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2011年7月

2011年7月22日 (金)

游氣風信 No.160 2003. 4. 1 

心(心包)のはなし
経絡

 治療室にはツボの人形が置かれています。よく見るとそれらのツボは線で結ばれていることにお気づきでしょう。この線のことを経絡(けいらく)といいます。 経絡は肉眼で見ることができませんし、解剖しても存在を確認することはできません。しかし漢方医療の最も大切な概念のひとつです。

経絡は基本的に12あります。それぞれに臓腑の名前が付けられています。

【肺・大腸・胃・脾・心・小腸・膀胱・腎・心包・三焦・胆・肝】

それはそれらの経絡が臓腑に対応していることを意味します。臓腑機能が臓器に封じ込まれるのではなく、全身を巡ると考えた方がいいかもしれません。つまり、肝は臓器としては肝臓に近いものですが、下肢の内側を通る線状の存在が肝の働きに関わっている。そう考えることで臓腑を閉ざされた存在とせず、広く全身につながっている、さらには身体からも拡大して環境とも関連していると考えられるのです。

 つまり漢方では身体を閉鎖した体系と限定せず、開放された体系と考えるのです。これがいのちを身体に封じ込めず、外の環境との関係で捉え、外環境に対する内環境と考える漢方の身体観です。ですから病気をその内臓あるいはその器官系(消化器官)だけでみるのではなく、もっと幅広く捕らえます。それどころか時には突拍子もないものごととの関連で考察したりします。その辺りの区切りのつけ方が極めて主観的で非科学的あるいは疑似科学的に見えてしまう部分です。

 経絡を辞書で調べてみます。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
経絡(けいらく)
 東洋医学における物理療法の基本的な治療体系で、鍼灸の診療に必要な皮膚上の特定部位である経穴を機能的に結ぶ連絡路系をいう。このことばは『素問』三部九候論20、経脈別論21、経絡論篇57にみられるが、多くは「経脈」と記載されている。『霊枢』本蔵篇47には「経脈は血気をめぐらして陰陽を営ましめ、筋骨をうるおし、関節を利するゆえんのものなり」とあるが、経絡が単なる気血の循環路としてだけではなく、その変調が疾病の原因となり、またこれを知ることは治療となるという意である。経絡には正経12経脈と奇経8脈とがある。

 『素問(そもん)』『霊枢(れいすう)』とは鍼灸の代表的な古典で『黄帝内経』(こうていないけい)の各編です。黄帝は古代中国の伝説の王で中国を統一したとされています。古典には三人の帝が伝えられ一人は易の伏義、もう一人は薬草の神農、そして鍼灸の黄帝とされています。

 経絡は前に述べたように、皮膚面を凝視しても、実際に解剖しても実体を見ることはできません。自分は経絡を見ることができるという人が稀にいますが、それはその方がそう主張するだけで、誰もが見ることは不可能です。しかし実際に臨床的にその実在を疑うことはありませんし、微妙な皮膚感覚で確実に感じ取ることは可能ですし、触れられた方も明確に実感されます。これは指圧教室に参加された方にはご理解いただけることです。

 そうした現象で普遍的なものを経絡現象といいます。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
経絡現象(けいらくげんしょう)
 経絡の存在を証明するような病態変化をいう。経絡については、近代医学でいう、血管、神経の走路とは一致しないので、その存在を否定する考えがあり、一方、ヘルペス性湿疹や皮膚電気抵抗の変化などが、経絡の走路と一致したり、鍼のひびきがときには経絡の走路と一致することなどが報告され、それらの病態現象を総称して経絡現象という。
 さて、今月の主題の「心」もしくは「心臓」に移りましょう。
 五行の順番に来ました。
 肝・胆は木の性質。
 心・小腸は火の性質です。それらを補助する心包・三焦もあります。こちらは相火といい、心・小腸は主君の意味で君火といいます。

 まずは西洋医学の心臓。それに深く関わる心。

『大辞林』
心臓
循環器系の中枢器官。血液を血管中に押し出し循環させる働きをする。魚類では一心房一心室、両生類では二心房一心室、鳥類・哺乳類では二心房二心室に分かれる。人間の心臓は胸腔内の中央より左にあり、握りこぶしよりやや大きい。

 心臓はご存知のように胸の中心やや左よりにあります。触れたり耳を当てるとどくどくと動いていることが分かります。大きさは握りこぶし大。意外と小さい感じです。

 漢字の「心」は心臓の象形文字です。ハートマークも同様です。洋の東西を問わず、心臓に「こころ」を重ねていたことが分かります。

しん【心】
(1)こころ。精神。
(2)心のそこ。本心
(3)ものの中央。

こころ【心】
1人間の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの。
(1)人間の精神活動を知・情・意に分けた時、知を除いた情・意をつかさどる能力。喜怒哀楽・快不快・美醜・善悪などを判断し、その人の人格を決定するものと考えられるもの。
(2)気持ちの状態。感情。
(3)思慮分別。判断力。
(4)相手を思いやる気持ち。また、誠意。
(5)本当の気持ち。表面には出さない思い。本心
以下略

2物事の奥底にある事柄。
3心臓。胸。

 では、次に医学辞典で心臓を調べてみます。

『医学大辞典』(南山堂)
心臓
全身血液循環系の中央原動力。位置は前胸縦隔腔中、すなわち両肺に挟まれて正中線より左に偏して存在する。桃実状の筋質からなる中腔の器官で表面は心膜(包)と呼ぶ漿液膜に包まれ、内部は心室中隔、心房中、房室弁があって右心房、右心室、左心房、左心室の4腔部に分かれている。右心室と右心房との間にある弁膜は三弁に分かれており、三尖弁と呼ばれ、左心室と左心房との間にある弁膜は二弁よりなり、二尖弁、または僧坊弁という。左右各心室から動脈の出る部分に半月形の三弁からなる弁膜があり、大動脈基部にあるのを大動脈弁、肺動脈基部にあるのを肺動脈弁と称する。大きさは大体こぶし大、重さは成人で約300である。

 毎度のことながら専門辞書は難しいですね。それでは今度は子供用の図鑑を見てみましょう。

『人とからだ』(学研の図鑑)
心臓
むかしの人は、ものを考える心が胸のあたりにあるのだと考えて、心臓という名まえをつけました。もちろん、心臓には、そのようなはたらきはありません。

また、心臓の動きが止まると死んでしまうことから、いのちは、心臓にやどっていると考えた人もいました。これも、まちがいです。
からだ全体が、うまくはたらくから生きていけるので、どの部分がだめになっても、いのちはあぶないのです。
とはいうものの、たしかに心臓は、からだの中のいろいろな部分のうちでも、とくにたいせつなはたらきをしています。
しかも、一生の間、少しも休まず、きそく正しくはたらきづつけているのです。

心臓のあるところ
心臓は、にぎりこぶしより少し大きく、胸のまん中より少し左にあります。

心臓はポンプ
心臓は、2つのポンプが組み合わさってできています。右がわに、血液を肺へ送るポンプ、左がわに血液をからだじゅうに送るポンプ。この2つが、いつも同時に、リズムを合わせてはたらいているのです。
ふつう、1分間に70回。1回におよそ45ccの血液を、きそく正しく、血管へ送り出しています。

 やはり子供用図鑑は分かりやすいですね。昔から心臓にいのちやこころがあると思われたのはその動きが自覚できるからでしょう。実感としては心臓はそういう臓器です。

 しかし実際には単なるポンプです。肺と全身。二つの方向に送り出す二つのポンプからできているのです。

 では、次は漢方の辞書です。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
心(しん)
 五臓中最も重要な臓器で、血液運行の中心であり、先天の陽気が宿る。『素問』に「心は神を蔵す」、「心は生の本、神の変ずるところなり」とあり、精神作用と関係することを強調している。また五臓の中心であるため、「心が衰えるとすべての臓器にも影響する」と述べている。心の病には、動悸、恐怖、不眠、胸苦しさ、汗がよく出るなどがあり、舌が赤くなる。心を保護するために心包があって、心の機能を補助している。

 西洋医学とはがらっと違いますね。漢方の心は心臓よりもむしろ精神の座としての趣があります。実感や経験から体系付けられたからでしょう。

 分かりにくい用語を同じ辞書から引きます。

神(しん)
 人の生命活動の根源になる2つの要素(神、精)のひとつをいう。神は心臓に、精は腎に宿るとされており、先天の気であるとともに、生後、取り入れられる飲食物などによって、補充されて、生命活動の根源的なはたらきをする。
現代医学的解釈をすれば、神気とは神経系のはたらきを、精気とは内分泌系のはたらきを指すと考えられる。神気が充実していれば健康で各器官の機能が旺盛であるとされている。

 いわゆる神様とは全く異なっていることに注意してください。

 心がこころや精神なら、具体的な臓器としての心臓は漢方ではどうなっているのでしょう。それは次に説明する心包を考えたほうがいいと考えられます。
同じ辞書で調べます。

心包(しんぽう)
 心臓を包む膜、または心臓の機能を抽象的に表現したものともいわれているが、実態は不明で、三焦とともに論争されている古典臓器のひとつ。心臓を君主とし、心包を宰相(大臣)としてみたて、心包には心臓を保護するはたらきがあるとした。そのため心臓が悪ければ、心包をまず治療せよといわれている。したがって心包の病証は少なく、心臓の病証と同じように扱っている。

 病証の証も重要な概念です。

証(しょう)
 身体の病変のうち外に現れた徴候で、病の本態を証明するもの、また処方を決めるための証拠になるものをいう。漢方医学の中心をなす概念で、漢方的表現方式にしたがって整理統合された患者の症候群を指す。湯液と鍼灸では治療法が異なるので証も異なる。湯液では主証、客証、表証、舌証、腹証、湯液名を冠した証(たとえば葛根湯証、小柴胡湯証)などがある。鍼灸では経絡の虚実を証ということがある。

 さて、次は師匠の増永先生の本で心と心包を見てみます。

『スジとツボの健康法』(増永静人著)

 感情的な統制機能であるこころを意味し、外界の刺激を五感で受けて内界の適応作用に転換する働きをし、また体内気血の配分をして全身の働きを統制しています。そのような精神の状態は心臓症状として自覚されるので、昔はこころが胸にあると考えたのです。
 症状としては、疲れやショックによる神経緊張、心配ごと、胸のつかえがあり、舌がつれてどもったり、のみこむときに何かあたったり、つかえるような感じで、よく咳ばらいをするようになります。このためガンになったのではと、ガンノイローゼになる人もよくみられます。また心臓が常に気になったり、のぼせて顔がほてるとか手が汗ばむといった症状もあります。

心包
 心を補佐する循環を行い、心臓、心嚢、冠状動脈、大動脈などの中枢脈管系にあたり、栄養を配分し内臓機能を促進保護します。
 症状としては、気をつかってガックリした疲れ、頭がボーッとしている。不眠、動悸、息ぎれが気になったり、胸がチクチク痛んだり、圧迫感がある。気が安まらず、のぼせ、ほてり、血圧異常、手足の冷え、胃から十二指腸の不快感、幽門潰瘍、狭心症などがあります。

 ここで漢方の重要な概念である気と血および精について調べます。今までにもたびたび登場しましたから。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
原気(げんき)
 元気ともいい、元陰と元陽の気を包括する気をいう。先天の精が変化して生じたもので、後天的に摂取される栄養によって、絶え間なくはぐくまれる。原気は腎(命門をふくむ)から発し、臍下丹田に蔵され、三焦の通路を借りて全身にくまなくいきわたり、臓腑などの一切の組織器官の活動を推進するので、人体の生成化育の動力の源泉であるとされている。

 親からもらった生命力と考えていいでしょう。先天の気ともいいます。原気が枯渇するとすなわち死ということです。それを呼吸や飲食によっていかに減らさずに養生するか。これが漢方の養生観です。
 「元気ですか?」
という挨拶はここからきています。

血(けつ)
 血液のことをいう。飲食物は、胃、脾などのはたらきによって消化されて栄気(栄養分)となって吸収され、肺に運ばれ、肺の宗気とともに心から身体各部に送られる。身体においては経脈から筋内、皮膚にいき、人体の活動、生命維持に重要なはたらきをする。中国医学では、血と気のはたらきを分けながら、同一のものとみなしている。

精(せい)
 生命活動の基本物質をいい、これには五臓六腑の機能を養い、生育繁殖を行うはたらきがある。『霊枢』本神篇に「腎は精を蔵す」とあり、大惑論には「五臓六腑の精気みな上がって目に注ぎ、これを精となす」とある。この精とは飲食物が消化された基本物質を指しており、それは腎からのものと合し、必要なときに五臓六腑に配分されて、各器官の生理的な活動を果たすための栄養源となる。また、経脈篇に「人始めて生ずるとき、まず精を成す」と」記されているが、これは父の精を受けて母体内で胎児が生成する過程を述べたもので、いわゆる先天の気によって胎児が育成される精の作用を示したものである。

「ご精がでますね」
「精一杯がんばります」
などという挨拶はこれが出展ですね。生命の基本的な物質とされていもの、それが精です。

 さて、では心経の流注を紹介します。

手の少陰心経
脇の下から小指まで

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
心経
 上肢の内側と胸をめぐる経脈で、所属する経穴はわずか9穴である。直接関与する臓腑は、心、小腸であるが、肺を貫くため、肺との関連性が強く、また間接的には、脾、肝、腎に関与する。また心は五行で君火とされており、心臓固有の障害に用いられる。経脈の性質は気血ともに多い。その流注は、脾経の分れを受けて、心臓に起こり、大動脈をめぐり、次いで腹部に下って小腸をまとう。1つの分れは大動脈から上行して、咽頭をとおって眼球の深部まで達する。またもう1つは肺にのぼって、脇の下に出て、手の内面後側をまわって、小指の末端(内側)に終わる。心経は、心臓の気質的疾患、動悸、息切れなど、心臓病に用いられる。

 脇の下から上腕三頭筋の内側を通って前腕掌側の小指側を小指の先、薬指側まで走ります。
 心筋梗塞発作の人の訴える痺れの流れと似ているとされています。

手の厥陰心包経(てのけついんしんぽうけい)
胸から中指まで

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)
心包経
胸部から上肢内側をめぐる経脈で、所属する経穴は9穴である。直接に関与する臓器は心、三焦であるが、心臓、循環器機能だけでなく、五行では心の君火に対し、心包は相火とされているので、全身の諸器官を調節するようなはたらきをもつ。経脈は性質は気少なく血が多い。その流注(ながれ)は、腎経の分れを受けて、胸中に起こり心包に帰属したうえ、横隔膜を下って腹中に入って三焦を次々とまとう。しかし、その分かれは胸中から側胸部に出て、腕の内側をとおり、中指の末端(外側)に終わる。この経脈は、心臓の機能を助けていることから、心臓疾患(狭心症など)や、心臓神経症などによく用いられ、火経であるため、熱誠疾患にも用いる。心臓以外の臓腑の調整作用をはかる目的で用いられることも多い。

 こちらは脇の下から上腕二頭筋の内側を通って前腕掌側中央を中指先、人差し指側まで走ります。
 掌の中央のくぼみ、労宮というツボは有名です。心臓の疲れを癒すツボです。

後記

 漢方の用語がいろいろ出てきて読みにくいことでしょう。しかし、「元気」とか「精」とか、普段何気なく使っている言葉が漢方用語であったことには驚かれたことと思います。
 難しいと投げないで食らいついてみてください。

 桜もあっというまに満開になりました。今日は(4月6日)最高の桜日和です。
 こうして部屋にこもってパソコンに向かっているのがもったいない天気。

 これから晩春、そしてすぐに初夏です。世界情勢も国内状況もぱっとしませんが、季節は巡ってきます。大いに満喫したいものです。

 来月は小腸および三焦となります。

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2011年7月21日 (木)

游氣風信 No.159 2003. 3. 1  胆のはなし

以前、ハイケというドイツ人が指圧教室に参加していました。彼女は三十代半ばの奥さんで、本国では理学療法士の資格を持っていると言っていました。長身で手足がにょきにょきと長く、母親からは蜘蛛のようだとからかわれていたとか。

そんな彼女には二つの持病がありました。ひとつは西洋人女性に比較的多い膝の痛み、そしてもうひとつは胆のうの重苦しさでした。

胆のうはみぞおちの右側、肋骨の下辺りにあります。彼女はその痛みに数年間苦しんでいるのです。本国でも医師にかかっていると言います。二人の会話は英語ですが、彼女が知っている病名はドイツ語でしたからその病気の日本名は分かりませんでした。英語なら調べる手立てもあったのですが。

ともかくその痛みのある辺りをしずかに押さえてみると果たせるかな硬くしこり、本人も圧重感を訴えます。

それでわたしは彼女の脛の骨の内側の反応の出ているツボ(蠡溝・れいこう)に鍼をしました。筋肉が骨に硬く貼り付いているような感じのするところです。脛の内側がほんの少しえぐれていて、虫がかじった溝のようだからこの名前がつきました。

ここは先月紹介した足の厥陰肝経です。するとどうでしょう、鍼を刺すとほぼ同時にみぞおちが軽くなったと言います。押さえてみると確かに硬い感じがありません。

彼女はとても喜んで、帰国するまで何度か治療を続けました。痛みがずうっと楽だったのです。それでドイツでも医師に鍼をしてもらうと決めたようです。
ドイツでは鍼灸師の制度はなく、西洋医学の医師が勉強をして鍼治療を行います。

いつも胆のうがつっかえるという別の患者さんにも同様の鍼をしましたら、やはり目を瞠るような結果がありました。これは経絡を通して内臓に影響を与えることの出来た顕著な例です。

ここで疑問が湧くでしょう。どうして胆のうの痛みなのに胆の経絡ではなく肝の経絡を用いたのか。それには訳があるのです。

時折、新聞などで「肝胆相照らす」という表現が使われますね。選手と監督が非常に協力的に関係して好成績を上げたときなどに用います。意味は「互いに心の底まで打ち明けて親しく交わる(広辞苑)」です。

つまり肝と胆は極めて近しい関係なのです。それを利用して、胆に直接施さず、隣接した肝の経絡に治療をしたのでした。

肝と胆は漢方では陰陽の関係になります。肝が陰(臓)で、胆が陽(腑)です。五行説では共に木の性質。肝胆は現代医学でも関連の深い臓器ですからこれは納得し易いところでしょう。

漢方の治療では、多くの場合、痛いところには直接治療しません。つまり鍼を刺したり強く指圧したりしないのです。むしろ患部から離れたツボや経絡を用いることが多いのです。その方がもし影に思い病気が隠れていたとしても安全という意味合いもあります。

そうした理由で冒頭のハイケさんの場合も、胆の経絡ではなく、肝の経絡を用いたのでした。

「肝は将軍の官、謀慮いず、胆は中正の官、決断いず」とも言います。中国の古典に内臓の役割を政府の役職に置き換えて説明した記述があるのです。この場合は肝という将軍が行き過ぎた行動をしないようにお目付け役がいる、それが胆だとされているのです。ちょうどテレビ時代劇「暴れん坊将軍」の新さんに苦言を呈している〈じい〉のようなものでしょうか。

前置きが長くなりました。今月はその胆を紹介します。まずは西洋医学の胆のうから。先月書きましたように、西洋医学の「胆のう」と漢方の「胆」は名前が同じでも以って非なるものです。それでも全く無関係ではないというややこしい問題を抱えています。そこを留意の上で読み進めてください。

『大辞林』

たんのう【胆嚢】

肝臓の下側にある袋状の器官。胆汁を一時蓄え濃縮する。十二指腸内に食物が入ると収縮して胆汁を排出する。

 では、胆汁とはなんでしょうか。

たんじゅう【胆汁】

脊椎動物の肝臓でつくられる褐色の液。胆嚢(タンノウ)に一時蓄えられたのち、十二指腸へ分泌される。胆汁酸を含むほか、胆汁色素・コレステロール・肝代謝物などが主な成分。胆液。

 今度は胆汁酸ということばが現れました。

たんじゅうさん【胆汁酸】

胆汁中に含まれる主な有機物成分の一。肝臓でコレステロールから生成され、脂肪を乳化して消化吸収に重要な役割を果たす。

 さらに、胆汁色素ということばを調べます。

たんじゅうしきそ【胆汁色素】

動物の胆汁中に含まれる赤黄色のビリルビン、緑色のビリベルジンなどの有色物質。ヒトではほとんど前者のみ。ヘモグロビンの分解産物。胆汁色素が何らかの原因で血液中に多量に現れると黄疸(オウダン)となる。

 黄疸は比較的なじみのあることばですが、内実はあまり知りませんね。

おうだん【黄疸】

ビリルビン(胆汁色素)が血液中や組織中に異常に増えて、皮膚や粘膜が黄色くなる症状。肝細胞の機能異常。胆道の閉塞、赤血球の過剰破壊などによって起こる。

 これらが胆のうに関わることばでしょうか。

 時代劇で若い娘がみぞおちを抑え、

「持病の癪が・・・」

などと言うのはこの胆のうの痛みであることが多いようです。

 身の周りにもこうした痛みを抱えておられる方は意外と多いのではないでしょうか。

 胆のうは名前だけでなく、よく痛んだり、石ができたりする臓器として知られてもいますが、その実体は肝臓で作られた胆汁を貯蔵するだけの役目。胆石ができたりするとあっさりと切除されたりします。さほどの重要な役割を担っているとは思えない臓器です。

具体的な役割としては、胆のうよりも、肝臓で作られた胆汁の方が働いています。先ほど大辞林で調べたように、胆汁は脂肪の消化を助けます。

 今度は専門書を見てみましょう。

『医学大辞典』(南山堂)

胆汁

胆汁は肝細胞で作られて、毛細血管に排泄され、胆管を経て総胆管から十二指腸に排泄される。肝から排泄された胆汁(肝胆汁)は淡黄色であるが、胆嚢に貯留している間に主として水分が胆嚢壁から吸収されて、約8倍に濃縮される(胆嚢胆汁)。食物が十二指腸に到達すると、十二指腸壁の刺激によりコレチストキニンが内分泌され、胆嚢が収縮し、Obbi括約筋が弛緩して、濃縮な胆嚢胆汁が十二指腸内に排泄し、栄養素の吸収を助ける。胆汁の腸内排出には自律神経も関与しており、交感神経と副交感神経の協調作用の影響を受け、胆嚢収縮、Obbi括約筋弛緩、胆嚢弛緩、Obbi括約筋収縮という2重の機構が同時に行われている。肝胆汁は1日約700~1000mlが排出される。比重は1.010、ph7.3~8.0である。コレステロール、リン脂質、ムチン、無機塩類などが含まれている。胆嚢胆汁の比重は1.040、phは5.4~6.9である。胆汁中のコレステロールは胆汁酸-レシチン複合ミセルによって溶解されているが、コレステロール/胆汁酸+レシチン比が上昇するとコレステロールが析出して、コレステロール石ができやすくなる。腸内に排出された胆汁中の胆汁酸は同様の作用によって脂肪の乳化を助け、脂肪酸素の作用を容易にし、腸管からの吸収に役立っている。また脂溶性ビタミン、ホルモン、
アルカロイドの吸収などとともに腸管に排出されたビリルビンがウロビリン体に変化して生ずるもので、胆管の完全閉塞で胆汁の流出が壮絶すると、灰白色の無胆汁便となる。胆汁の排出を促進する物質を利胆薬というが、これには胆嚢の収縮、Obbi筋の弛緩により機械的に胆汁流を増加させる排胆薬と、胆汁分泌を増加させる催胆薬がある。胆汁水分量を増すものを胆汁成分分泌促進薬(濃厚利胆薬)という。

 やはり専門書は難しいですね。要点を簡単にまとめると、胆汁は肝臓で作られ、一時的に胆のうに蓄えられる。そして十二指腸に注がれて脂肪の吸収を助ける。

 胆汁とコレステロールがある種の条件によって胆石になる。そして大便の色は胆汁の色である。こんなところでしょうか。

『新版人体解剖学入門』(創元医学新書)

胆嚢は肝臓の下面に接着し、その大きさは母指大で、胆汁を貯蔵しておく場所である。なお自分からも粘液を分泌して胆汁に加える。胆嚢を取り除いても生命に直接影響しない。胆嚢の容量は役30立方センチである。

 胆のうは親指ほどの大きさで肝臓の下にくっついていて、取り除いても命に関わらないという存在感の薄い臓器です。

 しかし胆管の痙攣や胆石の疝痛は激しいもので自覚しやすい内臓の一つです。

 このように西洋医学では日陰的存在の胆のうですが、漢方の胆は重要な役割を担っています。

『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)

主に胆汁を貯蔵し、適時分泌して消化を助ける臓器をいう。外界とは直接通じることなく、また胃腸のように食物に直接関与しないので、中清の腑ともいわれる。胆は肝と表裏をなす。また胆は決断をつかさどるとし、精神作用もしくは中枢神経系機能との関係があるとしている。

 「胆は決断をつかさどる」とあります。漢方での胆は胆のうというよりも「胆っ玉」あるいは「肚」に近いものがあります。「豪胆」とか「肚ができてる」などと言われます。ですから「決断をつかさどる」となるのです。

 肝とか胆は内臓そのものもさることながら、決断とか意志、行動力に深く関わります。この意味から全身の筋肉や関節のトラブルの調整には欠かせない臓腑なのです。

 では次にわたしの指圧の師匠の著書を見てみましょう。

『スジとツボの健康法』(増永静人著)

 栄養の配分を司り、消化腺に関する内分泌(甲状腺・唾液腺・膵腺・胆汁・腸腺ホルモンなど)の働きなどによって、全身エネルギーのバランスの調整を行っています。

 症状としては、気をもんだり、胆をつぶしたり、決断ができず、いらいらして熟睡ができない。目の使いすぎ、ゆっくり食事をせず、疲れが偏っている。
さらには睡眠が充分ではなく、眼精疲労になったり、脂肪消化が悪い、大便が固く、または下痢をする。白眼が黄染し、皮膚が黄色っぽく、目ヤニがたまり、かすみ、眼圧が高い。手足の関節がこわばり、全身が固く、胸やけや、朝
洗面のさい吐き気がし、胃が重くて肩がはり、側胸の激痛や胆道けいれんの痛み、胃酸過多症状、たんのからんだ咳が出るなどがあります。

 師匠の増永静人は京都帝大の哲学科心理学専攻ですから、指圧研究も心理面から深く掘り下げました。

 臓腑と心理が不即不離にある漢方は師にとってまことに好都合であったに違いありません。

 精神と肉体との間を関連付ける存在として経絡という身体を流れるスジを深く研究したのもそのためでしょう。

 次はその経絡を調べます。経絡というのは古代中国から身体観の根幹を為すもので、身体の中を命の源である気血が流れるスジのことです。

 解剖しても実態は存在しませんが、体表を丁寧に触れますと誰でも実感できます。それは具体的な組織ではなくある種の意識が身体化したスジとも考えられます。たとえば深呼吸する時両手を大きく開きます。その開くとき伸展するスジが肺の経絡になります。

 肝とか胆の経絡は身体の側面をジグザグに走っています。これは決断に窮した時「どうしよう、どうしよう」とおろおろと身体を左右に振って迷うしぐさの軌跡と符合します。まさに右顧左眄というやつです。

 こうした基本的な動作と経絡の流注の興味深い関連を発見したのは増永先生です。

足の少陽胆経

目尻外端から側頭部、体側、脚の外側を通って足の第四趾まで
『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)

身体の外側をめぐる長大な経脈で、所属する経穴は43穴である。直接関与する臓器は、胆、肝であるが、間接的には呼吸器にも関与し、また生殖器にも関与する。経脈の性質は気多く血は少ない。その流注(ながれ)は三焦経の分かれを受けて、目じりから起こって、側頭部をめぐってひとつは分かれて耳に入って前へ出、ひとつは頭から肩にくだり、鎖骨上窩に入り、ここに合して胸に入って横隔膜を貫き肝をまとい、胆に帰属し、別に肩から側胸部、季肋部をめぐってくだってきたものと股関節付近で合し、足の外側中央をくだって足の第4指の末端(外側)に終わる。胆経は、頭部で耳、眼の炎症に、また頭痛や高血圧症、めまいなどに用いられ、呼吸器疾患では喘息、慢性気管支炎など、また少陽である関係から、肝、胆の慢性疾患に常に用いられ、身体の外側をめぐるため、関節の痛みなど運動器疾患にもよく用いられる。

後記

 先々月号のプライマリケアで紹介しました間欠性跛行症の方、手術の後、とても歩きやすくなられました。立ち姿も姿勢が伸びて別人のよう。以前はダイエーの駐車場から治療室までの200メートルほどの間に何度も立ち止まっておられたのが、杖なしで休まずに歩いてこられるようになられました。

 「お前も医療の専門家ならこういう病気を鍼や指圧で治すべきではないか」
というご意見もありました。確かにそうかもしれません。しかし、他に良い方法がないならともかく、より良い方法があればそちらにまわす勇気も必要だと考えます。

 なにはともあれ達者に歩かれるご本人を拝見するにつけ、この場合は病院の治療でよかったと実感せざるを得ませんでした。

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游氣風信 No.158 2003. 2. 1  肝のはなし

 身体調整をしているときよく交わされる会話があります。

たとえば右の肋骨の下辺りを圧しながら

「このあたりが疲れていますね。ちょっと硬いです。肝に注意してくださいね」

などと言います。すると多くの方は

「肝臓ですか?会社の健康診断では肝臓に問題ありませんでしたよ」

と、答えられます。これはもっともな疑問です。それに対してわたしは次のように説明します。

「ああ、そうでしょうね。実は肝と肝臓は別物なんですよ」

「・・・・・?」

みなさん、よく分からないという顔をされます。


「肝」と「肝臓」が別物。これはどういうことでしょうか。

ちょっとややこしいことなのですが、漢方でいう「肝」の概念とお医者さんの言われる西洋医学の「肝臓」は似たような名称ですがかなり違うものなのです。


もともと、肝とか肺とか胃と腸などの内臓名は漢方のことばです。肺の臓とか胃の腑といいます。俗に言う五臓六腑。

五臓とは<肝・心・脾・肺・腎>であり、それに<三焦>というものが加わることもあります。

六腑とは<胆・小腸・胃・大腸・膀胱・心包>です。

臓とは中身のずっしり詰まった実質器官、腑は袋状あるいは筒状の中空器官です。それらの内臓の実体に機能も混在してまとめられたのが漢方の臓器なのです。むしろ機能から推測された内臓と考えてもいいかもしれません。

古典には解剖図も残っていますが、まるで子供のいたずら書きかしらと思える程のいい加減なものです。いくらなんでももう少しまともな図が描けるだろうと推測するのですが、外科をもたない漢方ではそんな実体としての内臓には関心がなかったのでしょう。働きこそが大切だと考えたのです。

それに対して西洋医学の内臓は、経験科学の発達に即して、極めて具体的に解剖して解明したものです。これは外科医療の進歩には不可欠のことです。


この辺りのことを哲学者の伊勢田哲治氏は著書『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会)で次のようにまとめておられます。


「五臓六腑も、もともとは人体の解剖に基づいていたのだろうが、現代の解剖学の知見と正確には重ならない。こちらは具体的な臓器についての主張なので、身体を切り開いて調べることができる。杉田玄白が死体の解剖に立ち会って西洋の解剖学書が五臓六腑説よりはるかに正確なのに感銘をうけ蘭医になったエピソードは有名である。現代の中医学で五臓六腑説がとられる場合は、五臓六腑は現実の臓器ではなく、気と同じく目に見えないものとして解釈されるようである。」


前掲書は疑似科学と科学の違いの線引き問題をテーマとした本ですが、その中で伊勢田氏は五臓六腑は気と同じく目に見えないものと看破しておられます。


少し補足しましょう。

江戸時代になって西洋から精巧な解剖図が入ってきました。オランダの解剖図譜『ターヘル・アナトミア』(1734年刊)です。歴史で習いますね。それまでまともな解剖図を持たなかった漢方医にとって、これはまさに晴天の霹靂。解剖図の正否を確認するために禁を犯して腑分けを試みました。その結果あまりの精緻さに圧倒された漢方医たち(杉田玄白・前野良沢など)は、苦労して日本語に翻訳。有名な『解体新書』(1774年刊)として世に出たのでした。

その際、旧来の漢方で使用されていた肝や胃などの名称をそのまま西洋解剖図に当てはめたのです。ですから肝と肝臓は似ているところもあるけれども、違うところもあるという実に複雑でやっかいなことになってしまったのです。そのため、未だに冒頭のような珍妙な会話が日々繰り返されるという混乱が続いています。


先月号の後記に

このところずっと怠け者の人生を送ってきましたから、今年はちょっとまじめに勉強をしようと考えています。幸か不幸か、不景気で暇な時間もいっぱいできましたから。

と、書いてしまいました。そこで今年の游氣風信はみなさんと一緒に勉強していくことにしました。おそらく興味のない読者を置いてきぼりにした内容になると思いますが、ご容赦を願います。自分のための勉強ですから(^_^;)


今月は肝についての勉強です。

なぜ肝からかと申しますと、中国の古くからの思想に陰陽五行説というのがあって、全てのものは五行から成り立っているという素朴な考えが根本にあります。五行とは木・火・土・金・水の五つです。内臓もそれらに分類され、肝は木に当たります。それで最初は肝にしました。

今回、五行説の是非を問うことはしません。前掲書の伊勢田哲治氏も疑似科学の代表としてケーススタディーに使用されていますし。今回は、ただ単にその順番に則って進めていきます。


それと平行して西洋医学の内臓についても記載します。これだけ医学が発達した今日、漢方の概念だけでは日常会話に不自由ですので、両方の知識を知っておくほうがいいでしょうから。

今後、同様に内臓の勉強を進めていく予定です。難しいところもあるでしょうが一緒に勉強していきましょう。


 西洋医学で言う肝臓はそのまま「肝臓」と記し、漢方医学の肝の臓は単に「肝」と記載します。両者は似ているものの同じものではないという認識を必要とするものということだけはしつこく明記しておきます。ややこしいでしょ
うが、おいおい理解できると思います。


 ということで、西洋医学の肝臓と漢方の肝、そして指圧や鍼の治療で重要視される経絡(体表に記された線、つぼ人形でご覧になったことがあると思います。これには内臓名が冠されています)について辞書や専門書から引用して書いていきます。些少なりともお役に立てることができれば幸甚に思います。


 まずは肝臓について一般的な辞書、大辞林を紐解きます。


かんぞう【肝臓】

  腹腔の右上、横隔膜のすぐ下に接する赤褐色の内臓器官。人体最大の分泌器官で、左右二葉に分かれ、その間に胆嚢(たんのう)がある。胆汁をつくり余分の炭水化物をグリコーゲンに変えて貯蔵し、また有毒物を中和するなど重要なはたらきをする。きも。


とあります。

 肝臓は右のわき腹にあります。英語ではliverレバー。ニラレバ炒めのレバーです。

 しかしこの辞書の説明ではよくわかりませんね。そこで肝臓の役割を分かりやすく書いてある本をさがしているうちに、本箱の隅から子供向けの図鑑を見つけました。学研の図鑑『人とからだ』です。小学生向けですが案外役に立ちます。

 では、さっそく肝臓の項目を見ましょう。


かん臓

 小腸の、じゅう毛の毛細血管にとりこまれたアミノ酸は、門脈を通って、かん臓にはいります。

 それからもういちど血管にはいって、からだのすみずみまではこばれ、からだをつくる材料になります。

ぶどう糖もアミノ酸と同じように、かん臓にはこばれます。そして、かん臓でグリコーゲンにつくりかえられて、たくわえられます。かん臓でたくわえきれないときには、筋肉に運ばれ、グリコーゲンの形でたくわえられます。

それでもあまってしまったぶどう糖は、しぼうにつくりかえられて、皮ふの下に皮下しぼうとしてたくわえられます。

しぼうは、リンパ管を通って胸管に集まり、心臓の近くで血液の中にはいります。

かん臓の3つのはたらき

①消化液のたんじゅうをつくる
②すぐに使われないぶどう糖を、グリコーゲンというものにかえて、たくわえておく。
そして、からだがひつようとするときに、血液中に送り出す。
③からだにとってどくになるものをこわして、どくのないものにかえる。


つまり、肝臓は小腸で吸収されたアミノ酸やブドウ糖つまりたんぱく質やでんぷん質をいったん取り込み、そこで量を調節すると同時に、解毒もするのです。実際にはこんなものではなく、身体の化学工場と言われるほど多彩な機能を担っています。

わたしたちが安心して食べ物を食べられるのは、小腸から摂り込んだ栄養物を肝臓が関門として身体に不要なあるいは有毒なものを化学処理してくれているからです。そのため、酷使すれば壊れます。


 次は『医学大辞典』(南山堂)です。

肝臓

 消化腺に属し、人体中最大の腺である。腹腔の上右側部で横隔膜の直下にある。その形は多様であるが、上面は横隔膜に相当する円蓋を示し(横隔面)、下面は浅いくぼみを呈し(臓側面)、その中央に肝門がある。肝門からは機能血管としての門脈、栄養血管としての固有肝動脈の他に肝管、リンパ管、神経が出入りする。肝臓は厚くて大きい右葉と、薄くて小さい左葉、さらに両葉にはさまれる方形葉および尾状葉の4部に区分される。肝臓の実質は、表面をおおう結合組織の被膜が肝門から進入したもの、すなわち、小葉間結合組織(グリッソン鞘)により多数の肝小葉に分けられている。肝小葉は不規則な多角柱状を呈し、直径は1mm.高さは2mm.位である。

 一つの肝小葉は肝臓の構造的単位とみなしうるものである。肝臓は胆汁の分泌、吸収栄養分のろ過と解毒、糖分の貯と血糖の調節を行うほかに、フィブリノーゲン、ヘパリンおよび貧血阻止物質などの生成器官であり生命必須のものである。

ということです。さすがに専門書は難しいので、ざっと読み飛ばしてください。

 さて、次は漢方の肝です。

 『鍼灸医学辞典』(医道の日本社)によります。


 肝臓をいう。東洋医学古典に示されている肝の機能は、以下のとおりである。
①「肝は血を臓す」とされ、血液の倉庫である。
②「肝は将軍の官」とされ、決断力、謀りごとをつかさどる。
③「肝筋をつかさどる」とされ、筋肉の疲労、筋力、運動との関係がある。
④「肝は眼に開く」とされ、視力と関係がある。
⑤「肝は驚きをつかさどる」とされ、肝が病むと、ものごとに驚きやすくなる。
⑥「肝は爪に現れる」とされ、爪の厚薄、血流は肝の機能と関係がある。
⑦肝が弱くなると怒りやすくなる。


 これが漢方で言う肝です。西洋医学の肝臓とは全く異なることが分かります。

昔、「肝っ玉母さん」というテレビ番組がありました。度胸が据わっているという感じですね。肝を一言でイメージするなら肝っ玉は適切な例だと思います。漢方の古典に内臓の役割を政府の役職にたとえたものがあります。それが②の「肝は将軍の官」という項目。謀りごとや決断力などという意志や行動力の源です。ですから強い決断を必要とする職業たとえば社長さんなどは肝を酷使することになるでしょう。逆に強い人が急に気弱で驚きやすくなったときなどは肝の力が弱っていると考えられます。

肝は血液に関係あるということ、これも強い生命力にとって不可欠です。

最後の⑦怒りやすくなるも肝の特徴です。いつもイライラしている人は肝に問題ありとみます。


このように、漢方の「肝」は生理と心理が混在しているものです。西洋医学はそのあいまいさを避けるため心身二元論を用いて精神と身体の分離を図り、それによって物質的な肝臓の研究が飛躍的に高まったのです。


次はわたしの指圧の師匠の増永静人先生の本から。


増永静人『スジとツボの健康法』

 栄養を貯蔵して、身体活動のエネルギーを確保して、活力を養成します。血液の補給、分解、解毒などを行ない、活力の維持にもつとめています。症状としては、気分が衰えたり、急にやる気を出したり、癇癪をおこしやすく、雑音が気になります。強い感動を受けた影響が残り、感情が高ぶりやすくなり、大声を出したくなります。目が輝きを失い、黄色く見えたり、立ちくらみがします。原因不明の発熱や、動作がぎこちなくなって精力減退し、前立腺や睾丸の障害をおこします。仙骨、尾骨の痛み、痔痛、胸脇苦痛、右季肋骨部の圧迫感、食欲不振、吐き気、頭痛などの症状もあります。

どちらかといえば、西洋医学と漢方の折衷的な考えです。


 最後に経絡をみましょう。

 経絡は全身に十二本あって、生命の源である気が流れるとされています。具体的な実質はありません。しかし、筋肉の緊張や皮膚の感覚から誰でも実感できます。つまりいのちの発揚なのです。死ねば無くなる、それが経絡です。原初的な情報伝達のルートだと仮定され、発生学から探求している方もおられます。

 触れても、触れられても実感できます。


足の厥陰肝経

足の親指から、足をのぼり、胸まで

『鍼灸医学辞典』

 下肢内側から腹部をめぐる経脈で、所属する経穴は13穴である。直接関与する臓器は、肝、胆であるが、間接的には、心臓、循環器などの臓器とも関連が深く、また生殖器とのかかわりも深い。経脈の性質は、血、気とも少ない。
その流注(流れ)は胆経の分かれが母指(外側)の爪の根もとにきてここから起こり、下腿の内側をのぼって陰部に入り、下腹部をとおり、肝に帰属して胆をまとい、側胸部に散布して気管、咽頭のうしろをとおって眼球に達し頭頂に出る。眼球から分かれたものは頬、唇をめぐる。もうひとつの分かれは、肝からのぼって肺に入る。さらにくだって胃のあたりまで達する。(ここは肺経の起点になっている)肝経は、決断などの精神作用と深いかかわりをもつ経脈として、神経症的な疾患に用いられるとともに、強い痛みをともなう疾患にも用いられる。また肝、胆等の急・慢性疾患、生殖器疾患、特に女子の生理不順、男性の陰萎症などに用いられる。


 指圧も鍼も、漢方的概念で身体の状態を把握すると同時に、西洋医学的な診断も考慮し、治療は経絡の調整を行うことで実施します。

 今度治療を受ける方は、いったいその経絡は何かと聞いてみてください。経絡を実感できるようになります。

 気功法もこの経絡の応用なのです。あるいは合気道などの古流武術も経絡の応用です。

 経絡は緊張すると身体に硬いテープを張ったような違和感を与えます。それが肩こりなど様々な違和感のある状態です。それを緩めると呼吸が深くなってほっとします。

 逆に経絡をスムースに動かしますと日常動作でも、踊りやスポーツ、武術などの動きも滑らかになります。

 なぜなら、解剖学の知識に覆われた現代人はどうしても個々の筋肉を動かそうと刷り込まれてしまっているからです。そこへ経絡という全身を連ねたラインを体感し、イメージすることで全身一致の、まるごと全体の滑らかな動作が可能になるのです。

 身体調整とは、ただ受身になって筋肉を揉み解してもらうだけが本来の目的ではありません。受療中しずかに感覚を深めることで、身体感覚を磨き、身体意識を高め、それを日常生活や文化的創造に役立てることなのです。

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游氣風信 No.157 2003. 1. 1  プライマリーケア


 今月は身体調整の限界について書きます。

 クライアントから訴えられた症状の背景に別の病気が推測され、わたしの身体調整の限界を超えるものと判断して病院へ紹介したいくつかのケースです。果たしてそれが本当に自分の限界を超えていたものか、あるいはそうでなかったか。それは今でも明確には分かりません。しかし、その方の健康に深く関わる症状に直面した場合、決断に難渋することは率直に告白するしかありません。

 

 ここ数年来、毎週一回必ず調整にお越しになる70代のご婦人がおられます。

 彼女は当方にいらっしゃる以前にも他所の治療院で鍼や灸の治療を受けておられましたから、かれこれ治療室通いを20年近くも続けておられることになります。

 なぜそんなに長い間治療室に通い詰めていらっしゃるかといいますと、子どもの頃から原因不明の体調の悪さに苦しんでおられたからです。約20年前、大学病院に入院して検査をしたのですが、どこも悪いところは見つかりませんでした。それでは病院としても治療の方法がないらしく、最後の頼みの綱として東洋医学の門を叩かれたのです。幸い、最近はまずまず体調もよく感謝されています。

 

 ところが昨年春、ご主人が運転中側面から追突され、ムチ打ち症になられてしまいました。ずっと接骨院に通われていたのですが、ある日、ひどく腰が痛くなったため奥さんと一緒にわたしのところに来られました。 ご主人は80歳になんなんとされているにもかかわらず、事故に遇うまではテニスをされるほどお元気な方です。診察をしますと腰痛は急性のいわゆるぎっくり腰。むち打ち症とは関係なく、さほどの心配はありません。予想通り、数回を経ずしてほとんど良くなりました。

 

 しかし問題は別にありました。歩行がいちじるしく困難になられたのです。

しばらく歩くと足が痛くて動くことも容易でない、しかし、少し立って休んでいると回復する。50メートルも歩けばまた痛む、休む、治る。この繰り返しで長い距離が歩けなくなったとおっしゃるのです。

 これは「間欠性跛行(はこう)」という状態です。

 

 原因は大雑把に言って二つ考えられます。

 ひとつは腰骨の問題。腰の骨の変形か破損によって脊椎の隙間が狭くなり、神経を圧迫しているもの。

 いまひとつは腹大動脈の問題。何らかの理由で血管が狭くなり脚に流れる血液量が乏しく、運動に耐え切れずに痛みと運動障害が起こるもの。どちらも休むとすぐ回復し、歩き出すとまた痛み出すという間欠性に特徴があります。跛行とは脚を引きずって歩くことです。

 

 わたしは最初の訴えが腰痛だったのでてっきり腰椎の問題だと思い込んでしまいました。ところが腰痛が治っても脚の痛みが消えません。よもやと思い、鼠径部(そけいぶ・脚の付け根)の脈拍を診ました。果たしてやんぬるかな、右側の拍動は左に較べて大変弱くなっていました。

「これは何らかの理由で血管が細くなっている可能性があります。器質的な問題なので、一度、病院できちんと検査した方がいいでしょう」

と申し上げると、早速かかりつけの内科に行かれました。

 

 内科医は触診して大変驚き、すぐに大学病院へ紹介。

 専門医の診察では腹大動脈のどこかに閉塞が生じているので太ももの血管から管を入れて、患部をバルーンで処置をしなければならないとのことでした。それで駄目ならバイパス手術。うまくすればまたテニスができるようになるだろうという診断です。

 大学病院の医師も、内科医も早く見つかってよかったとよろこばれたそうです。しかし、最初にみえたときに気付かなかったのでわたしとしては反省ものです。

                    

 さて、わたしどものように〈医療と慰安の境目〉にあるとみなされる業種でも、偶発的にこうしたプライマリーケアに貢献することは多々あります。

 

『プライマリーケア

 患者が最初に接する医療の段階。それが身近に容易に得られ、適切に診断処置され、また、以後の療養の方向について正確な指導が与えられることを重視する概念で、そのために訓練された一般医・家庭医(プライマリー医師)がその任に当る。』

 

 医学知識が乏しい鍼灸師や指圧師でも自分の領域の限界をある程度知っておくと、こうした問題に遭遇した際、それなりに適切な判断をすることは可能です。

 わたし自身が遭遇した過去のいくつかの例を紹介しましょう。

 

○ある太った50代の女性

 相当太った方でした。腰が痛いという主訴で来られました。最初に、腹を診た瞬間、手のひらに余る大きさの塊を見つけました。大げさでなく赤ん坊の頭ほどもあります。表面がぬらぬらした感じ。多分、子宮筋腫だろうと思ってその旨を伝え、確認のために婦人科へ行くように言いました。

 医師の診断も子宮筋腫。手術を勧められましたがもうすぐ生理も終わるし、生理がなくなれば筋腫は大きくならないと聞いて、手術を迷いつつ指圧を続けられました。

 そんなある日、突然、トイレで下血。巨大な血肉の塊です。あわててそれを持って婦人科に駆けつけると子宮筋腫が剥離して排出したからもう手術必要なし。治りましたという意外な結末。大変喜ばれました。

 そんなことがあるのかと知り合いの産婦人科医に聞いたら、「筋腫の発生部位によってはそういうこともある」
とのことでした。これは目出度し目出度しの体験。

 

○両足首の炎症の60代男性

 ぎっくり腰で動けないからと3日ほど自宅へ訪問。ほとんど痛みがとれて楽に歩けるようになったので治療室に来ていただきました。歩いて5分ほどの距離です。

 ところが途中で足首を捻ったと言います。見ると赤く腫れていました。次に来たとき

「また捻った、今度は両方だ」

と言われます。これはいかにも変です。拝見すると確かに両足首が赤く腫れています。しかし捻ったばかりにしては炎症が強すぎます。

 左右対称に関節が炎症を起こしているなら真っ先に疑うのは関節リウマチです。一般には手の中指薬指辺りから始まりますが、ともかく検査を勧めました。それでその方は行きつけの整形外科へかかられました。そこの診断はやはり捻挫。

