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2011年7月13日 (水)

游氣風信 No,127 2000,7,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(下)

《游々雑感》

 先月号に続けて論語とそれにまつわる指圧の恩師増永静人先生の思い出を書きます。

 儒学

 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。(中略)日本には応神天皇の時代に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。

 儒学の歴史はいろいろ複雑なようです。日本で広まったのが江戸以降というのはちょっと意外でした。

 孔子の思想の中心にあるのが「仁」です。これは何でしょう。仁丹というおじさん好みの口臭防止薬がありますがこれは関係ないでしょう。

  フーテンの寅さんが、中腰になって右手を差し出し
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は轟、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」と仁義をきります。高倉健などのやくざ映画でもおなじみです。

  仁義は孔子の思想の中心をなすものですが、では、果たしてフーテンの寅さんは儒者でしょうか。どうも少し違うようです。

 仁

 1 孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ。(中略)封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。

 2 愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛

  学生時代、少林寺拳法を習っているとき、「仁」の字はずばり「二人」。つまり人と人との関係を表すと習いました。

 1 いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。
 2 君主に対して臣下たる本分をつくすこと。

  これも少林寺拳法で「忠」は「中心」、つまり嘘偽りの無い心の真ん中であると聞いたことがあります。これは1の意味になります。

 しかし一般的には2の意味に使われるようになり、これが武士の心構えとなり、後には軍国主義と結び付きました。武士は軍人ですから当然でしょう。戦後、軍国主義と一緒に忠という言葉を排除する傾向にあります。孔子にとっては「忠」はいつわりのないまごころのことですからこれは不本意でしょう。言葉は手垢にまみれるという分かりやすい例です。

 恕(じょ)

 1 おもいやり。同情心。
 2 ゆるすこと。寛恕。

 「恕」はあまりなじみのない字です。字を分解すれば「心の如し」。心素直にあるがままの意味でしょうか。

 1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。
 2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。

  これも少林寺拳法では「羊(大切なものの意味、羊は大切な財産だった)と我」で、自分を大切にする意味だと習いました。

 よく父母に仕えること。父母を大切にすること。

  少林寺拳法で「孝」の字は「老と子」からなり、子が老人を背負うて歩く姿の象形だと教わりました。

  こうして見ると「忠」とか「仁」、「義」などの元の意味、即ち孔子の唱えたものと日常生活で用いる場合とは意味が異なっているようです。

 今日一般的に使われているのは長い歴史の経過の内に、為政者が治世に便利なように意図的に歪曲させた意味合いが強いようです。

 それによって孔子の考え全般が忌避されるようになるとすれば、孔子の本意ではないと考えられます。

 

 「仁・義・忠・恕・孝」とは人間関係において、我を大切にして、心の中の本当の心に従い、思いやりの心を持ち、父母を大切にすることだというのです。

それを拡大解釈して行くと臣下としての忠誠心や自分を殺してまでも主君の言い付けを守れなどということになるのではないでしょうか。

  フーテンの寅さんの「仁義」は二人の人が出会ったとき、互いの素性を明らかにして、すじを通す裏街道を生きる人たちの知恵が生んだ格式なのでしょう。

これもやはり孔子のいう「仁・義」から派生したものと言えます。

 孔子の言葉は「仁義」「義理」「任(仁)侠」「忠誠」など政治家とある筋の人の共に好む言葉でもあります。どちらの世界も強引な秩序を好むからでしょうか。

  さて、ざっとおさらいをしたところで、「論語」に入りましょう。読み下しと口語訳はわたしがしました。間違いがあると思います。仮名遣いも現代仮名遣いにしてあります。

 

 子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」

  子曰(いわ)く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こえ)ず。」

  孔子先生は言われた、「私は十五才で学の道を志した。三十才で自立した(方向を定めた)。四十才で惑うことはなくなった。五十才で天命を知った。六十才で人の意見を素直に聞き、理解できるようになった。七十才で心の欲するままに行動をしても軌道を誤ることがなくなった」

