游氣風信 No,136 2001,4,1 山男の四月
三島治療室便り
四月。
とても過ごしやすい季節です。
風はやさしく、空の色も緩んでいます。
桜は空を彩り、下をいく人も華やいで見えます。
四月は冬の緊張が緩むために眠くなる季節でもあります。そのために心身ともに不安定になりがちですから注意が必要です。
宮沢賢治の童話にこの春の眠たさを背景にした「山男の四月」という短い作品があります。
賢治が生前唯一自費出版した童話集「注文の多い料理店」(大正十二年)に収められている、比較的地味な作品です。
四月の暖かい日差しの中で眠り込んだ山男の夢物語。四月はまさに眠い季節なのです。
あらすじを紹介しましょう。
ある温かい春の日、山男は町に出ます。そこで怪しい支那人に会いました。
その支那人は各地を反物や六神丸(鎮痛・強心・解毒などに用いる丸薬)の行商で歩き回っている男です。ところが山男は支那人に飲まされた薬で自分が六神丸にされてしまいます。
支那人の荷物の中には薬に変えられた人々が大勢いました。中には上海から連れてこられた支那人までも。
山男は薬にされた支那人に言います。
「おまへはするとやつぱり支那人だらう。支那人というのは薬にされたり、薬にしてそれを売つてあるいたり気の毒なもんだな。」
「ここらをあるいているものは、みんな陳のやうないやしいやつばかりだが、ほんたうの支那人なら、いくらでもえらいりつぱな人がある。われわれはみな孔子聖人の末なのだ。」
こんな会話を交わしているうちに山男は元に戻る丸薬のことを知りそれを飲みます。ところが陳もその丸薬を飲んだために巨人になってしまいました。山男はあわてて逃げ出しますが背後から捕まり・・・ここで山男の目が覚めました。陳も六神丸もみな夢だったのです。
一言でいえば、「山男の四月」は、山男が春の長閑な日差しの中で見た夢物語ですが、人間が薬に変えられるという一風変わった物語でもあります。
夢であったという点でオチがやや陳腐であることは否めませんが、賢治らしい自然の描き方が楽しい作品に仕上がっています。
例えば
どこかで小鳥もチツチツと啼き、かれ草のところどころにやさしく咲いたむらさきいろのかたくりの花もゆれました。
山男は仰向けになつて、碧いああをい空をながめていました。お日さまは赤と黄金でぶちぶちのやまなしのやう、かれくさのいゝにほひがそこらを流れ、すぐうしろの山脈では、雪がこんこんと白い後光をたしてゐるのでした。
(ぜんたい雲というものは、風のぐあひで、行つたり来たりぽかつと無くなつてみたり、俄にまたでてきたりするもんだ。そこで雲助といふのだ。)
けれども作品としてあまり重要視されてはいないようです。
ところがこの地味な作品は別の意味で注目されました。
一部の賢治研究家から、中国人の見方がステレオ・タイプで時代的制約を受けて差別的であるという指摘がされたのです。
しかし、およそあらゆる人は時代的制約から解放されることは困難でしょう。
それに
「ここらをあるいているものは、みんな陳のやうないやしいやつばかりだが、ほんたうの支那人なら、いくらでもえらいりつぱな人がある。われわれはみな孔子聖人の末なのだ。」
と書いているように、賢治には差別意識は感じられません。
支那人という今何かと話題の呼称も当時(大正十二年)は一般的なもので、特に蔑視したものではないように思われます。
「山男の四月」の主役は山男でした。
賢治には他にも山男が登場する作品があります。「狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)」、「紫紺染について(しこんぞめについて)」、「祭の晩」、「おきなぐさ」など。
旧版の「宮澤賢治語彙辞典」から山男の説明を引用します。ただし長いので要約です。
山男
山奥深く住むといわれる怪物。
賢治の山男に関する見方は民族学者柳田国男の「遠野物語」に近似している。