「単純な捻挫だそうです。シップだけ貰ってきた」

と言われます。

「それはおかしいぞ」

とわたし。もう一度、今度は内科で血液検査を受けるように進言しました。するとその内科から大学病院へ転送されてしまいました。

 検査の結果、虫歯の菌が心臓の弁で繁殖。それが全身にばら撒かれていることが判明。ということで心臓の手術。今はすっかりお元気です。

 

○ふくらはぎが腫れて歩けなくなった50代の男性

 鍼灸学生のころアルバイトをしていた病院の患者さんの義弟。ずいぶん古い記憶を頼りに来てくださいました。

 膝が痛いので整形外科で注射をして貰ったが後からどんどん痛くなって困った。大きな病院に行ったがやはり同じ治療。それではと鍼に行ってもよくならない。ともかく痛くてまともに歩けないという重い状態。

 患部を拝見しますと、ふくらはぎが暗紫色に変色してパンパンに腫れています。血管の閉塞が脳裏に浮かびました。

 即、循環器へ行くように助言。思ったとおり、ふくらはぎの血管が梗塞を起こしていました。点滴を2週間。その間痛みを和らげるために鍼治療にいらっしゃいました。

 

 専門医はどうしても自分の専門領域でものを診て判断する傾向があります。

前のケースもこのケースも整形外科を受診しました。どうしても関節に注目するのは仕方ないでしょう。専門分野ですから。しかし、反面、他の可能性に目を閉ざすことになったようです。

 むろん餅は餅屋。専門領域の病気に行き当たると切れ味よく治療されます。

 

○糖尿病による壊疽を免れた70代女性

 既往として糖尿病。膝からふくらはぎが痛むと訴えられます。足の甲の脈が触れません。糖尿病があるからまず病院へ行くように説得。なんともなければこちらで治療しようと進言しました。

 ところが息子さんが、ご自分の信用している中国整体へ連れていかれました。

整体の先生はすぐ治ると請合ってくれたので数日通ったそうです。

 しかし痛みは日増しにひどくなるばかり。我慢できずに病院へ。結局、踵のごく一部を手術。経過観察のための入院。予後が良かったので脚を切らずにすみました。助かりましたとお礼にみえました。

 

 以上はまずまず結果が良かった例ばかりです。

 実際には辛い結果になった例も多くあります。

 

○みぞおちに小豆粒大のしこりを見つけた70代の男性

 指摘して病院へ精密検査に行っていただきました。けれども、胃カメラでは異常なし。しこりを医師に触ってもらうようにと指示して再検査。入院しての精密検査で分かったことは、すでにすい臓がんの末期であったこと。医師は開腹手術をしましたが、手の施しようが無く、何もせずに閉じました。

 

 その後、亡くなるまでその方の指圧の治療をしました。末期には横に洗面器を置いて、みぞおちのつっかえを吐きながらという壮絶なものでした。最期はもちろん病院でした。胆道が閉塞してどうにもならなくなったからです。しかし幸い食欲が落ちず、痛みも無かったので、最初の検査から2年間、普通の生活ができました。

 

○過去に舌癌の手術をした50代の男性

 顎の下のしこりを本人が見つけられました。

 どうしたらよいか相談を受けてもはっきりした結論が出せないまま、以前に舌癌を見つけてくださった開業医へ。その開業医も心配ないだろうという結論。

 ところが実はこれも舌癌で、半年ほどで亡くなりました。この方は20年前にも舌癌を患い、舌を半分切除する手術をされていました。会話はほぼ普通にできました。しかし二度目の手術で舌を全摘出したため会話不能となり、大変辛い闘病となりました。この方に関しては、わたしは全く無力でした。

 

○足裏のほくろ その一

 若い女性の足の裏につややかな直径1センチ近いほくろを見つけたときはぞっとしました。皮膚科へ受診を勧めたら、

「当面経過観察、形が変化したらすぐ受診するように」

という例もあります。日本人の場合、足の裏の大きなほくろは怖い皮膚がん(黒色腫・メラノーマ)の可能性が高いのです。

 

○足裏のほくろ その二

 初老の男性の場合、興味深いことがありました。本人が

「こんなのができた」

と足裏のほくろを示しました。わたしは内心は慌てたものの上辺は慌てずに皮膚科への受診を勧めました。ところが、なんと最初の皮膚科では

「まず間違いなく皮膚のがんであろう、足の切断の可能性もある」

といわれ、急いで別の皮膚科へ受診したら、単なる血豆であったことが判明したこともあります。専門医でも確定は難しいのですね。

 

 いろいろな体験を述べました。

 

 わたしは病院にかかるとき、お医者さんにはあくまで自己判断で来たと言う様にと指示しています。

 それはなぜかといいますと、以前、ある女性のおなかに子宮筋腫のようなしこりを感知し、その旨を教えて医師にかかるよう勧めました。するとその医師は

「指圧師ごときになにが分かるか」

と、たいへん強く立腹されたそうです。

 

 確かに、医師からみれば鍼灸・指圧師ごときに検査を依頼されるのは不愉快に違いありません。それで精査を勧める際、わたしの進言ということは伏せるように、自分の意志で医師を訪れたのだとするように助言するのです。

 むろん、ほとんどの医師はそんな狭量なことは言われません。冒頭の男性を診た先生は

「その指圧の先生はよくこれを見つけた。たいしたもんだ」

と大変素直に、こちらが恥ずかしいほど感心しておられたそうですし、子宮筋腫が自然に剥がれ落ちた女性の場合も、医師が即精査を勧めた点を誉めていたそうです。

 しかし、中には不愉快に思われる先生もおられます。それで、患者さんが怒られたりしてはいけないので  

「自分で不審に思いました」

と言うようにと助言しておくのです。

 なにはともあれ、こうして、われわれの業界もささやかながら社会的に貢献しているのです。

 

 これからも生涯刻苦勉励して、少しでも社会的に有用な存在となるよう努力していきたいと思います。

 

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游氣風信 No.156 2002,12.1    小川未明      

あるとき、あなたは犬派か猫派かと聞かれました。よくある質問です。

わたしは犬も大好きですが、どちらかと問われるなら猫派です。

 

家では20年来インコを飼っていますから猫を飼うことはできません。しかし、訪問先などで猫がいるとついつい撫でてしまいます。

犬は撫でると全身で喜びを表してそれはそれは可愛いものです。ただ、どうもその従順振りが単純でおもしろくありません。

 

それに較べると猫は甘えたいときは寄ってくるし、気が向かないと知らん顔をします。その無頼が却って魅力的なのではないでしょうか。

 

身体調整にノルウェイジャン・フォレスト・キャットというゴージャスな猫を連れてくる人がいます。ノルウェイの猫で全身は真っ黒で足先が白く、ペローの「長靴をはいた猫」のモデルに相違ないと思える美しい猫です。これが気ま
ぐれでちっともなつきません。しかしそれもまた可愛いものです。これが猫派の猫派足るゆえんでしょう。

 

子どもの頃、しばらく猫を飼ったことがありました。

小学4年の頃だったでしょうか。近所の悪童たちに追われた小さな野良猫が家に飛び込んできたのです。それがあまりに可愛かったのでその場で親に頼んで飼うことにしました。

しかし、しばらく飼っているうちに腹が大きくなり、子猫を数匹産んでしまったのです。

 

これには団地住まいのこととて両親が困り果てたのでしょう。車で田舎に帰省した帰路、野に捨ててしまいました。

「団地では子猫をいっぱい飼うことできない。捨てるのは仕方ない」

と、わたしも幼い弟も聞き分けよく納得した振りをしました。

 

けれども、それは親を安心させるための子どもなりの現実を納得する方便に過ぎません。内心は悲しくて仕方なかったのです。

今でもあの猫はどうしているのだろうと思い出すことがあります。もちろん40年近くも前のことですから生きているはずはありませんが・・・・。

 

そんな頃、寂しかった子供心に強く響く童話に出会いました。それは小川未明の「どこかに生きながら」。

当時手にしたのは少年少女文学全集の一冊として出された本で、淡い赤のハードカバーのものです。この原稿を書くに際して家の中を捜したのですが、残念ながらついに見つけることができませんでした。文庫版はあるのですが、この話は収録されていません。

 

おがわ・みめい 【小川未明】 

小説家・童話作家。本名、健作。新潟県生れ。早大卒。自然主義の影響をうけ、暗鬱な詩情をこめた小説を書き、のち童話に専念、「赤い蝋燭と人魚」などで創作童話に新生面を開く。小説「魯鈍な猫」など。(1882~1961
 明治15年~昭和36年)

 

「どこかに生きながら」は小川未明の作品としてはさほど有名ではないでしょう。未明と言えば「赤いろうそくと人魚」や「野ばら」「月夜と眼鏡」「殿さまの茶わん」などが知られています。それらと比べると「どこかに生きながら」は文庫にも掲載されていないようにややマイナーな作品になります。

マイナーというよりも未明らしくない作品といえるかもしれません。

 

小川未明は繊細で幻想的かつ主情的な話を発展させ、「ものがたりから童話へ橋渡し」をした巨人です。わが国のアンデルセンなどと称されたこともあります。

 

そんな未明も、昭和七年頃から次第に自然主義に移行し、戦後、その傾向が極めて強くなります。

たとえば時代と切り結んだ作品としては「考えこじき」「小さい針の音」「とうげの茶屋」「頭を下げなかった少年」などが上げられます。ただ、手元に資料がないので正確な創作年代が不明ですからいい加減に読んでください。

 

さて、「どこかに生きながら」はどんなストーリーでしょう。正直に言いますとはっきりとは覚えていません。ただ、母猫と子猫の絆の物語であることはしっかり記憶しています。

あるとき、二階の雨戸の戸袋辺りに野良猫が子を産みます。家の子達は可愛い子猫に餌を与えました。母猫は決して気を許しませんでしたが、次第に子猫は人間になついていきます。ある日、子どもに抱き上げられた子猫を見た母猫は、子猫の将来を人間に委ねた方がいいと判断したのかどこかに立ち去ってしまいました。

 

子猫はそれからしばらくは人間に可愛がられて幸福に暮らしていました。ところがある嵐の夜、急に子猫は狂ったように騒ぎ出し、外に出たがります。もしや母猫を心配しているかもしれないと窓を開けると泣き叫びながら駆け去っていった・・・こんな話だったような気がします。

 

わたしはこの話を読むたびに捨てた猫たちを案じて枕を涙で濡らしておりました。ミミ、飼っていた猫の名前です。ミミとその子たちは無事に暮らしているだろうか。ちゃんと餌は食べているだろうか。犬や人間にいじめられてはいないだろうか。雨風や寒さからは上手に逃げているだろうか。

そんなことを思うとむしょうに悲しかったのです。純情な小学生でした。

 

冒頭、犬派か猫派かと聞いた人にこの話をして

「もしかしたら僕は本当は宮沢賢治よりも小川未明の方が好きかもしれない」

と話したところその方も

「わたしは絶対に未明がいいと思う」

と言われました。おお、未明ファンここにあり、同志発見です。

 

今日、小川未明を知る人は大変少なくなってきたことでしょう。

試みに書店で当たってみましたが、どこにも未明の本は置いてありませんでした。大きな書店でかろうじて新潮文庫版を見つけることができただけです。今の時代からすると文体が妙に古臭く、文章が慇懃なほど丁寧で上品ですから今日受けしないのでしょうか。その雰囲気が私は好きですが、確かに今風ではありません。

 

たとえば

町も、野も、いたるところ、みどりの葉につつまれているころでありました。

おだやかな、月のいい晩のことであります。しずかな町のはずれに、おばあさんはすんでいましたが、おばあさんはただひとり、まどの下にすわって、針しごとをしていました。(月夜とめがね)

 

人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。

北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。(赤いろうそくと人魚)

 

ある田舎の小学校に、一人の青年の教師がありました。その青年は、真実に小さな子供たちを教えたのであります。(小さい針の音)

 

出身地新潟の冬の海そのものの陰鬱なトーンが全体を支配しているようでは子どもに読ませるには躊躇するかもしれません。しかも、どれも修身の教科書のような丁寧な文体。こうした文体は当時、童話が標準語の啓蒙という役割を担わされていたからだとも考えられます。

 

しかし、ほんとうは子どもはこうした暗い、どこか命の底を感じさせる話が好きなのです。宮沢賢治でもそれは同じです。

 

賢治と未明の違いを一言で言うなら以下のようになるでしょう。

 

賢治の作品は根源的問題を提起して回答を読者に謎として残しています。

その謎が常に新鮮で作品の命を保ってきました。早世したこともその理由の一つです。

 

それに対して未明の作品は主観をこつこつ書き上げて謎を潰していくあり方です。後の童話作家はこのある種の押し付けがましさを批判し「さよなら未明」と称して脱未明化を図ることになります。

 

文壇の重鎮として君臨した未明と異なり、賢治は最初から文壇に属さない独立峰だったのでこうした批判の対象にはなりませんでした。

 

わたしは学校から帰ると母の用意したおやつをおいしくいただきながら未明のお話をいとおしむように読んだものでした。ビスケットの屑が本の上に落ちるのを気にしながら毎日毎日同じ本をあかずに読んだのでありました。・・・・

という具合に文体も未明調に染るのです。

 

唐突ですが、児童文学とはなんでしょう。

源流はイソップ童話(紀元前6世紀)のような『寓話』に始まるとされています。寓話とは「教訓または諷刺を含めたたとえ話」とあります。何らかの教訓を動物などを擬人化して説くものが寓話です。

 

それから次第にストーリーそのものを楽しむ『物語』が生まれてきました。民話を題材にしたペロー(1628~1703)の「長靴をはいた猫」「赤頭巾」「シンデレラ」などがその代表です。それでも人生は頭の使い方しだいだというような教訓がついて回ります。

 

それが払拭されるのは100年後のグリム兄弟(兄1785~1863、弟1786~1859)を待たねばなりませんでした。グリムもペローと同じく民話を題材にして「赤頭巾」や「シンデレラ」を書いていますが、教訓色は全く消されています。

 

しかしなんといってもアンデルセン(1805~1875)の存在が児童文学の萌芽でしょう。グリムもその題材は『民話』です。しかしアンデルセンは『創作』としての児童文学を書いた最初の人です。当時の日本は江戸時代です。

 

こうしてアンデルセンを得て人類は創作による児童文学を得ることができたのです。

 

何故こんな児童文学史を長々と書いたかといいますと、先の、小川未明が日本におけるアンデルセンの位置にあるからです。

 

日本にも『民話』がありました。そしてその民話に基づく物語として『お伽噺』というジャンルが育ったのです。代表作は巌谷小波1870~1933)の「こがね丸」でしょう。犬が母犬の敵を討つという勧善懲悪の物語。この話
も好きで繰り返し読んだものです。

 

小川未明は、その後第一童話集『赤い船』(明43)を出版し、この作品集は、お伽噺から童話への架橋をなしたものと、歴史的に高く評価されている。

イソップやグリムの時代から、アンデルセンの時代へと、この転換を比喩することができよう。(「児童文学を学ぶ人のために」から)

 

つまりかように小川未明とは日本の児童文学の流れの中に重要な位置を占めた作家なのです。

 

 それが今日あまり読まれなくなったのは時代の趨勢とは言え寂しいものがあります。

テレビのアニメやゲームはどうしても刺激的になります。刺激は次第に慣れて鈍磨するもですから、さらに刺激的にならざるを得ません。果てしなき欲望を体現することで経済効果を生むという資本主義世界のあり方としては仕方ない面もあります。

 

子ども達にとって、あくなき刺激は楽しいものでしょうが、一人静かにおだやかな話に心を潤ませる時間も与えたいものです。

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游氣風信 No.155 2002,11.1  ハリの話

 今回は「鍼」の話です。といっても「ハリ」という字に関わる話。鍼治療についての話ではありません。

町で見かける治療院の名称に

「○○鍼灸院」

などというのがあります。

わたしは子どものころ、この「鍼」という字が読めませんでした。それが「はり」であることを知ったのはずいぶん大きくなってからです。ハリ治療自体を知ったのも大きくなってからでした。しかし読めないのはわたしだけではなかったようで、

「○○はり院」

とか

「○○針院」

というように「鍼」を平仮名で「はり」としたり、「針」の字を用いた看板も散見できます。やはり「鍼」を読めない方が多いのでしょう。

 

 通常、治療に用いる「はり」を漢字で書くと「鍼」となります。

 あまり一般的でない漢字です。そこで前述したように便宜的に「針」と書くこともよくあります。

 しかし、本来治療に用いる「はり」は「鍼」と書くのが正しいのです・・・と業界ではこだわっています。

 「針」ですと、裁縫に用いる縫い針や魚釣りに用いる釣り針などと同様の意味になります。いずれにしても細く尖った道具ですからそれでいいようですが、鍼灸師は「鍼」にこだわります。

 

 何故でしょう。

 大雑把な推理ですが、誰でも針を身体に刺すことは嫌です。嫌どころか恐ろしい。まるで拷問です。一部の奇妙な愛好家以外はおそらく誰もが針を恐れます。

 

 事実、画鋲を踏んづけたり、裁縫のとき針が刺さるととても痛いものです。

 庭いじりをしていてバラの棘が刺さっても痛いです。

 こうした体験が針のように尖っているものを恐れる下地を作っていますから、誰もが最初は針が怖い。

 そこで、「治療の鍼は違うんですよ」と明確な差異化をする必要があって、難しい「鍼」という字を使うのです。

 以上はわたしの推理。しかし、これでは当てになりません。そこで例によって2.3の辞書に当たってみましょう。

広辞苑

はり【針】

(1)縫い、刺し、引っ掛け、液を注ぎなどするのに用いる、細長くとがった道具の総称。縫針・待針・留針・注射針・釣針・レコード針など、用途に応じてきわめて種類が多い。(釣針の場合、「鉤」とも書く)

 

(2)(「鍼」と書く)

(イ)鍼術(しんじゅつ)に用いる医療器具。形は留針に似て金・銀・鉄・石などで造る。古くは針状のもの以外にメス状・へら状のものも使われた。

(ロ)鍼術の別称。

 

(3)細く先のとがった、針に似たもの。

(イ)とげ。いら。

(ロ)蜂などの尾部にあって外敵を刺すもの。

(ハ)時計・計器などの目盛や数字を指し示すもの。

 

(4)(比喩的に)害意を持つ心。人の心を傷つけようとする心。

(5)裁縫のこと。

大辞林

はり【針】

(1)布などを縫うのに用いる道具。普通、ごく細い鋼製の短い棒で、一端をとがらせ、他端に糸を通す穴がある。縫い針・刺繍(シシュウ)針・皮針・毛糸針・待ち針・ミシン針など多数ある。

 

(2)細く鋭く先端のとがった(1)に似た形のもの。

(ア)ハチ・サソリなどの尾部にある、他の動物を刺して毒を注入する器官。

(イ)時計・磁石などの計器の目盛りをさし示すもの。また、磁石。

 

(3)裁縫。ぬいもの。おはり。

(4)言動の中にある、人の心を傷つける気持ち。害意。

はり【鍼】

 (1)〔「はり(針)と同源〕(1)医療器具の鍼。多く金・銀・鉄などの金属で作られ、人体の一定の部位にさしこんで療治に使うもの。

 

(2)(1)を用いて治療する術。鍼術(シンジュツ)。

 

漢字源

【針】

1 はり。皮や、布地などを縫うための、とがった道具。ぬいばり。

 

2はり。漢方療法の一つ。細くて鋭利な金属の棒を患部に刺し、大脳中枢に与える刺激によって病気を治療する。また、そのときに使う細くて鋭利な金属の棒。

 

3はりのように細長くて先がとがっているもの。

《解字》

形声。「金+音符十」

【鍼】

はり。漢方医術で、治療に用いるはり。転じて、縫いばり。古くは石のはりを用いて人体の治療点を刺激し、血行や神経系を調整した。のち金属のはりを用いる。

《解字》

会意。「金+咸(感。強いショック」で、皮膚に強い刺激を与えるはりのこと。針とまったく同じ。

【箴】

1はり。布をあわせて仮にとめておく竹ばり。しつけばり。また、漢方で、治療するのに用いる石ばり。

 

2いましめ。ちくりと人の心をさしていましめる。また、いましめのことば。

「箴言」

 

3文章様式の一つ。いましめを書いたもの。

《解字》

会意。「竹+咸(とじあわせる)」で、深くはいりこむ意を含む。

《単語家族》

深―沈―針と同系。

 

 以上のことから興味深いことがわかります。

 まず、元来、「鍼」と「針」にさほど明確な区別がなかったこと。ですからこだわらないかぎりどちらでもいいのでしょう。

 

 それから、もうひとつ興味深いことが分かりました。

「箴」の字から推察するに、古代、鍼は金属ではなく竹の串であったこと。そこで「箴」。竹冠であることから竹製であったと想像できます。また、石の針の時代もあったようです。

 

金属の製造技術が高まって初めて今日のような鉄の針が作られたのでしょう。

ちなみに現在最も使用されているのはステンレス鍼です。以前は銀が多用されましたが、材質の関係で高圧滅菌に弱いことや、今日の主流である使い捨てにするにはコストの点で問題があり、ほとんどステンレスにとって替わられました。

 

 面白いのは先ほどちらりと登場した箴言。

【箴】

1はり。布をあわせて仮にとめておく竹ばり。しつけばり。また、漢方で、治療するのに用いる石ばり。

 

2いましめ。ちくりと人の心をさしていましめる。また、いましめのことば。

「箴言」

これです。

 針が刺さるとちくりと痛みます。そこからちくりと胸に刺さる言葉を箴言というのです。実に何とも言いえて妙な言葉。広辞苑では

 

しんげん【箴言】

①いましめとなる短い句。格言。

②旧約聖書中の一書。格言・教訓・道徳訓を多く含む。ソロモンの箴言。

とあります。

チクリと痛いのは身心にとって役に立つのです。

鍼は体験された方はご存知のようにほとんど無痛です。しかし、たまには痛いことがあります。患者さんが「痛い」と声を上げると、内心「しまった」と思うのです。ところが驚いたことに「チクリとするとかえって効いたような気がする」と言われることがあるのです。

 

こんな話もあります。

ある看護士さんがいつも同じ注射をしているのに

「きのうの注射はよく効いて楽だったが、おとといのは効かなかった」

と言われ、同じ薬なのに何故だろうかと詳細に記録をつけたことがあったそうです。

すると、面白い事実に気がつきました。

注射のときに患者さんが「痛い!」と声を上げたときの方が効いたと言うのです。どうも痛みが説得力を持っていたようですね。

 

看護士さんにしても、われわれにしても、いかに痛くなく鍼を(注射を)するかに心を砕いているのですが、痛い方が効いたような気がすることもある。

これも興味深い話です。

 

以上、ハリの話でした。些少でも胸の中にチクリと記憶していただければ幸いです。

 

後記

 

薬石無効(やくせきこうなし)

・・・・いろいろ治療したがききめがない。人の死をいう。(漢字源)という言葉があります。

 

これは古代中国から伝わる言葉です。石鍼を用いて治療をしても、薬を用いても効果がない、もう手の尽くしようがないという意味。

 

 この場合の鍼は今の鍼よりもメスに近いものと考えられます。皮膚を切ってよどんだ血を体外に出して病気を治そうとするものです。西洋の医術でも近代までは治療の中心だった技術です。

 

 今も瀉血(細絡)といって鍼灸の中に技術は残っていますが、血を見るのでこれは手術行為に近いという理由から医師のみに許されて、一般鍼灸師は表向き、禁じられています。しかし、指先のつぼや皮膚の表面を糸ミミズのように見える部分に鍼をして、偶発的に出血する(させる)ことはあります。

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游氣風信 No.154 2002,10.1  銀河鉄道

 最近、物がよく壊れます。

 人も物も、しょせんは限りある存在です。

 しかしこう立て続けに使えなくなってはいささか困りもの。

 八月にはパソコンと自動車が、九月にはファックスとターミナルアダプター(インターネットに必要な機械)が、最近はコーヒーメーカーと玄関の灯りが。その間に携帯パソコンのシグマリオンが二回も。

 

 

 世の中に絶対は無い、すべては有限の存在。無常であるとは言い尽くされ、生活の中でも折々感じることではあります。しかしこう重なると財布の問題もさることながら、いろいろ考えてしまいます。といっても乏しく耐久性のない脳みそでは深く長い思索には至らず、結局は気分転換に逃避します。

 

 

 気分転換。そんな時は、空を見上げるのが好きです。

 今池の治療室から見えるのは幾何学的に切り刻まれたビルの空だけですが、訪問リハビリで自動車を駆って移動する田園地帯の空は広々として、心身を緩めてくれます。

 

 

 特に隙間時間、木曽川の堤防に車を置いて散策するのは短いながらも豊穣な贅沢です。

 初冬の夕暮れ、木々の下が闇になる頃、なんと梟の飛翔に出くわしたことがありました。丸い顔をくるくるさせながら、予想以上に大きな翼で舞っている姿はまさに猛禽類。しぐさの愛らしさとは異質の迫力でした。

 

 

 最後の患家を辞す時、既に夜も深まり、空にはたくさんの星々。

 いくつかの名前を知っている星座も瞬いています。

 木曽川の河畔に行けば信じられないくらいのたくさんの星を見ることができますが、よほど詳しい人でないと、全天一杯、小さな星まで見えるとかえって星座は見つけにくいものです。

 

 

 仕事の後、一日の疲れを程よく感じながら、秋の夜空を見上げます。

まず、目を引くのがオリオン座。長方形の中に三つの星。冬の星座の雄です。

 オリオンの三ツ星を東に延長するとシリウス(天狼・・・秋の宵にはまだ昇ってきません)、東に延長するとプレアデス星団(すばる)に至ります。すばるはおうし座の肩辺りの属します。

 

 

 振り返ると西の山に向かって大きく羽ばたいている十文字の星座。これは白鳥座です。こちらは夏を代表する星座。秋の宵には西に傾いて頭を下に向けています。弓に矢をつがえた形にも見えます。ですから十文字というよりむしろ十字架のようです。長軸が頭から尾に相当し、短軸が翼です。見事な十字は誰にも見つけられるでしょう。オリオン座も白鳥座も幾何学的に整った星座です。

 

 

 宮沢賢治に「銀河鉄道の夜」という知られた作品があります。賢治作品の集大成といえる大作です。

 ジョバンニ少年が友人カムパネルラと共に銀河空間を走る汽車に乗って旅をしつつ、生きるとは、死ぬとは、幸いとはなどの問題に直面する幻想的で謎を孕んだ代表作。未完成のままに作者が亡くなったので、謎が謎を呼び、なおさら作品の魅力を深めているようです。

 

 

 ところが「銀河鉄道の夜」、有名なわりには、意外と読まれていません。その理由のひとつは先ほど書いたように作者が完成しないで亡くなったので、決定稿が無く、ストーリーが分かりにくかったからだと思われます。しかし、今では入念な原稿の調査の結果、決定稿が定められました。(実はこれが謎を消し去ってしまい、却って面白くなくなったのですが・・・)

 

 

 さて、では、この銀河鉄道、夜空のどこを走っているかご存知でしょうか。簡単なストーリーとともに説明します。

 

 

 牛乳を受け取りに出かけたジョバンニは友人たちからいじめに合い、逃げるように丘の上に駆け上がります。そこで火照った体を冷やすように草の上に横たわっていると、汽車の音が聞こえます。そしてどこからか「銀河ステーション、銀河ステーション」という声。ぱっとあたりが明るくなって、いつの間にかジョバンニは汽車に乗っていたのでした。

 すぐ前の席に、真っ黒な上着を着たずぶぬれの少年が座っています。唯一ジョバンニをいじめないカムパネルラです。こうして二人の少年の銀河の旅が始まります。停車場には「白鳥」と書いてありました。

 そう、白鳥座が物語の出発点なのです。

 

 賢治はここを次のように美しく表現します。

 

 

 俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く
後光の射した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの閃光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。

 

 

 この白い十字架が白鳥座でしょう。

 

 

 銀河鉄道はそこから南へ走ります。白鳥座を南十字星と対比させて北十字と称します。

 ヨーロッパではクリスマスの頃、西の空に、ほとんど垂直に見えるそうです。まさに西の山に屹立する十字架。

 

 

 銀河鉄道が南十字星までに通過する星座は

 

 

 白鳥座(北十字)

 琴座

 鷲座

 射手座(いて)

 蠍座(さそり)

 ケンタウルス座

 南十字座

 

 

です。

 

 

 星座について広辞苑を引いてみます。

 

 

白鳥座

 星の配列が白鳥の飛ぶさまに似ている。天の川中にあり、九月下旬の夕方、天頂で南中(その星が一番高くなること)。首星(星座で一番明るい星)デネブ。

 

 

琴座

 白鳥座の西にある。晩夏の夕刻天頂にくる。首星はベガすなわち織姫星。

 

 

鷲座

 晩夏の夕暮れに南中、天の川の東岸にあって琴座と相対する。首星はアルタイル、すなわち牽牛星。

 

 

射手座

 蠍座と山羊座の間にある。輝星に乏しいが、星雲・星団・変光星に富む。銀

河系の中心はこの星座の方向にある。晩夏の夕暮に南中。

 

 

蠍座

 てんびん座の東、射手座の西にある。首星はアンタレス。盛夏の夕刻に地平近く南中。

 

 

ケンタウルス座

 初夏の夕方、南の地平線にある。首星は恒星の中で太陽に最も近く、四・三光年の距離にある。

 

 

南十字座

 ケンタウルス座の南にある星座。天の川の中心にあって輝星に富み、首星以下の四星が美しい十字をなし、白鳥座の北十字に対し、南十字と呼ばれ、詩文に名高い。南十字星。

 

 

 ご存知のように、南十字星は日本では見ることができません。地平線の下にありますから。

 

 

 銀河鉄道は結局は夢の中の物語でした。

 しかし、同行したカムパネルラは川で友人を助けようとして亡くなっていたのです。つまりジョバンニはその時は知らなかった友人カムパネルラの霊と一緒に星間旅行をしたことになります。その道中でさまざまな経験をしたのち次の会話を交わします。

 

 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くようにふっと息をしながら云いました。 

・・・中略・・・

ジョバンニが云いました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。(後略)」

 

 

 このあとカムパネルラは卒然と消えてしまいます。

 

 

 賢治の作品にはさまざまな問題提起があるのですが、結局はその解答はありません。賢治は常に問題提起者なのです。

 むしろもっともらしい解答を残さなかったゆえに、永く読み継がれているのかもしれません。

 

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」

 

 これこそが賢治が抱き続けた問題に相違ありません。

 その答えは・・・読者に委ねられているのでしょう。

 

 

 星を見ながらわたしもこの解答の見出せない設問を問い続けるしかないのです。

 

 

参考

宮沢賢治 星の図譜 平凡社

銀河鉄道の夜 ちくま文庫

 

 

後記

 

 

 すっかり秋らしくなってきました。

 治療室の前の銀杏の木には銀杏が鈴なり。長い竿で落としている人がいます。

 子どもの頃、茶碗蒸に入っていた銀杏が不味くて、食べられなくて困りました。しかし、三十歳位になると妙に美味しいと感じるようになりました。サトイモやオクラもそうです。

 年齢と共に味覚は変化する。それなら子どもの好き嫌いにあまり目くじらを立てる必要はないようなきがしますね。

(游)

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游氣風信   No.153 2002.9.1  柿(俳句を味わう)

「ぼくはね、渋柿が好きです」

米国人のBさんが治療台の上で唐突に言います。

「渋柿?あれ食べたら口の中が渋くて大変でしょう」

うつ伏せになったBさんの背中に鍼を置きながら聞き返しました。

「ううん、渋柿ね。だんだん甘くなります」

「だんだん甘くなる???」

「そう、外の白い粉も甘い」

「白い粉? ああ、干し柿ね」

「そうそう、干し柿。山の方に行くとね、窓にぶら下がっています。ぼく、あの景色大好き」

 
 

アマチュアカメラマンでもあるBさん。

日本の風景がお好きなようです。

確かに夕日を受けた窓に光る吊るし柿の風情は日本の秋を代表するものとして保存したいもののひとつです。

 

 

吊るし柿瀬戸内海の見ゆる窓  広志

 

 

この拙い俳句はわたしが20歳の頃作ったものです。

鹿火屋という結社に属していたのですが、そこの主宰の故原裕先生に一応俳句になっていると誉めていただいた句。

いかにも古臭い感じの俳句ですが、当時のわたしはこうしたものが俳句だという固定観念がありました。

しかし、それもあながち間違いではなく、歳時記に出ている句も似たり寄ったりです。

 

 

  釣柿や障子にくるふ夕日影  丈草

  干柿の緞帳山に対しけり  百合山羽公

  吊柿日は一輪のままに落ち  桂信子

  吊し柿すだれなしつつ窓を占む  和知清

 

 

このように吊るし柿は窓や夕日と共に詠まれることが多いのです。

夕日が窓や柿を染めてより印象的に彩るからでしょう。

米国青年Bさんが関心を抱いた日本の光景。これは日本人の原風景として根強いものです。

 

 

小学生の頃、祖父の家に出かけたときのことです。晩秋でした。

家からゆるやかな坂道を登って行くと、村のはずれ、墓地の方に向かいます。

大きく湾曲した道なりに進むと小さなお宮さん。

片側がこんもりした藪になっており、そこに野生の柿の木が一本たわわに熟しています。

幼いわたしは祖父の傍らを駆け抜けると、低い崖を越え、柿の木に取り付き、得意の木登りで実をもいできました。

「おじいちゃん、これ食べられるの」

「ああ、甘いけえ、食うてみんさい」

不覚にもいたずら好きの祖父の言葉を信じたわたしは一気にかぶりつきました。

一瞬の後、口の中に広がるしびれ。渋み。

「わあああ、渋柿だ!」

「渋柿誰も取らん。だから今でも木にいっぱい残っとるんじゃの、わはは」

「おじいちゃんの嘘つき」

二人で大笑いでした。

駆けたり、木に登ったりして火照った体を、晩秋の風が吹き抜け、汗を心地よくなだめてくれます。

わたしは祖父のいたずらに怒ることもなく、傍らに戻って、一緒に歩き出したのでした。

 

 

柿はこの頃余り人気のない果実です。

農家の庭先にはたいてい柿の木があり、つややかな実をいっぱいつけるのですが、家族だけでは食べきれないからとよくいただきます。

「若い者は全然食べないから、先生貰ってちょ」

しかし、せっかくいただいて持ち帰っても、家でもあまり売れません。

わたしもほとんど食べません(まだまだ若い者ですから)。

どこの家でも持て余しているというのが正直なのところではないでしょうか。

 

 

しかし、柿の木は初夏の柿若葉から花、青柿や熟柿、柿紅葉や柿落葉と一年を通じて楽しませてくれます。

柿はカキノキ科の落葉高木です。果実を安定的に供給してくれるのでどこの農家でも庭に何本か植えています。

したがって柿の木が見せてくれる一年の変化はとても身近なものとして親しまれています。

俳句を通じてみて見ましょう。

 

 

柿若葉

  柿の若葉は萌黄色で、つやつやと光っていて美しい。初夏の陽を受けて風に揺らぐ若葉は柔らかく、いかにも明るい。樹々の新緑の中でも柿の若葉の色合いとかがやきは殊に優れている。日常どこでも目に入ってくる初夏の爽やかな風景である。(日本大歳時記)

 

 

  柿若葉丘の南は田もまぶし  水原秋桜子

  柿若葉豆腐触れ合ふ水の中  長谷川櫂

 

 

柿の花

柿は中国から伝来した落葉性の高木。本州・四国・九州など各地で栽培される。甘柿は日本で淘汰されたもので、中国にはない。柿は若葉が光って美しいが、花は見過ごされやすい。淡黄色で梅雨の頃、新しく伸びた枝の葉腋につく。雌雄雑居性で、雄花は数個ずつ、雌花は単生する。小さく静かで淋しい花である。(日本大歳時記)

 

 

 渋柿の花ちる里となりにけり  蕪村

 柿の花こぼれて久し石の上  高浜虚子

 同じ日の毎日来る柿の花  松藤夏山

 

 

青柿

柿の青いうちは、殆んど目立たないが、地面に落ちたものを見て、改めて樹上を仰ぐと、大きな葉の間に、数しれぬほどの青柿がすでに実りはじめているのに気づく。(日本大歳時記)

 

 

 

 

柿の実は野生のものや栽培するものなど、その種類は多いが、葉が落ちつくす霜の降るころには樹上に赤色に熟れて、美しい晩秋の農村の彩りを作り出す。

(日本大歳時記)

 

 

  里古りて柿の木持たぬ家もなし  芭蕉

  渋柿や嘴おしぬぐふ山がらす  白雄

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  正岡子規

  柿食ふや遠くかなしき母の顔  石田波郷

 

 

熟柿

紅く熟した柿のことである。一般に渋柿は紅く熟してこないと甘くならないから、熟柿にして食べる場合が多い。

 

 

  切株におきてまつたき熟柿かな  飯田蛇笏

  いちまいの皮の包める熟柿かな  野見山朱鳥

 

 

干柿

渋柿の皮を剥き、竹串につらね刺し、または縄にはさんで吊し、渋味を取り去るため陰干しや日干しにする。こうして干しておくと、水気が全くなくなり、肉も緊って、柿の表面にやがて自然に白く粉を噴いて甘くなる。(日本大歳時記)

 

 

  干柿や家廻りくる郵便夫  加藤憲曠

 

 

柿羊羹

柿餡を入れた練羊羹で、岐阜の大垣、広島のものが有名である。生柿から作るのと干し柿から作るのとある。(日本大歳時記)

 

 

  柿羊羹煮る夜や伊吹颪吹く  塩谷鵜平

 

 

 

 

柿紅葉

若葉の耀りもきわめて美しい柿の葉は、中秋過ぎ、実の赤く熟すると共に色づいてくる。(日本大歳時記)

 

 

  柿紅葉うすく夕日にうすくさす  川島彷徨子

 

 

柿落葉

梢上に紅葉し、あるいは黄葉して美しいものと、枝にあるときは格別魅力をおぼえなかったものが、落葉して地上にあると、目を瞠るほど鮮やかなものとある。(大日本歳時記)

 

 

  柿落葉地に任せて美しき  瀧井孝作

  いちまいの柿の落葉にあまねき日  長谷川素逝

 

 

新年

串柿飾る

串柿とは竹の串で柿を貫いて乾かしたものをいい、蓬莱台に串柿を添えたり、注連縄や鏡餅などに昆布・歯朶と共に飾ることをいう。(大日本歳時記)

 

 

  串柿をさして銭籠祝ひかな 

 

 

こうして年中身近にあって生活を潤してくれているのが柿。

その割りに人気がないのが困りものです。

 

 

冒頭のBさんが好きな干し柿。

日本の菓子の甘さの基本は干し柿の甘さだと聞いたことがあります。

ほのかな甘さ。

どことなく安心感のある甘さ。

食べれば美味しいのですが、ついつい敬遠されがちな柿。

 

 

少しは見直して味わってみようかとも思うこの頃です。

 

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游氣風信 No.152 2002.8.1 蛾・・・あはれその身を焦がす虫 「りんごとちょう

 以前、イタリアの絵本作家イエラ・マリの絵本に感動した事があります。何冊かありましたがとりわけ「りんごとちょう」とか「あかい ふうせん」などを記憶しています。

 

 「りんごとちょう」はりんごの実から虫が出てくる不思議について描かれた絵本。

 どうしてりんごから虫が出てくるのか。この疑問にきちんと答えた絵本です。

 

 まだ実を結ぶ前の花の段階で産卵された卵がそのまま実の中に取り込まれ、孵り、その幼虫がりんごの実からから這い出て、ちょうちょになって飛び去るという納得のいく説明。それらの過程を生物学的に正確にしかも分かり易く、美しく描いたすぐれた絵本です。

 

 「あかい ふうせん」の方は風船がちょうになったり傘になったりという変化の意外性と面白さ。

 

 どちらの絵本も硬質な画風ながらやわらかい、優しい図柄です。ところが、「りんごとちょう」に関しては大いなる疑問も生じていました。なぜなら、りんごから生れてくるのは蛾であって、決して蝶ではないからです。絵本の虫も、どうみても蛾です。そこでわたしは本の隅っこに目をやりました。原題は何故か英語で書かれています。作者のイエラ・マリがイタリア人であるにもかかわらず・・・。

 

  THE APPLE AND THE MOTH

 そのものずばり、「りんごと蛾」です。明らかにMOTHという字が使われています。

MOTH  モス  蛾のことです。

 

 分かりやすい例を引くと、怪獣モスラ。しばしばゴジラと戦って人類を助けてくれたモスラは蛾の怪獣でした。英語のモスから命名されたに違いありません。

 

 なぜ「りんごとが」ではなく「りんごとちょう」なのでしょう。

 作者のイエラ・マリには何の責任もありません。責任はこの本の出版をした編集者もしくは出版社にあります。

 

 おそらくは「りんごとが」では売れないと思ったのでしょう。確かに蛾は不人気です。しかし事実を歪曲した、実に姑息な判断です。

 これでは子ども達に結果として嘘を教える事になります。
 一つは、蝶や蛾の生態に対する嘘。
 もう一つは蛾が不人気な虫だという喧伝。
 こうして無邪気な子ども達は蛾が嫌いになってしまいます。

 

いかにして蛾は嫌われるか

 どう考えても、どう擁護しても、蛾は人気がありません。
 食卓の灯りに誘われ、ばさばさ飛んできて薄汚い粉を振り撒き、食事を台無しにします。

 

 障子にまとわりついて、けたたましい音を立て、部屋を汚します。
 中にはドクガという種類がいて、皮膚炎をおこします。
 庭木にびっしり貼り付いて造園愛好家を奈落の底に落とします。
 イラガの幼虫は触るだけで飛び上がる程の痛みを与えます。
 しかし、彼らに何の罪がありましょう。

 

 ただ、蛾は蛾の人生を素直に本能のままに全うしているだけです。人間のように道を踏みはずし、よこしまな世界に迷いこんだりしません。
 しかるにこの嫌われよう。
 いったい全体、これはいかなることなのでしょうか。

 

 俳句の歳時記に「火取虫」(ひとりむし)という季語があります。

 平井照敏編の歳時記によれば、

 

火取虫(ひとりむし)

  灯取虫 火入虫 火(灯)虫 蛾 火(灯)蛾 火蛾 燭蛾

 夏の夜に、灯火にいろいろの虫が吸いよせられる。こがねむし、かぶとむし、ふうせん虫などもいることがあるが、もっとも多いのは蛾の種類で、火取虫というと、蛾に限定する歳時記も多い。しかし、本来は、灯火にあつまる虫の総称である。(以下略)

 こうした説明のあとに俳句が紹介してありますが、最も有名な句は

  酌婦来る灯取虫より汚きが 高浜虚子

でしょう。

 

 今日のフェミニズムからしたら到底許されない内容に思われますが、当時はこうした句を発表してもゆるされた様です。

 かように蛾は汚い虫の代表のごとしです。

 

 昼間飛ぶ蝶。モンシロチョウ、アゲハチョウ、ウスバキチョウ、カラスアゲハ、ヒョウモン、アカタテハ、シジミチョウ、オオムラサキ、アオスジアゲハ・・・。

 これらは美しいものの代表のように称されるのに、同じ鱗翅目(羽にうろこ状の粉をもつ種類)に分類される蛾はあまりに悲惨な扱いです。

 

 お隣の中国では美人の事を「蛾眉」と呼びますが、その呼称は日本ではあまり浸透していません。

 

 確かに、色彩も蝶に比べて地味で風采が上がらず、美的には好ましいとは思えません。しかしそれだけでで嫌うならば、あまりに偏見というものでしょう。

 

 思い返せば中学の一年の時、こんなこんなことがありました。

 クラスで校内の掃除をしていたときのことです。

 木陰から頭が赤く、羽根の黒い虫がひらひら飛び出してきました。

 わたしは一目見てそれが「ホタルガ」であることが分かりました。きれいな蛾です。頭が赤く、胴体が黒いので蛍に似ています。しかもご丁寧に羽の端には蛍火のように白いすじまであります。

 「あ、きれいなちょうちょ」

 わたしと一緒に掃除をしていた女子生徒が叫びました。

 「ちゃうちゃう、これは蛾だよ」

 「ちがうわ、これはちょうちょよ。蛾がこんなにきれいなはずないわ!」

 「よく見てごらん。頭が赤くて丸く、黒いからだ。まるで蛍みたいでしょ。だからこれはホタルガと言うんだよ」

 「いいえ、これはきれいだから絶対にちょうちょ!」

 決然と言いきります。

 わたしは室長、彼女は副室長でした。彼女は副室長に選ばれるだけあって実に勝ち気です。その蛾を嫌うさまはまるで近親憎悪のよう。中学一年にして早くも女性は蛾の中に自らを投影して拒絶するのでしょうか。

 気の弱いわたしは、ついにそれが蛾であると説得できずに終わりました。

 余談ですが、彼女は実に困ったことに三年でも共に室長を勤め、高校までもが同じになるという腐れ縁。もしかしたらこれは蛾の祟りかもしれません。今はどこかの学校の先生をやっているはずです。どんな教育をしているか心配。

 

蛾と蝶の違い

 実は蝶と蛾の違いはあまり明確ではないのです。西洋では昼飛ぶのが蝶、夜飛ぶのが蛾という程度。

 広辞苑を見てみましょう。

 

ちょう「蝶」 てふ

チョウ目のガ以外の昆虫の総称。羽は鱗粉と鱗毛により美しい色彩を現し、1対の棍棒状または杓子状の触覚を具える。幼虫は毛虫・青虫の類で、草木を食べて成長し、さなぎを経て成虫となる。一般に繭は作らない。種類が多く、日本だけで約250種を数える。季 春。

 

が「蛾」

チョウ目の蝶以外の昆虫の総称。形態上は蝶と明確な差はない。多くは夜間活動し、静止の際、羽を水平に開くが屋根状に畳み、また触覚は先端ほど細くなり、櫛歯状になっているものもあるなどでチョウと区別するが、やや
便宜的。きわめて種類が多く、日本だけで約5000種。その幼虫に髄虫・毛虫・芋虫・蚕・尺取虫などがある。季 夏。

 

 蝶も蛾もチョウ目に分類されています。蛾は蝶の仲間なのです。しかも、便宜的な分類があるだけで明確な定義はなさそうです。

 しかし天下の広辞苑とはいえ、チョウ目のチョウ以外が蛾で、蛾以外が蝶だなんて実にいいかげんですね。結局何ら定義でできていません。

 ということで、なおさら蛾が嫌われる根拠がなくなりました。

 つまり、あわれ、蛾は単に感覚的憎悪の対象になっているに過ぎないのです。

 

オオミズアオとの出会い

 北杜夫の名著「どくとるマンボウ昆虫記」に蛾の項目があります。この本はぼろぼろになるまで読んだのですが、今、どうしても見つかりません。本箱のどこかにあるはずなのですが。

 

 その本の中にオオミズアオという大型の蛾に関する文章がありました。その名の通り大きくて水青色の蛾です。全長10センチ。蚕やヤママユガの仲間です。木陰をゆったり舞う姿は幽玄な美しさだと書かれていました(記憶が確かなら)。

 

 わたしはぜひ一度それを見たいものだと思っていたのですがなかなか機会に恵まれませんでした。一度だけ高校の行き帰りに通り抜けていた熱田神宮で死体を見つけたのですが、これでは幽玄な舞い姿を拝むことができません。

 

 しかし、念ずれば花ひらく。ついに出会いの日がきました。正確な場所は忘れましたが、どこかの高速道路のサービスエリア。ふと見上げるとなんとオオミズアオが月明かりの空から幽玄に舞い降りてくるではないですか。

 

 日本画の幽霊美人図のような透明感をたたえ、死生を抜け出たその姿は、おだやかな魂がゆっくりと下ってくるという風情。

 オオムラサキが好日の生命感溢れる青い蝶なら、オオミズアオはあらゆる勢力を否定した存在そのものの浮遊。まるで月からの使者。

「おお、どくとるマンボウ、ついに彼女に会えました」

 わたしは月下の駐車場に呆然と立ちつくしたのでした。

 

 蛾が嫌いな副室長。彼女はこのオオミズアオの姿を見たらやはり蝶だといいはるのでしょうか。

「こんなきれいな蛾はいない、美しいのは蝶だ」

きっと、そう言い張るに違いないのでしょうね。 

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2011年7月19日 (火)

游氣風信 No,151 2002,7,1 俳句王国出演記

 六月のとある日暮れ方、見知らぬ女性から電話がありました。

 

「NHK松山のSと申します。黒田先生からのご紹介でお電話させていただきました。突然ですがBSの「俳句王国」にご出演願えませんでしょうか」

「私が?・・・・黒田先生の紹介ですか・・・私で構わないのでしたらよろしいですよ」

「以前にもテレビには出演されたそうですね」

「ええ、数年前、黒田先生が「NHK俳壇」の主宰をされた最初の会に出演しました」

「今回はBSの「俳句王国」です。愛媛県の松山までお越し頂くことになります。放送は七月二十日の海の日。前日に集合して、打ち合わせなど行います。当日は午前11時から11時53分までの生放送。そに先立って兼題句一句と自由題で一句を七月八日までに送っていただきます。兼題は主宰が決められたら、またご連絡いたします」

