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2011年6月26日 (日)

游氣風信 賢治の短詩(その2)

No,111 1999,3,1

賢治の短詩(その2)

 

 先月号に続いて宮沢賢治の比較的短い詩を紹介します。

 

 世の中には意外に賢治ファンが大勢います。信者と呼べるほどの人もいるくらいです。

 文学部の卒業論文に宮沢賢治を取り上げる学生は大変多く、ベスト5に入るのではないでしょうか。

 現在活躍中の詩人や作家の間に隠れファンが多いことでも知られています。

 俳優で詩人の内田朝雄さん(故人)などは「私の宮沢賢治」という賢治研究史に残る素晴らしい本を書かれています。

 井上ひさしさんの「イーハトーボの劇列車」という戯曲は演目として優れているだけでなく、賢治論としても白眉のものです。

 教育者の西郷竹彦さんにも「宮沢賢治やまなしの世界」という大著があります。

 

 ただ大人になるにつれて、いつしか「昔は愛読したなあ」というかたちで離れていく方も多いようです。それでも心の奥底にはしずかに賢治の記憶が沈潜していることでしょう。

 それは賢治に限らず若いときに読んだ文学作品全てにいえることです。

 

 大人になっても賢治ワールドに居座っている中途半端な人達がインターネット上に膨大な賢治関連のホームページを作っています。

 

 渡辺宏という方はソフトウェア関連の仕事の傍ら「宮沢賢治童話館 http://www.cypress.ne.jp」というホームページを起こし、さらにメールマガジン「Kenji Review」を発行しておられます。これは登録しておくと自動的にE-mailの形式で文章が届くという便利なものです。

 

 渡辺さんは賢治の全作品のテキスト化(簡単に言えばワープロの文書にすること)を目指しておられます。その情熱には頭が下がります。

 あまり熱心に取り組んでいるので仕事がおろそかになり、どうやら奥さんの目が怖くて正視できないようです。

 「どんな立派な趣味でも家族との葛藤は避けられません」とわたし自身の実体験から学んだ事実を実感をもって申し添えておきましょう。

 

ホームページと言えば、わたしが所属している宮沢賢治学会(本部は花巻市)も近々ホームページを立ち上げるそうです。先述の渡辺さんももちろん会員です。

 宮沢賢治学会の会員には賢治に関心のある方なら年会費3000円を納めれば誰でもなれます。新発見資料や講演会などを掲載した会報が届きます。

 

宮沢賢治学会イーハトーブセンター

 岩手県花巻市高松1-1-1 電話:0198-31-2116 FAX:0198-31-2132

 

 宮沢賢治学会は賢治の出身地花巻市にある宮沢賢治イーハトーブ館という市の施設に本部を置く非営利の組織です。イーハトーブ館は展示室や図書室、200名収容のホールがある立派なもの。

 規約の第2章(目的)第2条に

 

 本会は、宮沢賢治とその作品を研究並びに愛好する者が交流し、相互に理解を深めることを目的とする。また、宮沢賢治に関する資料・情報のセンターとする。

 

とあります。花巻市も補助金として年間800万円の予算を組み、郷土の誇りとしてバックアップしているのです。宮沢賢治記念館と宮沢賢治イーハトーブ館が賢治顕彰の拠点の両輪となり、それを支えるのが宮沢賢治学会会員と言えるでしょう。

 

 では先月に続いて、今月も賢治の短めの詩を紹介します。

 

  開墾

   (春と修羅第三集所収)

     日付 一九二七、三、二七、

 

野ばらの籔を、

やうやくとってしまったときは

日がかうかうと照ってゐて

空はがらんと暗かった

おれも太市も忠作も

そのまゝ笹に陥ち込んで、

ぐうぐうぐうぐうねむりたかった

川が一秒九噸の針を流してゐて

鷺がたくさん東へ飛んだ

 

 

 これは農作業の辛さと成し遂げたときの満足感を歌った佳作でしょう。調べの良さに労働を楽しんでいることが伺えます。

 中でも

「日がかうかうと照ってゐて/空はがらんと暗かった」

は秀逸です。真夏の空は明る過ぎてかえって暗いとは誰もが実感することですがなかなか言えません。

 「ぐうぐうぐうぐう」は眠りのオノマトペとしてはあまりに当たり前でつまらないものですが、「ぐうぐう」ではなくて「ぐうぐうぐうぐう」と四回繰り返すところが賢治調。

 

