游氣風信 No,115 1999,7,1 寺山修司
寺山修司
-少年時代にわたしがもっとも熱中したのは俳句を作ることであった-
寺山修司「次の一句」より
寺山修司って誰?
もう七年ほども前のことになります。
大学院で英文学を専攻している23歳くらいの女性が来ました。紹介者はわたしの指圧の生徒で、当時、彼女が英会話を習っていたカナダ人です。
彼女はカナダ人教師から次のような苦言を呈せられました。
「自分はカナダの大学で東洋哲学、特に日本のキタロー・ニシダやダイセツ・スズキ、それに禅を勉強した。それで日本文化に憧れて来日したけど、日本の若者はアメリカの文化にばかり興味をもって、日本古来のものには関心を示さない。これはとても残念なことだ。そんなことで英会話が上手になっても意味がない」
と。さらに続けて
「自分の指圧の先生は日本の文化である指圧や武道、俳句などに詳しい。もともと日本の今日的発展もそうした伝統という土台の上に成り立っているのではないか。君も一度指圧の先生に会ってみたらどうか」
そこで彼女は指圧などには全く興味がないにもかかわらずのこのこやって来た次第。
彼女は英文学、中でもフォースターを専攻していると言っていました。フォースターは異文化協調の困難さをテーマにした「インドへの道」で知られたイギリスの作家です。残念ながらわたしはその映画こそ見ましたが本は読んでいません。
彼女はなぜわたしが俳句などに興味があるのか。何歳からやっているのか聞きました。
「俳句はね、誰でも学校で習うじゃないですか。宿題で作らされたり。ぼくはそれが嫌でね。
冬の夜俳句作りの指を折る
これは中一のとき、宿題で出されてイヤイヤ作った俳句。先生が三島らしいと呆れていたな。だけどそのとき、なぜか興味を持ったんだね。特に関心を持った点は五七五の調べと最も短い形式ということかな。
あなたは文学部に入ったほど文学好きだから、受験勉強のとき国語の問題に短歌や俳句や詩がでてきたら作品の世界に引きずり込まれてしまったでしょう。
えっ、そんなことないって。受験は受験か。うーん、だから君は優秀な大学に入れたんだね。ぼくはそこで勉強ストップ。成績が悪かったわけだ」
彼女はきょろきょろした目で変なことをいうおっさんだなとわたしを見つめていました。
「決定的だったのは高校三年の校内模試。国語の問題になんと放浪の俳人として知られる山頭火が出題されていたんだ。
しぐるるや死なないでゐる
うしろすがたのしぐれてゆくか
この旅、果もない旅のつくつくぼうし
分け入つても分け入つても青い山
こんなのが問題文の中にあってすっかり興味を抱いてしまってね。俳句がすっかり好きになった。それから数年して山頭火の大ブームが起きるんだけどね。
出題した先生は先見の明があったのかな」
「山頭火なら知っています」
と彼女はうなずきました。
「それできちんと俳句を勉強しようと大学に進んでからある有名な俳句結社に入ったんだ。以後、何回かの中断を経て今も細々と作っている。ま、簡単に言えばそういうこと」
「若くから作っておられるのですね。でも、俳句ってどこか年寄り染みてませんか」
「俳句の先生には高齢者が多いからね。でも彼らだって始めたのは中学のころだよ。俳句は若いときから始めて、年齢とともに深めていくものだから。結果として一般の人の目に触れるのは高齢者の作品になる。でも、あの寺山修司だって文学的出発は俳句なんだ。彼が中学から高校のころだよ」
「寺山修司って誰ですか」
「知らないの、君。テラヤマを・・・」
寺山修司(1935~1983)が亡くなって10年近く経っていたものの、まさか文学部修士課程に席をおくほどの才媛から、いかに専門外とはいえ、このことばを聞こうとは思いませんでした。まずは唖然と、さらには呆然としました。
寺山修司
劇作家・歌人・俳人。昭和一〇(一九三五)・一二・一〇~昭和五八(一九八三)・五・四、四七歳。青森県生れ。一〇代で俳壇・歌壇に登場。劇団「天井桟敷」を核に多彩な前衛活動に挺身。句集「花粉航海」(昭五〇)、句文集「寺山修司俳句全集」(昭六一)ほか。句「父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し」
川名大(俳文学大辞典・角川書店)より
わたし自身、雑誌のエッセイなどを読んだ程度で、取り立てて言うほどの寺山修司の読者ではありませんでした。しかし、彼は60年代後半から70年代を象徴する一種の社会現象として知っていましたし、彼の名前は嫌でもどこかから目に入ってきたものでした。
