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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,149 2002,5,1  宮澤賢治  自費出版した頃 その2

  前に書いたように、この本は1924年(大正十三年)四月、賢治二十八歳の時に東京の関根書店から発行されました。四六判320ページ。定価二円。しかし実際には賢治の自費出版で1000部出したそうです。

 

 もちろん、地方の無名詩人の本など売れるはずはなく、結局は知人などに無料で配られ、処理できない本は神田の古書店に多量に流れたようです。

 しかもタイトルの唐突さから

 

  「春と修養」をありがとう

 

というタイトル誤読の礼状が届いたという逸話もあります。

 本の冒頭の「序」は賢治の宣言です。

 賢治の思想を詩の形式で端的に表しています。

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

以下略

 一読して頭が痛くなるものです。それが宣言の宣言たる所以。ここで賢治は自分の作品は

(すべてわたくしと明滅し

みんなが同時に感ずるもの)

とか

 

たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

記録されたそのとほりのこのけしきで

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるように

みんなのおのおののなかのすべてですから)


などと述べて、ますます読者を混乱させてくれます。

 

 ここで賢治が宣言しているのは自分にとっては心に映るもの、つまり心象こそが全てであり真実でるということです。現実とは心に反映したものであり、それ以上のものではなく、またそれらは自分だけでなくみんなが同時に感じるものだと言うのです。

 

 賢治は自分の手元に残った「春と修羅」の背表紙の詩集という文字をブロンズの粉で消したと言われています。最初から背紙に詩集といれる予定はなく、何かの間違いで印刷されてしまったようです。ブロンズで消すということは、賢治にとってこの作品集は詩集ではないという謙遜と自負がないまぜなった行為ではないでしょうか。

 

 心象こそ実在というのはひとつの主義であり、それを正しいとか間違いであるとか言うのは意味の無いことで、賢治はそう思ったと宣言したのです。

 ただ、賢治の作品は詩も童話もそのようにして書かれていることを知ることは大切なことでしょう。

 

 「春と修羅」には高校の教科書にも取り上げられている有名な「永訣の朝」を含む「無声慟哭」の一連や今は観光地として有名な小岩井農場で作った長大な詩のの一連が含まれています。

 

  永訣の朝

 

けふのうちに

とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から

みぞれはびちょびちょふってくる

(あめゆじゅとてちてけんじゃ) 

 

 妹の臨終の様子です。

 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」とは、「霙をとってきてください」という意味。

 妹が死の床で懇願するのですが、賢治はそれをむしろ自分を励ますために依頼してくれたと捉えます。

 

 身近な人の死を詠んだものとして最も素晴らしい作品の一つとされています。多くの方は高校の教科書で習われたことでしょう。

 

 小岩井農場という詩は約900行という大変に長い詩です。賢治はベートーベンの田園交響曲を念頭に置いてこの作品を作ったとも言われています。

 最寄の駅から小岩井農場までゆっくりと歩く。その歩みの速度で詩が展開していきます。風景と思索と幻想が絡み合う不思議な作品。パート一から九までありますが、五六八は存在しません。

 

 ここではパート九の最後の方の有名な部分を紹介します。

 農業に関心の深い賢治は、当時最も西欧化された近代農場の小岩井農場をたびたび訪問しています。

 

  小岩井農場 パート九

前略

  ちいさな自分を劃ることのできない

 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで

もしも正しいねがひに燃えて

じぶんとひとと萬象といっしょに

至上福しにいたらうとする

それをある宗教情操とするならば

そのねがひから碎けまたは疲れ

じぶんとそれからたったもひとつのたましひと

完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする

この變態を戀愛といふ

そしてどこまでもその方向では

決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を

むりにもごまかし求め得やうとする

この傾向を性慾といふ

すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に從って

さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある

この命題は可逆的にもまた正しく

わたくしにはあんまり恐ろしいことだ

けれどもいくら恐ろしいといっても

それがほんたうならしかたない

さあはっきり眼をあいてたれにも見え

明確に物理學の法則にしたがふ

これら實在の現象のなかから

あたらしくまっすぐに起て

後略

 

