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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,143 2001,11,1 子守唄

三島治療室便り
 訪問リハビリのために車を運転しているとき、ラジオから懐かしい曲が流れてきました。

「赤い鳥」というフォークグループの「翼をください」という曲です。

 30年くらい前の歌ながら今でも教科書に採用されたりして若い人にも歌い継がれています。

その時、ふと私は同じグループのもう一つのヒット曲を思い出しました。日本の伝承歌謡を採譜した「竹田の子守唄」です。

     

  守もいやがる

  盆から先にゃ

  ゆきもちらつくし

  子も泣くし

 

  盆が来たとて

  なにうれしかろ

  かたびらはなし

  おびはなし

 

  この子よう泣く

  守をばいじる

  守も一日

  やせるやら

 

  はよも行きたや

  この在所こえて

  向こうに見えるは

  親のうち

    

  向こうに見えるは

  親のうち

 

 この歌は京都近辺の竹田地方の伝承子守唄。

 それが洗練された親しみやすい旋律にアレンジされて当時、大変ヒットしました。

 西洋音楽一辺倒の教育を受けてきた戦後世代にも親しめる旋律が多くの人から支持されたのです。

 わたしがまだ坊主頭の高校生の頃でしょうか。

 

 しかしこの名曲は、ある人権的理由から放送自粛の歌になってしまい、ラジオなどではまず耳にすることはありません。

 うかつにもわたしは当時、そのメロディの美しさに気を取られて、歌詞の方はあまり注目しませんでした。

 

 今回、じっくり思い出してみて、おそまきながらその詩の哀れさに驚いたのです。

 この詩は幼くして親元を離れ、裕福な家の子守りとして働かなければならなかった貧しい少女の恨み歌。

 

 自粛される理由もそこにあるのですが、ここではそのことには触れません。 (関心のある方はインターネットで「竹田の子守唄」を調べてください)

 子守唄と聞くと多くの人が思い浮かべるのは「シューベルトの子守唄」ではないでしょうか。

 

 眠れ 眠れ 母の胸に

 眠れ 眠れ 母の手に

 心よき 歌声に

 結ばずや 楽し夢

 眠れ 眠れ 母の胸に

 眠れ 眠れ 母の手に

 暖かき その袖に

 包まれて 眠れよや

         内藤 潔作詞

 

 母に抱かれて眠る赤ちゃん。

 やさしい母の歌声。

 まるで聖母マリアが生誕間もないキリストに歌いかけているようではありませんか。

 子守唄はどうしてもこのイメージが強く、どちらかといえばちょっと恥ずかしいという印象があります。

 これも母の膝に抱かれて眠る赤ちゃんとそれをやさしくゆすっている母親という暖かい光景。

 

 子守唄はこのように母が赤ちゃんを眠りに誘うための歌。

 それは神々しいまでに美しい月の光に照らされた、うっとりとする情景を想起させる歌であるべきでしょう。

 

 メロディの美しさで知られる「フリースの子守唄」もそうです。

 この歌は以前は「モーツァルトの子守唄」として伝えられていたものです。

 

 眠れ良い子よ 庭や牧場に

 鳥も羊も みんな眠れば

 月は窓から 銀のひかりを

 そそぐこの夜

 眠れ良い子よ 眠れや

                     堀内敬三作詞

 

 実にロマンティックで幸せに満ち溢れた世界。

 至福とは、天上とはかくなるものかと見まごうばかりの情景です。

 

 眠れや コサックのいとしごよ

 空に照る月を 見て眠れ

        コサックの子守唄 津川圭一訳詞

 

 勇猛果敢な騎兵で知られるコサックの子守唄も実にやさしいものです。

 しかるにわが国の子守唄はどうでしょう。

 

 岡山県の井原地方に伝わる有名な子守唄を見てみましょう。

 

中国地方の子守唄

 

ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子の可愛さ

起きて泣く子の ねんころろ つら憎さ

ねんころろん ねんころろん

 

ねんねん ころいちや きょうは 二十五日さ

あすは この子の ねんころろん 宮参り

ねんころろん ねんころろん

 

宮へ参ったときゃ 何というて 拝むさ

一生この子の ねんころろん まめなよに

ねんころろん ねんころろん

 