アングラ演劇、ラジオ放送、競馬評論、映画、流行歌・・・往時の文化的旗手としてジャンルを超えて精力的に活動していました。
今はつまらないテレビタレントになってしまったタモリも、デビュー当時は寺山修司のモノマネで受けを取っていたものです。それはただの口真似ではなく、思想をちゃかす見事なものでした。
しかし、こうも考えられます。
むしろ寺山修司は社会現象であったればこそ、没後わずか10年ほどで知られぬ存在になったとも。昭和の石川啄木を目指した彼は、啄木が今日すでに忘れられかけた存在であるように、社会の変化とともに消え去るのでしょうか。
年譜
寺山修司
昭和10年、弘前市に生まれる。
5歳(昭和16年) 父が出征。
9歳(昭和20年) 九月二日父が外地で戦病死。
中学時代俳句に熱中。
16歳(昭和27年) 全国の十代の俳句誌「牧羊神」創刊。中村草田男や山口誓子などの著名俳人の知遇を得る。
18歳(昭和29年) 早稲田大学教育学部国語国文科入学。「チエホフ祭」で「短歌研究」新人賞受賞。このころからたびたび腎臓病で入院、宿痾となる。詩も書き始める。
23歳(昭和34年) 谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始め様々な賞を得る。
24歳(昭和35年) 戯曲「血は立ったまま眠っている」が劇団四季によって上演。実験映画「猫学Catlogy」監督。小説を「文学界」に発表。テレビドラマを書く。早稲田中退。
25歳(昭和36年) ボクシング評論。以降戯曲、詩、ラジオドラマ、テレビドラマ、歌集などを次々発表。
27歳(昭和37年) 女優九条映子と結婚。
久保田万太郎賞や芸術祭奨励賞、イタリア賞グランプリ、芸術祭賞、放送記者クラブ賞、ヴェネチア映画祭短編部門グランプリなど数々の賞に輝く。
31歳(昭和42年) 演劇実験室「天井桟敷」設立。
33歳(昭和44年) 天井桟敷館完成。作詞したカルメン・マキの「時には母のない子のように」が大ヒット。
34歳(昭和45年) 離婚。マンガ「あしたのジョー」のライバル力石徹が作中で死んだことを受け葬儀を挙行、喪主となる。
35歳(昭和46年) 脚本、監督を担当した「書を捨てよ町へでよう」がサンレモ映画祭グランプリ。以後パリ、オランダ、ドイツ、イラン、アテネ、ベルギー、スペイン、アメリカなどで世界的に活動する。
47歳(昭和58年) 五月四日、敗血症で死去。
こうして寺山修司はジャンルの垣根と時をあっさりと擦り抜けて、多くの天才がそうであったように夭折してしまったのです。
十七回忌
今年は寺山修司の十七回忌。月刊俳句総合誌「俳句現代(角川春樹事務所刊)」は六月号で総力を挙げて寺山修司を特集しています。一冊まるごとが個人の特集になるのは俳句雑誌では極めて異例のこと。
これは寺山修司を時代に埋没させたくない、時代の流れの中で風化させたくないという多くの人々の願望の結晶のような特集でした。
寺山修司と俳句雑誌
この組み合わせに戸惑いを覚える方もあるでしょう。
天井桟敷の劇作家として、カルメン・マキのヒット曲「時には母のない子のように」や人気アニメ「あしたのジョー」のテーマ曲の作詞家として、あるいは「田園に死す」の映画監督、その他エッセイストで競馬評論などの寺山修司はよく知られていても、寺山修司と短歌や俳句はミスマッチの気がします。何よりあの前衛アングラ劇団を率いた寺山修司が伝統的アナクロ(時代錯誤)の俳句や短歌を作っていたなんて信じられない、と思われるに違いありません。
しかし冒頭に書いたように寺山修司の文学的出発点は俳句でした。その後、短歌に転向。以後さまざまな世界を駆け抜けていきます。しかし、俳句や短歌には二度と戻っていません。
俳句や短歌に溢れるみずみずしい抒情か次第に土俗的なものに移行するにしたがって、寺山修司の思いを短い形式に押し込むことは困難になったのでしょう。ドラマや劇や映画に活動の場をシフトしたのです。
そんな彼が晩年、病気のために体力の衰えを自覚したとき、もう一度俳句に戻りたいと友人に語り、雑誌のタイトルまで考えながらも不帰の人となりました。彼にとって俳句は出発点であり帰結点だったのでしょうか。懐かしい精神の故郷であったのかもしれません。
俳壇との確執
俳句と寺山修司の組み合わせの意外性には別の確執があります。
