游氣風信 No,138 2001,6,1 宮沢清六さんを偲んで
6月13日の朝刊を広げたとき、ふと何かに引かれるように訃報欄に目をやりました。果たせるかな、そこには宮沢賢治の実弟宮沢清六さんのご逝去の知らせが写真とともに掲載されていたのです。
宮沢清六さんは賢治の弟です。賢治の兄弟は二男三女(トシ・クニ・シゲ)ですから、たった一人の弟ということになります。
ちなみに妹トシとはかの著名な挽歌「永訣の朝」で
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
と歌われた最愛の妹です。
賢治の兄弟では賢治とトシが早世し、あとの三人は比較的長生き、中でも清六さんは大変なご長寿でした。
記事を読売新聞から引きます。
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宮沢賢治の実弟
作品普及に尽力
宮沢清六(みやざわ・せいろく=詩人宮沢賢治の弟)12日、老衰で死去。
97歳。告別式は29日午後0時50分、岩手県花巻市若葉町3-16-22
市文化会館。自宅は同市豊沢町4の11。喪主は親族の裕造氏。
賢治の全集出版に尽力するなど作品の普及に力を注ぎ、「銀河鉄道の夜」など賢治の遺稿や遺品などを整理復元し、約4000点を花巻市に寄贈。同市に1982年、開館した宮沢賢治記念館の設立では、市民への募金活動の先頭に立った。著作に「兄のトランク」などがある。
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宮沢賢治(明治29年~昭和8年)はご存じのように近代日本を代表する詩人で童話作家です。生前は全く無名でしたが、没後、草野心平や高村光太郎などの紹介で次第に名を知られ、数年前の生誕百年には出版ラッシュ、各地方自治体や団体によるさまざまなイベント、さらには映画が二社から競作されるほどの一大ブームになりました。
生誕百年の喧噪が去ったあとも、地道な研究は続けられ、今後さらに光芒を放つ存在と目されています。
その陰には常にこの清六という賢治より8歳若い弟のひたすらな努力があったのです。
賢治は38歳になったばかりで亡くなりました。
臨終の日、賢治は父政次郎に何か言い残すことはないかと聞かれ、
「国訳法華経一千部を印刷して知己に配ってください。そしてわたしの一生はこれをあなたのお手元に届けることにありました」
という内容の言葉を言い残し、さらに原稿はどうするかとの父の問いには
「これらの原稿は迷いの果てですから、好きに処理していただいて結構です」
と答えたと伝えられています。
また、母イチには
「これらは仏さんの教えを分かりやすく書いたもので、いずれはみんながありがたいと読むようになる」
と述べたという話もあります。
しかしその前夜、一緒に就眠した清六さんには
「原稿は全ておまえにやるから、どこか本にしたいというところがあればどんな小さいな本屋でもいいから出版してくれ」
と、父に述べたこととは矛盾した、出版への意欲を伝えています。
清六さんが賢治に原稿の出版を依頼されたのは二回目でた。ここに原稿を世に出したい賢治の強い意志を感じないではいられません。賢治自身詩集「春と修羅」童話集「注文の多い料理店」の二冊は自費出版していますし。
宮澤賢治語彙辞典(旧版)に宮沢清六の項目があります。引用します。
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宮沢清六(みやざわせいろく)
一九〇四(明治三七)年四月一日~ 賢治の末弟(八歳下)。盛岡中学を卒業後、東京研数学館で学ぶ。一年志願兵として入隊、見習士官で除隊後、建築・金物・自動車部品等を扱う宮沢商会を開業。第二次世界大戦後、岩手県民生委員、児童委員等を勤める。東京で学んでいる折、一九二三(大正一二)年の正月に、突然下宿先に賢治が花巻より上京。大きいトランクいっぱいに詰まった童話[風の又三郎]や[ビジテリアン大祭]等の原稿を出版社へ持参するよう賢治から依頼される。そのトランクを東京社(「婦人画報」、または当時大正リベラリズムや童心主義の影響下で人気のあった児童雑誌「コドモノクニ」の発行元)へ持ち込んだが、編集委員の小野浩(小説家・童話作家)に掲載を断れたことは有名である。賢治は死の前夜、傍らに寝た清六に「おれの原稿はみんなお前にやるからもしどこかの本屋で出したいといってきたら、どんなに小さい本屋でもいいから出版させてくれ、こなければかまわないでくれ」と言ったと堀尾年譜(堀尾青史先生による年譜)は伝える。賢治没後は膨大な原稿を