「遠野物語」には山男のことを「ただ丈きはめて高く眼の色少し凄しと思はる」、「丈の高き男の(中略)色は黒く眼はきらきらとして」と書かれているが、賢治の童話にも「黄金色の目をした、顔のまつかな山男が」(狼森と笊森、盗森)、「黄金色目玉あかつらの西根山の山男」(紫紺染について)、「金色めだま、あかつらの山男」(山男の四月[初期形])とある。
ただし、「遠野物語」の山男は、里の女をさらうなどして恐怖の対象となっているが、賢治の山男は支那人にだまされて反物(山男の四月[初期形])や、薬にされてしまったり(山男の四月)、村人に粟餅をねだったり(狼森と笊森、盗森)するなどむしろ人間的でユーモラス、時には物悲しく、自然界に生きている賢治のデクノボーの一変型と見ることもできよう。
柳田国男は、山男を、古代の滅ぼされた先住民が山に隠れて生活するようになったものと考えていた(山の人生)などと書かれています。
柳田国男は遠野出身で早稲田大学に在学していた佐々木喜善(ささききぜん・筆名鏡石)から聞いた遠野の伝承物語をそのまま「遠野物語」(一九一〇年明治四十三年・当時賢治十四歳)として発表しました。同書の冒頭に柳田は次のように書いています。
「此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折折訪ね来たり此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」
遠野は岩手県の北上山地にある古い城下町。賢治の生まれ育った花巻とは釜石線(当時は花巻軽便鉄道)で結ばれています。人と馬が同居する南部曲屋でも有名な観光地ですが、賢治の原風景とも呼べる土地です。わたしは二十五年前オートバイで通ったことがあります。
佐々木喜善(鏡石)は賢治より十歳年長ですが奇しくも賢治と同じく昭和八年に亡くなりました。最晩年、二人は互いに認め合い、佐々木が二度ほど賢治の病床を訪れています。賢治が「遠野物語」を読んだか否かははっきりしませんが、佐々木喜善の著した「奥州ザシキワラシの話」(一九二〇年・大正九年)を読んで「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を書いたことは知られています。
先程紹介した「宮澤賢治語彙辞典」に、「遠野物語」に登場する山男は恐怖の対象であると書かれていましたが、柳田国男が後年に発表した「遠野物語拾遺」には山男が粟餅のお礼にマダ(菩提樹)の皮を持ってくるという話が紹介されています。実はこれによく似た話を賢治も書いています。「祭の晩」という話です。
「祭の晩」は、ある少年が祭の晩、お金を使い果たしたことに気づかず団子を食べてしまい村人から責められている気の毒な山男を見つけ、そっとお金を上げて窮地を助ける童話です。山男はお礼に少年の所へ薪を百把・栗八斗を届けるという約束をし、本当に届けます。
賢治は山男が薪や栗を置いていった場面をこのように書かいています。
「その時、表の方で、どしんがらがらっと云ふ大きな音がして、家は地震のようにゆれました」
柳田国男の「遠野物語拾遺」の一〇〇話にも、山男がお餅のお礼にマダ皮をどっさり持ってくる話があります。
「約束の日になって、餅を搗き小餅に取り膳に供えて庭上に置くと、果たして夜ふけに庭の方で、どしんという大きな音がした」
と「祭の晩」に大変似ています。
マダ皮は菩提樹の皮。シューベルトの歌曲「菩提樹(リンデン・バウム)」と同種の木で、お釈迦さんが悟りを開いたインド菩提樹とは別の種類です。東北ではマダ皮で蓑や茣蓙を作りました。
「遠野物語拾遺」に登場するマダ皮一年分で三升の餅を貰うという人の良い山男こそ賢治の山男の原点になったもののような気がします。
仮に「遠野物語」のような民族学に関する本を読んでいなかったとしても、おそらく賢治は子どものころから地元の古老などからこうした話を身近に聞いて育ったに違いありません。
どこか憎めない、ちょっと切なくなるような山男でした。
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