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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,148 2002,4,1  宮澤賢治  自費出版した頃 その1

 今月は久しぶりに宮澤賢治について書きます。

 約六年前、賢治生誕百年を記念した行事が世間を席巻しました。

 当時、やや大き目の書店に行くと宮澤賢治全集や賢治に関する評論など賢治関係の書物に溢れ、ブームに間に合わせた写真集などもたくさん出版されました。

 

 デパートの展示場では研究家かコアなファンしか興味の無いような賢治の遺品や原稿などの展示。

 

 さらに驚くべき事に、大手の映画会社からは賢治の自伝映画が二本も配給され、テレビでも特別番組が連日のように放映されるるという喧騒。

 いったい世の中にそんなに賢治ファンがいたのかと驚いたものです。

 

 そもそも賢治の愛読者というのはある種の含差を抱き、何かの折に

「実は若いとき賢治をよく読みました」

「ちょっと影響受けたんですよね」

とポツリとこぼす、そんな感じだったのです。

 それがあの大騒ぎ。とても不思議な気がしたものでした。

 

 最近、ふと思い立って、改めて賢治関連の本はどうなっているか調べてみました。

調べたと言ってもその当時、書店の一角を占めた賢治コーナーが今もあるかどうか、地元の大きな書店に確かめに出かけただけですが。

 結果は予想通り。

 あれほど溢れていた賢治関連の本は書棚に数冊あるだけで、あとは今人気のハリー・ポッターやその亜流の本で埋め尽くされていました。流行の本を販売すると言う書店にとって極めて健康な商魂主義。

 わたしはその当然過ぎる様子を確認、安心して帰路に着いたのでした。

 

 安心した理由は先ほど述べたように、賢治の思想はそれほど大々的に、声高に読み上げるものではないし、彼の人生はいわゆる偉人と呼ぶ傾向のものでもありません。

 ただ、賢治の多面的な活動が、いろいろな角度から今日的意味を模索されているのは事実です。

 

 たとえば環境問題。

 賢治は当時から生態学的なバランスを考慮していました。それは宗教的な食の戒律や農学的な自然の環境バランスなどから導かれたものです。

 

 あるいは教育。

 賢治は四年間、農学校で教師をしていました。その独特の教育方法は現在、一部の教育者から注目され、その理念を再現しようと言う試みは各地でなされています。

 

 また、文学的価値。

 賢治は生涯をアマチュアで過ごしたために、詩壇や文壇からは離れた存在でした。

というより無視された存在でした。であるがゆえに自由に作品を展開し得たと言えるでしょう。作品論や創作論に関心を持たれています。

 

 思想家としての一面。

 農民芸術概論という文章が残っています。そこには芸術を核とした独特の思索が展開されています。

 

 これらさまざまな賢治の側面をさまざまな研究家や実践家が深く研究していますので多方面からの評論が生れたのです。

 それらが生誕百年に合わせて一斉に出版されたとも言えます。

 そこに賢治の魅力と見えにくさがあります。

 では、賢治とは一体どんな人だったのでしょうか。

 宮沢賢治の実家は岩手県花巻のお金持ち。町の多くの有力者は賢治の親類縁者で占められていました。銀行も議員も専売局もそうです。

 

 賢治の実家は大地主で広大な農地を小作農に貸し、彼らから年貢を集めることで潤っていました。同時に古着屋と質屋もやっていましたから、凶作で年貢の払えない農民は結局身の回りの道具や衣類を宮澤家に持参し、そこからお金を借りることでかろうじて生計を立てることになっていたわけです。

 米が豊作でも凶作でも宮澤家は潤うシステム。

 賢治はそのことを苦にしてある知人への手紙では

「社会的被告」

とまで言っています。

 