 こう結論した賢治はその後の人生を実際に求道的に生きることになります。時に賢治二十五才。

 

 賢治の意図を無視して、純粋な詩集として見るならば、妹トシの死を悼んだ「無声慟哭」の章が最も優れていることに異論はないでしょうが、短詩にも見るべきものが多く含まれています。これら短詩に関しては以前に「游氣風信」で取り上げています。

 賢治は同じ年の十二月にもう一冊自費出版をしています。

 イーハトヴ童話集「注文の多い料理店」です。

 

 イーハトヴとはなんでしょう。

 最近、旅行の本などで用いられるようになりましたから、ご存知の方もおられるでしょう。それは賢治が名付けた架空空間としての岩手県です。

 賢治は同様に、花巻をハナムキヤ、盛岡をモリーオ、仙台をセンダードなどと名付けていました。これらの発音はザメンホフによって人工的に創られた世界共通語エスペラントに拠っているとされています。賢治はエスペラントにとても関心を抱いていました。

 

 イーハトヴの説明は初版本刊行の際に作られた宣伝文に詳しく書かれています。

 

 イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴァン王国の遠い東と考へられる。

 実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもつて実在した ドリームランドとしての日本岩手県である。

 

 詩の場合と同じで、童話も心象世界であると穏やかに宣言しています。

 以下は余談です。

 

 イーハトヴという呼び名は今では岩手県の旅行案内などにも使われるようになり、結構市民権を得ているようですが、わたしは地名に自分だけの名前を被せる行為から、神戸のサカキバラ少年を思い浮かべました。サカキバラ少年も家の周囲の池などに自分独自の愛称を付けていたのです。

 いえ、順序が逆ですね。サカキバラ少年のニュースを聞いて賢治を思い出したのです。

 どちらも現実の場所と心象中の場所を重ねて持っていたようです。両者の違い、それは賢治の心象世界が外の世界に開かれていたのに対して、サカキバラ少年の世界は閉じていたということでしょうか。

 

 さて、元に戻ります。

 イーハトヴ童話集「注文の多い料理店」は東京光原社刊でこちらも1000部を発行。

 現在光原社は岩手県盛岡市で賢治や石川啄木関連のみやげ物を販売していると思います。

 

 二十数年前、わたしは賢治縁の地、岩手県花巻市や盛岡市、小岩井農場や北上山地を訪問しました。

 

 その時、盛岡市内の光原社の中庭で珈琲を飲みながらゆったりと時間を過ごしたのです。そこには賢治の碑があり、塀には賢治の言葉が書きこまれていて独特の雰囲気を醸しだしていました。多分、現在も同じように存在していることと思います。

 

 イーハトヴ童話「注文の多い料理店」には表題の「注文の多い料理店」や「どんぐりと山猫」「かしはばやしの夜」など賢治の代表作、それどころか日本童話の代表作となるべき数々の作品が収録されているにも関わらず全く売れませんでした。

 

 「注文の多い料理店」という変な書名ですから繁盛する料理店の経営法と間違えて買った料理屋さんが、返品に来たと言う話もあったとか。ありえそうな話です。

 先ほどの宣伝文にはさらに以下のように続けます。

 

この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終わり頃から、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとってゐる。

この見地からその特色を数へるならば次の諸点に帰する。

一、 これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によつて純真な心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。

二、 これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であつて、決して畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。

三、 これらは決して偽でも架空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。

四、 これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光との中からつややかな果実や、青い蔬菜と一緒にこれらの心象スケッチを世間に提供するものである。

 

 ここに賢治の童話を書くという目的と方法が明確に書かれています。アドレッセンスとは思春期のことです。賢治が小説を志すことなく、童話に関心を深めたのは、読み手の純粋性を強く期待したからでしょうか。

「卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」という所にそれが読み取れます。

以下次号

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