« 游氣風信 No88「体に良い?悪い?」 | トップページ | 游氣風信 No90「雨のいろいろ 気とことばとからだの冒険」 »

2011年6月22日 (水)

游氣風信 No89「私見:情報伝達事始め」

三島治療室便り'97,5,1
 
≪游々雑感≫
私見・情報伝達事始め

 世の中にはさまざまな情報が飛び交っています。
 世界を動かす重要な情報もあれば、無いほうが世のためという情報もあります。正しい情報や間違った情報、憶測や嘘も入り交じり、情報が否応無くわたしたちの周囲を駆け巡っているのです。

 そんな中、わたしたちは情報の受け渡しをいろいろな方法で行っています。
 原始的なものとしては身振りや手振り、表情や声。高度になりますと言語(定められた信号や記号なども)を用います。また抽象化された音楽や美術、詩などの芸術的方法もあり、こうした複雑に入り組んだ情報伝達は間断なく一人一人に飛び込んできて一時も休ませてはくれません。

 大自然からの情報はこちらの学習程度によって判断することになります。
 風が出てきて空が暗くなるという情報を得れば「雨」という予測を行い、出掛けるときは傘を持っていこうと判断・行動するという具合。

 人と人の情報交換に限ればさまざまな手段を工夫して伝えたり判断したりしていることが分かります。とりわけ近年に至っての急速な伝達方法の進歩には驚いている暇も無く、かといって傍観している訳にもいかず、ただおろおろとついていくばかりです。
 高度情報社会に翻弄されている我が身を振り返りつつ、伝達方法について思いつくまま述べてみましょう。

言語以前
 昨年暮れに赤ちゃんを授かったKさんは、育児疲れの奥さんを身体調整に連れてみえます。もちろん生まれて半年ほどの赤ちゃんを一人で置いてくるわけにはいきませんから抱っこして来るのですが、奥さんの調整中、父と子を見ているとそれが実におもしろい。
 赤ちゃんが「ウー」と言えば、お父さんは「よし、よし」と立ち上がって揺すってやり、「グー」と言えば「そうか、そうか」と目を細め、「ウックン」と甘え声を出そうものなら人目もはばからずホットケーキに乗っかったバターのようにとろとろに溶解してしまいます。
 そのうち赤ちゃんがご機嫌ななめに「イー」と身をのけ反らせると、「どうした、どうした」とこの世の終わりのように慌てふためきだし、全く見ちゃおれません。
 Kさんのように厄年過ぎて初めての赤ちゃんを抱けば誰でもこうなることでしょう。
それに思い起こせば中学三年生のわたしの息子も今でこそ「うっせーなぁ。わかっとるからあっち行っとれ」
と変声期のがらがら声で生意気なことこの上もありませんが、小さいときは確かに可
愛らしかったような記憶がかすかにあります。

 さて、赤ちゃんはお父さんに笑顔と泣き顔と喃語(なんご。赤ちゃんが発する意味不明の声)と仕草で立派に情報を伝えています。この交流はもっぱら受け手のお父さんの理解力に委ねられていること大なのですが、Kさんと赤ちゃんを詳細に観察しますと、明らかに赤ちゃんの意志もその声などに反映してお父さんを操作しているのが
見受けられるのです。たかだか生後半年で・・・すごいものです。
 こうして言語以前の情報交換がみごとに成立しているのですね。

音声言語による伝達
 音声言語いわゆる話言葉による情報は人類だけが獲得した高度な情報交換手段です。

 これは音声の届く距離にいることが前提で行われます。拡声器や電話、無線機などが発明されるまでは肉声の届く周辺に限られました。
 音声言語は重宝なもので、いささかの身振りと表情、声の調子を加味して複雑な情報伝達が可能になります。ただし、音声ですから即刻消滅すること、伝達距離が短いことが欠点です。つまり、時間と空間の制約が極めて大きいということなのです。

文字言語による伝達
 そこで生み出されたのが文字です。文字は音声と違って記録できるという卓越した能力があります。それを何らかの方法で遠くまで移動することで空間も乗り越えることが可能になりました。
 文字は絵文字や簡単な記号から進化して今日使用する形に成長しました。前述のように文字言語は記録によって時間を超越しただけでなく、移動手段を用いることで空間も越えました。
 しかし、欠点としては到達までに時間がかかる、つまり即時性において話言葉に一歩譲ることでしょうか。江戸時代までは飛脚によって運ばれていたのですから時間がかかることおびただしいものがありました。
 また、文盲という言葉があるように学習も音声言語より困難です。

新聞とラジオ
 音声言語と文字言語で文明の利器によって発展的に利用されたという点では文字言語が音声言語にはるかに先んじました。紙の発明と印刷の技術の発展が両者の間を決定的に分けたのです。
 日本でも紙に版画の手法で本を出版していた歴史には長いものがあります。それ以前は書き写していましたし、さらにそれ以前は文字がないために音声言語による口伝えだったのですから大変だったことでしょう。この役職のことを語り部と称したのは歴史で学びましたね。
 音声を音声のまま記録する技術はエジソン(多分)まで待たねばならなかったのです。