 孔子が自分の人生を振り返ってみるとこうであったというのです。なかなか耳の痛いことです。

  わたしは十五の頃は漠然と生きていました。三十の頃は生活に追われていました。四十はもっと生活に追われています。五十はきっと生活に疲れていることでしょう。

 六十才や七十才になると自然体に生きてもそれが道を踏み外すことが無くなるというのですが、現実にはどうでしょうか。孔子が自らの生涯を振り返るとこうであったということで、誰もがこうしろ、こうなるべきだとは言ってはい
ないようですね。助かります。

 わたしもあと数年で天命を知る年ですが、天命がどういうものか分かりません。

 天命は辞書では「天によって定められた宿命。天運。または天から与えられた寿命」とあります。

 宿命は「前世から定まっている運命」。

 運命は「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく」

 
 一般的に解釈すれば天命を知るとは天によって定められた自己の社会的存在意義を明かにするとなるのでしょうか。天という形而上学的存在を認め、それに従って生きるというのが孔子の理想だったです。

  同時代の老子の道教は逆に無為自然を旨として人為的秩序を廃し、宇宙の本体である「道」に沿って生きることを理想としました。柔道や茶道の道はここに由来します。「道」はタオイズムとして欧米でも人気があります。

 孔子の儒教、老子の道教。これら全く異なる思想が同時代すでに存在していたことは面白いですね。

 
 老子も天の存在を重要視しています。

 老子に「天網恢々、疎而不失」という言葉があります。「天網(てんもう)は恢々(かいかい)として、疎にして失わず」です。
 天は大きな網を張っていて、その目は粗いが何事も漏らさずすくい取り、決して漏らすものではない、天は全てを知っている。あるいはすべてはその仕組みの中でうまく動いているという意味でしょう。

  いずれにしても天という思想は古代中国において孔子・老子という二大思想家に共通する概念です。もしかしたら人格化されていませんが、キリスト教の神のような大きな存在だったかもしれません。

 先の論語に戻ります。

 孔子は加齢により人間的成長を遂げるとしています。孔子自身がそうであったというのです。しかし現実にはどうなのでしょう。

 人は六十才になると耳順というより耳が次第に遠くなりますし、七十になれば、心欲しても体動かずという点が無いとは言えません。現実には難しいが、努力することが大切だということなのでしょう。

 人生をトータルに把握する時、よく引用される一節です。

  子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」

 子曰く、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

 
 孔子先生は言われた、「学んでも自分自身や社会に当てはめて思うことをしなければ、学んだことの道理がよくわからない。反対に、狭い経験や知識に頼ってさまざまに思いを馳せても、深く、謙虚に学ぶことをしないと独断におちいって危険である」

  立派な大学を出た人がどうしてあんな過ちを犯すのか、ということが巷間よく囁かれます。それは孔子によれば、学ぶだけで考えることをしないからだというのです。学ぶことと思うこと。この両方のバランスが大切なのですね。

 日本の学校教育はどちらかと言うと学ぶに比重が片寄り、思うことの機会が少ないようです。

 
 子曰、「温故而知新可以為師矣」

 子曰く、「故(ふる)きを温(あたため・たずね)て新しきを知れば、以て師為るべし」

 孔子先生は言われた、「古いことをしっかり学んで、そののち新しいことを知ろうとするならば、それはすぐれた師を得たようなものだ」

  これは「温故知新」として今日でもよく使われます。「温」は「たずねて」とも「あたためて」とも読まれます。

 現在は過去の集積ですし、未来の原因になりますから、新しいことを学ぶときは過去の成果や歴史などをあたらめて勉強してみればよい。そうすれば古臭いと思われることも良き師匠のように道を示してくれるということでしょう。


 子曰、「其身正不令而行。其身不正雖令不従。」

 子曰く、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず。」

 孔子先生は言われた、「その身が正しい生き方をしていれば、命令しなくても民は行動を起こす。その身が正しく生きていなければ、どんなに命令しても誰も従いはしない」

  これは為政者に身を正しく修めることが肝心であると説いたものです。「修身」は政治家こそが学ぶものなのです。


 子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」

 子曰く、「君子は和して同せず。小人は同して和せず。」

  孔子先生は言われた、「君子は道理に従って一つに和すが、他人に調子を合わせたりはしない。小人は仲良く調子を合わせているように見えるが、真に深い交流はしていない」

 
 君子は徳の備わった品格・人格の立派な人のことです。聖人君子と並列されることもあります。聖人は万人の仰いで師表とすべき人と辞書にあります。どちらも知徳の秀れたお手本となる人、あるいは理想的な人物像を示している呼称です。

