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2011年6月26日 (日)

游氣風信   No,119 1999,11,1 拓郎と陽水

拓郎と陽水

 

 今年になってわたしの世代には懐かしいCDアルバムが相次いでリリース(発売)されました。高校生から大学生にかけてよく聴いた吉田拓郎と井上陽水です。

 

 井上陽水は今回のCDアルバムが売上ベスト1位になりました。売上一番になった最高齢者だそうです。若者に人気のパフィに音楽を提供したりして親子二代に指示されているからでしょう。わが家でも娘が「お母さんの好きな陽水だから」と、母親からお金をせしめて「GOLDEN BEST/YOSUI INOUE」を購入しました。

 

 吉田拓郎はレコード会社を幾つか移動したため、意外なことにこれが初めてのベストアルバムです。息子とパルコに買い物に行ったとき、タワーレコードで見つけて買いました。タイトルは「TAKURO YOSHIDA THE PENNY LANE」。拓郎も若者に人気のKinki Kidsなどとテレビに出ていて広い世代に指示されています。このためか、こちらのCDもすごい勢いで売れているそうです。

 

 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とは口にするのも恥ずかしいほど言い古された言葉ですが、二人の歌はわたしにとっての青春の歌と呼べるものです。そこには誰もがもつ個人の歴史といささかの社会とのかかわりがあります。

 

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 わたしの誕生日は昭和29年(1954)1月1日。

 敗戦からすでに九年が経過しています。

 この頃には戦後の貧困と食糧難、混乱が一段落ついていたと聞きます。

 日本がわずか九年で立ち直りを見せた理由は米国の支援と勤勉な国民性、さらにそれを後押しすることになった昭和25年から三年間続いた朝鮮戦争による需要ブームがあると思いますが、ともかくわたしたちは飢えを経験していない世代の走りでしょう。

 

 政界では総理大臣が吉田茂から鳩山一郎に代わり、警察予備隊から保安隊を経て自衛隊が発足しました。同時に防衛庁も。

 米国によるビキニ環礁の水爆実験で日本の漁船が被爆し、それを題材に水爆批判映画「ゴジラ」が作られました。原子力船ノーチラス号が作られたのもこの年のこと。

 NHKがテレビ放送を始めたのはその前年。

 三年後の昭和32年(1957)には東海村に原子の火が灯ります。

 こうして「原子力と大量情報」という二つの巨大な存在を抱え込むことになるのがこの時代です。これは「火と言葉」を手に入れた原始人類からの大きな飛躍でしょう。

 それからはただひたすら高度成長を目指す時代となります。

 

 わたしが生まれた場所は広島県福山市。幼稚園時代をそこで過ごしました。

 幼稚園の帰りにはキイチゴを摘んで食べたり、川面を走る魚影に石を投げたりして道草を食っていました。当時は自然と人間がとても都合よくバランスを取っていたのではないかと思います。子供の足でも行けるところに小高い丘があり、大きな川が河口に向かって流れている。わたしたちは子供だけで車の恐怖にさらされる事なく外で遊び回っていました。

 

 昭和35年(1960)、小学校に上がると同時に愛知県にやってきました。最初に住んだ知立という町も田舎で田圃や畑の中を走り回って遊び農家の人に叱られたものです。

 しかしここでわたしは交通事故を経験しました。軽トラック(ミゼット)がお尻にコツンと当たって転倒し、膝を擦りむいたのです。運転手の恐縮ぶりは今でも覚えています。大したことはないと走って帰ろうとしましたら、見知ら
ぬおじさんに「ケガが隠れているかもしれないから医者へいけ」と腕を掴まれました。その人の片腕はありませんでした。こういところに戦争の傷跡が見られた時代です。

この年に15年続くベトナム戦争が始まります。

 

 二年生の途中で苗木と裸祭りで有名な稲沢市へ移りました。ここも知立と同じく田園地帯。

 名鉄本線沿いの田圃のあちこちには爆弾池と称する丸い池がありましたが、これは戦争中の爆撃の後に水が溜まったものだそうです。随分後まで残っていましたが、今は影も形もありません。