 

「主宰は黒田先生ですか」

「いいえ、今回は「白露」主宰の広瀬直人先生です。追って詳細な予定表と航空券などをお送りします」

「わかりました、ではまた詳しいご連絡をお待ちしています」

 ちょうど治療中でした。

「先生、テレビに出るのかね」

と治療ベッドに横たわっていたMさん。

「出演料どっさりもらわなかんよ」

「いやあ、NHKは本部が渋谷にあるせいか渋くてね、前に東京まで行ったけど、出演料は交通費で消えちゃいましたよ。でも、僕等がテレビに出る機会なんて一生に一回あるかないかですからねえ。お金の問題じゃないですよ。いい経験ができる」

「さすが天下のNHK。出してやって喜ばれるんだな」

 なにが天下はわかりませんが、こうして私の二度目のテレビ出演があたふたと決まりました。

 

 兼題とは題(多くの場合、季語)が与えられてそれを用いて俳句を作ることです。

今回は広瀬先生が「燕の子」という題を出されました。 

 自由題は何でもかまいません。しかし、季節を考えれば夏の季語を用いることが妥当でしょう。

 自由題に関して、わたしはSさんからの電話で幾つかのヒントをいただきました。

 先ず生放送が「海の日」であること。

 次に、主宰が広瀬直人先生であること。

 それらのヒントから電話中に句の腹案は定まり、受話器を置いた段階でほぼ出来上がりました。このようにすぐに作ることを即吟といいます。

 まずは海の日への挨拶です。

 海の日・・・・夏の海・・・・・炎天・・・炎天の海

よし、これで行こう。

 

 次に広瀬直人。

 広瀬先生の代表句は

  秋冷の道いつぱいに蔵の影

ここから先生への挨拶をすべく、連想を展げました。

 道いつぱい・・・・狭い道・・・・身の幅・・・・ほどの道・・・・身の幅ほどの径

これをつないで

 

炎天の海へ身の幅ほどの径

 

自由題はこうしてすぐ完成しました。「海の日」と「広瀬直人先生」への挨拶句です。

 

 しばらくたって、詳細な案内が届き、そこに「燕の子」という兼題が書かれていました。

 「燕の子」。これは難しかったです。

 何故かと言うと、燕は空を飛び、川面を掠め、岩場を反転し、街に憩いという具合に、背景を選びません。

 ところが子燕は家に貼りついています。巣の中でぎゃあぎゃあと餌を求めて朝から晩まで大きな口を開いて啼き叫んでいるばかり。

 どうしても燕の子と限定されると、子燕自体を詠むか、その巣のある家もろともに詠むか。あるいは親の献身的な愛を詠むか。

 

 そんな具合に大変限られてきます。それでも何とか三〇句位作りました。

 

せはしなきつばくらの子の甘え啼き

どの家の倉も土落ちつばめの子

畳屋に一人留守居やつばめの子

から松に風のひと日やつばめの子

子つばめや水に始まる朝仕度

などなど。

 

 しかし、どれも何処かで誰かが、あるいは自分がいつか作ったような句ばかり。燕の子の常識を抜けていません。

 試みに歳時記を幾つか見てみました。するとやはり似た傾向ばかりでした。けれども、さすがに素晴らしい句もあります。

 

燕子の啼けばさみしき留守居かな  ゆや女

 

 これが家と燕の子の関係では一番心ひかれる句でした。否、これに尽きるとまで感服した句です。多くの歳時記編集者もそう思ったのでしょう。幾つかの歳時記に掲載されています。

 その他の歳時記を当っているうちにとんでもない句を見つけました。

 

真つ暗な幾夜を経たる燕の子    広瀬直人

 

 なんと今度の俳句王国の主宰の句です。

 これは実に名句です。家と燕の子の関係でなく、燕の子の<いのち>そのものに肉薄しているではありませんか。そしてそこに作者自身のいのちも投影されています。

 

 わたしはこの時点で俳句を<作る>ことを捨てました。その代わり偶然の出会いの可能性に賭けたのです。つまり俳句が向こうから転がりこんでくるのを待つことにしたのです。

 

 たまたま、同窓会名簿がわが家に届きました。そこでそのまま

 

同窓会名簿届きぬつばめの子

 

とまとめたのです。

 同窓会名簿とつばめの子の出会いに果たして俳句としての妙味があるかどうか。その判断は当日の出演者や広瀬先生に委ねることにしました。

 

 ですから、俳句王国には

 

同窓会名簿届きぬつばめの子

炎天の海へ身の幅ほどの径

 

の二句を投句したのです。

 

 日は流れ、航空券も届き、いよいよ本番の日が近づいてきました。

 何しろ、気が小さく、人見知りの激しい、言いたいことも口に出来ない質のわたしです(嘘を言うなという声も聞こえますが・・・)。当日が近づくにつれ次第にプレッシャーを感じてきました。

 土壇場になれば、えい、ままよと開き直れるのですが、それまでの期間。これが大変です。

 毎年ソロ・リサイタルをされる演奏家に聞いても同様のことを言われます。ましてや素人のわたしが緊張しないはずがありません。

 

 そして、いよいよ七月十九日。松山へ向かう日。生放送の前の日です。小牧空港からホッカー50という小さな小さなプロペラ飛行機で梅雨雲の上を一路松山へ向かいました。眼下を見下ろすと、山頂から次々に雲が湧いて、なかなか興味深い景色。

 松山市は中心に城山があり、道路を市電が縦横に走るという風情のある街でした。

ちょっと岐阜市に似ています。

 

 俳句を革新した正岡子規、その薫陶を受けた高浜虚子と河東碧梧桐の出身地で近代俳句誕生の地です。

「俳句王国」が松山局で制作される理由もここにあるのでしょう。

 空港に降り立った時は正午過ぎ。指定されたホテルに向かう途中の料理屋で昼御飯を食べながら、緊張と暑さでからからの喉を麦酒で湿らせました。

 

 ホテルはお堀を隔てて目の前がNHKというとても便利な場所。松山駅から道後温泉に行く途中にあります。

 スケジュールは以下の通り。

 

十九日

16:30 出演者集合 顔合わせ・打ち合わせ

17:00 スタジオにてリハーサル

18:30 夕食・親睦会

 

二十日

8:45 出演者集合

9:45 カメラリハーサル

11:00 本番

11:53 終了

12:15 出演者昼食会

 

以上で全日程が終了です。

 

出演は司会がNHKの鈴木桂一郎アナウンサー。

アシスタントは俳句界のマドンナ、俳人の大高翔さん。

主宰が「白露」主宰の広瀬直人先生。「白露」は飯田蛇笏・龍太親子の「雲母」を引き継いだ名門結社。

ゲストが声優の白石冬美さん(「巨人の星」の星明子の声など多数)。

その他わたしを含めて五名の出演者。

 

青森の船水ゆきさん、神奈川の石田わたるさん、愛媛の山内功さん、兵庫の岡崎淳子さん、そして愛知の三島広志。

 

以上九名。鈴木アナ以外は俳句を投句します。

 

 会議室での最初の顔合わせ。

 今回の撮影の現場をしきるのが電話を下さったSさん。彼女からいろいろな説明がありました。

「番組の内容に関しては皆さん既にテレビで御覧になっておられると思いますから細かいことは申しません」

「あのー・・・・」

おずおずと手を上げるわたし。

「わが家ではBS映らないんで、未だ見たことがないんです。内容が全然分からないんですが」

「えっ!」

一瞬凍りつく室内。

「見たことがないって、そんな方は初めてですよ」

信じられないという顔のスタッフ一同。

予習をしてこなかったことに恥じ入る小心なわたし。

ともかく、自己紹介をして簡単な打ち合わせ。

スタジオでは撮影用のセットが作られているので、各人席に着き、本番の冒頭の部分の打ち合わせと練習。

 

「船水さんは青森からお越しですね。青森と言えばそろそろねぶたの季節ですが、地元ではすでに盛り上がっていますか」

「はい、地元ではねぶたの製作真っ最中です。もうみんな待ち遠しくてたまりません」

「と、こんな具合にすすめていきますね」と鈴木アナ。

 

 こうして順に本番に備えての挨拶と質問を続けていきました。

 その時はざっと済ませたのですが、夜の会食の際にもう一度鈴木アナから質問があり、いろいろ話し合い、結局、というか当然と申すべきか最終的にまとまったのは本番前のリハーサルでした。

 船水さん以外の方はざっと次のよう。

 

「神奈川の石田さんはどんな俳句を目指しておられますか」

「現在は市役所に勤めています。しかし農村に住んでいるのでゆくゆくは生活に根ざした俳句を作りたいです」

と公務員らしく実直に答えられました。話の上手な方です。

 

「どう言うきっかけで俳句を始められましたか」

と尋ねられたのは地元愛媛の山内さん。いかにも田舎の先生という味わい。

「退職記念の旅行で啄木の渋民村を訪れたとき、初めて俳句を作り、それ以来親しんでいます」

 

「俳句を詠むこともさることながら、人の句を鑑賞するのが好き」

と言われる岡崎さんは兵庫から。上品なご婦人。

「最近、今日の主宰の広瀬先生の「早苗四五本挿すように置くように(表記不明)」の句に大変ひかれました。本当に農民の気持ちになって作られておられます」

 

「三島さんは俳句に対してどんな理念をお持ちでしょうか」

「ある歳時記に稲刈りのことを風情のある作業というような書き方がしてありました。しかし、それはおかしい。その著者は大変な労働である農作業を傍観者として句の材料としてしか見ていないのではないか。傍観者ではない俳句を作りたいですね」

「全く賛成ですね」

と主宰。

「こんな感じでいきましょう」

と鈴木アナ。

 

 次に二句選んだ俳句を読み上げる練習。

 最初に自分の名を名乗ってから、選んだ俳句を二回繰り返して読み上げると言う指示がありました。俳句は過去の放送で使われたものを利用しました。本番の句はまだ見せてもらえません。

 過去の放送で用いた句を使って、選び、講評するという練習もしました。本番さながらの取り組み。

 

 簡単に講評などをしたところでリハーサルはおしまい。あとはぶっつけ本番です。

 なにしろ、当日わたし達が選ぶべき俳句は本番前十分に渡されるのです。選と講評は全てアドリブ。これは結構きついものがあります。

 

 初日のリハーサルの後は、親睦会。互いに初対面ですから緊張を緩めるために気楽な会食が設けられ

ていました。素人をテレビに出すのですからスタッフの人達の苦労も並々ならないものがあることでしょう。

われわれは流れに乗ればいいのだから楽と言えば楽です。

 

 以前、NHK俳壇という教育テレビの番組に出たことがあります。主宰は黒田杏子先生でした。

 その時感じたのは、司会者というのは確かにプロの仕事人だということです。その折も俳句を読む練習をしただけで、後は全てアドリブだけでした。それでも司会者がきっちり三〇分にまとめて終了し、一切の編集は不用でした。

 

 前回は自分の句を投ぜず、全国から送られてきた俳句を選んで講評することと、生放送ではなく録画であることが今回とは大きな違いでした。

 今回は生放送で自分の出した句の良し悪しが晒されるのです。

 

 親睦会には声優の白石冬美さんも間に合って参加されました。その席で「巨人の星」の明子姉さんの声や、「明日のジョー」のサチという女の子の声を惜しみなく実演。アニメファンなら垂涎もの。

 

 親睦会の後は二次会へ。

 

 実は親睦会の後、松山在の夏井いつきという俳人と会って、夜の松山で飲む約束をしていました。以前から互いのことはよく知っていながら、未だ一度も会ったことがなかったので、この機会に会うことにしたのです。しかもどうせなら飲める夜ということで。

 

 しかし、NHKの方がいつきさんのことをよく知っているので「いつきと会うなら、彼女も合流しよう」

ということになり、わたしといつきさんのデートはまたの機会におあずけになってしまいました。

 二次会に参加したのは鈴木アナと「俳句王国」のドン村重部長、わたしといつきさんと一緒に出演した神奈川の石田さん、さらにこれは重大秘密なのですが、奥さんやお弟子さんからお酒を禁じられている広瀬主宰。

 

広瀬主宰の略歴

ひろせ なおと 昭和四(一九二九)年~。山梨県一宮町生れ。本名直瀬。東京高等師範学校文化二部卒。戦後、飯田蛇笏に師事、「雲母」に投句。同三六年「雲母」同人。蛇笏没後は飯田龍太に師事し、平成四年「雲母」終刊まで編集に従事。同五年、「雲母」後継誌の「白露」を創刊主宰。自然と生活に根ざした風土の世界を的確に詠むところに特色がある。句集「帰路」「日の鳥」「朝の川」、評論集「飯田龍太の俳句」など。

 

 さて、当日の句は以下の通りです。

 兼題と自由題の二回にわたって句会を行いました。テレビに映っていることを忘れて、けっこう忌憚無く意見を言い合ったものです。

 

兼題「燕の子」

燕の子店の奥にもゐるといふ  石田

人工島生まれの子燕五つの嘴(はし)  岡崎

燕の子姿隠して親を待つ  船水

同窓会名簿届きぬつばめの子  三島

子燕や園児しずまる給食時  山内

燕の子わかれも告げず発ちにけり  白石

子燕のそれぞれのくち菱形に  大高  

燕の子飛び立つそこに天守閣  広瀬

 

自由題

扉あけ白きもの出す冷蔵庫  船水

炎天の海へ身の幅ほどの径  三島

球児には一重瞼の似合う夏  白石

薔薇散るを待ってアトリエ毀されて(こわされて)   岡崎

躊躇して夏草に入るブルドーザー  大高

敏感に日の差しわたる単帯  広瀬

甚平にまずは朝刊読むとせり  石田

天をさすアガパンサスの妣の彩(ははのいろ)  山内

 

 放映の内容はあえて細々とは書きません。しかし、テレビを御覧になった方からたくさんメールをいただきました。その幾つかを紹介して稿を終えたいと思います。

 

 いつもの先生なのに、テレビを通して見るのはすごく不思議な気分でした。 あれは台詞とか全然用意してない番組ですよね?

 ・・・・そうです。ほとんどアドリブ。

 

 先生の俳句、けっこうポイントとってましたね。さすが。俳句の番組を見た事がなかったので、あんなふうに進行するんだ、と感心してました。 (批評する間)俳人の名前を出さないところがスリルですね。うちの父は先生を見て、「指圧師というより大学の先生に見える」と言ってました。

 ・・・・大学の先生よりモデルか俳優と言って欲しかった(笑)。

 

 (拙句「炎天の海へ」の句に関して) 広瀬先生と三島さんのやり取り、「や」 と「の」 あつかい、いつもながらの静かさの中に、はっきりと答えを出され感心いたしました。

 ・・・・この方も以前、俳句王国に出演されました。

 

 今日、Eさんが俳句王国のビデオを持ってきてくれましたので一緒に見ました。さすが三島さん、最初の講評の後で思わず二人で拍手をしてしまいました(これって変?)。
 なんとなくいいではなく、きちんと理論的でかつ具体的で人の気持ちを汲んだ講評。それに(いつもそうですが)、とても素敵にうつっていました。

 ・・・・ここまでお誉めいただくと、恥ずかしいです。

 

 とても落ち着いていたように見えましたがきっとあれでもあがっていたんでしょうね。高点句もあってとても良かったです。いつもは主宰と芸能人ゲストが軽口をいいあうことはあってもメンバーが和気藹々とした感じはあまりないと思うのですが今回はいい雰囲気でしたね。他のみんなも落ち着いていたようで見ているほうも安心して見ていました。たまに”ああ気の毒”という人もいてどきどきするのです。

 燕の子 の 保育園の句に点が集まっていましたが保育園で給食という時間は重要な指導の時間で保育者にとってはとても静かな時間とは言えません。最も忙しく騒々しい時間なので共感できませんでした。

でもそれこそ外部の人にしてみれば園庭に子どもの声がしないので静かに感じるのでしょうね。

 とてもいい句なのに三島さんが採らないからきっと 炎天の の句は三島さんの作だろうと思っていました。まぶしい海と真っ青な空が目の前にぱっと広がる一瞬が感じられて私もいい句だと思いました。

 ・・・・とても丁寧に見てくださいました。見かけだけでなく内容も踏みこんで。

 

 バッチリ見ました!本当にテレビ映り良かったですが、普段見た事無いような服着て床屋に行かれたんじゃー当たり前ですよね。俳句って案外簡単かも!?(って詠めませんけどね)

 自由句の「炎天の…」の句は、子供の頃に住んでた清水で毎日の様に行っていた海岸の事を思いださせ良い句でした。正にあんな感じ。また行って見たくなりました

 ・・・・俳句を全く知らない若い女性の感想です。

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後記
 広瀬先生、鈴木アナウンサー、大高さん、船水さん、石田さん、山内さん、岡崎さん、そしてNHKの皆さん、出演を薦めて下さった黒田杏子先生。

 本当に貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。

 この稿を書き終えた日、くしくも立秋でした。身辺を過ぎる風も暑いながらどことなく秋の気配。

 残りの夏、惜しみながらお過ごし下さい。

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游氣風信 No,150 2002,61 宮澤賢治  自費出版した頃 その3  

 先ほど述べたように、本を出版した年の前後四年間、賢治は生涯で唯一定職に就いていました。農学校の教師です。随分充実した日々を送っていたようで、賢治にとって最も高揚した楽しい期間だったことでしょう。当時の教え子達の賢治を慕う様子は今日も教育者から注目を浴び、教師賢治が評価されています。

 

 しかし賢治はたった四年で退職してしまいました。

 理由は校長の人事問題などの人間関係のしがらみであるとか、生徒たちに百姓になれと言っておきながら自分が給与生活者であることに矛盾を感じたからとも言われています。

 

 それは1926年(大正十五年)、賢治三十歳の春のことでした。

 

 春 (作品第七〇九番)

 

陽が照って鳥が啼き

あちこちの楢の林も、

けむるとき

ぎちぎちと鳴る 汚い掌を

おれはこれからもつことになる

     春と修羅 第三集より(未出版)

 これからは農民として生きる、ぎちぎちと鳴る荒れた手を持つのだという宣言ですが、「もつことになる」と言う表現は高揚した決意とは程遠く、成り行きでしかたなくなるのだとも読める気がしてなりません。

 

 農村での実践。そこに自ら飛び込んだ理由の一つには「春と修羅」「注文の多い料理店」の二冊の出版が社会からも文壇からも全く評価されなかったことも少なからず影響しているのではないでしょうか。

 

 反発していた父親に対して文筆で立つことを認めさせたかったことでしょう。

 しかしそれもかなわず、といって三十歳にもなってぶらぶら引きこもっている訳にはいきません。 社会的に評価されつつ、父からも独立すべく、考えた末に飛び込んだのが農村。

 

 そう考えると農村へ入るのはやや投げやりとも取れます。しかし、その活動振りは決して中途半端なものではなく、まさに命を削るものでした。

 

 農学校の教師を辞して以後、賢治は農村へ入り、有名な農村活動に入ります。

 農村に暮らすと言っても生活拠点は宮澤家の立派な別宅です。まだまだ親離れできません。建物は現在、ほぼ当時のままの姿で花巻農業高校に保管されています。

 賢治はそこで村の若者を集めて「羅須地人協会」(らすちじんきょうかい)を起し、農業のための科学や化学、生活芸術の講義と実践を始めます。

 同時に農民のための無料肥料設計相談に東奔西走しました。

 

 農村へ入るときの動機の真意はともかく、そこでの彼の活動は必死なものでした。

肥料設計のお礼も受け取らず、土地にあう肥料や米の品種などを的確に指導していったのです。それは彼が盛岡高等農林で土壌学を研究し、その地方の地質を知悉していたからにほかなりません。

 

 しかし、例年冷害に苦しむ東北です。必ずしもうまくいくとは限りません。

 三十二歳の夏、風雨の中、稲が倒れそうになり、農民を励ますために農村を駈け回り、ついに肺浸潤を起し実家へ戻ります。学生時代に病んだ結核の再発でした。

 こうして賢治の農村活動は健康上の理由で都合二年で挫折しました。

(戦争へ向かう時代背景から若者を集めた活動に官憲の目が光り出した事も少なからず影響しているとされています)。

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

 

は、この挫折から生じた健康な身体への切なる願いにほかなりません。

 以降、賢治は病気と戦いながらの生涯を1933年(昭和八年)、三十七歳で終えます。

 

 賢治の死後、多くの人々の努力で賢治の作品が世に出されます。

 賢治の身体は滅んでも、その生命は長く生き続けています。

 賢治が「春と修羅」の「序」に書いた

 

ひかりはたもち その電燈は失はれ

 

とは、まさにこのことだったのかもしれません。電燈とは身体であり、ひかりとは彼の遺した精神です。

 

後記

 毎週届くメールマガジンに「安心!?食べ物情報」という食品情報を丁寧に解説したものがあります。

 そこに喫煙率が紹介してありました。よそからのリンクのようです。以下に紹介させていただきます。

 ◇喫煙者率の推移◇(単位%)

    男女計 男性   女性

1965年 47.1  82.3  15.7

1970  45.6  77.5  15.6

1980  41.4  70.2  14.4

1990  36.7  60.5  14.3

1995  36.3  58.8  15.2

1998  33.6  55.2  13.3

http://www.mainichi.co.jp/eye/debate/07/theme.html

 これを見るとわたしが高校生の頃は実に八割近くの男性が喫煙していたようです。

しかも当時、名鉄電車の中は禁煙ではありませんでした。今思い返しても信じられません。

 

 賢治が教師時代、喫煙していた生徒を見つけると、彼は叱ることはせず、黒板にびっしりと化学式を書き、ニコチンが如何に怖いものであるか説明をしたという逸話が残っています。

 科学者賢治の面目躍如の逸話ですが、現在、タバコの実害はニコチンではなく、煙に含まれる過酸化水素(オキシドール)つまり、活性酸素であることが証明されています。タバコの中のニコチン程度では身体への影響は少ないらしいのです。むしろニコチンは脳内の神経伝達物質として作用することも分かっています。

 

 それで、喫煙者にはパーキンソン病やアルツハイマー病などの罹患率が低いとか。

 といって、無理に喫煙を薦めるものではありません。

引用させていただいたのは以下のメールマガジンです。賢治の詳しいメールマガジンも書いておられます。

「安心!?食べ物情報」

http://food.kenji.ne.jp/

「宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」

http://why.kenji.ne.jp/

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游氣風信 No,149 2002,5,1  宮澤賢治  自費出版した頃 その2

  前に書いたように、この本は1924年(大正十三年)四月、賢治二十八歳の時に東京の関根書店から発行されました。四六判320ページ。定価二円。しかし実際には賢治の自費出版で1000部出したそうです。

 

 もちろん、地方の無名詩人の本など売れるはずはなく、結局は知人などに無料で配られ、処理できない本は神田の古書店に多量に流れたようです。

 しかもタイトルの唐突さから

 

  「春と修養」をありがとう

 

というタイトル誤読の礼状が届いたという逸話もあります。

 本の冒頭の「序」は賢治の宣言です。

 賢治の思想を詩の形式で端的に表しています。

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

以下略

 一読して頭が痛くなるものです。それが宣言の宣言たる所以。ここで賢治は自分の作品は

(すべてわたくしと明滅し

みんなが同時に感ずるもの)

とか

 

たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

記録されたそのとほりのこのけしきで

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるように

みんなのおのおののなかのすべてですから)


などと述べて、ますます読者を混乱させてくれます。

 

 ここで賢治が宣言しているのは自分にとっては心に映るもの、つまり心象こそが全てであり真実でるということです。現実とは心に反映したものであり、それ以上のものではなく、またそれらは自分だけでなくみんなが同時に感じるものだと言うのです。

 

 賢治は自分の手元に残った「春と修羅」の背表紙の詩集という文字をブロンズの粉で消したと言われています。最初から背紙に詩集といれる予定はなく、何かの間違いで印刷されてしまったようです。ブロンズで消すということは、賢治にとってこの作品集は詩集ではないという謙遜と自負がないまぜなった行為ではないでしょうか。

 

 心象こそ実在というのはひとつの主義であり、それを正しいとか間違いであるとか言うのは意味の無いことで、賢治はそう思ったと宣言したのです。

 ただ、賢治の作品は詩も童話もそのようにして書かれていることを知ることは大切なことでしょう。

 

 「春と修羅」には高校の教科書にも取り上げられている有名な「永訣の朝」を含む「無声慟哭」の一連や今は観光地として有名な小岩井農場で作った長大な詩のの一連が含まれています。

 

  永訣の朝

 

けふのうちに

とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から

みぞれはびちょびちょふってくる

(あめゆじゅとてちてけんじゃ) 

 

 妹の臨終の様子です。

 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」とは、「霙をとってきてください」という意味。

 妹が死の床で懇願するのですが、賢治はそれをむしろ自分を励ますために依頼してくれたと捉えます。

 

 身近な人の死を詠んだものとして最も素晴らしい作品の一つとされています。多くの方は高校の教科書で習われたことでしょう。

 

 小岩井農場という詩は約900行という大変に長い詩です。賢治はベートーベンの田園交響曲を念頭に置いてこの作品を作ったとも言われています。

 最寄の駅から小岩井農場までゆっくりと歩く。その歩みの速度で詩が展開していきます。風景と思索と幻想が絡み合う不思議な作品。パート一から九までありますが、五六八は存在しません。

 

 ここではパート九の最後の方の有名な部分を紹介します。

 農業に関心の深い賢治は、当時最も西欧化された近代農場の小岩井農場をたびたび訪問しています。

 

  小岩井農場 パート九

前略

  ちいさな自分を劃ることのできない

 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで

もしも正しいねがひに燃えて

じぶんとひとと萬象といっしょに

至上福しにいたらうとする

それをある宗教情操とするならば

そのねがひから碎けまたは疲れ

じぶんとそれからたったもひとつのたましひと

完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする

この變態を戀愛といふ

そしてどこまでもその方向では

決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を

むりにもごまかし求め得やうとする

この傾向を性慾といふ

すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に從って

さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある

この命題は可逆的にもまた正しく

わたくしにはあんまり恐ろしいことだ

けれどもいくら恐ろしいといっても

それがほんたうならしかたない

さあはっきり眼をあいてたれにも見え

明確に物理學の法則にしたがふ

これら實在の現象のなかから

あたらしくまっすぐに起て

後略

 

 こう結論した賢治はその後の人生を実際に求道的に生きることになります。時に賢治二十五才。

 

 賢治の意図を無視して、純粋な詩集として見るならば、妹トシの死を悼んだ「無声慟哭」の章が最も優れていることに異論はないでしょうが、短詩にも見るべきものが多く含まれています。これら短詩に関しては以前に「游氣風信」で取り上げています。

 賢治は同じ年の十二月にもう一冊自費出版をしています。

 イーハトヴ童話集「注文の多い料理店」です。

 

 イーハトヴとはなんでしょう。

 最近、旅行の本などで用いられるようになりましたから、ご存知の方もおられるでしょう。それは賢治が名付けた架空空間としての岩手県です。

 賢治は同様に、花巻をハナムキヤ、盛岡をモリーオ、仙台をセンダードなどと名付けていました。これらの発音はザメンホフによって人工的に創られた世界共通語エスペラントに拠っているとされています。賢治はエスペラントにとても関心を抱いていました。

 

 イーハトヴの説明は初版本刊行の際に作られた宣伝文に詳しく書かれています。

 

 イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴァン王国の遠い東と考へられる。

 実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもつて実在した ドリームランドとしての日本岩手県である。

 

 詩の場合と同じで、童話も心象世界であると穏やかに宣言しています。

 以下は余談です。

 

 イーハトヴという呼び名は今では岩手県の旅行案内などにも使われるようになり、結構市民権を得ているようですが、わたしは地名に自分だけの名前を被せる行為から、神戸のサカキバラ少年を思い浮かべました。サカキバラ少年も家の周囲の池などに自分独自の愛称を付けていたのです。

 いえ、順序が逆ですね。サカキバラ少年のニュースを聞いて賢治を思い出したのです。

 どちらも現実の場所と心象中の場所を重ねて持っていたようです。両者の違い、それは賢治の心象世界が外の世界に開かれていたのに対して、サカキバラ少年の世界は閉じていたということでしょうか。

 

 さて、元に戻ります。

 イーハトヴ童話集「注文の多い料理店」は東京光原社刊でこちらも1000部を発行。

 現在光原社は岩手県盛岡市で賢治や石川啄木関連のみやげ物を販売していると思います。

 

 二十数年前、わたしは賢治縁の地、岩手県花巻市や盛岡市、小岩井農場や北上山地を訪問しました。

 

 その時、盛岡市内の光原社の中庭で珈琲を飲みながらゆったりと時間を過ごしたのです。そこには賢治の碑があり、塀には賢治の言葉が書きこまれていて独特の雰囲気を醸しだしていました。多分、現在も同じように存在していることと思います。

 

 イーハトヴ童話「注文の多い料理店」には表題の「注文の多い料理店」や「どんぐりと山猫」「かしはばやしの夜」など賢治の代表作、それどころか日本童話の代表作となるべき数々の作品が収録されているにも関わらず全く売れませんでした。

 

 「注文の多い料理店」という変な書名ですから繁盛する料理店の経営法と間違えて買った料理屋さんが、返品に来たと言う話もあったとか。ありえそうな話です。

 先ほどの宣伝文にはさらに以下のように続けます。

 

この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終わり頃から、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとってゐる。

この見地からその特色を数へるならば次の諸点に帰する。

一、 これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によつて純真な心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。

二、 これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であつて、決して畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。

三、 これらは決して偽でも架空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。

四、 これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光との中からつややかな果実や、青い蔬菜と一緒にこれらの心象スケッチを世間に提供するものである。

 

 ここに賢治の童話を書くという目的と方法が明確に書かれています。アドレッセンスとは思春期のことです。賢治が小説を志すことなく、童話に関心を深めたのは、読み手の純粋性を強く期待したからでしょうか。

「卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」という所にそれが読み取れます。

以下次号

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游氣風信 No,148 2002,4,1  宮澤賢治  自費出版した頃 その1

 今月は久しぶりに宮澤賢治について書きます。

 約六年前、賢治生誕百年を記念した行事が世間を席巻しました。

 当時、やや大き目の書店に行くと宮澤賢治全集や賢治に関する評論など賢治関係の書物に溢れ、ブームに間に合わせた写真集などもたくさん出版されました。

 

 デパートの展示場では研究家かコアなファンしか興味の無いような賢治の遺品や原稿などの展示。

 

 さらに驚くべき事に、大手の映画会社からは賢治の自伝映画が二本も配給され、テレビでも特別番組が連日のように放映されるるという喧騒。

 いったい世の中にそんなに賢治ファンがいたのかと驚いたものです。

 

 そもそも賢治の愛読者というのはある種の含差を抱き、何かの折に

「実は若いとき賢治をよく読みました」

「ちょっと影響受けたんですよね」

とポツリとこぼす、そんな感じだったのです。

 それがあの大騒ぎ。とても不思議な気がしたものでした。

 

 最近、ふと思い立って、改めて賢治関連の本はどうなっているか調べてみました。

調べたと言ってもその当時、書店の一角を占めた賢治コーナーが今もあるかどうか、地元の大きな書店に確かめに出かけただけですが。

 結果は予想通り。

 あれほど溢れていた賢治関連の本は書棚に数冊あるだけで、あとは今人気のハリー・ポッターやその亜流の本で埋め尽くされていました。流行の本を販売すると言う書店にとって極めて健康な商魂主義。

 わたしはその当然過ぎる様子を確認、安心して帰路に着いたのでした。

 

 安心した理由は先ほど述べたように、賢治の思想はそれほど大々的に、声高に読み上げるものではないし、彼の人生はいわゆる偉人と呼ぶ傾向のものでもありません。

 ただ、賢治の多面的な活動が、いろいろな角度から今日的意味を模索されているのは事実です。

 

 たとえば環境問題。

 賢治は当時から生態学的なバランスを考慮していました。それは宗教的な食の戒律や農学的な自然の環境バランスなどから導かれたものです。

 

 あるいは教育。

 賢治は四年間、農学校で教師をしていました。その独特の教育方法は現在、一部の教育者から注目され、その理念を再現しようと言う試みは各地でなされています。

 

 また、文学的価値。

 賢治は生涯をアマチュアで過ごしたために、詩壇や文壇からは離れた存在でした。

というより無視された存在でした。であるがゆえに自由に作品を展開し得たと言えるでしょう。作品論や創作論に関心を持たれています。

 

 思想家としての一面。

 農民芸術概論という文章が残っています。そこには芸術を核とした独特の思索が展開されています。

 

 これらさまざまな賢治の側面をさまざまな研究家や実践家が深く研究していますので多方面からの評論が生れたのです。

 それらが生誕百年に合わせて一斉に出版されたとも言えます。

 そこに賢治の魅力と見えにくさがあります。

 では、賢治とは一体どんな人だったのでしょうか。

 宮沢賢治の実家は岩手県花巻のお金持ち。町の多くの有力者は賢治の親類縁者で占められていました。銀行も議員も専売局もそうです。

 

 賢治の実家は大地主で広大な農地を小作農に貸し、彼らから年貢を集めることで潤っていました。同時に古着屋と質屋もやっていましたから、凶作で年貢の払えない農民は結局身の回りの道具や衣類を宮澤家に持参し、そこからお金を借りることでかろうじて生計を立てることになっていたわけです。

 米が豊作でも凶作でも宮澤家は潤うシステム。

 賢治はそのことを苦にしてある知人への手紙では

「社会的被告」

とまで言っています。

 

 そんな何不自由なく暮らせるお金持ちのお坊っちゃんが、父に対するコンプレックスを乗り越えるために芸術と宗教、そして生来の思いやりの深さから貧しい農村の奉仕へ走らせたのです。父に相対する存在としての農民側に立つ。ここを賢治は避けて通れなかったに違いありません。

 

 どこの誰もが乗り越えようとするエディプス・コンプレックス。

 これが賢治の生涯をとりわけ大きく規定したとされています。

 そして、農村への奉仕が後に賢治を偉人伝中の人物にすることになります。

 また、そうした農村への思いと行動が挫折した時、宗教的祈りの世界に自らを慰めるために手帳に書き留めたため息のような小品が「雨ニモマケズ」。

 これが賢治の思いとは関係なく耐乏精神を歌い上げたものと誤解され、さらに戦争直前の日本人の心情に合致したために、軍国教育に利用され有名になったということなのです。

 また「雨ニモマケズ」の清貧思想は戦後の貧窮生活を余儀なくされた時代にも重宝がられました。

 わたしが小学校の時、伝記を読むのが流行りました。

 信長や秀吉、家康などの戦国の武将や、ナイチンゲールや野口英世などの医学関係、キューリー夫人やアインシュタインなどの科学者、ワシントンやケネディなどの政治家。

 その流れで賢治の伝記を読みました。小学生の時は伝記中の賢治の自己犠牲的な無私の生き方に感動したものでしたが、その後さまざまな研究書を読むにつけ、賢治は決して偉人伝中の人ではないと思うようになりました。

 そしてついには生き方よりもむしろ賢治の作品の面白さや、生命観、自然観などに関心を抱くようになったのです。

 厳しい言い方をするなら、生誕百年の喧騒は旺盛な商業主義と町起しが巻き起こした一過性の花火だったのです。

 賢治は生涯を無名の詩人、童話作家として過ごしました。

 しかし決してそれで由としていた訳ではありません。

 出版社に持ち込んだり、著名な詩人を訪ねたりしています。

 さらには二冊の本を自費出版までしています。

 今回はそれらの二冊に注目して見ましょう。

 

 宮澤賢治(明治二九年から昭和八年)が生前唯一発行した詩集は「春と修羅」という題でした。賢治二十八才。

 

 出版は大正十三年四月のことです。作品は大正十一年と十二年に書かれたもの。当時、賢治は岩手県稗貫農学校の教師でした。作品を書いた期間は四年間奉職したうちの前半二年に当たります。

 賢治が働いてお金を得て、親から経済的自立できたのは三十七年の人生で実にこの四年間だけです。後はずっと父親に生計を依存していました。お金の無心の手紙も多数残っています。

 

 農民からの搾取によって成り立つ家業を「社会的被告」と恥じていた賢治にとってそれは大変皮肉なことでした。

 

 出版した本のタイトルは「春と修羅」。「春」と「修羅」の組み合わせはいかにも唐突です。

 「春」はもちろん季節の春。東北岩手の寒い冬を通りぬけた安堵の季節、さらには木々が芽ぶき、花が咲く、いのちのうごめき始める勢いのある季節です。

 それに対して「修羅」とは重い言葉。仏教用語で阿修羅のことです。神々に争いを挑む悪の神。一方仏教の守護神ともされます。闘争の象徴。

 

 「春と修羅」とは平穏と闘争の意ととれます。実際、賢治は現実世界に別の世界を幻想のように重ねて見る傾向があったようです。つまり二つの世界「春と修羅」を同時に生きていたと作品から推察されるのです。

 詩集の中にも「春と修羅」と名付けられた作品が収録されています。

 

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめんの諂曲模様

(正午の管楽よりもしげく

琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)    

中略

    まことのことばはうしなはれ

   雲はちぎれてそらをとぶ

  ああかがやきの四月の底を

 はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

以下略


諂曲(てんごく)とはこびへつらうこと。

 四月というすばらしい季節の中にあって、心の中の修羅を持て余している賢治の心情が吐露されています。

以下次号

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游氣風信 No,147 2002,3,1  木津川計先生再び

 先月号では日本の高度成長を支えた世代の人々に愛された歌についての面白く含蓄ある考察を紹介しました。

 

 今の高齢者たちが子どもの時、

 

「身を立て 名を上げ やよ励めよ(仰げば尊し)」

 

と立身出世を目指すように世に送りだされ、

 

「しばしも休まず つち打つひびき(村の鍛冶屋)」

 

と、急き立てられるように働きました。

 時に故郷を懐かしく思い出しても故郷は

 

「こころざしを果たして いつの日か帰らん(故郷)」

 

というように志を果たして帰る場所。子ども達は帰るところがありません。

 

 こうして働くことのみが美徳であった世代が今老境を迎えている。先月号はこんな内容でした。

 

 それはラジオで聞きかじった木津川計先生のお話を記憶だけに頼って紹介したもので、正確さに著しく欠けている心配がありました。

 ところがほどなく木津川先生ご本人からお手紙が届き、「游氣風信」の内容はおおむね正しいとお墨付きをいただくことができました。

 

 なぜ何の面識も無い木津川先生からお墨付きがいただけたか、その理由は以下の通りです。

 

 わたしは「游氣風信」に紹介した本や新聞記事などは礼儀として極力本家本元に送付して、引用させて頂いた旨の報告をしています。住所が分かっている時は作者に直接、そうでない時は出版社などに気付で送ります。

 

 先月号で参考にさせていただいた先生のお話は大阪の放送局から電波に乗って運転中のわたしの耳に届いたものですから、NHK大阪放送局気付で木津川先生宛に送ったのです。

 するとご丁寧にも木津川先生ご本人からお返事が届きました。

 

 今までにもそうしたことはありましたが、そんな時は大変うれしいものです。

 木津川先生のお手紙は生でお見せしたいほどの見事な筆跡。いかにも作家という書体で、永六輔さんにも似た感じです。

 

 その手紙の中で先生は

「前後少し違うところもあるが大方はこの通り」

と、書いてくださったのです。

 これがわたしがお墨付きと威張っている所以です。

 

 さらにご親切にもご自身の書かれた岩波書店からの共著「定年後」(1999年1月刊)のコピーを送ってくださいました。

 

 先月号は私見と先生のご意見がないまぜになっていて、木津川計という学者にとっては実に迷惑なこと。場合によっては業績を汚すことにもなりかねません。

 「游氣風信」はわずか200部ほどの治療室便りとは申せ、そんなことになってはいけないので改めて先生のご意見をご紹介したいと思います。

 

 まずは木津川先生の略歴

木津川 計(きづがわ けい)

 1935年生まれ、大阪市立大学文学部社会学科卒業。1968年、雑誌「上方芸能」創刊。

 1999年3月まで編集長・編集発行人。

 現在は立命館大学産業社会学部教授。「上方芸能」代表、発行人。

 芸術選奨文部大臣賞選考委員。

 主著に「上方の笑い」(講談社現代新書)「人間と文化」(岩波書店)「<趣味>

の社会学」(日本経済新聞社)その他多数。

 受賞歴に京都市芸術功労賞 京都新聞文化賞 大阪市文化功労市民表彰 第46回菊地寛賞など。

 現在NHKラジオの「木津川計のラジオエッセイ」と「ネットワーク関西」コメンテーターにレギュラー出演されています。

 

 わたしが拝聴したのは「ネットワーク関西」ではないかと思います。月曜の午後3時頃でした。

 先生は鍼や指圧を利用されることもあるそうです。これはわれわれにとって心強いことです。

 

 さて、ここからはコピーを送っていただいた先生の文章を抜粋してご紹介していきます。

 この文のタイトルは以下の通りです。

 

定年前と定年後

 <趣味力>の発見

     ・・・・「無芸退職」にならないために・・・・

 

 ここから後は木津川先生の論文の各章の見出しとその中の重要と思われる文章を引用します。

 それに対してのわたしの一言を※印のあと(三島)として述べます。

 

’企業戦士‘たちの落日           

 高度成長のまっ只中、一九六五年を中心に振り返ってみよう。

 振り返れば、高度経済成長期の一兵卒であった。

 思えば、低賃金によく耐えた。長時間労働に歯を食いしばった。

 耐えきれず、泣きたくなったときも、涙がこぼれないように「上を向いて歩こう」を口ずさんだ。

 趣味にふけり、楽しむいとまなど、およそ考えられなかった。

 戦後日本の資本主義は、だから無趣味な人間を大量に生み出し、無芸大食ならぬ”無芸退職”を強いて、不器用極まる退職後の生活を地上に広げたのである。

              ※

  (三島)木津川先生は高度経済成長を支え、現在定年を迎えようとしている人達に語りかけています。このまま退職してはその後の人生が大変になるとの警鐘です。

 

’禁じられた遊び‘の国、日本

 

  この本の版元・岩波書店が「広辞苑」第一版を上梓したのは一九五五年(昭和三〇)である。<趣味>をどう説明していたのか眺めてみよう。

 

 <趣味> 

1 感興をひき起こすべき状態。おもしろみ。あじわい。おもむき。 

2 美的対象を鑑賞し批判する能力。

 

 いま私たちが使うhobby(実技的趣味)としての意味はまったくない。あるのは、雅趣に富む状態と、それを見分けるtaste(趣味的感性)の意味だけである。

 ところが、手許にある第二版補訂版(一九七六年・昭和五一)では次のような説明になっている。

 

<趣味> 

1 感興をさそう状態。おもむき。 

2 美的な感覚のもち方。このみ。

3 専門家としてでなく、楽しみとしてする事柄。

 

 ということは一九五〇年代から六〇年代まで、ホビーとしての趣味は認められていず、楽しむことを許されていなかったことを意味してもいるのだ。

 かくして、わたしたちの国に、豊かな趣味を持ち合わせた人は育たず、わずかに例外として「趣味人」を寄生させてある種変わり者めいた見方で眺めてきたのである。

                 ※

  (三島)この章では<趣味>がわが国のこの時代では正当に認知されたかったことを年代別の辞書を元に明らかにされています。

 

歯がために金はいる

 

 「人生五十年」もむべなるかな。明治の三〇年代、この国の平均寿命は三十七、八歳といわれた。むろん、乳幼児の死亡率ゆえであったが、「広辞苑」の初版(昭和三〇)は「初老」を「四〇歳の異称」とだけ記して、つれない。

 

 わが国の平均寿命はなお伸び、女性は八三・八二歳、男性七七・一九歳、世界一の長寿国を保っている、と厚生省は九八年八月に発表したのである。「人生五十年」は伝説になり、いまや「人生八十年」時代に突入したのである。

 

 どれほどの楽天家であろうと、しのび寄る老いを五〇代に自覚して、ふと将来の不安に閉ざされるときがあろう。一般的に、老後の主な不安とはどういうものか、を挙げてみよう。

 

1 身体機能の衰弱。 

2 精神機能の衰え。

3 収入の減少。 

4 孤独への予感。 

5 死の恐怖。以上の五つであろう。

 

 年がいくにつれてお金を使うことはないだろうと思っていた。五年前、残せる歯を頼りに差し歯を施したら、きっちり一〇〇万円かかったのにうめいた。「歯がために金はいる」のである。

            ※

 (三島)「歯がために金はいる」とは秀逸な見出しです。 介護も医療も人手が必要です。日本は最も人件費の高い国。本当にお金があるかないかで老後の過ごしやすさは大幅に違ってくるでしょう。

 

 わたしは現在十名ほどの訪問リハビリをしています。過去二十年間100名以上の訪問リハビリをしてきました。その印象からすれば家庭の経済力が介護には相当に影響することは間違いありません。医療費は保険によってほとんど補填されますからいいのですが、ベッドや室内の改造、ヘルパーの手配などは雲泥の差がでます。

 

 介護保険によって随分介護が楽になりつつありますが、やはり経済力格差には目を覆いたくなる部分もあります。特に跡取りのいない自営業の老後の暮らしの厳しさはサラリーマンを勤め上げて十分な年金を得ている方からは想像もできないでしょう。

 国に任せるだけではなく、自覚して老後の経済設計をしなければなりませんが、その日の暮らしでやっとという方がほとんどなのです。それは何故か。次の章がその説明になります。

 

子どもへの対し方・・・ほどこし型から見守り型へ

 

 だから貧しい老人は早く朽ち果てねばならないのか。そうではない訳を述べる。

 いつだって人間は難儀と楽しみを混ぜ合わせて背負ってきたのだ。戦場体験のない戦後第一世代である現在の六〇代は、玉砕の恐怖から免れたのを幸いとするが、高度成長(戦争)の一兵卒として酷使されてきたのである。

 

 謳歌するする青春ももちろんあった。ひもじい経験はなく、「消費は美徳」の風潮に酩酊もした。だが、経済企画庁がまとめた九六年度の国民生活選好度調査によると「自分の老後に明るい見通しを持っている」五〇歳代は二二・七%(男性)に過ぎず、四〇歳代にいたっては十五・四%(男性)でしかない。圧倒的多数の老後を悲観的見通しに追いやる経済大国とはいったい何だ、の疑問は誰にも膨らむ。

 

 定年後の生き甲斐とは、どう言う諸条件に満たされたとき得られるものであろう。

並列するなら、次の六点に尽きる。

 

1 健康

2 経済的ゆとり

3 時間的ゆとり

4 人間的社会的つながり

5 家族の支え

6 張りのある日常

 

 年金の給付は二〇〇一年度から十三年度にかけ段階的に六五歳まで引き上げられるのである。公的年金改革の大枠を決めた九七年の財政構造改革会議はさらに、支給開始年齢を六七歳に、しかも支給額制限で意見の一致を見ているのだ。四〇歳代の大方が暗い見通ししか持てないのも当たり前ではないか。

 

 定年後の生活を経済的に安心して送られるかどうかは、何より政治の責任であること明白としたうえで、個人の自覚と対応もまた必要であることを説かねばならないのがつらい。

 

 「おおざっばな試算によれば、親世代が遺産や結婚資金などの援助に出す総額はざっと年間二五兆円。厚生年金などの年金保険料搬出の総額に匹敵する。親世代はこれだけ貢ぎ続け、老後は子供世代から年金を受けることで収支バランスをとってきた(東大宮島洋教授)」

 

 ところが今後は逆補助金に見合う年金は得られない見通しなのだ。しかも、中年世代は親の終末を看取る最後の世代だるとともに、子どもに看取られない最初の世代であることも心得ておいたほうがよい。

                   ※

 (三島)引用していて暗澹たる気分なるところです。木津川先生は話芸の名手です。明るくゆかいに端的に語るお話は見事なものです。しかし、ご本業の研究テーマとなると厳しいものです。

 さて、ではどうしたらいいとおっしゃるのでしょうか。

 

<趣味力>と<老人力>・・・中年よ体をきたえておけ

 

 無目的で、何をしていいかわからない老後を迎えないために、生き甲斐の条件6 張りのある日常を送ることが大切だ。では、張りとは何か。具体的に指摘するなら、

 

1 趣味、

2 学習、

3 ボランティア、

4 スポーツ、

のいずれか、あるいはいくつかである。

 

 退職後の生活を「余生」、余った人生とは言うなという方がおられて、私も従う。

 趣味にふけり、楽しむことを奪われてきただけに、人間性回復の新たな生活を取り戻すのである。

 

 定年後には敵の一つである多忙はない。すると、悠々たる後半生を送れるのか。そうではない。公的年金も医療も介護も行く先は暗い。どうやら、団塊の世代が管理社会の桎梏から解放される定年後、もうひとつの働きの戦いが控えていると私には思えて仕方がない。 高齢社会の、やがて主力世代が貧困の老人政策でしか対処されないとき、若き日の血が蘇る。そのとき期待され、発揮されるべきが文字通り<老人力>なのである。

 

