« 游氣風信 No95「知ったかぶりIN落語 芸人(永六輔)」 | トップページ | 游氣風信 No97「めでたい俳句」 »

2011年6月22日 (水)

游氣風信 No96「指圧と利久百首」

三島治療室便り'97,12,1


≪游々雑感≫

指圧と利久百首

 右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし

 これは千利休が茶の湯の稽古の心構えを説いた「利休百首」のひとつです。

 全くの門外漢のわたしが何故に茶の湯の道歌を知っているのか。それは経絡指圧の師・増永静人の著書に度々出てくるからです。

 増永静人は卓越した理論家指圧師として知られていましたが、昭和五十七年に惜しまれて亡くなりました。享年五七才。無念の夭折でした。

 増永はそれまでの理論的根拠を西洋伝来のマッサージの理論である血液・リンパ循環論やカイロプラクティク(米国で生まれた脊椎矯正法を主とした医療。米国では六年間の大学教育を終了してドクターの資格が必要。日本では無資格)の脊髄神経反射論に依存していた指圧を東洋的な観点からまとめ経絡指圧として体系づけた功労者です。

 どうして日本生まれの指圧を西洋的でなく東洋的に理論化することが斬新であったかは不思議ですが理由はその歴史に準拠します。

 もともと指圧の原型である按摩術と鍼灸術は中国に発し、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。婆羅門導引(ヨガのこと)天竺按摩という言葉もありますから、中国以前にインドで原型が生まれている可能性もあります。これは中世以前の他の外来文化と軌を一にしています。

 按摩は古くは按矯導引(あんきょうどういん・矯の字は足編ですがワープロにはありません。簡単に作れますが作った文字はパソコン通信で送れません)と呼ばれ、黄河文化圏に起こり日本には五六二年に伝わったとされています。「按」は揉んだり押したりすること、「矯」は手足を動かして骨格を整えること、「導引」は大気を導き体内に引き入れることで今日の気功体操に分類されます。

 奈良時代の大宝律令(七〇一)には医生・医師・医博士の制度と共に按摩生・按摩師・按摩博士という制度が明文化されています。同様に鍼生・針師・鍼博士。灸生・灸師・灸博士も。そのうち医療の中心は湯液(漢方薬)や鍼灸になり、按摩術は慰安的なものとなり今日まで続いています。江戸時代には盲人の職業として保護もされました。

 しかし、慰安的であるという事実に反発し、按摩術を医療体系の中に止めておきたいという人達も多くいました。その具体的なものとしては江戸時代に生まれた按腹術があります。これは字の通り腹部を重点的に処置することで疾病治癒を目指したもので基本的には中国医学の古典である黄帝内経という本に拠ります。

 明治になって、西洋からマッサージという按摩にそっくりの技術が伝わってきます。
按摩の理論的根拠は漢方医術で言うところの「気血の巡り」を良くすることで、そのために《経絡》というスジを用いることです。経絡はいのちの元となるエネルギーである《気》や、栄養分である《血》が流れるというスジのことで内臓に関係し、心理面も反映するとされています。このスジ上にツボがあるのですが実態は明らかではありません。

 対してマッサージの理論は筋肉や血液・リンパ循環など解剖学や生理学を根拠としていて科学性があり、名称もハイカラなので按摩を自称する人は減り、いつしかマッサージと名乗るようになりました。
 しかし、それでもまだ治療対象が血液循環改善や疲労回復に止まっているという不満がありました。手技と言えども、もっと幅広い分野の治療が可能ではないかと模索する人達も大勢いたのです。

 そんなところにアメリカからカイロプラクティックという脊椎矯正法がやってきました。これは神経生理学的に自律神経を調整し得るという一見科学的整合性があり、多くの病気に対応できるということで多くの治療師が飛びつきました。しかも技法は在来の柔道などに伝わる活法に酷似しています。活法とは姿三四郎などの映画で気絶
した人の背中に膝を当てて「エイッ!」と気合一閃、蘇生させるというあれです。

 というような顛末で、明治末期から大正、昭和の始めにかけて独自性を主張する〇〇療法が雨後の竹ノ子のごとく発生しました。戦後、政府はそれらを法的に整理するために紆余曲折の果て、指圧として統合しました。按摩業界から猛然たる反発があったとは今でも語り種です。なお、指圧という名称は大正時代に玉井天碧という人が使用していたのが最初と言われています。

