
川柳は滑稽な様子を描きながらそこに世事人情の心理を見抜くおもしろさがあります。
こはい事かなこはい事かな(前句)
雷をまねて腹掛やっとさせ(付句)
とい具合です。しかし、次第に付句だけでも独り立ちできるような内容になりました。
母親はもつたいないがだましよい
うちわうり少しあふいで出して見せ
役人の子はにぎにぎをよく覚え
本降りになつて出て行く雨宿り
料理人まわらぬ舌でほめらるる
正岡子規の革新
明治になって、日本の文芸史を集約する一人の卓越した人物が登場します。
正岡子規(1867~1902)。その事業の大半を脊椎カリエスによる病臥という壮絶な中でやり遂げています。
彼は西洋美術から取り入れた「写生」を重視しました。
「私が・見る」が持つ矛盾、つまり自我と客観性という矛盾を自覚的な手法とした写生はそれ以後の俳句を変革したのみでなく、過去を批判的に再検討することにもなりました。
子規は誹諧連句の発句(最初の一句)を俳句として独立させ、それまで崇拝されていた芭蕉でなく視覚的な蕪村に帰れと唱えました。次に短歌の革新を行い、恣意的・技巧的な「古今・新古今」を批判して素直でおおらかな万葉集に新しい光を与えたのです。
これらは極めて戦略的なものでした。つまり当時隆盛を誇っていた流派の批判のためにそれらの流派が神のごとく尊重していた芭蕉や古今を斬って捨てたのです。その点、子規は実に雄々しき戦略家でもありました。この強い精神力なくして、病床から俳句革新・短歌革新を行うことなどできなかったことでしょう。
彼の周辺からは俳句の高浜虚子と河東碧梧桐、短歌の伊藤左千夫や長塚節、文章では夏目漱石とそうそうたる人物を輩出したのでした。
暖かな雨が降るなり枯葎(むぐら) 正岡子規
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
いくたびも雪の深さを尋ねけり
鶏頭の十四五本もありぬべし
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり
冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る
以降、日本の詩歌史は現代詩勃興などさまざまに揺れながら今日にいたるのです。
こうしてざっと詩歌史を俯瞰してみますと、短歌はずっと短歌として一貫し、その周縁を誹諧(俳句を含む)が纏わり付いていたようにも見えます。
しかし今日、俳句人口は短歌人口を圧倒的に凌駕しているようです。それはなぜでしょう。
五七五七七という人々の心に安定して伝わる完成されたリズムと、ゆったりと述べるに足る十分な文字の数。
それに対して七七を失って調べも内容も不完全のままに表現しようとする俳句。ところが逆にそこにこそ俳句のおもしろさが生じました。つまり言い足りない部分は鑑賞する人が埋めてくれるのです。これは極めて現代的な芸術の在り方です。
さらに「言いおおせていない」ところにこそ本当の心が隠されているという日本芸術の重要な課題である「間」が、切れ字の発展により大いに生きてくることとなりました。
これなら少々下手でも大丈夫。しかも古典的な素養も必要ありません。いつの時代も大衆化はこうして進むのではないでしょうか。
しかし、カラオケでもゴルフでもそうですが、大衆は好きだけでは満足できません。必ず上手になりたいものです。
その点、なんとありがたいことか、俳句は知らず知らずのうちに上手に見える器だったのです。
これが俳句隆盛の理由ではないかと一人で思っています。
大衆の大かたは予想以上に熱心でまじめです。
俳句を作る人はいつもこれではいけない、風雅の誠を求めた芭蕉に帰れ、真なる美に生涯を殉じた西行に戻れと考えています。こうして歴史は繰り返されるのでしょう。
最後に同じモチーフの俳句と短歌を紹介します。たまたま短歌と俳句を代表する人のよく似た作品に出会ったのです。秋風と鶴を詠んでいます。形式の違いを吟味してください。
しろがねの香の秋風が夕鶴を歩ましめをり死は何時われに 塚本邦雄
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ 石田波郷
参考文献
形態別日本文学新選 詩歌編 津之地直一編 国文学研究室
現代の短歌 高野公彦編 講談社学術文庫
その他
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