 大衆に向かって情報を広く伝える、すなわちマスコミュニケーションとして最も古いのは新聞です(これも多分)。我が国なら瓦版。これは文字言語です。
 新聞は大衆の公器として多くの人の生活に役に立ちました。日々新しい情報が紙に印刷されて各家庭に届けられるのですから、それがいかに人々の暮らしを変えたか、その影響は今思うよりずっと大きなものだったことでしょう。
 政治、経済、社会の出来事、文化、医学、教育、小説、囲碁、将棋、俳句、短歌、広告などの最新情報が家庭に届けられることで生活に潤いを与えたことは想像に難くありません。

 ところが、今世紀の始め、イタリア人マルコーニが無線通信を実用化させました。
それを踏まえてラジオ放送が始まります。ここに至ってついに音声言語が距離という空間的制約を取り払ったのです。さらにエジソンによって蓄音機が発明され、音声言語を音声のまま記録する技術が実用化されて時間的制約を取り払ったのもこの頃です。

「メーリさんの羊、羊、羊、メーリさんの羊、可愛いな」
これが記念すべき録音の第一号だそうです。

 ラジオ(音声言語)は新聞(文字言語)よりはるかに速い情報伝達手段です。放送局から即各家庭に飛んできます。それに対して新聞は印刷し、汽車で各地に運び、そこから各家庭に配られます。そののろまなことはラジオの比ではありません。そこで巷間、新聞無用論が起こります。

 「ラジオなら世界で起こっていることが瞬時に伝わってくるが、新聞は前の日の事しか分からない。非常に遅い」
 「神宮球場の野球の実況中継を聞いた翌日、新聞で勝ち負けを知るのは全く間の抜けたことだ」
 「新聞は紙を大量に消費する。ひいては森林資源の破壊、資源の無駄だ」
 「汽車で運ぶのだから燃料も馬鹿にならない」
 「それに宅配だから人手や手間も大変だ」
 「読み終えた新聞はゴミになってしょうがない。トイレで使うと硬くて痛いし、色がつくし・・」

もちろん新聞養護派もいます。

 「いや、新聞で読むのはニュースだけではない。料理や新聞小説は切り抜いて保存できる」
 「そんなもの、本で買えば良い」
 「新聞一枚の情報量はラジオに比べてすごいものだ」
 「新聞には何と言っても写真がある。百聞は一見にしかずと言うではないか」
 「確かにそれはラジオの負けだ。しかし、浪曲は新聞では聞けまい」
 「何より新聞にはラジオ欄があるが、ラジオには新聞欄はあるまい。これは明らかに文明の利器、ラジオの勝ちである証拠だろう」
明らかに新聞の旗色が悪いようですが、ついに歴史的起死回生の意見がでました。

 「諸君、ラジオで弁当が包めるかね」
 「(一同)おおっ」

ここに各人の意見の同意をみ、今日も新聞が命脈を保っているゆえんなのです。

映像言語
 映像言語は広義には文字言語に分類されます。
 新聞には写真があるがラジオにはないという意見がありましたが、それもほどなくテレビの登場で新聞の優位性は駆逐され、ついに弁当を包むという利点だけになってしまいます。しかもコンビニ弁当の隆盛からビニール袋に取って代わられ、ますます
新聞紙の使い道はなくなり、今日専ら古紙としてトイレットペーパーを作るためだけに存在しています(もちろんこれは冗談ですよ。時々冗談が伝わらない場合があります。これは表情がないという文字言語の大きな欠点です)。

時空を越える言語
 さて、文字言語と音声言語の特徴と歴史的な変化をざっと見てみました。素人が勝手に考えていることですから適当に読んでいただくよう改めて強く要望しておきます。
間違っても卒論などに引用しないでくださいね(もちろんこれも冗談)。

 科学技術はこれらの言語の存在意義をどんどん変えていきました。制約を取り払っていったと言ってもいいでしょう。
 今日、音声言語の欠点である伝達距離の短さは、無線(ラジオやテレビを含む)や電話であっけなく乗り越えられました。しかも携帯電話やPHSによっていつでもど
こでも誰でも持ち運びができるまでになったのです。
 また、音声言語のもう一つの欠点の記録の難しさは、カセットレコーダーや留守番電話で解決してしまいました。ビデオによる映像の記録もあっけないほど簡単です。
 また文字言語の欠点である空間移動のために要する時間の問題はファクシミリで過去のものとなり、伝達に数日を必要とする郵便の存続も率直にいって危うい段階まできています。

電子言語の誕生
 近年に至って、一大革命が起こりました。パソコン通信やインターネットの電子メールの隆盛です。
 1980年代後半、日本でパソコン通信が始まりました。コンピューターと電話回線を介して文字情報のやり取りをするのです。わたしは手持ちのワープロで1989年頃からニフティサーブという会社のパソコン通信を始めました。
 パソコン通信は文字言語をパソコンやワープロが電子言語に置き換え、電話回線を通じてパソコン通信会社(わたしの場合はニフティサーブ)のコンピューターに蓄積、それを相手が同様にパソコンやワープロで電話回線を通じて読み取るものです。画面に全く普通の文字が出てきますから誰にでも可能な通信手段です。
 これは電話と違って相手が向こう側にいなくても良いという郵便配達と同じ文字言語の利点をそのままに、電話の同時性という音声言語の利点も兼ねています。つまり時間と空間をやすやすと越えてしまうのです。しかも蓄積も可能。