 物忘れがひどくなったのを「忘却力が強くなった」と言い換えても、所詮は気休めでしかあるまい。人間に張りを与え、生き甲斐を提供してくれる<趣味力>と相俟って二つの力を共同させ、もっぱらは直面する貧乏を、後続世代たちのためには多忙を地上から一掃するのである。

 

 <趣味力>と<老人力>を発揮できるために、「中年よ、体をきたえておけ」

                ※

 (三島)つまるところ、木津川先生は来たる老後のためには基礎体力を鍛えておけと結論付けられました。

 

 これからの老人は社会から期待される存在であるべきなのでしょう。もはや老人とは社会から庇護されるだけの存在としては許されなくなるでしょう。

 

 わたしは老人にとってもうひとつ提案したいと思います。それは木津川先生のご専門の落語など人生を豊にするユーモアです。健康的なユーモア、皮肉なユーモア、知的なユーモア。こうしたユーモアを解する心の若さを保ちたいものです。老人は身も心も硬直しがちです。それをほぐしてくれるのがユーモア。

 

 木津川先生のお話はいつもユーモアに満ちています。今回ご紹介した中にも「誰がために鐘はなる」のもじり「歯がために金はいる」などは極めて上質なユーモアです。

 

 戦後、日本がどん底にあった時代でも漫才や落語が庶民を励まし支えてきたことでしょう。今、社会の底辺をきっちり支えてくれるような笑いがありません。不況を吹き飛ばしてくれるような笑いがないのです。

 

 実は戦後十年ごとに笑いのブームがあり、今はそのブームが起きてもおかしくないにもかかわらずブームが発生しないとは、これも木津川先生のご意見です。

 

後記

 今月号は、木津川先生の論文をとことん紹介させて頂きました。先生のご意見を正当にお伝えできるよう引用しながらまとめたつもりです。

 

 なぜここまでご紹介させていただいたか。その理由はこうです。

 本来、学者にとって論文は命がけ、もし間違えた論を提出すれば再起不能とも言うべき厳しい世界です。先月号のわたしの安直な引用が先生の論を歪めていたとすれば大変なことです。

 

 そこで今月は敢えて原文をそのまま忠実に抜粋して使用させていただきました。

 木津川先生には二ヶ月にわたってお世話になりました。まことに勝手なことでした。心よりお礼申し上げます。

 

 今年は花が早く咲きました。そして落ち着いて見る暇も無く散っていきました。

 毎年ゆっくり花を見ていないような気がします。

 ゆとり・・・大切ですよね。ご自愛下さい。

 

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游氣風信 No,146,2002,,2,1  心のうた


 そろそろ卒業のシーズン。

 様々な別れがあることでしょう。

 その後にはまた新たな出会い。

 

 この頃になるといつも思い出すことがあります。

 それは卒業式で歌う、否、歌わされた歌のこと。

 卒業生は「仰げば尊し(作詞者・作曲者不詳)」、在校生は「蛍の光(作詞者不詳・スコットランド民謡)」。

 

 この儀式は小学校も中学校も同じだったと記憶しています。

 わたしは小学校の時に強制された「仰げば尊し」に、強く反感を抱いていました。

何故なら小学校の五・六年の時の担任教師のことをちっとも尊いと思えなかったからです。

 

 その年配の男性教師はまともに授業をしませんでした。

 それだけでなく言うことに常に裏表があり、父兄に見せる顔と子ども達に見せる顔の落差。

 いつも教卓に腰かけてぼうっとしており、その姿勢は怠惰で生きる情熱が見られず、個人的な愚痴と偏見のみを児童に語りかけている、子どもから見て実につまらない人物に思えたのです。

 

 それなのに

  仰げば尊し 我が師の恩

と歌えと言われても釈然としなかったのは当然です。

 これなら昨今流行った

  仰げば尊し 和菓子の恩

の駄洒落の方がまだましというものです。

 

 その教師に対する思いだけではありません。

  身を立て 名を上げ やよ励めよ

という、立身出世の鼓舞に満ちた歌詞も嫌いでした。

 

 ですから、卒業の頃になるといつもこんなつまらない思い出が脳裏に蘇るのです。

 この鬱屈した思いは自分だけの考えか、能力が無くてどうにも出世出来そうも無いひがみ根性から発生しているのかと思っていたら、ある時まさに我が意を得たりという話を聴きました。 

 

 それは昨年のことで、もうずいぶん前のことになります。

 訪問リハビリの途中、車を運転中にNHKラジオを聴いていた折りのことでした。

 その放送は関西の放送局から発信されたものです。

 語り手は上方芸能の専門家で大学で講義をしておられる方。

 たまたまその日は国民に愛されてきた歌についての話題で、歌と戦前・戦後の日本を支えてこられた高齢者の方の人生を重ねた楽しい語りでした。

 

 今月はそのお話をご紹介しようと思います。

 お話をされた方は元「上方芸能」編集長の木津川計さん。

 何かのアンケートで日本人、特に高齢の方に人気のある歌について以下のように話されました。

 人気のある歌の中に(ベスト10だったかもしれません)

 

 仰げば尊し

 故郷(ふるさと)

 村の鍛冶屋

 赤とんぼ

 王将

 川の流れのように

 

などがあるとのこと。

 その上方芸能を研究しておられる木津川計先生は以上の歌と人生をからめて面白いストーリーを考えられました。

 

 以下は木津川計先生のお話を記憶に基づいて書いたものです。聴き違えがあるかもしれません。 その時はご容赦。

 

 昔、つまり今の高齢者が子どもだった頃。子ども達は小学校や中学校を「仰げば尊し」を歌って卒業しました。

 当時、まだまだ日本は貧しく戦後の復興のために一生懸命働かなければなりませんでした。ですからこの歌も「仰げば尊し」と師に対するお礼だけでなく、

  身を立て 名を上げ やよ励めよ

と子どもの頃から一生懸命働け働けと言われながら学校を追われます。働いて立身出世せよと送り出されるのです。

 

 そうして多くの子ども達は都会に出ました。

 仕事は辛く厳しく、毎日毎日朝早くから、夜遅くまで働きます。

 そうは言ってもそこは幼い子ども達。時には故郷の両親や友達、自然を懐かしむことでしょう。

 そんな時に思わず口をついて出てくる歌が「故郷(高野辰之 作詞 岡野貞一 作曲)」。

 

  うさぎ追いし かの山 

  小鮒釣りし かの川

  夢はいまも めぐりて 

  忘れがたき 故郷

 

 こうして懐かしく故郷を思いながら歌うのですが三番になるとこうなります。

 

  こころざしを果たして 

  いつの日にか帰らん

  山はあおき 故郷 

  水は清き故郷

 

 国を離れた子ども達にとって、ふるさとは志を果たして、いつの日にか帰る場所なのです。これではいつまで経ってもふるさとに帰ることはできません。ここにも立身出世の教えが聳え立っているのです。

 

 それどころか

  しばしも休まず つち打つひびき

  飛び散る火花よ 走る湯玉

  ふいごの風さえ 息をもつがず

  仕事に精出す 村のかじ屋

と、「村の鍛冶屋(作詞・作曲者不詳)」に歌われているように休まず働け働けと鞭

打たれます。こうした人達が高度成長期を支えたのです。

 

  明日は東京に 出で行くからは

  なにがなんでも 勝たねばならぬ

 

 吹けば飛ぶような将棋の駒に賭けた「王将(西条八十 作詞 船村徹 作曲 村田英雄 歌)」の心意気もその当時の歌です。

 

 そんな時、本当に心を癒してくれる故郷の歌。

 これが「赤とんぼ(三木露風 作詞 山田耕作 作曲)」。

 

  夕やけこやけの 赤とんぼ

  負われて見たのは いつの日か

 

 子どもの頃、母か姉に背負われて夕空を舞う赤蜻蛉の群れを歌っています。

 

  山の畑の 桑の実を 

  小籠に摘んだは まぼろしか

 

 この歌は故郷を心底恋う歌です。ここには立身出世の匂いは全くありません。あるのは郷愁とさびしさ。

 

  十五で姐やは 嫁に行き

  お里のたよりも 絶えはてた

 

  夕やけ小やけの 赤とんぼ 

  とまっているよ 竿の先

 

 故郷を出た少年達は、父母が恋しくなったとき、赤とんぼの歌を歌うことでひとときの懐かしさにひたることができたのです。

 

 結局はほとんどの人は出世することも無く、ごく平凡でまっとうな人生を過ごしました。

 確かに出世はしなかったが社会の一員として戦後の復興や高度成長を支えたという自負があることでしょう。

 

  吹けば飛ぶような 将棋の駒に

  賭けた命を 笑わば笑え

 

 たとえ「歩」のような将棋の一駒でも意気地はあるのです(王将)。

 そうして頑張って人生を歩まれた方が、今は老境にあって自らの人生をゆっくりと振り返ります。

 楽しかったことも苦しかったこともあった。

 嬉しかったことも悲しかったこともあった。

 しかし、我が人生に悔いは無い。

 

 こんな思いを代弁してくれるのが美空ひばりが最後に遺した歌「川の流れのように(秋元 康 作詞 見岳 章 作曲)」です。

 

  知らず知らず 歩いて来た

  細く長いこの道

  振り返れば 遥か遠く

  故郷が見える

 

 こうして人生の山河を上り下りしてふと振りかえるのが故郷なのでしょう。

 

  でこぼこ道や 曲がりくねった道

  地図さえない それもまた 人生

 

人生は曲がりくねったでこぼこ道。しかし苦難を過ぎてみればまるで川の流れのようにとうとうたる人生。

 

  ああ 川の流れのように

  ゆるやかに

  いくつも時代は過ぎて

  ああ 川の流れのように

  とめどなく

  空が黄昏に染まるだけ

  生きることは 旅すること

  終わりのないこの道

  愛する人 そばに連れて

  夢探しながら

 

 こうして己の力を一杯に出し切って生きてきた自負。

 おだやかな時に身を委ねる豊かさ。

 

  ああ 川の流れのように

  おだやかに

  この身をまかせていたい

 

 美空さん、最後に、わたしたちに本当にいい曲を遺して逝かれました・・・と木津川先生はまとめてお話を終えられました。

 

 運転中に聞いた話ですから、途中、道路状況によっては外に集中して聞き漏らしたところも一杯あったでしょう。

 記憶に曖昧な点もあります。

 しかし、関西訛りの語り口とあいまってほのぼのとした気分にしてくれる素晴らしいお話でした。

 

 ただひたすら働くことを強要された世代の人々が今老境にあって生きる楽しみを見つけられない。

 趣味が持てない。

 それはなぜか?

というのが話の最初の趣旨だったような気もします。

 

 趣味とかゆとりとかが許されなかった世代。

 大正や明治もっと古く江戸時代の人々の方がはるかに趣味を持って人生を豊かにしていました。なのに今の高齢者はそうしたゆとりを時代から与えられなかったのでしょうか。

 

これから老境即ち人生の荷を下ろしてやれやれと暮らす毎日の楽しみが「水戸黄門」くらいではあまりに寂しいものです。

 

 現在老境にある方も、これから老境に向かう方も、まだまだ若い方も、人生を豊かにする工夫をしたいものです。

 

 人生を豊かに過ごす基本は人から頼りにされることでしょう。

 つまり人と関わって社会に生きている実感を味わう事です。

 そのきっかけが趣味でも仕事でもかまいません。

 社会から評価されたときその仕事や趣味あるいは生き方自体が「生きがい」として人生の味わいになります。

 

 例え病気で寝たきりでも人に感動を与える人は大勢います。

 人から与えられることを待っていても人生は決して豊かにはならないでしょう。

 わたしも常に自分から、今日から、何かを始めたいと心がけたいと思います。

 唐突な言い方になりますが、 それこそが自分の人生という舞台を芸術化できる方法だからです。

 もちろん、そこでの主役は自分自身です。

 

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游氣風信 No,145 2002,1,1 冬・一月のうた

三島治療室便り
2002年、平成14年最初の游氣風信です。

通算145号、十三年目に入ります。毎号、これが最後かなと思いながら書いています。

今年も一号一号積み上げていきたいと思っています。

 

 先月号の「身体論」はいかがでしたか。

 同業者や武道をやっているような専門家を除くと「難しかった」、「よく分からなかった」という意見が大勢を占めていました。興味の無い人には全くつまらないものであったかと深く反省しています。

 

 反面、「游氣風信」は読者のことを考慮せず、自分の好きなことだけを書きつづけてきたが故に145号まで続いたというのも事実です。

 とはいえ、正月早々つまらない文章で頭を痛くすることは実につまらないことなので、今月は冬や新年や一月に因んだ詩歌を幾つか紹介して、前回のお口直しをしていただこうと思います。

 

 まずは本箱から引っ張り出した白秋詩集。

 

 白樺

      北原白秋

清しきは雪に立つもの、

白樺の林よ、げに

しろき木肌、

そは真処女。

幽けさよ、雪の渓に

直立ち、ほそき幹の

雪よりも光帯びて。

(三連略)

白夜ともほのあかる

空ひととき、

白樺の林よ、げに

光る神々。

 

 清明古調と題された中の作品です。

 初めて読みましたが、その名の通り、清明なすがすがしさを感じさせます。

 特に新年を詠んだ作品でもなく、一月という言葉もありませんが、清新な気分に浸ることができるでしょう。

 

 木肌(こはだ)、真処女(まおとめ)、幽(かす)けさ、直立(すぐた)ち、白夜

(はくや)とルビがふってあります。

 漢文調ながら、調べは大和言葉にこだわっています。それがなおさら清明な感じを醸しているようです。

 

 雪の中に立つ白樺の美しさはどなたも一度はご覧になったことがあるでしょう。

 輝く雪の中、ことさら光を放つ白樺。

 暗い世相ばかりが喧伝されています。しかし今年は雪に輝く白樺のような一年でありたいものです。

 

 次に一月の俳句を歳時記から。

 歳時記は角川書店および河出書房新社のものです。

 

一月の川一月の谷の中   飯田龍太

 これが俳句かと思われる方もあおりでしょう。これでも俳句なのです。それどころか名句として知られています。

 酷寒の谷の中を流れる一本の河。全てをそぎ落とした言葉の華です。龍太は風格ある俳句で知られる飯田蛇笏の実子。親子二代で山梨の山中に住み、風土を見据えつつ人間の本質に迫っています。

 

蛇笏亡き甲斐の山脈寒に入る  澤井我来

 前の句の作者、飯田龍太の父蛇笏はこのように大きな存在感で今日でも人々に記憶されています。龍太も質は異なりますがそれに負けない存在感を放っています。

 風土とは地理と歴史の互いに浸透し合ったものです。つまり自然と人間の綾なす世界が風土なのです。

 

一月の陽あたる畑や風の音  大谷句仏

 作者大谷句仏は戦前、東本願寺の管長だった名僧です。俳人としても知られています。

 句は一月の農村の情景を素直に詠んであります。一読意味明瞭。

 

昼深く元日の下駄おろすなり  千葉皓史

 現代を代表する中堅俳人。「昼深く」とは昼もだいぶ遅くなってという意味です。

元日、一年の初めの日をのんびり過ごし、さてこれからどこかへ行こうかと下駄を取りだして玄関に下ろしたのでしょう。正月用に新しい下駄を下ろしたのかもしれません。元日の気分が横溢しています。

 

元日や手を洗ひをる夕ごころ  芥川龍之介

 これは元日の句として人口に膾炙した句。作者は言わずと知れた作家の芥川龍之介。

 説明不能ですが元日のけだるい夕方の実感があります。

沖かけて波一つなき二日かな  久保田万太郎

 二日は季語では一月二日のこと。まだまだ清新な正月の穏やかな二日です。めだたい俳句。

 

思はざる雪の三日の墓詣  伊達大門

 今年の正月はまさにこの通りでした。愛知県では40年ぶりの正月の大雪だとか。美しい雪景色に喜べるのは雪の少ない地方、なおかつお正月という休暇だったからでしょう。故郷からの帰宅の脚は掬われました。

 

虚しさに似て倖はせや三ケ日  柴田白葉女

 正月も三日目ともなるとどこか退屈になってきます。幸福感に満たされているもののそれはどこか虚しさをともなうのです。人が冒険を求めるのはこんな時ではないでしょうか。

作者は女流俳人の指導者的な方でした。

 

毛衣の四日のをんな鬼子母神  黒田杏子

 四日は仕事初め。この日から仕事を始める人が多いことでしょう。作者は鬼子母神へ初詣に出かけたのでしょうか。そこで毛皮を着た女性を見かけたのです。

 ただそれだけの句ですが、鬼子母神と言えばわが子を溺愛しつつ他人の子をさらって食べたという夜叉の娘です。今日的解釈をすれば動物の命を奪って作られた毛皮の衣装を着た女性がその鬼子母神に見えたのかも知れません。

 作者はわたしの俳句の先生です。

 

水仙にかかる埃も五日かな  松本たかし

 五日ともなると新年の埃も目立ってきます。作者は清楚な水仙の埃に気がついたのです。しかし、その埃も正月ならどことなく許せるような気分もあります。作者は能楽の家に生まれながら、病弱だったため、俳句の世界に生きました。

 

海近き汐にほひくる六日かな  長谷川湖代

 六日。すでに正月も過去になりつつあります。その雰囲気と汐の匂いの配合を楽しむ句です。

 

煮大根のくづれ加減も七日かな  清水基吉

 七草粥の日。お節料理も残骸のようになっていることでしょう。大根の煮物もすっかりだらしなく煮崩れてしまいました。しかし、それもまたおもしろがるのが俳人です。

 作者は横光利一門下の芥川賞作家でもあります。わたしが最初に買った俳句の入門書は作者のものでした。

 

耳さとくゐて人日の雑木山  菅原鬨也

 人日は七日のことです。中国の占い書に一日から順に鶏・狗・羊・猪・牛・馬・人と言う具合に一日ずつ動物に当てはめてあるのです。八日は穀物。そこから歳時記に採用されました。

 しかし、それとは関係なく、七日ともなるとなんとなく人恋しいという思いも感じられます。

 静かな雑木山に入ると自分の足音がポキポキ小枝を折る音が響きます。離れたところにいる人の足音も同様です。作者は遠くの人の気配に耳を澄ませているのでしょう。

 

 次は短歌です。

 

何となく、

今年はよい事あるごとし。

元日の朝晴れて風無し。  石川啄木

 

腹の底より欠伸(あくび)もよほし

ながながと欠伸してみぬ、

今年の元日。          石川啄木

 

 どちらも啄木の作品です。

 一読了解できる素直な作品。

 どうか今年はよい正月であるようにとの願いは誰しも同じです。元日の青空や爽風は一年が良い年であるような吉兆と感じられます。

 それと同時に正月は妙に退屈で必要以上にながながとアクビをしてみる。これも元日の雰囲気そのもの。

 明治時代も現代もあまり変わらない人の思いなのでしょう。

 

 正月から離れて冬の作品を。

 

 切なき思ひぞ知る

              室生犀星

      

我は張り詰めたる氷を愛す

斯る切なき思ひを愛す

我はその虹のごとく輝けるを見たり

斯る花にあらざる花を愛す

我は氷の奥にあるものに同感す

その剣のごときものの中にある熱情を感ず

我はつねに狭小なる人生に住めり

その人生の荒涼の中に呻吟せり

さればこそ張り詰めたる氷を愛す

斯る切なき思ひを愛す

 

 冬の厳しい寒さや冷たさ。それは困難の象徴でもあります。

 

 きつぱりと冬が来た

 

と、冬に立ち向かう決意を歌い上げた高村光太郎もいます。

 

 犀星も冬の緊張感の中に研ぎ澄まされた自分の感覚を、氷のように張りつめた思いを愛すと言っています。まさに詩人の感性でしょう。

 寒さの中で鋭利に磨かれた身心から別の自分が出てくる喜び。期待。そうしたものに興味をいだくなら冬もまた楽しいものです。

 

 暖房設備のない時代から、各地に冬の楽しい過ごし方やすばらしい工夫が残っています。冬に立ち向かわざるを得ないとき、人はそこから逃げることなく工夫したのですね。それらが後世に芸術や芸能として伝えられることはまさに人の叡智としか呼べません。

 

 日輪と太市

                   宮澤賢治

日は今日は小さな天の銀盤で

雲がその面を

どんどん侵しかけてゐる

吹雪(フキ)も光りだしたので

太市は毛布(けっと)の赤いズボンをはいた

                    (1922,1,9)

 

 最後に宮澤賢治の初期の詩を。

 雲の向こうに透けて見える冬の白日。それを銀盤と表しています。

 地表では風が雪を激しく舞い上げる。それは美しくも過酷な東北の冬の到来。

 少年太市はあわてて重ね着をしたのでしょう。

 太市は少年の名前で賢治の作品には度々登場します。

 

 たいした内容も無い小品ですが、日常のスケッチとして心引かれるものがあります。自然とその中に生きる少年。少年がズボンをはくと言う何でも無い行為に、自然と溶け込んだ存在感が読み取れます。

 

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「游氣風信」号外   恭賀新年  2002年1月

三島治療室便り

 

昨年中は大変お世話になりました。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

                            三島広志

昨年は世界を驚かせる大惨事がありました。

その余波はまだいっこうに衰えることなく各地に飛び火しそうな気配です。

予断は許されないでしょうが、改めて年が明けた清新な日を喜びたいと思います。

 

年末、ある名言集をぱらぱらと見ていましたら、面白い文章に出会いました。

山本常朝の「葉隠」の一節です。

わたしは高校性の時、三島由紀夫の「葉隠入門」を読んだことがあり、その中の

 

恋の至極は忍ぶ恋にありと見立て候

会ひてからは恋の丈が低し

一生忍んで思ひ死にすることこそ恋の本意なれ

 

にいたく感動したことがありました。

隣の席の女の子に見せましたら

「ばっかじゃない。こんな本読んでいたら死ぬまで彼女ができないわよ」

と、一蹴されましたが。

 

その後、ほどなくして三島由紀夫は自害しました。

当時もなかなか激動の世でした。

 

「葉隠」は武士道を論じた本で化け猫で有名な佐賀の鍋島藩の山本常朝が口述し、田代又左衛門陣基の筆録によるものです。

一般には

 

武士道とは死ぬことと見つけたり

 

で知られています。

三島由紀夫は当時の(昭和40年代)若者のあまりの軟弱ぶりに喝を入れんとこの本を取り上げたのでしょう。

 

さて、今回見つけたのは次の言葉です。

 

今の世を、百年も以前のよき風になしたく候ても成らざる事なり

されば、その時代々々にて、よき様にするが肝要なり

                              山本常朝「葉隠」

 

葉隠全11巻が完成したのが1716年。今からおよそ300年前です。

そこから遡行して100年前が良かったの言うのです。

今から400年前ならおよそ1600年。関ヶ原合戦の年です。

大阪夏の陣が1615年。豊臣が途絶えた年。

戦国の世が終わり、徳川の治世となって平和の基礎が築かれた頃です。

まだまだ激動期と呼んでかまわないでしょう。

そんな頃が良かったというのです。

不思議ですね。

 

一つには、当時ほど武士が武士の能力を発揮できた時代は無かったという感慨。

これはなっとくがいきます。

安定期の侍ほど無用のものはいません。

 

別の見方もできます。

100年というのは例えであって、ようは昔は良かったという思い。

これは今に通じます。

「昔は良かった」

これはいつの時代でも言われることでしょう。

 

「しかし」

と常朝は言います。

 

その時代々々にて、よき様にするが肝要なり

 

回顧趣味に陥ることなく、今年も着実に歩んでいきたいものです。

  以上、引用は「ことばの花束 岩波文庫の名句365 岩波文庫編集部編」

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游氣風信 No,144 2001,12,1  身体論の時代 「身体の文法」と「江戸時代」


 このところ身体に関する著作が目につきます。

 仕事がら特に気になるのかもしれません。

 今月に入って何冊かの本を購入したのですが、それらの多くが身体論に関するものでした。少しご紹介しましょう。

○創造する知・武道 坪井香譲著

 この本は1973年、今から28年前に書かれた本の加筆リニューアルです。当時のタイトルは「極意--精神と肉体のドラマ・武道--」。

 作者名は坪井繁幸。現在は香譲と称されてますが、当時は本名を名乗っておられました。

 

 「極意」は20歳のわたしにとって、かなり高度な内容で難しい本でした。

 ただ、極意という、一見伝説に満ち満ちたつかみどころの無いものにさまざまな方向から光を当て、ある種のイメ
ージを与えてくれた本として忘れることのできない本です。

 しかも、この本を読んだ数年後、著者である坪井先生がわが家にたびたび宿泊され、その親炙に浴することになろうとは思いもしませんでした。

 

 数年後、坪井先生は「身体気流法」という具体的な身体技法を模索され、身体と創造にかかわる研究会を興
され、それが今日、「メビウス気流法の会」として継続されているのです。

 すでに鍼灸学校の学生であったわたしは気流法の初期を彩る「黄金の瞑想」という坪井先生の本と再び出会
い、講習でその声貌に触れる機会を得て、私淑から親炙する関係になったのでした。

 

 当時の日本はオイルショックを乗り越え、経済の高度成長に一段落がつき、人々の関心が物質経済から精
神文化や身体文化に向かい始めた頃でした。ヨガは既にブームでしたし、太極拳にもその兆しが見うけられる
頃です。「身体を耕す」とか「身体との対話」などという言葉が書店の棚を飾るようになっていました。いわゆる
指圧やジョギングなどの健康法がその枠をはみ出して生き方にかかわりつつあったのです。カリフォルニアの
ヒッピー文化にインテリ達が影響された面もありました。

 

 まだ生まれたばかりの気流法にも武道やスポーツの専門化や愛好家だけでなく、踊りや音楽、医療の関係
者なども参加して技術を下支えする身体および身体操法を学び始めました。つまり従来の健康法とかスポーツ
とか芸術とかの枠を超えるものとして期待されたのです。

 

 一例を上げましょう。
 今年、「千と千尋の神隠し」というアニメが空前のヒットをしました。ご覧になった方も多いことと思います。
 あの見ようによってはグロテスクなアニメを影でしっかりと支えていたのが、木村弓さんの歌うテーマソング「い
つも何度でも」でしょう。作詞の覚和歌子さんと作曲・歌の木村弓さんはともに気流法のメンバーとして「身体と創
造」に深く関わりつつ活動されています。

 

 以上のように極意とはなにも武道の専売特許ではありません。広く普遍的な分野に存在するはずの何かなの
です。ただ武道は命を取るかというぎりぎりの世界ですからその極意の頂点が高く深いのです。失敗は死。敗者
は何も残していない世界です。

 

 気流法発足20年を記念したイベントにはわたしも論者として坪井先生から招いていただき、ステージで宮沢賢
治について対談しました。その模様は以前「游氣風信」に細かく書きました。その折、作詞の覚さんも登場されて
いたので、わたしは覚さんと同じ舞台に立ったとひとり悦にいっています。

 

 さて、身体論は分かるのですが何ゆえに人を傷つける武道なのでしょう。疑問を持たれる方もおありでしょう。
 著者は本書の中で次のように語っています。

 

 「馬力、青銅、鉄、火薬、電気、ダイナマイト、石油、原子力など、革命的な生産技術やエネルギー源開発を、
戦争技術は直ちに取りいれて、それらとパラレルに発達した。むしろ、戦争に勝つためにそれらの発明や開発
が行われた場合も多い。勝たなければ負ける、負ければ破滅という現実は、人間に全勢力を傾けさせる。
 しかし僕が、ここで問題にしたい武術や武道は、確かにそういう現実に触発され、ある時期まで戦争と歩調を
合わせてきたものの、また、一方、独立・独自の道を歩んだ。
(中略)
 たとえば、日本の色々な主要な武道の中で一番先に実用から離れたのは弓である。
(中略)
鉄砲伝来以降は戦の主役の座を退き、ほんの補助手段になった。ところが、弓はすたれるどころか連綿として続いている。(中略)それが内面化され、儀式化され次第に武士の教養として重んじられるようになった。

 このように、書道や茶道が単に実用のために文字を書いたり薬用や飲料として茶を飲む段階から抜け出して、技術の体系や芸術性思想を持つようになるのと似た段階を武道はたどったのである。」

 

 つまり、戦いの技術として発達した武術が平和やさらなる強力な武器の発明により実用から離れ、書道や茶道のように芸術・文化として深化したというのです。

 このことは坪井先生がこの本を書き上げ、後書も書いた後、例のアメリカの多発テロによって後書に付記されたところにも繰り返されます。

 

「(ハイジャック犯の一人が格闘技のジムに通い、また、ハイジャックを阻止しようとした乗客にチャンピオンクラスの柔道家がいたことを踏まえ…三島)このように、ミクロには武術はどのようにも用いられる技術である。けれど、本書中でも触れたように、武道の達人達は、戦いの技に常人より遥かに集中して取り組んだからこそ、遂には反転して戦いよりも、「和」とか「愛」とか「聖」なる状態を説いた。

(中略)

私はそのような「武道」を実現してゆくことを念願している。そして少しでも多くの人々が、勝負を超えた、そうした「境」に触れるように願っている。」

 

 ここで言う武道・武術は相対的強さを争うものではないのです。

 

 具体的に、坪井先生の本でわたしが一番関心を抱いたのは「身体の文法」でした。
 これは坪井先生がさまざまなジャンルの達人といわれる人達の身体の使用法を研究している間につきとめた共通原理、それを「身体の文法」と名づけられたのです。

 

 本から引くと

 

「種々雑多、ジャンルは異なるが、創造的な行為には分野を超えてそして民族を超えて、共通分母のように身体のあり方が潜むのでは、法則性のようなものが働くのでは、と見えてきたのである。
 そうして見えてきた幾つかの傾向を、僕は「身体の文法」と名付けてその「文法」を感得し、その「文法」のあり方
をとらえるためのエクササイズも少しずつ開発していったのである。それはとてつも長いのろい歩みだった。」
 

と、書かれています。そしてそれに加えて最近先生が驚きとともに読んだ指揮者小沢征爾氏の文章を引いてあり
ます。

 

「それから音楽文法ですね。西洋人でそこに育っている人は別に文法を習わなくったって自然に言葉をしゃべることが出来るけれども、我々は外国語を勉強する時まず文法を習うじゃないですか。
音楽でも同じ文法がある(中略)日本人はそこからはいらなければならないということで、僕はそれを徹底的にた
たき込まれて育ってきたんです」


 これに続けて坪井先生は

 
「武道などでも上手な人は上手になっていく。けれどその上手な人は、その上手にしている時の身心の用い方の状態や意味を捕らえているとも限らない。自らの伝統の中にある音楽を特に意識せずにある程度は出来てしまうヨーロッパの音楽家のようなものである。」

 

 この「身体の文法」は今でもわたしが指圧などを指導するときおおいに活用させていただいています。具体的
には以下のようなものです。

 

一 人として「体」であること、体を通して生きることの実感

二 リラックスと集中

三 重力に委ね重力を活かす

四 正中線、中心軸(人中路)

五 気の巡りと螺旋

六 呼吸を感じ、呼吸を活かす

 

 具体的な説明は難しくなるのでしませんが、こうした文法を意識しながら身体に向きあうことで身体の意識や操
法が深まるのです。

 あるいは少しこうしたことを勉強した方なら「なんだ、身体の文法などと大層ないい方をして、こんなことか。昔か
ら言われていることだし、以前から知っている」と思われるかもしれません。
 昔から様々な比喩で表現されてきたことですから当然です(ハラとか腰とか軸、あるいは丹田などと)。


 坪井先生はそれらを自分の中で追体験してそこに行き当たったのです。つまり、体験を経験化するという深い
哲学的な再措定がなされいるのです。

 

○からだには希望がある 高岡英夫著
 

 この「身体の文法」は今日色々な人がいろいろな言い方で広く一般化しています。
 たとえば高岡英夫という方は武道専門誌で、若い頃、坪井先生の著書に触れ、「身体の文法」に強く影響を受け、同様に「極意」が理論として究明できるのだと確信した旨を明言しています。氏は、東大大学院で教育学を学んだ後、運動科学研究所を興し、今日最も勢力的に身体論を説いて活動しておられる方です。

  高岡氏は「身体の文法」に近い概念をディレクトシステムと称しておられます。
 高岡氏は江戸の頃の日本人の身体意識は皆が達人レベルにあると説かれます。浮世絵などからそれが分かると言われるのです。

 しかしそれには「ちょっと待てよ」と思います。
 

 浮世絵といえば後に西洋美術の様々な革新を促した一因となるほどの特徴をもった絵画です。何よりその特徴
は独特のデフォルメつまり誇張です。西洋人がウタマロと呼ぶ時、ある特定の意味があることはご存知でしょう。
身体の一部のデフォルメが妙な関心を呼んだのです。

 また、有名な北斎の富士山を遠くに船を巻きこむ波の絵。あの大胆な波の誇張は見事です。


 あるいは浮世絵の一つの特徴である景物を幾何学的に把握して、構造的に置換・表現するあり方。後のキュ
ービズムに影響を与えたとも言われます。

 これらから鑑みれば浮世絵は現実離れした、写実から最も縁遠い描写で成立しているはずです。その絵から江戸時代の風俗などを思い知ることはできても、具体的な人の身体のあり方を理解するのは無理があります。
その点で高岡氏の文章に今一つ賛同できない部分がありました。

  ただ、高岡氏が実例として「動く浮世絵」と称された日本舞踊の名手故武原はんさんを引きあいに出されると
「うーむ、そうかな」とも思います。
 

 母が踊りを習っています。六十の手習いというやつです。発表会に行くとおばあさんたちが一生懸命踊っていました。率直に言って、それは手だけひらひら動かす舞と呼ぶのははばかられる、実につまらないものでした。
まるで風にゆれる大木の枝といった感じです。

 ところが師範と呼ばれる方の踊りは全く一線を画すものでした。さすがです。胴体が実に微妙に動きます。それはズドンと立ったままの素人の踊りとは異なり、立派な表現たりえました。母に聞くと幼い頃から本当の日本舞踊を習った方だとか。この胴体の動きは、残念ながら子育てを終えて一息きついてから始めた世代の人には困難な、付け焼き刃ではできない動きのです。

 

 ビデオで見た武原はんさんの舞いはそれのさらに異次元にある動きです。ゆらりと浮くように立ち、襟元が水のように自在に流れ、全身に一点の滞りもありません。素人目にもその違いは明瞭です。これが動く浮世絵なら、確かに江戸時代の人の動きは精密です。

 

 しかし、高岡氏はそれが一部の名人ではなく庶民全体がそうだったと断言されるのです。さすがに、これには肯えませんでした。まさか、いくらなんでもと。

 ところが面白い本に出会ってしまったのです。

 

○身体感覚を取り戻す 斎藤孝著

 

 たまたま書店で手にした「身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生(斎藤孝著・NHKブックス)」をパラパラめくりましたら何枚かの写真が目に飛びこんできました。これがどうも実に驚くべき写真です。
 

 二人の車夫が立っています。一人は人力車の取っ手を持ち、車には西洋人らしい人が乗っています。二人とも車夫という職業がらでしょうがっちしりした脚をしています。それが鋼のように強く、大地にピタッと根を張ったように立っているのです。何というか単に鍛えた脚というだけでなくいかにも大地と繋がっているのです。これは今日のスポーツ選手などとはどこか異なります。

 

 別の写真は車夫と力士が肩を組んでいるもの。著者の解説を借りますと 

「下腹を中心とした身体の充実した雰囲気は共通している。相撲取りが身につけている身体文化が特殊なものではなかったことがわかる」

 
となります。つまり一般人である車夫も、鍛錬された相撲取りも同じような身体をしているということです。これは写真を見ていただかないとどうにもなりません。

  その他、天秤を担ぐおばさんや天秤を担いだまま杖(息杖)をついて休んでいるおじいさん。その立ち姿の美しさは見事。歩いているおばさんは膝を曲げて柔らかく大地に接触している感じ。休んでいるおじさんはこれまた根が生えたように大地にすっくと生えているよう。

 どちらもごく普通の人が今日的視点からは達人としか思えないような立ち方をした写真です。

 

 これらの写真から先に紹介した高岡氏の言うように、武原はんさんの身体能力が江戸から明治の始めには

極めて普遍的であったと推察されます。

 

 また、これらの写真を撮影したのは西洋人です。彼らは日本人の身体文化が西洋のそれとは大きく異なることに驚いて撮影したに違いありません。フランス人に相撲を取らせた写真などはあまりに不格好で決まっていない、その身体文化の違いが際だった写真です。

 

 また、一般庶民の座敷での風景と旅館で浴衣を着た西洋人たちの和室にそぐわない様子。それらは滑稽ですらあると同時に日本人の何気ない物腰の美しさが目を見張ります。

 

 もちろんこれは東西を比較して日本が優れているとするような国粋的なものではありません。日本独自の身体文化が確実にあったことを証明した写真だと言うことです。

 日本人が洋服を着て西洋人にまるでかなわない事実も同じことです。文化の違いという視点を忘れると奇妙な話になってしまいます。

 

 斎藤氏の本にはわたしが今まで読んで影響を受けた人が大勢紹介されていて嬉しくなります。

 野口整体の野口晴哉、野口体操の野口三千三、ヨガの沖正弘、演劇レッスンの竹内敏晴、武道理論家の南郷継正、私の指圧の師匠である経絡指圧の増永静人、名著「胎児の世界」の三木成夫、ベストセラー本川達雄の「ゾウの時間ネズミの時間」などなど。どれもスリリングな経験を与えてくれた著者や先生でした。

 (斎藤氏は冒頭で紹介したメビウス気流法にも参加されたことがあるそうです)

 

 ただ、本を読んでいて大いに気になったことがあります。

 以前に読んだ「身体調整の人間学」や「ハラをなくした日本人」(共に高岡英夫著)と酷似した内容が見うけられたからです。

 斎藤氏の経歴を見ると東大法科卒、同大学院教育学専攻、現在明治大学助教授とあります。これは高岡氏と同じ大学院です。そして思い当たることがありました。

 今手元に無いのですが、確か「身体調整の人間学」は高岡編で佐々岡・斎藤著ではなかったかと。インターネットで調べてみると、どうやらその斎藤氏こそこの本の著者斎藤孝氏だったのです(違っていたら大変ですが)。理由は分かりませんが、今日別の道を歩まれているようです。

 

 斎藤孝氏の「身体感覚を取り戻す」は新潮学芸賞を受賞されました。おめでとうございます。

身体論に二十一世紀を切り開く可能性が期待されているのでしょう。選者の一人養老孟司氏は今日、身体論に実践的に取り組もうという姿勢だけでも受賞に値するというようなことを書いておられました。

 また、この著者による「声に出して読みたい日本語(草思社)」は現在売れています。わたしも近いうちに購入しようと思っています。宣伝文に曰く「生涯の宝物になる日本語。鍛えられ、慈愛に満ちた言葉を暗誦・朗読すると
身体が丈夫になる」 この通信で取り上げるかもしれません。

 

 身体への希求は学術畑からも市井においても今後ますます高まると信じています。

戦争に突っ走った過ちから、敗戦後、日本の旧来の文化を選別無しに捨ててしまった報いが今表れてきているよ
うです。この著者も書いていますが、70歳以上の方には江戸時代の身体分化が刻まれているが、それ以後どん
どん喪失し、60歳以下の世代にはほとんど受け継がれておらず、現在の若者には断絶していると考えられます。

 

 文化の継承は上の世代の義務でしょう。立ち居振舞いの汚い人から生まれてくる文化とはあまり期待できません。

 それからこれもこの著者が書いていますが、


「腰肚文化の再評化は、冷静に行わなければ、たんなる復古主義に見られてしまう性質の問題である。それだけに、戦後ある程度の冷却期間が必要とされたことは致し方のないことであった」

 

という問題点があります。復古主義、アナクロとか軍国主義と結びつけられる恐れもありますし、オカルトあるいはオウム真理教に代表されるカルトなどに結びつく危険もあります。

 冷静にしかし確実に学びたい分野です。

 

後記

 

 わたしの仕事は指圧をしたり鍼をしたりする事で直接武道とか舞踊とは関係ありません。
 しかし、指圧も鍼も身体表現の一つです。その意味で武道や舞踊と違いがないのです。それどころか人の営みは全て身体を基盤としています。普段気にしませんが、病気でさえ身体の一つの表現形式なのです。

 スポーツや音楽をたしなむ人がそこから身体的・精神的な影響を受け、相互が浸透し合って成果を生むように、
病気も身体的・精神的なさまざまな影響を人に与えます。

 身体を看過して生きることは不可能であり、むしろ積極的に身体に関わることで<生きる即ち表現>を再確認してわが薬篭中の物としたい。それが私が坪井先生などの身体論に関心を抱く所以です。

 病気や治療法だけの研究では<人間としての病や老い>と対峙できないのです。

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游氣風信 No,143 2001,11,1 子守唄

三島治療室便り
 訪問リハビリのために車を運転しているとき、ラジオから懐かしい曲が流れてきました。

「赤い鳥」というフォークグループの「翼をください」という曲です。

 30年くらい前の歌ながら今でも教科書に採用されたりして若い人にも歌い継がれています。

その時、ふと私は同じグループのもう一つのヒット曲を思い出しました。日本の伝承歌謡を採譜した「竹田の子守唄」です。

     

  守もいやがる

  盆から先にゃ

  ゆきもちらつくし

  子も泣くし

 

  盆が来たとて

  なにうれしかろ

  かたびらはなし

  おびはなし

 

  この子よう泣く

  守をばいじる

  守も一日

  やせるやら

 

  はよも行きたや

  この在所こえて

  向こうに見えるは

  親のうち

    

  向こうに見えるは

  親のうち

 

 この歌は京都近辺の竹田地方の伝承子守唄。

 それが洗練された親しみやすい旋律にアレンジされて当時、大変ヒットしました。

 西洋音楽一辺倒の教育を受けてきた戦後世代にも親しめる旋律が多くの人から支持されたのです。

 わたしがまだ坊主頭の高校生の頃でしょうか。

 

 しかしこの名曲は、ある人権的理由から放送自粛の歌になってしまい、ラジオなどではまず耳にすることはありません。

 うかつにもわたしは当時、そのメロディの美しさに気を取られて、歌詞の方はあまり注目しませんでした。

 

 今回、じっくり思い出してみて、おそまきながらその詩の哀れさに驚いたのです。

 この詩は幼くして親元を離れ、裕福な家の子守りとして働かなければならなかった貧しい少女の恨み歌。

 

 自粛される理由もそこにあるのですが、ここではそのことには触れません。 (関心のある方はインターネットで「竹田の子守唄」を調べてください)

 子守唄と聞くと多くの人が思い浮かべるのは「シューベルトの子守唄」ではないでしょうか。

 

 眠れ 眠れ 母の胸に

 眠れ 眠れ 母の手に

 心よき 歌声に

 結ばずや 楽し夢

 眠れ 眠れ 母の胸に

 眠れ 眠れ 母の手に

 暖かき その袖に

 包まれて 眠れよや

         内藤 潔作詞

 

 母に抱かれて眠る赤ちゃん。

 やさしい母の歌声。

 まるで聖母マリアが生誕間もないキリストに歌いかけているようではありませんか。

 子守唄はどうしてもこのイメージが強く、どちらかといえばちょっと恥ずかしいという印象があります。

 これも母の膝に抱かれて眠る赤ちゃんとそれをやさしくゆすっている母親という暖かい光景。

 

 子守唄はこのように母が赤ちゃんを眠りに誘うための歌。

 それは神々しいまでに美しい月の光に照らされた、うっとりとする情景を想起させる歌であるべきでしょう。

 

 メロディの美しさで知られる「フリースの子守唄」もそうです。

 この歌は以前は「モーツァルトの子守唄」として伝えられていたものです。

 

 眠れ良い子よ 庭や牧場に

 鳥も羊も みんな眠れば

 月は窓から 銀のひかりを

 そそぐこの夜

 眠れ良い子よ 眠れや

                     堀内敬三作詞

 

 実にロマンティックで幸せに満ち溢れた世界。

 至福とは、天上とはかくなるものかと見まごうばかりの情景です。

 

 眠れや コサックのいとしごよ

 空に照る月を 見て眠れ

        コサックの子守唄 津川圭一訳詞

 

 勇猛果敢な騎兵で知られるコサックの子守唄も実にやさしいものです。

 しかるにわが国の子守唄はどうでしょう。

 

 岡山県の井原地方に伝わる有名な子守唄を見てみましょう。

 

中国地方の子守唄

 

ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子の可愛さ

起きて泣く子の ねんころろ つら憎さ

ねんころろん ねんころろん

 

ねんねん ころいちや きょうは 二十五日さ

あすは この子の ねんころろん 宮参り

ねんころろん ねんころろん

 

宮へ参ったときゃ 何というて 拝むさ

一生この子の ねんころろん まめなよに

ねんころろん ねんころろん

 

橋の下には かもめが 日和(ひよ)るさ

かもめとりたや ねんころろん わしゃこわい

ねんころろん ねんころろん

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中国地方の子守唄の発祥地は、井原市高屋町です。

この唄が全国に知られるようになったのは、井原市出身の声楽家上野耐之氏が昭和の初め、恩師である山田耕作に故郷の母親が唄っていた子守唄を披露したのがきっかけです。

感動した山田耕作が編曲して発表し、広く愛唱されるようになりました。

(井原市のホームページより)

-----------------------------------------------------

 これは母親が子の幸せを願う歌詞です。

 マイナーな旋律がいかにもわが子を眠りに誘うという感じ。

 やはり母が子に歌うのは洋の東西を問わず優しいもののようです。

 では、次のよく知られた子守唄はいかがでしょうか。

 

五木の子守唄

 

 おどま盆ぎり盆ぎり

 盆から先ゃおらんど

 盆が早よ来りゃ

 早よもどる

  

 おどまかんじんかんじん

 あん人達ゃよか衆

 よかしゃよか帯

 よか着物

     

 おどんがうっちんだちゅうて

 だいがにゃてくりゅきゃ

 裏の松山 

 せみが鳴く

    

 せみじゃござんせぬ

 妹でござる

 妹泣くなよ

 気にかかる

 おどんがうっちんだば

 道端いけろ

 通る人ごち

 花あぎゅう

 花はなんの花

 つんつん椿

 水は天から

 もらい水

 明日は山越え

 どこまで行こか

 鳴くは裏山

 せみばかり

 

大変に切ない詞です。

熊本県の自治体のホームページに訳が出ていますから引用させていただきます。

---------------------------------------------------------------

 おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 

 盆が早よくりゃ早よもどる

  (子守奉公も盆で年季が明け 

   恋しい父母がいる古里に帰れる日が待ち遠しい。)

 

 おどんが打っ死 ( ち ) んだちゅうて

 だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く

  (遠く離れた所に子守奉公にきて私が死んでも 

   だれも悲しまない ただ蝉が鳴くだけでさびしい。)

おどんが打っ 死 ( ち ) んだら 

 住環 ( みち ) ばちゃ埋 ( い ) けろ 

 通るひと毎 ( ご ) ち 花あぐる

  (私が死んでも墓参りなどしてくれないだろう

   それならば人通りがある道端に埋葬してもらったほうが

   誰かが花でもあげてもらえるだろう。)

 

花はなんの花 ツンツン椿 

 水は天からもらい水

  (あげてもらう花は何でもいいが 道端にたくさんある椿でよい

   水がなくても雨が降ってくるから。)

 

 おどんがお父っつあんは あん山 ( やみゃ ) おらす

  おらすともえば いこごたる

  (私の父は遠くに見えるあの山で仕事をしているだろう 

   又あの山の裾に古里があり早く帰りたい気持ちが増々大きくなる。)

 

 おどまいやいや 泣く子の守にゃ

 泣くと言われて憎まれる

  (子守にとっては泣きやまぬ子はどうしようもなく

   どんなにあやしても泣きやまない子守の仕方が悪いと叱られる。)

 

 ねんねした子の 可愛さむぞさ

 おきて泣く子のつらにくさ

  (子守背中ですぐ寝る子は 子守にとって楽であるが

   いつまでも泣いて寝ない子は普段は可愛いけれど憎らしい。)

-------------------------------------------------------------

 お気づきの方もおられるのではないでしょうか。

 次の1節が省略されています。

 

おどま かんじんかんじん あんひとたちゃ よかしゅ

よかしゅ よかおび よかきもん

 

 私なりに訳すと

 

「私は勧進(物乞い) あの人達は生まれの良い人達

 その人達は良い帯を持っている 良い着物を持っている

 貧しい私は粗末な衣服しか持っていない」

 

となるでしょうか。(この訳に関して多くの方の協力を得ました、多謝)

 

 冒頭の「竹田の子守唄」にも似た詞がありました。

  盆が来たとて

  なにうれしかろ

  かたびらはなし

  おびはなし

盆に着飾って帰りたくてもかたびら(帷子・夏に着るひとえ)が無い。帯もない。

 

「五木」の方も

   おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆

   よかしゅ よかおび よかきもん

です。

 

 ここにある人権的問題が絡むので、「五木」のホームページには掲載されなかったと推測します。

 同様に「竹田の子守唄」は放送されなくなったのですが、ここではこれ以上は踏み込みません。

 