  君子は人と交わるとき、仲良くするが道理からはずれてまでも一緒にいこうとはしない。つまり付和雷同はしないということでしょう。それに対してわれわれ小人は仲良く群れても道理に沿った深い協同調和はしないというのです。

 そういえば「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言います。心の奥深くで互いに響きあうものがあればべたべたくっついていなくても十分満たされた交流はあるのだということでしょうか。

 
 君子でなく、われわれ凡人にだって懐かしい心満たされた交流はありますね。否、そうした交流をしているとき、人は君子なのかもしれません。

 
 余談ですが酒に四君子という名を持つ商品があります。四君子とは「梅・菊・蘭・竹」のことで、君子の持つ高潔な美しさにたとえたものです。

 
 増永靜人先生は大病をされ、57歳でこの世を去られました。そのとき、ご自身を励まし叱咤されるためでしょう。論語から次の一節を引用されました。

 
 子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」

  子曰く、「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」

  孔子先生は言われた、「君子といえども困窮することはある。しかしそれで乱れたりはしない。小人は困窮すると乱れて道に反するものだ」

  この一節のあと、次のように言われました。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 
 この言葉は今でもわたしの心に深く沈殿しています。


 論語は我が国に最初に渡来した文献で、そのために最も日本人に好まれた古典となりました。
 古人は論語などの漢文の勉強を通じて、語学と同時に中国の哲学を学んだのです。

  それは後世になってドイツ語の勉強をすることで西欧の哲学を学んだのと同じ軌跡です。すなわち言語を通じて文化を学んだのでした。

 今日の英語学習の大きな欠点は、その実用性にのみ目を奪われて、英語によって築かれた文化の学習がおろそかになりがちなことです。

 
 言語と文化は不可避です。
 それはまた万国共通語という崇高な理想を抱いたザメンホフによって人工的に作られたエスペラント語が、その内に文化を有さないがゆえに逆に広がって行かなかったという皮肉な結果を生むことにもなったのでしょう。
 

〈後記〉

 七月七日は七夕祭りです。同時にこの日は経絡指圧の創始者であり、わたしの師匠でもある増永靜人先生のお亡くなりになった日でもあります。昭和56年(1981年)のことでした。大正14年生まれで享年57歳でした。

  決して長くない人生を指圧のために駆け抜けた方でした。最近、西欧で国際指圧シンポジウムが開かれましたが、海外では指圧と言えば増永靜人の影響なしには語れません。その日のパネラーのほとんどが先生の直接の教え子だったようです。

 最近、イギリス人がロンドンの指圧カレッジの教科書を持参しました。その本は完全に増永先生のものを踏襲していました。愚直と思えるほどに。もはや海外においてはバイブルの如しです。
 
 西洋医療を主体とした国家により制定された医療(正統医療)に対し、民衆の間で伝統的に保存されて来た医療を非正統医療もしくは代替医療(オータナディヴ・メディスン)と呼びます。アメリカや英国では医療費の高騰から代替医療に注目を集めています。その中には鍼や指圧も含まれます。

  19世紀まで人類を苦しめた感染症が正統医療によってほとんど駆逐されたことが、逆に民間医療に目を向かせることにもなりました。

  現代は仕事や人間関係からくるストレスから心身共にがちがちにされる社会になりました。その傾向はこれからもますます厳しくなるでしょう。そんなときこそ、指圧などの代替医療がもっと必要とされていくことでしょう。

 そのとき、論理的普遍性を持つ増永靜人先生による経絡指圧は有力な存在感を示していくに違いありません。
 

 それに引き換え、国内では指圧はあまりに低迷しています。
 わたしも微力ながら経絡指圧の普及に努めては来ましたが、残念ながら全く不如意に終わっています。しかしそれで諦めることなく、これからも、先生の意志を引き継いで、先生に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と心から安心していただきたいものです。

(游) 

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