 今日でも、カイロプラクティックは指圧ではないから法的に指圧に統合されては困る、わたしの療法は神のお告げによって生まれた独自の技術で如何なるものとも異なると称していろいろな治療術が雨後の竹ノ子どころか飯屋のゴキブリほども大発生しています。

 何故なら、指圧とか按摩とかマッサージと名乗るためには学校に通い、国家試験を受けなければなりませんが、我が国には違う名称さえ名乗れば免許は関係ない、いかなる法的拘束は受けないというすばらしい抜け道があるからです。

 ちなみに鍼灸のための学校は京都に大学が一校、大阪に短大が一校、その他全国に十数校の専門学校があり、さらに各都道府県の盲学校でもそのための教育がされています。鍼灸学校を出た後、大学の医学部の研究室で研究し、医学博士を授与された人も昨年から今年にかけて愛知県で三名います。まさに大宝律令の鍼博士を地で行くものですね。

 さて、最初の「利休百首」と増永静人に戻ります。
 増永静人はわたしにとっては指圧の先生というだけでなく、医療の思想や人生哲学など実に多くのことを与えてくださった人です。増永から授与された認可証は次の文面で、今も書斎に掛けてあります。

     証

                        三島広志

  右者医王会に於て現代医学を基礎とし東洋古来の経絡治療
  と日本独自の按腹術を加えた高度な指圧療法を学び証診断
  治療の指圧臨床技術を習得されたので本状を授與します
昭和五三年五月廿日

日本東洋医学会員
日本臨床心理学会員
日本指圧協会理事
                   医王会会長 増永静人

 昭和53年ですからもう二十年も前のことになります。増永の肩書に東洋医学会員(後に評議員)と指圧協会理事というのがあります。これは当然ですが、日本臨床心理学会員というのは不思議でしょう。書いてありませんが日本心理学会員でもありました。これはなぜかというと、増永は京都大学の哲学科心理学部を卒業しているから
なのです。

 大学卒業後、増永は「指圧の心、母心。押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳次郎先生の日本指圧学校を卒業し、そのまま教員として後進の指導にあたりました。そこでは心理学と病理学、症候概論、漢方概論などを教えていたようです。しかも増永の恩師は西田幾多郎の弟子ですから、増永のバックグラウンドは心理学と西洋医学と東洋哲学ということになります。これらのことが先の認可状の文面に反映されているのです。

 そんな増永の好きなもののひとつが茶の湯です。やっと冒頭の利休にたどり着きました。
 わたしは増永から利休の道歌「利休百首」を指圧用に作り替えたことがあると直接聞きました。しかし、増永が著書で紹介しているのは冒頭の「右の手を」と

  茶を振るは手先をふると思ふなよ臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり

でした。これを「指圧をば指で押そうと思うなよ肘より押せよそれが肘なり」と替え歌にして紹介していたのです。

 それに習ってわたしも二十年前、自分なりに利休百首を読み、替え歌にしてみました。増永に「五十首くらい変換できた」と言いましたら氏は、「いや、七十首以上できるはずだ」と答えました。残念ながらそのノートは行方不明ですが、もう一度本を読んでいくつか紹介したいと思います。

 今日、受験勉強(この場合、受験だけを目的とした勉強であって、受験を通過点として学習することとは違う)の弊害で習うとか学ぶということが知識の伝達だけになりがちですが、元来文化の伝達には稽古という技法があり、これには「教える側が習う側よりさらに学ぶことができる」という利点があります。学校側が成長するために
は早く一派を起こし教える側に回ることが大切だったのです。かくしてさまざまな流派が乱立するという問題点はあるものの、身をもって学ぶという意味で稽古は古臭い言葉ではありますが重要な方法なのです。

 冒頭の歌「右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし」とはどういうことでしょう。右手を使うときに右手を意識すると緊張して堅くぎこちない動作になるからあえて左手を意識してごらん。右手が無意識的な自然の動きができるから・・というような意味です。これは全ての身体技法に共通する原理と言っても過言ではありません。
 類似した歌に

  何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ

があります。

 さて、気に入りの歌をどんどん紹介しましょう。

  その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけり

 決意こそが心の中にある師匠なのだと言うのです。
ならひつゝ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚なりけり
 まずはやってみなさい。体験してみなさい。あれこれ言うのはその後だよということでしょう。体験する、これが稽古の基本です。体験を経験にするという内的処理こそがヒトが人間であるゆえんなのです。