戦火の中でも守りぬき、また「校本宮澤賢治全集」をはじめとするすべての全集の編纂にたずさわる。兄に関する多くのエッセイがあるが、著書に「兄のトランク」(1987)がある。(以下略)
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今から24年前、わたしがまだ鍼の学校の一年生のとき、オートバイで賢治ワールドのツーリングに出掛けました。
その4年前にも出掛けましたが、その時は徒歩でした。徒歩では交通の便の悪いみちのく旅行ではあまりに不便だったので、今回は乗り物、それも車よりも駆動力と小回りに長けるオートバイにしたのです。
ちょうど名古屋地方が梅雨明けした日、わたしは名古屋港から仙台に向かうフェリーに小型のオートバイで乗り込みました。フェリーの食堂は料金が高く、貧乏学生にはカレー一皿買う予算ができませんでしたから、アンパン数個抱えて三等船室の貧乏旅行です。もっとも船室とは名ばかりで、実態はワンフロアーに雑魚寝状態。まるでサウナの仮眠室です。
フェリーの風呂には円い窓があり、そこから船の揺れに任せて水平線が右に左に傾いている光景はいかにも海の旅情をかき立てました。
甲板に出ると一方は広大な太平洋、反対側は沿岸という対象的な図柄が大きくわたしを包み、夜は船が切り裂く海面から夜光虫のような蛍光が瞬いて、いやがうえにも旅情と孤心を高めます。
18時間後仙台港に降り立ったわたしは一気に北上。雨の国道を岩手県花巻市目指して疾走しました。
名古屋を立つとき、気象台から梅雨明けが宣言されました。ところが梅雨明け前線も船と一緒に北上したので道中ずっと雨でした。梅雨が明けたのは皮肉にも帰る前日だったのです。
花巻市の南外れに桜というところがあります。そこには昔、宮沢家の別荘があり、賢治の妹トシ(有名な「永訣の朝」はトシの死を詠んだもの)が療養したり、賢治が土地の若者を集めて私塾を開いていたところです。
現在、その跡地には高村光太郎筆の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、毎年賢治の命日9月21日、子供会などが中心で賢治祭が開催されます。
「雨ニモマケズ」の中の一節
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ茅ブキノ小屋ニヰテ
から粗末な小屋を連想される方も多いのですが、もともと素封家であった宮沢家の別邸です。実際には立派な建物です。なぜそれが分かるかというと、この建物は偶然にも幾多の紆余曲折を経て、賢治が奉職した花巻農学校(現花巻農業高校)の敷地に移築されていて、今日誰でも見学できるからです。
さて、その詩碑の近くに小さな宿がありました。
宿を決めていなかったわたしは飛び込みで泊めてもらえないかと交渉しましたが残念なことに、近くの工事にきていた人達で満室でした。
交渉しているところに小学校4年生の男の子が帰って来ました。人おじしない明るい子です。
「あのバイク、お兄ちゃんの」
「そうだよ」
「どこから来たの。泊まるの」
「名古屋から。でも部屋が一杯だから泊まれないんだよ」
「部屋がないのなら僕の部屋に寝ればいいよ」
商談成立。
わたしはその子の部屋に1週間ほど泊まり、東西南北と放射状に駆け回り賢治の作品の舞台を訪問したのでした。
最初の夜、その子とその子の友達と花火をしました。
今はどうか分かりませんが、当時、宿の周囲の田圃には小さな蛍が一杯飛んでいました。その幻惑的な闇の中で花火を揚げつつ相撲を取ったりしたのです。
「お兄ちゃんは賢治さんが好きなの」
「そうだよ。そのために作品の舞台を単車で訪問しているんだ」
「だったら清六さんに会うといいよ」
「え、知ってるの」
「うん、孫みたいに遊んでもらってるよ。清六さんはお父さんたちにとっては親も同然なんだって。お父さんに電話してもらえば会ってくれるよ」
わたしはそれを聞いて内心欣喜雀躍でした。この旅の最大の秘めた目的は賢治生家訪問だったからです。
少年から話を聞いた宿の主は
「ああ、そうかね。ま、一杯どうかね」
とお酒を勧めてくれながら、夜遅くまで雑談をして結局は清六さんのことには触れませんでした。
やはり、賢治研究者ならともかく、会いたいという人を誰でも彼でも紹介しては清六さん迷惑だもんなあと自分を慰め、この話はなかったものとして遅い床についたのでした。
小岩井農場から岩手山。
種山高原から五輪峠を経て遠野。
イギリス海岸や菩提寺など花巻市内。
盛岡市内。
北上市から成島の毘沙門様。
こうした賢治と縁の深い土地を巡りながらいよいよ明日は帰るという最後の夜のことでした。
部屋で帰りの支度をしていますと奥さんがやってきて