 それならファックスも同じではないかと思われますが、大きな違いがあります。ひとつは紙を使わないということですが、もうひとつ大変大きな違いがあります。具体例でわかりやすく説明しましょう。
 わたしは毎月俳句の会報を発行しています。今回、5周年記念で仲間の俳句をまとめたものをワープロで作っています。そのため、10数名の仲間から俳句が30句ずつ送られてきます。直接手渡しもありますが、ほとんどが手紙、中にはファックスの人もいます。それをわたしがワープロに打ち込んでいくのです。総数450句以上になり、
なかなかの労働でしょう。
 もし、仲間が電子メールで送ってくれたら、そのまま電話線を介してわたしのワープロに入ってしまいますから、わたしが改めて打ち込む必要は全くないのです。これはとても大事なことです。
 すなわち、電子言語は時間と空間という制約をやすやすと乗り越えるだけでなく、共有化つまり共通財産化も可能なのです。
 
 4月下旬から埼玉に住むIさんと俳句の原稿の件で頻繁に電子メールのやり取りをしました。これは実に爽快で楽しい経験でした。
 手紙のように何日もかかる方法と違って新鮮な感覚のままで文章の交換ができたのです。また電話のように相手の時間に暴力的に割り込む時間泥棒になる必要もありません。互いに都合のよい隙間時間を利用してパソコンをつなぐだけなのです。しかもやりとりの結果は全て記録されています。
 Iさんはしがない自営業のわたしと違って業界トップ会社のエリート社員です。自分の机に会社のパソコンがしつらえてあり、一日中スイッチが入っていて、わたしの電子メールが着き次第読めるという実にうらやましい環境にあります。
 わたしは昼休みか深夜、ワープロを電話線につないで電子メールを覗きます(郵便受けを覗く感覚)。そうそう費用は市内の普通の電話料金とニフティサーブ使用料1
分につき8円です。手早くすれば明らかに郵送料より安価です。あとニフティサーブの月の管理料として200円。
 この≪游氣風信≫も10数人の方には電子メールで送ります。同時配信といって同時に10数人に送りますが、それもひとり分と同じ金額で済んでしまいます。ひとりにつき幾らではなく、あくまでも時間制ですから切手代や印刷代が大幅に節約できます。
印刷代も不要なら紙資源の節約にもなるのです。
 読みたくない人は読まずに消してしまえますし・・・。

 欠点もあります。パソコン通信の欠点はまだ利用者が限られていること、相手が通信機能のあるワープロかパソコンを持っていることが大前提です。
 また持っていても相手がつながない限り読んでもらえません。郵便受けを覗かないのと同じことです。
 さらにワープロなどを扱い慣れない人には操作が難しいと感じられること。これは大きい欠点です。

 今話題のインターネットを介せば世界中に市内電話料金と1分あたり10円くらいの使用料で文字と音声と絵が送れます(使用料は契約した会社によって異なります)。
 これはまさに情報伝達の革命でしょう。音声言語と文字言語の区別はもはや無く、盲人にもパソコンは操ることができるため、点字に頼らない伝達手段を獲得したことになります。身体障害者も体の一部がかすかに意のまま動くならパソコンを使用できます。体が不自由でもパソコンを通して身体感覚として世界につながることが可能で
す。彼らの世界がどれだけ大きくなることか。

 さまざまな制約を取り払ったのは科学技術の成果です。しかし、見方をかえると、パソコンと言えども口から発生される音声や一本の鉛筆と同じこと。中身は複雑な機械ですが、使い慣れれば人格化した単純な道具です。自動車を我が身の様に操るのと同じく、パソコンをわが頭脳のように操るのです。

 どう使うかは一人一人の問題です。よく言われるようにパソコンで何ができるかでなく、パソコンで何をするかが大切。おなじく電子メールが何になるのかではなく、電子メールで何をするのか、自分の人生にいかなる価値を付加したいのか・・・これが問題ですね。

 一本の鉛筆で遊べない人はパソコンでもやっぱり遊べないのかも知れません。しかし、原始的な情報伝達を先人の努力によって今日の形式まで発展させた歴史を重んじて、たとえ市井の片隅に生息しているだけのわたしですが、一市民として多少なりとも21世紀の懸け橋になる生き方をしたいものです。そのためにインターネットや電子
メールも人類が獲得した情報伝達手段として上手に利用していきたいのです。
 今月はそのための自分自身の稚拙な情報論でした。

|

« 游氣風信 No88「体に良い?悪い?」 | トップページ | 游氣風信 No90「雨のいろいろ 気とことばとからだの冒険」 »

游氣風信」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 游氣風信 No89「私見:情報伝達事始め」:

« 游氣風信 No88「体に良い?悪い?」 | トップページ | 游氣風信 No90「雨のいろいろ 気とことばとからだの冒険」 »