 太市や忠作は人名。太市は名作「家なき子」の邦訳で主人公レミを日本人の少年太市に置き換えたもの。当時はこんな乱暴な訳がなされていたようです。

賢治はこの物語を小学校の八木先生から読み聞かされて感動したと伝えられています。他の作品にもたびたび太市は出てきますが、忠作は不明。

 

 最後から二行目。九噸は9トンです。川が針を流すとは、川面が毎秒9トンの針を流したようにきらきらきらめいているということの比喩です。

 

 最後の行、唐突に「鷺がたくさん東へ飛んだ」とあります。このように地上から一気に大空に視線を移すことで雄大な心象を描くことができます。賢治の好きな手法。

 この作品でも視線が[野ばらの薮]から[がらんと暗い空]へ上昇、再び[笹]へ降り、次に水平移動して[輝く川]、そこからひるがえって[東へ飛ぶ鷺]という具合に大きく変化して詩のふところを深くしているのです。

 

 賢治は生涯をアマチュアで過ごしましたから、いわゆるプロの作家のような校正者や編集者を持ちませんでした。ですから自分で気の済むまで書き直すことが可能でした。

 あるものはこの作品とあの作品を混ぜて別の作品に仕立てたり(例えば「種山が原」や「さいかち淵」などの小品を寄せ集めて「風の又三郎」に)、晩年、病床で若いときのテーマを文語詩に改作したり、ひとつの作品をどんどん発展させて果ては全く違う作品にしたり(たとえば怪物の世界を描いた「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」が自己犠牲がテーマの「グスコーブドリの伝記」に)と、その作品の足跡はじつに複雑です。

 

 そこで次の詩では少し繁雑になりますが賢治の推敲のあとを具体的にたどってみましょう。この過程は先程書いた校本宮沢賢治全集に詳しく書かれています。苦労してお付き合いください。

 

 まず最初に紹介するのが決定稿。賢治が「春と修羅第三集」として原稿を整理していながら結局は出版できなかったものの中にある作品です。整理しながら出版できなかった点では「春と修羅第二集」も同様でした。

 

  札幌市

  (「春と修羅」第三集所収)

    日付 一九二七、三、廿八、

 

遠くなだれる灰光と

貨物列車のふるひのなかで

わたくしは湧き上がるかなしさを

きれぎれ青い神話変へて

開拓紀念の楡の広場に

力いっぱい撒いたけれども

小鳥はそれを啄まなかった

 

 この詩に先立って次の詩「札幌市(下書稿二)」があります。これを推敲したものがその後に紹介してあるものです(下書稿二の推敲形)。

 

  札幌市(下書稿二)

 

遠くなだれる灰光のそらと

歪んだ町の広場のなかで

わたくしは湧きあがるかなしさを

青い神話としてまきちらしたけれども

小鳥らはそれを啄まなかった

 

 

 この詩を賢治は次のように変えました。

 

  札幌市(下書稿二の推敲形)

 

遠くなだれる灰光と

歪んだ町の広場の砂に

わたくしはかなしさを

青い神話にしてまきちらしたけれども

小鳥らはそれを啄まなかった

 

 わたしはこの形が一番好きです。その理由はこれが校本刊行以前の賢治作品として流布されていたもので、前々から暗唱してなじんでいたことにあります。

 

 しかし、それだけではありません。もう一つの理由は技法的なものです。決定稿では「貨物列車」とか「開拓祈念の楡の広場」という具体的なもので読者に地理的状況を明瞭に示しています。それによって読者ははっきりした映像を描くことが可能になります。けれどもかえって読者に許された鑑賞の自由を狭くしていることは否めません。。

 さらに調べのよろしさ。読んで一番心地よいのが最後に紹介した作品であることは間違いないしょう。

 

 最初に掲載した決定稿は、校本全集によれば「下書稿三の推敲形」となります。詳細はともかくこのように賢治は絶えず作品をいじっていたことはお解りいただけることと思います。

 

一〇五五

  [こぶしの咲き]

   (詩ノート)

     日付 (一九二七)五、三、

 