 そんな何不自由なく暮らせるお金持ちのお坊っちゃんが、父に対するコンプレックスを乗り越えるために芸術と宗教、そして生来の思いやりの深さから貧しい農村の奉仕へ走らせたのです。父に相対する存在としての農民側に立つ。ここを賢治は避けて通れなかったに違いありません。

 

 どこの誰もが乗り越えようとするエディプス・コンプレックス。

 これが賢治の生涯をとりわけ大きく規定したとされています。

 そして、農村への奉仕が後に賢治を偉人伝中の人物にすることになります。

 また、そうした農村への思いと行動が挫折した時、宗教的祈りの世界に自らを慰めるために手帳に書き留めたため息のような小品が「雨ニモマケズ」。

 これが賢治の思いとは関係なく耐乏精神を歌い上げたものと誤解され、さらに戦争直前の日本人の心情に合致したために、軍国教育に利用され有名になったということなのです。

 また「雨ニモマケズ」の清貧思想は戦後の貧窮生活を余儀なくされた時代にも重宝がられました。

 わたしが小学校の時、伝記を読むのが流行りました。

 信長や秀吉、家康などの戦国の武将や、ナイチンゲールや野口英世などの医学関係、キューリー夫人やアインシュタインなどの科学者、ワシントンやケネディなどの政治家。

 その流れで賢治の伝記を読みました。小学生の時は伝記中の賢治の自己犠牲的な無私の生き方に感動したものでしたが、その後さまざまな研究書を読むにつけ、賢治は決して偉人伝中の人ではないと思うようになりました。

 そしてついには生き方よりもむしろ賢治の作品の面白さや、生命観、自然観などに関心を抱くようになったのです。

 厳しい言い方をするなら、生誕百年の喧騒は旺盛な商業主義と町起しが巻き起こした一過性の花火だったのです。

 賢治は生涯を無名の詩人、童話作家として過ごしました。

 しかし決してそれで由としていた訳ではありません。

 出版社に持ち込んだり、著名な詩人を訪ねたりしています。

 さらには二冊の本を自費出版までしています。

 今回はそれらの二冊に注目して見ましょう。

 

 宮澤賢治(明治二九年から昭和八年)が生前唯一発行した詩集は「春と修羅」という題でした。賢治二十八才。

 

 出版は大正十三年四月のことです。作品は大正十一年と十二年に書かれたもの。当時、賢治は岩手県稗貫農学校の教師でした。作品を書いた期間は四年間奉職したうちの前半二年に当たります。

 賢治が働いてお金を得て、親から経済的自立できたのは三十七年の人生で実にこの四年間だけです。後はずっと父親に生計を依存していました。お金の無心の手紙も多数残っています。

 

 農民からの搾取によって成り立つ家業を「社会的被告」と恥じていた賢治にとってそれは大変皮肉なことでした。

 

 出版した本のタイトルは「春と修羅」。「春」と「修羅」の組み合わせはいかにも唐突です。

 「春」はもちろん季節の春。東北岩手の寒い冬を通りぬけた安堵の季節、さらには木々が芽ぶき、花が咲く、いのちのうごめき始める勢いのある季節です。

 それに対して「修羅」とは重い言葉。仏教用語で阿修羅のことです。神々に争いを挑む悪の神。一方仏教の守護神ともされます。闘争の象徴。

 

 「春と修羅」とは平穏と闘争の意ととれます。実際、賢治は現実世界に別の世界を幻想のように重ねて見る傾向があったようです。つまり二つの世界「春と修羅」を同時に生きていたと作品から推察されるのです。

 詩集の中にも「春と修羅」と名付けられた作品が収録されています。

 

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめんの諂曲模様

(正午の管楽よりもしげく

琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)    

中略

    まことのことばはうしなはれ

   雲はちぎれてそらをとぶ

  ああかがやきの四月の底を

 はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

以下略


諂曲(てんごく)とはこびへつらうこと。

 四月というすばらしい季節の中にあって、心の中の修羅を持て余している賢治の心情が吐露されています。

以下次号

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