 今から20年くらい前、わたしは名古屋の有名な繊維問屋街長者町で成功を収めた老婦人に依頼されてたびたび治療に別宅を訪問しました。

 彼女は既に亡くなりましたが、もしご存命なら100歳位。

 まだ日本が貧しく、戦争に明け暮れた世を生きた方です。

 

 ある日、彼女の家は当時話題だったテレビドラマ「おしん」について、自分の経験を重ねて話しました。

 彼女の家は貧しくても自作農であったので尋常小学校を終えた後、高等科まで進むことができたが、仲良しの家の子は小作であったので小学4年生で止めて、おしんのように奉公に出たと言うのです。

 

 幼心にとてもかわいそうだったと嘆かれておられましたが、おそらくこうした少女が、奉公先の赤ちゃんを背負って子守唄を歌い、自らを慰めていたのでしょう(彼女の少し上の世代までは小学校は4年制でした)。

 小学4年生ならまだ10歳にも満たない子どもです。

 そんな幼い子が同世代の子のように遊ぶこともできず、祭りでも着飾ることが許されず、昼は農作業、あるいは家事の手伝い、そして夜泣きする子の子守りと厳しい労働に明け暮れていたのです。

 

  遠くに見えるは おやのうち

 

 自分の家を恋しく眺めながら、ぐずる子を背負って家の周囲を歩き回るいたいけない女の子。

 こうした光景が今からほんの数十年前まで見られたわけです。

 

 戦前から戦争中にかけて、長野県は教育県と呼ばれました。

 先だってNHKの歴史ドキュメントをたまたま見ていましたら、戦前の農村の貧しい様子を取り上げており、興味深く視聴しました。

 

 中でも見を引いたのが「子守り学級」。

 まさに読んだ字の通り。

 貧しい家の女の子は幼くして子守り奉公にだされるので、教育の機会が奪われる。

 そこで「子守り学級」を始めたというのです。

 

 画面には背中に子どもを背負い、手ぬぐいを姉さん被りした少女達がぞくぞく登校してきます。

 そのまま教室に入ると、背負ったままで授業を受けていました。

 また、校庭に出て、やはりおんぶしたまま遊戯などをやっていました。

 

 これは幼いうちに奉公に出なければならない子女にとってはとても良い考えです。

 また、おそらく雇い主達も必ず学校に出さねばならないという決まりができていたのでしょう。

 苦肉の策とはいえさすが教育県と呼ばれるだけのことはあります。

 教育内容は時代が時代ですからあえて問いませんが。

 

 しかし、それにしてもまだ親が恋しい幼子が貧しさゆえに家を離れ、よその子のお守をするのは悲しいものです。

 日本はそれだけ貧しかったのです。

 階級差も厳然たる現実としてそびえていたのでしょう。

 

 あれから数十年前。

 子守唄も風化してきました。

 今回、これを書くに当たって周囲の人に

「五木の子守唄知ってるかい」

と、尋ねてみました。

 30代半ばの方は知っていました。

 しかし、20代になると

「五木ひろしの曲ですか」

という返事が圧倒的。

 

 教科書にも出ていないようです。

 音楽大学で声楽を習っている学生も知りませんでした。

 まさに隔世の感。

 それが平和と富によるものと簡単にかたずける気にはなりません。

 歴史を知ることは今を生きることの最低条件です。

 たかが子守唄ですが、あまりに知られてないことに、安穏とはしておれない思いがしてなりませんでした。

 

 おどんがうっちんだちゅうて

 だいがにゃてくりゅきゃ

 裏の松山 せみが鳴く

 

それにしても

自分が死んでも、泣いてくれるのは松山のセミだけだなどと幼い少女が歌うとは悲しいですね。

 

後記

 

ここまで書いて何かが足りない気がしてなりませんでした。

そう、あの定番の子守唄が出てこないのです。

そこでインターネットで捜してみました。

すると発見。

悲しいだけでない、やさしい子守唄。

おそらくご存知でしょう。

 

子守唄(日本古謡)

ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやは良い子だ ねんねしな

ぼうやのおもりは どこへいった

あの山越えて 里へいった

里のみやげに なにもろた

でんでん太鼓に 笙の笛

 

ほっとしますね。

 

 はて、今日では子守唄を歌うおかあさんはいるのでしょうか。

 そんな疑問がでてきました。

 胎教に関心あるおかあさんはミニコンポからモーツァルトを流し、今風のおかあさんに育てられる子はロックやレゲエを聞いて寝ていることでしょう。

 どちらにしても無垢な赤ちゃんには健やかに育ってもらいたいものです。

 そのための受け皿としての社会、こちらも何とかしておかないと・・・。

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游氣風信 No,142 2001,10,1 四季のよろしさ

 今日は朝から秋雨がしょぼしょぼと降っています。

 秋の雨が数日続くことを秋霖(しゅうりん)と呼び、秋の侘しさを際立たせる季語として俳人が好んで用います。

 

 少し前までは暑さが苦になっていたのに、季節はいつしか寒さを感じる候にずれ込んで、四時の流れを改めて感じる今日この頃です。

 日本は季節が春夏秋冬と変化する、恵まれた国です。

 

 「名古屋の蒸し暑い夏は嫌だ」

とか、

「伊吹颪(おろし)が吹きすさぶ冬の寒さには耐えられない」
と季節ごとに愚痴っているくせに、その季節が過ぎ去るとなぜかなつかしく思えるのは不思議です。

 

 日本人の遺伝子と呼んでもあながち間違いではないでしょう。

 

 今年の夏、アメリカから一時帰国した若い女性が言いました。

「カリフォルニアはいいところなんです。大学のある街は治安が良くて、海岸も近く、風景は抜群。とっても暮らしやすいと思います。冬暖かく、夏は涼しい。

リゾートに最適なんですよね。でもねぇ、くっきりとした四季が無いんです。

カーッとした夏が恋しくて、それで一時帰国したんです」

 

 かわいい目玉をきょろきょろさせながら、うら若き乙女は戻ってきた理由をそう語りました(わたしに会いたくて帰国したのではないようで、それはとても残念でした)。

 

 わたしは海外渡航の経験が無いので、温帯ならどこでも明瞭な四季があると思っていました。赤道直下なら常夏だろうし、極地に近づけば年中晩秋から厳冬。しかし、カリフォルニア(彼女が滞在しているのはサンフランシスコの南)の緯度なら日本と変わらないと疑っていませんでした。

 

 国内でもさすがに北海道まで北上すると温帯とは呼べないようです。かの地では厳しい冬から卒然と春が来て、短い夏が駆け去り、すぐ野山は秋の装いになると聞きます。確かにわたしが6月に北海道に行ったときは阿寒湖辺りで霙(みぞれ)が降ってきて、上着を買った記憶があります。

 

 反対に南国沖縄。まだ行ったことはありませんが、年中温暖な気候で過ごしやすいところだろうと漠然と思っています。それでもそれなりの四季はあるでしょう。
 ところが外国はそうではないようです。

 

 中学の音楽の教科書にモーツアルト作曲の「五月の歌」という歌曲がありました。教科書は現在手元にありませんから誰の詩だったかは忘れました。

 

 楽しや五月 草木は萌え

 小川の岸に スミレ匂う

 優しき花を 見つつゆけば

 心も軽し そぞろ歩き

 

 オーストリアの厳しい冬は4月一杯続き、5月になると突然春がやってくる。

その喜びを感情に込めて歌うようにと教わったような気がしますが、遠い過去のことでしっかり覚えていません。北ヨーロッパは短い春の後、涼しい夏となり、一気に秋へ流れ込むのでしょう。北海道と似ているかもしれません。

 

 余談ですが、この歌は、大学のドイツ語の教科書にも掲っていました。もちろんドイツ語で。

 

 ドイツ語の教師はなかなかの大男。なぜか縦横(身長・体重)ともに、エリザベス女王と同じであると威張っていました。ことほどさように風格ある年配の教授でしたが、この歌を学生達にレコードで聞かせた後、「知床旅情」はこの曲の盗作だと言い張りました。

 

 確かにリズムは異なりますが、出だしのメロディーラインはとても似ています。

もっともわたしは以前から「五月の歌」は「早春賦」に似ていると感じていました。この方がリズムが近いのです。

 

 すると時を同じくする頃、新聞に「知床旅情」に「早春賦」の盗作の疑惑あり、という記事が掲載されました。

 「五月の歌」と「早春賦」と「知床旅情」。

 これらの不思議な符合に驚き、にんまりした記憶があります。もっとも厳密に言えば盗作ということではなく、出だしがどことなく似ているということです。

 

 さて本題に戻ります。

 四季のある暮らし。これに馴染んでいると、四季の無い暮らしはどこか寂しいようです。

 「カリフォルニアは四季がくっきりしていなくてもの足りない」

と二十歳半ばの女の子から聞かされると、その子の倍は生きているわたしとしても、普段はさほど気にしない四季の存在に対して

「無ければありがたいものなのだ」

と妙に関心します。

 

 四季は通常春に始まり夏、秋、冬と巡り再び春に戻ります。これを四季とか四時とか呼びます。冬の凍てついた死の世界から命が再生して春になるから、春を起点とするのだと思います。

 

 では、春はなぜ「はる」と言うのでしょう。

 諸説がありますが、一般的には「木の芽が張る(はる)」から来ているとされています。その他辞書に拠れば、「墾(は)る」とか「晴(は)る」から来るとも言われます。

 

 さらに広辞苑には

 日本や中国では立春(二月四日頃)から立夏(五月六日頃)まで
 陰暦では一月・二月・三月
 気象学的には太陽暦の三月・四月・五月
 天文学的には春分(三月二一日頃)から夏至(六月二二日頃)

とあります。複雑ですね。

 

 一月(正月)が春というのは今の感覚からは寒いのですが、陰暦ではそろそろ暖かくなるかなという辺りでしょうか。

 子供の頃、年賀状になぜ「賀春」とか「初春を寿ぎ」とか「謹賀新春」などのように「春」を書くのか、正月からが寒さ本番なのに何ゆえ年賀状に「春」「春」と書くのかずっと疑問に思っていました。

 しかし、陰暦時代の名残で一月を春と呼んだわけです。これは俳句を初めて氷解した疑問でした。

 

 夏の語源はもっと複雑です。同じく広辞苑に拠ります。

 朝鮮語のnierym(夏)、満州語のniyengniyeri(春)などアルタイ諸語で「若い」「新鮮な」の原義の語と同源か。あるいはアツ(暑)・ナル(生)・ネツ(熱の字音)からなどもいう。 

 

 こうして見ると日本語も中国語だけでなくさまざまな言語の影響かにあることが分かります。もちろん現在は圧倒的に英語です。

 

 一般的には六・七・八月

 陰暦では立夏から立秋まで。四・五・六月。

 天文学的には太陽が夏至点を通過して秋分点に来るまで、すなわち六月二三日前後から九月二三日前後まで

 七夕祭りは七月七日。陰暦では八月の終わり頃になるのですが、それを新暦に置き換えたために毎年梅雨の最中になり、あわれ、織り姫と彦星のデイトがめったにできなくなってしまったのです。

 

 次は秋。

 空がアキラカ(清明)であるところから。一説には収穫がア(飽)キ満チル意。また、草木の葉のアカ(紅)クなる意からとも わたしが知っていたのは「葉がアカく紅葉するから秋」でした。

 アメリカでは秋には葉が落ちるので秋autumnをfall(落ちる)と詩的に表現しています。

 天文学では秋分から冬至。

 太陽暦では九月から一一月まで。

 太陰暦では七月から九月まで。

 

 秋は収穫の時期ですが、冬に向かう寂しさを伴う季節でもあります。洋の東西を問

わずセンチメンタルになる季節。

 

落葉

          ヴェルレーヌ 訳 上田敏

 

秋の日の ヴィオロンの

ためいきの 身にしみて

ひたぶるに うら悲し。

 

鐘のおとに 胸ふたぎ

色かへて 涙ぐむ

過ぎし日の おもひでや。

 

げにわれは うらぶれて

ここかしこ さだめなく

とび散らふ 落葉かな。

 

 明治時代、近代詩の嚆矢となった上田敏の訳詩集「海潮音」からです。フランスの詩を翻訳したものですが、創作詩と呼んでもさしつかえないほどの完成度と言われています。

 ヴェルレーヌの原詩が分からないので断言はできませんが、こうした秋の感傷は万国共通のものではないかと思います。

 

 アメリカ青年からの手紙にも、

「秋は街路樹や林の木の葉の色が赤や黄色に変わり、町が美しくなります。そしてどこか寂しくなります。わたしはこんな季節が大好きです」とありました。彼も秋には美しさと同時に寂しさも味わっているのでしょう。

 木の葉にしても髪の毛にしても抜けると寂しいものです。

 

 さて、最後は冬です。

 ひゆ(冷)の意から、一説に、寒さが威力を「ふるう(振)」。または、寒さに

「ふるう(震)」

「ふゆ(殖)」の意からと、広辞苑にあります。

 

 一般には一二・一・二の三カ月。

 陰暦では立冬から立春までの、一〇・一一・一二の三カ月。

 天文学上には冬至から春分まで、すなわち一二月二二日頃から三月二一日頃まで。

 こうして見ると、陰暦では一・二・三月が春で、四・五・六月が夏、七・八・九月

が秋で一〇・一一・一二月が冬と非常に分かりやすいようです。

 

 さて、こうして日本人は四季のある暮らしを先祖代々過ごして来たのです。春や秋は季節を喜び、暑い夏や寒い冬はさまざまな工夫をしながら凌いだのでした。

 しかし、近年はその暮らしぶりに大きな変化が見られます。

 夏はクーラーでキンキンに冷やし、冬は暖房でポカポカ。

 室内での季節感はむしろ「夏涼しく、冬暖かし」です。

 以前の暮らしは、夏になると襖を葭戸(よしど)に替え熱気や湿度に対応し、窓には簾(すだれ)を垂らして西日を防ぎ、軒に風鈴を吊り音によって涼を演出し、庭に打ち水をすることで気化熱を利用し、熱気を冷まして暑い夏をやり過ごしました。

 

 人は環境に働きかけることで自らの心身を脆弱にしてきたことは否めません。しかしこの二十年の転換は軌を逸しているほど激しいものです。

 

 この仕事に入ったとき、農家のおばあさんたちから

「今日はいい雨だなも」

「畑仕事の合間に木陰でやすんどると、極楽風が吹いてくる。ありがたいことだわな

も」

「雷様が雨を運んでくだれる」

などど、自然に感謝する言葉をしきりに聞いたものでした。

 

 ところだ最近はいけません。おばあさんもおじいさんも愚痴と文句ばかり。

「どえりゃ暑いでかんわ」

「雨ばっか降って、からだんじゅう(体中)黴がひゃあてまうわ(生えてしまうわ)」

「こうも寒てはだちかん。ストーブ入れてちょ」

 

 若い世代は推して知るべしです。

 夏の暑さを恋しがる女性。案外、四季もないと寂しいものなのでしょう。これは身体に刻まれたリズムに相違ありません。

 

後記

 10月23日、友人の服部夫妻のサクソフォンとピアノのリサイタルにでかけました。

昨年と同様フランスの若きサクソフォン奏者モレティ氏も参加。

 曲は日本の作曲家の新曲が多く、かなりハードで性根を据えて聞かなければ置いて行かれるものが多かったのですが、全体の構成に見るべきものがあって、あっと言う間に二時間が過ぎ去りました。

 アンコールのピアノ・ソロのピアソラは圧巻でしたし、最後のモンティのチャルダッュも円熟の出来栄え。

 まだまだ発展しているデュオ服部。同級生としては負けておれません。

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游氣風信 No,141 2001,9,1  偶然

 世の中にはおもしろい偶然、あるいは意外な偶然があります。

 

 この夏、偶然にも二人の旧友が今池の治療室に相次いでやって来ました。旧友と言っても二人ともまだ20代から30代前半の若い女性。

 

 一人はアメリカ人のMさん。
 彼女は以前わたしの指圧教室に出入りしていました。
 わたしの知るかぎり今までで最も日本語の上手なアメリカ人の一人です。何しろ、日本語検定の最上級に合格し、わたしの知らない漢字もすらすら書きます。

 毎月の「游氣風信」もメールで読んでおられます。もちろん日本語で。

 

 名古屋の大学で勉強したあと、彼女はしばらく名古屋の会社で社長秘書や翻訳の仕事をしました。その後、ルーマニア女性の紹介で神戸にあるWHO世界保健機構に勤め、一昨年アメリカに帰国。現在さる大学院で通訳や翻訳の勉強をしています。

 今年の夏休み、日本企業でのアルバイトのために来日、東京で暮らし、7月末に来名、旧交を温めました。

 

 さて、もう一人の知人はKさん。彼女は若い日本人です。
 名古屋で有名なお嬢様学校で中学から大学まで過ごした後、大学院に進みました。しかし入った後、これは自分のやりたいことではないと一年で中退し、親の反対を振り切ってアメリカの大学院に留学しました。

 ハープを奏で、ベンツを愛用するという見るからにお嬢様然とした素直な愛らしい女性です。
 彼女は時々身体の調整のためにわたしの元に来ていました。

 

 この二人の女性。日本にいる時は互いに面識はありませんでした。
 ここから偶然の面白さが始まります。KさんとMさん。彼女たち二人の共通の友人Bさんの登場です。

 

 Kさんの友人にアメリカ人のBさんがいます。
 Bさんもわたしの指圧教室の熱心な生徒でした。
 Bさんはアメリカの大学を出た後、アフリカのジンバブエで2年過ごし、そのあと日本で2年暮らし、その間、持ち前の行動力で交友を広げ、相当に日本語を上達させ、多くの人にたくさんの思い出を残して帰国しました。

 

 笑顔がとても魅力的な、いかにもアメリカ人という明るい活発な感じの女性で、帰国後、大学院に進み、現在はスポーツイベント会社に勤めています。 アメリカの大学院に進んだ日本人のKさんは当時ワシントンDCに住んでいたBさんの家に遊びに出掛けました。そして今、カリフォルニア州モントレーの大学院で通訳・翻訳の勉強をしていると話したのです。するとBさんから意外な反応がありました。

 

「あら、ちょっと待って。その大学院ならMがいるはずよ。彼女とは三島先生の指圧教室で一緒だったの」
「えーっ、Mは同級生だわ。知らなかった」
 実際にこんな会話があったかどうか知りませんが、Kさんは同級生のMさんが以前名古屋に住んでいて、しかもわたしのところに出入りしていたことを遠いアメリカに来て知ったのです。

 

 MさんもKさんもこの夏、相次いでわたしの所にやってきました。そしてどちらも「ねえねえ、Kさん知ってるでしょ?同級生よ!」

アメリカ料理でいささか太くなったMさんは興奮して語りかけました。

 同様にKさんも
「先生、Mさんご存じですか。ここに出入りしてたでしょ。Bに聞くまで全く知らなかった。同級生なんて、世界は狭いですよ~」と、その偶然を面白がっていました。

 Kさんもアメリカ料理で太くなったようですが、日本食で元のスリムな体型に戻したそうです。

 

 大学院でわたしの悪口など語り合っていないか心配です。

 さらに、Kさんが武道の稽古で痛めた手首を治療するために地元のカイロプラクター(米国整体師)の所を訪問したところ、なんと彼は以前名古屋に住んでいて、
「Mr.三島なら知っている。会ったことはないが友人から名前を聞いたことがある」
と言ったそうです。
 海を越えてわたしのことを知っている人がいたとは驚き。

 

 このようにわたしたちの周囲は奇妙な偶然に満ちています。

 さて、もう一つの偶然。

 

 小学6年生のIちゃん。

 彼女のお母さんとは20年来の交流があります。したがって、Iちゃんのことは生まれたときからよく知っています。夜泣きや車酔いなど、赤ちゃんの頃から何回か身体調整もしました。

 

 Iちゃんは幼いときから趣味としてピアノやバイオリンを習っていますが、最近バイオリンの先生が引っ越しされて、新しい先生に変わったと聞きました。

「新しい先生はどこに住んでみえるの」
 先生が変わったと聞いたわたしはIちゃんのお母さんに尋ねました。
「同じ区に住んでおられる若い先生」
「おなじ区?」

 おやっと思ったわたしは新しい先生の名前を質問しました。
「先生の名前は?」

「K先生」
「やっぱり予想通り。じゃあ、名前はMさんだ」
「え、どうしてご存じなんですか」
「その人なら知ってるよ。お父さんもお母さんもお姉さんも知ってるよ」
「えー?どうしてー!どうして知ってるんですか?きゃー、もっとしっかり娘にバイオリンの練習させなきゃー」

 あわれ、Iちゃんの練習時間は翌日から倍になりました。と言ってもまだまだ大変短いそうです。

 

 なぜ、普通なら気にしないはずのバイオリンの先生の名前を尋ねたか。実はこれには布石があります。
 この会話の2、3カ月前、バイオリンのK先生のお母さんから、
「最近娘が自宅で子供達にバイオリンを教え出したのよ。引っ越しされた先生から引き継いだの」
と聞いていました。

 そこで、同じ区内に住んでいるIちゃんなら、もしかしたらそこに通っているのかなと思って先生のことを聞いたのです。

 とても面白い偶然でした。

 

 以前、ある講習会で次のようなことを聞きました。
 ものごとは「偶然」の産物であると因果関係を実証的に研究するのが「科学」。
 ものごとは「必然」の結果であり、それは何故かと思索するのが「哲学」。
 すべては絶対的存在の意の現れであり「当然」のことであると受け入れるのが「宗教」。

 果たしてこれが論理的に正しいかどうかは分かりませんが面白い分類だと思いました。

 

 広辞苑によれば

偶然

1 何の因果関係もなく、予期せぬ出来事がおこるさま。

2 イ 原因がわからないこと。客観的な偶然を否定する極端な決定論の立場からの主張。 

  ロ 歩行者の上に瓦が落ちてくる場合のように、ある方向に進む因果関係系列に対して、別の因果系列が普遍的理由なしに交錯してくる場合。一般に必然的な法則は、現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、常に偶然的事情がともなう。

必然

必ずそうなること。

必然性

何かがそれ以外でありえないこと。論理的必然性は、一定の前提から論理の法則に従って結論が導かれること。倫理的必然性は、道徳法則が個人に対して義務ないし等為であること。現象的必然性は自然・社会を問わず、事象が因果関係に支配されること。

 

当然

道理上からそうあるべきこと。あたりまえ。

 

偶然や必然に比べて当然は実にあっさりしています。

 

 わたしの知り合いのMさんやKさんがたまたまアメリカの大学院で同級生になったのは論理的にも倫理的にも現象的にも必然ではなく、無論当然ではありません。あくまでも無数の因果系列の交錯の中で貫徹された偶然的事情です。

 

 しかし、もしそこに意味付けを試みるなら、即ち何故、二人は同じ学校に来たのだろうか。こらは神のお導きなのだろうか。前世からの定められた運命だろうか、などと考えるなら宗教者あるいは運命論者ということになります。そいういう傾向の方ももちろんおられます。

 

 「偶然」という時、いつも脳裏に浮かぶ宮沢賢治の言葉があります。これは賢治が、彼を慕う女性に書いた手紙の下書きで、女性関係があまり報告されていない賢治の貴重な資料とされています。少し長いですが引用しましょう。

 

 (前略)ただひとつどうしても棄てられない問題は、たとへば宇宙意志というやうなものがあって、あらゆる生物をほんたうの幸福に齎(もたら)したいと考へてゐるものか、それとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学のいづれかによって行くべきかといふ場合、私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階があり、その最終のものはあらゆる迷誤をはなれて、あらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめようとしてゐるといふ、まあ、中学生の考へるやうな点です。

 

 宮沢賢治が昭和4年(37歳で亡くなる4年前)、彼のもとに頻繁に訪れた高瀬露という女性に出した手紙の下書きとされています。クリスチャンの高瀬は賢治に強く憧れたのですが、田舎における男女の噂を恐れた賢治がさまざまな方法を使って遠ざけた可愛そうな女性です。

 

 賢治の没後、彼女は幸福な結婚をし、その後も賢治を師と慕う短歌などを発表していました。

 

 この手紙を読むと賢治が当時かなり高度の科学を収めた(盛岡高等農林・現岩手大学で助手を勤め、教授から研究職に進むよう進言された)にもかかわらず科学を偶然盲目的なものととらえ、あらゆる生物を幸福にいたらしめようとする宇宙意志を信仰するという、本質的には宗教的人格であることが伺われます。

 

 現実には誰もがさまざまな局面で両者の間で揺れているのではないでしょうか。

 

 余談でした。

 町でたまたま友人に出会ったとき、それは全くの偶然と考える人、その出会いに何らかの意味を見いだそうとする人(二人の小指は赤い糸で結ばれていたとか)、これは神の思し召しと受け入れる人。

 

 人の思いはさまざまです。
 世の中が偶然盲目なのか、ある意志が働いているのか、これは唯物論か観念論かの立脚点の違いでしょうが、究極、人は人との関わりの中で、つまり歴史と社会の関わりの中で、幸せな人生を生きていくことが最も卑近な目的です。

 人生が偶然の集積で成り立っているのか、あるいはある絶対意志の発露なのか、各自が好みの立場に立てばいいでしょう。しかし、それが他人の存在を否定するものなら不幸なものです。

 

〈後記〉

 

 ニューヨークで世界を呆然、震撼とさせるテロが発生しました。

 

 対立と闘争。

 これらの相克・止揚による相互浸透。

 これらが善くも悪くも人類史を動かしてきた原動力です。これは発展にも破壊にもつながりなす。

 

 人類はこの繰り返しを何故発展のみに方向付けられないのか。過去に学べないのか。

 

 今度の旅客機によるワールド・トレーディング・センターの破壊テロをテレビで目の当たりにして、驚きや怒り、それらを通り越した空しさが全身を覆いました。

 

 それ以後、社会全体がどこか鬱然とした雰囲気に覆われていると感じるのは気のせいでしょうか。

 

 連日、アメリカ人や在住の日本の知人たちから多くのメールが届きます。

 正義のためとは言え、戦争には反対する意見。

 踏みにじられた平和に対する何らかの決着は必要というジレンマ。

 町中を異常なほどの数の星条旗がはためいているけど、これは純粋な愛国心とは思えない。

 平和を求めるメッセージにサインしてホワイトハウスにメールをしようという呼びかけ。

 みんなを沈静化させるための宗教的愛のことば。

 少し落ち着こう。我々に必要なのはささやかなユーモアだと愉快な写真を添付したメール。

 

 彼らの困惑、混乱、怒り、悲しみがもろに伝わってきます。

 果たしてわれわれに何が可能か。わたしも困惑に戸惑うばかりです。

 

 被害を受けた米国寄りの意見と同時に、古代から続いているイスラム文化への共感(テロへの共感ではありません)。

 このままイスラム文化とキリスト文化の争いになれば、11世紀から13世紀にかけての十字軍遠征の再来に成りかねません。この対立と闘争もその後多くのものを生み出したのですが。

 

 こうなるとビートルズのジョン・レノンのように

「天国が無いと想像してごらん。そうすれば地獄も無くなるし、宗教も無くなる。宗教が無くなれば国境が無くなり、国境が無くなれば戦争も無くなる。簡単だろう。想像するだけでいいんだ」

と歌いたくなります。

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游氣風信 No,140 2001,8,1 虫を詠む・・・

 先月、「游氣風信」で短歌の歴史の勉強をしました。ならば今月は実践編として短歌を詠むことにしました。

 素材は身近な虫。

 
 今年になって、ある有名女流俳人の訃報に接し、急に短歌を詠みたくなりました。それ以来、全くの独学で時々短歌を詠んでいます。しかし当然のことながら初心者の謗りは免れない全くの「ど素人」。良否の判断もおぼつかない初学者の無謀な試みです。ゆめゆめ、お笑い召さるな。

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忙しき蜂の営み日輪はから松山を西に傾く

  縁側に腰掛けてぼんやり向かいの山を見ていますと、小さな名前の分からない蜂がしきりにやってきます。蜂は蟻とともに高度な社会を構成する昆虫で分類上同じ仲間です。その生態から彼らはしばしば人間社会と対比されます。とりわけ働き蜂は人間社会の男を思わせます。休みにもかかわらず一生懸命働いている蜂を見ると憐憫の情を禁じ得ません。しかし彼らにも安息の夜は訪れるのです。

 

羽ばたきは呼吸なるかも銀やんま止まる時は命果つる時

 名古屋近辺ではまず見ることのできない銀ヤンマ。腹の部分が黄色や青色でとてもきれいです。近在の城跡のお堀には実にたくさんの種類のトンボが生息していて、それが時々庭にもやってきます。この庭にも清水の湧き出る池があるからです。銀ヤンマは飛ぶのが上手、とても素早くてなかなか捕らえることはできません。池に産卵する時をねらうのがコツ。 太陽の下でキラッと翻る美しさはいかなる宝石にも負けません。

 

天地を切り裂いてくる鬼やんまその身ほとりに水音を負ひ

  トンボの王様は何と言っても鬼ヤンマ。黄色と黒のまだらが鬼の毛衣(虎?)を想像させます。これも自宅の方ではめったに見ることがありません。小型の小鬼ヤンマもいます。鬼ヤンマ達には川に沿った飛行路(道)があり、そこで待ち伏せしていると次々やってきますから、比較的捕まえやすいトンボです。


熊蜂の羽音障子を打ち続け玻璃窓とほくはや秋の雲

  クマバチ。俗に言う熊ん蜂はスズメバチのこと。本当の熊蜂は大型のミツバチの仲間で3センチ近くにもなります。体は黒い毛で覆われていてまさに熊。しかしミツバチらしく丸っこくてどこか可愛らしい蜂です。刺されたら痛いとは思いますが・・・。

 なぜか座敷に入ってきて、障子にぶつかり出られなくなるトンマな蜂です。

 

古家は石垣囲ひをちこちの草より届く馬追のこゑ

  ウマオイはキリギリスの仲間。鮮やかな緑色のバッタです。スーイッチョと鳴きます。その声が馬を追う人の掛け声に似ているところから命名されたと想像されます。昼間、あちこちの草むらからしきりに聞かれます。炎天、されどもう秋だなと感じさせる音色。

 

一日の長しとりわけ昼下がりみんみん蝉は飽かず鳴きをり

 昼下がりは停滞した時間に飽きるときです。その間も絶え間無く山で鳴いているのがミンミン蝉。名古屋の方では「ジリジリジリ」と鳴くアブラゼミや「シャーシャーシャー」のクマゼミが圧倒的に多いのですが、この類いは喧噪
と暑さを演出します。

 それに対して山間ではミンミン蝉が主力。「ミーンミンミンミ~ン」と鼻詰まりの長閑な鳴き方。姿は声と異なり、透き通った羽と緑がかった美しい胴体の大型のセミです。

 

草深き野道を行けば糸とんぼ青光りして手より逃るる

 アオイトトンボです。青い金属的な光沢が鮮やか。薄暗い草むらの中に止まっていて近づくと飛び立ちます。飛ぶのが下手ですから簡単に捕まえることができますが、弱竹(なよたけ)の少女ような細々した姿態に哀れを感じ、掴むことを躊躇するうちに隣の草にはたはたと飛んで逃げます。

 

お濠なる水生植物花つけて飛翔自在にこしあきとんぼ

 コシアキトンボは、池などで比較的簡単に見ることのできるとんぼ。黒い胴体に腹巻きを巻いたように白い部分があり、腰が透けているように見えるので「腰空きとんぼ」などとおかしな名前が付いたと考えられます。去年の梅雨どき、岡崎公園に知人のお世話で俳句の吟行に出掛けたとき、一杯飛んでいました。

 

水馬の一生を過ごす水の上雲映りたり空映りたり

 水馬はアメンボと読みます。ミズスマシ(水澄まし)と混同されることがあります。アメンボはカメムシの仲間で、細く長い足で水面に立ち、ボートのオールを漕ぐように上手に走る虫。カメムシの仲間ですから臭気を出しますが、アメンボは飴のような匂いを出すので飴ん棒とも書きます。

 混同されやすいミズスマシは甲虫の仲間で水面をモーターボートのように走り回ります。今ではめったに見ることができません。一生は「ひとよ」。

 

風死んで時厳かに過ぎるなり草生何処に鳴くきりぎりす

  草生は「くさふ」。「ふ」は草木のたくさん生い茂る場所のことで、芝生などに使われます。キリギリスは昼間から草むらでチョンギースと鳴きます。大型の格好いいバッタですからなんとか捕まえたいと思ったものですが、めったに見つけられませんでした。

 今回、その間延びした鳴き声からふと「時間」を意識しました。人生とはつまるところ有限な時間でしかありません。退屈に生きるとは、人生における犯罪的行為とも思えますが、それもまた時には悪くないものです。退屈とは人生に深い味わいを与えてくれる酒・珈琲などの嗜好品のようなものです。

 

干し物の辺り明るし生涯を足長蜂の足垂るるまま

 縁側近くをせわしく行き来しているのはお馴染みアシナガバチ。長い足をだらりと下げて飛んでいます。
 一日中、巣作りや子育てで忙しくあくせく飛び交っているはずですが、その垂らした脚からどこかのんびりとした風情を感じます。

 

迎え火の熾り始めのさびしさに絶え間無きかな山の蜩

 せっかちな家ではまだ明るいうちから盆の迎え火を焚きます。夕暮れは特にヒグラシの好む時間帯。「カナカナカナ」と哀れな声が山から届いてくる頃、先祖の霊を招くために門前で火を着けると、真っ赤な熾火が黄昏に立ち上がります。

 あちこちの門前が焔で彩られる頃、次第に闇が深まり、いつもと同じ夕暮れが厳かな空気に包まれるのです。母屋の仏間は盆提灯の青い走馬灯に照らされまるで水底のよう。

 盆、蜩、終戦記念日。これらは全く関連のないモノゴトですが、日本人の心には何かが通底しています。

 

ひるがへる空の高さよ山国の大紫に秋間近なり

 
 オオムラサキ(国蝶)は名前の通り紫色が印象的な大型のタテハチョウ。縁側に座っていると、一日に一・二度
は見ることができます。つまり、何回も行き来しているのでしょう。山梨県の長坂町はオオムラサキの里と自称して保存に努めているようです。

 オオムラサキが翻るとき紫がキラリと光ります。その空の高さは確かに秋の訪れを感じさせました。

 

土飛蝗捕えてみれば手の中の弾み止まざるいのちなりけり

 ツチバッタ。殿様バッタの仲間ですが、それより小型で地上をよく跳ねています。色は地味な土色。子供のころ、あまりに当たり前にいるこのバッタは採るに値しませんでした。正式な名称は知りません。カワラバッタかクルマバッタか。

 バッタの跳躍力は素晴らしいもので、掌に捕まえると激しく跳びはねます。その勢いにしばし感動したのち、放してやりました。

 

黒揚羽あひ睦みあふ山百合の花を支える茎の勁さよ

 山には背の高い山百合がたくさん自生しています。その細長い茎には大きすぎる花にクロアゲハが二匹じゃれ合っていました。茎に漲るしなやかで強靭な力。「勁」という字を思わずにはいられませんでした。

 

山の日を惜しみなく得て朱と染まり里に戻りし蜻蛉なりけり

 お盆の頃にはアキアカネやナツアカネ、ミヤマアカネが真っ赤に染まって山を下ってきます。いわゆる赤トンボ。トウガラシのように真っ赤になるのはオスで、メスは黄色いまま。ミヤマアカネは羽根の先端近くにある褐色の帯が特徴的です。

 
漆黒の極みの翠身に負ひて烏揚羽に影立ち上がる


 「翠」はミドリ色のことです。
 カラスアゲハは翼に金属的な光沢があります。その色は金色や青や緑が交ざった美しさ。きれいな黒髪のことを「烏の濡れ羽色」と言い、また、「緑の黒髪」とも言いますが、まさにそんな感じ。近似種にクロアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハなど黒い大型のアゲハもいますが、それらは黒いだけで光沢がありませんからカラスアゲハとは容易に鑑別できます。
 黒や夜にかかる枕詞「うばたまの」のうばたまは「射干玉」と書きますが「烏羽玉(ぬばたま)」とも言います。このあたりの関連はおもしろいものがあります。

 黒いカラスアゲハから黒い影が立ち上がるのをおもしろがって作りましたが、興味が空回りしているようです。

 

蔵町に倉の片陰つづきけり甍を越ゆる二羽の黄立羽

 この近辺の旧家にはみな白壁の蔵があります。炎天が生む片影には時間が染み付いているような気がしてなりません。そんな停滞を打ち破るようにやって来たのは二羽のキタテハ。飛び方に落ち着きの無い蝶々です。しかしあまり人を恐れることがなく、近づいてもすぐには逃げず、時には肩に止まって首筋の汗などを吸うこともあります。

 

〈後記〉

 短歌を作り、そのコメントを一気に書きあげました。

 実際に挑戦してみて、短歌は俳句より数だけは簡単にできるものだと改めて確認できました。むろん、作品の善し悪しとは別の問題です。

 
 俳句は思いをどんどん収縮して作りますが、短歌は逆に思いを調べに乗せて拡散することで書き上げていく感じ。

 俳句は十七文字、短歌は三十一文字。たった十四文字の差ですが、俳句からみると短歌は倍近い長さですからそれぞれの個性の違いが生じるのは無理もありません。

 

 短歌に熱中すると俳句ができなくなることは十数年前に体験済み。
 これからも俳句を主としつつ、日本詩歌の主流であった短歌とも上手に付き合っていきたいものです。つまり歌は興が乗ったら作る。それに対してわたしにとって俳句はもっと生きることに深くかかわっています。

 反対に短歌が人生に直結している人もいるわけで、こうしたところから個性が生まれてくるのでしょう。

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2011年7月16日 (土)

游氣風信 No,139 2001,7,1 短歌のお勉強

 俳句のことは以前から時々《游氣風信》に取り上げてきました。

 不肖私も二十歳前より断続的ながら句作を継続して今に至っていますから、俳句に関しては多少の意見を持っています。

 しかも生意気にも何本かの俳句論も書いています。
 

 しかし、日本の詩歌を語るには俳句だけでは片手落ちです。むしろ和歌の歴史の正統は短歌にありと申しても過言ではないでしょう。

 

 その証拠に、正月恒例「歌会始」という国家的行事はあっても「句会始」はありません。意外なことに「歌会始」は明治二年制定という比較的新しいものですが、古来からの宮中儀式をもとに制定されたものであることには違いありません。

 

 ここから想像できるように、元来、詩歌の本流をなすのは三十一文字の短歌なのです。その明確な根拠は万葉集あるいはそれ以前の記紀歌謡にまで辿ることが可能です。

 

「雅」と「俗」

 十七文字の俳句は「雅」なる和歌の歴史の中で近世になって「俗」なるものとしてしゃしゃり出てきた新興の形式「誹諧連句」が、さらに明治になって一句独立して「俳句」となったものです。詩歌の歴史から鑑みるに、俳句は「俗」なものであって決して高尚な趣味などではありません。

 

 誇り高き「俗」である以上、俳人が「歌会始」のようなお上主体の行事などに興味を持たないのは当然であり、そこにこそ俳人としての矜持(きょうじ)が存在するのです。

 

 もっとも現代の短歌は五七五七七という形式は踏襲しているもののいわるゆ「雅」とは相いれない複雑さと多層性を包含して存在しています。

 

 今月は謙虚に短歌(和歌)についてお勉強をしてみようと思います。と申しても文学をきちんと勉強したことのない、率直に申せば文学には全く疎いわたしが書くことですから、なにとぞ話半分にお読みいただいて、これをもってまっとうな知識とされないことを強くお願い申し上げます。

 

現代の短歌

 まず最初に現代短歌と呼ばれる戦後の有名な短歌を幾つか紹介いたしましょう。特に青春詠と呼ばれる若々しい歌です。そこから一気に歴史を遡行します。

 

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり 春日井 建

青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき 高野公彦

ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり 河野裕子

きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり 永田和宏

いちまいのガーゼのごとき風立ちてつつまれやすし傷待つ胸は 小池 光

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ 永井陽子

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵 万智

限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月 穂村 弘

 

 戦後から平成にかけての歌をざっと紹介しました。作者は六十代から三十代(故人の作もあります)。それぞれの作者の青春の頃の作品です。

 

上代歌謡

 さて、時を一気に遡行します。

 日本がまだ文字を持たなかった時代、つまり古事記や日本書紀の時代です。

この時代の歌を上代歌謡、特に古事記・日本書紀に出てくる歌を記紀歌謡と呼ぶようです。文字がないため口承文学。したがって歌謡。

 

 たとえば古事記には有名な次の歌があります。

 

やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣山 こもれる やまとしうるはし

 

万葉集

 上代文学を代表するものはなんと言っても万葉集です。仁徳天皇(313年頃)から淳仁天皇(759年頃)の時代、実に四百五十年間の歌が四千五百首集めてあります。大伴家持らの編集と言われています。

 

 形式も長歌(五七五七と繰り返し七七で閉めるのが普通)・短歌(五七五七七)・旋頭歌(五七七五七七)・仏足石歌(五七五七七七)などが完成され、内容も雑歌(後の二つに分類されないもの)・相聞(主に恋の歌)・挽歌(死を悼む歌)などに分類できます。どうです、受験勉強を思い出されたでしょう。

 

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 国見をすれば 

国原は 煙りたちたつ 海原は かまめたちたつ うまし国ぞ あきつ島 大

和の国は                               舒明天皇

 

 これが長歌です。長歌には反歌という内容を短くした歌、つまり短歌を添えることが普通でした。最も知られたものは次の歌でしょう。

 

長歌

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしもの

ぞ 眼交に もとな懸かりて 安眠し寝さぬ

反歌

銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも

山上憶良

 

その他有名なものとしては以下のものがあります。

 

近江の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 柿本人麻呂

石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春となりにけるかも 志貴皇子

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな 大伴旅人

わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも 大伴家持

 

 万葉集以後、古今集、新古今集、金槐和歌集などが勅選されました。

 

古今集

 古今集は淳仁天皇(759年頃)から醍醐天皇(905年頃)にわたる勅選和歌集で、醍醐天皇の勅命によるものです。紀貫之、凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑の選によります。

 万葉集に比して理知的、観念的と言われています。

 

あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめのすがたしばしとどめむ  遍昭

ちはやぶる神世もきかずたつた河唐紅に水くくるとは  在原業平

久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ  友則

あすしらぬわが身と思へどくれぬまのけふは人こそ悲しかりかれ 貫之

夜をさむみおくはつ霜をはらひつつ草の枕にあまたたびねぬ  躬恒

春きぬと人はいへども鴬のなかぬかぎりはあらじとぞ思ふ  忠岑

秋きぬとめにはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる  藤原敏行

 

新古今集

 新古今集は1201年、後鳥羽院の指示で源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家

隆などが選をしました。すべて短歌です。幽遠な情緒を象徴的に表現し、本歌

取も特徴的です。

 

岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ 西行法師

山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水 式子内親王

見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ 後鳥羽院

駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ 定家

 

金槐和歌集

 金槐和歌集は新古今の理知的な傾向に乗らず、万葉調を学んだ鎌倉幕府第三

代将軍源実朝(1192~1219)の家集です。実朝は頼朝と政子の第二子。十一歳

で将軍になり、二十七歳で殺されました。

 

今朝みれば山も霞みて久方の天の原より春はきにけり

はるがすみたつたの山の桜花おぼつかなきを知る人のなき

大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも

 

連歌

 中世になって連歌が流行ります。これは五七五と七七を別の作者が作るものですが、これが隆盛となったのは院政すなわち1086年白河上皇の頃からです。

他人数で五七五と七七を交互に作っていきます。

 

 最初の句を発句(ほっく)、次を脇、三番目を第三、最終句を挙句と予備、通常百句並べる百韻が作られました。発句が独立して俳句になるのは明治になってからです。

 

 連歌は宗祇(1421~1502)を頂点として後は衰退し、室町後期には卑近・滑稽を旨とする誹諧連歌(連句)が盛んになります。山崎宗鑑・荒木田守武、遅れて江戸初期の西山宗因(談林)・松永貞徳(貞門)・松尾芭蕉(蕉門)が有名。

 

誹諧連句

 江戸は町人文化です。一般人が文芸の世界にも参入してきました。

 「連歌」が和歌の古典知識を素養とした情緒を保持していたのに対し、「誹諧の連歌」すなわち「連句」は古典的な知識を持たずとも作ることができる、つまり庶民に開かれた文芸として江戸期を彩ります。

 

 しかしその流れの中でも荒木田守武は「誹諧を卑俗な遊びから一つの風雅に高める」という意志を表明し、芭蕉によって、通俗卑近な誹諧の特性を保持しつつ、「わび・さび・しをり・ほそみ」の独立した文芸として完成するに至りました。芭蕉は自分の人生そのものを作品化した希有の存在です。誹諧はそのスパイスに過ぎません。

 

 一般人が参加するようになると、三日も四日も費やす百韻は無理ですから、短い歌仙(三十六韻)が流行しました。

 

夏の夜は明くれどあかぬまぶたかな 荒木田守武

鳳凰も出でよのどけきとりの年 松永貞徳

やがて見よ棒くらはせん蕎麦の花 西山宗因

長持に春ぞ暮れゆく更衣 井原西鶴

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 芭蕉

あけぼのや白魚白きこと一寸 芭蕉

この道や行く人なしに秋の暮 芭蕉

牡丹散つてうちかさなりぬ二三片 蕪村

何事もあなたまかせの年の暮 一茶

 

狂歌

 江戸期に忘れてはならないものに川柳と狂歌があります。

 狂歌は鎌倉時代から詠まれているらしく、江戸期に盛んになりました。

 

ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔 四方赤良

いつ見てもさてお若いと口々にほめそやさるる年ぞくやしき 朱楽菅公

はまぐりに嘴をしつかと挟まれて鴫立ちゆかぬ秋の夕暮 宿屋飯盛

心なき身にもあはれや立つ鴫をやにはに射たる秋の夕暮 鯛屋貞柳

本歌

心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ澤の秋の夕ぐれ 西行法師

 

川柳

 川柳は人の名前です。元来前句付けと言って、前句を出してそれに付ける付句を広く応募するという投機的な娯楽でした。柄井川柳という選者が付句だけでも独り立ちできる秀作を集めて「俳風柳樽」という本を発行したのが川柳の始まりです。

 

 川柳は滑稽な様子を描きながらそこに世事人情の心理を見抜くおもしろさがあります。

 

こはい事かなこはい事かな(前句)

雷をまねて腹掛やっとさせ(付句)

 

とい具合です。しかし、次第に付句だけでも独り立ちできるような内容になりました。

 

母親はもつたいないがだましよい

うちわうり少しあふいで出して見せ

役人の子はにぎにぎをよく覚え

本降りになつて出て行く雨宿り

料理人まわらぬ舌でほめらるる

 

正岡子規の革新

 明治になって、日本の文芸史を集約する一人の卓越した人物が登場します。

正岡子規(1867~1902)。その事業の大半を脊椎カリエスによる病臥という壮絶な中でやり遂げています。

 

 彼は西洋美術から取り入れた「写生」を重視しました。

 「私が・見る」が持つ矛盾、つまり自我と客観性という矛盾を自覚的な手法とした写生はそれ以後の俳句を変革したのみでなく、過去を批判的に再検討することにもなりました。

 

 子規は誹諧連句の発句(最初の一句)を俳句として独立させ、それまで崇拝されていた芭蕉でなく視覚的な蕪村に帰れと唱えました。次に短歌の革新を行い、恣意的・技巧的な「古今・新古今」を批判して素直でおおらかな万葉集に新しい光を与えたのです。

 

 これらは極めて戦略的なものでした。つまり当時隆盛を誇っていた流派の批判のためにそれらの流派が神のごとく尊重していた芭蕉や古今を斬って捨てたのです。その点、子規は実に雄々しき戦略家でもありました。この強い精神力なくして、病床から俳句革新・短歌革新を行うことなどできなかったことでしょう。

 

 彼の周辺からは俳句の高浜虚子と河東碧梧桐、短歌の伊藤左千夫や長塚節、文章では夏目漱石とそうそうたる人物を輩出したのでした。

 

暖かな雨が降るなり枯葎(むぐら) 正岡子規

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 

いくたびも雪の深さを尋ねけり

鶏頭の十四五本もありぬべし

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり

冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

 

 以降、日本の詩歌史は現代詩勃興などさまざまに揺れながら今日にいたるのです。

 

 こうしてざっと詩歌史を俯瞰してみますと、短歌はずっと短歌として一貫し、その周縁を誹諧(俳句を含む)が纏わり付いていたようにも見えます。

 しかし今日、俳句人口は短歌人口を圧倒的に凌駕しているようです。それはなぜでしょう。

 

 五七五七七という人々の心に安定して伝わる完成されたリズムと、ゆったりと述べるに足る十分な文字の数。

 それに対して七七を失って調べも内容も不完全のままに表現しようとする俳句。ところが逆にそこにこそ俳句のおもしろさが生じました。つまり言い足りない部分は鑑賞する人が埋めてくれるのです。これは極めて現代的な芸術の在り方です。

 