 

 四年生の頃、教室の窓から見える建設中の東海道新幹線で「夢の超特急」の試運転が始まりました。誰かが「新幹線が来た!」と叫ぶと、授業そっちのけ。

先生まで窓辺に駆け寄って

「新幹線だ!新幹線だ!」

「違うよ、新幹線は線路。あれは夢の超特急だ!」

「もう走っているのだから夢じゃないよ!」

と騒いでおりました。翌年の東京オリンピックに備えてのものです。

 当時は少年も大人も未来に限りない夢を抱いていました。

 この年ケネディ大統領暗殺。

 

 五年生(昭和39年、1964)は東京オリンピックの年。

 わたしたちより上の世代ではオリンピックと言えば東京に決まっていますが、若い人たちに

「オリンピックの年は・・」

などと言うと

「いつのオリンピックですか」

と聞き返されてしまいます。

 この頃、オリンピックを見るためにカラーテレビが飛ぶように売れました。

 民家の屋根には先を争うように赤や黄色に彩られたテレビアンテナが立ち並び、

「わが家はカラーテレビである、白黒テレビではないのである」

と誇示していましたが、別にカラーテレビだからといってアンテナに色を着ける必要は無かったのです。

 

 昭和41年(1966)、中学一年の時、ビートルズ来日。グループサウンズ全盛の先駆けとなりました。平行して加山雄三の若大将が人気。

 ビートルズは今日でも国境を越えた当時の若者の共通言語となりえています。

それは音楽性と同時に社会運動でもありました。少しおおげさに言えば、大人社会に対する若者からの反抗が地球規模で動き出したのです。

 

 無邪気な少年時代も終え、物思う高校生(昭和44年・1969)になると必然的に時代意識が芽生えてきました。それは内面からの自然発生的なものであると同時に環境からの影響も無視できないものがありました。目線が急に広がる年齢なのです。

 

 その頃はどんな時代だったのでしょう。

 七十年安保闘争で学生運動が盛んでした。東大安田講堂に立てこもった学生に対する警察の放水の模様はテレビで何回も放映されました。六十年安保と比べると関わった学生の数はたいしたことはないのでしょうが、多くの大学生は何らかの形でその運動に関与したと思います。

 

  ぼくは不精髭と髪を伸ばして

  学生集会へも時々出掛けた

  (「いちご白書をもう一度」 作詞・作曲 松任谷由美)

 

という具合にごく普通の学生も集会などに顔を出していたようです。

 その影響は高校にも及んでいました。

 学校の文化祭などでは期せずして岡林信康の「友よ」の大合唱が興ったりしたのです。

 

  友よ、夜明け前の闇の中で

  友よ、戦いの炎を燃やせ

  夜明けは近い 夜明けは近い

 

 当時はこうした体制に対する戦いの歌が若者の心を捕らえていました。それはわたしのようなノンポリ(non-political 政治に関心を示さないこと)高校生にも十分浸透していました。

 A高校では生徒総代が壇上で校長から受け取った卒業証書を破り捨てた事件がありました。わたしたちの高校でも校内でベトナム反戦集会があったり、教員がデモに参加して処分されたりして、知らず知らずの内に社会雰囲気に巻き込まれていったのです。

  

 高校二年(昭和45年・1970)の時、クラブをサボって図書館にいましたら、知らない上級生たちがひそひそと会話を交わしていました。

 「三島由紀夫が自殺したらしいぞ」

 「なんで」

 「どうも自衛隊で腹を切ったらしい」

 

 日本を代表する作家の自裁は衝撃でした。少し前に「剣」を読んだばかりでしたからなおさらでした。その決着のつけ方は衝撃的ではあるものの共感を得ることはありませんでした。むしろ一種のシラケを招いたような気がします。

「なんだ、太宰と同じじゃないか」。

 二年後、三島を可愛がった川端康成も自殺。

 

