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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,150 2002,61 宮澤賢治  自費出版した頃 その3  

 先ほど述べたように、本を出版した年の前後四年間、賢治は生涯で唯一定職に就いていました。農学校の教師です。随分充実した日々を送っていたようで、賢治にとって最も高揚した楽しい期間だったことでしょう。当時の教え子達の賢治を慕う様子は今日も教育者から注目を浴び、教師賢治が評価されています。

 

 しかし賢治はたった四年で退職してしまいました。

 理由は校長の人事問題などの人間関係のしがらみであるとか、生徒たちに百姓になれと言っておきながら自分が給与生活者であることに矛盾を感じたからとも言われています。

 

 それは1926年(大正十五年)、賢治三十歳の春のことでした。

 

 春 (作品第七〇九番)

 

陽が照って鳥が啼き

あちこちの楢の林も、

けむるとき

ぎちぎちと鳴る 汚い掌を

おれはこれからもつことになる

     春と修羅 第三集より(未出版)

 これからは農民として生きる、ぎちぎちと鳴る荒れた手を持つのだという宣言ですが、「もつことになる」と言う表現は高揚した決意とは程遠く、成り行きでしかたなくなるのだとも読める気がしてなりません。

 

 農村での実践。そこに自ら飛び込んだ理由の一つには「春と修羅」「注文の多い料理店」の二冊の出版が社会からも文壇からも全く評価されなかったことも少なからず影響しているのではないでしょうか。

 

 反発していた父親に対して文筆で立つことを認めさせたかったことでしょう。

 しかしそれもかなわず、といって三十歳にもなってぶらぶら引きこもっている訳にはいきません。 社会的に評価されつつ、父からも独立すべく、考えた末に飛び込んだのが農村。

 

 そう考えると農村へ入るのはやや投げやりとも取れます。しかし、その活動振りは決して中途半端なものではなく、まさに命を削るものでした。

 

 農学校の教師を辞して以後、賢治は農村へ入り、有名な農村活動に入ります。

 農村に暮らすと言っても生活拠点は宮澤家の立派な別宅です。まだまだ親離れできません。建物は現在、ほぼ当時のままの姿で花巻農業高校に保管されています。

 賢治はそこで村の若者を集めて「羅須地人協会」(らすちじんきょうかい)を起し、農業のための科学や化学、生活芸術の講義と実践を始めます。

 同時に農民のための無料肥料設計相談に東奔西走しました。

 

 農村へ入るときの動機の真意はともかく、そこでの彼の活動は必死なものでした。

肥料設計のお礼も受け取らず、土地にあう肥料や米の品種などを的確に指導していったのです。それは彼が盛岡高等農林で土壌学を研究し、その地方の地質を知悉していたからにほかなりません。

 

 しかし、例年冷害に苦しむ東北です。必ずしもうまくいくとは限りません。

 三十二歳の夏、風雨の中、稲が倒れそうになり、農民を励ますために農村を駈け回り、ついに肺浸潤を起し実家へ戻ります。学生時代に病んだ結核の再発でした。

 こうして賢治の農村活動は健康上の理由で都合二年で挫折しました。

(戦争へ向かう時代背景から若者を集めた活動に官憲の目が光り出した事も少なからず影響しているとされています)。

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

 

は、この挫折から生じた健康な身体への切なる願いにほかなりません。

 以降、賢治は病気と戦いながらの生涯を1933年(昭和八年)、三十七歳で終えます。

 

 賢治の死後、多くの人々の努力で賢治の作品が世に出されます。

 賢治の身体は滅んでも、その生命は長く生き続けています。

 賢治が「春と修羅」の「序」に書いた

 

ひかりはたもち その電燈は失はれ

 

とは、まさにこのことだったのかもしれません。電燈とは身体であり、ひかりとは彼の遺した精神です。

 

後記

 毎週届くメールマガジンに「安心!?食べ物情報」という食品情報を丁寧に解説したものがあります。

 そこに喫煙率が紹介してありました。よそからのリンクのようです。以下に紹介させていただきます。

 ◇喫煙者率の推移◇(単位%)

    男女計 男性   女性

1965年 47.1  82.3  15.7

1970  45.6  77.5  15.6

1980  41.4  70.2  14.4

1990  36.7  60.5  14.3

1995  36.3  58.8  15.2

1998  33.6  55.2  13.3

http://www.mainichi.co.jp/eye/debate/07/theme.html

 これを見るとわたしが高校生の頃は実に八割近くの男性が喫煙していたようです。

しかも当時、名鉄電車の中は禁煙ではありませんでした。今思い返しても信じられません。

 

 賢治が教師時代、喫煙していた生徒を見つけると、彼は叱ることはせず、黒板にびっしりと化学式を書き、ニコチンが如何に怖いものであるか説明をしたという逸話が残っています。

 科学者賢治の面目躍如の逸話ですが、現在、タバコの実害はニコチンではなく、煙に含まれる過酸化水素(オキシドール)つまり、活性酸素であることが証明されています。タバコの中のニコチン程度では身体への影響は少ないらしいのです。むしろニコチンは脳内の神経伝達物質として作用することも分かっています。

 

 それで、喫煙者にはパーキンソン病やアルツハイマー病などの罹患率が低いとか。

 といって、無理に喫煙を薦めるものではありません。

引用させていただいたのは以下のメールマガジンです。賢治の詳しいメールマガジンも書いておられます。

「安心!?食べ物情報」

http://food.kenji.ne.jp/

「宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」

http://why.kenji.ne.jp/

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