 さらに「言いおおせていない」ところにこそ本当の心が隠されているという日本芸術の重要な課題である「間」が、切れ字の発展により大いに生きてくることとなりました。

 

 これなら少々下手でも大丈夫。しかも古典的な素養も必要ありません。いつの時代も大衆化はこうして進むのではないでしょうか。

 

 しかし、カラオケでもゴルフでもそうですが、大衆は好きだけでは満足できません。必ず上手になりたいものです。

 

 その点、なんとありがたいことか、俳句は知らず知らずのうちに上手に見える器だったのです。

 これが俳句隆盛の理由ではないかと一人で思っています。

 

 大衆の大かたは予想以上に熱心でまじめです。

 俳句を作る人はいつもこれではいけない、風雅の誠を求めた芭蕉に帰れ、真なる美に生涯を殉じた西行に戻れと考えています。こうして歴史は繰り返されるのでしょう。

 

 最後に同じモチーフの俳句と短歌を紹介します。たまたま短歌と俳句を代表する人のよく似た作品に出会ったのです。秋風と鶴を詠んでいます。形式の違いを吟味してください。

 

しろがねの香の秋風が夕鶴を歩ましめをり死は何時われに 塚本邦雄

吹きおこる秋風鶴をあゆましむ 石田波郷

 

参考文献

形態別日本文学新選 詩歌編 津之地直一編 国文学研究室

現代の短歌 高野公彦編 講談社学術文庫

その他

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游氣風信 No,138 2001,6,1 宮沢清六さんを偲んで

 6月13日の朝刊を広げたとき、ふと何かに引かれるように訃報欄に目をやりました。果たせるかな、そこには宮沢賢治の実弟宮沢清六さんのご逝去の知らせが写真とともに掲載されていたのです。

 

 宮沢清六さんは賢治の弟です。賢治の兄弟は二男三女(トシ・クニ・シゲ)ですから、たった一人の弟ということになります。

 

 ちなみに妹トシとはかの著名な挽歌「永訣の朝」で

 

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

 

と歌われた最愛の妹です。

 賢治の兄弟では賢治とトシが早世し、あとの三人は比較的長生き、中でも清六さんは大変なご長寿でした。

記事を読売新聞から引きます。

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宮沢賢治の実弟

作品普及に尽力

 宮沢清六(みやざわ・せいろく=詩人宮沢賢治の弟)12日、老衰で死去。

97歳。告別式は29日午後0時50分、岩手県花巻市若葉町3-16-22

市文化会館。自宅は同市豊沢町4の11。喪主は親族の裕造氏。

 賢治の全集出版に尽力するなど作品の普及に力を注ぎ、「銀河鉄道の夜」など賢治の遺稿や遺品などを整理復元し、約4000点を花巻市に寄贈。同市に1982年、開館した宮沢賢治記念館の設立では、市民への募金活動の先頭に立った。著作に「兄のトランク」などがある。

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 宮沢賢治(明治29年~昭和8年)はご存じのように近代日本を代表する詩人で童話作家です。生前は全く無名でしたが、没後、草野心平や高村光太郎などの紹介で次第に名を知られ、数年前の生誕百年には出版ラッシュ、各地方自治体や団体によるさまざまなイベント、さらには映画が二社から競作されるほどの一大ブームになりました。

 

 生誕百年の喧噪が去ったあとも、地道な研究は続けられ、今後さらに光芒を放つ存在と目されています。

 その陰には常にこの清六という賢治より8歳若い弟のひたすらな努力があったのです。

 

 賢治は38歳になったばかりで亡くなりました。

 臨終の日、賢治は父政次郎に何か言い残すことはないかと聞かれ、

「国訳法華経一千部を印刷して知己に配ってください。そしてわたしの一生はこれをあなたのお手元に届けることにありました」

という内容の言葉を言い残し、さらに原稿はどうするかとの父の問いには

「これらの原稿は迷いの果てですから、好きに処理していただいて結構です」

と答えたと伝えられています。

 

 また、母イチには

「これらは仏さんの教えを分かりやすく書いたもので、いずれはみんながありがたいと読むようになる」

と述べたという話もあります。

 

 しかしその前夜、一緒に就眠した清六さんには

「原稿は全ておまえにやるから、どこか本にしたいというところがあればどんな小さいな本屋でもいいから出版してくれ」

と、父に述べたこととは矛盾した、出版への意欲を伝えています。

 

 清六さんが賢治に原稿の出版を依頼されたのは二回目でた。ここに原稿を世に出したい賢治の強い意志を感じないではいられません。賢治自身詩集「春と修羅」童話集「注文の多い料理店」の二冊は自費出版していますし。

宮澤賢治語彙辞典(旧版)に宮沢清六の項目があります。引用します。

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宮沢清六(みやざわせいろく)

一九〇四(明治三七)年四月一日~ 賢治の末弟(八歳下)。盛岡中学を卒業後、東京研数学館で学ぶ。一年志願兵として入隊、見習士官で除隊後、建築・金物・自動車部品等を扱う宮沢商会を開業。第二次世界大戦後、岩手県民生委員、児童委員等を勤める。東京で学んでいる折、一九二三(大正一二)年の正月に、突然下宿先に賢治が花巻より上京。大きいトランクいっぱいに詰まった童話[風の又三郎]や[ビジテリアン大祭]等の原稿を出版社へ持参するよう賢治から依頼される。そのトランクを東京社(「婦人画報」、または当時大正リベラリズムや童心主義の影響下で人気のあった児童雑誌「コドモノクニ」の発行元)へ持ち込んだが、編集委員の小野浩(小説家・童話作家)に掲載を断れたことは有名である。賢治は死の前夜、傍らに寝た清六に「おれの原稿はみんなお前にやるからもしどこかの本屋で出したいといってきたら、どんなに小さい本屋でもいいから出版させてくれ、こなければかまわないでくれ」と言ったと堀尾年譜(堀尾青史先生による年譜)は伝える。賢治没後は膨大な原稿を
戦火の中でも守りぬき、また「校本宮澤賢治全集」をはじめとするすべての全集の編纂にたずさわる。兄に関する多くのエッセイがあるが、著書に「兄のトランク」(1987)がある。(以下略)

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 今から24年前、わたしがまだ鍼の学校の一年生のとき、オートバイで賢治ワールドのツーリングに出掛けました。

 

 その4年前にも出掛けましたが、その時は徒歩でした。徒歩では交通の便の悪いみちのく旅行ではあまりに不便だったので、今回は乗り物、それも車よりも駆動力と小回りに長けるオートバイにしたのです。

 

 ちょうど名古屋地方が梅雨明けした日、わたしは名古屋港から仙台に向かうフェリーに小型のオートバイで乗り込みました。フェリーの食堂は料金が高く、貧乏学生にはカレー一皿買う予算ができませんでしたから、アンパン数個抱えて三等船室の貧乏旅行です。もっとも船室とは名ばかりで、実態はワンフロアーに雑魚寝状態。まるでサウナの仮眠室です。

 

 フェリーの風呂には円い窓があり、そこから船の揺れに任せて水平線が右に左に傾いている光景はいかにも海の旅情をかき立てました。

 

 甲板に出ると一方は広大な太平洋、反対側は沿岸という対象的な図柄が大きくわたしを包み、夜は船が切り裂く海面から夜光虫のような蛍光が瞬いて、いやがうえにも旅情と孤心を高めます。

 

 18時間後仙台港に降り立ったわたしは一気に北上。雨の国道を岩手県花巻市目指して疾走しました。

 

 名古屋を立つとき、気象台から梅雨明けが宣言されました。ところが梅雨明け前線も船と一緒に北上したので道中ずっと雨でした。梅雨が明けたのは皮肉にも帰る前日だったのです。

 

 花巻市の南外れに桜というところがあります。そこには昔、宮沢家の別荘があり、賢治の妹トシ(有名な「永訣の朝」はトシの死を詠んだもの)が療養したり、賢治が土地の若者を集めて私塾を開いていたところです。

 

 現在、その跡地には高村光太郎筆の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、毎年賢治の命日9月21日、子供会などが中心で賢治祭が開催されます。

 

 「雨ニモマケズ」の中の一節

 

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

 小サナ茅ブキノ小屋ニヰテ

 

から粗末な小屋を連想される方も多いのですが、もともと素封家であった宮沢家の別邸です。実際には立派な建物です。なぜそれが分かるかというと、この建物は偶然にも幾多の紆余曲折を経て、賢治が奉職した花巻農学校(現花巻農業高校)の敷地に移築されていて、今日誰でも見学できるからです。

 

 さて、その詩碑の近くに小さな宿がありました。

 宿を決めていなかったわたしは飛び込みで泊めてもらえないかと交渉しましたが残念なことに、近くの工事にきていた人達で満室でした。

 

 交渉しているところに小学校4年生の男の子が帰って来ました。人おじしない明るい子です。

「あのバイク、お兄ちゃんの」

「そうだよ」

「どこから来たの。泊まるの」

「名古屋から。でも部屋が一杯だから泊まれないんだよ」

「部屋がないのなら僕の部屋に寝ればいいよ」

商談成立。

 

 わたしはその子の部屋に1週間ほど泊まり、東西南北と放射状に駆け回り賢治の作品の舞台を訪問したのでした。

 最初の夜、その子とその子の友達と花火をしました。

 

 今はどうか分かりませんが、当時、宿の周囲の田圃には小さな蛍が一杯飛んでいました。その幻惑的な闇の中で花火を揚げつつ相撲を取ったりしたのです。

 

「お兄ちゃんは賢治さんが好きなの」

「そうだよ。そのために作品の舞台を単車で訪問しているんだ」

「だったら清六さんに会うといいよ」

「え、知ってるの」

「うん、孫みたいに遊んでもらってるよ。清六さんはお父さんたちにとっては親も同然なんだって。お父さんに電話してもらえば会ってくれるよ」

 わたしはそれを聞いて内心欣喜雀躍でした。この旅の最大の秘めた目的は賢治生家訪問だったからです。

 

 少年から話を聞いた宿の主は

「ああ、そうかね。ま、一杯どうかね」

とお酒を勧めてくれながら、夜遅くまで雑談をして結局は清六さんのことには触れませんでした。

 

 やはり、賢治研究者ならともかく、会いたいという人を誰でも彼でも紹介しては清六さん迷惑だもんなあと自分を慰め、この話はなかったものとして遅い床についたのでした。

 

 小岩井農場から岩手山。

 種山高原から五輪峠を経て遠野。

 イギリス海岸や菩提寺など花巻市内。

 盛岡市内。

 北上市から成島の毘沙門様。

 

 こうした賢治と縁の深い土地を巡りながらいよいよ明日は帰るという最後の夜のことでした。

 部屋で帰りの支度をしていますと奥さんがやってきて

「今から清六さんが会ってくださるそうだからすぐに行って。自転車貸して上げるから」

夕飯時、主と酒を酌み交わした後でした。だから自転車。賢治生家つまり清六さんのお宅は表通りに面していて分かっていました。

 

 わたしは慌てて玄関に立つと呼び鈴を押しました。若い女性が迎えてくださり、通された洋間に写真で拝見したことのある清六さんがにこやかに腰掛けておられました。

 

 今から逆算すると当時、73歳くらい。人当たりの柔らかい、とても穏やかな雰囲気の方でした。わたしはまずお礼を述べた後、仏壇の賢治にお参りしたい由をお願いしました。快く仏間へ案内され、ロウソクに火を灯して合掌しました。こんなことは家でもめったにすることではありません。

 

 洋間に戻ると、清六さんは賢治がイギリス海岸と命名した北上川の岸で発見したクルミの化石(バダクルミ)と同じものを見せてくださいました。ルポライターの山根一真氏は二十の時に清六さんにお会いしたとき、記念にクルミの化石を貰ったと本に書かれています。当時はたくさんあったのでしょう。今でも大雨の後などに出てくると聞いたことがあります。

 

 清六さんは太い万年筆を取り出すと、記念にと新潮文庫の賢治詩集に「冬のスケッチ」の一節

 

 げにもまことのみちはかがやきはげしくして行きがたきかな

 

と書いてくださいました。

 

 最後にわたしは一番聞きたかったことを聞きました。

「賢治さんとはどんな方でしたか」

「兄は・・笑いたきときは笑い、怒りたいときは怒り、泣きたいときは泣く、ごく普通の人でしたよ」

それを聞いて妙に安心して岐路についたのでした。

 

 翌朝、荷物を鞄に詰めているところへ宿の奥さんがやってきて、

「今、清六さんから電話があって、昨夜の青年に上げたいものがあるからもう一度寄るようにだって」

 

 再び訪問したわたしの前に清六さんは一枚の色紙を取り出しました。

「昨夜あれから書きました。あなたの名前を入れますからもう一度教えてください」

とおっしゃると、

  三島廣志様

と書いて、

「どうぞ」

と渡されたのです。

「もうお帰りですか。気をつけて帰って下さい」

「はい、ありがとうございました」

宮沢家を辞して、わたしの人生で最も画期的な旅は終わったのでした。

 

 その色紙には「原体剣舞連(はらたいけいんばいれん)」という詩の末尾が書かれていました。

 

太刀は稲妻萱穂のさやぎ

獅子の星座に散る火の雨の

消えてあとない天のがはら

打つも果てるもひとつのいのち

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

dah-skoは太鼓の音です。原体剣舞連とは岩手県に伝わる笛や太鼓に合わせて

踊る伝承剣舞で、主として子供達が舞います。

 

 この旅行以降、清六さんとは毎年年賀状のやり取りがありました。おそらく清六さんは膨大な方に年賀状を出しておられたことと思います。毎年、干支にちなんだ動物を賢治の作品から捜しだし、ご自身で書かれた絵や字を印刷した素晴らしいものでした。

 

 全くの推測ですが、清六さんは賢治を慕ってくる人々のために早世した兄・賢治を演じておられたのではないでしょうか。

 

 また、賢治研究者には協力の労を惜しまれなかったと聞きます。

 わたしもある研究会の発表のためにヤマナシの実物を見たことがあるか手紙で問い合わせたところ、たくさんの資料を送って下さいました。一青年のためですらこうですから、賢治研究者たちから信頼を集めておられたのも諾なるかなです。

 

 時には賢治の新刊にサインして送って下さったりもしました。90歳近くなられてヨーロッパ旅行もされたそうで、帰国後、アテネなどにでかけたなどというお便りもいただきました。

 しかしここ二年、年賀状も届かず、心配していました。

 

 清六さんの生涯は賢治とともにありました。

 意外に思われるかもしれませんが、賢治の生まれた花巻市も米軍から空襲を受けました。

 賢治生家もその時消失したそうです。清六さんは賢治の作品を火から守るために土蔵に入れ、隙間という隙間に味噌を塗り込んで原稿を守り通しました。

ところが土蔵から煙が昇っている。中がくすぶっていると気づいて慌てて外に出したそうです。後で調べるとネズミの掘った穴から火が入ったようです。

 現存する賢治の原稿が燻製のように燻されているのはこのためです。

 

 兄の没後、高村光太郎や草野心平らの協力で全集発行に漕ぎ着けました。羽田元首相のお父さんは賢治全集を出した羽田出版の経営者です。

 今日では筑摩書房が数度にわたり全集を刊行し、賢治研究の推進を支えています。

 

 宮沢清六さんの生涯は兄・賢治の原稿を守り、世に紹介することに尽力されたものでした。あるいはそのためにお生まれになったのかも知れません。

 実に賢治より六十年も長い人生でした。

 謹んで哀悼の意を表します。

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游氣風信 No,136 2001,4,1 山男の四月

三島治療室便り
 四月。

 とても過ごしやすい季節です。

 風はやさしく、空の色も緩んでいます。

 桜は空を彩り、下をいく人も華やいで見えます。

 

 四月は冬の緊張が緩むために眠くなる季節でもあります。そのために心身ともに不安定になりがちですから注意が必要です。

 

 宮沢賢治の童話にこの春の眠たさを背景にした「山男の四月」という短い作品があります。

 

 賢治が生前唯一自費出版した童話集「注文の多い料理店」(大正十二年)に収められている、比較的地味な作品です。

 四月の暖かい日差しの中で眠り込んだ山男の夢物語。四月はまさに眠い季節なのです。

 

 あらすじを紹介しましょう。

 ある温かい春の日、山男は町に出ます。そこで怪しい支那人に会いました。

その支那人は各地を反物や六神丸(鎮痛・強心・解毒などに用いる丸薬)の行商で歩き回っている男です。ところが山男は支那人に飲まされた薬で自分が六神丸にされてしまいます。

 

 支那人の荷物の中には薬に変えられた人々が大勢いました。中には上海から連れてこられた支那人までも。

 山男は薬にされた支那人に言います。

「おまへはするとやつぱり支那人だらう。支那人というのは薬にされたり、薬にしてそれを売つてあるいたり気の毒なもんだな。」

 「ここらをあるいているものは、みんな陳のやうないやしいやつばかりだが、ほんたうの支那人なら、いくらでもえらいりつぱな人がある。われわれはみな孔子聖人の末なのだ。」

 

 こんな会話を交わしているうちに山男は元に戻る丸薬のことを知りそれを飲みます。ところが陳もその丸薬を飲んだために巨人になってしまいました。山男はあわてて逃げ出しますが背後から捕まり・・・ここで山男の目が覚めました。陳も六神丸もみな夢だったのです。

 一言でいえば、「山男の四月」は、山男が春の長閑な日差しの中で見た夢物語ですが、人間が薬に変えられるという一風変わった物語でもあります。

 夢であったという点でオチがやや陳腐であることは否めませんが、賢治らしい自然の描き方が楽しい作品に仕上がっています。

 

 例えば

 どこかで小鳥もチツチツと啼き、かれ草のところどころにやさしく咲いたむらさきいろのかたくりの花もゆれました。

 山男は仰向けになつて、碧いああをい空をながめていました。お日さまは赤と黄金でぶちぶちのやまなしのやう、かれくさのいゝにほひがそこらを流れ、すぐうしろの山脈では、雪がこんこんと白い後光をたしてゐるのでした。

 (ぜんたい雲というものは、風のぐあひで、行つたり来たりぽかつと無くなつてみたり、俄にまたでてきたりするもんだ。そこで雲助といふのだ。)

 けれども作品としてあまり重要視されてはいないようです。

 ところがこの地味な作品は別の意味で注目されました。

 一部の賢治研究家から、中国人の見方がステレオ・タイプで時代的制約を受けて差別的であるという指摘がされたのです。

 しかし、およそあらゆる人は時代的制約から解放されることは困難でしょう。

 

それに

「ここらをあるいているものは、みんな陳のやうないやしいやつばかりだが、ほんたうの支那人なら、いくらでもえらいりつぱな人がある。われわれはみな孔子聖人の末なのだ。」

と書いているように、賢治には差別意識は感じられません。

 

 支那人という今何かと話題の呼称も当時(大正十二年)は一般的なもので、特に蔑視したものではないように思われます。

 

 「山男の四月」の主役は山男でした。

 賢治には他にも山男が登場する作品があります。「狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)」、「紫紺染について(しこんぞめについて)」、「祭の晩」、「おきなぐさ」など。

 旧版の「宮澤賢治語彙辞典」から山男の説明を引用します。ただし長いので要約です。

山男

 山奥深く住むといわれる怪物。

 賢治の山男に関する見方は民族学者柳田国男の「遠野物語」に近似している。

 

「遠野物語」には山男のことを「ただ丈きはめて高く眼の色少し凄しと思はる」、「丈の高き男の(中略)色は黒く眼はきらきらとして」と書かれているが、賢治の童話にも「黄金色の目をした、顔のまつかな山男が」(狼森と笊森、盗森)、「黄金色目玉あかつらの西根山の山男」(紫紺染について)、「金色めだま、あかつらの山男」(山男の四月[初期形])とある。

 

 ただし、「遠野物語」の山男は、里の女をさらうなどして恐怖の対象となっているが、賢治の山男は支那人にだまされて反物(山男の四月[初期形])や、薬にされてしまったり(山男の四月)、村人に粟餅をねだったり(狼森と笊森、盗森)するなどむしろ人間的でユーモラス、時には物悲しく、自然界に生きている賢治のデクノボーの一変型と見ることもできよう。

 

 柳田国男は、山男を、古代の滅ぼされた先住民が山に隠れて生活するようになったものと考えていた(山の人生)などと書かれています。

 

 柳田国男は遠野出身で早稲田大学に在学していた佐々木喜善(ささききぜん・筆名鏡石)から聞いた遠野の伝承物語をそのまま「遠野物語」(一九一〇年明治四十三年・当時賢治十四歳)として発表しました。同書の冒頭に柳田は次のように書いています。

 

「此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折折訪ね来たり此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」

 

 遠野は岩手県の北上山地にある古い城下町。賢治の生まれ育った花巻とは釜石線(当時は花巻軽便鉄道)で結ばれています。人と馬が同居する南部曲屋でも有名な観光地ですが、賢治の原風景とも呼べる土地です。わたしは二十五年前オートバイで通ったことがあります。

 

 佐々木喜善(鏡石)は賢治より十歳年長ですが奇しくも賢治と同じく昭和八年に亡くなりました。最晩年、二人は互いに認め合い、佐々木が二度ほど賢治の病床を訪れています。賢治が「遠野物語」を読んだか否かははっきりしませんが、佐々木喜善の著した「奥州ザシキワラシの話」(一九二〇年・大正九年)を読んで「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を書いたことは知られています。

 

 先程紹介した「宮澤賢治語彙辞典」に、「遠野物語」に登場する山男は恐怖の対象であると書かれていましたが、柳田国男が後年に発表した「遠野物語拾遺」には山男が粟餅のお礼にマダ(菩提樹)の皮を持ってくるという話が紹介されています。実はこれによく似た話を賢治も書いています。「祭の晩」という話です。

 

 「祭の晩」は、ある少年が祭の晩、お金を使い果たしたことに気づかず団子を食べてしまい村人から責められている気の毒な山男を見つけ、そっとお金を上げて窮地を助ける童話です。山男はお礼に少年の所へ薪を百把・栗八斗を届けるという約束をし、本当に届けます。

 

 賢治は山男が薪や栗を置いていった場面をこのように書かいています。

 

「その時、表の方で、どしんがらがらっと云ふ大きな音がして、家は地震のようにゆれました」

 

 柳田国男の「遠野物語拾遺」の一〇〇話にも、山男がお餅のお礼にマダ皮をどっさり持ってくる話があります。

 

「約束の日になって、餅を搗き小餅に取り膳に供えて庭上に置くと、果たして夜ふけに庭の方で、どしんという大きな音がした」

 

と「祭の晩」に大変似ています。

 

 マダ皮は菩提樹の皮。シューベルトの歌曲「菩提樹(リンデン・バウム)」と同種の木で、お釈迦さんが悟りを開いたインド菩提樹とは別の種類です。東北ではマダ皮で蓑や茣蓙を作りました。

 

 「遠野物語拾遺」に登場するマダ皮一年分で三升の餅を貰うという人の良い山男こそ賢治の山男の原点になったもののような気がします。

 

 仮に「遠野物語」のような民族学に関する本を読んでいなかったとしても、おそらく賢治は子どものころから地元の古老などからこうした話を身近に聞いて育ったに違いありません。

 

 どこか憎めない、ちょっと切なくなるような山男でした。

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游氣風信 No,135 2001,3,1 物語は楽し

三島治療室便り
 前回および前々回の「懐かしの英国児童文学」に対して、いくつかの丁寧な返事をいただきました。

こんなことは実に稀なことです。

 

 《游氣風信》は印刷したものを手渡したり、郵送したり、メールで発送したり、ホームページ(http://member.nifty.ne.jp/hmishima/)
に掲載したりと、さまざまな方法で皆さんにお届けしています。しかし寂しいことにほとんど何の反応もありません。

 

 ところが「懐かしの英国児童文学」には反応と呼ぶより反響と言って過言でないほどの返事をいただきました。書かれた内容も立派なので、その一部をここに紹介させていただきます。

Oさんからのメール

 子供の頃に読んだ懐かしい本の数々。もう、少し忘れかけているのもありました。あの頃読んだ本は私の人間形成の一端を担っているのでしょうか。テレビのない時代に育ったことがよかったのでしょう。そして、戦後、本すらなかった時代を経て、本を読む楽しみを得られたのだったとかえってありがたく思います。

 

 小学校に図書室が出来たのが六年生の二学期。隔週の土曜日にひとクラス二人だけが借りることが出来ました。友達の権利を譲ってもらったりして何回か借りることが出来ました。世界名作物語。そして、伝記。「黒馬物語」や「家なき子」、「キュリー夫人伝」に「野口英世」。もっとも、後年になって、野口英世の伝記は余りにも美化されすぎていると気づいたのでしたが……。シュバイツァー博士にも感動しました。

 

 中学生になったばかりの頃、広島市にもやっと児童図書館が出来、会員になってむさぼるようにどんどん読んだのを思い出します。

 

 「赤毛のアン」のシリーズは、村岡花子訳で一年に二冊くらい出るのが待ち遠しくてわくわくしながら読んだものでした。

 

 シャーロックホームズのシリーズも好きでした。一度死んだホームズが「帰還」してきたときはうれしくて。十年余り前、ロンドンにツアーで立ち寄ったとき、飲めないのにベーカー街のパブに行ったことでした。推理小説のとりこになり、ペリイメイスンやエラリークイーン、アガサクリスティなど手当たり次第に読んだものです。

 

 ここ五年ほどは推理小説に少し飽いて、あまり読まなくなり、藤沢周平、池波正太郎、山本周五郎などの時代小説を好んで読んだりしました。宮本輝の小説もけっこう楽しんで読んでいます。最近、芝木好子の小説を読み返していますが、欠けているものがあって、購入しようとしたのですが、絶版になっているものが多く驚きました。図書館でリクエストしたりして何冊かは読めたのですが、二・三冊どうしても読むことができないでいます。

 

 三島さんは、なんといっても宮沢賢治!!!と思っていましたが、「ドリトル先生」の愛読少年だったのですね。今回はじめて知りました。上の娘が大好きで何度も読んでいました。

 こんな話題、また時々取り上げてください。ありがとうございました。

 

(三島・・・村岡花子訳の「赤毛のアン」は今でも書店の定番です。アンのシリーズは高校の同級の女の子が愛読していましたが、アンは女の子の読むものと決めていたのでわたしは読んでいません。

「赤毛のアン」はカナダの作家モンゴメリーによって書かれたものです。カナダ人が来たとき「赤毛のアン・Red hair Ann」を話題にしましたが知らないので驚きました。しかしそれも当然でした。原題は「緑の屋根(切妻)のアン・Ann of green gable」と似ても似つかないものでしたから。赤毛でソバカス。これが西洋のいじめられっ子の典型になっているようです)


Hさんからのメール

 なつかしかったなー。

 私は子供のころ、病気ばかりしてたのでおかげさまで本は読みました。今でも挿絵が目に浮かびます。

 でも残念だな、「楽しい河辺」が取り上げてもらえなくて。プーさんも。

 「幸福な王子」は燕がかわいそうでかわいそうでねー。今思えば、あれはワイルドとボギーくん、自分の中の美しいものを切り売りして、ボロボロになって天国で結ばれる愛だったのね。 ひさしぶりでたのしかった。有難うございました。

 
 この方は「幸福な王子」に関してシニカルな見方をされていますが、こうした見方こそまさに英国的でいいですね。確かに「幸福な王子」は同性愛という反社会的行為からイギリスを追われてフランスで夭折したワイルドを暗示しています)


Nさんからのメール

 游氣風信すごく楽しく読ませていただきました!

 

 実は私の小学校高学年時代の(今風にいうと)超愛読書がドリトル先生シリーズだったのでとても懐かしく、うれしくなり、久しぶりにメールしました。実話だと先生は思われていたそうですが、私もそうではないかと思い、動物語を話そうと、飼い犬を相手にがんばった思い出があります。

 

 通りすがりの猫にもがんばって話し掛け、返事をしてもらえるまでに上達はしましたが、何を言ってるのか理解することは終にかないませんでした。が、いまだに通りすがりの猫に話し掛ける癖が残っており、怪しい子連れのおばさんと見られるのではと不安もあります。

 

 学校の図書館で出会ったこのシリーズに惹かれ、親に買ってもらったのですが、その後、大学に行っている間に親が、数々の児童図書を小学校に寄付してしまい、手元を離れてしまいました。子供の生まれた今、もう一度読みたいなあ、と思ってみたりしています。本屋の児童図書のコーナーも今行ってみても、楽しいですよ!

 

 そのほかにも、

「幸福の王子」がオスカー・ワイルドの作だったのかー!

「宝島」と「ジキル博士とハイド氏」の作者って一緒だったの?

などなど、懐かしい思い出でいっぱいでした。

 ちなみにわたしはシルバー船長のファンでした。なぜファンなのかよく、自分でもわかりませんでしたが・・・

 

 わたしの持っていた「宝島」はものすごく字の小さい、小学校三年くらいのわたしには難しい本だった思い出があります。それでも繰り返し繰り返し読んでいました。

 

 シャーロック・ホームズもお小遣いをためにためて、お年玉も追加して全巻そろえ、「宇宙戦争」も、「十五少年漂流記」も「クリスマス・キャロル」も大好きでした!(今、全部母校の図書館にあるはずです。有効利用といえば、これ以上の有効利用はないでしょうけど、子供が生まれた今、もう一度手にしたい、本たちです。)

 

本当に懐かしかったです。

 その後、年を追うごとに、本(小説)を読まなくなり、さみしいなあと思い返しています。また、新しいことをはじめたいと思う、今日この頃です。

 毎月のお便り、楽しみにしています!

 

(三島・・・まだ生後一歳に満たない子の世話で忙しいお母さんです。蔵書が小学校に寄付され、〇〇文庫などと保存されているのもすごいですね。動物語の修得を実践されたとは驚き。きっと絵本を読んで聞かせるやさしいお母さんでしょうね)

 それにしても皆さんすごい読書家です。わたしももっとまじめに読書していればもう少し視野の広い魅力的なオヤジになっていたかも知れません。

 

 こうしたお返事メールを読んで喜んでいた矢先、アメリカから興味深いメールが届きました。送り主は以前わたしの指圧教室に出入りしていた米国人女性で現在はカリフォルニアに住んでいる人。

「とても素敵な話よ」と書き添えて、あるショートストーリーが送られてきたのです。

 

 読んでみると以前どこかで出会ったことのある話です。どこかの国の民話か何かでしょう。簡単な英語なので原文のまま掲載します。大ざっぱな意訳もつけます。

AND THAT IS WHY.....

(そういう訳で・・・)

On the very first day, God created the cow.

He said to the cow, "Today I have created you! As a cow, you must go to the field with the farmer all day long. You will work all day under the sun! I will give you a life span of 50 years."

(昔、神様が牛を造られたとき、毎日畑で農夫と一緒に労働するよう命じ、50年の寿命を授けました)

 

The Cow objected.

"What? This kind of tough life you want me to live for 50 years? Let me have 20 years, and the 30 years I'll give back to you."

So God agreed.

(牛はそんな厳しい人生は20年で十分だからと30年分を神様に返しました)

On the second day, God created the dog.

God said to the dog, "What you are supposed to do is to sit all day by the door of your house. Any people that come in, you will have to bark at them! I'll give you a life span of 20 years!"

(次に神様は犬を造られ、ドアの横に座り、人が来たら吠えるよう命じ、20年の寿命を与えられました)

The Dog objected.

"What? All day long to sit by the door? No way! I give you back my other 10 years of life!"

So God agreed.

(犬はそんな暮らしはイヤと10年を返しました)

On the third day, God created the monkey.

He said to the Monkey, "Monkey has to entertain people. You've got to make them laugh and do monkey tricks. I'll give you 20 years life span."

(次に猿を造られた神様はおもしろいことをして人々を笑わせるように命じ、20年の命を授けました)

The Monkey objected.

"What? Make them laugh? Do monkey faces and tricks? Ten years will do, and the other 10 years I'll give you back."

So God agreed.

(猿は「人間を顔と仕草で笑わせる?だったら10年でいいです」と10年返しました)

On the fourth day, God created man and said to him, "Your job is to sleep,eat, and play. You will enjoy very much in your life. All you need to do is to enjoy and do nothing. This kind of life, I'll give you 20 years of life span."

(最後に神は人間を造り、「おまえの仕事は寝て、食べて、遊ぶだけで何もしなくていい。とても楽しい人生。20年やろう」と言われました)

The man objected.

"What? Such a good life! Eat,play, sleep, do nothing? Enjoy the best and you expect me to live only for 20 years? No way,man!......Why don't we make a deal? Since Cow gave you back 30 years, Dog gave you back 10 years and Monkey gave you back 10 years, I will take them from you!That makes my life span 70 years, right?"

So God agreed.

(人間は言いました。「食べて、遊んで、寝る。楽しむだけで何もしなくていい人生がたったの20年ですか。それならば、牛や犬や猿が神様に返した寿命を下さい」と。神は同意されました)

AND THAT IS WHY.....

(という訳で・・・)

In our first 20 years, we eat, sleep, play, enjoy the best and do nothing much. For the next 30 years, we work all day long, suffer and get to support the family.

For the next 10 years, we entertain our grandchildren by making monkeyfaces and monkey tricks.

And for the last 10 years, we stay at home, sit in front of the door and bark at people.

(人間の一生は最初の20年は食べて、寝て、遊んで楽しむだけで何もせず、次の30年は家族のために

牛のように苛酷な労働に耐え、次の10年は猿のようにおもしろい顔や仕草をして孫を楽しませ、最後

の10年は犬のように一日中家の前に座って人々に吠えかかるのです)

 

 おもしろい話です。そしてどこかで読んだ記憶があります。しかしどこで読んだか。出典が分かりません。気になると苦になるものです。

 

 そこでインターネットの登場です。何名かの知り合いに先の英文を送り、「どこかの民話だと思うが出典を知らないか」と尋ねてみました。

 するとありがたいことにさっそく返事がありました。

 

Aさん

残念ながらわかりません。ごめんなさい。

昔こんな物語があったから、今こうなってます、ってパターンの話ですね。

十二支のはじまりみたいな。

こういうのって気になりだしたら、判明するまでいらいらしません?

 

Bさん

とてもおもしろいですね。

私も、どこかで聞いたことのある話だと思いました。でも、それがどこで、いつだったかはわかりません。ただ、この話はアジアの民話ではないか、と思いました。思想的にそんな気がします。さるが出てくることも、その感じを強めました。もちろん、確証はありません。

もし何か気がついたことがあれば、すぐにお返事しますが、今のところお役に立てなくて、ごめんなさい。

Cさん

先生のメールと相前後して高校時代同級の友人からのものが着信しました。

次男が、できちゃった結婚をしたというのです。

わたくしめは、まだ幼児の父だというのに、彼はもう「猿」の時代突入目前なのです。

 

Dさん

えーごが届いたからびっくりした!

初めて聞いた話です。

ヒネクレてますねえ。

どこの国民性でしょうねえ。

面白いお話をありがとう。

 

Eさん

残念ながら、どこの国の民話かわかりません。

最初は、聖書の中のお話かななんて思ったんですが、違うようですし…。

でも、とても感心しました。

私は牛にもサルにもなれないでいます。

多分、犬にはなれるでしょう。

いや、そんな元気もないか(>_<)


 

Fさん

私も読んだことがあります。有名な話だと思いますが、出典は忘れてしまいました。

ウェブ検索をしたところ、いくつものサイトで引用されているようです。

例えばhttp://punjabi.net/talk/messages/5/784.html の Jat Punjabi (jatji@hotmail.com) なら

ば、出典を知っているかもしれません。

 

Gさん

 よくできた話しですね。

 この話し通りだとすると、私は

>>And for the last 10 years, we stay at home,

>>sit in front of the door and bark at people.

 の段階なのですが・・・。

 

 論語の堅っくるしい教訓(四十にして云々)よりおおらかで面白いですね。

 

 さて、どこの国でしょうね。牛が最初に出てくるのでヒンドゥー系の話かと思ったのですが、牛に働くことを命じていることからして、他の農耕民族でしょうね。

 それにサルが登場することからしてあまり北方ではなく、東南アジア、しかもバリのような場所を連想します。

 

Hさん

私の聞いたことのある似た話は、確か三十年ずつ与えられた…というものでした。牛?や猿の返した寿命を人間が貰う…というくだりは一緒です。それだと、老年期は、猿だったと記憶しています。

似たような話が、あちこちにあるのかしらん。あるいは、その話を間違って記憶しているだけかしら。

出典も分かりません。

 

Iさん

 グリム童話のなかの「寿命」という話に似てますね。

 つい最近読んだ河合隼雄の本の中に引用されてました。

 そこでは確か、最初ろば、猿、犬、人間に一律30年ずつ寿命が課されたことに対し、先生のストーリーにあるように、それぞれが文句をつけ、ろば、猿、犬の余った年数分が人間に加わり70年の寿命になるというもの。ただしエンディングは、先生のストーリーよりもうちょっと皮肉な結末だったように思います。 グリム童話もどこかの国の民話を元にしてるかもしれませんね。

(三島・・・ついに見つかりました。グリム童話だったのです。先のHさんの記憶は確かでしたね。30年ずつというところと、牛に?を付けたという点からかなりしっかり覚えておられることが証明されました。原典はロバだったのです。HさんもIさんも河合隼雄さんに関係したお仕事ですから、同じ本を読まれたのかも知れません)

 

 かくして疑問は氷解しました。

 ただ、どうしてロバが牛になったのでしょう。英語ではロバはass。馬鹿とか肛門の意味がありますから避けたのでしょうか。donkeyとも言いますがこれも耳が長くて愚鈍の象徴です。ロバは強情で忍耐強い動物とされています。アメリカでは戯画化されて民主党の象徴でもあるそうですから、意図的に牛に変えたのかもしれません。(ちなみに共和党は象です)

 

 いずれにしても謎は解けたのです。感謝感謝。

 さっそく岩波文庫のグリム童話集を買い求めました。全5巻からなりますが、「じゅみょう」は第5巻に載っていましたから、とりあえずその巻だけ買って帰りました。

 

 Iさんの書かれているように結末の大筋は同じですが、もっと辛辣で悲惨なものでした。さすが残酷さで知られるグリム童話。この童話は人間の深層に深く関わると言われています。結末の詳細はここにはあえて書きませんから、ぜひ一度書物に当たってください。短いので立ち読みで十分です。

 ということで、今月は物語に高ぶってみました。

 

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游氣風信 No,134 2001.2.1 懐かしき英国児童文学(その2)

三島治療室便り
「ガリヴァー旅行記」

 スウィフト(1667~1745)の「ガリヴァー旅行記」は本来大人向けの小説で、当時の堕落・腐敗した社会や人間、政治などを鋭く諷刺したものですが、今日では子供向けの冒険譚として有名です。

 

 よく知られているのはガリヴァーが訪れた小人国リリパットのことです。船医ガリヴァーが航海の途中、激しい嵐にあってある所に漂着します。そこはリリパットという国。そこの住人は皆とても小さい人々でした。

 

 ごく普通の人間ガリヴァーが小人の国に行くことで突然否応もなく巨人になってしまいます。それによって従来まるで気にも止めなかったさまざまなことが見えてきます。これは人間社会を諷刺するには打ってつけの方法でしょう。

 

 視点を変えることで同じ世界なのに全く異なった世界に見えるのは日常でも経験します。卑近な例では女の子の厚底靴。この靴を履くと背が高く、足が長く見えるというファッション的理由だけでなく、急に目線が高くなって視野が開け、自分が偉くなったように感じるそうですから、少しくらい捻挫しても止められないのもそのためでしょう。

 

 逆に地べたに座るジベタリアンも、視点を低くすることで別の世界に住んでこの世を見ているような気になるそうです。どこかの大学の先生が一度やってみて病み付きになったと新聞に書いていました。

 

 スウィフトは小人国と同じ手法、つまり背景を変えることで人間を再検討する手法を使ってさまざまな社会諷刺を試みます。そのため、次にガリヴァーを「巨人国」に行かせ自分が小人である経験をし、さらに科学の発達した「飛ぶ島の国」や馬が人を支配する「馬の国」にも出掛けさせています。

 

 このようにして環境を変えては社会を辛辣に諷刺したのが「ガリヴァー旅行記」の本来の姿でした。とりわけ「馬の国」では人間は家畜人ヤフーとして描かれ、その人・馬逆転からくる辛辣さは秀逸です。

 

 インターネットのホームページアドレスを調べる会社の名前がヤフーですが、ここから来ているのかどうかは分かりません。どなたかご存じなら教えてください。

 

 ガリヴァーは「飛ぶ島の国」の帰りに日本に立ち寄っています。前掲「ドリトル先生の英国」によれば、日本で皇帝に会って十字架を踏む儀式だけは許して欲しいと懇願する場面があるようです。わたしが読んだ本ではただ立ち寄ったとだけ省略して書いてありました。

 

 「ガリヴァー旅行記」は1726年に出版されています。その頃の日本は第八代将軍徳川吉宗(1684~1751)の時代です。吉宗が将軍職にあったのは1716~1745で、ちょうどガリヴァーの頃に当たります。

 

 この物語にならって巨大企業のことをガリヴァーと呼ぶようになったのはご存じのとおり。

 

「宝島」と「ジキル博士とハイド氏」

 スティーブンソン(1850~1894)の「宝島」はジム・ホーキンズ少年が海賊フリントの隠した宝島の地図を手に入れたところから始まる大冒険物語。恐ろしいが魅力的な海賊シルバーや島に一人残されロビンソン・クルーソーのような生活をしていた少しドジなベン・ガンなどの活躍に胸を躍らせたり、戦いの場面で胸を痛めたりして読んだものです。

 

 同じ作者に全く毛色の違う「ジキル博士とハイド氏」があります。これもよく知られた作品で1886年に出版されています。明治20年ころです。ストーリーはよく覚えていませんが、天才科学者ジキル博士が別人格になれる薬を発明して、ジキルとハイドという善と悪の二つの人格を行ったり来りしているうちに元に戻れなくなるという結末だったと記憶していますが定かではありません。

 

 広辞苑では「心の奥にひそむ善悪の葛藤を、二重人格者の悲劇という形で描く」と解説しています。

 

 もう一方の大辞林は・・ああ、もっと詳しく書かれています。「人格者のジキル博士が薬によって自由に悪の人格ハイド氏に変身し、ついに戻れなくなる話。題名は二重人格の代名詞として用いられる」。こちらの解説のほうが親切ですね。広辞苑だけでなく大辞林も可愛がらねば。

 

 以上の二つの作品は全く傾向が異なりますがひとつ気が付いたことがあります。ジキルとハイドの二重人格と、「宝島」に登場する敵か味方か釈然としない不思議な人格の持ち主である海賊ジョン・シルバーに一種の共通項があるのではないかということです。シルバーの丁寧な人物描写には少年小説を越えた文学史的な定評があります。

 

 スティーブンソンは子供のころから亡くなるまでずっと病弱でした。四十四歳で脳溢血で亡くなっています。こうした幼少からの身体条件が彼を詳細で丹念な内面描写に向かわせた一因かも知れません。

 

「クリスマス・キャロル」

 とてもよく知られたディケンズ(1812~1870)の小説です。

 

 強欲で冷酷な守銭奴スクルージが、死んだ友人の霊と「過去」「現在」「未来」の精霊の力で氷のような心を溶解し、慈悲と愛、優しさと喜びに目覚めるクリスマスならではのお話。キリスト教色が強く出ています。

 

 ある年のクリスマス・イヴ、人々や社会に対して堅く心を閉ざして寒々と暮らしていた会計事務所経営のスクルージのところへ、共同経営者だったジェイコブ・マーレイの霊がやってきて、切々と死後の苦しみを訴えます。

 

 自分の生き方について考え込むスクルージのもとへ今度は「過去のクリスマスの霊」が現れ、スクルージの少年時代に連れて行くのです。彼はそこで寂しかった少年時代の自分の姿を見せられます。スクルージは心の殻が壊れるように泣き出しました。

 

 次にやって来たのは「現在のクリスマスの霊」。彼が薄給でこき使っている使用人の家に行きますと、スクルージを恨む言葉どころか感謝の言葉が聞かれました。その使用人の苛酷な貧困生活を見てスクルージはひどく考え、また哀れを感じます。ついで甥とその美しい妻のところでもクリスマスをスクルージと共に過ごしたかったという優しい言葉に出会い感動します。

 

 最後は「未来のクリスマスの霊」。誰かの遺体のそばに連れていかれます。

皆故人の悪口を言いながら嘲り笑っているのですが、スクルージは遺体の顔の布をはずして誰の亡骸かを知る勇気がでません。その後、墓地に行き、自分の墓石を確認します。そして自らの人生を生き直すことを霊に誓うのです。

 

 霊が去った後、驚いて我に返ったスクルージは今日がクリスマスの朝であることに気づき、霊に誓った通り悔い改めるのです。彼は早速、貧しい人のために莫大な寄付をし、従業員の給料を大幅に上げ、見知らぬ人達と「メリークリスマス」の挨拶をし、唯一の身内の甥夫婦の元に出掛けます。

 

 この物語は霊が出て来て始めは随分不気味なのですが、読後はとてもさわやかになる名作です。

 

 小学生のとき学校の薄暗い図書室でこの本を読みました。「未来のクリスマスの霊」とスクルージが墓地に立つ場面の挿絵は今でも不気味さとともに記憶に残っています。とても怖かった思い出の本です。読みながら子供心に死への恐怖も相当に感じておりました。死への漠然たる恐れは、この本から最初に学んだと言ってもいいでしょう。小学四年生の頃だったと思います。

 

 その恐怖のためか、長い間再読する勇気がありませんでしたが、子どもが高学年になったとき買い求めてやり、そのとき再読しました。内容を詳細に覚えているのはそのためです。

 

 ディケンズには他に「オリバー・ツイスト」「二都物語」などがあります。

英国の文豪と呼んでもいいでしょう。

 

「シャーロック・ホームズシリーズ」

 ご存じコナン・ドイル(1859~1930)の名作。ロンドンのベーカー街を舞台に私立探偵シャーロック・ホームズと親友のワトソン博士が活躍します。

 

 世界中にシャーロキアンという熱烈なファンがいて、今日でもベーカー街のホームズ事務所宛に手紙が引っ切りなしに届けられるそうです。

 

 ドイルは本職は医師でした。ホームズの他には南米で恐竜に出会う科学小説「失われた世界」も有名です。

 

 現在、子どもたちの間には作者コナンにちなんだ漫画「名探偵コナンくん」が大人気。

 

「ロビンソン・クルーソー」

 デフォー(1660頃~1731)の「ロビンソン・クルーソー」はご存じの孤島に漂着した一人の男の物語。人は孤独にどこまで耐えるか、文化とは何か、人は一人で生きていけるのかと問いかけた内容です。

 

 彼はさまざまな工夫により孤絶した暮らしを生き抜きます。しかし、それによって人は一人で生きていけると考えるのは早急で、彼は結局は難破船からいろいろな道具を持ち出してそれを利用し、利用方法も以前に学んだことの延長にあり、なにより思考自体言語という過去に学んだもので為されていた訳で、結局人は社会的な教育が為されない限り、文化としての暮らしはできないというテーマだったような気がします。

 

「幸福な王子」

 オスカー・ワイルド(1854~1900)の童話集「幸福な王子」には「幸福な王子」「かってきままな大男」「わかい王さま」などが書かれていました。

 

 どの作品もキリスト教が前面に出ています。特に後の二つは明らかにイエス・キリストと思われる少年が登場します。

 

 「幸福な王子」は若くして亡くなった王子が銅像として公園に飾られます。

そこで彼は初めて世の中に貧しい人々が存在するのを知ります。そこで彼は自らの像を飾っている宝飾品を仲良しのツバメによって貧しい人々に届けてもらうのです。

 ついには王子の像はボロボロになって廃棄されます。

 すると最も美しいものを選んで来いと言われた天使が王子の像の心臓とかたわらに落ちていたツバメの骸を神のもとに運びました。

 

 「かってきままな大男」。世間を拒否した大男の庭には春がやってこなかったのですが、あるとき塀の隙間から子どもたちが入って遊び出すと一気に春がやってきました。そこに一人のかわいい少年を見つけ、彼は不憫さを感じまが、以後二度とその少年を見かけることはありませんでした。

 やがて年老いた大男のもとにかつて見たかわいい少年がやってきて天国に導くのですが、この少年は両手両足にクギを刺された跡があり、あきらかにキリストと分かる書かれ方をしています。

 

 「わかい王様」。戴冠式にのぞむ衣装が貧しい人達からの搾取によって作られていることを知った王子は、あえて粗野な衣装に身を包みます。すると家来たちは王様らしくないと怒り、衣装を作る人々は「贅沢をする人がいるから貧乏人に仕事がくるのだら着て欲しい」と言い、僧侶は「一人の人間に世の中のすべての苦悩を背負うことは不可能だ。王様は王様らしくしていればよい」と助言します。

 しかし彼がキリスト像に深く祈りを捧げるとステンドグラス越しに光がさしてきて、粗衣を着ていた王子はこの上もなく貴く見えたのでした。

 