「今から清六さんが会ってくださるそうだからすぐに行って。自転車貸して上げるから」
夕飯時、主と酒を酌み交わした後でした。だから自転車。賢治生家つまり清六さんのお宅は表通りに面していて分かっていました。
わたしは慌てて玄関に立つと呼び鈴を押しました。若い女性が迎えてくださり、通された洋間に写真で拝見したことのある清六さんがにこやかに腰掛けておられました。
今から逆算すると当時、73歳くらい。人当たりの柔らかい、とても穏やかな雰囲気の方でした。わたしはまずお礼を述べた後、仏壇の賢治にお参りしたい由をお願いしました。快く仏間へ案内され、ロウソクに火を灯して合掌しました。こんなことは家でもめったにすることではありません。
洋間に戻ると、清六さんは賢治がイギリス海岸と命名した北上川の岸で発見したクルミの化石(バダクルミ)と同じものを見せてくださいました。ルポライターの山根一真氏は二十の時に清六さんにお会いしたとき、記念にクルミの化石を貰ったと本に書かれています。当時はたくさんあったのでしょう。今でも大雨の後などに出てくると聞いたことがあります。
清六さんは太い万年筆を取り出すと、記念にと新潮文庫の賢治詩集に「冬のスケッチ」の一節
げにもまことのみちはかがやきはげしくして行きがたきかな
と書いてくださいました。
最後にわたしは一番聞きたかったことを聞きました。
「賢治さんとはどんな方でしたか」
「兄は・・笑いたきときは笑い、怒りたいときは怒り、泣きたいときは泣く、ごく普通の人でしたよ」
それを聞いて妙に安心して岐路についたのでした。
翌朝、荷物を鞄に詰めているところへ宿の奥さんがやってきて、
「今、清六さんから電話があって、昨夜の青年に上げたいものがあるからもう一度寄るようにだって」
再び訪問したわたしの前に清六さんは一枚の色紙を取り出しました。
「昨夜あれから書きました。あなたの名前を入れますからもう一度教えてください」
とおっしゃると、
三島廣志様
と書いて、
「どうぞ」
と渡されたのです。
「もうお帰りですか。気をつけて帰って下さい」
「はい、ありがとうございました」
宮沢家を辞して、わたしの人生で最も画期的な旅は終わったのでした。
その色紙には「原体剣舞連(はらたいけいんばいれん)」という詩の末尾が書かれていました。
太刀は稲妻萱穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
dah-skoは太鼓の音です。原体剣舞連とは岩手県に伝わる笛や太鼓に合わせて
踊る伝承剣舞で、主として子供達が舞います。
この旅行以降、清六さんとは毎年年賀状のやり取りがありました。おそらく清六さんは膨大な方に年賀状を出しておられたことと思います。毎年、干支にちなんだ動物を賢治の作品から捜しだし、ご自身で書かれた絵や字を印刷した素晴らしいものでした。
全くの推測ですが、清六さんは賢治を慕ってくる人々のために早世した兄・賢治を演じておられたのではないでしょうか。
また、賢治研究者には協力の労を惜しまれなかったと聞きます。
わたしもある研究会の発表のためにヤマナシの実物を見たことがあるか手紙で問い合わせたところ、たくさんの資料を送って下さいました。一青年のためですらこうですから、賢治研究者たちから信頼を集めておられたのも諾なるかなです。
時には賢治の新刊にサインして送って下さったりもしました。90歳近くなられてヨーロッパ旅行もされたそうで、帰国後、アテネなどにでかけたなどというお便りもいただきました。
しかしここ二年、年賀状も届かず、心配していました。
清六さんの生涯は賢治とともにありました。
意外に思われるかもしれませんが、賢治の生まれた花巻市も米軍から空襲を受けました。
賢治生家もその時消失したそうです。清六さんは賢治の作品を火から守るために土蔵に入れ、隙間という隙間に味噌を塗り込んで原稿を守り通しました。
ところが土蔵から煙が昇っている。中がくすぶっていると気づいて慌てて外に出したそうです。後で調べるとネズミの掘った穴から火が入ったようです。
現存する賢治の原稿が燻製のように燻されているのはこのためです。
兄の没後、高村光太郎や草野心平らの協力で全集発行に漕ぎ着けました。羽田元首相のお父さんは賢治全集を出した羽田出版の経営者です。
今日では筑摩書房が数度にわたり全集を刊行し、賢治研究の推進を支えています。
宮沢清六さんの生涯は兄・賢治の原稿を守り、世に紹介することに尽力されたものでした。あるいはそのためにお生まれになったのかも知れません。
実に賢治より六十年も長い人生でした。
謹んで哀悼の意を表します。
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