橋の下には かもめが 日和(ひよ)るさ

かもめとりたや ねんころろん わしゃこわい

ねんころろん ねんころろん

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中国地方の子守唄の発祥地は、井原市高屋町です。

この唄が全国に知られるようになったのは、井原市出身の声楽家上野耐之氏が昭和の初め、恩師である山田耕作に故郷の母親が唄っていた子守唄を披露したのがきっかけです。

感動した山田耕作が編曲して発表し、広く愛唱されるようになりました。

(井原市のホームページより)

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 これは母親が子の幸せを願う歌詞です。

 マイナーな旋律がいかにもわが子を眠りに誘うという感じ。

 やはり母が子に歌うのは洋の東西を問わず優しいもののようです。

 では、次のよく知られた子守唄はいかがでしょうか。

 

五木の子守唄

 

 おどま盆ぎり盆ぎり

 盆から先ゃおらんど

 盆が早よ来りゃ

 早よもどる

  

 おどまかんじんかんじん

 あん人達ゃよか衆

 よかしゃよか帯

 よか着物

     

 おどんがうっちんだちゅうて

 だいがにゃてくりゅきゃ

 裏の松山 

 せみが鳴く

    

 せみじゃござんせぬ

 妹でござる

 妹泣くなよ

 気にかかる

 おどんがうっちんだば

 道端いけろ

 通る人ごち

 花あぎゅう

 花はなんの花

 つんつん椿

 水は天から

 もらい水

 明日は山越え

 どこまで行こか

 鳴くは裏山

 せみばかり

 

大変に切ない詞です。

熊本県の自治体のホームページに訳が出ていますから引用させていただきます。

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 おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 

 盆が早よくりゃ早よもどる

  (子守奉公も盆で年季が明け 

   恋しい父母がいる古里に帰れる日が待ち遠しい。)

 

 おどんが打っ死 ( ち ) んだちゅうて

 だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く

  (遠く離れた所に子守奉公にきて私が死んでも 

   だれも悲しまない ただ蝉が鳴くだけでさびしい。)

おどんが打っ 死 ( ち ) んだら 

 住環 ( みち ) ばちゃ埋 ( い ) けろ 

 通るひと毎 ( ご ) ち 花あぐる

  (私が死んでも墓参りなどしてくれないだろう

   それならば人通りがある道端に埋葬してもらったほうが

   誰かが花でもあげてもらえるだろう。)

 

花はなんの花 ツンツン椿 

 水は天からもらい水

  (あげてもらう花は何でもいいが 道端にたくさんある椿でよい

   水がなくても雨が降ってくるから。)

 

 おどんがお父っつあんは あん山 ( やみゃ ) おらす

  おらすともえば いこごたる

  (私の父は遠くに見えるあの山で仕事をしているだろう 

   又あの山の裾に古里があり早く帰りたい気持ちが増々大きくなる。)

 

 おどまいやいや 泣く子の守にゃ

 泣くと言われて憎まれる

  (子守にとっては泣きやまぬ子はどうしようもなく

   どんなにあやしても泣きやまない子守の仕方が悪いと叱られる。)

 

 ねんねした子の 可愛さむぞさ

 おきて泣く子のつらにくさ

  (子守背中ですぐ寝る子は 子守にとって楽であるが

   いつまでも泣いて寝ない子は普段は可愛いけれど憎らしい。)

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 お気づきの方もおられるのではないでしょうか。

 次の1節が省略されています。

 

おどま かんじんかんじん あんひとたちゃ よかしゅ

よかしゅ よかおび よかきもん

 

 私なりに訳すと

 

「私は勧進(物乞い) あの人達は生まれの良い人達

 その人達は良い帯を持っている 良い着物を持っている

 貧しい私は粗末な衣服しか持っていない」

 

となるでしょうか。(この訳に関して多くの方の協力を得ました、多謝)

 

 冒頭の「竹田の子守唄」にも似た詞がありました。

  盆が来たとて

  なにうれしかろ

  かたびらはなし

  おびはなし

盆に着飾って帰りたくてもかたびら(帷子・夏に着るひとえ)が無い。帯もない。

 

「五木」の方も

   おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆

   よかしゅ よかおび よかきもん

です。

 

 ここにある人権的問題が絡むので、「五木」のホームページには掲載されなかったと推測します。

 同様に「竹田の子守唄」は放送されなくなったのですが、ここではこれ以上は踏み込みません。

 

 今から20年くらい前、わたしは名古屋の有名な繊維問屋街長者町で成功を収めた老婦人に依頼されてたびたび治療に別宅を訪問しました。

 彼女は既に亡くなりましたが、もしご存命なら100歳位。

 まだ日本が貧しく、戦争に明け暮れた世を生きた方です。

 