 今回読み返したのですが、あまりにもキリスト色が出過ぎと感じました。

 ワイルドは同性愛であるため当時の社会から排斥され、パリで悲惨な最期をとげます。彼の書は長く発売禁止だったそうですがもちろん今日は再評価され、イギリスでも最も重要な作家の一人となっています。

 

「宇宙戦争」

 H.G.ウエルズ(1866~1946)は「宇宙戦争」や「タイム・マシン」「透明人間」そして「月世界最初の人間」や「モロー博士の島」などの科学小説で知られています。

 

 しかも1993年に書いた「来るべき世界のすがた」という本で第二次世界大戦や原爆を予言しています。それは

 

「ヨーロッパではドイツとポーランドが衝突し、アジアでは日本が中国を攻め、それをアメリカが阻止しようとして、フィリピン沖で両国の艦隊が布告なしに戦争を始める、日本の二か所に原爆が投下される」

 

という恐ろしいほど正確なものです。

 彼の作品は科学的、思想的な根拠に基づいて書かれていますからそれが可能だったのでしょうか。

 

 宇宙人を想像するとき多くの人はタコの姿を思い浮かべます。それは彼の「宇宙戦争」によるものなのです。火星人が地球を高度な兵器を携えて侵略にくるのですが、結局は地球のバクテリアによって全滅するという戦慄のストーリーでした。

 

 火星は地球より重力が軽く、知的生物の進化も早いだろう、ならば機械化が進んで、肉体が退化し、頭脳だけが気味悪く発達していると考えてウエルズはタコの姿を創造したのです。

 

 「タイム・マシン」は時間を超越、「透明人間」は空間の超越です。どちらも彼の思想家としての一面が強く出ていました。

 

 「月世界最初の人間」は現実のものとなりましたし、「モロー博士の島」は今日の遺伝子操作の話です。モロー博士は遺伝子操作で動物たちを次々に人間に近づけて理想の世界を作ろうとするのですが、意識に目覚めた動物たちが反発します。これも今日的な問題をはらんでいます。

 

 ウエルズを語るとき、必ず比較されるのがフランスのジュール・ヴェルヌ(1828~1905)です。ヴェルヌの方が40年早く生まれています。

 

 彼にも「海底二万里」「地底旅行」「月世界一周」「八十日間世界一周」「十五少年漂流記(原題/二年間の休暇)」などの魅力的な作品が多くあり、二人とも今のSFの元祖となっています。

 

 

 こうして振り返ってみると、子どものころは結構本を読んでいたんだと改めて感心しました。もっともその分勉強は全くお留守で、今日のこの体たらくにつながっているのですが。

 

 紹介したこれらの作品の幾つかはほとんどの人が学生時代に一度は読んでいると思われます。まさにイギリスの影響は看過できないものがありますね。

 

 反対に、果たして日本の文学はどの程度イギリス人に読まれているのでしょうか。薄ら寒いものを感じないではいられません。

 

 以上、二カ月にわたっての懐かしき英国児童文学でした。

 

後記

 尾張平野に春を告げる国府宮の裸祭りが2月の5日(毎年旧暦1月13日)に行われました。

 今年は穏やかな暖かい日和だったので、見物人も裸男も例年より多く参加したようです。

 

 先月号と今月号を書くに当たっては、実に多くの本を参考にさせていただきました。

 本文中にその名を上げた本は比較的最近出された本が、辞書です。あとは本箱を引っ繰り返して埃塗れの懐かしくも黴臭い本をざっと読み返しました。

 

 きちんとした資料として小学館の万有百科大事典第一巻「文学」のお世話になりました。ところが肝心のドリトル先生もロフティングも出ていませんでした。これには大いに落胆してしまいました。

 

 「万有とは宇宙間すべてにあるもの。万物。万象。一切有為」「百科とはもろもろの科目。あらゆる学科」と広辞苑に書かれています。

 「お前、少し名前負けしたな」と大袈裟な名前を冠した辞書を慰めてやりましょう。

 
 

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游氣風信 No,133 2001.1.1 懐かしの英国児童文学(その1)

三島治療室便り
新書ブーム

 先日、訪問リハビリの途中に隙間時間ができたので、久しぶりに書店の中を渉猟してきました。

 書店でうろつくわたしのコースは大体決まっています。

 

 まず手初めに週刊誌を立ち読みした後、文学雑誌の所へ行って俳句や短歌の雑誌をパラパラめくり、医学コーナーで新しい健康情報をチェックし、スポーツの棚では武道・格闘技関係の雑誌を引っ繰り返し、ひるがえって無尽にあるパソコン雑誌に目を止めてITの変化に目を光らせ、今度は次々に出版される新刊書の山積みを俯瞰、さらには文庫の新刊を遠望したのち、新書のコーナーに立ち止まります。

 

 俳優の小沢昭一さんは自分の全く興味のない所に行って、本の背表紙を眺めるそうです。世の中にはこんなことに関心を抱く人がいるのかと感心するために(岩波新書「嫁と姑/永六輔」より)。これも見聞を広める方法として優れています。

 

 今、書店では新書が元気です。

 以前なら岩波新書、中高校生向けの岩波ジュニア新書、講談社現代新書、科学専門の講談社ブルーバックス、中公新書、左翼系の三一新書くらいでしたのに昨今は各社から新書が創刊されています。なんらかの出版事情があるのかもしれません。

 

 後発の新書は新しい読者をつかもうと意欲満々。魅力的な本を続々と出していますからタイトルをさっと眺めるだけでも楽しいものです。

 

 ちなみに現在わたしの机の上に積まれている新書は講談社+α新書(「気と経絡」癒しの指圧法/遠藤喨及)、集英社新書(疾走する女性歌人/篠弘・鍼灸の世界/呉澤森)、文春新書(ドリトル先生の英国/南條竹則)、岩波新書(嫁と姑/永六輔)、ブルーバックス(シビレを感じたら読む本/橘滋国)、講談社現代新書(哲学の謎/野矢茂樹・俳句をつくろう/仁平勝)。

 ちっとも読まないから積んであるのです。情けない話。

 

ドリトル先生の英国

 さて、その日の書店渉猟で、とても興味深い本を見つけました。その本のタイトルは先にも紹介した「ドリトル先生の英国(南條竹則著・文春新書」。帯には19世紀イギリスのエッセンスとあります。

 さらに表紙裏には

 

ドリトル先生の英国

 日本では井伏鱒二の名訳で親しまれてきた「ドリトル先生」シリーズの舞台は、十九世紀の古き佳きイギリスです。博物学者と植民地、キツネ狩りと上流階級、サーカスとオペラ、紳士のクラブなど、物語に登場する当時の文化や風俗を、英文学者の著者が多くの例を挙げて紹介し、作品の背景となった社会を考察。アブラミのお菓子、オランダボウフウなど、積年の疑問もこの本で氷解します。

 

という内容解説。

 

 本の奥付を見ますと平成十二年十月二十日第一刷発行となっています。すでに昨秋出版されていたのに今日まで気づきませんでした。ドリトル先生ファンを自認するわたしとしては今日までこの本を見逃していたことに忸怩たる思いが生じ、

 「これはしたり。今まで気づかなかったなんて実に情けないことではないか。そうは思わんかね、スタビンズ君」

と、ドリトル先生の口調で呟きました(ドリトル先生を読まれたことのない方にはよく分からないことで申し訳ありません。スタビンズ君はドリトル先生の助手で、物語の語り手です)。

 

 実は最近、わたしの治療室にイギリス人がよく身体調整にこられます。それでこの頃イギリスの話題で盛り上がっています。とりわけドリトル先生は英国人にとってとても好まれている物語ですから、「ドリトル先生の英国」という本が書かれたことに彼や彼女たちも大喜びしました。

 

 わたしはまだ海外未経験者です。もちろんイギリスにも行ったことはありません。そんなわたしでも本は読めます。したがってわたしの脳裏にあるイギリスとはドリトル先生のイギリスにほかならないのです。

 

 少年時代ドリトルシリーズに熱中し、夢の中でドリトル先生やスタビンズ少年と一緒に旅をしたり、イギリスの町中を歩き回ったものでした。ですから全十二巻を読破したわたしの方が、くだんのイギリス人たちより物語の詳細を知っているのは無理もありません。

 

 彼(彼女)らといろいろお話しをしていて、改めて日本人がいかに多くのイギリス文学、とりわけ児童向けの本に親しんできたかに気づきました。

 思いつくままに列挙しましょう。

 

「ドリトル先生航海記」他全十二巻

 まずは先程話題にしたヒュー・ロフティング(1886~1947)の「ドリトル先生シリーズ全十二巻」。

 

 この物語は当初出版される意図で書かれたものではありません。第一次世界大戦に工学技師として参戦したロフティングは、戦場で負傷して放置され、だた死んでいく馬たちに心を痛めました。そこで馬を治す医者の物語を作って、戦地から遠く離れたイギリスに暮らす子供達のために書き送っていたのです。

 

 物語は沼のほとりのパドルビー(架空の地名)に住む医師で博物学者のジョン・ドリトル博士が動物語をマスターして動物のための医者になり活躍する内容です。日本語訳はかの大作家井伏鱒二が担当しています。味わいある翻訳は、あるいは原作より魅力があるのではないかとさえ言われています。それを聞いたら原作者のロフティングは怒るでしょうけども。

 

 わたしは小学三年生のとき親に買ってもらって読み、大ファンになったのでした。告白しますと、実は、わたしはドリトル先生という人は結構大きくなるまで実在の人物だと信じて疑っていませんでした。無論助手のスタビンズ少年も。これは荒唐無稽なストーリーながらも、それを読ませる見事な筆致のなせる技に相違ありません。

 

 ドリトル先生シリーズは邦題で紹介すると「ドリトル先生アフリカゆき」に始まって以下「航海記」「郵便局」「サーカス」「動物園」「キャラバン」「月からの使い」「月へゆく」「月から帰る」「秘密の湖」「緑のカナリア」「楽しい家」以上全十二巻となります。

 

 中でも「航海記」が最高傑作とされ、わたしが最初に読んだのもこの本でした。

 

 ドリトルという名前は原作ではドゥーリトル(Do little)で「為すこと少なし」という意味です。日本語に意訳するなら腕の悪い医師「薮先生」となるでしょうか。しかしドゥーリトルという音は日本の子供向けでないと訳を担当した井伏鱒二がドリトルという素敵な名前にしました。

 

 南條竹則著「ドリトル先生の英国」によると、ドゥーリトルという名前は実際に存在し、日本に最初に爆弾を投下した爆撃隊隊長の名前がドゥーリトルだそうです(スペルは違います)。

 

 余談ですがある大学の入試にこの爆撃隊の隊長の名前を書けという愚問が出されたことがあったと最近の新聞に出ていました。感嘆すべき愚問です。

 

 ドリトル先生は昨年ハリウッドで映画化されました。30年くらい前にもレックス・ハリスンとかいう俳優によるミュージカル映画になっていますがわたしは見ていません。イギリス人女性によるとなかなかいい映画で、彼は太ったドリトル先生のイメージそのままの俳優だそうです。

 

 ところが昨年、アメリカでドリトル先生の映画が作られたと聞いて大変驚きました。

 なぜなら「ちびくろサンボ」という童話が黒人の表現に問題有りとして絶版になった騒動があったでしょう。同様の問題がドリトル先生にもあったからです。物語の中にアフリカのジョリキンキ王国の王子カアブウブウ・バンポという愛すべき黒人青年が登場します。このバンポの表現が差別的だと問題になったのです。前掲書を引用しましょう。

 

 この物語が書かれたのは主に一九二〇年代のことだ。だから、有色人種や異教徒に対して、今日の尺度からすれば、偏見や心ない表現と思われる部分が皆無ではない。そのために一九七〇年代になると、この作品の、とくにバンポの描き方について、人種差別的だという批判の声が上がった。批判の一部は正当なもので、ロフティングの認識に限界があったことを認めねばならない。

 

 この当時、清涼飲料水のカルピスもこうした騒動を恐れてシンボルマークを変えたことはご記憶だと思います。ですから昨年ハリウッドで映画化されたと聞いて大変驚いたのです。世間が黙っているのだろうかと。

 

 しかしさすがハリウッド。

 ドリトル先生を演じたのはなんと黒人ナンバーワンスター、かのエディー・マーフィーでした。これなら問題は生じません。逆にこのことから今でもアメリカでドリトル先生が広く愛されていることを知ってかえって安心したのでした。

 

 さて、子供心に疑問に思ったことがありました。

 それはドリトル先生は多くの動物はおろか植物や昆虫とも会話し、当然のように外国語にも精通して中国語まで操るのに、なぜか日本語は話せないということだったからです。

 

 前掲書の著者も同じ疑問を抱いていますが、ドリトル先生の時代つまり十九世紀前半は日本は鎖国と独立を貫き、またキリスト教に厳しい弾圧を加えていたなど、その特異性が際立っていたからかもしれないと見解を述べておられます。

 

「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」

 ルーイス・キャロル(1832~1898)の「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」も広く愛されている物語です。知られているようにアリスの物語はルーイス・キャロルこと数学者ドジソンが、友人リッデル氏の娘アリスのために
作ったナンセンス・ストーリー。キャロルがロリータ・コンプレックスであったことは有名で、当時発明されたばかりのカメラで少女の写真をたくさん撮影しています。今日、アリス・リッデルの愛らしい写真を見ることができるもの
そのためです。

 

 イギリス文学を語るとき切り離せないものにマザー・グースがあります。マザー・グースとはイギリスの伝承童謡の総称です。今日でも英語圏では広く愛唱されています。

 

 たとえば北原白秋が大正十年に紹介した本の中から、でんでんむしに関係するものを三つ書き出してみましょう。

 

     ででむし

  ででむし、ででむし、角だせや。

  パンとお麦を、それ、あげよ。

 

    でんでんむしむし

  でんでんむしむし、

  角ひけよ。

  ひかなきゃ山椒の粒ふりかける。

 

    ででむし角だせ

  ででむし、ででむし、角だせや、

  お父さんもお母さんもしんでしもうた。

  おまえの御兄弟姉妹は裏ん口の庭で

  パンをおくれェと乞うている。

 

 どこか日本の童歌とも共通するものがあるようです。でんでんむしをつつきながら歌っている子どもの情景が目に浮かびます。

 

 アリスの世界には先に引用したものとは違いますが、マザー・グースが多くちりばめられています。

 

 マザー・グースは先述のドリトル先生にも幾度か登場します。

 たとえばカブトムシの後をついて行きながらバンポが歌った「テントウ虫テントウ虫おまえのおうちへ飛んで行け おまえのおうちは焼けちゃって おまえの子どもは・・」という歌。これがマザー・グースの中にある歌だとは後年
知りました。

 いずれにしましてもアリスの物語は永遠のナンセンス・ストーリーとして不滅です。

(以下次号)

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三島治療室便り 《游氣風信》増刊号  

 
春風献上

 

明けましておめでとうございます。

 

本年は西暦2001年。

21世紀の幕開けの年となりました。

 

思い返せば、わたしが少年だった頃、

21世紀は夢の世界でした。

 

科学技術の発達によって病気や災害が駆逐された

果てしない希望に満ち満ちている世界。

それが夢の21世紀だったような気がします。

 

鉄腕アトムが闊歩する

美しい自然と科学技術に支えられた理想の社会。

それこそが21世紀であるはずだったような気がします。

 

しかし現実はどうでしょう。

科学技術はあくまでも技術すなわち道具でしかありませんでした。

それをどう使いこなすかは人間の心の問題

人類は次々に手に入れた道具をついに使いこなせなかったようです。

 

さりとて

科学と対比される芸術は枝葉にこだわり本質を見失い、

宗教も結局はさまざまな対立を生み出すばかりです。

 

 宗教は疲れ近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い

 芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した 

               (「農民芸術概論綱要」宮沢賢治より)

 

1926年に書かれた詩人の思いはついに世紀を持ち越します。

 

考えてみると

人間としての成長は石器時代とさほど変化していないのではないでしょうか。

石がナイフになり、ピストルになり、ミサイルになっただけ。

道具は発達しても使用者である人間はさほどの変化はしていません。

石器を振り回す感覚で核エネルギーを扱っているのです。

 

人類は自ら勝ち得た創造力から生み出した道具を

肥大化させ

とうとう持て余し始めた・・・

これが20世紀だったのでしょう。

 

では、これらの問題をどのように解決して行ったらいいのでしょうか。

結局どうしたらよいか分からないまま

さまざまな矛盾を新たなる世紀に持ち越すことになりました。

 

とりわけ、資源と環境や人口爆発に関する課題はまだまだ端緒についたばかり。

混迷の状態にあります。

 

また、社会構成の重要な要素である経済はどうでしょう。

共産主義と資本主義の対立構造も

一方が壊れたとき他方も先行きが怪しくなってきました。

 

ことに日本は資本主義的繁栄(唯一成功した国家社会主義という見方もあるよ

うですが)を謳歌してきた反動をこれからどう受け止めていくのでしょうか。

 

目を外に向けると

東西の冷戦後明らかになった経済格差による貧困者の憤懣。

古代からの禍根を引きずる宗教紛争や民族闘争。

問題は日本以上に山積みです。

 

けれども悲観は禁物です。

新しい太陽はまた昇ってきました。

21世紀はわたしたちにとってどんな年になるのか。

いかなる人も歴史や社会に無関係に生きているわけではありません。

 

甘いと言われるでしょうけど

一人一人が、新しい年を祝い

しっかりと歩み出せば

きっと

社会や歴史もそのように動き出すに違いありません。

 

正月の清新な空気の中で

ゆったりとした時間の中で

 今日、生きていること

 今日、生かされていること

 今日、生きてあること

また

 今年一年がどんな年になるか

 今年一年をどんな年にできるか

 

静かに思いを馳せたいと思います。

どうぞ本年もよろしくご指導賜りますよう

年頭に当たって心よりお願い申し上げます。

                            2001年1月1日

                                 三島広志

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游氣風信 No,132 2000.12.1 世紀末は笑って過ごそう

三島治療室便り

 今年も残すところ後わずかとなりました。

 しかも今月は二〇世紀最後の月でもあります。なにがしかの気ぜわしさを感じないではいられません。

 

 地球が太陽の回りを一巡りすると一年。

 それを百回繰り返すと一世紀。

 

 こうした人為的な区切りに世相を無理やり反映させ、世紀末などと深刻ぶるのは全く好みに合いません。

 

 しかし、現在46歳のわたしは地球が太陽の回りを46回廻った間を生きてきたことになります。たった46回か、もう46回かは感じ方の問題ですが、地球が宇宙空間を一直線に突っ走る間を生きてきたのではなく、太陽を周回しながら生きてきたということは人生に対してどこか示唆的です。

 

 この頃はこうしたある種のけじめを繰り返しつつ齢を積み重ねていくのは決して無意味ではないと思うようになりました。

 半世紀近くも生きてくると、人生の蓄積が次第に澱んできます。

 その澱みを清めるという意味で、年が改まるのはとても新鮮で好ましいことではありませんか。

 

 とりわけ巷間不景気風が吹き荒れている御時世です。

 倒産だのリストラだの、犯罪多発だのと暗い記事が新聞紙上を埋めつくしています、こういうときだからこそ人為的な区切りに乗っかり、笑顔で旧年を送り、新年を迎えたいものです。

 今から30年ほど前のことです。

 クラブの友人T君が大声を張り上げて下手くそな歌を怒鳴っていました。

 

  襟裳の~春ぅわぁ~

  何も~ない 春ですぅ~

 

 その歌は何かと尋ねたら森進一の「襟裳岬」だと教えてくれました。

 レコード会社の予定では、当初B面(懐かしい言葉です)に収録されるはずだったこの歌を、歌手の森進一本人が大層気に入り、どうしてもA面にして欲しいと言い張ったという裏話をテレビで見たことがあります。

 

 当時、森進一は歌手として、また生活者として壁にぶつかって悩んでいました。そんな彼にとって三番の歌詞が心に強く響き、何が何でも歌いたかったのだそうです。

 

  日々の暮らしはいやでも やってくるけど

  静かに 笑ってしまおう

  いじけることだけが 生きることだと

  飼い馴らしすぎたので 身構えながら話すなんて

  ああ おくびょう なんだよね

                   襟裳岬

(作詞 岡本おさみ/作曲 吉田拓郎)

 

 つらくても静かに笑う、やや厭世的ではありますが、庶民の処世術としては普遍的なすぐれものです。時あたかも浅間山荘事件などに代表される学生運動や三島由紀夫の自決など騒乱の時代が沈静化しようとしていた頃です。

 これ以後、日本では社会全体を揺り動かすような大きな動きは起こらず、みんな薄ら笑いを浮かべながら日々を暮らしてきたような気もしますが、ともかくも上辺は平和と繁栄を享受してゆくことになります。

 

 生理学的に見ても笑うことには意味があるという報告があります。

[游氣風信49号](1994年1月号)にも紹介しました。

 

 それは笑顔を作れば気持ちも楽しくなるという記事でした。

 眼輪筋という目の回りの筋肉の耳側を動かすと脳が活性化すると米国の心理学者が研究したのです。

 意図的にでも笑顔を作る、すなわち目の回りの「眼輪(がんりん)筋」という筋肉を意図的に動かすと、脳内の楽しい感情に関連する部分が活性化されるらしいのです。

 

 楽しい時は、眼輪筋と頬の大頬骨筋が動くという説を唱えたのは、フランスの神経学者デュシェン。なんとそれは1886年のこと。実に100年以上も前のことです。

 それを確認するようにアメリカの心理学者が実験のために学生達にこの表情をさせたら脳内に楽しいときに発生する脳波が出現したそうです。

 

 つまり、口の角がニコッと吊り上がり、目尻にしわができる位の笑顔を作ると脳内に幸福感が漂うのです。よく知られた「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである」の楽しいバージョンになります。

 

 ともかく楽しくなくても笑顔を作ると幸福感が湧いてくる、これは安上がりの健康法です。人前でへらへらしていると疑われますから、一人の時など鏡の前で練習されてはいかがでしょうか。

 

 しかし一口に「笑い」といっても実にいろいろな種類があります。

 試みに「逆びき広辞苑」で「笑い」にかかわる文字を探してみましょう。一部を列挙します。

 

貰い笑い・愛嬌笑い・大笑い・高笑い・苦笑い・馬鹿笑い・泣き笑い・思い出し笑い・薄笑い・似非(えせ)笑い・愛想笑い・豪傑笑い・人笑い・物笑い・忍び笑い・含み笑い・しら笑い・せせら笑い・そら笑い・作り笑い・独り笑い

 
まだまだたくさんあります。意味は大体わかりますね。

 

 では次に「笑み」で引いてみます。

片笑み・ほほ笑み

 こちらも意味はわかります。

 

 次は「笑(しょう)」を思いつくままに挙げます。

軽笑・大笑・微笑・冷笑・巧笑・轟笑・哄笑・苦笑・嘲笑・失笑

こちらもまだまだあることでしょう。

 

 漢和辞典で笑いを引きますと、

 

咳(幼児がのどを詰まらせてわらう)

咲(口をすぼめてほほとわらう)

笑(口をすぼめてほほとわらう)

听(歯ぐきを剥き出してあざわらう)

哂(しっと歯の間から息を出して含みわらいをする。ほほえむとき、失笑するときの両方にもちいる)

嗤(あざわらい)

 

などが出ました。「笑」と「嗤」以外は知りませんでした。

 笑うに関する言葉はまだまだ一杯あります。調べてみてください。

 

 笑いと聞くといつも一番最初に思い出すのは少女アリスの活躍する「不思議の国のアリス」に登場するチェシャ猫です。

 

 「不思議の国のアリス」はご存じのようにディズニーのアニメにもなった有名な児童文学。内容はほとんどナンセンス。英語圏の人に愛唱される「マザーグース」に登場する不思議な人物?が次々現れるまさに「不思議の国」の物語。

ただし残念なことにこの作品には英語ならではの洒落が満載で、日本人には本当のおもしろさを知ることはできません。

 

 作者は数学者ルーイス・キャロル。友人リッデル氏の子どもアリスがとても気に入り、アリスを主人公にした物語を作りました。数年後同じくアリス・リッデルを主人公にした「鏡の国のアリス」も上梓しています。

 

 キャロルは当時作られたばかりの写真機を趣味としていました。それでわたしたちはアリス・リッデルの肖像を見ることができます。カメラの前でちょっとはにかんだ愛らしい少女です。

 

 もっともルーイス・キャロルはいわゆるロリータ・コンプレックスで、大人の女性よりも少女に関心が向いていたようです。

 

 さてこの笑いが気になるチェシャ猫ですが、こいつは高い木の枝からアリスに問答を吹っかけながら、「にやにや笑い」だけを残して体が消失するという怪しい猫です。

 原作を引用します。

 

 まず尾の端から消え出して、にやにや笑いで消えが終わったのですが、にやにや笑いはほかの部分が消えて後もしばらく残っていました。

 「まあ、にやにや笑わない猫は何度も見たが」とアリスは思いました「猫のいないにやにや笑いときては!こんな奇妙なことは生まれてはじめてだわ」

             不思議の国のアリス

ルーイス・キャロル 岩崎民平訳 角川文庫

 

 体が消えても笑いだけが空中に残る。なんと不思議なことでしょう。アリスならずとも

「こんな奇妙なことは生まれてはじめてだわ」

と、驚かずにはおられません。

 

 わたしはチェシャ猫のことが気になってしかたがありませんでした。それで友人たちに話をしましたが相手にしてもらえませんでした。誰もアリスなど読んでいなかったのです。

 しかし嬉しいことにチェシャ猫が気になるのはわたしだけではなかったのです。

 

 10年ほど前、アメリカのご婦人からお土産をいただきました。それはペラペラめくると絵が動く仕掛けになったミニ本です。ミニ本の中で動いているもの。

それがなんとなんとチェシャ猫でした。それも「不思議の国のアリス」の原作本のイラストを担当したテニエルの絵を用いたもの。

 わたしは思わず

「オオ、チェシャキャット!」

と叫びましたら彼女は

「まあ、あなたもチェシャキャットが好きなの」

と大変喜びました。

 

 笑門来福(笑う門には福きたる)。

 正月の代表的な古典遊びに福笑いがあります。

 無理にでも笑顔を作れば頭の中に幸福物質が分泌されるようですから、一度、笑顔を作ってみてはいかがでしょう。

 ため息や愚痴は周囲まで不幸にします。

 にっこり笑って新年、そして新世紀を迎えましょう。

 

〈後記〉

 今日、所属している藍生俳句会の事務所から藍生創刊十周年記念行事の時の写真が届きました。

 わたしと黒田杏子先生(主宰)と講演にお越しいただいた俳優の小沢昭一さんとが並んで写った写真も交ざっていました。お二人ともとても魅力的な笑顔です。

 小沢さんは71歳になられたとか。以前永六輔さんや野坂昭如さんたちと中年御三家でマスコミを席巻しておられたころのイメージしかなかったのでお年を取られたなという感じですが、それがとても魅力的な加齢であることが拝見しただけでわかります(今もラジオでお声はよく耳にしています)。

 

 講演で小沢さんは新しい境地を求めて、来年は歌をやりたいと抱負を述べておられました。今日目覚めて、やることがあるならそれだけでも幸福です。まして来年やることがあるならなんと素敵なことでしょう。こういう人達がいつまでも若々しい理由がよく分かりました。

 

 もうまもなく新世紀を迎えます。

 長生きし過ぎたと自らを嘲笑したり、どうせ何もいいことはないよと世をすねて冷笑したりではなく、自分にとってはまた新しい年が来たと初日に向かって高らかに哄笑して新しい時代を迎えたいものです。

 皆様、良いお年を、

     良い世紀を。

                                   

                                                 (游)

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游氣風信 No,131 2000,11,1 俳句を教える


 先日、旧友のB君からめずらしく電話がありました。

 B君は鍼灸学校の同級生ですが大変な努力家で、病院勤務のかたわら福祉の勉強に取り組み、難関の社会福祉士の資格を取得しました。現在、ある福祉施設で仕事をしています。

 

 B君からの久しぶりの電話の内容には驚きました。なぜならデイサービスにみえる人達の俳句を添削して欲しいというものだったからです。

 

 わたしは学生時代より俳句を始め、たいした上達も見られないまま、すでに四半世紀を過ぎました。その間、句会などで私見を述べたり、結社誌に論文を執筆したりしたことはありますが、改まった形で人の俳句の指導をしたことはただの一度もありません。わたし自身単なる一介の俳句愛好家であって、俳句の先生でも、ましてや俳人と呼ばれる存在でもないから当然です。

 

 四半世紀。思えば長く続けているものです。俳句には中学生のころに興味をもったあと、意識的に俳句を始めたのは大学生の時。当時は全くの独学でした。

 

 その後、基礎を学ぼうと「鹿火屋(かびや)」という伝統ある結社にお世話になりました。「鹿火屋」は大正俳壇に絢爛たる足跡を残した原石鼎(はらせきてい)が創刊したものです。

 

 頂上や殊に野菊の吹かれ居り

 淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守

 

 大正時代、高浜虚子から絶大な評価を得た原石鼎はこれらの句で知られています。結社名の由来になった「鹿火屋」とは、夜、畑を荒らしに来る鹿を追い払うために一晩中火をおこして、鹿の嫌う臭いを燻したり、驚かすために寝ずの番をして銅鑼を打つ小屋のこと。石鼎が最も輝いていた和歌山の吉野在住当時の作品です。

 

 大学を出た後、さらに鍼灸の専門学校に進んだわたしは生活に追われて俳句の実作とは疎遠になりましたが、関心だけは持ち続け、いろいろな本に目を通していました。

 

 20代の後半には俳句理論に引かれて平井照敏先生(中日新聞俳句月報担当)の「槙」や、一宮を拠点とする前衛的な集団「地表(小川双々子主宰)」などに参加した後、現在は「藍生(あおい)」の末席を汚しています。藍生は今月で創刊十周年になります。

 

 藍生の主宰は黒田杏子(くろだももこ)先生で、彼女は以下の句などで注目されました。

 

 白葱のひかりの棒をいま刻む 

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり

 人泊めて氷柱街道かがやけり

 指さして雪大文字茜さす

 一の橋二の橋ほたるふぶきけり

 

 黒田杏子先生は俳壇の枠を越えて八面六臂の活躍をされており、俳句を作らない方にも広く知られています。

 

 今回、B君からの依頼は断る理由もないし、良い経験と思い引き受けました。

デイサービスに来られる方々なら、皆さんご高齢でしょうし、人生に対する何らかのより所も求めておられることでしょう。ボランティアとして多少なりとも役に立てるなら結構なこと考えたのです。

 

 ところが、送られてきた句をみて大変驚きました。どの句もかなりレベルが高いのです。きちんと俳句の基本を押さえ、テーマも明確であり、ほとんど作品として破綻のないものでした。

 

 うかつにも、デイサービスで習ったばかりの素人作品だと思い込んでいたわたしは、

「これはいかん」

ときちんと姿勢を正して、送られてきた俳句と対峙したのでした。

 

 以下にその方たちの俳句とわたしの講評、および添削を紹介します。

 あきらかに初心者と思われる方にはそのレベルでの講評を、ベテランと思しき方の句には極力その方の俳句観を損ねないように留意はしましたが、いかんせん、一度もお会いしたことのない方ばかり。年齢も、性別も、また一体全体何人の方の句が送られて来たのかも分かりませんから結構苦労しました。

 

 お一人お一人の俳句に対する、また人生に対する思いや事情を鑑みれば、ただ単に作品として良い句を選べば事足りるというものではないのが辛いところでした。

 

 これから送り返した原稿をご紹介します。皆様のご批判や如何。元のままの方が良かったではないかというお叱りも覚悟の上です。

 

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 さて、早速皆様の俳句の講評をいたします。

 

 今回作品を出されている方が何名なのか、性別、年齢、句歴(どんな先生について何年間勉強したか)など一切が不明ですのでやや批評に戸惑いがありました。

 

 ただ、全体に拝見して、皆さん、ある程度、あるいはかなり、俳句の勉強をされておられるとお見受けしました。

 

 具体的に言えば、俳句の基本である「季語・五七五・切れ」はほとんどの句で守られていました。

 

 一部に季語を二つ以上用いる「季重なり」が見られましたが、概ね俳句として出来上がったものばかりでした。

 そこで、もう少し上のレベルの注意事項である

 

 俳句は状況の説明をしない

 俳句は省略が大切

 

の二点にも留意して拝見しました。

 

影つれて走る気動車鰯雲

 良くできた俳句です。国鉄にお勤めだったのでしょうか。気動車というあまり知られない言葉をご存じです。ディーゼルカーのことです。秋の大空の下を走る列車。雄大な景色。「鰯雲」がとても効果的です。唯一の難点は「影つれて」です。言葉にいささかの気取りが感じられますから素直に「影ひいて」としましょう。

添削 影ひいて走る気動車鰯雲

 

肩の荷をおろして焼かる捨案山子

 捨案山子とは目の付け所がおもしろいですね。役目を果たして燃やされる案山子にご自身を重ねてある種の親近感を抱いておられるのでしょうか。問題点は「おろして焼かる」です。俳句を詠むとき動詞を続けないことが秘訣です。

説明になってしまうからです。「おろして」の「て」も説明になりがちですから要注意事項。五七五の調べから外れる破調の句になりますが以下のようにしました。

添削 捨案山子焼かる肩の荷おろすかに

 

朝寒の日のさす迄の一しきり

 晩秋の今、日がさしてくるまでの間はひとしきり寒さが実感できるということでしょう。誰もが「そうだそうだ」とうなずける句です。この句はこれで完成です。特に「一しきり」がお上手です。

 

秋の色野菊の香澄み渡り

 秋は菊の季節です。本当にきれいです。この句には「秋の色」「野菊」と季語が重なっています。「秋澄む」も季語になります。ここでは思い切って焦点を野菊に絞りましょう。

添削 晴ればれと空澄み渡る野菊かな

 

金木犀香り漂う散歩道

 街角のあちこちでふと気づくと金木犀の良い香りが届いてくる季節です。金木犀はどうしても花より「香」を連想させますね。そこで、あえて香りを捨てましょう。

添削 金木犀いつもと違ふ散歩道

 

秋茄子焼いて煮てよし一人膳

 秋茄子のおいしさと、それを一人で食べる寂しさが伝わってきます。これで完成としてもよろしいのですが、「焼いて煮てよし」はお店の宣伝文句のようでもありますから少し変えましょう。

添削 秋茄子焼いても煮ても独りかな

 

蟷螂と共に過せし秋一夜

 寝る前に見かけた蟷螂(とうろう・かまきり)が朝までいたのでしょうか。あるいは家に迷い込んだ蟷螂と秋の夜長、しばらく遊ばれたのでしょうか。いずれにしても個性的でおもしろい俳句です。ただし「蟷螂」と「秋」がどちら
も秋の季語ですから、この場合「秋」を捨てましょう。

添削 蟷螂と共にひと夜を過ごしけり

 

石榴はぜ実の粒粒のぬれて見ゆ

 石榴がはぜたら中の粒々が濡れて見えたということですね。よく観察されておられます。惜しむらくはこの句は文章の一節のようで俳句としての力が少し弱いようです。散文化を避けるために、間に「切れ」を作りましょう。
 それと俳句では「見ゆ」とか「思ふ」などはあまり使用しないほうが成功します。どうしても説明的になるからです。

添削 粒々のぬれてをるなり石榴の実

 

新聞を広げる先に秋の蝶

 これで結構です。少し説明をつけますと、この蝶々が秋と限定されるには弱い、つまり春でも夏でも冬でもいい感じがします。しかし、新聞を広げたすぐそこに静かにいるのは秋の蝶がふさわしいですね。春や夏の蝶はひらひら飛んでいるイメージが強いですから。この辺りに微妙な季節感があります。

 またこの句は助詞のおもしろさを教えてくれます。「広げる先へ秋の蝶」とするとそこへ飛んで来た感じがしませんか。また「広げる先を秋の蝶」とすると通過していく感じです。

 

小鳥なき日ごとに色ます庭もみじ

 秋は小鳥の目につく季節。「小鳥来る」とすると秋の季語です。この句では気づいた点が二つあります。一つは「小鳥なき」。これでは「小鳥無き」か「小鳥鳴き」かが分かりにくいので「小鳥鳴き」と漢字にした方がいいですね。

 もう一つは「日ごとに色ます」です。これは字余りになっています。どうしても無理なときはしかたありませんが、できるだけ字余りや字足らずは避けましょう。「日ごと色ます」でいいですね。歴史的仮名遣いでは「もみじ」は
「もみぢ」とします。

添削 小鳥鳴き日ごと色ます庭もみぢ

 

句碑よみて巡りなおせり萩の寺

 句碑を読んで感慨を深め、もう一度萩の寺を巡りなおされたのでしょうか。「巡りなおせり」というところが少し硬い表現になっていますので、作者の思いから外れてしまうかもしれませんが次のようにしてみました。

添削 句碑読みてもう一巡り萩の寺

 

ふるさとの取り入れ便り胸いっぱい

 お気持ちはよく分かります。しかし惜しいのは「胸いっぱい」。俳句では作者の思いは直接述べないで読者に感じ取ってもらうのです。

添削 ふるさとの取り入れ済みし便かな

 

稲穂垂れ刈り入れまつ黄金波

 「稲穂」「刈り入れ」どちらも秋の季語になります。季語は一句に一個にした方が一句がまとまります。しかしこの句の場合は稲を刈るということを主眼に書かれていますから、「稲穂垂れ刈り入れまつ」でひとまとまりと考えましょう。ただし、「黄金波」までは必要ないので省略します。

添削 稲穂垂れ刈り入れを待つばかりなり

 

梅干しや鬼籍に入りし祖母の顔

 「梅干」は夏の季語。思い出を淡々と詠まれています。おばあさんは梅干しを漬けるのがお上手だったのでしょう。このままでよろしいです。
 書き方の問題ですが、俳句では原則的に「梅干し」は「梅を干す」という動作を表し、「梅干」は食べる梅干のことになります。比較して見ると、「し」を消した方がすっきりとしませんか。

添削 梅干や鬼籍に入りし祖母の顔

 

校庭の笑顔と並ぶ菊の花

 素直な句でこのままでよろしいと思います。少し手直しするなら「並ぶ」を省略してみましょうか。

添削 校庭の笑顔一列菊の花

 

妻病みて夜長男の針仕事

 ご苦労が伝わってきます。「夜長」で切れています。調べも立派なよい句になりました。

 

よき父も荒武者となる秋祭り

 いつもは優しいお父さんが秋祭で荒武者の扮装をしたのですね。微笑ましい光景が浮かんできます。少し手直ししましょう。やや散文的だからです。「荒武者となる」が説明になっています。思い切って動詞を捨て、説明をせず、省略を効かせます。

添削 よき父もけふは荒武者秋祭

 

老い痴れてまばたきすごす秋静ま

 「老い痴れて」はあまりに寂しいですね。事実からは離れてしまいますが酔いしれたことにしましょう。これでも十分に孤独な寂寥感が伝わることでしょう。

添削 酔ひしれてまばたき過ごす秋しじま

 

秋が来て死んで生きよと兜太いい

 兜太は現代を代表する俳人金子兜太先生のことですね。少し難しい句ですが兜太の名を出して成功しています。野太い句になりました。ただし、「いい」は「いひ」です。

添削 秋が来て死んで生きよと兜太いひ

 

芭蕉忌や死は十分に生きてから

 芭蕉忌は旧暦の十月十二日。時雨忌とも言います。忌日の季語から死を導き出すのはいわゆる即き過ぎ(つきすぎ)になります。別の季語を用いた方がいいでしょう。一例を示します。ちちろ虫はコオロギのこと。

添削 ちちろ虫死は十分に生きてから

 

秋灯やわが部屋深き本の海

 これでもよろしいですが、秋灯と部屋と本は即き過ぎになります。ここまでの力のある方なら別の季語を考えて、もう一段、俳句を深めてください。

 例えば次のようにしてみました。「かりがね」は雁のことです。「雁が音」とも書き、本来は雁の鳴き声のことでしたが、今は雁のことをさします。

 これは一例です。ご本人で納得いくように考えてみてください。

添削 かりがねやわが部屋深き本の海

 

芋嵐妻籠馬篭の石畳

 芋嵐は芋の葉に吹き付ける嵐のこと。「案山子翁あち見こち見や芋嵐 阿波野青畝」の句から生まれた季語です。この句はこのままで上等です。

 

柿の種ぷっと飛ばして良き日かな

 おもしろい着眼で、このままでも十分です。ただ、「ぷっと」は、俳句では「ぷつと」と書きます。

添削 柿の種ぷつと飛ばして良き日かな

 

 以上です。

 皆さん、お上手で感心しました。ますます励んで、俳句で人生を深めてください。俳句を作る意識を常に抱いていますと、毎日が新鮮になります。普通なら繰り返しのような毎日でも、見るもの聞くもの全てが俳句心を刺激します。

 

 また、俳人の特質として天候が嫌になりません。俳人には良い天気も悪い天気もないのです。雨の日には雨の句が、風の日には風の句ができます。

 どうぞこれからの人生を俳句とともに歩んで行ってください。

 

 以上のように手を入れてみました。

 受け取られた方たちは何と思われるかは分かりません。この添削には納得いかないと怒られる方もおられることでしょう。こうした方がいいと別の意見を持たれる方もあるでしょう。このような刺激はなかなか楽しいものです。

 

 人間は人とのかかわりの中に生きがいを見いだします。他人に添削を依頼されるということも人とのかかわりを希望しておられる一端を示しています。

 納得いこうが、不満が生じようが、それら全てを楽しむことができたら最高ですね。

 

 人の俳句に手を入れるのはなかなかおこがましいことなのですが、B君から依頼された手前、全ての句にコメントをつけ、ほとんどの句を手直ししました。作者の意は十分に汲んだつもりです。果たしてご満足いただけたのでしょうか。

いずれB君からなんらかの返答があることでしょう。

 

後記

 

 柿の実が秋の透明な空の下でキラキラ輝いています。

 オーストリアとイタリアから女性が二人、指圧を習いに3週間来日しました。

彼女たちを連れて訪問リハビリに回ったとき、一番気にしていたのがいたるところに実っていた柿の実でした。まさに日本の秋の象徴です。

 彼女たちはあるお宅でいただいた柿の実をどっさり食べて、大きなおなかをますます大きくして帰国しました。きっといい思い出をどっさり持ち帰ってくれたことと思います。

(游)

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游氣風信 No,130 2000,10,1 季節の雲

三島治療室便り
 秋は空の高い爽やかな季節。見上げると青空に浮かぶ鱗状の雲が目を引きます。そこで今月は雲について調べました。

 

 例によって少し寄り道になりますが、まずは宮沢賢治の童話から紹介します。
 宮沢賢治の童話には蛙を主人公にした作品がいくつかあります。
 すぐに思い浮かぶのは「カイロ団長」「畑のへり」「蛙のゴム靴」。
 

 「カイロ団長」は労働と搾取の愉快な寓話。
 働くことそれ自体を楽しんでいた時代から、労働が経済行為に移行する、すなわち資本家の誕生と搾取、その解決を労使闘争ではなく宗教的調和のもとに行おうという賢治らしいテーマを蛙を主役に寓話化したものです。

 

 毎日楽しく働いていた30匹の「あまがえる」は、今風に言えば暴力バーのオーナーである「とのさまがえる(自称カイロ団長)」にだまされて苛酷かつ無意味な労働に従事させられます。

 

 「とのさまがえる」は無知な「あまがえる」たちに酒を飲ませ、法外な料金を吹っかけ、払えないと知るや、警察に突き出すと脅して無理やり働かせました。そこには苛酷で不毛な労働があるばかりで、働く喜びがありせんでした。

そんなある日、王様のお達しがあります。

 

 「王様の新しいご命令。王様の新しいご命令。すべてのあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいさうなものである。けっして憎んではならん。以上」

このようにして絶対者の一声の下、実に他愛なくことが解決されるやり方は賢治の作品によく見られる傾向です。

 

 特にこの王様のお達しは宗教的情操の発露として純粋なものですが、反面、賢治の限界を示すものとして批評家によく引用される部分です。

 

 似たような作品に気のいい白象とやり手資本家の物語「オツベルと象」があります。しかし結末は正反対。こちらの物語は苦しい現実から逃れるために祈りに救いを求めるだけの白象を、怒りと憎しみに猛り狂った仲間の象たちが実力行使で救い出します。賢治にしては極めて過激で闘争的な作品と言っていいでしょう。

 

 賢治が「カイロ団長」や「オツベルと象」などの作品を書いたのはなぜでしょう。

 資本家と労働者という対立する存在を通じて、働くことの意味を問うたり、それらをどう浸透的に幸福に結びたらいいのかと考えるのは、素封家(お金持ち)の家に生まれながら貧しい農村と向き合わねばならなかった賢治にとって極めて重大な命題でした。

 

 宗教的諦観による救済も、争議による解決も、いずれも農村の悲惨な現実を何とかしたいと思い続けていた多面体宮沢賢治の確かな一面です。大正から昭和初期、丁度日本が戦争に向かっていた時代のことでした。

 

 済みません。「カイロ団長」に深入りし過ぎました。あとの二つの作品に急ぎます。

 「畑のへり」は蛙がトウモロコシを兵隊だと勘違いして怖がる楽しいメルヘン。今月のテーマ「雲」が出てくるのは「蛙のゴム靴」です。

 

 当時まだ珍しかったゴム靴という財産によってメス蛙の気を引いて結婚することになった蛙とそれを妬む仲間の蛙の物語。ちょっと「金色夜叉」に似ています。

 この話の中に蛙が「雲見」を楽しむ場面があります。なかなか愉快なので長いですが引用します(新校本宮澤賢治全集より)。

 

 ある夏の暮れ方、カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋は、カン蛙の家の前のつめくさの広場に座って、雲見といふことをやって居りました。一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峯を見ることが大すきです。じっさいあのまっしろなプクプクした、玉髄のやうな、玉あられのやうな、又蛋白石を刻んでこさえた葡萄の置物のやうな雲の峯は、誰の目にも立派に見えますが、蛙どもには殊にそれが見事なのです。眺めても眺めても厭きないのです。そのわけは、雲のみねといふものは、どこか蛙の頭の形に肖てゐますし、それから春の蛙の卵に似てゐます。それで日本人ならば、丁度花見とか月見とかいふ処を、蛙どもは雲見をやります。

「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」

「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思はせるね。」

「実に僕たちの理想だね。」

 雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。ペネタ形といふのは、蛙どもでは大へん高尚なものになってゐます。平たいことなのです。雲の峰はだんだん崩れてあたりはよほどうすくらくなりました。

 

 ここに書かれている雲は「夏の雲の峯」ですから積乱雲、一般には入道雲と呼ばれるものです。雲の峰は夏の代表的な季語になっています。文中ではそれが平ら(蛙語のペネタ形)になるというのですから、これは積乱雲の上が崩れて平らになる、いわゆる鉄床(かなとこ)雲のことでしょう。

 

 原子朗著、新宮澤賢治語彙辞典にはペネタ形は気象用語の「ペネトレーティヴ・コンベクション(penetrative convection)貫入性対流、雲が垂直方向に気層を貫いて発達してゆく」から賢治が思いついた造語ではないかという高野みはるの説が紹介してあります。賛同できる説です。

 

夏の雲

 入道雲の中は激しい上昇気流が渦巻き、摩擦で静電気を帯電。放電されるとそれが雷であることはよく知られています。特に雲の頭がつぶれて鉄床雲になると危険です。

 

 賢治童話の蛙が好む雲の峯は俳句でも好まれる夏の季語です。

 

航海やよるひるとなき雲の峰 高浜虚子

雲の峰静臥の口に飴ほそり  石田波郷

雲の峰湧きて地中に薯太る 成瀬桜桃子

雲の峰灯台表裏なく剥げて  古館曹人

 

 入道雲(積乱雲)は雲の峰と称されるように山のように盛り上がりますから背も高く、なんと地上0.5から12キロの高さにわたります。

 

春の雲

 

 春の雲はぽっかりと綿のように浮いています。まるで大きな肉まんのようです。専門的には積雲といい比較的低い空に浮いています。積雲は最も低い空に浮く雲で0.5から3キロの高さにあります。

 

 雲

    山村暮鳥

おうい雲よ

ゆうゆうと

馬鹿にのんきさうぢやないか

どこまでゆくんだ

ずつと磐城平の方までゆくんか

 

 この人口に膾炙した暮鳥の詩の中にはどこにも春の雲とは書かれていません。しかし、詩の全体の雰囲気からは春の雲が想像されます。現実に束縛された自分に対し、ゆうゆうと自由で呑気そうな雲。行雲流水と言うように人は雲に自在な精神を感じ取ります。諸国を旅する修行僧を雲水と呼ぶのも行雲流水に因みます。

 

春の雲人に行方を聴くごとし 飯田龍太

春の浮雲馬は埠頭に首たれて 佐藤鬼房

 

秋の雲

 