俳句の世界では寺山修司アレルギーがまだ蔓延しており、ベテランの中には寺山修司嫌いの俳人が大勢います。昭和52年に角川書店が発行した「現代俳句辞典」には寺山修司の項目はありません。昭和53年刊の「現代短歌辞典」にはあるにもかかわらずです(前出の平成七年版「俳文学大辞典」には記載)。
その理由の一つは知名度に比して俳句界での実績の無さでしょうが、もう一つ大きな原因は次のことに違いありません。
向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男 修司
人を訪はずば自己なき男月見草 中村草田男
莨火を床に踏み消して立ち上がるチエホフ祭の若き俳優 修司
燭の火を莨火としつチエホフ祭 中村草田男
かわきたる桶に肥料を満たすとき黒人悲歌は大地に沈む 修司
紙の桜黒人悲歌は地に沈む 西東三鬼
わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 修司
わが天使なるやも知れず寒雀 西東三鬼
マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや 修司
一本のマッチをすれば海は霧 富沢赤黄男
胸にひらく海の花火をみてかえりひとりの鍵を音立てて挿す 修司
ねむりても旅の花火は胸にひらく 大野林火
いかがでしょう。寺山修司は草田男や三鬼や赤黄男や林火などの俳句を下敷きに自分の短歌を作り上げてしまいました。当時、これを剽窃と非難する人が多かったのです。中には和歌の伝統である本歌取りであるとか、全く別の世界を構築し得ているので素晴らしいという評をした人もありました。
「俳句現代」で俳人の角川春樹と歌人の岡井隆が対談しています。その対談で岡井は次のように述べていますが、わたしも同感です。
「膨大な短歌・俳句というものは、古代からあって、その中に我々が付け加えるのは、ほんの一歩の新なのだから、それに我々、腐心してて、ようやく考えてみたら至る所に、人のラベルが貼られている言葉がいっぱいあるんだけど、それをどうやってモンタージュして自分の世界を作るか。
そういうことをやっているのが定型詩の世界で、寺山さんはたまたま目立つことをやっちゃったものだから、いろいろ言われるけど、結構モンタージュ上手いよ」
歌の世界では好意的に評価され、俳句では阻害されているのは歌人のこうした柔軟性がかかわっているのか、あるいは真似されたのが俳句だから被害者意識が強いのか・・・。もっとも現在の若手俳人は旧来の俳句にはない寺山修司の作品のみずみずい抒情を好意的に愛しているようです。
今日でも俳句は似ている発想の句が先行する場合、自分の句は引っ込めるのがルールとされています。その点からはこれは許されない行為であり、天才寺山修司だけに認められた特例でしょう。しかも先行作品とは別の世界を築き上げなければなりませんから、誰にでもできるものではありません。
こうした別の作品をモチーフに自分の世界を築き上げることは、自分自身の俳句から短歌への移行という形でも行われており、彼は作品のオリジナリティに関する考え方が少し異なっていたようです。
彼は人生そのものを虚構としたかったと考えることも可能です。そこに不思議なあるいは怪しい魅力を感じるのです。
わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 修司
父と呼びたき番人が棲む林檎園 修司
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 修司
夏井戸や故郷の少女は海知らず 修司
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん 修司
わが夏帽どこまで転べども故郷 修司
夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず 修司
影を出ておどろきやすき蟻となる 修司
作品の評価だけからすれば前述の岡井隆さんの意見がまっとうですが、俳句を作ることは自分自身の世界を深め、改めていくことであると考える多くの俳人には許しがたいことであることもまた、確かです。
寺山修司の才能は換骨奪胎にあると言っても過言ではないでしょう。彼は俳句に止まらずあらゆる現実をもとに虚を構築し、ついには自分自身の人生を虚とすることで寺山修司という実在者を永遠とすることに成功したのです。