 ある日、彼女の家は当時話題だったテレビドラマ「おしん」について、自分の経験を重ねて話しました。

 彼女の家は貧しくても自作農であったので尋常小学校を終えた後、高等科まで進むことができたが、仲良しの家の子は小作であったので小学4年生で止めて、おしんのように奉公に出たと言うのです。

 

 幼心にとてもかわいそうだったと嘆かれておられましたが、おそらくこうした少女が、奉公先の赤ちゃんを背負って子守唄を歌い、自らを慰めていたのでしょう(彼女の少し上の世代までは小学校は4年制でした)。

 小学4年生ならまだ10歳にも満たない子どもです。

 そんな幼い子が同世代の子のように遊ぶこともできず、祭りでも着飾ることが許されず、昼は農作業、あるいは家事の手伝い、そして夜泣きする子の子守りと厳しい労働に明け暮れていたのです。

 

  遠くに見えるは おやのうち

 

 自分の家を恋しく眺めながら、ぐずる子を背負って家の周囲を歩き回るいたいけない女の子。

 こうした光景が今からほんの数十年前まで見られたわけです。

 

 戦前から戦争中にかけて、長野県は教育県と呼ばれました。

 先だってNHKの歴史ドキュメントをたまたま見ていましたら、戦前の農村の貧しい様子を取り上げており、興味深く視聴しました。

 

 中でも見を引いたのが「子守り学級」。

 まさに読んだ字の通り。

 貧しい家の女の子は幼くして子守り奉公にだされるので、教育の機会が奪われる。

 そこで「子守り学級」を始めたというのです。

 

 画面には背中に子どもを背負い、手ぬぐいを姉さん被りした少女達がぞくぞく登校してきます。

 そのまま教室に入ると、背負ったままで授業を受けていました。

 また、校庭に出て、やはりおんぶしたまま遊戯などをやっていました。

 

 これは幼いうちに奉公に出なければならない子女にとってはとても良い考えです。

 また、おそらく雇い主達も必ず学校に出さねばならないという決まりができていたのでしょう。

 苦肉の策とはいえさすが教育県と呼ばれるだけのことはあります。

 教育内容は時代が時代ですからあえて問いませんが。

 

 しかし、それにしてもまだ親が恋しい幼子が貧しさゆえに家を離れ、よその子のお守をするのは悲しいものです。

 日本はそれだけ貧しかったのです。

 階級差も厳然たる現実としてそびえていたのでしょう。

 

 あれから数十年前。

 子守唄も風化してきました。

 今回、これを書くに当たって周囲の人に

「五木の子守唄知ってるかい」

と、尋ねてみました。

 30代半ばの方は知っていました。

 しかし、20代になると

「五木ひろしの曲ですか」

という返事が圧倒的。

 

 教科書にも出ていないようです。

 音楽大学で声楽を習っている学生も知りませんでした。

 まさに隔世の感。

 それが平和と富によるものと簡単にかたずける気にはなりません。

 歴史を知ることは今を生きることの最低条件です。

 たかが子守唄ですが、あまりに知られてないことに、安穏とはしておれない思いがしてなりませんでした。

 

 おどんがうっちんだちゅうて

 だいがにゃてくりゅきゃ

 裏の松山 せみが鳴く

 

それにしても

自分が死んでも、泣いてくれるのは松山のセミだけだなどと幼い少女が歌うとは悲しいですね。

 

後記

 

ここまで書いて何かが足りない気がしてなりませんでした。

そう、あの定番の子守唄が出てこないのです。

そこでインターネットで捜してみました。

すると発見。

悲しいだけでない、やさしい子守唄。

おそらくご存知でしょう。

 

子守唄(日本古謡)

ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやは良い子だ ねんねしな

ぼうやのおもりは どこへいった

あの山越えて 里へいった

里のみやげに なにもろた

でんでん太鼓に 笙の笛

 

ほっとしますね。

 

 はて、今日では子守唄を歌うおかあさんはいるのでしょうか。

 そんな疑問がでてきました。

 胎教に関心あるおかあさんはミニコンポからモーツァルトを流し、今風のおかあさんに育てられる子はロックやレゲエを聞いて寝ていることでしょう。

 どちらにしても無垢な赤ちゃんには健やかに育ってもらいたいものです。

 そのための受け皿としての社会、こちらも何とかしておかないと・・・。

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