 秋の雲は夏の雲に劣らず印象的です。

 大空一面を覆うような鱗雲。あるいは羊雲。これらは高積雲といい、比較的高い空(2から8キロ)にかかる雲です。その名の通り鱗のように空を覆っています。

 これらに似ていますがもっと細かく空に広がる雲が鰯雲。鯖雲とも呼びます。

こちらは絹積雲。鱗雲よりさらに高層、と言うより最も高いところ(5から13キロ)にできる雲です。

 

 サザエさんにこんな漫画がありました。
「鰯雲だ、すっかり秋ねえ」
「明日の配給も鰯だね」
 鰯雲がかかると鰯が豊漁だといわれています。

 

鰯雲昼のままなる月夜かな 鈴木花蓑

鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨

杉山に鱗重ねし鱗雲  原 裕

鯖雲やまとめ買ひせり竹箒 藤本新松子

 

冬の雲

 

 冬の雲は鉛色に空一面を覆い、雪などを運んできます。
 冬の雲の場合、形より質感から凍雲(いてぐも)などと呼ばれ、その有り様は心象を反映したものとして文学作品にも頻繁に取り上げられます。

 

 雪白く積めり

       高村光太郎

雪白く積めり。

雪林間の路をうづめて平らかなり。

ふめば膝を没して更にふかく

その雪うすら日をあびて燐光を発す。

燐光あをくひかりて不知火に似たり。

路を横切りて兎の足あと点々とつづき

松林の奥ほのかにけぶる。

十歩にして息をやすめ

二十歩にして雪中に坐す。

風なき雪蕭々と鳴つて梢を渡り

万境人をして詩を吐かしむ。

早池峰はすでに雲際に結晶すれども

わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。

わづかに杉の枯葉をひろひて

今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。

敗れたるもの卻て心平らかにして

燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。

美しくしてつひにとらへ難きなり。

 

 空襲で東京のアトリエを失った詩人で彫刻家の高村光太郎は、宮沢賢治(昭和8年没)の縁で岩手県花巻の宮沢家に疎開。しかし宮沢家も空襲で焼失したため、花巻郊外の山村に庵を編んで孤独な老後(63歳から70歳まで、以後東京に戻り昭和31年74歳で没す)を過ごしました。

 

 戦争中、光太郎は戦争賛歌の詩を書いたため、戦後、自己を改めて見直し、自らの来し方を暗く愚かなものとする「愚暗小伝」を書きます。

 紹介の「雪白く積めり」はそれ以前に書かれたものですが、体力や気力の衰えを露に表現しています。しかしそれ以上に自分自身の人生を否定的に追求する作業をしているようすが伺えて読むのも辛い作品になっています。

 

 弱ったからだで雪の中を少し歩いては息を整え、遠く雲の下に結晶する早池峰山(岩手県の明峰)を見つつ、自らの芸術の未完なることを己自身に問いかけているのです。

 

 この作中に出てくる早池峰の雲は控えめではありますが、しっかりと光太郎の思いを担っています。

 

凍雲として六甲を離さざる   田原憲治

寒雲の影をちぢめてうごきけり 石原八束

集まつて来て冬雲となる伊吹  山田松寿

 

 最後にもう一度賢治の雲を。

 

  [わが雲に関心し]

わが雲に関心し

風に関心あるは

たゞに観念の故のみにはあらず

そは新たなる人への力

はてしなき力の源なればなり

 

 賢治の自然観が理解される詩編です。

 

(雲に関しては「雲の表情 伊藤洋三著」保育社
光太郎の詩は教養文庫、暮鳥の詩は「詩のたのしさ 嶋岡晨著」講談社
を参考にしました)

 

後記

 

 先月号で山田耕作作曲の「あかとんぼ」を日本語のアクセントの問題から藤山一郎さんが歌わなかったと書きました。「あかとんぼ」のアクセントは通常「か」にありますが、歌では「あ」にあるので、正しい日本語ではないという理由からです。

 

 これに対して名古屋の芸術大学の先生から次の二点の指摘がありました。

 一つ目はは山田耕作先生は日本語に関してとても厳格な人であったこと
 二つ目はその当時「あかとんぼ」の「あ」にアクセントがあっても間違いで

はなかったこと

ご指摘ありがとうございます。

以上ご報告します。

(游)

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三島治療室便り 游氣風信 No,129 2000,9,1 蜻蛉(とんぼ)あれこれ


 《游氣風信》では今までに何回か虫について書きました。

 しかし、それらはゴキブリであったり、ボウフラであったり、イモムシであったりと、比較的人気の薄い虫に焦点を当てたので、残念ながら決して評判のいいものではありませんでした。

 

 そこで今月は日本人に最も人気のある昆虫の代表である蜻蛉(とんぼ)について書きます。虫の話など虫が好かない、虫酸が走るなどと短気を起こさず、気軽に読んでいただければ幸いです。

 

 子どもたちの間で絶大なる人気を得ている虫は何と言ってもカブトムシやクワガタの仲間、いわゆる甲虫(こうちゅう)です。分類上は甲虫目(こうちゅうもく)。目は一つの分類項目で別名鞘翅目とも呼びます。これはカブトムシやコガネムシのように外側(前羽)の羽が堅い甲(かぶと)もしくは鞘(さや)のようになって、薄い後羽を保護していることからの命名です。

 

 飛ぶときは重い体を後ろの薄羽だけでウンウンと運ぶ感じで決してカッコ良くはありません。

 しかし彼らの力強さや頑丈さは男の憧れであり、戦国の世、戦場に向かう武将たちの兜(カブト)にはクワガタの大顎の形がデフォルメ(変形)されて飾られました。

 

 力強さの象徴がカブトムシやクワガタムシなら、その色彩的でひ弱な美しさから女性にも人気があるのが蝶々の仲間。まるでドレスを装った貴婦人です。

 奇麗な花に来て自前のストローで蜜を吸うという生態も可憐極まるものがあり、そこが人気の秘密の一端でしょう。

 

 幼虫のときは醜いイモムシでも卒然と脱皮して美の象徴として生まれ変わるというのも変身願望をくまなく満たしてくれるものです。

 ところが蝶と同じ仲間なのに不当に毛嫌いされるのが蛾。その野暮ったい衣装と厚化粧で身繕い、夜、灯火に導かれて、食卓などにバタバタと粉を散らすのが不人気の理由。

 

 しかし蝶も蛾も共に鱗翅目(りんしもく)の仲間。鱗粉と呼ばれる粉が付着した翼が特徴です。

 

 蝶はその美しさをして女性の理想像を具現しているのですが、鏡に写る自らの現実は蝶より蛾に似ているのではないかと深層心理的な不安を呼び起こすために、蛾は多くの女性に嫌われるのでしょうか。ここは多くを語らない方がわが身のためです。

 

 中国では美人を別名蛾眉(がび・蛾の触覚のように三日月型をした美しい眉、翻って美人のこと)と呼びましたから蛾に対して謂れ無き偏見はないと思われますし、英語では蝶はbutterfly(バタフライ)、蛾はmoth(モス)と明確に分けてはありますが、どうも普通の人は蝶と蛾の明確な区分けはしていないようです。

 

 西洋では魔女が蝶に化けてバターを盗みにくるという迷信があります。それで蝶をbutter-flyバターフライと言います。男の間を飛び回る浮気な女の意味もあります。

 

 ちなみにゴジラのライバル、怪獣モスラは英語のmothから来ています。ゴジラはクジラとゴリラの複合。

 

 さて、忘れてならないのが今月の主役、日本の古名にもなった蜻蛉(とんぼ)でしょう。

 とりわけ秋になって大量に発生する赤トンボは有名な唱歌とあいまって日本人に強く郷愁を呼び起こす虫です。

 

  夕焼け小焼けの あかとんぼ

  負われて見たのは いつの日か

  山の畑の 桑の実を

  小籠に摘んだは 幻か

  十五で姉やは 嫁に行き

  お里の便りも 絶え果てた

  夕焼け小焼けの あかとんぼ

  止まっているよ 竿の先

     (三木露風作詞 山田耕作作曲)

 

・・・以上の歌詞は記憶に基づいたものですから誤りがあるかもしれません。

引用しないでください。

 

 アカトンボにはもう一つ過去を思い出させるものがあります。

 戦争の世を生きてきた方には赤トンボといえば練習用の複葉機を思い出されるでしょう。これに関しては戦後生まれのわたしは話に聞いただけで見たことがありません。

 

 余談ですが、国民的歌手の故藤山一郎さんは、この歌は決して歌わなかったそうです。

 「あかとんぼ」のアクセントは「か」にあるのですが、この歌では「あ」になります。これは日本語としておかしい、不自然であると、いかに山田耕作大先生の作品でも許せなかったようです。

 

 さらに藤山先生、「蛍の光」も同様の理由で歌わなかったと何かで読んだことがあります。「ホタル」のアクセントは「ホ」にあるにもかかわらず歌では「タ」にくるからです。

 紅白歌合戦のおしまいに出演歌手全員が行く年を惜しんで「蛍の光」を歌うとき、毎年、藤山一郎さんがタクトを振りましたが、ご自身はついに歌われなかったということです。一流の人の一刻な逸話です。

 

 トンボは日本という国にはとても深い意味があります。

 

  秋津州(あきつしま)の名は、神武天皇が大和の国の山上から国見をして、 「蜻蛉のとなめせるが如し」とか宣(のたま)われたことから起こったとい うが、一体どんな具合に眺められたのであろう。となめ(「と」は臀、「な
 め」は口偏に占)とはトンボの雌雄が交尾して互いに尾をふくみあい、輪と なって飛ぶことをいうのである。ともあれ大和の国がナメクジやゲジゲジのとなめせるように見えなかったのは慶賀の至りで、この国名は「日出ずる国」 なんぞよりよほどすっきりしている。

北杜夫著「どくとるマンボウ昆虫記」(蜻蛉、薄馬鹿下郎の項)より

 

 以上の文章はわたしの高校の頃の愛読書北杜夫の「どくとるマンボウ昆虫記」の一説です。

 日本の古名は秋津州。つまりトンボにちなんだ名前だったのです。

 

 秋津州とは何か。若い人には説明が要るかも知れません。古典の時間以外馴染みがないことばですから。

 例によって広辞苑のお世話になりましょう。

 

あきず-しま[秋津州・秋津島・蜻蛉州]

  大和国。また、本州。また広く、日本国の異称。(もと御所市付近の地名から。神武天皇が大和国の山上から国見をして「蜻蛉の(となめ)の如し」と言った伝説がある)

 

 以上のように、秋津州とは昔は大和の国を指し、後に日本全体にまで広げて用いられている呼称です。

 北杜夫さんならずとも一体どこをどう見たら蜻蛉のとなめに見えるのか分かりません。

 

 その前に「となめ」が分かりませんね。

と-なめ[トナメ]

 トンボの雌雄が交尾して互いに尾をふくみあい、輪になって飛ぶこと。

 

あきず[秋津・蜻蛉]

 トンボの古名。[季・秋]。

 

 大和の国が輪になって飛ぶトンボのようだという神武天皇の見解から日本が秋津島と呼ばれるようになったのです。

 したがってトンボは我が国の象徴とも言える昆虫となりました。

 

 トンボは漢字では蜻蛉と書き、音読みでは「せいれい」ですが、これは中国から入ってきた呼び名で、大和言葉では「あきつ」または「あきず(旧仮名遣いでは「あきづ」)で、漢字が入ってきてから秋津という漢字を当てたものでしょう。

とんぼは一説には「飛ぶ棒」の変化だとされています。これも広辞苑で引いてみます。

 

とんぼ[蜻蛉]

 トンボ目(蜻蛉類)に属する昆虫の総称。体は細長く、腹部は円筒状。細長い透明な二対の翔は非常に強くよく飛ぶ。眼は複眼で大きく、触覚は小さい。
幼虫は「やご」といい、水中に生活。成虫・幼虫共に他の昆虫を捕食。ギンヤンマ・アキアカネ・シオカラトンボ・カワトンボ・イトトンボ・オハグロトンボ・ムカシトンボなど。せいれい。かげろう。あきず。とんぼう《季・夏》

 

 蝶や蛾は幼虫時代、イモムシやケムシでした。その有り様は嫌いな人にはいかにも気持ち悪く、庭木などにいたら駆除される事請け合いです。

 

 イモムシの気持ち悪さは洋の東西は問わないようで、英語でイモムシの這う様子をcreep(クリープ)と言い、肌がむずむずする、ぞっとするの意味を持ちます。オートマチック車がアクセルを踏まなくても静かに進むこともクリー
プと言うことはご存じでしょう。

 

 女性などはそのクリープという音だけで身もだえするほど嫌がります。

 

 He is creepy.(彼は虫酸が走るほどぞぞっとする奴だ)

 

というのは最大限に気持ち悪がられていると思っていいはずです。

 

 さて、ここでお気づきのように、我が国で最も人気のあるコーヒー用のミルクパウダーに同じ発音の商品があります。スペルは違います。

「〇〇を入れない珈琲なんて」

というコピーも一世を風靡しました。外国人が飲みたがらない飲み物ナンバーワンであることは間違いありません。

 

 例のごとく話が逸れました。トンボに帰ります。

 トンボの幼虫はヤゴです。水中にいてお尻から水を鋭くロケットのように発射して自在に泳ぎ回り、他の小さな虫などを食べます。

 トンボは川や池の周辺に多く見られるのはそのためです。水面にお尻をチョンチョンと着けながら飛んでいるトンボをご覧になったことはありませんか。

あれは産卵です。

 

 しかし本能に支配された生物の悲しさ。彼らは、否、彼女らは水なら何にでも産卵します。明日は干上がるだろう水たまりにも産卵してしまうのです。それどころか、水面のように光っているものにも産卵します。わたしは車のボンネットに産卵しているトンボを幾度となく見たことがあります。無論その卵は孵ることはありません。

 

 トンボは飛行がとてもうまい虫です。

 カブトムシは今にも墜落しそうにやっとという感じで飛びます。チョウチョウはバタバタと風に煽られながら飛んで行きます。泳法のひとつバタフライはチョウチョウのことです。バタバタ飛ぶからバタフライではありません。

 

 トンボはそれらに比べると実に見事な飛行を見せてくれます。空中での静止、上下動、左右へ直角に方向を転換するなど自由自在です。

 

 ハエも飛行のうまい虫ですが、こちらは弾丸ロケットのようにスピード飛行が得意です。それに対してトンボは高速ヘリコプターと言っていいでしょう。

 英語ではトンボのことをdragonfly(ドラゴンフライ)と呼びます。空を飛ぶ竜。プロ野球の中日ドラゴンズのドラゴンです。

 

 インドや中国では竜は神格化された想像上の動物ですが、どうも西洋ではドラゴンは非常に恐れられた存在のようです。伝説では竜は翼と爪を持ち口から火を吐いて人に害をなすことで恐れられているのです。一般には悪と暴力の象徴とされています。反面、泉や宝物、女性を守護するという伝説もあるそうです。(以上広辞苑参照)

 

 英語の辞書を調べますと

「怖い中年女性をドラゴンとも言う」

とあります。なるほど、これは心底恐ろしいと断言してかまわないと確信します。

 

 さて、最後に例によって文学に現れるトンボを紹介して筆を置きましょう。

 

ルナール「博物誌」より

とんぼ

 眼炎の治療をしている。川の両岸のあいだを飛びまわっては、冷たい水の中に、はれあがった目を浸してばかり。じいじい音をたてている。まるで、電気装置で飛んででもいるみたいだ。

 

 電気装置は秀逸な表現です。

 

とんぼの俳句

蜻蛉やとりつきかねし草の上  芭蕉

とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 汀女

母すでにかまど火育て夕蜻蛉 ちから

赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり 子規

から松は淋しき木なり赤蜻蛉 碧梧桐

肩に来て人なつかしや赤蜻蛉 漱石

 

後記

 9月11日、一日中降り続いた大雨は名古屋周辺に大変な災害をもたらしました。

 大府市にある知人の家は玄関のドアの上まで水没し、一階の家具や電化製品は散乱し、破壊され、土壁は流れ去り、車も二台の損失です。

 職場へ向かう電車からは昨日まで道具としての命脈を保っていた家具類が、今日は塵芥として線路際や道路などに山のように廃棄されています。

 

 災害に直面した人の家財などの復興と心の立ち直りをお祈りします。

(游)

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游氣風信 No,128 2000,8,1 老いはこうしてつくられる

三島治療室便り

  最近、正高信男著「老いはこうしてつくられる こころとからだの加齢変化」(中公新書)を読みました。人が老いていくことを実験とともに考察していく本です。

 今までなら簡単にできたバーをまたぐような行動が、ある日出来なくなっていることに気づいたとき、つまり心の中ではクリアできるはずの高さのバーに足が引っ掛かってしまうという現実に直面したとき、人は「ああ、俺も年を取ったな」と感じます。

 けれどもそれはあくまでも身体能力の減退であって、逆にみると精神的にはその高さなら跨げるという若いときの判断力が維持されているという証明でもあります。

  しかし人間はこうした老いを実感させる体験をいくつか経験しますと、「あれ、自分ももう年かな」と思い、周囲からも「おじいちゃんも若くないのだから無理しないでよ。年寄りの冷や水と言うでしょ」などと言われて老人扱いが始まります。

  こうした生物に不可避の身体的な加齢現象(身体的な老い)と、必ずしも加齢によって衰退することの無い精神(言わば、精神の青春性)との乖離に気づいたとき、周囲から、また自ら「老いが作られる(老いていくではない)」という事実を、比較行動学者である著者が実験で裏付け、考察、問題提起している本です。

 本の扉には以下のように書かれています。

またげると思ったバーが越えられない。痛みを表現する適当なことばが見つからない。このようなとき、人は老化を自覚する。しかし同じ年齢でも気力の充実した人もいれば、見るからに老いを感じさせる人もいる。このような個体差はなぜ出てくるのだろうか。本書は、からだの老化がいかにしてこころの老いを導くのかを独創的発想による実験で具体的に考察しながら、人々がからだの老化を受容し、こころの老いを防ぐ方法を展望する。

果たして高齢者は弱者か

 四月からの介護保険の実施にもみられるように、日本の高齢化問題は既に待ったなしの領域に入っています。
 いかに高齢者をお世話するか、そのための財源はどうするか、介護のための人材はどう確保するのか、高齢者が安心して暮らせる施設は、同様に家族が安心して任せられる施設は、あるいは家庭で介護している人の支援はどのようにするか、などなど問題は山積みです。

 また現実に多くの人達がそのことについて考えたり、議論したり、行政が実施したりと着実に動いています。

  しかし反面別の見方もあります。
 高齢者というだけで誰でも彼でもお世話する必要があるのかということです。高齢者が経済弱者であるという幻想は徐々に覆されています。むしろそれを言うことがタブーとされかねない風潮がしだいに変化してきたように見えます。

高齢者は一括して経済弱者であるとは言えないということが新聞などでも取り上げられるようになったことでそれが伺われます。

 これは若い世代に高齢者を経済的に支えるだけの余力が無くなってきた裏返しかもしれません。

  先だってある方が言われました。
 「わが家は年金家庭で苦しいのです。月々20数万しか収入が無い」
その方は立派な持ち家に夫婦で暮らしておられます。

 別の若い友人からは次のような愚痴を聞かされました。
 「夫の月給は手取り20万円ないから生活が大変」
彼女の家庭は夫婦と子ども二人でアパート暮らしです。

  こうした卑近な例をもって一般化してしまうことは危険なことですが、金融財産の大半は60歳以上が所有していることは経済関係者が指摘している事実ですから、高齢者すなわち経済弱者とは言えないでしょう。

 もちろん、自営業などで現在は廃業している高齢者家庭などはかなり逼迫した経済弱者であることが多いのも事実ですが、だからといって全ての家庭がそうであるとは言えないでしょう。

 同様に、高齢者が全て身体介護を要する弱者とする視点にも疑念が湧きます。本人が望まないお節介なお世話も巷間よく見受けられることです。
「わしはまだ若い、大きな世話」
と若者に席を譲られてもがんとして座らない高齢者などはその身近な例ではないでしょうか。

 果たして高齢者は一絡げ(ひとからげ)にして弱者でしょうか。
 確かに身体能力は個体差があるにしても加齢によって弱っていくのは避けられない現実です。しかし、古来から社会は長老と称して高齢者の体験に基づく知恵を大切なものとして尊重してきました。
 本来、高齢者は世話されるだけの存在ではなかったのです。

高齢者の存在意義

 われわれが傲慢にも一方的に未開と呼んでいる社会があります。彼らは今日でも古来からの生活様式に従って暮らしています。そこでは長生きをした人々は、身体能力の点から狩猟などの激しい身体労働には不向きではあるけれども、長年の人生で蓄えた知識や知恵、体験や経験を身体内に秘めた、言わば学校や図書館のような役割をすることで社会に確たる地位を築いています。

  また高齢者は身体の老いから必然的にゆったりとした動作や物言いをします。それは逆に存在の大らかさを演出し、社会の中でゆとりを生み出してくれます。

 ちょっと次のエッセイを読んでみてください。

「この頃、猪がの、畑を荒らして困るんじゃ」
 煙草盆に煙管を打ちつけながら祖父は呟やく。
「猪が・・」
「ああ、大きいんで。牙でつつかれると、子どもなんか、池の向こうまで飛ばされてしまうけえね」
 煙管を振りかざし、両手を一杯に広げ、猪の大きさを誇示しながら語った。
 少年は、月夜、山の畑の真ん中に屹立し、巨大な牙を天に突き上げた猪を想像して震え上がった。
 けれども、祖父の大仰な語り口とは裏腹のにやりとした笑顔も見逃さなかった。
「おじいちゃん、また嘘ついてる」
 祖父は何も答えず、節くれだった指で刻み煙草をちぎると、几帳面に煙管に詰め、盆の火種を煙草に移した。
「本当に猪は出るんよ」
 裸電球の光の及ばぬ闇に向かって、実に旨そうに煙を吐き出した祖父は、やさしく笑みながら続けた。
「猪だけじゃない。鶏小屋にな、この前、鼬が来て、鶏を殺してしもうたんじゃ」

 これはわたしが所属している俳句結社誌「藍生」2000年8月号に掲載したショートエッセイ「実石榴(みざくろ)」の冒頭の部分です。
 祖父すなわち高齢者と孫である少年の交流の思い出を綴ったものです。ここには少年から見た祖父の存在感の大きさが豊かな時の流れで表現してあります
(出来栄えはともかく)。

 

 こうした孫と祖父の間にあるゆったりとした時間の経過は、親ではなくもう一つ上の祖父母世代ならのものではないでしょうか。
 子どもは生活に追われた両親からは処世の世知辛さを学び、余生を暮らす祖父母からはゆとりを感じ取ります。
 孫を包むような愛情を見事に制御し、人生の先達として生きる味わいを教えてくれるのが高齢者世代の役割のひとつであると思うのです。

 先のエッセイには次の一節もあります。漆黒の闇の中を祖父母の家まで不安げに歩いていた少年たちのところへ祖父が迎えにくる場面です。

 雨水が轍を削った険しい道を登って行くと、前方から小さな火が降りて来る。
あぶり出される人影。その火は祖父の持つ提灯であった。
「よう来た。よう来た」
 なつかしい声で祖父が呼ぶ。
「おじいちゃん、来たよ」
 少年は駆け寄って祖父の手から提灯を奪い取り、先に歩きだす。
 どこで学んだのか、家に着くまで、祖父は星の名や星座の由来を教えてくれた。闇に鳴きだす寝ぼけた鳥の名も知っていた。

 
 不安の中にさしてくる光明。祖父は少年つまり孫にとってこうした存在だったのです。提灯というところに年代を感じますが昭和30年代の山村ではまだ提灯が現役だったと記憶しています。

 祖父は星の名も星座の由来も、野菜を食べる鳥や夜中に鳴く鳥の名もよく知っていてその知識の豊富さで少年の尊敬を集めます。

 このようにかつて、高齢者は長い人生で蓄積した能力をもって社会に君臨できたのです。ところが世の中は急激に変化しました。
 高度な機械化は古い知識の集積では対処できない現実を生み出してしまったのです。

 以前、仕事にでかけたお寺で偶然おもしろい説教を聞きました。お坊さんが檀家へお経に行ったらそこのおばあさんが泣いていたというのです。
 

「おみゃあさま、何泣いてござる」
「おすさん(和尚さん)よ、わしは悔しくて悔しくてならん」
お寺の説教は地元のお年寄り向けに徹底した土地の言葉で行われます。
「何が悔しいだ。泣いとってはちょっともわっかれへん(わからん)。訳、言ってみやぁ」
「わしがなも、新しい魔法瓶のお湯がどうしても出せんでよぉ、そこいらにおった孫に頼んだんだぎゃあ。ほしたらよう、『おばあちゃん、これを外さなお湯出てこんよ』と言って後ろのボタンをちょこっと触って、簡単に出してくれたん
だわ」
「ほらぁ、ええことだぎゃぁ。ええ孫だなも」
「ほれがちゃうんだわ(違うんだわ)、おすさん。その後、むつき(おむつ)取り替えて可愛がった孫に小生意気なことを言われてまったんだわ。
『僕は八歳でもできるのに、おばあちゃんは八十歳にもなってお湯ひとつ出せんのか』それ聞いて情けにゃあやら、悔しいやらでなも、泣けてまったんだぎゃぁ」
「ほんなこと言われてまったか」

 このように以前と異なり高齢者の経験則が、新しいテクノロジーによって作られたポットの前では全く通用しません。
 昔の炊飯は竈(かまど)で行われましたから、その技術の習得は容易ではなく、姑は嫁の上に技術力をもって君臨することができました。ところが今日では新しい電気炊飯器を購入すると、姑はもはや手も足もでません。技術力で上位に立つことが出来なくなったのです。ましてやビデオの録画やパソコンに至っては・・・。

 こうなると高齢者はただに庇護されるのみの存在になってしまう可能性が高まってしまいます。

  しかし、高齢者は本当に世話されるだけの存在なのでしょうか。または世話されるべき存在なのでしょうか。
 先に述べたように高齢者は経済弱者ばかりではないと同じく、社会的な弱者ばかりではないと思うのです。

 と、わたしたちはこうした推論を立てていっぱしのことを言うことは可能ですが、本当にそれが正しいのか単なる思い込みであるのは判断できません。

 冒頭に紹介した本はそれらの問題に対して、実に科学者らしい取り組み方を見せてくれます。

 そういう観点から見るとこの正高信男著「老いはこうしてつくられる」は、高齢者問題を踏み台にして科学的態度とか科学的考察とはこういうものだと紹介している本とも取れます。

 本の内容はくどくどとは書きません。興味ある方はぜひ書店で購入して読んで下さい。660円です。


 わたしが最も興味深かったのは、身体能力の低下が、痛みを表現する擬態語(擬音語)に影響するという実験報告です。

 作者は医師が高齢者の痛みの表現があいまいで今一つ理解できないと言ったことにヒントを得て、痛みの表現を各年齢層で実験してみます。

 すると具体的な表現である「はりでつつくよう」とか「せんまいどおしでおすような」などと言った具体的な言葉で痛みの強さや深さを表現する能力には年齢差はありませんでした。

 ところが、痛みの強度の表現である擬態語(擬音語)で強度の小さいものから大きいものへの順番を問うと、中高年では 

チクチク、ビリビリ、ズキズキ、ズキンズキン、ガンガン

 となるのですが、65歳を過ぎた人達への実験ではこの序列があいまいになってしまうのです。

 作者は言います。擬態語(擬音語)は喉を中心にした発声器官の身体性にかかわるものだと。ですから身体能力の低下と同時に擬態語(擬音語)がうまく使えなくなり、つまりその差異があいまいになり、痛みを表現することが難しくなるのです。

 逆に、医師は高齢者に対して優しく接しようとするあまり、擬態語(擬音語)を多用するためにコミュニケーションがうまく取れなくなるのです。

 これは実に興味深い部分でした。

 作者は最後にこのようにまとめます。

これからの高齢者には「周囲と自分のために、何々しよう」と動機づける機会を提供するべく転換をはかることのほうが、はるかに重要です。
いずれにせよ高齢者は、充実した老後を高齢者だけで見出せるものではない。
達成感をもてる社会的期待を周囲が高齢者に寄せることが、何よりもこれから求められのではないかと、思われます。もちろん寄せる期待は、当を得たものでなくては意味がありません。
はたして、何が当を得たものなのか--それを社会全体で真剣に問うことが不可欠です。そのことを考えるためには、むろん高齢者のこころの動きを正しく理解することが、必要です。この本が、そのとば口になる役目を果たせればと、願う次第です。

 
 これを読んで四コマ漫画の「サザエさん」を思い出しました。
 敬老の日、近所の奥さんたちがおばあさんに何をして欲しいか訊ねます。

 おばあさんは

「あんたたちは何もわかっていない」
とつぶやきます。そこでサザエさんは
「じゃ、おいしい漬物の作り方教わろうかしら」
とたんにおばあさん、猫を放り投げて立ち上がるやいなや、きりりと襷(たすき)を掛け、
「いい、漬物のコツはここ」
と、生き生きと立ち居振る舞うというものでした。

 横で波平お父さんが
「敬老の日だぞ」
とサザエさんを戒めている内容だったと記憶しています。

 波平さんは今日的一般常識であり、サザエさんは正高さんの言う「当を得た期待」を高齢者に対して見事に実現していると言えるでしょう。

 サザエさんの人気の長い秘密はこうした質の高い洞察に支えられているのでしょうね。

 

後記

 今月紹介した同じ作者の本が同じ出版社から先行して出ています。

「0歳児がことばを獲得するとき」(中公新書)

作者の興味は赤ちゃんから高齢者まで実に広くあるのです。

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2011年7月13日 (水)

游氣風信 No,127 2000,7,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(下)

《游々雑感》

 先月号に続けて論語とそれにまつわる指圧の恩師増永静人先生の思い出を書きます。

 儒学

 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。(中略)日本には応神天皇の時代に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。

 儒学の歴史はいろいろ複雑なようです。日本で広まったのが江戸以降というのはちょっと意外でした。

 孔子の思想の中心にあるのが「仁」です。これは何でしょう。仁丹というおじさん好みの口臭防止薬がありますがこれは関係ないでしょう。

  フーテンの寅さんが、中腰になって右手を差し出し
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は轟、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」と仁義をきります。高倉健などのやくざ映画でもおなじみです。

  仁義は孔子の思想の中心をなすものですが、では、果たしてフーテンの寅さんは儒者でしょうか。どうも少し違うようです。

 仁

 1 孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ。(中略)封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。

 2 愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛

  学生時代、少林寺拳法を習っているとき、「仁」の字はずばり「二人」。つまり人と人との関係を表すと習いました。

 1 いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。
 2 君主に対して臣下たる本分をつくすこと。

  これも少林寺拳法で「忠」は「中心」、つまり嘘偽りの無い心の真ん中であると聞いたことがあります。これは1の意味になります。

 しかし一般的には2の意味に使われるようになり、これが武士の心構えとなり、後には軍国主義と結び付きました。武士は軍人ですから当然でしょう。戦後、軍国主義と一緒に忠という言葉を排除する傾向にあります。孔子にとっては「忠」はいつわりのないまごころのことですからこれは不本意でしょう。言葉は手垢にまみれるという分かりやすい例です。

 恕(じょ)

 1 おもいやり。同情心。
 2 ゆるすこと。寛恕。

 「恕」はあまりなじみのない字です。字を分解すれば「心の如し」。心素直にあるがままの意味でしょうか。

 1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。
 2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。

  これも少林寺拳法では「羊(大切なものの意味、羊は大切な財産だった)と我」で、自分を大切にする意味だと習いました。

 よく父母に仕えること。父母を大切にすること。

  少林寺拳法で「孝」の字は「老と子」からなり、子が老人を背負うて歩く姿の象形だと教わりました。

  こうして見ると「忠」とか「仁」、「義」などの元の意味、即ち孔子の唱えたものと日常生活で用いる場合とは意味が異なっているようです。

 今日一般的に使われているのは長い歴史の経過の内に、為政者が治世に便利なように意図的に歪曲させた意味合いが強いようです。

 それによって孔子の考え全般が忌避されるようになるとすれば、孔子の本意ではないと考えられます。

 

 「仁・義・忠・恕・孝」とは人間関係において、我を大切にして、心の中の本当の心に従い、思いやりの心を持ち、父母を大切にすることだというのです。

それを拡大解釈して行くと臣下としての忠誠心や自分を殺してまでも主君の言い付けを守れなどということになるのではないでしょうか。

  フーテンの寅さんの「仁義」は二人の人が出会ったとき、互いの素性を明らかにして、すじを通す裏街道を生きる人たちの知恵が生んだ格式なのでしょう。

これもやはり孔子のいう「仁・義」から派生したものと言えます。

 孔子の言葉は「仁義」「義理」「任(仁)侠」「忠誠」など政治家とある筋の人の共に好む言葉でもあります。どちらの世界も強引な秩序を好むからでしょうか。

  さて、ざっとおさらいをしたところで、「論語」に入りましょう。読み下しと口語訳はわたしがしました。間違いがあると思います。仮名遣いも現代仮名遣いにしてあります。

 

 子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」

  子曰(いわ)く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こえ)ず。」

  孔子先生は言われた、「私は十五才で学の道を志した。三十才で自立した(方向を定めた)。四十才で惑うことはなくなった。五十才で天命を知った。六十才で人の意見を素直に聞き、理解できるようになった。七十才で心の欲するままに行動をしても軌道を誤ることがなくなった」

 孔子が自分の人生を振り返ってみるとこうであったというのです。なかなか耳の痛いことです。

  わたしは十五の頃は漠然と生きていました。三十の頃は生活に追われていました。四十はもっと生活に追われています。五十はきっと生活に疲れていることでしょう。

 六十才や七十才になると自然体に生きてもそれが道を踏み外すことが無くなるというのですが、現実にはどうでしょうか。孔子が自らの生涯を振り返るとこうであったということで、誰もがこうしろ、こうなるべきだとは言ってはい
ないようですね。助かります。

 わたしもあと数年で天命を知る年ですが、天命がどういうものか分かりません。

 天命は辞書では「天によって定められた宿命。天運。または天から与えられた寿命」とあります。

 宿命は「前世から定まっている運命」。

 運命は「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく」

 
 一般的に解釈すれば天命を知るとは天によって定められた自己の社会的存在意義を明かにするとなるのでしょうか。天という形而上学的存在を認め、それに従って生きるというのが孔子の理想だったです。

  同時代の老子の道教は逆に無為自然を旨として人為的秩序を廃し、宇宙の本体である「道」に沿って生きることを理想としました。柔道や茶道の道はここに由来します。「道」はタオイズムとして欧米でも人気があります。

 孔子の儒教、老子の道教。これら全く異なる思想が同時代すでに存在していたことは面白いですね。

 
 老子も天の存在を重要視しています。

 老子に「天網恢々、疎而不失」という言葉があります。「天網(てんもう)は恢々(かいかい)として、疎にして失わず」です。
 天は大きな網を張っていて、その目は粗いが何事も漏らさずすくい取り、決して漏らすものではない、天は全てを知っている。あるいはすべてはその仕組みの中でうまく動いているという意味でしょう。

  いずれにしても天という思想は古代中国において孔子・老子という二大思想家に共通する概念です。もしかしたら人格化されていませんが、キリスト教の神のような大きな存在だったかもしれません。

 先の論語に戻ります。

 孔子は加齢により人間的成長を遂げるとしています。孔子自身がそうであったというのです。しかし現実にはどうなのでしょう。

 人は六十才になると耳順というより耳が次第に遠くなりますし、七十になれば、心欲しても体動かずという点が無いとは言えません。現実には難しいが、努力することが大切だということなのでしょう。

 人生をトータルに把握する時、よく引用される一節です。

  子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」

 子曰く、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

 
 孔子先生は言われた、「学んでも自分自身や社会に当てはめて思うことをしなければ、学んだことの道理がよくわからない。反対に、狭い経験や知識に頼ってさまざまに思いを馳せても、深く、謙虚に学ぶことをしないと独断におちいって危険である」

  立派な大学を出た人がどうしてあんな過ちを犯すのか、ということが巷間よく囁かれます。それは孔子によれば、学ぶだけで考えることをしないからだというのです。学ぶことと思うこと。この両方のバランスが大切なのですね。

 日本の学校教育はどちらかと言うと学ぶに比重が片寄り、思うことの機会が少ないようです。

 
 子曰、「温故而知新可以為師矣」

 子曰く、「故(ふる)きを温(あたため・たずね)て新しきを知れば、以て師為るべし」

 孔子先生は言われた、「古いことをしっかり学んで、そののち新しいことを知ろうとするならば、それはすぐれた師を得たようなものだ」

  これは「温故知新」として今日でもよく使われます。「温」は「たずねて」とも「あたためて」とも読まれます。

 現在は過去の集積ですし、未来の原因になりますから、新しいことを学ぶときは過去の成果や歴史などをあたらめて勉強してみればよい。そうすれば古臭いと思われることも良き師匠のように道を示してくれるということでしょう。


 子曰、「其身正不令而行。其身不正雖令不従。」

 子曰く、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず。」

 孔子先生は言われた、「その身が正しい生き方をしていれば、命令しなくても民は行動を起こす。その身が正しく生きていなければ、どんなに命令しても誰も従いはしない」

  これは為政者に身を正しく修めることが肝心であると説いたものです。「修身」は政治家こそが学ぶものなのです。


 子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」

 子曰く、「君子は和して同せず。小人は同して和せず。」

  孔子先生は言われた、「君子は道理に従って一つに和すが、他人に調子を合わせたりはしない。小人は仲良く調子を合わせているように見えるが、真に深い交流はしていない」

 
 君子は徳の備わった品格・人格の立派な人のことです。聖人君子と並列されることもあります。聖人は万人の仰いで師表とすべき人と辞書にあります。どちらも知徳の秀れたお手本となる人、あるいは理想的な人物像を示している呼称です。

  君子は人と交わるとき、仲良くするが道理からはずれてまでも一緒にいこうとはしない。つまり付和雷同はしないということでしょう。それに対してわれわれ小人は仲良く群れても道理に沿った深い協同調和はしないというのです。

 そういえば「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言います。心の奥深くで互いに響きあうものがあればべたべたくっついていなくても十分満たされた交流はあるのだということでしょうか。

 
 君子でなく、われわれ凡人にだって懐かしい心満たされた交流はありますね。否、そうした交流をしているとき、人は君子なのかもしれません。

 
 余談ですが酒に四君子という名を持つ商品があります。四君子とは「梅・菊・蘭・竹」のことで、君子の持つ高潔な美しさにたとえたものです。

 
 増永靜人先生は大病をされ、57歳でこの世を去られました。そのとき、ご自身を励まし叱咤されるためでしょう。論語から次の一節を引用されました。

 
 子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」

  子曰く、「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」

  孔子先生は言われた、「君子といえども困窮することはある。しかしそれで乱れたりはしない。小人は困窮すると乱れて道に反するものだ」

  この一節のあと、次のように言われました。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 
 この言葉は今でもわたしの心に深く沈殿しています。


 論語は我が国に最初に渡来した文献で、そのために最も日本人に好まれた古典となりました。
 古人は論語などの漢文の勉強を通じて、語学と同時に中国の哲学を学んだのです。

  それは後世になってドイツ語の勉強をすることで西欧の哲学を学んだのと同じ軌跡です。すなわち言語を通じて文化を学んだのでした。

 今日の英語学習の大きな欠点は、その実用性にのみ目を奪われて、英語によって築かれた文化の学習がおろそかになりがちなことです。

 
 言語と文化は不可避です。
 それはまた万国共通語という崇高な理想を抱いたザメンホフによって人工的に作られたエスペラント語が、その内に文化を有さないがゆえに逆に広がって行かなかったという皮肉な結果を生むことにもなったのでしょう。
 

〈後記〉

 七月七日は七夕祭りです。同時にこの日は経絡指圧の創始者であり、わたしの師匠でもある増永靜人先生のお亡くなりになった日でもあります。昭和56年(1981年)のことでした。大正14年生まれで享年57歳でした。

  決して長くない人生を指圧のために駆け抜けた方でした。最近、西欧で国際指圧シンポジウムが開かれましたが、海外では指圧と言えば増永靜人の影響なしには語れません。その日のパネラーのほとんどが先生の直接の教え子だったようです。

 最近、イギリス人がロンドンの指圧カレッジの教科書を持参しました。その本は完全に増永先生のものを踏襲していました。愚直と思えるほどに。もはや海外においてはバイブルの如しです。
 
 西洋医療を主体とした国家により制定された医療(正統医療)に対し、民衆の間で伝統的に保存されて来た医療を非正統医療もしくは代替医療(オータナディヴ・メディスン)と呼びます。アメリカや英国では医療費の高騰から代替医療に注目を集めています。その中には鍼や指圧も含まれます。

  19世紀まで人類を苦しめた感染症が正統医療によってほとんど駆逐されたことが、逆に民間医療に目を向かせることにもなりました。

  現代は仕事や人間関係からくるストレスから心身共にがちがちにされる社会になりました。その傾向はこれからもますます厳しくなるでしょう。そんなときこそ、指圧などの代替医療がもっと必要とされていくことでしょう。

 そのとき、論理的普遍性を持つ増永靜人先生による経絡指圧は有力な存在感を示していくに違いありません。
 

 それに引き換え、国内では指圧はあまりに低迷しています。
 わたしも微力ながら経絡指圧の普及に努めては来ましたが、残念ながら全く不如意に終わっています。しかしそれで諦めることなく、これからも、先生の意志を引き継いで、先生に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と心から安心していただきたいものです。

(游) 

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游氣風信 No,126 2000,6,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(上)

《游々雑感》

 ある名人落語家の枕(落語の本題に入る前の軽い話)に「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、などと申しますが・・・」というのがあります。

  これは主として学を見せびらかす人を揶揄する話(「薬缶」や「千早振る」など)の枕に使われるようです。これについては以前《游氣風信》で「知ったかぶり IN 落語」として取り上げました。

  「学問の無い人は、理論的に筋道だった話をすることなく自分の思いを強弁するので、学のある人が論を持って諭そうとしてもかなわない。同様に、法を守らない無法者は暴力的に意を通してしまう。どちらも困ったものだ」というような意味合いでしょう。

 元憲法学者で今は著名な国会議員になっている女性党首が一時「駄目なものは駄目!」「やるっきゃない!」と言い張ったのはこの類いの強弁でしょう。
学者を出自をする人でも政治家になると論理を吹っ飛ばす発言をするのだと驚いたことがありました。

 

 もっともこれは永田町という魑魅魍魎の巣窟、百鬼の夜行する不条理世界に伝わる「永田町の論理」に対抗するために取った特別措置であるとも考えられますが。

 

 先程の落語の枕に戻ります。

 前述したように「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ」は、無学者や無法者を困った存在と見なしていますが、別の見方もできます。それは学があっても知に溺れ、行動力のない人をからかっているのではないかということです。

 諺(ことわざ)にも「論語読みの論語知らず」というのがあるではありませんか。

 「論語読みの論語知らず」の意味は、蛇足ながら辞書を引きますと 

「書物の上のことを理解するばかりで、これを実行し得ない者にいう」(広辞苑)

ということです。

 一般的には学識のみで常識のない人を揶揄することばですね。

 

 論語!?

 

 さる国の総理大臣が好みそうなテーマですが、今月はなんと論語の復習をすることにしました。なぜかと言うと、わが指圧の師の増永静人先生が晩年「論語」を愛読されていたからです。

  ある日、先生が病気をおしての講習の後の会食のときでした。先生はしみじみと言われました。

  「この頃、論語の『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』が身に染みてくるんだ」と。

 続けて

 「今の僕は孔子の言うように、もし朝に、誰かが僕の言うことを本当に分かってくれるなら、もう夕暮れには死んでもいいという心境だ。本当に伝えたいことはなかなか伝わらないし伝えられない。おこがましいが、孔子の気持ちが分かる気がする。孔子は生涯を通して君子という理想を追い求めた人であって、決して自らが君子ではなかったはずだ。だったら僕が自分の心境を孔子のそれに置き換えても決して偉ぶったことにはならないだろう。もし、孔子が君子でわれわれが凡人としてそれに遠く及ばないなら、孔子が凡人に道を説く意味がない」

  当時まだ二十代前半、しかも無学者のわたしはなるほどと頷きながらも生意気に口を挟みました。

 「先生、『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』は、学ぶ側の心境ではありませんか。つまり朝、ものごとの本質を知ることができたら、夕方には死んだっていい、それほど道とは得難いものである、ということではないでしょうか。確か学校でそう習ったように記憶しています」

 増永先生は穏やかに答えられました。

 

 「それは教室なら正解だ。しかし僕の心境からすると僕の解釈も成り立つと思う」

 わたしは今度は「成る程」と納得したのでした。

 なぜなら増永静人先生の生涯は、常に中国医療の古典をご自身の指圧臨床体験を通して再措定されるものだったからです。古典医療を現代の目でもう一度再検討し、臨床で確認し、現代人にも納得のいく指圧理論として編成されたのでした。

 それゆえに、今日海外では指圧と言えば増永静人先生創案の「経絡指圧」を指すようになったのです。ただし出版社の意向により海外では「禅指圧」という名称で広がっています。
 
 残念ながら指圧のお膝下、日本では指圧は既に忘れられかけた存在になりつつあり、医療としての本分を忘れ、慰安行為としてのみ細々と命脈を保とうとしています。これはわたしどもにも大なる責任があります。

  さて、早々と断っておかなければなりませんが、わたしは「論語読まずの、論語知らず」です。あるいは「論語読めずの、論語知らず」。

 わたしの論語に関する知識。それは高校の古典の時間に少しばかり論語に触れただけです。これはおそらく皆さんも同じだと思います。

 戦前の教育を受けた方は、儒教が社会の制度的安定のための根本思想であった意味合いから、修身の根幹を為すものとしてしっかり学ばれたことでしょうが、わたしのように戦後に生まれた者はほとんど習っていません。

  まして今の高校の教科書を見ますと、漢文という独立した教科書はなく、古文の教科書の終わりの方に申し訳程度に漢文のパートがあるだけで、その量はわたしたちの頃(約三十年前)よりずっと少なくなっている感じです。そうなると近い将来、「論語(内容でなくそのことば自体)」は一般教養としてでは

なく特殊な素養の部類に入るやも知れません。いや、既になっていると言っていいでしょう。


 今回は論語の有名な部分をいくつか紹介します。論語を知らない人も、昔習ったけど忘れてしまっている人も、論語なんか大嫌いな人も、とりあえずわたしと一緒に論語に入門(再入門)しましょう。

  参考は高校の教科書、大修館書店の「新制高等漢文」、明治書院の「漢文」と講談社学術文庫の諸橋轍次著「中国古典名言辞典」です。


 ところでそもそも「論語」とは何でしょう。また孔子とは。

 例によって「広辞苑」に当たってみます。

 

論語

 四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。(中略)孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治、教育などの意見を述べている。わが国には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。

 

 孔子の語ったことを弟子たちが書き留めた語録集。これが論語です。

 辞書の説明の中に色々難しい言葉がたくさん出て来たので同じく広辞苑で細かく調べます。

 

四書

 大学、中庸、論語、孟子。儒教の枢要の書。

 

 まあ、中国の儒学の最も重要な本のことですね。

 そもそも孔子とはいつの時代のどんな人でしょうか。

 
孔子

 中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(ちゅうじ)。

今の山東省出生。古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述に専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。(前551~前479)

 
 孔子は紀元前500年前後の中国の思想家ですね。結局、役人として採用されることはなくフリーターとして諸国を旅した人のようです。その頃日本はまだ縄文時代。おそるべし中国4000年の歴史。

 
 ギリシャの「イソップ童話」もこの頃のものです。
 中国では「老子」もこの頃編纂されています。

 「論語」は孔子の死後ですからもう少し後の紀元前450年頃。

 同時代の著名な思想家(宗教家)として釈迦(前566~前486)やソクラテス(前470~前399)がいます。


 こうしてみると古代中国に孔子や老子、古代インドに釈迦、古代ヨーロッパにソクラテスなどのギリシャ哲学という具合に、人類の文明の黎明はほぼ同時に世界各地に散在して始まったようです。果たして文化の交流はあったのでしょうか。

 もう一度言いますがその頃、即ち孔子が旅に仁を語り、釈迦が菩提樹の下で慈悲を説き、ソクラテスが悪妻にいじめられた鬱憤(うっぷん)を弟子との対話で哲学していた頃、日本はまだ縄文時代末期。竪穴式住居に住んで平和な集落を作り、採集・漁労・狩猟という採取経済に基づく生活をしていました。時あたかも弥生時代との端境期です。

 考古学では縄文時代は「先史時代」と呼ばれ文献の無い時代に分類されます。弥生になれば文献が多少存在する「原史時代」となります。

  弥生時代の中頃(57年)、日本の倭奴国から後漢に遣使を送り光武帝から金印を授かり、弥生の終わり(239年)にはかの邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使を送ります。これらは中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場します。

 魏は有名な「三国志」の三つの国つまり魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の一つです。後漢の滅んだ後のいわゆる三国時代。ついでに言うと呉服は呉の織物を起源とします。

 日本にとって中国は圧倒的に進歩した国だったのです。

 

 以下次号とします。

 

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