こぶしの咲き

きれぎれに雲のとぶ

この巨きななまこ山のはてに

紅い一つの擦り傷がある

これがわたくしも花壇をつくってゐる

花巻温泉の遊園地なのだ

 

 

 作品としては取るに足らないものですが資料的には価値のあるものです。

 この作品には作者による題がついていません。こういう場合便宜上最初の一行を題として[]でくくってあります。「詩ノート」というのは賢治没後、宮澤家に「詩ノート」と書かれたケースに整理されていた原稿の総称で、賢治作

品分類上そのまま利用されています。「一〇五五」という番号は賢治によって書かれた通し番号です。ですから以前は「作品一〇五五番」などと呼ばれていました。

 

 賢治は今日でも東北有数の温泉地として知られる花巻温泉郷の南斜花壇(現在は賢治記念館に復元)と日時計花壇(花巻温泉に現存)を設計しました。

 その構想は温泉郷全体の雰囲気を考慮したもので、花壇の造形や照明などの芸術面、季節毎の花の種類や色などの知識だけでなく、花の仕入れ先や値段などの実務までと極めて多岐にわたり、総合造形芸術家としての資質をいかんなく発揮しています。

 

 ただし、この作品の注目点は「この巨きななまこ山のはてに/紅い一つの擦り傷がある」の二行です。自分が造形している山の斜面を擦り傷ととらえる感受性は自然に杭打つ痛みを表白しているようです。

 

 こうした感性が昨今のエコロジストの教祖のように持ち上げられる一因でしょう。もっとも賢治の生態学は「地球を守ろう」とか「地球にやさしく」などという人間中心のエゴイズムでないことは火を見るよりも明らかです。

 

 あと二題紹介します。

 [胸はいま]は「疾中」と題して賢治自らが綴じていたものの中のひとつです。1928年(昭和3年)9月頃、32歳の賢治は花巻病院で両側性肺浸潤と診断され療養に入り、病気を通して生や死、親への感謝など自らを深く見つめる作品群を書きました。

 

[胸はいま](疾中)

   一九二八、一二から一九二九、四の間と推測

胸はいま

熱くかなしい鹹湖であって

岸にはじつに二百里の

鱗木類の林がつゞく

そしていったいわたくしは

爬虫がどれか鳥の形にかはるまで

じっとうごかず

寝てゐなければならないのか

 

 鹹湖(かんこ)は塩水の湖。中東の死海やアメリカのソルトレークが有名。

鱗木(りんぼく)は木肌が鱗のようになったシダの大木。古生代石炭紀に栄え今日石炭として発掘されます。

 病中の鬱屈した思いを鹹湖や鱗木に託し、時間の経過の長さを爬虫類が鳥に進化するまで寝ていなければならないのかと飛び抜けた時間感覚で表現しています。

 

 最後は賢治31歳の作品。あまり注目されることのない作品で、アンソロジー(選集)にもめったに取り上げられません。しかし、賢治らしい言葉の用い方と賢治の女性観が述べられていて興味深い作品です。

 

  [わたくしどもは]

   (詩ノート)

       日付一九二七、六、一、

 

わたくしどもは

ちゃうど一年いっしょに暮しました

その女はやさしく蒼白く

その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした

いっしょになったその夏のある朝

わたくしは町はづれの橋で

村の娘が持って来た花があまり美しかったので

二十戔だけ買ってうちに帰りましたら

妻は空いてゐた金魚の壷にさして

店へ並べて居りました

夕方帰って来ましたら

妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました

見ると食卓にはいろいろな菓物や

白い洋皿などまで並べてありますので

どうしたのかとたづねましたら

あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです

・・・その青い夜の風や星、

   すだれや魂を送る火や・・・

そしてその冬

妻は何の苦しみといふのでもなく

萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました

 

 

 全体が淡く冷たく青白い不思議な雰囲気を醸し出しています。

 「その青い夜の風や星、/すだれや魂を送る火や」という幽玄に象徴される実体感のない女性。まるで雪女の化身のようです。ここに賢治が生涯を独身で過ごした秘密が見え隠れしていますし、賢治にとってあらゆる現実とはまるで気体のように手応えなく見えていたのではないか、そんな気がしてならないのです。そしてそれが賢治ワールドの魅力と同時に限界を示唆しているようでもあります。

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