  心ざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞをしふる

 志の高い人でなく深いというところに意味があるようです。そういう人には奥深いことまで教えるのです。ここにすばらしい弟子を持つ喜びがあるのでしょう。師弟は相互に高め合う関係こそが素晴らしい。アメリカの大学教授はうるさく質問する学生を歓迎します。それによって自分が高まるからに外なりません。
はぢをすて人に物問ひ習ふべしこれぞ上手のもとゐなりける こちらは教わる人の心構え。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ということわざもあります。

  上手には数寄ときようと功つむと此の三つそろふ人ぞよくなる

 数寄とは興味や好奇心。好きの当て字。きようは器用。功つむとは努力して励むこと。この三つがあれば成長する。

  稽古とは一より習ひ十をしり十よりかへるもとのその一

 これはわたしの大好きな言葉。一から習って十を知ってまた一に帰るのですが、この一は決して最初の一ではありません。次元の異なる一。

  もとよりもなきいにしへの法なれど今ぞ極る本来の法

 本来の法に行き着きたいという強い志。人類未到の世界を目指そうというのです。

  規矩作法守りつくして破るとも離るゝとても本を忘るな

 規はコンパスのこと。矩は物差し。どちらも測定の基準となる道具で手本を意味します。中国では修行の段階を守破離に分けます。書道で説明すると楷書・行書・草書に置き換えることができます。まず先生から教わったことをそのまま守って練習することを守。次にそれを少し壊して自分なりに変化させることを破。外見的には全く異
なるまで自分のものにしてしまうことを離。しかし本質は変えないというのです。ここに芸事の流派がどんどん増える理由の一つがあります。

 百首のうち、冒頭と最後に一般性のある、どの道にも通じる歌を置き、真ん中にはお茶の具体的な技法の教えを説いています。その演出は見事なもの。ここで紹介した歌はすべて芸事一般に流用できる歌です。すなわち「本意」の歌なのです。

 お茶の技法という特殊性を歌ったものも指圧に置換すれば、指圧を習う歌に替えることができます。むろん、料理でも裁縫でも踊りでもなんにでも流用できるところにこの歌の妙味があります。

 道はともすれば形式主義の塊、形の上にほのめいている観念的なものと言えるでしょう。しかし形の上、もしくは奥に潜んでいるあらゆるものに共通する普遍性を垣間見ることは重要なことです。そこに今日一部の西洋人が道(ダオイズム)に関心を抱く理由があるのです。

 増永静人の書いた「禅指圧」はアメリカでロングセラーです。指圧と言えば増永静人というほど知られています。外国人に「君の指圧のスタイルは何だ」と聞かれ「増永のスタイル。禅指圧だ」と答えるととても驚き、さらに直接の弟子だと知ると大喜びします。
 わたしの所に来る西洋人は指圧に対して医療の側面と道の側面の両方を求めています。それに答えたのが増永静人だったわけです。これも西洋人の東洋回帰、物事の奥に本質を見いだそうとする道、ダオイズム大好きの流れに乗っています。

 「虎は死して革を留め、人は死して名を残す」
 増永静人先生は没後もわたしを助けてくださっています。わたしが遺せるのは・・・
借金ぐらいかなぁ。

 ところで千利休はこんな歌も遺しています。

  釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な
  数多くある道具をば押しかくしなきがまねする人も愚な

 うーむ。お茶の先生はこの歌を知っているのでしょうかね。形式の中の本質を見ようとしない時、形式主義は形骸主義になり、道は奈落への道、ダオイズムはダメイズムになります。

≪後記≫

 本年最後の≪游氣風信≫です。今年はあなたにとってどんな年だったでしょうか。
さまざまな出会いや別れを紡いで年は移っていきます。来年はどんな人や出来事に会うことでしょう。楽しみに今年を終えたいと思います。

  船のやうに年逝く人をこぼしつつ 矢島渚男

 本年一月号に紹介した俳句です。これを巻尾に置かさせていただいて今年を終わりたいと思います。

(游)

|

« 游氣風信 No95「知ったかぶりIN落語 芸人(永六輔)」 | トップページ | 游氣風信 No97「めでたい俳句」 »

游氣風信」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 游氣風信 No96「指圧と利久百首」:

« 游氣風信 No95「知ったかぶりIN落語 芸人(永六輔)」 | トップページ | 游氣風信 No97「めでたい俳句」 »