  私は今日まで生きてみました

  時には誰かの力を借りて

  時には誰かにしがみついて

  私は今日まで生きてみました

  そして今私は思っています

  明日からもこうして生きて行くだろうと

  (「今日までそして明日から」 作詞・作曲 吉田拓郎)

 

 その頃、上記のような歌が高校生の心を捕らえて毎夜、深夜放送で流れていました。

 若者の心は先程の岡林信康の「友よ」のような戦いを鼓舞し、将来に夢を託す歌よりも、自らの内面に向かう歌に次第にシフトしていたのです。現実の重さから若者が少し目を逸らし始めたのかも知れません。

 

  僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去るものに

  僕は呼びかけはしない かたわらを行くものさえ

  (「さらば青春」 作詞・作曲 小椋佳)

 

 銀行員だった小椋佳がややくぐもった声で自らに語りかけるように歌うこの歌も好きでした。この周辺への無関心。これは青春のもう一つの真実です。

 

  これこそはと信じれるものが

  この世にあるだろうか

  信じるものがあったとしても

  信じないそぶり

  (「イメージの詩」 作詞・作曲 吉田拓郎)

 

 たとえ外に関心があっても、信じないそぶりをする若者たち。

 

  たたかい続ける人の心を

  誰もがわかってるなら

  たたかい続ける人の心は

  あんなには 燃えないだろう

        (同)

 

 たたかうことに対する冷めた距離感がここには歌われています。けれどもたたかう人に無関心ではおれない気持ちも読み取れるのではないでしょうか。

 

 昭和47年(1972)2月19日、高校生活もあと少し。大学受験もあらかた終わるころ、多くの人をテレビ画面に釘付けにした事件がありました。連合赤軍浅間山荘事件です。七十年安保闘争に端を発した学生運動の終焉のおぞましさにそれ以後の学生運動は急速に衰退していきました。

 

  まつりごとなど もう問わないさ

  気になることといえば

  今をどうするかだ

(「おきざりにした悲しみは」 作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎)

 

 こうした詩には当時の私たちの気持ちが込められていると同時に、わたしたちをその方面に導いていくことにもなったでしょう。

 もっと明確に歌った歌手もいます。

 

  都会では自殺する若者が増えている

  今朝来た新聞の片隅に書いていた

  けれども問題は今日の雨 傘がない

  (「傘がない」 作詞・作曲 井上陽水)

 

 見事に社会性を否定した歌です。

 元来、アメリカに発生したフォークソングの源はベトナム反戦の歌「花はどこへ行ったの」や「風に歌えば」辺りへ遡行できると思うのですが、社会批判を中心にラブソングなども交ざって若者文化として発展して来ました。ピート・シーガーやジョーン・バエズ、ボブ・ディランなどが有名です。

 日本でも高石ともやや先程の岡林信康などが社会問題を歌にしていました。
フォークゲリラなどという言葉もあったくらいです。

 

 その後に続く吉田拓郎や井上陽水の関心は次第に社会から個人へ向かい、その後の南こうせつの四畳フォーク(《游氣風信》116号)へと続き、やがてポップなニューミュージックとなり今日にいたります。

 

  休む事も許されず

  笑う事は止められて

  はいつくばって はいつくばって

  いったい何を探しているのか

  (「夢の中へ」 作詞・作曲 井上陽水)

 

 フォークとニューミュージックの端境期にある、あるいは仲立ちをしたのが拓郎と陽水であるとはすでに定説です。

 

 吉田拓郎には次のような曲もあります。

 

  日々の暮らしはいやでも やってくるけど

  静かに 笑ってしまおう

  (「襟裳岬」 作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎)

 

 森進一で大ヒットした曲。拓郎は演歌とフォークの仲立ちもしたようです。

 

 陽水の繊細でかつ力強いボーカル。

 拓郎の演歌に通じる泥臭い歌声。

 ともに同時代を生きてきた者として今改めて懐かしく聞いています。

 

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