寺山修司の俳句と短歌・詩
さて、こんな話には興味のない方も以下に紹介する寺山修司の俳句や短歌をご覧になればその世界の鮮度がまだまだ落ちていないことは肯えるものと確信します。
初々しいと言える程の抒情は今までの俳句にはなかったもので、若い人がこうした作品を読むと俳句への印象が異なってくることでしょう。
彼の作品は今までの俳句とは相当印象が異なると思います。しかし俳句から大きくはみ出してもいません。そこにこれからの俳句の息吹が感じられます。
昭和二六年から三二年
流すべき流灯われの胸照らす
軒燕古書売りし日は海へ行く
便所より青空見えて啄木忌
大揚羽教師ひとりのときは優し
詩人死して舞台は閉じぬ冬の鼻
いまは床屋となりたる友の落葉の詩
林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
(あをすぶ)
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
同人誌は明日配らむ銀河の冷え
花粉航海(昭和五〇年)
秋風やひとさし指は誰の墓
螢来てともす手相の迷路かな
かくれんぼ三つかぞえて冬となる
心中を見にゆく髪に椿挿し
黒髪が畳にとどく近松忌
*
父ありき書物の中に春を閉じ
「空には本」(昭和三三年刊)
森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめむとするに紫陽花くらし
とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を
そら豆の殻一せいになる夕母につながるわれのソネット
煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し
「田園に死す」という歌集からは土俗的な傾向が深まります。これも寺山修司の大きな特徴です。その後、彼は演劇に活動の拠点を移し、歌わぬ歌人となりました。
「田園に死す」(昭和四八年刊)
大工町寺町米町仏町母買ふ町あらずやつばめよ
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら
俳句は中学・高校で止めたとは本人の言ですが、一説には三〇歳を過ぎても書き続けていたとも言います。
この辺りの脚色性こそ寺山修司の世界なのです。
こうして青春の抒情から土俗的な生存への深みへと関心を移した寺山修司は亡くなる前年、朝日新聞に次の詩を発表します。ここには死を自覚した者の思いの深さが伝わってきます。
懐かしのわが家
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである。
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向つて育ちすぎた梅の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かつた
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかなかつたことを
知つていたのだ
読み継がれる寺山修司
冒頭の女性はその後寺山修司の本を何冊か買い、ファンになりました。
若い人たちにも確実に読み継がれているようです。彼は決して社会現象としては終わらないでしょう。
むしろ前衛的な劇や映画は忘れられても伝統に根をはった俳句と短歌はその命脈を長く保つものと信じます。それは逆に彼にとっての宿命かもしれませんが。
寺山修司没後、歌人の全国的な集まりで寺山修司作の劇「新・病草子」を春日井健(歌人)の演出で観ました。その帰り道、短歌を作りました。
歯冠まだ馴染まざりせば舌で嘗め寺山修司の青き劇観る
劇中の寺山修司の世界には惹かれるもののなぜか説明不能の違和感を覚えずにはいられませんでした。それは治したばかりの歯の違和感とどこかで共鳴しあっていたのです。
平成九年、青森県三沢市に寺山修司記念館がオープンしました。
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今月は俳句現代(角川春樹事務所)1999年6月号と俳句α(毎日新聞社)創刊2号、および俳句結社誌「藍生」にわたしが書いた文を参考にしました。
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